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2011年10月1期戦国時代[過大評価]伊達政宗再評価スレ[DQN眼竜]
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[過大評価]伊達政宗再評価スレ[DQN眼竜]
- 1 :09/11/16 〜 最終レス :11/09/03
- 織田信長にあこがれるあまり父親が築いた伊達勢力圏を父もろとも粉砕。
来るべくしてやってきた周辺勢力の反抗(人取橋)を運だけで乗り切った後は
最上(元傘下)にボコられ大崎に叩きのめされ,かろうじて内部崩壊で
gdgdだった蘆名(当主は子供)を倒して奥州のごく一部を切り取るも,時流も読めない
この行為が秀吉の怒りを買い結局厳封。ここで諦めれば良いものを小細工で所領を
増やそうとしてまた厳封。普通なら反省する所を性懲りも無く関ヶ原の戦いの時には南部領
にちょっかいを出したあげく結局わずか2万石の加増にとどまる。
そして一歩間違えれば日本が植民地化されていたかもしれないのにスペインに助けをもとめる売国奴。
某歴史ゲーム会社による過大評価筆頭として戦国板では名高い伊達DQN眼竜政宗が,本当にたんなるボンクラ
だったのかをもう一度検証してみるスレです‥
とりあえず>>1の能力値評価はこんなです
政治 70
戦闘 50
知謀 42
こういう評価方法に問題があるのは分かってますが,とりあえずたたき台として。
- 2 :
- 最近のトレンドは過大評価なのか?
- 3 :
- DQNは過大じゃないだろ。
- 4 :
- この人を天下人の器とか言うのはちょっとね。
魅力はあるけど。
- 5 :
- 伊達は天下人の器だよ
一流の文化人だよ
- 6 :
- いくらヘタレ政宗の事実がバレようが、そこらへんのマンセー雑誌による仙台の布教活動で
厨が次から次へとどんどん増産されるのでキリがない。
片倉なんて連戦連敗の将なのに智将なんてwだし、陪臣としては直江や鍋島や堀や小早川は秀吉に高く評価されたが片倉なんて評価されてねーし。
成実が名将に祭り上げられたのは大正時代の捏造だし。
そもそも逸話の大半が仙台自らが考案して雑誌等に広めただけだから笑える。
- 7 :
- >>5
天下を取れるチャンスはあったはずなのに何故取れなかった(取らなかった)のかね?
- 8 :
- 仙台人は片目の低能極悪人を崇拝するキチガイばっかだな。
- 9 :
- ここは再評価スレなんだから
少しはいい方に評価しようよ
淀の方や氏真や勝頼や劉禅にはまともな擁護者がいるのに
政宗にいないってことは、政宗はこの人達以下ってことか?
- 10 :
- >>7
実はカルチャーショックが最大の理由。
TVや映画では日本中央の軍隊装備と九州四国奥羽の軍隊そ装備を
同じ様にしているが、実際は近代国家の正規軍とゲリラほどの差があった。
小田原戦に行ってみて「なんだ!この軍隊は!」
どうやっても勝てないことを悟った、ということ
- 11 :
- しかし長宗我部を率いて九州にやってきた仙石軍はロクな軍装もしていない商人みたいな軍隊だと報告を受けた島津軍では、
戦う前からこりゃあ楽勝な気分だった。
仙石軍は豊後で略奪をしまくってたから、軍装も現地調達のつもりだったのかも知れないが。
まあ畿内を代表してやってきた秀吉騎下の仙石がこの程度の軍装だからなあ。
ちなみに仙石は小田原陣では全身鈴づくめの基地害ぶり。
- 12 :
- >>1
たんなるボンクラだったら迷惑が少なくて済んだはず。
基地外というかとにかく奥羽では並ぶ者のない迷惑者というのが正確だろう。
- 13 :
- 政治 65
戦闘 25
知謀 35
- 14 :
- 案外「傾奇者・伊達政宗」だったらここまで叩かれなかったかも
- 15 :
- アンチスレが盛んだという事は、政宗が気になるという事だな。
良くも悪くも。
- 16 :
- 百姓のバカッぷりが気になるんだよ
- 17 :
- >>15
まぁ腐女子でも何でも女にキャーキャー
言われてるのが気に食わないんだろうなw
- 18 :
- アンチスレかw
住み分けできるな。
戦国板は他板に比べて住み分けできてないから荒れまくるし。
- 19 :
- >>18
重複スレのような…
- 20 :
- 重複なら…1はカスだな…。乱立と重複は…。
- 21 :
- 日本が植民地とか馬鹿か
- 22 :
- 1ですが,むしろ政宗擁護スレのつもりで建てたんですが…
確かに>>1ではむちゃくちゃ政宗を叩いてますが,是非これに反論して
政宗を擁護してもらおうと。
>本当にたんなるボンクラだったのかをもう一度検証してみるスレ
と書いてますし。
- 23 :
- >>22
sub乙
- 24 :
- 昨日のヒストリア政宗、家族にはいいとこなしのイメージか持たれなかったorz
- 25 :
- >>24
サブ必死過ぎ
- 26 :
- >>25
Sub違うわw
Subスレ行って研究して来い
- 27 :
- ヒストリアよりその時歴史が動いた〜の方が楽しかったなぁ…。懐かしい…。
これから幕末中心に特集組みまくるんだろうな。
- 28 :
- 岩出山転封の時、その年の米沢などの伊達領での年貢収入を持っていく事を禁止され
