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2011年10月1期戦国時代小牧・長久手の戦い
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小牧・長久手の戦い
- 1 :06/12/22 〜 最終レス :11/12/11
- 秀吉軍は家康信雄連合軍の10倍の兵力だったと言われます
信雄の懐柔にも成功しましたし、
この時点で家康を滅ぼす事が出来たと思うんですが
長久手の敗北はあくまで局地戦ですし、
あのままずっと粘っていれば、家康軍は内部から崩壊したと思う
- 2 :
- 鬼武蔵あっけなさすぎるよ・・・
秀次のアホのせいで・・・・。
- 3 :
- 信玄の攻撃を(運よく)しのぎきった実績のある徳川家が内部から
崩壊することはまずないと思うが、ジリ貧になるのは確実。
戦争の勝敗を決めるのはやはり国力だよ。
ていうか、信雄が勝手に講和したことで、徳川・織田連合軍は
事実上内部崩壊しとります。
- 4 :
- 秀吉が家康を滅ぼさなかったのは
滅ぼせなかったのではなく、
例の人材収集癖かもしれない。
優れた徳川の兵力を組み込みたかったのかも。
- 5 :
- 減んな顔の火↓と
- 6 :
- (´゚ω゚`)
- 7 :
- >>6
( ´゚ω゚` )9m
- 8 :
- 背後で長宗我部や島津が暴れてるのにいつまでも家康一人に構っていられない
信雄を懐柔して兵力と名分を削ぎ向こうから動かなくなれば取り敢えずそれでよかったのだろう
- 9 :
- 池田恒興の中入りがぐずぐずしていたせいで失敗したと言われるが、
あれは賤ヶ岳の再現を狙った秀吉の策だろう。
家康を釣りだし、本隊と挟み撃ちにするという。
しかし家康が一方上をいった。
- 10 :
- >>9
秀吉は反対してただろ?
しかし周りは未だ織田に仕えてた同僚が多く、強くは言えなかったんじゃなかったけ。
- 11 :
- >>1
あの時点で統制の取れてない秀吉軍を統括するだけで秀吉は手一杯だったんだよ。
長期戦になったら織田家の同僚にサル呼ばわりされている秀吉軍が崩壊していたのは確実。
だって基本的に欲で釣ってただけだからね。
譜代がいない秀吉はよくやってたんじゃね?
- 12 :
- >>10
池田勝入に離反されたらお仕舞いだったもんね。
なんせ信長の兄弟が信雄を見限って秀吉についたって言う金看板だったから。
濃尾2ヶ国の恩賞で釣った挙句自分の方針を池田勝入の脅しで曲げざるを得なかったって言うところに秀吉の辛さがあった。
譜代に恵まれ北条と同盟を組んで後顧の憂いを絶っていた家康に比べたら長期戦になったら内部崩壊の可能性の高い秀吉は圧倒的に不利。
あと小牧・長久手って表向きには織田信雄VS羽柴秀吉で家康は単に同盟の誼ってだけじゃなかった?
連投スマソ
- 13 :
- 徳川も無理な動員体勢のために領内において一揆も発生しかねないほどに
追い詰められてたというのが史料からわかるらしいねえ
- 14 :
- >>13
なんて史料?
