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歴史が違う方向に行ってた場合の人物略歴


1 :06/07/13 〜 最終レス :11/10/09
織田信長(1534―1560?)
尾張守
尾張守護代・織田氏の家を乗っ取って
一時期尾張を支配したが、上洛途中の義元に
攻められ滅亡。その後自害したとも諸国を放浪したともいわれている。
明智光秀(1528―1600)
明智幕府初代将軍。明智光継(仮)の嫡子
明智氏は代々土岐氏に仕える城主。
その後、織田信長に仕えるが暴政を敷く信長に
止むを得ず、信長を討つ。
その後、羽柴秀吉を山崎にて討ち取り
近江坂本に幕府を開く。

2 :
前スレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1107959016/

3 :
武田信玄(1521―?)
武田氏の嫡男として生まれ、父信虎を追放し、当主となる。
隣国の信濃を平定し、上杉謙信と川中島の戦いを行いつつ勢力を広げ、甲斐、信濃、上野を領するが
実の息子・義信に謀反を起こされ、追放される。
その後の消息は不明。

4 :
羽柴秀吉(1536―1598)
尾張中村出身。出自は貧農説が高い。
織田信長につかえ数々の手柄を立て長浜城主にまでなる。
信長が本能寺の変で戦死し明智光秀追討のために京都へ向かうも、
背後から追ってきた小早川隆景軍の猛攻を受けて討ち死にする

5 :
(1536―1582)だったわw

6 :
島津義弘(1535―1572)
島津貴久の次男。
木崎原の戦いでは10倍以上の伊東軍に対し、果敢にも奮戦するも戦死する。
義弘の死後、島津家は滅亡する。
統率78 知力43 政治21

7 :
徳川家康(1543―1572)
三方ヶ原の戦いに大敗し籠城するも、
血迷うて自ら門を開けたため、あっさり敵に討ち取られる。
脱糞して戦死したことから「海道一のウ○コ野郎」と現在までバカにされる。

8 :
上杉景勝(1556-1582)
長尾政景の子。
御館の乱で上杉景虎を倒し上杉家を継ぐが、
家臣の離反や織田氏との対立から徐々に力を失い、
最後には柴田勝家軍に捕らえられ京で処刑された。

9 :
木下秀吉 1536-1570
織田家家臣
仕官を求め国を歩くも出自が卑しいために叶わなく
一時は乞食にまで身を落としていたが
信長に戦の才を見出され従うようになった
浅井長政の離反で絶体絶命の危機の時は
即座に殿を希望し、三千の兵と共に三万もの浅井朝倉連合軍と激しく戦った
殿隊壊滅寸前に信長の離脱成功の報を聞き、笑いながら「勝ったぞ!」と叫びなら
敵陣に突撃し討ち死にした。
統88
知71
政21

10 :
>>9
猛将タイプww
>殿隊壊滅寸前に信長の離脱成功の報を聞き、笑いながら「勝ったぞ!」と叫びなら
敵陣に突撃し討ち死にした。
糞ワロタw

11 :
浅井長政(1545-1586)
近江国小谷城主浅井久政の子
1560年、長政は15歳の若さで軍を率い、
六角軍を相手に野良田の戦いで見事な戦ぶりを披露して
重臣赤尾清綱・海北綱親・遠藤直経らを心酔させたと言われている。
尾張から美濃を手に入れ、上洛せんとする織田信長の妹、市姫と婚姻し織田と同盟する。
信長の上洛に全面的に協力し、実質一門として信長の絶対的な信頼を得る。
信長と越前の朝倉義景の戦争の際には、朝倉家との同盟を捨て、あくまで織田家に付いていくことに決心。
朝倉滅亡後、畿内の統一に大きく功をたて、山城・大和・摂津・河内・和泉の五カ国を任せられ、江北から移る。
信長の統一事業に対し巨大遊撃軍団として東へ西へ縦横無尽に大活躍。
しかし、1582年 家臣の蒲生・長谷川・堀・稲葉・武藤らの共謀により信長が暗された。
四国統一の仕事をしていた長政は僅かな手勢を率い、船で馬で、驚異的な速さで京へ引き返した。
神風が吹いていたと伝わる。長政、八千の兵で二万の反乱軍を撃破、見事仇討ちを果たした。
鎮圧後、清洲で開かれた相続の会議で、長政の活躍を聞いた一門らに、信長・信忠死後の家督を打診される。
長政は快く承諾し、早急に家中を纏め、信長の志を継ぐことを決意した。
しかし以前から対立していた羽柴秀吉が長政に背き、山崎の地でにらみ合いとなった。
羽柴秀吉は黒田孝高に奇襲をさせるが失敗、まともに撤退できずに壊滅する。
主力の崩壊により、羽柴軍全体の士気が下がり、多くの兵が逃走、これを長政が見逃すわけはなかった。
結果、野戦達者の長政が勝利を得、家中を完全に纏め、
1585年、日本を統一信長の残した仕事を終わらせる。長政この時四十。
本拠を武蔵国に移し、さいたま幕府を開く。
がしかし、元の襲来により、日本軍敗北。
台風で帰っちゃったけど、日本はまた戦国突入!
1600年徳川家康が統一し、また平和がおとずれましたとさ、
めでたし。

12 :
>>11 最後の方が蛇足

13 :
明智光秀(1528―1582)
智勇兼ね備えた武将。織田信長に使えてもその才気はますます輝きが増し、信長四天王と評されるまでになる。
本能寺にて休息中の信長に対して謀反を起こすが、天魔信長が天に向かって打ち放った矢が光秀の頭部に突き刺さり死亡。
主君を失った明智軍は潰走し散り散りとなる。明智秀満ら謀反に加わった光秀重臣たちは捕らえれて斬首となっている。

14 :
小早川秀秋(1582-1600)
通称金吾中納言。木下家定の五男に生まれる。一時は秀吉の養子になったが、のちには小早川隆景の養子になる。
13歳で30万石の大名となり、朝鮮の役では総大将として奮戦したが、その軽率な行動が秀吉の目に余り、国替えの憂き目にあう。
秀吉の死後、石田三成と徳川家康との対立が激化して東西決戦の様相を示した際は、西軍に荷担。しかし実際は徳川方からの誘いを受容して東軍に内通していた。
だがいざ関ヶ原で東西両軍が相まみえてみると意外にも西軍は強く、東軍への寝返るべきか否か判断がつかずに苦悶。いたずらに山上で時を過ごす。
業を煮やした家康が秀秋の陣に向かって半ば恫喝的な催促の射撃を行ったが、秀秋は家康が本気で自分を攻撃しているものと勘違いし、家康の二枚舌に激怒。「家康は裏切り者だ!」と絶叫しながら東軍になだれ込む。
この台詞を家康が豊臣家を裏切った行為を指すものであると錯覚した麾下の兵は大いに戦意を高揚させ、大谷良嗣の率いる軍と連携をとりつつ東軍を蹂躙する。
もういいや。続きは誰か考えてよ。

15 :
武藤喜兵衛(1547-1582)
真田幸隆の三男。
大井家の支族武藤家の養子となり、武藤家を相続する。
武田勝頼とともに天目山で自害する。
武藤源三郎(1566-1658)
※後の真田信之
武藤喜兵衛の嫡子。
武田家滅亡後、徳川家・本多忠勝に仕える。
関が原の合戦などの功績により
祖家の地、沼田9万5千石を得て上田藩主となり真田姓を称した。
武藤源二郎(1567-1615?)
※後の滋野信繁
武藤喜兵衛の二男。
兄・源三郎と同じく武田家滅亡後、徳川家・石川数正に仕える。
各地を転戦し、数正が徳川家から出奔後もつきそった。
この頃に父の祖家である真田姓の本姓である滋野を名乗り、滋野信繁となる。
石川家家臣であったが、豊臣秀吉から豊臣姓を許され、北信濃5万石を拝領する。
関が原の合戦では徳川秀忠軍を足止めするが、戦後領地を没収される。
大坂の陣では冬の陣、夏の陣でも活躍するが、大坂城落城後は消息不明。
自害したものとされている。

16 :
朝松元吉(木下秀吉)
1536〜1575
今川家臣。鳴海城主。織田信長(>>1)の小姓出身とも言われる。弟の真吉(秀長)と共に義元の雅噺衆を勤めながら、故・雪斎上人の後任軍師的な働きを見せる。刈谷事件に連座し、政敵・松平元康に謀られ自害した。茶人で著名。