しかも大崎葛西の乱の荒廃で翌年の年貢は1/3しかなかったと言うのに
すぐ朝鮮征伐で名護屋行きで多額の費用を浪費。
すると伊達改易の噂が流れてビビる政宗は、京の者たちにいささかも劣らずと対抗意識を燃やして、石高をはるかに上回る動員で秀吉様に媚びに媚びて忠誠心を示す政宗公は秀吉政権発足時にすでに財政が破綻していた。
- 29 :
- このスレは隔離スレとして機能するかなw
- 30 :
- キチガイとひやかししかいないスレだなw
- 31 :
- 秀吉と家康に土下座して命乞いした代わりに財政を崩壊されまくったが、虚栄心に駆られ続けた暗君政宗公
- 32 :
- に例えるならば、
田舎の老舗博徒の息子でありながら、
賭博のしきたりをよく知らないで族上がりの半愚連隊みたいな感じでのしあがり、
クーデター紛いの方法で代目を継承。
族上がりの癖で「全国制覇」を掲げ、周辺組織との抗争を繰り返すも、
広域暴力団の圧力に負け、広域暴力団の二次団体となる。
幾つも策を労して、クーデター気味にのしあがろうとするも、事前に止められ、縄張りを切り売りする結果に。
広域暴力団の分裂抗争のどさくさに紛れて縄張りを切り取ろうとするも失敗。
自分の娘を若頭補佐に嫁がせるも、その若頭補佐は後に失脚。
抗争が終結し平和外交路線に転じると、シマ内でのシノギに力を入れるようになるが、上納金が大きく、一時期は借金まみれとなる。
しかし、シマ内での事業に成功し、借金まみれの状態からは抜け出した。
広域暴力団組長の代目が代わった事により舎弟頭に直る。
晩年は出世やシノギよりもグルメに目覚め、
また、広域暴力団の古参幹部として相談役(名誉職)となり睨みをきかした。
って感じか?
- 33 :
- 藤木氏によると
国替で政宗は本領でその年の年貢を収めることも許されぬまま、
一揆のため昨況は三分一と言われた葛西大崎領に移された
政宗は「口惜しき」「知行をすべて秀吉に返上して小姓なみに召し仕われる事より屈辱」
さらに来春は唐入りを命じられ、政宗は「もはや当家は上下てづまり」
さらに出兵では伊達は500の割り当てに対して、雑兵だけで2000余を用意し秀吉への忠誠の証にした。
さらに5月には石田氏が伊達領の戸口調査を終えて「政宗分国中の帳」をまとめた。
これに伴い伊達領では「国替風説」が流れて動揺が領国を震撼させた。
また上方との装備の質的均一化のために伊達は京での市場で調達。
豊臣政権からその援助を受けた最上や南部は堺で、一方の伊達だけは京都市場で、
しかも豊臣政権から援助として南部が兵庫に「御扶持方」、相馬なども「御扶持方一両月分」を与えられたが伊達は冷遇されたようだ。
また名護屋陣では「このたびも、蒲生殿より様々の表裏」と政宗は嘆息するなどイジメを受けていたようだ。
南部信直は「畿内ではどんな小物でも主に奉公をよくこなせば、すぐ身分を引き上げられ侍にしてくれるようで、それを見た者たちも我も劣らないように一層奉公した」ように実力本位。
しかし奥羽では「名字をチェックし縁で上に」と言う古い格式と伝統に縛られたもので「古本」「すたり物」と自重した。
邪魔な政宗は奥羽で一番最初に渡海させられた。
- 34 :
- 左遷の地たるド田舎の岩出山への移封費用も膨大な上に収入源を2年に渡り途絶えさせて財政破綻に追い詰めていた伊達に対して、国替風説は豊臣政権が故意に流して政宗を試していたと言われる。
この国替風説に恐れおののいた政宗は朝鮮出兵での割り当て兵力を大きく上回る兵を動員して肥前名護屋にやってきて
秀吉への媚び諂いを必死に示したのであった。
しかし蒲生らによってイジメられ惨めになりながら他家に劣らない忠義を示そうとした。
まさに南部信直が書いたように、小物の政宗は必死に仕えて、秀吉から上方の侍の待遇を得ようと卑屈になって秀吉の機嫌をとっていた。
これに失望した無能成実は出奔し相模国でたかが100人頭の仕事レベルの評価しかされなかったがとにかく家康から職にありつけた。
そして成実の家族は政宗にされたのであった。
- 35 :
- >>33
小姓より屈辱
たしかに二年に渡り無収入に近い状態にされて、世間にも家臣にも恥をかき、
しかも恥ゆえの自害も秀吉によって禁止させられて助命をうけると言う生き恥を晒す刑罰だもんなあ。
- 36 :
- ふむ
秀吉の会津進駐のため小田原から会津までの横三間の海道と御座所の普請という大土木工事が命じられ
伊達は白河から会津までの奥州側全区間を割り当てられたほどの奴隷使役で膨大な大金の出費をさせられたのに悲惨な待遇が継続してたなんてw
いまで言えば国家事業で高速道路を作らされたようなもんだし。
- 37 :
- >>34
成実出奔時点で、既に妻子(亘理御前、娘)とも死去してます。
岩城御前を迎えたのは帰参後で、小僧丸は岩城御前の子。
史実を紐解く為に他家の史料を持ち出しながら、何故、そこだけ山岡荘八の影響受けてるんだよw
撫で斬りにされたのは家族じゃなく家臣。
- 38 :
- 文禄4年に伏見で成実夫人や家族は政宗にされ、成実は出奔し成実記の記述もその前後から破棄されていて
現在は謎の空白になっている。
政宗が秀次と謀反を企ているのを危険視した成実が秀吉の元で独立しようとしたので政宗が激怒したとも言われている。
- 39 :
- 隔離スレ成立?
