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2011年10月1期戦国時代\●/常州旗頭【鬼】佐竹義重 其之弐
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【黒田】後藤又兵衛(基次)を語る【大坂の陣】
戦国時代にタイムスリップしたら何処に仕える?
戦国時代の男性差別
城主になれるなら城主になりたい城は?
\●/常州旗頭【鬼】佐竹義重 其之弐
- 1 :08/03/09 〜 最終レス :11/11/05
- 関東、南奥州の盟主にして武田家無き後は源氏之頭領!
若年に家督を継ぎ、後北条の関東侵攻を阻止に立ち上がり、仙道方面では伊達政宗を圧倒!
武田信玄、上杉謙信と対等に渡り合いあった戦国最強武将佐竹義重の武勇伝を語り合おうではかいか!!
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196512813/
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/
困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1204974533/
- 2 :
- 重複な。
常陸の最強武将 佐竹 鬼 義重
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196512813/
だが向こうはレスが900超えてるんで次スレとして使用されるべきか?
- 3 :
- 其之弐ってあるけど
- 4 :
- なるほどな。
>>1の一つ目のアドレスにスレ名もなく前スレともないんで気がつかなかったわ。
だが早過ぎないか?
- 5 :
- 香ばしすぎる
- 6 :
- ま た イ左 ケケ 厨 が ヵ 儿 ├ ス レ 立 τ T= σ ヵゝ
- 7 :
- いばらぎ人糞スレ乱立させすぎ
- 8 :
- 重複しています
こちらへ移動してください
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/
- 9 :
- >>1の関東の盟主は「北関東の盟主」に訂正した方がいいんじゃない?
- 10 :
- ついでに言えば南陸奥を入れるのも若干やりすぎだ
- 11 :
- >>10さんへ
陸奥は広いからどこまでが「南」なのかが漠然と過ぎるよね?
- 12 :
- >>11
たぶん陸中以北は少なくとも南陸奥には入らないと思うなあ
陸前のうち大崎あたりはともかく伊達領は入ると思う…んだけど…?わからんですw
いずれにしても北関東はともかく南奥州の盟主までいくと
佐竹贔屓したい俺から見てもやりすぎと突っ込みをいれさせてもらいたい
- 13 :
- >>1は俺らが否定したから嫌がらせに書いただけだろw
北関東というか常陸半国と武茂・茂木・高野郡あたりの盟主だな
- 14 :
- 建前上、大掾一門の領土はすべて加算しておくべき。
- 15 :
- 建前でも微妙だと思う
江戸氏でも建前上の関係だし
大掾となると更に外に位置する
- 16 :
- >>1
関東、南奥州の盟主になったつもりで武田家無き後は源氏之頭領になった気になり
若年に家督を継ぎ、後北条の関東侵攻を阻止に立ち上がり、仙道方面では伊達政宗を圧倒されまくり
武田信玄、上杉謙信にはびびりまくりの妄想だけは戦国最強武将佐竹義重のへたれを語り合おうではかいか!!
これの方がふさわしいぞ!
- 17 :
- >関東、南奥州の盟主にして武田家無き後は源氏之頭領!
こんな事誰も言ってないし書いてもない
>若年に家督を継ぎ、後北条の関東侵攻を阻止に立ち上がり、仙道方面では伊達政宗を圧倒!
仙道方面で圧倒してたのは政宗
どうせ煽るなら北条も圧倒と書けばいいのに何で伊達だけ?
>武田信玄、上杉謙信と対等に渡り合いあった戦国最強武将佐竹義重の武勇伝を語り合おうではかいか!!
実際にやり合った北条を差し置いて、何故一度も戦った事もない上杉謙信と武田信玄?
結論 >>1=北条厨
- 18 :
- と、伊達厨が必死です
- 19 :
- 哀れ伊達厨w
- 20 :
- ま た イ左 ケケ 厨 が ヵ 儿 ├ ス レ 立 τ T= σ ヵゝ
- 21 :
- >>20
愛情あふれ過ぎ。
- 22 :
- 12万石が妄想を膨らませるスレはここですか?