17 :
三好信吉(1568-1600)
※後の羽柴秀次・豊臣秀次
羽柴秀吉の甥(姉の子)で三好家に養子となり
近江40万石を拝領し羽柴秀次と改名する。
長久手の戦いでは奇襲攻撃を見抜き、若江八人衆とともに猛攻を仕掛け
徳川家に多大は損害を与える。
四国征伐や小田原征伐において軍功を上げ、
織田信雄旧領尾張国と北伊勢国の100万石を治める。
1591年秀吉嫡子鶴松が亡くなり、関白を譲られる。
1593年秀吉に秀頼が生まれたことで秀吉との関係が悪化する。
前野長康らの説得により、関白職を秀吉に返上に隠居する。
謀反の疑いありとされ秀吉により、北伊勢12万石に減封される。
関が原の合戦は東軍につき、西軍の伊勢進行軍により戦死する。

18 :
浅井長政 【1545〜1583】 統率 90 武勇 93 智謀 32 政治 87 魅力 93
浅井忠政 【1563〜1635】 統率 81 武勇 75 智謀 84 政治 93 魅力 72
彼が元服したばかりの頃、父久政が六角家に従属していた為、賢政を名乗った。
六角の家臣の嫁を室として迎えていたが、六角からの離反を決意。
嫁を送り返し、野良田の合戦で劇的な勝利を挙げると、家臣団の支持を得て当主の地位を父から奪取。半ば強引に隠居させた。
同じ頃、桶狭間の合戦で今川義元を破った織田信長に習って長政と改名する。
その後は朝倉と同盟を結んで北近江を席巻、六角を圧迫。武名をとどろかせた。
この為、名前の元となった信長自身も、長政に目をつける。
1563年、織田家から同盟の申し入れがあるとこれを受け入れ、
さらに4年後には信長の妹お市の方が輿入れし、織田家との関係はより強いものとなった。
翌年、織田、浅井連合軍による上洛が敢行され、宿敵六角家の打倒に成功。
同年の朝倉討伐においては、熟慮の末織田家との縁を選び、猛反対する父を説き伏せ朝倉討伐に加わる。
その功績から越前を与えられ、一向一揆と戦い続け、やがて100年に渡る加賀一向一揆を収束せしめた。
やがて嫡男万福丸が元服。信長の嫡男、信忠から一文字賜り、忠政と名乗った。
1577年の手取川の合戦においては軍神上杉謙信を相手に懸命に防戦。忠政も見事な初陣を飾る。
その戦いぶりは謙信をして「信長に過ぎたる者が二つあり、備前守に安土の城」と言わしめた。
終生、信長との盟約を守り続けた為、「北の浅井に東の徳川」と称えられる。
戦だけではなく領国経営にも類まれなる才覚を見せ、善政を施して領民に深く慕われた。
家庭においても夫婦仲睦まじく、多くの子宝に恵まれた。
その後も上杉家との戦いを続けていくが、本能寺の変により大きくその運命はかわっていく。
越中での戦いに勝利し懸命に引き返すも、信長のあだ討ちにおいて羽柴秀吉に後れを取ってしまう。
清洲会議においては、一門かつ織田家の同盟者として三男信孝を推挙するも、結局は秀吉の功績の前に押し負けてしまう。

19 :
やがて信長の後継者としての地位を巡り秀吉と対立。柴田勝家などの有力な織田家遺臣を味方て対抗する。
ところが、彼が旧来の織田家臣団ではなく、また自身が謀略戦や根回しなどに不得手であったことが禍する。
有力な味方である、柴田勝家の病死を切欠として次第に織田家での求心力を失い離反者が続出。孤立してしまう。
兵力差10倍以上の圧倒的に多勢に無勢な中で行われた賤ヶ岳の合戦では、奮戦するも敗退。
先祖代々の地である小谷を焼き払われ、最期は越前北の庄まで追い詰められて自害した。
秀吉は下賎の出であるが故に、主君の血筋を引くお市の方に横恋慕しており、
自分の元へ走れば命は助けると勧告したが、お市の方はこれを公然と拒否。夫と運命を共にした。
残された子供達は老臣遠藤喜右衛門の手引きで逃れようとしたが、秀吉によって須らく捉えられてしまう。
この時長女の茶々は自ら秀吉の愛妾となる道を選ぶことで弟達や妹達を守った。
嫡男忠政は信孝の傍に仕えていたが、信孝が彼の諌めを聞かずに打って出て戦死すると徳川家康の下へ逃れる。
食客として過ごしていたが、秀吉との合戦に当たっては自ら志願して秀吉を誹謗中傷する文面を書き、これを挑発。
小牧長久手の戦いにおいては、父の名に恥じない見事な戦いぶりを見せ、正式に徳川家の客将として迎えられる。
北条征伐後の家康の関東転封に従い、関ヶ原の合戦では妹婿にあたる秀忠を補佐して徳川家の勝利に貢献。
恩賞として近江長浜城を中心とする近江38万石を拝領。浅井家再興を果たした。
江戸城中において一門かつ、初代老中として徳川家中で重きを成すが、大阪の陣が発生。
長女茶々は淀の方として大阪に、三女のお江与が秀忠の正室として江戸に。
そして末弟井頼が大阪入りしたことで西と東に分かれた兄弟姉妹がそれぞれ争う形となった。
夏の陣では、出撃してきた末弟井頼と真正面からぶつかる形となり、血涙を流して断腸の思いで采配をとったと史書には記されている。
やがて家督を嫡男家政に譲り、江戸城につめて妹婿秀忠や、甥家光のよき相談相手となり、家政は初代大老となった。
その後も長浜藩は幾人にもわたって老中、大老を輩出し、桜田門外の変で暗された浅井弼政は彼の子孫に当たる。

20 :
北条氏直(1562-1616)
後北条家第五代当主。氏政の嫡男。
本能寺の変が起こると上野に侵攻、神流川の戦いで滝川一益を破り
更には信濃へ進軍したが、一度は従属させた真田氏の裏切りなどもあって
更なる領土拡張は失敗に終わる。
その後も徳川家と結んで真田と戦うが、最後まで崩せず、
結局豊臣秀吉の仲介が入るも遺恨を残すこととなる。
1590年、真田領を無断で侵略したことが発端となった小田原の役において、
豊臣の大軍を前に小田原城に篭城するが破れ、全領地を没収されたうえで高野山に謹慎処分となる。
しかし徳川家康の娘を娶っていた関係から早くに処分は軽減され、
1592年には伯耆に領土を与えられ大名として復活を遂げる。
朝鮮の役では弟の太田氏房と共に肥前名護屋に赴くが、
現地で真田の者と諍いを起こし秀吉・家康に諌められたともいう。
関が原の合戦では領国にとどまりながらも岳父家康の東軍につき、
宇喜田や毛利を牽制した功によって伯耆の残りと出雲の一部を与えられる。
1614年、大久保事件によって小田原藩主の大久保忠隣が改易処分を受けると、
氏直は相模・伊豆の全域・東駿河に転封となり、24年ぶりに小田原城に戻ることとなる。
1616年、大坂夏の陣に徳川方として参加するが、真田信繁隊と激突、戦死する。

21 :
KOEIパラメータいらない

22 :
長尾景虎
越後守護代長尾家に生まれるが寺に預けられ僧侶になるべく修行する。
しかし国内における内乱が続き、兄の晴景は景虎を還俗させ、栃尾城に送った。
ボロい城に500の兵と、心もとない限りであった景虎に三条長尾家が攻撃してきた際、寡兵ながらも奮戦し敵大将を討つ
寸前に本庄が裏切り総崩れにあい越後を逃走、
兄にも見放され甲斐の武田家に身を寄せ、持ち前の軍才と主人に対する忠節ぶりを発揮。
やがて信玄の娘を妻にもらい一門になる、
海津城主として越後方面攻略の司令官となり功績をあげる

23 :
織田信長
尾張の大名。
桶狭間の戦いで今川義元の大軍を破り、周囲にその名を轟かせる。
その後美濃を落とし地盤を確立。
その後上洛し、天下に足をかけるも、浅井長政の裏切りによりそれは崩れ
千種越えの最中に杉谷善住坊に狙撃され死亡する。