- 40 :
- 伊達をダテと読むと改悪した人物は誰なんでしょうね。
「いたて」が正式な読みなのは義姫などの書状を読めば明らかなわけで。
仙台は一刻も早く訂正すべき。
しかし易姓革命からダテと改変し、新たな伊達史の出発を狙ったのは、何やら纂奪者が伊達史を改変した際の臭いが強くする。
- 41 :
- 【輝宗】
政宗が積極的にした
政宗が輝宗の命に従い苦渋の決断でした
政宗はその場に居なかった【義姫】
政宗が追放した
義姫が逃げ出した
義姫が別の理由で実家に戻った
【小次郎】
政宗の策にはまり害された
政宗が仕方なく害した
害された事にして僧籍に入れ、後に秀雄法師となった
【秀雄】
政宗の弟ではない
政宗の異母弟
小次郎の後身
【亘理御前】
撫で斬りにされた
伏見で暗された
病没
それぞれに色々な説があり過ぎ。
結局、伊達家にしても周囲の他家にしても自家が正義って立場でしか史料を残していないから、
自家の事は良く書くし、対立していた家の事は悪く書くし。
東北地方には絶対的な勝者がいないから、
仕方ないっちゃ仕方ないんだけどさ。
- 42 :
- いや山形とか仙台がいまだに藩祖を神格化しようとして必死に説を無理やり作り出して捏造してるから次々とマンセーな説が現在進行形で量産されてるだけ。
- 43 :
- ちゃんと隔離されてるな。
- 44 :
- >>42
それは秋田も盛岡も米沢も津軽も一緒。
- 45 :
- >>44
例えば秋田はどんなことやってるんだ?
- 46 :
- 串がバサラアンチの住人と一緒だと…
- 47 :
- 秀吉さまさま
こさくるまえかぁちゃんから毒もられっぺし
弟ころさんなねぐなたし
ほっだなごどばっかりで頭ばがなたはぁ〜
んだがらおっそぐなたんだぁ〜
どぉがゆるしてけらっしゃい
だめってゆんならしかたねぇっぺ
ほれ、このきんぴかのはりつけもってきたがらよ
こんでやってけろ
どぉがどぉが、たのむっすぅ〜
おしょしな
かぁじゃぁ〜〜〜ん
なんでそだなごどすぅるぅ。びぃ〜〜〜
- 48 :
- 伊達政宗は歴史的に見て大したことしてないのに評価されすぎ 眼帯と三日月兜でキャラが立ってただけ
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1261492322/l50
- 49 :
- 伊達の鉄砲が騒がれるが
伊達の鉄砲は、雑賀衆をひき入れたから
オリジナリティはない
- 50 :
- ゲームとかの数値はまぁあんなもんかな?って感じだけど
実際はその数値でおかしな方向に行ってる感じかな
- 51 :
- 7月からのバサラ2のアニメ楽しみだな〜
- 52 :
- 政宗が恵まれてたのは生まれが遅かったこと。
だから江戸時代には数少ない戦国の生き字引きみたいに評価され
更に自己PRが好きな奴だから
当時の武功話が好きだけど戦国時代を生きてない大名達にはそりゃもうウケたし色々と逸話が残るようになっただろう。
実際どんなに凄くても戦国初期の武将の話なんて結局マイナーになっちまってるし。
- 53 :
- てか秀吉の戦すんなって命令なきゃ政宗なんて一瞬で滅ぼされてただろ
後年はともかく最初はただの基地外でそれを伊達厨が捏造マンセーしてるだけ
親父弟して母親を追い出すようなカス男が好きとは伊達厨はいかれてんな
- 54 :
- 米沢人による大虐による地ならし後の宮城県植民地経営。
米沢人を中心とした仙台支配階級による撫で斬り略奪奴隷民を
恒久支配するための洗脳工作は現在も続いている。
政宗による大崎葛西の民の虐の原罪は隠蔽できるものではない。
騙されて虐された先祖の恨みは深い。
- 55 :
- 捏造で伊達政宗を戦国最強天才にするスレ
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1278318212/l50
- 56 :
- 江戸中期ぐらいの測定で全盛期で何万石あったんだ。
- 57 :
- >>56
破綻財政を隠蔽する捏造だらけでわかりません。
- 58 :
- 味方を300人全滅するまで撃ちした挙げ句
DQNの開き直りとも言える言い訳ほざいたこいつが
天下人の器とか言われてるの信じられない
- 59 :
- 味方ゆっても顔見知りでも同じ軍服来てるわけでもなしぃ
300人を爆弾も使わず殲滅できるなんて超カッケー
- 60 :
- 摺上原の戦いでは、葦名の前に片倉が敗北した腹いせに
戦見学してた農民たちを銃撃して虐してたよね。
パニックになって葦名軍へ保護を求めて逃げた農民を
葦名の敗走と勘違いした葦名軍も一緒に敗走w
これを記憶してた伊達軍が神保を撃って敵軍へ逃走するのを追う戦略だろwww
- 61 :
- 伊達ファンの皆さん、アニメBASARA弐4話見ましたか?(*´∀`*)
アニバサ4話の伊達は色気だだ漏れすぎでしたよねっ!!
見ていてすごく挙動不審になりました、はぁはぁ。
まさか、再び負傷して包帯まきまきな伊達が見られるとは思っていなかったので驚きました。(笑)
そうそう!寝てる時の髪の毛の広がり方がたまらんです、はぁはぁ!