- 15 :
- >>14
小和田哲男著の戦争の日本史15巻の小牧長久手の章に書いてあったよ。
さらっと読んだだけなんで史料名は覚えてないけど三河の寺の住職の日記だったかな。
- 16 :
- >>15
d 今度探してみる。
- 17 :
- 三河の寺の住職か。家康に含むところありそうだな。
- 18 :
- 後方や内部に不安を抱えていたのは、秀吉だったろう。
特に紀州の地侍の活動が活発で、秀吉政権のお膝元である和泉にまで進出したりしている。
逆に家康側のデメリットは、決戦方面兵力の圧倒的な劣勢。
その決戦方面である小牧での長期戦という展開は、家康の望み通りの展開だったろう。
ただ、秀吉の大局観は家康の一歩先を行っており、決戦方面で睨み合いをしつつ、自身の最強の兵団を秀長に指揮させ伊勢方面に投入、織田領の美濃、伊勢の殆どを奪って継戦不可の状況に追い込んでいる。
流石に名将同士の戦争と評価していいが、旧信忠支配下の美濃諸将、池田等の去就を定めた政治力、毛利、前田、上杉等(この時秀吉の味方になった大名はいずれも後に)全国の大名にたいする外交手腕、等において秀吉が家康を上回った戦だった。
池田、森を、散々に破るという大勝利にも関わらず最終的に敗北(豊臣徳川中立地の尾張伊勢が実質的に豊臣支配下に)したのは、戦略的に圧倒的な敗北を既にきっしていたからである。
そして和解以降、徳川に連携した大名達(四国、越中、紀州)はことごとく各個撃破された。
ボケる前の秀吉は、日本史上最強クラスの軍事指揮官、政略家だったと思う。
ただし家康の敗北を敗北に見せなかった手腕も流石。
後に天下を取る。
- 19 :
- 小牧城ってショボイよね。
- 20 :
- 家康有り得ないぐらい運がいいよなぁ
- 21 :
- >>20
運も実力のウチだよ
運が無ければ天下は取れない
- 22 :
- >>19
あのショボい城で忠勝は秀吉本隊と戦ったんだぜ
- 23 :
- 中入り策が池田の発案なら、あれだけの惨敗を喫したのだから戦後取り潰されれてもおかしくないのでは?
逆に秀吉の発案で、家康を誘きだし挟み撃ちにするため、わざとのろのろ侵攻させたのだろう。
しかし家康が一枚上手で中入り軍を撃破し、秀吉に付け入る隙を与えなかった。
- 24 :
- 大将が許可しておいて負けたから責任取れなんて馬鹿な話しあるわけないだろ
- 25 :
- 安藤直次について語るスレ
- 26 :
- 秀吉の野戦の戦術的能力はよくしらない(つーか第4次川中島みたいに
戦術機動が合戦のキモになる例はまれ)けど、戦略機動の重要性は
認識してたしその実行力(補給体制の確立)もあった。光秀と勝家という
歴戦の武将相手に野戦で勝ってるのだからその能力は非凡だと思う。
小牧長久手戦ではなぜにその得意なはずの機動戦で家康に遅れをとった
のだろうか。天下をほぼ手中に収めてた秀吉が一番恐れてたのは、
総力戦で運悪く家康に敗北したあと、織田政権継承を主張する信雄の
もとに諸将がなびくというシナリオ。だから、家康とは無理に決戦を
しなくて信雄をだまらせればよかった。例の岡崎方面別働隊は献策が
あったから、まあやらせてみるかといったところでしょうか。
小牧に限らず総大将の意に反して別働隊が城攻めにこだわって時間を
失うということは結構ありますな(関が原、耳川など)。これらは
別働隊の大将がイマイチ君だったという側面のほうがつよいと思う。
- 27 :
- 池田恒興は、亡主君信長の母兄弟で
形の上では秀吉に従ってはいるが、立場的には秀吉と同格。
それに、信長家臣団の中でも最古参であり、その恒興が信雄や信考ではなく
秀吉についているっていうのは大きな意味を持つわけだ。
その恒興が主張した横入れ作戦を秀吉が断りきれるわけでもなく、
また、立案自体はそれほど問題のあるものでは無かったんだけど、
奇襲を前提とした進軍とは思えない経路、思いつき始めた攻城戦!
など稚拙な行動ばかりで、これは指揮する将の問題だろ。
三次秀次はお飾りで実質後軍で恒興隊が壊滅して初めて家康の奇襲を受けたと
知るほどの散々な状態。
- 28 :
- 今日、長久手戦場跡に行ってきた
- 29 :
- 感想は?
