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2011年10月1期戦国時代大阪夏の陣で七手組が出撃していれば? TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼
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戦国武将が2chにたてそうなスレ
殿といっしょについて語ろう
伊達政宗VSダ−スベイダー


大阪夏の陣で七手組が出撃していれば?


1 :10/09/06 〜 最終レス :11/12/09
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/b/be/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%A4%8F%E3%81%AE%E9%99%A3.png
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/photos/kassenzu/oosakanatunozinfuzinnzu.jpg
上記の布陣ですが。各部隊の戦力は豊臣方
真田信繁本隊三千五百、与力二千、計五千五百。毛利勝永六千五百。
大野治房四千六百。速水守久隷下七手組一万四千六百。
徳川方
松平忠輝九千、松平忠直1万五千、井伊直孝三千。藤堂高虎四千五百、
本多忠朝五千五百、榊原康勝五千四百、酒井家次五千三百、
前田利常以下二万。徳川家康一万五千、徳川秀忠二万三千、徳川義直一万五千。
史実に沿った戦闘経過。
天王寺口では五月七日正午毛利勝永隊と本多忠朝隊と戦闘、毛利隊は本多隊撃破、
ついで第二陣榊原康勝隊、第三陣酒井家次隊をも撃破、家康本陣に突入。
真田信繁隊は松平忠直隊と激戦の末これを突破、家康本陣に突入。
岡山口では大野治房隊と前田利常隊が戦闘、井伊直孝、
藤堂高虎両隊は家康救援のため戦線離脱。大野治房は自軍の一部を秀忠本陣に突入させた。
七手組は秀頼の参陣をまって出撃予定であったが秀頼は来ず待機のままであった。
信繁家康本陣突入時、速水守久久が自己の判断で家康本陣に突入していれば家康は
討ち取られ、その後、速水守久隊、毛利勝永隊、真田信繁隊、大野治房隊が
秀忠本陣に突入すれば、家康討ち死にで志気の低下した徳川軍は撃破可能だったろう。
その後は徳川軍は一旦退き体制の立て直しを策したろう。
豊臣恩顧の外様集は秀頼に帰参したろう。

2 :
>>1 大儀であった どれでも好きな茶を選ぶが良いぞ
  ∧ ∧                               (ハハ)
 ( ´・ω・)                             (ヮl` ) 
 ( つ旦O                            O旦⊂ヽ
 と__)__) 旦   旦   旦   旦   旦   旦    (_(_つ
      濃茶  薄茶 玉露  煎茶  番茶  出涸し 日当山一のちゃのみ
                            ;; コポ
       旦   旦   旦    旦    旦 コポ 旦       旦
       生茶  雑巾汁 烏龍茶 ほうじ茶 ウラン  お〜いお茶  髭茶
       旦   旦   旦     旦    旦   旦    旦   旦
       緑青 静岡茶 宇治茶 鹿児島茶 紅茶 福寿草 白湯  ミユキのお手製太陽バクバク茶

3 :
http://www.nhk.or.jp/program/saihai/
本日10時50分放送のNHK「名将の采配」で取り上げる作戦は、
多分「秀頼を指揮官とした七手組の家康本陣への突撃」と思う。

4 :
出撃→幕府軍のあまりの多さにビビる→城に逃げ帰る
おしまい

5 :
>>4
秀頼に武将の素質が少しでもあれば勝利の可能性高かったろう。
天下人になれなくても、近畿一帯を領有する富裕な大大名位は可能だったと思う。

6 :
奴の武将の素質なんて誰も知るわきゃねーだろ
妥当な線で素質に関しては常真レベルと仮定しろ

7 :
>>6
歴史の教えるところは常真レベルなんだよなー。
速水守久にもう少し戦略眼と決断力があればと思う。
毛利勝永、真田信繁、長宗我部盛親、明石全登もそう思ったろうね。

8 :
>>5
じゃあ仮に秀頼がそこそこの名将で1.1倍程度の兵力差なら押し返せるとしよう
どこにどう攻めて幕府軍を追い返すのか、追い返した後どうするのかを妄想してみてくれ
論じるのは仮定を出してからだ

9 :
天王寺・岡山の戦いは中央を薄くして両翼を厚くし、家康を囮として中央に誘引し
側面攻撃を行うという作戦だとすると大成功に終わっている

10 :
夏の陣に限れば家康が討ち取られれば幕府軍は総崩れだろうな
ただでさえ豊臣軍に押されてるんだから
惜しむらくは毛利も真田もいいところまで押してるんだが予備隊が投入されなかったこと
あくまで毛利や真田は前線指揮官であって総大将の戦略眼で予備隊の投入が望まれたわけだが
大野修理とかまで前線に出たのは間違いじゃないか?
勝手バラバラに死に場所探しの旅になっちまってさ