すごいかわいい!
すごいかわいい!!
あれは、ジ●リヒロインみたいだといってもおかしくないですよね!?
大久保さんはんぱないぜ……!ぶるぶる。
片倉様のいないうちに筆頭の肌へ触れまくる伊達軍がうらやましすぎて、ハンカチぎりぎりしそうです。(笑)
包帯誰が巻いたんでしょうね!?
気になる……ちゃんと首ガードなのも気になる……。
- 62 :
- ↑こういうアホが功績のたいしてない政宗をマンセーするから困るんだよな
戦国とはいえ親父と弟して産みの母親追い出して味方撃ちすような奴に憧れるとはね
- 63 :
- ガキ相手にイキがってイジメまくってたら
大人が来て恫喝したら土下座した弱宗公
弱いもの相手には尊大無礼
強いもの相手には超奴隷土下座
性格がひどく卑しく卑屈で恥ずかしい存在が弱宗公
- 64 :
- 一度は武士の意地と突撃をかけた蘆名の幼君に腰抜かして逃げてるぞ政宗は
次々蘆名の君主が死に、勝手に寝返る蘆名の配下達のおかげで併呑出来たものをそんな醜態を晒してるからか
会津統治に失敗して一揆起こされる始末
赴任してきた氏郷に統治出きるものかと煽ってまで邪魔したが案の定あっさり鎮圧・統治
所詮田舎で虚勢を張ってた大名というのが晒され家臣に八つ当たりした政宗w
- 65 :
- 戦国最強の土下座王政宗公は何回土下座したかわからない異能力者なのだ。
政宗って小田原に参陣して命乞いする時、会津から直接に下野に出ようとして南下したけど、
上杉と佐竹に後援された国人の反乱が酷くて
このまま南下するとされるってビビッて一度黒川城に引き返してから、上杉に泣いて謝罪して越後路を借りて小田原参陣したんだよなw
あまりにも武人としてみっとも無さ過ぎてワロタ
政宗は須賀川〜白河への道を恐れて、南会津から下野国に出て参陣しようと大内まで行ったけど怖くなって黒川城へ逃げ帰った。
大内宿からは2つの道が考えられる。
1、佐竹に支援され反乱が激しい須賀川を迂回する為に大内宿から右折して白河へ出る→白河結城氏の動きが怪しい。
2、大内宿から南会津を突っ切り日光に出る→上杉が後援する南会津の国人たちが待っている。
つまり政宗は会津や須賀川や白河の平定に完璧に失敗してるわけだ。
街道封鎖で参陣できそうになかったから、伊達存続に危機感持った家臣団が政宗毒し弟を擁立して許しを乞おうとしたわけだし。
佐竹や上杉は「それ見たことかw」って、そんな政宗を笑ってたろうね。
しかも転封に反対した家臣団が「転封絶対反対!転封するくらいなら死んだ方がマシ!ということでみんなで
腹を切って抗議することにしたんで政宗様も腹を切りましょう♪」
なんて言われて秀吉の使者に政宗は号泣しながら
「死にたくないから私は転封したいですが、家臣団からこんなこと言われて私にはもう抑えきれません」
と語って「伊達はもうおしまいだ」と声まで出してがっくりしてたとか笑えるwww
それを聞いた秀吉があきれた顔をして、家康も「もう政宗じゃ家臣統御できんみたいだし厄介だから許してあげたら?」
こういうエピが残ってるのがウケるw
宮城県最大の基地害にしてナチのもっとも冷血にして効率的な死刑執行虐者
宮城県史上いやこの理不尽さは日本史上!最強の屠業者政宗公
政宗が甘言で大崎葛西一揆の首謀者達を集めて須江山で謀した数は葛西側資料には70以上はあり、
秀次の命でやむを得ずしたと知る成実記はウソを書いてるし、伊達秘鑑における二十数名をしたってのもウソだとしている。
葛西氏と山内首藤一族は
やはり大崎葛西一揆鎮圧で政宗は甘言で深谷に呼び出して集合させた武士500農民2000を虐したとしてる。
左沼城撫で切りで百姓2000人武士500と桃生郡江糠塚山の一揆物頭衆騙し討ちで伊達にされた加西氏は完全に息の根を止められたしな。
岩出山転封の時、その年の米沢などの伊達領での年貢収入を持っていく事を禁止され
しかも大崎葛西の乱の荒廃で翌年の年貢は1/3しかなかったと言うのに
すぐ朝鮮征伐で名護屋行きで多額の費用を浪費。
すると伊達改易の噂が流れてビビる政宗は、京の者たちにいささかも劣らずと対抗意識を燃やして、
石高をはるかに上回る動員で秀吉様に媚びに媚びて忠誠心を示す政宗公は秀吉政権発足時にすでに財政が破綻していた。
藤木氏によると国替で政宗は本領でその年の年貢を収めることも許されぬまま、
一揆のため昨況は三分一と言われた葛西大崎領に移された
政宗は「口惜しき」「知行をすべて秀吉に返上して小姓なみに召し仕われる事より屈辱」
さらに来春は唐入りを命じられ、政宗は「もはや当家は上下てづまり」
さらに出兵では伊達は500の割り当てに対して、雑兵だけで2000余を用意し秀吉への忠誠の証にした。
さらに5月には石田氏が伊達領の戸口調査を終えて「政宗分国中の帳」をまとめた。
これに伴い伊達領では「国替風説」が流れて動揺が領国を震撼させた。
また上方との装備の質的均一化のために伊達は京での市場で調達。
豊臣政権からその援助を受けた最上や南部は堺で、一方の伊達だけは京都市場で、
しかも豊臣政権から援助として南部が兵庫に「御扶持方」、相馬なども「御扶持方一両月分」を与えられたが伊達は冷遇されたようだ。
また名護屋陣では「このたびも、蒲生殿より様々の表裏」と政宗は嘆息するなどイジメを受けていたようだ。