24 :
毛利輝元
毛利隆元長男。
父隆元が急死したため、祖父元就の後見をうけ元服した。
元就死後は、吉川元春と小早川隆景の両叔父に補佐され
1565年に、元服し将軍足利義輝より「輝」の字を賜り、毛利輝元と名乗り、
本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えた。
1585年に秀吉が四国征伐のため長宗我部元親を攻める際、輝元は秀吉の要請により伊予へと侵攻する。
この後大事な後見にして叔父の小早川隆景に恩賞として伊予一国35万石が封ぜられ
九州征伐では小早川と並ぶ毛利両川と謳われた吉川家の当主吉川元春が
筑前35万石に加増移封され
ここに毛利両川は事実上毛利宗家と切り離され独立大名とされてしまう。
 さらに京洛に近い立地にある大国 毛利は秀吉に警戒を受け
輝元自身にも九州転封の恩賞が下る。
当初備中半国、備後、伯耆半国、出雲、隠岐を収貢する手筈であったが
あわせて安芸も収貢され
変わりに周防、長門、石見を安堵に加え豊前、豊後、筑後、肥後、日向半国
を与えられる大幅加増であるが故郷とも離れ見知らぬ地に追われ
さらに輝元は本拠を熊本に指名されてしまう。
 当初は渋っていた毛利家がこの沙汰を承諾した背景には
子供のいない輝元に秀吉の親族を養子にするのはどうかと
黒田如水から内々に話があり、これを断るには九州転封を承諾する他
無かった事情があった。
 がこの九州転封は毛利に利した。国人衆一揆の延長であった
毛利家体制は一気に近世大名としての国内体制に転換できた。
この点で関東転封を受けた徳川氏と似通っている。

25 :
 朝鮮出兵では否応無く主体的な役回りは毛利吉川の担当となった。
そのうえ全国諸侯の兵站や肥前名古屋の屋敷をも負担し
これは大きな負担となったが
 これによって毛利宗家当主・毛利輝元は吉川家当主・吉川元長
小早川家当主・小早川隆景(後に嗣子秀包)は三家そろって武家清華成
に昇進、徳川家康、前田利家、宇喜多秀家と並ぶ年寄衆に任じられる。
後の五大老である。
太閤秀吉薨去後
石田三成に代表される豊臣官僚と外様の雄・徳川家康が対立
前田利家の死去
上杉の謀反嫌疑という激動を経験する。
時の五大老に徳川家康、前田利長、宇喜多秀家とともに名を
連ねていた毛利輝元、吉川元長
四国征伐での勲功で伊予で独立大名になった熊谷元直
同じく毛利の九州転出の際豊臣に通じて出雲17万石にて残った吉見広長
隆景の周旋で毛利輝元の養女を迎えていた
長宗我部信親、羽柴秀秋、
秀吉によって豊臣家直臣として大阪城で執事の役回りを片桐且元とともに
執行するようになっていた吉川広家といった
一門連枝衆は輝元の屋敷に参集
輝元の九州行きで出奔した家臣たちも参じたと言うから当時の
昼行灯やあほうという評判からは推測しにくい人徳のほどが窺われる。

26 :
南光坊天海
徳川家康の側近として活躍した人物。関ヶ原後に仕え、明智家を滅ぼす事に力を注いだ。
羽柴秀吉と同一人物という異説もある。

27 :
 やがて徳川家康の上杉征伐にタンを発した慶長の乱起こる。
石田三成の斡旋のもと西軍総大将に毛利宗家毛利輝元が立ち
西軍主力を毛利一族軍が占めると、この戦乱は徳川と毛利の天下取の戦
の様相を呈してきた。
関が原の戦いで輝元の婿秀秋と養子秀元とが大活躍して勝利を収める。
この勝利を背景に大阪城では吉川広家が半ば強引に千成瓢箪の旗印を
持ち出して秀頼の西軍支持を演出、
このあと朝鮮出兵で知り合った知己を通じて東軍を分断していく。
このあと関東に立て篭もった徳川征伐の際に
朝廷工作を前田玄イとともに安国寺恵瓊が行い
毛利輝元を征夷大将軍にしてしまう。
 天下に知られた徳川家康を討った実績は毛利幕府の意向を高めるに十分で
あったがそれは家康の嗣子秀忠が妹婿で、この戦争でも蚊帳の外であった
淀殿との関係は大きく悪化
毛利が天下を取ったとの印象を薄めるべく
征夷大将軍の職責を嗣子秀就に譲り養子秀元を後見として徳川の跡の関東に置き
戦乱の収拾を図らせる一方
自身は出家剃髪して宗瑞を名乗り長門周防37万石をもって封じた次男毛利就隆
の所に身を寄せ隠居所も長州の萩という辺鄙な場所に置くという
気の使いようで隠居所には豊国明神を祭るほど気を使ったが
 本人の思惑と別に江戸に開府された格好となった毛利幕府は威光
を高めていく。
豊臣家との戦になったものの秀頼は切腹するも
国松と娘は助け出され豊臣家は捨扶持1万石の高家筆頭として続くことを
許されている。この辺が戦国武将らしからぬ甘さであろうか。
晩年江戸に赴く事となり帰路駿府で病状が悪化そこで逗留することとなり
1年後に死去 

28 :
力作乙です

29 :
織田信勝(1536-1596)
※達成・信成とも
織田信秀次男。
稲生原合戦で弟・織田秀孝や異母弟・信時と結託し、
兄信長を討ち取り織田家を相続する。
今川家が尾張侵攻の際にはいち早く、軍門に降り尾張4郡を治め
織田家当主が代々名乗っていた弾正忠を名乗る。
今川家の美濃侵攻や近江侵攻で軍功を上げ、尾張国を治めた。

30 :
柴田勝家(????-1587)
織田家臣。親・出身は不明。
若きころの出世
若くして織田信秀にその才を認められ、のち息子信勝付き家老となる。
安食・成願寺の戦いでは、信勝の代理として出陣、長槍を駆使し、清洲勢を簡単に打ち破る。
しかし信勝は兄信長に背くことになる、
だが勝家は「わしは亡き信秀公に取り立ててもらった恩義がある。
信長の殿に背くのは不本意だが、喜んで謀反人となりましょう」
そして稲生の戦いに及ぶ
勝家隊一千は信長の馬前まで押し寄せたが、織田造酒ら信長旗本が奮戦し、
そこへ信長が勝家隊に対し大音声を上げた。
信長の威光を目にして士気が萎え、もろくも崩れたった。
勝家は改めて信長の実力を恐れた。初の敗戦である。
一旦許されるも、信勝は再び兄に背く。
とうとう信勝を見捨てた勝家は信長に謀反を知らせる。
ここで勝家は本当に謀反人となった。
勝家の強さを知る信長は、勝家を直臣とする。
織田家筆頭家臣
上洛戦の頃より、信長の重要な重臣として頭角を現し、近江蒲生郡を領す。
その後も活躍を続け上杉謙信の抑えとして、ついに家中最大石高の越前49万石を任される大身となった。
手取川の戦いでは、軍神上杉謙信に大敗。越中能登加賀北部を上杉に先取りされる。
しかし謙信死後、上杉に内紛が起き、怒涛の進撃で越中までを制圧、
北越後の新発田重家を寝返らせ、越後国境まで迫った森長可と挟む形を取った。
信長の死
上杉滅亡寸前まで追い詰めたが、本能寺で信長が死去したと報告が来た。
中川重政による暗であった。勝家には悲しむ間もなく、仇討ちの準備を始めた。
だが一早く仇討ちを果たした人物がいた。
明智光秀だった。
織田家分裂
重臣たちは清洲で跡継ぎの会議をした。
功を得た光秀は、信長嫡男信忠の遺児三法師が適格だと主張する。
勝家には陰謀が見えたが、他重臣たちはそれに気づかず賛同する。
勝家は三男信孝を推していた。

31 :