- 23 :
- いかにも
- 24 :
- \●/age
- 25 :
- 伊達と佐竹は偉大スレ立ててよ。
仲悪すぎだろ。
- 26 :
- 従兄弟同士でなにやってんだか、って感じ。
- 27 :
- 義重と輝宗、義宣と政宗…二代にわたって従兄弟同士だもんネ。
だからこそ、骨肉の争い・泥沼化。
まあ、輝宗当主時はそうでもないが…。
- 28 :
- 義重と政宗って会って話した事あるのかな?
政宗「叔父上、叔母上はお元気ですか?」
義重「あぁ、元気じゃ。いつもソチの事を案じておるわ。」
政宗「叔母上には色々と助けて戴きましたゆえ…」
義重「だったな…」
政宗「宜敷くお伝え下さい…」
義重「伝えておこう。義宣や義広には内緒にな…」
政宗「恐縮です」
- 29 :
- 料亭政治みたいだなそれ。
- 30 :
- >>28
実は義重と政宗は八百長やっていて、律儀な義宣だけが奥州の反伊達勢力を結集してまじめに戦争している図が浮かんだw
- 31 :
- >>30さんへ
そう感じましたか…
私は義重夫人が実家(伊達)の為に色々と暗躍した…って事と、それを知りながら夫人を咎め立てしなかった義重の懐の深さを表現したつもりだったのですが…
しかし義重夫人って、どんな女性だったのだろう?
良く言われる様に、婚家より実家を第一(大切)に考えた(活動した)…実の息子より実家の跡取り(甥)を優先したのでしょうか?
- 32 :
- 佐竹で大河ドラマは無理かなぁ…?
義昭・義重・義宣の三代で…じゃなくて義重・義宣の二代で…
茨城県と秋田県が協力して大河誘致運動すれば良いのに…って。
今、茨城県は塚原卜伝の誘致をしてるけど。
- 33 :
- 佐竹のドラマは見たいけど
1年持たせるのはきついよな
- 34 :
- じゃあ来年の大河ドラマ「天地人」に出るかなぁ?
- 35 :
- >>34
でるよ。少なくとも義宣は
- 36 :
- ちょい役っぽくて寂しいけど出そうだろう。
石田三成の大河ドラマなら出るけどね、上杉家の家来の話だもの。
まあ、そんなには出ないよな
- 37 :
- >>32
無 理 す ぎ る
- 38 :
- 独眼竜で佐竹の幟が真っ赤だったのを見てびっくりしたな。てっきり白地だと思っていたがあれどうなん?
- 39 :
- >>38さん
数年前の茨城県立歴史館での「佐竹展」で、赤い旗指物が展示されてました。
秋田からの借り物です。
秋田へ行って見て来て下さい…とは軽々に言えませんが、お近くにお寄りの際は是非とも…orz
- 40 :
- 車丹波は絶対にでるな!
役者はケンどーこばやし??
- 41 :
- 「天地人」の山は、やはり関が原直前の上杉征伐でしょうな。
徳川に対する上杉&佐竹と、漁夫の利を狙う伊達、東に陽動されている家康を見て呼応する三成&島左近。
move、or not move、that's probrem!な状況で。
- 42 :
- 佐竹の部下に青柳っている?
祖父曰くご先祖さんだとさ
本家は茨城県岩瀬
- 43 :
- 茨城県の旧岩瀬町には「青柳」姓が沢山居るの?
もしお祖父様のお話が本当なら、真壁の家臣か組下かもね。
常陸平氏(大掾系)なのか、藤氏秀郷系なのか…。
ちなみに貴家の家紋は?