- 66 :
- 邪魔な政宗は奥羽で一番最初に渡海させられた。
左遷の地たるド田舎の岩出山への移封費用も膨大な上に収入源を2年に渡り途絶えさせて財政破綻に追い詰めていた伊達に対して、
国替風説は豊臣政権が故意に流して政宗を試していたと言われる。
この国替風説に恐れおののいた政宗は朝鮮出兵での割り当て兵力を大きく上回る兵を動員して肥前名護屋にやってきて
秀吉への媚び諂いを必死に示したのであった。
しかし蒲生らによってイジメられ惨めになりながら他家に劣らない忠義を示そうとした。
まさに南部信直が書いたように、小物の政宗は必死に仕えて、秀吉から上方の侍の待遇を得ようと卑屈になって秀吉の機嫌をとっていた。
これに失望した無能成実は出奔し相模国でたかが100人頭の仕事レベルの評価しかされなかったがとにかく家康から職にありつけた。
そして成実の家族は政宗にされたのであった。
秀吉の会津進駐のため小田原から会津までの横三間の海道と御座所の普請という大土木工事が命じられ
伊達は白河から会津までの奥州側全区間を割り当てられたほどの奴隷使役で膨大な大金の出費をさせられたのに悲惨な待遇が継続してたなんてw
いまで言えば国家事業で高速道路を作らされたようなもんだし。
政宗は小次郎をした時に弟の守役栗野藤八郎をし損ねた。
秀次の会った時に秀次寵臣に栗野木工之助と言うのがいて驚嘆した。
双方が下手に出ると言う笑える展開だ。栗野はのち政宗が岩出山に帰る時に馬の鞍や帷子を贈り物し
秀次謀反の時はそれが有力な証拠とされ 秀吉の使者は、政宗が土下座して涙ながらに
「もはや天命を尽きた。もう諦めた。」と言ったと報告している。」
政宗コト天道尽果、此事最前ニ言上セズ、運ノ極ミナリト申シ、落涙マデニテ、御請ハ申シ上ゲザル由」
絶望の余り落涙しての政宗三度目の命乞い土下座である。
減転封と政宗の浪費で伊達は財政崩壊してて、豊臣秀次から大金を借金してたんだよな。
金を恵んでもらって秀次の子分になって得意満面になってたら
秀吉の秀次粛正の巻き添えに巻き込まれたバカ政宗。 政宗って政略の才能が致命的に無さ過ぎ。
関ヶ原に絡んだ記述として和賀一揆を支援した政宗に対して反撃した南部側に花巻で敗れた伊達軍は
捲土重来を期して南部侵略の拠点にした水沢からさらに増援を送り出し岩崎城に物資を集積。
南部軍は4/4水沢からきた伊達軍を野戦で撃破し26日には岩崎城を陥落させ、
伊達軍は岩崎が火の海になる中を逃げ惑い伊達領へ壊走した。
その時たまたま家康の鷹匠が現地にいたので南部利直はさっそく井伊直政宛に書状を書いてる。
政宗は家康に対しては、すべて和賀のせいにして無理やり自刃させ、その首を利直へ贈り、あなたの賊は政宗が成敗したから今回の事は水に流して欲しいと哀願。
さらに今井宗薫へ宛て百万石はムリでもせめて堪忍分として十万石でも二十万石でもどっちでもいいから加増させてもらいたいと哀願したと書かれている
- 67 :
-
岩崎城攻撃は3月から約一ヶ月間。南部の花巻城でのゴタゴタは政宗が山形に兵を送った頃で、
花巻城防衛に南部が成功した後は、関ヶ原終了で南部側も様子見していた。
下手に伊達と大規模紛争したらまかり間違って上杉側と思われるような誤解が怖かったからだ。
政宗から山形へ兵をもらい助けてもらったはずの最上側もさっそく家康に政宗の南部侵攻の暴挙を報告してる。
そのうち雪が降ってきたので岩崎城を放置。すると政宗が岩崎城の兵力と物資を増強。
3月には南部は伊達攻撃について家康から許可をもらったのだろう。
つまり家康は伊達を東軍とは到底認識しておらず見捨てたにも等しい。
伊達厨って伊達が東軍だと固く信じたいみたいだけど実際は単なる蝙蝠で東西両陣営に通じてたから
両者から不信感を買ってただけなんだよね。
おまけに東軍最上を窮地に追いやり東軍南部侵攻までする馬鹿ぶり。
その南部侵攻を最上から家康にチクられるほど関が原後の伊達の最上救援の豹変ぶりに叔父さん怒ってた。
家康も和賀を連れて来いって政宗を恫喝してるしな。
さらに大坂冬の陣が起きると踏み絵とばかりに徳川にとっていまだ信用できない
旧関が原での敵である伊達政宗、上杉景勝、佐竹義宣に
10/15将軍徳川秀忠は大坂攻撃の先発を命じるわけよw 上杉と佐竹と同列視されてるのよ伊達ってw
簡単な話、伊達も関が原負け組仲間なんだよ。
金山利益で財力のある大久保長安・忠輝・政宗による謀反の風聞を聞いた細川忠興らは国許に
「大坂の次は奥州出陣だぜ!」と出陣準備を命じた。
仙台では秀忠を迎え撃つシュミレーションを何回やっても結果は伊達の大敗と松島での政宗の切腹のみ。
絶望した政宗は忠輝公と大久保氏を売りとばし、すぐさま高速の速さで家康公の元へ向かい土下座したので許された。
その後、秀忠公の政宗征伐の噂がひと段落したあとに突然、秀忠公が忠輝公を改易した時の理由は
「将軍の旗本をしたこと」 「夏の陣で戦いにおいて武門にあるまじき卑怯な行いで追撃しなかったこと」
という利益に狂い嫉妬に狂った義父の政宗の罪をなぜか婿の忠輝がすべてかぶったのでした。
明らかに政宗が信用を得るために幕府に対して自分への非難を
忠輝に責任転嫁して讒言しまくってるのが明白ですwありがとうございました。