- 30 :
- 今の日本に秀吉のような外交上手がいれば・・・
- 31 :
- >>29
史料館には色々あったけど、特に記憶に残ってるのは稲富流砲術書と大筒と短筒。
地下には弓道場があったけど、弓じゃなくて、火縄銃撃ってみたいよね。
あの地方には棒の手なる百姓に伝わる武術(?)があったらしく、鉄砲、槍、薙刀もあった。
あと、池田親子の塚が2つ。
ちなみに武蔵塚はちょっと公園から離れたとこにある
行ってないけど、墓は別でお寺にあるらしい。
- 32 :
- 長久手といえばモリコロ
- 33 :
- >>31
乙
私も資料館巡りしてみたい
- 34 :
- 秀吉のスケールが、家康を圧倒した戦いではあったと思う。
しかし家康の生涯で最高の頑張りを見せた戦でもある。
家康を野戦の名手と評価する向きがあるが、今川相手には調略で侵略をしているし、武田には野戦で負け続けている。
関ヶ原は快勝を収めたが、野戦能力というよりは調略が凄かった印象。
真田ー上杉にちょっとした負けをきっしたが、信濃領有を巡る我慢比べの勝利も含め、この時期の徳川家は本当に強かった。
関東移封以降、徳川家臣から強さは無くなってしまう。
徳川家康生涯最高の戦は、豊臣秀吉の天下統一を一気に加速させた戦でもあった。
- 35 :
- 秀吉のスケールが、家康を圧倒した戦いではあったと思う。
しかし家康の生涯で最高の頑張りを見せた戦でもある。
家康を野戦の名手と評価する向きがあるが、今川相手には調略で侵略をしているし、武田には野戦で負け続けている。
関ヶ原は快勝を収めたが、野戦能力というよりは調略が凄かった印象。
野戦が特別強かった訳ではなかったように思う。
但し真田ー上杉にちょっとした負けをきっしたが、信濃領有を巡る我慢比べの勝利も含め、この時期の徳川家は本当に強かった。
この後の関東移封以降、徳川家臣から強さは無くなってしまう。
徳川家康生涯最高の戦は、豊臣秀吉の天下統一を一気に加速させた戦でもあった。
- 36 :
- ミス連投にしては間隔長いな
- 37 :
- 信雄の和睦も、家康の計算通りだと思うが、
家康は戦争の終わらせ方も考えての参戦だろうし、多少闘って劣勢になったら
信雄見捨てて、秀吉に頭下げれば責任を信雄に押しつけつつ和睦もできると思う
優勢になれば史実道理信雄に和睦させれば、それはそれで良いって感じで。
肝心なのは秀吉も家康も、直接対決は徹底して避けた事。
器量比べのような戦いな感じ。
- 38 :
- 勝利した秀吉が人質さしだしたわけだ
- 39 :
- しかもそのために離婚させた妹と実母
- 40 :
- そこまでされては臣従するしかなかった家康を見抜いてのことだろうが
お互いが輝いてたねこの頃は
- 41 :
- 先に人質出したのは家康ですが?
レベル低いなココ・・・
- 42 :
- 魔女っ子ギギが先だったのか
- 43 :
- おぎい
かわいそ
- 44 :
- でも動かなかったしな。
- 45 :
- 人質の扱いが、養子だったり、嫁さんだったりするところが、二大天下人の力関係の複雑な処じゃないか!