11 :
>>9
天王寺・岡山の戦の布陣をみれば家康本陣の前面は相当分厚く、第一陣本多忠朝五千五百
第二陣榊原康勝隊五千四百、第三陣酒井家次隊五千三百。毛利隊はこの三陣を蹴散らし
家康本陣一万五千に襲い掛かっている。真田隊は松平忠直1万五千を蹴散らして
家康本陣に突入している。家康は囮にはなるだろうが、主将討ち取られれば徳川軍敗退に
なってしまう。自軍が絶望的に劣勢なら主将が囮もありえるが、自軍が優勢な時には
ありえない。

12 :
天王寺、岡山口決戦当時、大阪城内三千、明石全登、仙石秀範、長宗我部盛親等
の部隊三千残存していた。秀頼はこの内三千を率いて七手組と合流、
計一万八千の内七千を押さえとして残し、残り一万一千を率いて家康本陣に切り込む。
家康の首級は簡単に取れたろう、秀頼の救援があれば真田隊、毛利隊の消耗も少なく、
二万程度は戦闘力保持可能、家康救援にはせつけた藤堂隊は前日の戦で長宗我部勢に痛めつけられ
戦力はかなり低下、井伊勢も木村重成との激戦で戦力低下、秀頼本隊の攻勢に立ち向かえないだろう。
かくして秀忠本陣に二万の部隊が、大野治房も千五百の兵で合流秀忠本陣と決戦。
秀忠本陣前面の加藤嘉明、黒田長政は豊臣恩顧でもあり又家康討ち死にとあればあえて
秀頼に刃向かわんでしょう。秀忠本陣後方の徳川義直1万は救援に駆けつけるでしょう。
結局秀頼軍2万一千と秀忠軍三万三千の戦ですが、数的には劣勢とはいえ家康を討ち取り
意気あがる豊臣軍と、意気消沈の徳川軍では秀頼の圧勝と考えます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%B8%B8
又天王寺の戦いで家康劣勢となったとき、「大坂夏の陣に際しては、
城方が巻き返した折前田軍中から城方に味方するようにとの声が起こったが
取り合わなかったという逸話が伝わる。」との説があるくらいだから徳川方は
寝返りの恐怖のため怯えて敗走の可能性も高い。

13 :
>>11
中央は戦闘正面が他と比べて広い
本来なら数を生かした戦いをしたいが、戦域が狭いのでそれも出来ない
となると、相手をのめり込ませて釣り上げるしかなくなる
幕府軍の配置は左翼は大和路勢35,000と浅野長晟勢5,000、松平忠直勢15,000の合計55,000
中央は五5,000強が三手に家康本陣15,000で31,200
右翼が先鋒20,000、中備7,500、本陣23,000の5,0500
総予備が1,5000で戦闘正面が広いにも関わらず中央が一番少ない
後、総予備というのは動かないというか動けないもの
基本的に後ろにまだ兵がいるというのは重要で、それがないとあっさり
裏崩れすることが多い
それに仮に投入するにしても最後の切り札なので大抵は時期を見誤り、
失敗している
悪いけどよくある机上の空論の1つかと

14 :
>>13
「相手をのめり込ませて釣り上げる」と言ったて、家康が討ち死にしちゃえば
おしまい。現実に家康が助かったのは単に運がよかっただけ。総予備
一万五千の半数だけでも突っ込んでれば、家康の首は無く、徳川軍総崩れ。

15 :
>>14
家康は逃げるのが得意ですから
腹を切るというのも桶狭間、三方ヶ原、本能寺と何回も言っているけど死んでませんし
もう、死ぬ死ぬ詐欺かいなという感じで

16 :
>>15
本来なら討ち死の局面で生き延びたって事でしょう。
運が良くなきゃ天下は取れない。

17 :
>>16
どうでしょう、家康は戦場ではかなり気がはやる人物のようですから
思ったことをそのまま口に出しているだけな気がします
まぁ、総大将がそんなこと言っても冷静に突っ込める人物が多いのが徳川家ですが