その後、失脚した大久保の一族と縁を切って、大久保の政敵だった本多正純に急接近する政宗。
正純に頻繁に面談した政宗は毎回、執拗に百万石の約束をなんとか守って欲しいと土下座を繰り返す。
すると政宗と親しい関係と疑われた正純は秀忠公の激怒を買い見事に最上を巻き添えにして改易。
この時期、例えば上杉家などは
慶長14年には正信の取り成しで10万石分の役儀が免除されるなど優遇されていた。
しかしヘタレ政宗は・・・>>824のように
卑屈で卑怯な政宗を完全に蔑視してた家康によって
政宗イジメが繰り返し行われ虐げられていた。
プライドが無い譲歩と土下座外交を繰り返した日本と強圧的な中国
どこか政宗が弱腰外交の日本そのもののような感じがしてきますね。
- 68 :
- しかしヘタレ政宗は・・・
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1221436716/824
のように
卑屈で卑怯な政宗を完全に蔑視してた家康によって
政宗イジメが繰り返し行われ虐げられていた。
プライドが無い譲歩と土下座外交を繰り返した日本と強圧的な中国
どこか政宗が弱腰外交の日本そのもののような感じがしてきますね。
- 69 :
- 伊達氏って常陸に興って、鎌倉〜室町は伊達郡が本拠でしょ。
そして米沢に移って会津にちょっと、数年間岩出山、そして仙台。
武家町人総出で移ってきてるの考えると、仙台って伊達人や米沢人の植民地なんだろうか・・・
政宗が来る前の仙台って小さな町を出ると一面の荒れ野だったそうだから、
もともとの仙台人ってほとんど残ってないのかな?
- 70 :
- >>67
和賀一揆における伊達の捏造w
伊達家治家記録では慶長5年9月〜と6年3月〜の合戦を同一に併せた挙げ句に
慶長5年10月に伊達の勝利の戦があっただけと捏造し
白石勢100の犠牲があったが南部200を討ち取り大勝利したものの
南部側に家康の鷲師右衛門がいたので遠慮して白石勢は反乱者の和賀を引き取って水沢に帰った。
と驚くべき捏造をする仙台。
実際は下記である。
花巻城を奪還した南部勢は和賀川を挟んで岩崎城と対峙していたが
伊達が城から出て来ず合戦に発展せず大雪のためひとまず11/16帰陣し盛岡帰還。
3/10に南部軍が再出陣し3/13には和賀川を渡河。
4/4に水沢城から白石若狭の軍を南部軍が捕捉し
伊達の鈴木将監義信(59歳)が討ち死にするなど首93を討ち取る大勝。
(白石宗実は伊達家治記録では慶長4年伏見に死んだ事にして
援軍を撃破され孤立した岩崎城は4/26に落城 。
この時期の戦闘自体が無かったことにしてる為この時期は白石宗直とする)
この時、鷹師大矢小右衛門が4/19に岩崎陣を観戦していて
伊達軍を粉砕し岩崎城を降した南部軍が追撃して一気に水沢城攻めに進軍するのを
あまりに大規模になると南部の立場も悪くなると諫めて
井伊直政に急使を出してくれたので戦争状態がストップして伊達は助かっただけ。
この政宗の侵略については叔父義光からのチクりも聞いた家康は
和賀の件で伊達を糾弾し追い詰められた政宗は
5/17に岩崎一揆之者共を呼び出し成敗し、その耳鼻を江戸に贈り、
さらに24日に和賀主従を暗し自したことにした。
仙台藩士の和賀氏には政宗書状として代々保管してある
「和賀において白石右衛門左が軍を処々に出して悦口之至候 卯月政宗「花押」」と記す書状の写しがある。
ちなみに南部の遠野城主である阿曾沼広長も最上陣に出陣するが
和賀一揆の連絡を受けて山形から急ぎ撤退命令が来た際に
伊達に内通していたようで主家の南部に対して
「一揆の場所は我が阿曾沼に関係ない場所だし」と無視。
しかし遠野の重臣の裏切りが発生し伊達を頼って気仙沼に亡命。
その後も遠野復帰を伊達が支援していたが見事に失敗した。
- 71 :
- 訂正
援軍を撃破され孤立した岩崎城は4/26に落城 。
(白石宗実は伊達家治記録では慶長4年伏見に死んだ事にして
この時期の戦闘自体が無かったことにしてる為この時期は白石宗直とする)
- 72 :
- 南部根元記には秀次が奥州の仕置きを終えたので平泉を見た
そして最上へ向かい義光がもてなし奉り息女いこまの方を秀次公に参らせる
と書いていてその記述には平泉に寄っているなど書かれており
後世の研究調査から平泉中尊寺には秀次軍令書などの文書が納められていることが発見され
秀次の平泉訪問も事実と確定され南部根元記の記述が極めて事実に基づかれているとされた。
そのため義光の方から進んで駒姫を秀次に差し出したのも極めて事実に近いとされる。
南部は秀吉からの武装解除の一環としての一国一城の破却令により天正20年6月に
領内48城中→破却36城の上で存置12城が許されたとされる。
戸沢は角館の1城のみを残して33城を城破りをしているため南部は破格の待遇である。
前田や蒲生と入魂していたからであろうか。
のちに津軽の働きかけで親しくなるように浅野が仲介してきたが拒否し
前田などが津軽を辱めたので浅野なども津軽に関して何も言わなくなったと記している。
前田家文書には秀吉→関白宛の文録元年5/18に