光秀との決戦
光秀は対立している勝家と雌雄を決するために、近江木ノ本に進出。
これに対し勝家は柳ヶ瀬を本陣とし、両者は対峙した。
両者の固い守備で長いにらみ合いが続くが、とうとう光秀が先手をうつ。
かっこ撃破せんと岐阜へ向かい、岐阜城を囲んだ。
しかしその時、勝家軍主力の佐久間盛政隊が賤ヶ岳の桑山重晴と停戦し、
大岩山の中川清秀を奇襲、大岩山を落とし、高山重友が岩崎山を捨て、
木の本の光秀軍本陣へと逃走した事態に陥った報告を受けた。
光秀は直ぐさま戻ろうとしたが、夜間の雨により合渡川が氾濫、戻ることが出来なくなった。
光秀の不在により、神明山堂木山の勝家に心を寄せている者らが木村隼人および木下一元らを害、
光秀軍第一守備線も崩壊、負けた光秀は逃走途中で自害した。
勝家は信勝を裏切ったが、信長には忠義を尽くすことができて嬉しかったろう。
その後、信孝が天下を統一、安土幕府を築いた。
見届けた勝家は、1587年に死去した。
が、しかし、日本を攻め滅ぼさんとする、USA家ダグラス・マッカーが信孝に挑んだ。
なんとか撃退したものの、家臣に恩賞を与えられず、幕府崩壊が崩壊した。
1600年徳川家康が平和を創った。後にオシムジャパンを優勝に導くのちの天才FWエスパー家康である。

32 :
幕府崩壊が崩壊ってなんですか

33 :
武田勝頼
(1546-1604)
武田信玄4男。母は諏訪御料人。通称諏訪四郎、諏訪四郎神勝頼。
兄弟は兄に義信、信親、信之、弟に盛信、信貞、信清。
子に信勝、勝親など。  
1546年、甲斐の戦国大名、武田信玄の4男として産まれる。
母が諏訪氏の出であった為、諏訪氏の名跡を継いだ。
勝頼には4人の兄がいたが、1565年に長兄である義信が父信玄に対して謀反をおこし幽閉されたため、(のち自害、病死説もあり)
急遽武田家の 後継者と目される事となる。
1573年、三方ケ原にて徳川・織田連合軍を破った直後に父信玄が病の為急し、武田軍は甲斐へと引き上げた。
勝頼は正式に家督を継ぎ、翌1574年には父信玄ですら落としえなかった遠江の高天神城を落城させ、
また美濃国の明智城以下18城を落城させた。その破竹の進撃に諸将たちから
『信玄公をも超えられる御館』
と称賛されたという。  
1575年、三河長篠城の攻略へと向かう。
が、城を落城させるには至らず、攻略に手間取っているうちに信長自ら兵を率いて設楽原に布陣、
またそれに家康も合流したため勝頼は窮地に追いやられた。
両軍の兵力差、武田軍の地理的不利、および織田軍が大量の鉄砲を携えているとの報に勝頼は
潔く甲斐への撤退を決断する。
夜半のうちに武田軍は撤退を開始、それを知った信長は急遽追撃を決断する。
しかし信濃との国境で織田・徳川連合軍の追撃を知った勝頼は急遽軍を反転、分散させ
峠の頂上から連合軍に攻撃を仕掛けた。
武田軍の思いもよらぬ奇襲攻撃に連合軍は撤退し、勝頼の武名は全国に轟いた。
しかしこの戦で山県、真田兄弟といった名将が戦死し、
またかねてから反抗的だった穴山信君は単独で撤退してしまった。
勝頼は戦死した武将たちの後釜に真田幸村、曽根昌世、そして弟仁科盛信等を登用し
穴山らの諸将を追放するなどし家中改革に努めた。
戦後上杉、北条らと同盟し織田・徳川に対抗するが
本能寺にて信長が倒れると台頭してきた羽柴秀吉と対立する。
しかし上杉景勝が羽柴方についたこともあり勝頼は秀吉に降伏、甲斐1国を安堵される。
この時に真田、木曽氏らは秀吉により独立させられた。
のち秀吉去後は台頭していたかつての宿敵、家康と親しくし、
関ケ原合戦においては老齢ながら東軍として参陣し、縦横無尽の働きを見せた。
これにより甲斐、信濃中部、南部計50万石をあたえられ、家督を嫡子信勝に譲った。
1604年、甲府にて病死、波乱に満ちた人生に幕を閉じた。

34 :
もし、あのまま今川が勝っていたらどうなっていただろう・・

35 :
>しかし信濃との国境で織田・徳川連合軍の追撃を知った勝頼は急遽軍を反転、分散させ
峠の頂上から連合軍に攻撃を仕掛けた。
おもしろいね、戦死者が出たのは微妙だけど

36 :
今川義元 (1519-1582)
駿河の国の守護大名である今川氏親の子として生まれる
4才で仏門に出されるも1536年、兄の氏輝が病死したため玄広恵探との家督争いが発生
太原雪斎の尽力で勝利、今川氏9代駿河守護となる
その後三河を支配下におき「東海道一の弓取り」と呼ばれるようになる
1560年、大軍を率い京への上洛をはじめる
まず軽く尾張のうつけ者、織田信長を倒し(その後織田信長は宣教師の船に乗り海外へ渡ったと言われている)
美濃の国の斉藤家を破る その時の松平元康の活躍は素晴らしかった しかしそれが後に自分の首をしめることとなる・・
浅井とは同盟を結んだものの義元の敵は多かった 特に六角氏と三好氏の力は強大だった
しかしここでも元康が大活躍 そして自身も兵を率い見事京への上洛を果たした
義元は本願寺や朝廷とは上手く付き合っていたが将軍足利家との関係が悪化
同盟を結んでいた浅井家や朝倉家などと戦うことになる
1570年、姉川の戦いが発生 義元は13段の陣のうち11段まで突破されたが松平元康の奮戦により勝利(しかし、最近ではこれは否定されている)
その後も浅井、朝倉との激しい戦いは続くこととなった 特に先の戦いで大活躍だった朝倉家の武将、明智光秀に義元は苦戦を強いられる
しかし光秀はどれだけ活躍してもあまり朝倉氏に認められなかった それに目をつけた義元は朝倉氏と光秀の分断を図った 遂に光秀は義元に降り兵力で勝る今川軍は浅井、朝倉家を滅ぼすことに成功した
この勝利により今川家が新たな将軍家となるのは明確だった 足利義昭が毛利に逃げたとはいえ残る敵は毛利以外には上杉家ぐらいしか残っていなかった
しかし1582年、僅かな手勢を引き連れ入った本能寺で松平元康の謀反に合いされてしまう
息子の今川氏真は動かなかったため松平元康はあっさりと今川家の乗っ取りに成功する
その後徳川家康と改め天下統一を果たし徳川幕府が誕生した
義元 政治96 戦闘95 智謀92
元康 政治100 戦闘98 智謀84 野望100
光秀 政治23 戦闘99 智謀95

37 :
好きなスレだった。
復活は嬉しい。

38 :
落雷により死亡した戦国武将がいたらしい。

39 :
結城秀康 (1574-1600)
徳川家康次男、幼名、於義伊。1584年、父家康の小牧の戦い敗北後、人質として羽柴家の養子になる。
この時秀吉より「秀」の一字を賜る。
その後、羽柴家一門衆として九州征伐、小田原の陣、朝鮮出兵などに出陣し、数々の武功を立て
若年ながら武勇抜群の将としてその名を知られることになる。
その後関東の名家結城家の養子として結城家を継ぎ、下総結城城10万石を得る。
1600年の関ヶ原の戦いでは、上杉家への押さえとして下野宇都宮城に配され、主戦場に参加することは無かった。
9月15日の関ヶ原東軍総崩れ、父家康の討死が秀康の元に伝えられたのは5日後の9月20日であるといわれている。
秀康は宇都宮城に篭城するが、最上を打ち破った上杉、佐竹、さらには西軍に寝返った伊達の軍勢総勢7万の軍勢に囲まれる。
かつての縁より降伏すれば厚遇するとの西軍首脳の手紙なども送られたが、秀康はこれをはねつける。
名将の名に恥じぬ戦いぶりを示したが、他勢に無勢、1600年12月25日、将兵の助命を条件に自害する。享年26歳。

40 :
佐々成政(?〜?)
 織田信長の家臣。越中富山城主となる。家臣の制止をきかず厳寒のアルプス山中に入り消息を絶つ。
彼の目的が何であったのかは現在に至るまで謎である。

41 :
吉川元春(1530〜?)
 毛利元就次男。1543年、元服。1547年、父の命により熊谷信直の娘と結婚することになるが、
娘があまりに不器量であったため、対面の儀で逃走、その後の行方は分かっていない。