- 44 :
- 茨城北部行ったら半分以上が佐竹一族か配下と同じ姓だよ
- 45 :
- >>43
丸に笹竜胆と丸に一引きっす
- 46 :
- 因みに姓は『青柳』でなく『天○谷』です
自分でも色々調べたんですが…中々分からず
祖父があの世にいっちまう前に調べたくて
(´∀`∩;)
昔の家系図は泥棒にパクられて行方不明に
- 47 :
- >>42
青柳は全国に多い名字。
常陸にいた青柳で最も勢力が大きいのは江戸家臣の青柳氏。清和源氏義光流武田一党。
それ以外はシラネ
武田信親の二子信雄、武田弥七郎と称し、須賀村を食む、
のち江戸氏に属し、行方郡青柳村を領す、
子左大夫信利、その子信家、大膳という、その子信正藤左衛門と称す、
天正十六年、佐竹氏の為に没落し、流浪す、天下統一の後、
再び青柳村の古館に住し、青柳氏と称す、子信勝善右衛門と称す、
その二子勝貞、信之あり、勝貞の子貞信、式部と称し、享保中水戸侯に謁す、
その子信嗣、子信栄(青柳系図)
以上新編常陸国誌より
- 48 :
- >>47
アリガト!(´▽`)
感謝感謝
見たことある名があるのでちょいと調べてみます
- 49 :
- ウィキペディアに佐竹義重の肖像画は甲冑姿しか描かれていないって書いてあるけど
義重の肖像画なんてあったか?義宣と間違ってる気がするが
- 50 :
- >>39
光栄の佐竹氏の幟が白地だったから誤認してたよ
そうか赤か。かっこいいな!来年の大河に登場を期待したい
- 51 :
- 旗差物も色々あるでしょ
うちにあるのは白地に黒だし
- 52 :
- 白もいいけど赤もいいね。
- 53 :
- 赤の指物ねえ・・・ありえるな。
頼朝の佐竹攻め受ける前は、源氏筋でありながら親伊勢平氏勢力だし、地元の親分格吉田氏も平氏だし。
赤=平家、白=源氏。
>>50
佐竹が赤指物翻すのなら源平合戦まで遡らないと。
- 54 :
- 展示されてた旗指物は「白地に赤」でした。
赤地に白ではありません。訂正致します。
- 55 :
- NHKの独眼では鬼佐竹の旗は赤地のだったぜ!
- 56 :
- 佐竹が関東管領を譲られそうになった有名な話があるけど、
あれって本当なの?
出所が確認できないので信用していいのかどうか迷うんだけれど。
- 57 :
- ここのHPのは紫の生地に金の扇子だな。
ttp://raxel.blog21.fc2.com/blog-category-9.html
ttp://www.kougetsu.co.jp/htmls/S-42.html
- 58 :
- >>32
義重や義宣が史実では関わらない場所にまで
出没してくることになるよ。一豊やまつみたいにw
- 59 :
- なんかNHKが間違えてるってことないの?
- 60 :
- いつのまに・・・・
ttp://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E9%87%8D
- 61 :
- >>59
よく有るよ
例えば「功名が辻」の時、三成が七将に追われた際にそれを救ったのが山内一豊…
- 62 :
- >>61
それは間違えてるんじゃなくて、故意犯w
- 63 :
- >>56さんへ。
ザッと調べてみたが、どうやら『義昭家譜』だけらしいよ。
という事は、2つの理由が考えられます。
1.佐竹側の拡大解釈。
2.義昭が断ったので、上杉側の資料に記載していない。
これは皆さんの想像に任せます。恐々謹言。
- 64 :
- >>63
おお、これは有益な情報ありがとうございます。
仮に事実だとしても佐竹側しか記録に残さないでしょうけれど、
それにしても諸条件から鑑みてありえない話のような気がしてなりません。
- 65 :
- 佐竹は無理だから徳川光圀でいいじゃん
お供つけて全国行脚って設定で
- 66 :
- >>64さんへ。レスありがとうございます。
「管領譲渡の話」ですが、実は私もほんの少し気になっていました。
「憲政自ら常陸へ行った」というのは、眉唾物だと思いますが…
本当のところは「使者を送って打診した」ぐらいでしょうね。
- 67 :
- >>66
何も憲政が常陸まで出向かなくとも下野辺りで落ち合って会談した可能性はあるのでは…などと想像してみる。
が、使者を遣わし口上述べさせた…ってのがやはり妥当でしょうね。
管領様からの御使者に対して一門重臣総出で饗応しただろう…だから佐竹に記録が残ったとも考えられる。