18 :
>>17
三方ヶ原、本能寺では討ち死にの可能性高かったと思います。
生き延びたのは運が良かったため、だけでしょう。

19 :
そもそも秀頼出馬してればかなり良い確率で何とかなったと思うんだが
所説はあるけどホント何で出無かったんだろうなあ

20 :
部下に止められたとか、城内で騒ぎが起こったとか…
本人は出る着まんまんだったらしいけどね

21 :
>>18
あー、そうですね運が良かっただけですね(棒

22 :
真田が徳川茶臼山陣に迫ったのも、運が良かったため、だけでしょう

23 :
家康は当時一番修羅場くぐってた男だから危なくなったらすぐ逃げるんじゃないか
それにとりあえず幕府軍を追い返す手だてはどうなのかね
家康をす以外ないってのならかなり厳しいと思うが

24 :
ホント真田昌幸が生きてればなぁ
徳川に2度勝ってる上に三方原でも参戦してるし作戦全般取り仕切れただろうに
あっさり冬の陣で滅亡してたかもしれんがw

25 :
流石の昌幸先生も夏の陣の状態じゃどうしょうもなさそうな気もするなあ

26 :
ただ昌幸がいれば家康がビビって攻めてこないかも
直接戦いたかったとか思ってたら死ぬけど

27 :
夏の陣でも主攻正面を南と割り切って毛利、信繁の先方で突き崩して
予備隊投入すれば一気に突き崩せたんじゃないかなぁ
冬の陣以降の戦いだけでも毛利や信繁が幕府軍に恐れられるような名声獲得したんだから
昌幸なら最初から幕府軍も及び腰になりそう
家康ならそれを口実に黒田とか加藤とか伊達すり潰す口実にして先鋒に使いそうだけど

28 :
>>23
この戦いで、秀忠は踏みとどまって戦おうとしましたが、家康は現に逃走しています。
それでも真田隊にもう少し余力があればしとめられたと思います。
豊臣の生き残り手段は戦場で家康仕留める以外なかったと思います。
>>27
豊臣方は戦線中央を正面と割り切って真田隊、毛利隊で攻め込み
徳川の陣形を完全に突き崩しています。その結果七手組から家康本陣まで
完全にがらあきになり、七手組は進撃さえすれば家康本陣攻撃可能でした。

29 :
>>28
家康が討ち死にすれば、戦場には豊臣恩顧の武将がうようよしており、
彼等の向背量りがたいので、秀忠は危なくて戦闘継続できんでしょう、
とりあえず兵をまとめて引き上げるしかなかったでしょう。

30 :
>>28
「真田はあと一歩で家康を討ち取れた」というのは願望です

31 :
>>30
http://sanadasandai.gozaru.jp/itsuwa/yukimura/yukimura-07.htm
同時代資料の記述からみても、家康相当やばかったと思いますよ。

32 :
>>29
結局豊臣が滅亡してたとは思うけどあの時点で家康が討ち取られたら天王寺口は壊走だろうし京と大和方面に撤退でしょうね
まぁ豊臣側は手練れが多いので当然徹底的に追撃するでしょうけど第一線の毛利や真田も戦力的には限界ですしね
ただ家康の死で伊達とかまた馬鹿な事考えそうな気はするねぇw

33 :
凄い活躍をしたとはある、勇戦奮闘したともある
また幕府軍が苦戦したのも事実だし、家康・秀忠の旗本も戦闘に加入したのも事実
しかし家康が危機だったという話はない
混乱し損害を追いつつも撃退したというのが適当だと思う
『大日本史料』を読んだ感想だけど
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html

34 :
大阪の陣で伊達はpgrだったな
片倉の息子が又兵衛討ち取ったぐらいしか

35 :
>>34
伊達に限らず藤堂とかも酷いねw
黒田、加藤、上杉とか一応戦国末期に生き残りも大したことないし
まー領土貰えるわけでもなく嫌々出陣してる部分もあるんだろうけどさ

36 :
>>35
一等酷いのは前田だろう、その気になれば大野治房隊など一撃で壊滅できたはず
なんとなく戦闘したふりしてただけで、治房に秀忠本陣突っ込ませても平気な顔してる。
隙があれば寝返る気満々。

37 :
いやいや冬の陣の佐竹隊でしょう。

38 :
そして一番可哀想なのは神保さん

39 :
伊達の犠牲になったのだ……

40 :
家康が切腹を口走ったのは後世の作り話じゃない

41 :
>>40
http://sanadamaru.syuriken.jp/s-yukimura.html
「幸村十文字の槍を以って大御所を目掛け戦はんと心懸けたり。
大御所とても叶はずと思し召し植松の方へ引き給う」(『本多家記録』)
ともある。さらに、「家康の本陣総崩れとなり家康は身代わりとして
本多正純を将座に残し自分は身をもって玉造方面さして落ち延び
その到底のがるべからずとして二度まで自害せんとす」と『朝野旧聞哀稿』
一応資料はあるみたい。
これらの資料は江戸時代成立だから家康に有利な脚色はしてもこのような
大敗したとする脚色はしないでしょう。事実だったと思いますよ。