42 :
ワラタ

43 :
織田信雄(1558〜?)
織田信長の二男。大坂の役では知らず知らずのうちに豊家総大将にされるも恐ろしくなり行方不明となる

44 :
朝倉義景
(1533-1595)
越前国の戦国大名。朝倉孝景の嫡男(養子説もあり)
越前国の大名、朝倉孝景の子として生まれた義景は当初、政や軍事にまったく関心を示さずに遊興にふける日々を送っていた。
しかし足利将軍家の義秋(義昭)の自国への亡命
さらに加賀の一向一揆の度重なる自国の侵入により、徐々にその才能を開花させる。
義昭の上洛要請に義景は
今の朝倉家にそんな力はないと判断、しかし義昭を丁重にもてなした。
また加賀の一向一揆との戦いにおいて家中随一の猛将であった朝倉宗滴の死後は自ら軍を指揮し、
幾度となく10万以上の一向衆を打ち破っている。
やがて義昭が頼った尾張の織田信長が台頭してくると、義景は信長から臣従を求められた。
義景はこれまでの信長の数々の悪逆非道な行為、そして越前の国主としてのプライドがこれを許さず戦うことを決意した。
これを口実に信長は即座に越前に軍を進めるも、浅井長政の裏切りにあい朽木元綱を頼って京へと引き返した。
浅井の裏切りに激怒した信長は小谷攻めを決意、徳川家康と共に出陣した。
これに対して義景は自ら1万の軍を率いて出陣し浅井軍と合流、両者は姉川にて対陣した。
浅井軍は織田軍の陣を次々と突破し本陣近くにまで肉迫、
朝倉軍も先峰、朝倉景健の活躍で徳川軍の陣を次々と打ち破った。
これにより織田、徳川軍は引き返すもたびたび両者は近江国で激突した。
度重なる戦でも決着はつかず、双方決定的な打撃を与えるには至らなかった。
しかし義景が一向衆との戦の為加賀に出陣中、信長は不意をついて小谷城を攻め、亮政、長政親子は越前に亡命した。
これにより勢いに乗った織田軍は朝倉方の城を次々と攻略し、朝倉方は数々の武将が討ち死に、窮地に立たされたのである。
義景は一向衆と和睦、急遽彼らと連合軍を組みなんとか織田軍を追い返した。
だが朝倉家の受けた被害も大きく、義景は一族の景鏡の居城である大野へと移り徹底抗戦の構えを示した。
その後織田軍は再度越前に進撃、対する義景は3000の兵で大野城に立てこもった。
やがて城を囲まれるが、加賀の一向衆が織田軍の背後に陣取ると
これを見た義景は城から出撃、一向衆と共に織田軍を挟撃し見事織田軍を敗退させたのである。
その後信長が本能寺で横死するまで織田軍を撃退し続けるも、本能寺の変後は柴田勝家に降下する。
これは度重なる戦による国力の低下を恐れての事であった。
賤ヶ岳合戦時は秀吉有利を見抜き、秀吉勝利に大きく貢献した。
のち秀吉から大野、勝山10万石を賜ると家督を嫡子愛王丸に譲り隠居、数年後大野にて病死した。
なお朝倉家はのちの関ケ原合戦時には東軍につき、越前にて20万石を賜り幕末までその命脈を保っている。

45 :
佐久間信盛 1527-1586
織田家家臣の筆頭格で通称退き佐久間
信長に「退却戦をさせれば日ノ本では右衛門の右に出るもの無し」と言わせしめた
浅井長政の離反の際は秀吉と共に殿に志願
そのあまりに鮮やかな手際のよさから両軍の大将の浅井長政、朝倉景建は即座に戦意喪失させ
秀吉は感激の涙を流したという
三方ヶ原の戦いで徳川家康が武田信玄に敗れた際、が尾張方面に退却して討ち死にしていく一方
自身はあえて三河方面へ向かい、その結果ほとんど無傷で済んだ。
賤ヶ岳の戦いでは甥の盛政と共に柴田方に属し中川清秀を討ち取り、はやる盛政を諌めながら即座に退却
これは岐阜に向かっていた秀吉が即座に軍を返してくることを理解していた為と思われ
秀吉は心底悔しがったという。
秀吉勝家が和解した1586に病死
巷では暗説が出回った
政治51戦87智81

46 :
今みたら誤字脱字ばかりだった
スマソ

47 :
北条氏政
父、氏康と食事をとっている最中、飯にかける汁の分量を誤ったことから、
氏康に疎んじられ、廃嫡。その後は不遇の人生を送った。

48 :
伊勢新九郎(1456年〜?)
家臣の制止を振り切り単独で鹿狩りの振りをして小田原城侵入、
すぐさま大森藤頼の警護兵に捕縛される。「戦国の虚け者」として名高い人物。

49 :
種子島時尭(1528-1543)
種子島家十四代当主、1543年ポルトガル人が種子島に漂着した時、
止せばいいのに白刃を抜いて追い回し、撃ちされる。
戦国武将最初の鉄砲被害者として一部に名を残す。

50 :
今川氏真
古来より日本に伝わる蹴鞠から発展した、蹴球の創始者。1573年には、
初の世界杯を開催。初代日本代表の主将を務める。

51 :
木下秀吉(1936年〜?年)
今川義元配下。元は乞食であったという。
義元配下の一武将が彼の才覚を大いに評価し、推挙された。
また、元々下層階級の出身であったから領民には優しかったと言われ、
それと同時に様々な知略が伝承として地元に残っては居るものの、
出自が低かった為、500石以上の出世は叶わなかった。
無論、元はただの乞食であった事を考えれば大出世とも言うべきであり、
乞食が禄を得るまでの出世した事実そのものに、乱世の妙が感じられる。
今川家滅亡後は織田家に降伏し、以降、その領地を平穏に納めた。

52 :
>>51
最近じゃねぇかw

53 :
織田吉法師
織田信秀の子。2歳で川に落ちて死亡
木下日吉丸
木下や衛門の子。1歳で餓死。
松平竹千代
1歳で犬に噛まれて死亡。

54 :
http://pksp.jp/tensaikoyaku/bbs.cgi?m=1800&u=603299&sn=4034426&o=7&ss=&ps=19891112
ほらよ。お前らの好物(神木くんの入浴画像)

55 :
 織田信長 
織田幕府の創始者
南寇の撃退者
南北朝時代 北朝を擁する足利幕府は懐良親王を頂く九州南朝を屈服させること
に失敗、九州一円を統一支配に成功し明の冊封を受けた事から、日本とは別個の独立国・筑紫
として体裁を整え、以降九州は独立国として歩み始めた。
懐良親王は筑紫国王として南朝に由来する王統を唱え
足利直冬を征西大将軍とする。ここに東西足利幕府が成立
ただ惰弱な東の足利幕府と異なり西の足利幕府は天竺に砲艦を送って武威を示し
国威の発揚と港湾の確保による交易拡大を得ており、
独立国として琉球や呂宋まで版図とし明朝の皇女を迎え
将軍の次男がローマを訪れ洗礼を受けるなど国際的な大国として発展しつつあった。
 筑紫の表玄関となった博多や長崎はコンスタンティノープル以東で最大の城塞を構え
その都会の様はかの長安や古のローマの如し・・と宣教師に謳われる国際的なメトロポリス
となっていた。
またイスパニアはコロンブスなる人物が見出した新天地に派兵して雲煙万里を越えて
メヒコインカの地を「略奪からの解放」の名のもとに己が物とし
イスパニアポルトガルとの抗争でアフリカはマダガスカルと喜望峰まで獲得
東洋初の日没無き帝国の威容を備えるに至っていた。
これほどの世界帝国でありながら隣する日本は国祖・懐良帝の遺言で手を出すことは
禁じられていた。
が海洋帝国として分断工作に余念はなく日本は長い戦国時代を迎えていた。
そんな戦国を終わらせる可能性を秘めた男それが織田信長であった。
信長と筑紫との抗争は石山本願寺への支援に始まり
東の足利最後の将軍義昭の亡命を機に本格的な戦争となる。
世にいう南寇の勃発であった。
筑紫と気脈を通じた中国路の毛利に軍勢を派遣 備前で激突
四国を統一した長宗我部元親が筑紫王に四国を献納、自らは
その四国都督に任じられていたが、これも呼応して立ち上がった。
  また国際的な世界帝国らしく北方からの調略も遂行され
密約を結んだ奥羽の伊達政宗が筑紫の支援のもとに信長の後押しする
佐竹最上を撃破、奥羽統一を果たした伊達が関東に迫る勢いを見せた。
・・信長・信忠二代に渡る織田幕府いや日本始まって以来の国難
とされる南寇は・・・
ってなんか話が取り留めなく長くなりそうなので・・ここまでにしよ。
 信長は甲斐の武田勝頼、越後の上杉景勝らの協力をも仰ぎ
戦争は信長の息子・信忠の代まで続き