- 68 :
- じゃあ、関東管領を受け取れるかどうか、重臣達が総出で検討しただろう。
でも、憲政の領地の上野や武蔵あたりまで維持できるか?となると、
当時の佐竹氏の力では、そこまで遠征するのは難しかったんじゃないか?。
後年、栃木南部が北条軍に押されて、佐竹氏は何度も後詰めしているが、
やっとという感じ。軍勢は、南に行ったと思ったら、次は福島県の方に
北上したりして、南と北で大忙し。
- 69 :
- 憲政は「家名」と「管領職」をセットで譲渡し庇護ないしは援助を求めた…
義昭は今更「家名」を貰った所でマイナスばかりでメリット無し
「上杉」を名乗ったら、一門が許さないだろうし…対北条への思惑もあっただろう
「管領職」だけを受けるのなら、必ずしも北条との敵対を意味しないだろうな
と、思った
- 70 :
- 実際にそういう話があったとしても、常陸だけで精一杯の佐竹じゃ
管領職を譲られても謙信のように北関東を一時的にまとめあげることも叶うまい
- 71 :
- んだんだ、当時の佐竹は20万石ぐらいじゃね?。
- 72 :
- >>67-70さんへ。ROM楽しませてもらいました。
弘治二年(1556)頃まで義昭は、白河結城氏に対する北上政策一本だけで…
太田より南の江戸・大掾・小田や、西の宇都宮(というか放浪中の広綱)と仲が良かったようだよ。
南下を始めて小田と戦うようになったのは…海老島の戦い辺りでしょうかね。
>>69-70さんへ。これはあくまでも私見ですが…
その頃、北条や里見が独断で「管領」「副将軍」を名乗っているから、問題ないと思いますよ。
ただ、>>69さんの言う通り「一門が反対した」が「今の所」一番真実に近いように思います。恐々謹言。
- 73 :
- 名乗るのに問題あるとは言ってないが、
名乗っても上杉謙信のように関東管領というネームバリューを
フルに近い形で利用するのは難しいんじゃないの?って話
- 74 :
- というか、そういうつもりがないから体よく断ったんだよ
義昭は旧体制からの飛躍を目指していたから、どちらかと言うと北条なんかの思想に近い
- 75 :
- 釣りかよ
- 76 :
- >>73さんへ。そういう意味なんですねぇ。確かにその通りです。
義昭時代の政治・軍事力は、やや低かったのでしょうか?
永禄七年(1564)1〜2月や九年2月の小田攻めを見ても、小田領は(常陸国で)自身の守護管掌国であるのにも関わらず、謙信(の政治・軍事力)に頼っていたようですし…、
前者ではその後、北義廉が小田城代になったけど、簡単に氏治に奪回されていますね。
加えて、自らも府中に移住してまで力を入れた、大掾乗っ取り計画(永禄七年6月〜九年6月27日)も僅か3年で頓挫してますね。
常陸南部に対して政治・軍事力を高めたのは…
太田三楽斎父子が片野に入城(永禄九年6月28日)してからでしょうね。
>>74さんへ。
いいとこ突きましたね。それを失念していました。お見事です。
これは以前「\●/佐竹氏を語るスレ 其の2」
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/
でレス574の顔文字さんも語っていたのですが…
義昭は府中に居城を移したり、旧小田領に対して検地するetc.していたから、
今川北条武田以上信長・宇喜多直家と同じ位、肩書きよりも現実主義・実力主義だったかもしれないね。
(ただし、朱印状や分国法・分検帳がないけど…)恐々謹言。
- 77 :
- >>76
小田城が奪還されたのも大掾の取り込みが頓挫したのも義昭の死後だよ
小田攻めは謙信の関東管領就任後だから共戦するのは自然だと思う
佐竹が常陸守護と言っても、小田氏もまた幕府から所領を安堵されているわけで
佐竹が独断で潰していいという事はない
その点、公方や管領を味方陣営に引き込めばその大義を得る事ができる
謙信にしても管領就任間もなくだから力を誇示して関東衆を掌握する必要があった
双方の利害が一致した結果として行われたものだ
無論、関東衆にとって謙信の持つ兵力が魅力的であったのは間違いない
- 78 :
- でも実質的に北関東から南奥の諸氏を纏め上げたは佐竹だろう
南関東は北条は纏め上げたと言うより領国化を進めてたが…
ここで一つ皆さんに考えて戴きたいのは「左京大夫」は南奥などの諸大名に乱発されてるのに対して「右京大夫」はほぼ関東では佐竹のみって事
たしか足利幕府の右京大夫って細川管領家…じゃなかった?