来年正月の2月頃に3万を率いて兵庫より乗船し秀次が朝鮮へ渡海する命令がある。
南部信直→織笠但馬守に年不詳9/20で秀次公来年高麗国へ出陣。暦明け候はば上洛と記され
南部も前田騎下として秀次とともに朝鮮へ行く予定だった。
どうやら何らかのこともあって秀次&前田&南部の朝鮮渡海は中止となったようだ。
秀次と親しくなることで朝鮮渡海しないで済むような状況があったのだろうか。
文禄4年7月秀次自害と同じ頃、津軽が浅利を支援し戦闘開始されており
安東は進退に窮していると知らせがあり、また最上の小野寺侵略の岩崎合戦が開始される。
伊達と最上が秀次と共謀の罪があるとされたので、世上暗澹なこともあり信直は娘が
安東実季の弟に嫁ぐ予定だったが安東から連絡もないし延期した方がいいとしている。
このことから当時の奥羽がかなりの混乱下にあり秀次との謀反連動の疑いが強い。
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
- 73 :
- 佐竹について
義宣は23日&26日に三成へ書状を出しており、23日以前から石田佐竹は連絡を取っていたのは確定。
7/24家康小山着と同時の24日に家康の使者である古田重勝と島田利正の東軍への誘いに対して佐竹は
「秀頼様に忠誠して伏見に母と妻子を人質に出しているのになぜ家康に人質を出さねばならね」と拒絶している。
北上していた佐竹軍だったが家康小山着を知るや
義宣は突如として夜半に急使を出して24日子刻(真夜中12時)
先鋒の須田盛秀に進軍ストップをかける。直江との連動を窺わせるに十分である不信な行軍である。
7/28付けで家康から佐竹盛重に上方が挙兵したのは事実と返書がある。
盛重が知らないフリをして家康に質問しているのがわかる。
白河については福島市史によると
「報を得た景勝の招きにより甘粕は白石城から残りの兵を率いて白河の軍議に参加した」と断定している。
7月中に白河防衛についたりしている佐竹と宇都宮代表の結城朝勝については秋田藩家蔵文書三十に記されている。
家康は大雨で渡瀬川の栗橋の船橋が押し流されているので家康は小山へ引き返し一度戻ってきている。
善後策を練りとりあえず思川の乙女河原から古河経由で葛西に行く方法が考慮されたが
それと同時期に佐竹傘下の下妻の多賀谷修理大夫重経が家康を襲う陰謀の風聞が流れており
これでは江戸へ向かえず安全確認を取ってから出発せざるおえなかった為に江戸帰りが大幅に遅れた。
慶長5年?か疑われている9/21政宗→留守
「佐竹から使者あり昵懇したいとのこと」
との文書は偽書状または年代特定不能とされている。
横田大学が上杉家臣とするのは上杉家記が記す上山城敗戦記や最上合戦記で
後陣を率いて高松・長清水辺へ進軍してたら川口村で隠れていた
最上軍に敗れたエピソードで有名な横田式部少輔旨俊と誤解してると思われる。
この上山での敗報を聞き長谷堂から上泉泰綱が救援に来て戦死したとも書くが
泰綱の戦死は10月朔日でデタラメであり、
敗北したはずの横田式部も敗北の責で降格もしてない。
完全に講談話で上山での上杉の敗走を証明するものは何もないのが実態である。
横田大学について
慶長三年ニ横田大学と申者 相馬商買之塩荷伊達信夫へ運送之為玉野山中ニ新田を取立
相馬参候塩荷之馬次ニ仕立て 其後福島へ奉行平林蔵人彼地見分仕
と書かれており相馬側で運送の利便を図るために横田大学、
その後に福島側から平林と言う奉行が来たことが記されている。
- 74 :
- >>70
さすが伊達捏造史観。敗北の文字はないぜ!
- 75 :
- サブはちゃんと精神神経科に通院してんのか?
そろそろ入院した方がいいじゃね?
- 76 :
- >>72
秀次の謀反が発覚した時期の奥羽は戦乱状態だったようだな。
南部は前田利家の庇護下にいたから
秀次の謀反と関わりが無かったと言うことか。
- 77 :
- >>70
伊達家治家記録のデタラメ歪曲捏造ぶりはガチでヤバいな。
編纂方針を命令したバカは重度精神病だよな。
- 78 :
- >>72
軍事力剥奪のための破却令は陸奥と出羽で大規模に行われたって言うよね。
家康が一国一城令を出したって言われるけど
秀吉がその原型をすでに実施してたのがこれで証明されたんだよね。
政策ってのは誰かが初めて発案したって言うのは難しいね。
信長の政策もすでに先駆者が施行していたものの寄せ集めだと言うし。
- 79 :
- >>70
なるほど。11/16に一旦退却したのは岩崎城から引きこもって出て来ない伊達軍相手に川を挟んで対峙することの無駄さもあるが
家康の目を気にしてたんだろうな。
だから家康へ事情を説明して岩崎城を落城させる許可をもらい
同時に家康の監視員の観戦武官の鷹師を招いておいてから再戦したんだろうね。
南部の用意周到さを感じる。
さすが賢臣花巻城主北信愛と言うところだな。
- 80 :
- 仙台は米沢の植民地だった
米沢は越後の植民地だった
うむうむ
- 81 :
- 東北美人の米沢移民が仙台のブスをいくらか救ったかも
- 82 :
- 政宗は家臣団も驚くほどのブス好きで
米沢から特に選りすぐって精鋭中の精鋭ブス達を
大勢引き連れて岩出山へ移ってきたらしい。
- 83 :
- 輝宗殿!