56 :
↑ごめん下二行は無視してくれ。

57 :
長宗我部信親(1565-1626)
土佐の戦国大名・長宗我部元親の嫡男。初代土佐浦戸藩主。
1586年、父と共に九州征伐に従軍。戸次川の戦いでは総大将・仙石秀久の失策により敵中に孤立。自害を決意するが福留儀重に諌められ、儀重が身代わりとなり辛くも脱出した。
1590年、元親から家督を譲られ、その後朝鮮出兵で活躍した。関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦功を挙げ、戦後、伊予南部を加増された。
武勇だけでなく内政にも優れ、領民から非常に慕われたという。

58 :
斎藤龍興(1547-1577)
美濃の戦国大名。国主斎藤義龍の嫡男として生まれ、13歳で家督を
相続した。非常に聡明な人物であったが、敵・織田信長の油断を誘うため
わざとバカのうわさを流したという。
1561年7月21日、竹中重治らとともに初陣で織田信長を討ち取る。
竹中と謀議して編み出した計略は入念なもので、これまで龍興の能力を
疑っていた美濃三人衆も驚き、「斎藤の家名を揚げるはこの殿にて候」と
歓喜したと伝えられる。
その後、尾張織田氏を告いだ織田信包を滅ぼし、美濃・尾張を攻略して
徳川氏・本願寺と同盟。その実力を買った足利義昭を将軍に擁立して
上洛を果たし、三好・松永らを滅ぼして室町幕府副将軍職兼美濃・尾張
両国守護職に就任。一族の明智光秀を政所執事、斎藤利三を侍所所司に任じ
幕府の実験を掌握した。ただしその政治は中世的権威を背景にしたものであり
近世への過渡的なものであると評価され、中世形仁君の典型と評される。
1577年急死。その死は領民から甚だ悲しまれ「天下嘆き悲しむことかぎりなし」と山科言経は日記に記している。
腹心・政所執事代竹中重治が殉死。家督は子・康龍が継いだが幼少のため
政治の権は岳父徳川家康に移り、それを不満とする明智光秀が挙兵して
関が原で争ったが、徳川家康の勝利に帰し、徳川幕府が1580年に成立した。
幕府成立後、斎藤康龍は伊勢33万石に移封されたが、幕末まで「制外の
家」とされ特権を維持した。
なお、キリスト教に布教許可を与えるなど龍興は宗教には非常に寛容であり、
ルイスフロイスも「非常に有能で思慮深い人物」と高く評価している。
死の直前に洗礼を受け、現代の日本のキリスト教隆盛の基盤を築いた人物として
加藤一二三枢機卿が最近も斎藤龍興墓に参拝したことは記憶に新しい。
室は徳川家康女(亀姫)。

59 :
>>58
補遺。この場合、足利幕府は足利義昭が三好・松永の残党と組んで
早期に反斎藤の挙兵をして滅亡しているということでw
この時の信長・秀吉の略歴
織田信長(?-1561)
尾張の戦国大名。猛将であったが思慮に欠け、猪突猛進の嫌いがあった。
1560年、今川義元に対し無謀な奇襲をかけこれを討ち取る。
1561年、それに味を占めて美濃に攻め込み、斎藤龍興に奇襲を
かけるが、逆に斎藤龍興の計略にはまり、戦死した。
極めて粗野な人物であり、風体かまわず「うつけ者」と評された。
木下藤吉郎(?-1561)
名は秀吉・久吉など諸説あり。織田信長の軍師。美濃奇襲戦を立案したが、作戦に失敗。その後
逃亡し、放浪の後足利義昭をそそのかして挙兵させ槙島城に篭城したが
敗れ、京都四条河原に於いて斬首された。良質な資料に名が見えないので
存在が疑問視されている。
前田利家(1538-1598)
斎藤龍興の家臣。元は織田信長家臣。
極めて有能な人物であり、信長の無理攻めを諌めたが、その有能さを
嫌った信長に疎まれ、1560年、浪人して野に下っていた。
織田信包を滅ぼすとき、斎藤家の道案内をしたことから運が開け、
織田信包を討ち取ったことから尾張犬山城主となる。
その後は文武両道に活躍し、問注所執事代・侍所所司代・堺奉行など
要職を歴任。柴田勝家・佐々成政など家臣に勇猛な人物がいたことでも
名高い。室は藤井又左衛門女(ねね)。側室は篠原氏(まつ)。ともに
美人で有名であった。

60 :
徳川(松平)忠輝 1592-1683
長七郎、左近衛大将、正木忠輝。豊臣幕府初期の重臣。徳川家康の六男。
1600年、関ヶ原の戦いで父を失い、弟義直の母お万の実家・安房里見家に
身を寄せ、漁師たちと交わりたくましく成長した。
長じて豊臣秀頼に召しだされたが、逆賊の子として松平姓を称することが
できず、正木姓を称した。
弁舌に優れていたため秀頼に重用され、石田三成の専横を憤っていた秀頼の配下として、
旧東軍の諸大名を説いて味方につける役割を担う。
1614年、石田三成軍20万を大坂に迎え撃った世に言う「大坂冬の陣」に
於いて、大阪城前面に「松平丸」を築城して石田軍真田信繁隊を壊滅。
翌年の「大坂夏の陣」に於いては甥・松平忠直・岳父伊達政宗らとともに
石田三成軍に肉薄、石田勢を潰走させるなど父譲りの猛将ぶりを発揮した。
その後も大津の戦いなど佐和山幕府攻めで活躍。石田滅亡後は父の後を
継いで徳川忠輝を称し、武蔵江戸に於いて100万石を領し武蔵百万石
徳川家の藩祖となり五大老に列した。キリシタン大名として浅草に診療所を設け、
領民を手厚く介護するなど仁君として名高い。室は伊達政宗の娘。
後世、徳川十勇士(酒井佐助・本多才蔵・榊原清海入道・榊原伊三入道・
井伊小助・土井鎌之助・大久保六郎・鳥居甚八・服部六郎・渡辺十蔵ら)を
率いて活躍する松平長七郎として脚色された。
松平秀忠
徳川(松平)忠輝の兄。無能な人物で、関ヶ原の戦いのとき、大軍を率いて
決戦場に向かったが、統率に失敗。戦場に到着できなかった。
父家康が戦死した後、「余りにも無能であるから生かしておいても
実害はないだろう」と石田三成に判断され、信濃川中島1万石に移された。
徳川(松平)忠輝が家を継いだ為、そのまま信濃川中島にて死去。
松平家光
徳川(松平)忠輝の甥。無能な秀忠の長子として生まれた。
信濃川中島藩を継ぐが、粗暴の振る舞いが多かったため家は取り潰され、
若くして隠居させられた。
松平綱吉
松平家光の子。家が潰れたため易者として江戸の町で過ごす。犬が大好き
であったため家が犬だらけであり、庶民に「お犬様」と親しまれた。
松平吉宗
松平綱吉の一族?徳田新之助。ならず者。武家屋敷に押し込み人を
行った罪、勝手に「暴れん坊将軍」を称した罪を問われ火あぶりに
処せられた。それにしても犬好きの温厚な易者綱吉の一族にどうして
このような粗暴漢が出たのか不明である。

61 :
>漁師たちと交わりたくましく成長した。
アッー!