- 79 :
- いいところに気づいたな。
確かに足利幕府では右京大夫は細川管領家しか任じられない官途。
つまり右京大夫=管領ということなんだな。
知ってのとおり関東独立志向の関東公方は、
京都寄りの関東管領上杉家と仲が悪かった訳だ。
そこで関東公方は「私的な」管領を任じることで、関東の体制を見直そうとした。
佐竹義人は血脈も管領に値する人物だったことから、
足利持氏は京都とは関係無しに義人を「右京大夫」にした。
佐竹はそれ以来「関東だけの右京大夫」を名乗った。
何故佐竹に上杉憲政が関東管領を譲る気になったのか、
何故佐竹が北関東南奥の盟主になれたのか、ちゃんと理由があるのだ。
同じように岩松や小山も右京大夫を名乗ったことがある。
だが数代後の子孫にまで受け継いだのは佐竹のみだろう。
ついでに里見は関東公方の政所管理関係者だったっぽいので、
これまた「関東副将軍」を名乗る下地があったということだな。
佐竹の関東での政治的立場は中央も知っていたらしく、
織田信長は佐竹義重に初めて手紙を送ったとき「左京大夫」と下り書きしている。
「右京大夫」は慣例からダメなので左京大夫にしたんだろう。
ただ山内殿に遠慮したのか京都に配慮したのかは知らないが、
佐竹義重自身が「佐竹右京大夫」と示された例は知らない。
子の佐竹義宣は正式に朝廷から右京大夫を任命された。
足利幕府が滅亡してフリーになった「右京大夫」を、
故事を知っていた秀吉が義宣に名乗らせた訳だ。
こういうところは秀吉の粋なところであり、おっかないところでもある。
ちなみに戦国時代の越後の上杉と佐竹の通常の動員兵力は同じくらいだ。
5000よりは多いが10000まではいかないくらい。6000〜8000くらいだな。
永禄四年の大小田原攻めといい、永禄七年の小田攻めといい、
佐竹義昭は山内殿をフルにコキ使って自制力の拡大に利用しているな。
こういうことを言うとまた荒れるかもしれないけどな。
- 80 :
- そういう経緯があったから義重も常陸介を貰っておきながら全く名乗ろうとしなかったわけだ
- 81 :
- 佐竹は動員力はあるけれど、引き連れるだけでそれを手足のように操る地盤がなかったんだよね。
だから越後上杉の5000と佐竹の5000は質が違うと思う。
能力の高低じゃなくて、家臣掌握の問題ね。
- 82 :
- それは体制の違いだよ
土地土地によって支配の形も違う
- 83 :
- 岡本梅江斎って実際どんな立場だったんだろうね
- 84 :
- >>83
宿老で佐竹家中で最高位の権力。
東、北、南、小貫、和田、梶原と同格で、こいつらとタメ口をきける立場。
仕事としては、上記の連中と違って、常に当主のそばにいて、
外交、内政、軍事にわたるかなりの権限をもった。
公方、管領、関東八館などが書状を送るときには岡本が奏者となる事が多く、
また佐竹の直轄地および新たに入手した土地の年貢の管理、
外様的立場にある地侍等の三分の一上前の上納請求、
戦争での戦術、戦略に関する参謀などなど、家中最大の実力者。
- 85 :
- 岡本家の存在なくして、佐竹家の存在はない!
岡本家は出羽でも家老職を出した家柄。
- 86 :
- 単に入道した武士なのだろうか?それともどこかの寺の住職で佐竹に協力していたのだろうか?