最上、大崎、蘆名、佐竹より祝辞が届いております!
我ら輝宗殿へ衆目一致で降伏いたしました。
やはり奥羽を束ねるのは貴殿を置いて他にはおりませぬ。
相馬殿からも祝辞が届いておりますぞ。
何と書かれておるのでございましょう。
義「当家の祖先が帝より頂戴した名をお譲り致したく候」
輝「?」
/\___/ヽ ヽ
/ ::::::::::::::::\ つ
. | ,,-‐‐ ‐‐-、 .:::| わ
| 、_(o)_,: _(o)_, :::|ぁぁ
. | ::< .::|あぁ
\ /( [三] )ヽ ::/ああ
/`ー‐--‐‐―´\ぁあ
[朝敵]
義「おめでとう!」(*゚▽゚ノノ゙☆パチパチ
義「おめでとう!」(*゚▽゚ノノ゙☆パチパチ
義「おめでとう!」(*゚▽゚ノノ゙☆パチパチ
義「おめでとう!」(*゚▽゚ノノ゙☆パチパチ
輝「(ノ `Д´)ノこんなもんいるかゴルァァァ!」
義「じゃあ、私が頂きます」
義「いや、ワシが頂こう」
義「いや俺こそふさわしい」
義「俺も俺も」
義「やっぱり返して頂きます」
輝「(・ω・)やっぱ・・・わしが貰うお」
義「どーぞ」( ´∀`)つ
義「どーぞ」( ´∀`)つ
義「どーぞ」( ´∀`)つ
義「どーぞ」( ´∀`)つ
義「どーぞ」( ´∀`)つ
- 84 :
- あ、やっぱり?
- 85 :
- >>77
それぞれの家の歴史書なんてそんなもんだろ。
勝者の捏造した歴史が正史(史実ではなく正史な)とされ、
生き残った物達もそれぞれ捏造した歴史を作る。
捏造とまで言わずとも、自家に有益な事は大袈裟に記し、都合の悪い事にはあまり触れない。
今でも出鱈目だらけだぞ。
世の中高年の男性諸君が酒席で語る若い頃の武勇伝。
あれが全て真実だったら、日本はとんでもないバイオレンス国家だって事になる。
まあ、それと同じだ。
その出鱈目だらけの史料の中から、史実を見つけて行くのが歴史学者の役割だろ?
出鱈目だらけの史料の中にも何割かの史実があるんです。
- 86 :
- 伊達家の史料を見当する場合に、難しい点は、
嘗ての敵対勢力は大名家として生き残っているが、
同盟勢力は、ほぼ伊達家臣になってしまっている事。
対等な立場の見方側の視点で書かれた史料が皆無に近いって事だ。
- 87 :
- 仙台市や教育委員会が観光史観を推進してるのが大問題
- 88 :
- >>7
政宗が天下を取れるチャンスって俺は関ヶ原の戦いのときしか
思い浮かばないんだが
政宗が関ヶ原の戦いのときに天下を取ろうと思ったらまず政宗が西軍の総大将になって
もし西軍が関ヶ原で勝ったら政宗が秀頼の後見人になって
裏で秀頼を操るぐらいしか方法がないだろうと思う
しかし西軍が関ヶ原で負けたら改易どころか
下手したら死罪になるだろうな
- 89 :
- 死ぬ覚悟がないやつに天下取りの争いに加わる権利ないと思う。
- 90 :
- いざとなったら土下座力で天下は取れないの?
- 91 :
- >>90
無理
- 92 :
- じゃあ白装束死ぬ死ぬ詐欺は?
- 93 :
- 秀吉がこいつを生かしておいた意味が解らん。
- 94 :
- 寧ろ積極的にす動機こそ無い
何だかんだで地方の第一人者的立場の家の人間だから
それを失ったら陸奥には他に伝手がないので、連絡が途絶して不味い事態になる
現地の協力がないと軍事行動なんてマトモに出来ない時代なので
- 95 :
- まあ秀吉が大崎や葛西の復興を認めようとしてたのを聞いて
政宗は彼らが秀吉に不満で謀反を起こしたことにして謀したり
必死に自分の領地が減らないようにしてたからね。
秀吉「みんなわしの仕置きに不満なのか〜じゃあ小田原では従順で神妙の至りだった政宗にやっとくか」レベル。
- 96 :
- 「島津に暗君なし、伊達に名君なし」とはよく言ったものだ。
- 97 :
- 伊達に十字架背負ってませんから
- 98 :
- その目気色悪すぎこっち見んなど田舎富山男。その目気色悪すぎこっち見んなど田舎富山男。その目気色悪すぎこっち見んなど田舎富山男。その目気色悪すぎこっち見んなど田舎富山男。
- 99 :
- >>96
>>島津に暗君なし
薩摩のマンセー捏造だけどな。
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