小牧長久手以後の、両者の駆け引きが良い、マニア受けする外交合戦
- 46 :
- 森や池田をあぼんさせたのだから秀吉にも得るものが多かった戦い
- 47 :
- つーか、池田が消えたのが一番嬉しかったんじゃねーの?w
- 48 :
- 美濃やらなくて良くなったしね
- 49 :
- その代わり巨大野党、徳川家が誕生
- 50 :
- 家康厨は朝日を人質にとってるのを喜んでるようだが、大名家での重要性からして秀康(世子)>>>>>朝日(父違いの妹)だからな。
おまけに実質庶民でしかない朝日との縁組なんて家康にとってものすごい屈辱だろ。
小牧長久手で家康は秀吉を野人の子などと中傷してるが、同じ野人の子の朝日を正室に迎えているのは
どう説明すればいいのだ?w
- 51 :
- だなw
- 52 :
- 農民の側室持つような家康が気にするはずがない
- 53 :
- >>50
時代は秀吉様なのだよ
周囲から見たら破格の待遇だろ
- 54 :
- 秀吉が家康と本気でやらなかったのは
1小牧長久手当事の話しであるなら秀吉は自分が詐術で天下を取ったのを自覚しており
譜代の精強な軍団を持つ家康と利権で尻尾を振る自陣営を顧みて決戦に踏み切った場合
家康側に付くものも居ろうと思い決戦は避けた
2また天下人として認識されている手前、大友からの救援要請に向かわなければならず徳川と本格的に交戦するわけに
はいかなかった(勝ったとしても時間がかかる)
3建て前とはいえ秀吉の主筋の同盟者である家康は秀吉よりあきらかに格が上であり、家康に泣きついた
信長遺児への同情からの家康の行動では道理は家康にあった事
4豊臣政権加入後はなおさら徳川家は肥大化し
おいそれと手を出せる存在ではなくなったようだし
豊臣は徳川に負けるべくして負けた
- 55 :
- >>54
無知
典型的な家康厨
- 56 :
- >>54
俺も家康厨だけどずれてるな。
秀吉に勝っても意味がないと考えたと思う。
あの情勢で仮に秀吉したり、勝ちまくって美濃あたりまで進出しても、別に他の地方大名が家康に従う訳も無く。
戦国が永遠続いていくだけだ。
それよりも適当に引き分けなり和睦して、自分を高く秀吉に売りつける事で、より大きな影響力を手に入れた訳だ
勝って負けるという事も有るし、負けて勝つという事も有る。
このあたりの処が家康の上手いところだ。秀吉や信長には欠けていた処だと思う。
- 57 :
- 厨の妄想は果てがないなw
- 58 :
- 釣りじゃないか。でないとこんな恥ずかしいこと書けるとも思えん。
- 59 :
- 恐ろしく都合のよい解釈
- 60 :
- 馬鹿だ馬鹿
- 61 :
- >>31
地下なんてあったっけ?
塚なんてあったっけ?
- 62 :
- あれ以上、抵抗すれば徳川なんてアボンだろ
だから降伏したにすぎない
で、秀吉死んで幼児がその跡を継いだのを機に天下を奪っただけ
天下人となった事実を根底に考えるから小牧の戦すら家康の深謀遠慮とかアホなこと言い出す
あの場合は秀吉の臣下となるか滅亡かの二者択一だよ
まぁ、あそこまでいい条件で降伏したのがさすが家康といったところか
- 63 :
- 秀吉も家康も気がついたら目の前に天下があったんだろ。
信長みたいに明確な意志を持っていたわけじゃなく。
- 64 :
- >>62>>63
その通り
- 65 :
- >>47
あぼんさせるために、わざとこういう作戦を建てたのかも知れないな。
そのあと、両方とも取り潰さず、遺児の輝政を家康の娘と結びつけたりしてるのが謎だな。
- 66 :
- 元方面軍の軍団長クラスというと滝川と池田しか残ってないのが
この戦いで両方消えてるからな。
寄せ集めの感があった秀吉軍が一気に独裁政権になってる。
- 67 :
- 絶対に勝たなければいけない天下人狙いの秀吉
負けなければそれで可のまだ一地方領主にすぎない家康
- 68 :
- 家康は秀吉に負けたとは思ってない逸話有るね
秀吉が自分こそ天下一の武将と自分を持ち上げてたら、家康が他はともかく武将としては自分が一番と言い張って
秀吉もバツ悪くなって席を外したとか。