佐竹関連の書状を見ると梅江斎宛てのものが非常に多いけど
いまひとつ岡本氏の実像が掴めない
- 87 :
- >>86
岡本氏は藤原秀郷流で鎌倉幕府御家人の家系。
もとは奥州の岩城付近に所領を持っていて、
次第に強くなった岩城氏に法体で家臣となった。
(法体で家臣となったということは所領をほぼ全て没収されたのかもしれない)
そして佐竹山入の乱に岩城氏が介入した時に、
岡本妙誉が直接反佐竹勢力との間に入って交渉し、
佐竹義舜に所領を貰い、やがて次第に佐竹家臣化していく。
この頃一時妙誉は在京していたこともあり、ここに京都とのつながりがある。
太田では松山という場所に少林院という禅寺を構えて定住。
妙誉の孫禅哲が水戸に移ったときに住んだのが千波湖の北にある梅香。
もちろん禅哲の号の梅香斎から来ている。
(ひょっとすると梅見での三十三館主暗はここで行われたのかも知れず、
あるいは偕楽園造立は梅好きな禅哲に最初の起源があるのかもしれない)
ちなみに佐竹にきた岡本妙誉の子のひとりは岩城に住み、
ここで佐竹系岡本と岩城系岡本に別れた。
- 88 :
- >>87
なるほど
家臣てのとは微妙に違うみたいだね
天海とかみたいなものか
禅哲も高僧で顔が広かったのだろう
小山氏みたいな名門大名から室を迎えたぐらいだし
- 89 :
- 岡本氏の娘が佐竹家にとついでいるよね。
簡単にいうと東、北、南と同格で筆頭的立場で、
佐竹本家と他大名家の折衝お取次ぎ役で格式は非常に高い。
まあ、のちの貞隆が岩城氏介入のときにも
岡本氏が筆頭で介入している。
- 90 :
- 岡本氏の娘が佐竹家にとついでいるよね。
簡単にいうと東、北、南と同格で筆頭的立場で、
佐竹本家と他大名家の折衝お取次ぎ役で格式は非常に高い。
まあ、のちの貞隆が岩城氏介入のときにも
岡本氏が筆頭で介入している。
- 91 :
- >>87
>>妙誉の孫禅哲が水戸に移ったときに住んだのが千波湖の北にある梅香。
>>もちろん禅哲の号の梅香斎から来ている。
市街地をくぐる「梅香トンネル」で有名?な梅香だな。
- 92 :
- >>88
「高僧」が「女犯」するのか?
知行を貰ってれば「家臣」だろ…普通
小山氏は確かに名門だが、佐竹の重臣に嫁を出すって事は当時の「格」が佐竹より下って事を示す例証と言うべきか…
禅哲の室(小山女)が正室腹なのか側室腹なのかにもよるだろうが…
- 93 :
- >>92
禅哲って禄貰ってたの?
- 94 :
- 貰って無ければ佐竹家の外交官を無報酬でやってた…って事になる
禅哲には当然家族は居たし家人も居ただろう…どうやって養う?
たまから貰ってると考えるのが自然じゃないかな
出典を示せって事なのか?
- 95 :
- >>たまから〜×
だから〜○
失礼しました
- 96 :
- >>94
普通、僧で家臣になる事はないよ(無論例外はあるが)
だから武家に仕える場合は還俗して僧籍を抜ける、禅哲の孫である宣綱も還俗して佐竹の家臣になった
僧に対しては寺を建立して住職に据えたり、寺領と言うものを宛がう
寺領というのは読んで字の如く寺の領地であるが
これに対しては租税や兵役の義務は発生せず
基本的に武家の介入を受けない、言わば武家によるお布施である
大名などがこのように寺を保護する事で僧達も大名に協力するが
決して武家の主君と臣下の関係ではない
- 97 :
- >>96
何を当たり前の事を長々とレスしてんだか…
当時、僧が妻帯するのが普通か?(浄土真宗系は別だが)まぁ女犯をおかす破戒僧は居ただろうが…
法体だからと言っても必ず坊さんとは限りないし
だからといって岡本一族が僧侶じゃなかった…とは言わないけどね
- 98 :
- >>97
そのわりには無報酬とか検討違いの事言ってるがw
- 99 :
- もりあがっとるのう。
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