62 :
前田利政(1578-1633)
前田利家の次男。
関が原の合戦では、兄利長が東軍についたのに対し、西軍につく。
能登から私兵5000を率い西軍勝利に貢献する。
利政の功績があり、兄利長も助命となる。
江戸城攻略や会津征伐に大きく貢献し、毛利家を石高で大きく上回り五大老筆頭となる。
越前、加賀、能登、越中の4カ国を治めた。
子ができず、晩年は弟利常に家督を譲った。

63 :
森 蘭丸
ぢになった時に、主君に行為を迫られ、あまりの痛みにショック死した。

64 :
弥助
 宣教師がアフリカより連れてきた奴隷。宣教師が信長の歓心を得るために献上
されたが余りにも黒いので信長の怒りをかい無礼討ちにあう。宣教師に彼の黒さ
は生まれつきであることを聞かされた信長は己の無知を恥じ、その償いとして
「弥助」の称号を与えた。

65 :
戸次鑑連(1513-1537)
1526年3月、佐野親基、問田重安らを大将とする大内勢が馬ケ岳城を占領。大友義鑑はすぐに戸次家に攻撃を命じた。
その時、父の親家は病に伏しており、初陣でありながら鑑連が采配をふるう事になった。
鑑連は夜のうちに駆けて馬ケ岳城に迫り、朝日が昇る前に猛然と攻め、
わずか一日の戦闘で城方を降伏せしめた。この華々しい初陣で鑑連の名将としての名は誰も知らぬ者がいないところとなった。
同年6月1日、戸次家の家督を継承。烏帽子親は大友義鑑で、「鑑」の一字をもらい守親から鑑連に改名した
。これは父の親家が4月19日に死去したためによる急な家督継承であった。
しかし若い頃、鑑連は夏のある日、木陰で俄雨をよけていると
突然落雷に襲われ、感電死してしまった。

66 :
藤堂高虎(1556-1570)
近江の土豪、藤堂虎高の子として生まれる。
1570年姉川の合戦にて討ち死に。

67 :
松平竹千代
 松平広忠の嫡男。今川家に人質として護送中、何者かに連れさらわれる。
その後の行方は不明。

68 :
>>66
>>67
つまらないというより、なんというか、書く必要性を感じないというか、なんというか・・。
本人もウケようと思って書いてるわけではない、それはわかるんだが・・・。

69 :
>>59
利家美味しすぎw
>>65
俺には過ぎた言い分だけど、それじゃああっさりしすぎたから
「落雷による死は、古来暗の隠喩として用いられてきた」って加えた方が面白いかも

70 :
松平松子
松平元康の妻。名は「まつ」。高畠定吉の娘。非常に美しかったと伝わる。
織田家に邪険にされていたまつは三河の合戦において織田家が敗北したとき、
進んで今川兵に捕らえられ、幼少の故をもって
人身売買にかけられたが、ちょうどその場を通りかかった鳥居忠吉が
憐れんで自らの蓄財の一部をもってまつを買い求め、主君松平元康の
下女(今風に言えばメイドさん)とした。
まつは美しい上に驚くほど賢く、元康が太原雪斎から兵法を習っているのを
下働きをしながら覚えてしまい、あるとき孫子を全部暗誦してみせた。
太原雪斎は驚愕し、「彼女は今川家の軍師さえも務まるだろう。
元康の武勇とまつの智謀があれば天下を手中にできる。元康が鳳雛なら
まつは臥龍だ」と今川義元にまつを推薦し、まつは今川寿桂尼の養女として
英才教育を受けることとなった。元康とは相思相愛であったため、
1560年に結婚している。
1560年、今川義元の上洛戦に随行したまつは、桶狭間において
織田方の蜂須賀正勝らが付近の農民に化けて酒宴を進めにきたのを
喝破し、義元に告げたため、蜂須賀らは捕らえられ、奇襲してきた
織田信長は待ち構えていた今川軍に討ち取られた。
この合戦では夫元康も功績を上げ、大高城救援の後、前田利家・佐々成政ら
織田方諸武将を討ち取っており、夫妻の功績を高く評価した義元は
松平夫婦に尾張を与えた。その後も松平夫婦は戦国のおしどり軍師として
今川家の天下統一に貢献し、尾張名古屋百万石松平家の基礎を築いたことは、
以前放映された松平健・松島奈々子主演の大河ドラマ「元康とまつ」でも
お馴染みであろう。
子は松平信康、武田秀康(次男・武田家を継ぐ)、上杉秀忠(三男・上杉)、
織田信吉(四男・織田)、北畠義輝(六男・北畠)などみな
優秀であり幕政に関与している。
前田利益
慶次郎。前田利家の甥。叔父と一緒にまつをいじめていた。
織田家滅亡の後、木下藤吉郎らと一揆を起こして抵抗したが、敗北。
後に松平元康に逮捕され、「まつをいじめるような人間を
生かしてはおけない」として尾張において釜茹でにされた。
絶筆「呪いの文字がわら」が名古屋城に残る。
「この書き物後世にご覧ぜられ 松平三河守どの
一揆千人ばかり釜茹でに致され候 まつのせいに候
かくのごとくに候」

71 :
どうでもいいことかもしれないけど歴史が違うのに子供達の名前が同じというのはおかしいんじゃないですか。
信康の信は信長から秀康と秀忠の秀は秀吉からもらったものですから歴史が違っていたらそういう名前にはならないはずでは。

72 :
>>71
いやね、そう思ったもんで一度は
>松平義康、武田真康(次男・武田家を継ぐ)、上杉真忠(三男・上杉)、
>織田信吉(四男・織田)、北畠義輝(六男・北畠)
にしたんですけどね、義康は義元の偏諱、真康は氏真の偏諱とか一々
書くとわずらわしいしそもそもわかりにくいかなと思ったもんで
書き直したんですよ。ところで一字拝領の法則って上の字を取るんでした
っけ、下の字を取るんでしたっけ。わかんないので教えて。

73 :
六角義冶1545〜1615
近江六角家の当主
不仲から家老を害し(ry
父から日置流弓術の奥義を授かり豊臣秀頼に弓術指南として従える。
大阪冬の陣では老齢ながらその弓術で数え切れないほどの敵を討ち、
鉄砲が主役の時代においても弓が使える事を日本中に知らしめた。
冬の陣が終わると秀頼に日置流弓術の奥義を授ける
そして秀頼が習得した直後にこの世を去った。
秀頼は義冶の死を心から悲しみ夏の陣において自ら出陣し、
その弓で多くの敵を討ったものの敗北が近いとみると最後の大坂城へ帰還
腹を斬り死んだ。
また大坂へ帰還するさい秀頼が天に向かい弓を撃つ姿が多くの兵に目撃されている。

74 :
>>73
秀頼の出陣は大嘘。
この知能遅れのデブは出陣どころか、側室とS○Xの最中であったと、多くの家臣に目撃されている。

75 :
>>72
一字拝領の基本は下の文字を与えることです。
義元→元康のように。
上の文字を与えるのは特別待遇です。
わかりやすく言えば下の文字は家臣に与えるものです。
上の文字は親族などの身内に与えるものです。
信康の場合は信長の娘婿ということで秀康の場合は秀吉の養子ということで秀忠の場合は家康が秀吉の妹婿ということでそれぞれ親族に準ずる扱いとなっているのです。

76 :
信親は?

77 :
>>74

78 :
>>75さん
非常によくわかりました。ありがとうございました。

79 :
木下秀吉
若い頃に蜂須賀党の一員に拾われ、野党として過ごした
当初は背が低く、猿顔で仲間内から馬鹿にされるが
何かと頭が回るので子六からの信頼が厚く、
子六が斎藤家に雇われて以降も、知恵猿と呼ばれ子六をその智才で支えた。              政25戦64智81

80 :
織田信長
天正3年5月、盟友徳川家康に請われて
三河長篠に来襲した武田勝頼の軍を迎撃。
鉄砲3千挺を持参するも、梅雨の真っ只中の悪天候の日に合戦し、
武田軍の猛攻の前に鉄砲3千挺を放り捨てて敗走。

81 :
宇喜多秀家 1573)〜(1615
宇喜多直家の子として生まれ1581直家の病没により9歳で家督継ぐ。
豊臣秀吉に気に入られ秀吉の一門衆としての扱いを受ける
若くして五大老に名を連ねる中納言の官位を得るが
1600年関ヶ原にて西軍の主力として奮戦するも敗北し八丈島に配流となるも
慶長19年大坂冬の陣にて八丈島より泳いで大阪城に入場するも
徳川の物量には敵わず大阪夏の陣にて自害する
秀家が言ったとれる「八丈島より泳いで参った」はあまりに有名
  

82 :
>>81
冬に水泳とは、さすが秀家

83 :
武田勝頼(1546〜1607)
武田信玄の四男。父の急死により
息子信勝の元服までの暫定的当主となる。
信玄を引きずる家臣達の掌握に苦労するが、
1575年の設楽ヶ原合戦で重臣連が軒並み討死したため、
その後は新たな家臣団を編成し統率力を高めることに成功する。
上杉謙信の死後、1579年に越後で御館の乱が起きると
北条氏政の要請に応じて景虎側に加勢し上杉家当主に据えた。
この後は越後相模と三国同盟を結び織田・徳川勢に対抗し続け、
付け入る隙を与えず、逆に家康の嫡男信康を調略し家中を分裂させる。
1582年に信長が横死するとその隙をついて三河に侵攻し、
匿っていた信康を擁立して家康不在の中徳川家を乗っ取る。
その後美濃で羽柴秀吉と対峙した挙句和睦し、翌年臣従するが、
1586年の小田原攻めの際に上杉北条と共に謀反し秀吉を討ち取る。
混乱の中東海大返しを敢行し、京を押さえて
実質的に天下第一の勢力となり、その後7年かけて天下を統一した。