- 69 :
- 逸話の類を全部信じたら秀吉はまさに英雄で家康は垂れなのだがw
- 70 :
- リアルに戦争やってるな
【報道規制中】 拳銃男が民家で発砲、警官含む3人けが 小牧長久手の戦い ★3
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/liveplus/1179396729/
- 71 :
- 秀吉も家康も草場の陰からなげいているであろう。
戦国時代は世界一の軍事大国だったのが今は1人の立てこもりすら丸1日かかっても落とせないようでは。
- 72 :
- 篭城=徳川軍
警察=豊臣軍
油断してくたばったSATのお方=森長可
- 73 :
- 70さんどうせ犯人は最期には死ぬか捕まるかですよ。
立てこもりはいつまでも続きません。だいいち、成功例は日本では皆無に近いです。
72さん徳川軍と豊臣軍に例えるの上手いが徳川軍は野戦をよく行い立てこもりは
あまり行ってない。徳川軍と豊臣軍逆じゃないですか(大阪の陣みたいに)。
- 74 :
- たしかに細木レベルの馬鹿にここまで苦戦するとは本当に
秀吉も家康も草場の陰からなげいているであろうで砂。
犯人もだいたい、味方も来ないのに篭城しても意味ない。大勢の警官に
包囲されてるのだから。犯人の馬鹿さがよくわかる。
- 75 :
- >>74味方が来ても籠城しねぇだろ 普通
- 76 :
- 犯人を射するとシージャック事件の時みたいに犯人を射したスナイパーが自称人権派弁護士
に訴えられる可能性があるから日本警察が現場で犯人射するということはほとんど無い
- 77 :
- >>71
力ずくで済ませていいならとっくに解決してる。
要塞でもなく民家なんだからすぐ突入はできるしね。
ただ、現代は戦国時代ではないだろ。
- 78 :
- 結果的に秀吉の勝利なわけだが
この戦いは家康の奮戦だな
雑賀衆、長宗我部元親、佐々成政を動かして機を待ったわけだが
長引けば長引くほど何かが起こる可能性があったわけだし
兵糧や兵の疲労の問題もあるわけだ
家康はそれに賭けてたんだろうな
もし負けても信雄のせいにして秀吉に臣従すればいいわけだし
逆に言えば秀吉は伊勢や美濃を制圧する余裕があったわけだ
和解の条件も秀吉有利なわけだし
どっちにとっても、いい戦争であったのは確か
- 79 :
- 三河武士の最大にして最後の見せ場だったな
これ以降の徳川の戦争で有名なのは関ヶ原だけどアレは完全な調略での勝利
酒井榊原本多の大活躍 これから先見られることは・・
- 80 :
- 秀吉は「うろ」が来たとしか思えない鈍重な指揮が目立ったと思う。
それはともかく、出陣当初家康が入城を目指したのは大垣城だったのではと思う。
そして、家康は中仙道濃尾平野側出口で秀吉軍と対陣しようとしたのではと思う。
目的はあくまで短期決戦での秀吉害。ところが池田が犬山で決起したため引き返す羽目に。
このあたりで家康はプランを変更して長対陣でのポイント稼ぎで有利な条件での講話を模索せざるを得なくなった。
秀吉は秀吉で、上方や北陸が気になって大兵力の動員が不可能な上に長対陣は避けたいところ。
そこで森の策に乗ったのが運の尽き。機動戦で主導権を握られ秀次別動隊は壊滅。秀次は無事だったものの木下一族は消滅。
肝心の家康はさっさと戦場から撤退していて千日手の様相。
秀吉にとって失うものばかり多くて得るもののない戦い。
これ以上の長対陣を避けるため、信雄にかなり有利な条件での交渉を持ち掛けて家康に陣を引かせるしか無かった。
とか地図を見ながら想像してみた。
- 81 :
- >目的はあくまで短期決戦での秀吉害。
はいはい
妄想もいい加減にしろ
- 82 :
- この戦いで徳川を北条みたいに廃絶しておけば・・・
- 83 :
- てゆうか、秀吉が中入れ許さなかったら
睨み合い→信雄単独和睦→家康立枯
多分家康とも和睦になったと思うが
下手すりゃ滅ぼされてたな。
- 84 :
- >>83
睨み合い→信雄単独和睦→家康立枯→家康講和→西日本の本格的な平定作業続行