84 :
天下取太郎(1538〜1611)
琉球出身。元服と同時に天下取りを宣言して九州に上陸し、
阿蘇山中で猿と修行した後、島津大友龍造寺を
口先三寸で丸め込んで九州連合略して九連を成立させ初代長者となる。
その後九連軍十万を率いて中国四国を平定。
1570年には単身で京に入り織田信長と七日七晩の膝詰談判の末
京無血開城を成功させる。そして織田家を九州し
五年かけて東国を制覇。小田原城に単騎入城を果たし
氏政の顔に味噌汁を三回かけて心服させたエピソードは
あまりにも有名。天下統一した後は突如天皇制を廃し
自らが日本国王となり、トッタロー一世と名乗った。

85 :
>>84
これはひどい

86 :
こいつはひどい。

87 :
笑えるならいいがまったくもって笑えねーからな。

88 :
長尾景虎(1530〜1559)
越後守護代長尾為景の次子。元服後兄晴景を破って当主となる。
その後三年かけて国内をほぼ統一し、近隣にも食指を伸ばし始める。
戦に強く家臣の統率も取れていたが自らを軍神の化身と
信じ込んでいた節がありそのため火中を歩こうとしたり
崖から飛び下りたり等の奇行を好んでした。
1559年北条家の大軍に囲まれた下野唐沢山城の救援に向かった際、
儂に矢玉は当たらぬとばかりに敵陣の中を単騎で通り抜けようとし
当然の如く全身に矢と槍を受け満身創痍で絶命した。
死体には手柄を求めて雑兵が群がったため
越後に戻ったのは左の耳たぶだけであったという。

89 :
長宗我部元親
土佐の戦国大名。幼少時ひよわで、姫若子と称されたが、
初陣のときより武勇をあらわし、土佐一円を平定するにいたる。
天下を取る志も有ったようであるが、土佐平定後、雲辺寺参詣の折、
「あなたは土佐は取れるが四国は取れない」と越後出身の旅の雲水に諌められ、
「なるほど、そうですね」と改心。雲水すなわち不識庵謙信を軍師に迎え、その後は
領土拡大をせず、隣国から頼まれたときのみ出兵、旧主一条家を保護する、
合戦の時には大将自ら敵陣に切り込むなど義将として
生きた。豊臣秀吉の四国征伐にはいち早く降伏。所領安堵を受けた。
その後九州征伐時には仙石・十河・三好ら四国勢の総大将として
渡海し、島津の挑発に乗らず堂々たる戦振りを見せつけ、
不識庵謙信とともに敵陣に切り込むなど「土佐の出来人」
の名を挙げた。戦後、軍令違反で所領没収となった仙石領淡路を加増され、
嫡男信親に土佐を譲り自らは末子盛親と淡路に移り、剃髪して雪窓と称した。
関ヶ原の戦いでは東軍につき、所領安堵を受け、近世土佐二十二万石の
藩祖となった。
不識庵謙信
俗姓長尾氏。越後の人。優秀な人物であったが兄と争って敗北。
兄に降伏して小領主をしていたが、領主が嫌になって坊主になり諸国を放浪。
四国雲辺寺にて長宗我部元親と知り合い、意気投合して長宗我部家の軍師となる。
冷静な軍略で長宗我部家の基礎を築く。久武内蔵助の乱を未然に防いだ
功績は高く評価される。酒豪であり、「暖かい土佐で飲むから雪隠で頓死
せずに済みまことにありがたい」といったという。

90 :
>>89
謙信ワロスww

91 :
田代 政治
1568〜1645年
近江の百姓の生まれ。能役者として大成し、織田信長、豊臣秀吉に認められる。
1588年、村娘の用便を覗き、捕縛され、秀吉に切腹を命じられるも、千利休、出雲の阿国らの取り成しに
よって、芸能活動復帰を成し遂げる。しかし、1590年、関東巡業の折、武蔵の商家の風呂場を覗き、
再び捕縛。またしても命は長らえたものの、能団体を追放され、放浪の生活に。
1594年、朝鮮出兵に従軍すると、現地の朝鮮人と親しくなり、明、朝鮮軍のスパイとして活躍。
報償として全羅道を与えられる。1年後、反旗を翻し、瞬く間に朝鮮全土を手に入れ、
返す刀で満州に侵攻、足掛け10年で満州を得る。協力な騎馬軍団を武器に、15年かかって中国全土を
統一すると、イスラム諸国、ロシア、東南アジアに軍を進める。日本の徳川家康は早々に降伏し、
1640年にはヨーロッパ連合との一大決戦を制し、全世界を統一する。
自ら神を名乗り、その神国は2002年、幕を閉じた。

92 :
佐竹義重・義宣
常陸統一を急ぎ、南方33館の当主達を
太田城に呼び寄せて暗を目論むが
未然に計画を察知した彼らによって返り討ちにされ
佐竹家を滅亡させた。

93 :

嗣永桃治(つぐながももち)(1547〜1582)
貧農の子でありながら、早くからその才能を認められ、
信長の小姓として寵愛を受ける。桶狭間の戦いで、
義元の本隊を見つけ、義元を討ち取ったのもすべて
この人である。美濃攻めにおいては西美濃三人衆を
織田方に寝返らせ、稲葉山城一番乗りを果たす。
信長上洛後、朝倉攻めにおいて浅井長政の裏切り
に遭い、窮地に立たされるも、自ら殿軍をかってでた
ばかりか、追撃してきた浅井朝倉の連合軍を完膚な
までに討ち破り、余勢をかって近江越前を瞬く間に
平定した。天下に比類なき働きであった。その後も
数々の手柄を上げるも天正十年、夏焼雅秀の謀反に
より、本能寺において奮戦した後に信長と共に果てる。
嗣永桃治の発布した「嗣永憲法」は世界の哲学者、
法学者に多大なる影響を与えた。

94 :
架空にしても笑えるやつを書いてくれよ。面白いスレなんだからさ。

95 :
三戦板のスレで出尽くしたからな...。

96 :
>>84
バロスwwwwwwwwwww」

97 :
というか、>>84への冷たい反応にワロタw

98 :
>>91
四行目までにしとけば笑えたのにな

99 :
揖斐光親  ????-1570
土岐政房の子
兄に美濃守護土岐政頼、土岐頼芸
弟に鷲津光敦、土岐頼香 
1527年
斉藤道三土岐頼芸の土岐政頼の追放には多くの反感を買い
政頼の弟である揖斐光親、鷲津光敦、土岐頼香がその急先鋒だったとされる
1535年
親密であった尾張織田氏と追放された前守護政頼が匿われた朝倉氏を背後に
美濃乗っ取りを企む
この反道三連合をもってしてとうとう道三を国外へ追放させる事に成功
1547年
さらに土岐三兄弟は現守護頼芸と嫡男土岐頼栄が不仲である事につけ込み
頼芸を追放、頼栄を傀儡守護にたて美濃の事実上支配者になる。
1550年 
守護 頼栄急死 毒暗説が流れる
同年
揖斐光親が名を改め土岐光親となり美濃守護となる
1553年
織田氏六角氏と同盟を結び
兄の政頼擁する朝倉氏と対立
1555年
美濃関ヶ原で浅井朝倉軍と戦い勝利する
政頼の引渡しを朝倉氏に要求し朝倉氏はそれを承諾
政頼は美濃の一部を与えられられるも出奔
以後行方知れず
土岐三兄弟は美濃に京文化の流れを汲ませる事により
商業が大いに活性化し
また多くの文化人を迎える事で国外にも一気に知名度を上げることができた。
1557年以前から接触してきた東濃の遠山氏を従属させ美濃一国を制覇する 
1560年今川軍25000が尾張に進出してきたため援軍を2000送る
1560年丸根砦、鷲津砦が陥落するもこう着状態に陥り今川軍撤退
1561年死去家督は弟の鷲津改め土岐光敦が継いだ

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