→濃尾二ヶ国に旧織田家臣団でも有力な池田恒興が配置される
結果的に、秀吉側の損失がほぼ無い上に、濃尾二ヶ国の約束を無効に出来たのは
出来過ぎのような気がするが。
- 85 :
- この戦いの二年後の1586年に、上杉景勝が上洛して秀吉に臣下の礼をとった後
関東方面から景勝を大将とする、徳川・北条討伐軍が具体化されたのだが
あのまま、秀吉が母と妹を人質に差し出してまで、家康を懐柔など馬鹿げた事をせず
武力で家康を潰しておれば良かったのに
- 86 :
- あまり重視されていないが、家康側についたのは信雄だけじゃない
長宗我部、雑賀一揆衆、佐々なんかと連合したいわば秀吉包囲網だった
特に雑賀勢は積極的で、数万の大軍で北上してきた
これは中村一氏が迎撃し、撃破5千という大勝を博して無力化したが
お陰で肝心の本戦に黒田・蜂須賀といった秀吉子飼いの精鋭が間にあわなかった
引き分けになったのもその影響だ
家康単体ならともかく、反秀吉勢力を一つ一つ外交で臣従させたり力で屈服させたりしながらだから効率がとても悪くなる
- 87 :
- 戦略的にも秀吉の勝ちかどうかは怪しいぞ
小牧・長久手の戦術的勝利により家康の名は一気に広まり、秀吉も下手に手出しはできなくなった
それが後に影響を及ぼし、豊臣政権で大きな力を持ちひいては関ヶ原や大阪の陣にも影響した
- 88 :
- 仮に、この戦いが長期化した場合、そうやすやすと秀吉が勝つとは思えない。
家康だって秀吉程ではないにしろ外交上手。
長期化すれば、反秀吉勢を形成し家康が逆転って事もあり得る。
- 89 :
- >>84
見えない損失ってもんがあるだろ…
・秀吉の名が下がり、家康の名が上がった(噂というのは恐ろしいもんで、日本の端っこまで伝わる頃にはどうなってるかわからん)
・家康を厚遇しなければならなくなった(関東転封は苦肉の策、実際のところ失策だしな 最終的に豊臣家滅亡の一因になった)
・征夷大将軍になれなくなった(?)
- 90 :
- 天正14年には83が書いてる通りに対北条対徳川の2方面侵攻を行う余裕もあるのは事実だしなあ
- 91 :
- 83じゃなくて85ね
- 92 :
- 野戦の達人スレで論破された糞家康厨が急に沸いてワロス
- 93 :
- 秀吉側は、寸土も失ってないけど
信雄、家康側はすげー失ってますが。
たかが奇襲名目で城攻めしてるカス武将が指揮してる部隊を
局地戦で破ったからってなんなん?
さらに言えば、家康は単独で唯一それくらいしか勝ち戦が無い位の戦下手だしな。
- 94 :
- 奇襲部隊の城攻めって後世の講談とかじゃ馬鹿扱いされているけど
万単位の部隊の隠密長期移動なんて不可能である以上
連絡線を扼す城があったら落とさないとまずいだろ
後背を遮断される
- 95 :
- 何言ってるの?
わざわざ敵方の城の目の前を通過するルートを選択した時点で馬鹿だろ。
岡崎まですべての城を落とすのか?
- 96 :
- いや、普通全ての城を迂回して岡崎あたりまで進軍するなんて不可能だよ。
元々城はそういうのを阻止する為に要衝に築かれるものなんだから。
つまり普通に考えるなら一気に岡崎を衝くつもりだったという方が疑わしい。
おそらく徳川・織田軍の後方に進出して、挟み撃ちの形にし相手を動揺させるとか、
あるいは関ヶ原の際に家康が行ったといわれるような、敵の本拠地に進軍すると見せて、
敵軍を城からおびき寄せる為の作戦だったのかもしれない。
- 97 :
- おびき出す作戦てのはうがち過ぎ。
そういう作戦なら始動した後相手の動向を委細漏らさず注意するはずで、少しの遺漏ならまだしも家康本隊が陣を出たのに気付かないってありえない。
- 98 :
- これも姉川と同じく徳川が必死で有名にした戦ですね
相手の信じられないようなエラーに便乗して勝っただけなのに
- 99 :
- 要は隠密行動のつもりの行軍中の部隊に奇襲を掛けて潰走させたって話で、この状況じゃむしろ負ける方が無理だなw
- 100read 1read
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