42 :
>>40
http://www.samurai-journal.com/db/sengokubusyo.html
このサイトでは『朝野旧聞哀稿』は徳川家の記録となってますよ。
徳川家が家康が自害寸前だったとする作り話記録しないでしょう。

43 :
『朝野』に切腹の話があるのは『老将談話』という書物1つのみ、他には書かれていない
後は『耶蘇会年録』にも似たような話がある
前者は服装を白い小袖としているが『慶長見聞集』では茶色としている
実際問題、白い小袖は遠目に映えて危険なのでそのような格好をするとは思えない
また、後者も家康敵視の記述なので問題がある(家康死亡時に暗説を載せているし)
ちなみに『老将談話』の当該箇所には編纂者の「変更の要ありか」という注釈文がある
どちらかというと噂話のレベルかと

44 :
>>43
逆の解釈も可能と思いますが、家康が自害寸前追い込まれた、と言う
話は側近から伝わり広く知られていたが、記録に残すのは皆躊躇した。
『耶蘇会年録』は幕府に遠慮せずそのまま記録した、『老将談話』
は徳川の実戦経験豊富な武将の話、当時の歴戦の武将は苦境に追い込まれて
自害寸前にいたったとしても武将として不名誉と考えていなかった。
しかし編纂者はこの事実をそのまま記録するのはやや危険と判断した。
家康の旗印が打ち捨てられて敗走した時点で生命の危機に陥ってると
考えるのが普通だと思う。

45 :
>>44
『耶蘇会年録』はキリシタンを弾圧しているこの時期の家康についてはバイアスをかけた表記なのは事実
それに『老将談話』という題名に惑わされてはいけない、後世の軍記物がスゴそうに見えるような題名を
付けることはよくあること
それに勝敗相反すとか東軍の醜態を記した手紙を載せた「細川家記」や、勝利は家康の運とか家康の旗本を
三里に渡り追い散らしたとする「薩摩旧記」にもそのような話は無い
ちなみに「薩摩旧記」には同じ文中に家康・秀忠の旗本で逃げたものはいないとも書いている

46 :
>>45
「逃げたもの」でなく、「逃げないもの」だったわ

47 :
>>45
「家康の本陣総崩れとなり家康は身代わりとして
本多正純を将座に残し自分は身をもって玉造方面さして落ち延び
その到底のがるべからずとして二度まで自害せんとす」
朝野旧聞哀稿のこの記述はかなり具体的で実際に現場に居た武将の
談話と思うよ、自害寸前の事実は広く知れ渡っていて隠しようがなかったんじゃない。
「細川家記」や「薩摩旧記」の記述者は現場に居なかったので詳細は
記述出来なかったと思うよ、それに外様だから、伝聞だけで余計な記述
しないほうが無事と思ったんじゃない。

48 :
家康は戦場ではすぐ逆上する人だから、切腹しようとしても不思議はないな。
切腹しようとするたびに家臣に止められてるけど。
三方が原以来倒れることのなかった家康の馬印が倒れるほど本陣が
混乱していたのは確かで、家康が危機に陥ってたのは確かでしょう。
ただ、あと一押しがあれば家康を討ち取れたかっていうと疑問符がつく。
ケツまくって逃げ始めたときの家康の逃げ上手さは史実が示すとおり。
家康を討ち取れなければ、大坂方はすぐにジリ貧に陥るだろうね。

49 :
そのために明石さんを後ろに・・・

50 :
>>47
床几に正純を置き、家康が玉造方面の谷間にいたのは戦闘前から
しかもこの組み合わせ、関ヶ原合戦でもやっていたりする
ちなみに「大日本史料」ではこの部分の記述は除かれている
東大のエライさんは載せるに値しないと判断したということ

51 :
>>48
仮に真田信繁が適当な白髪首を槍先に掲げて、「江戸内府討ち取ったり」
て喚き叫んで突っ込んでいったらどうなっただろう。加藤嘉明、黒田長政、
前田利常あたりは動揺して戦闘中止したんじゃないかな。そうすると
秀忠隊が戦線離脱、一時的かもしれないが幕府軍大和に撤収、になったかも知れない。

52 :
家康が逃走したにもかかわらず総崩れにならなかったところが結局幕府12年間の成果なんだろうな

53 :
あんたの話は「仮に」ばかりだな。
しかも自分に都合のよい「仮に」しか考えてない。
日本史上、相手の大将を討ち取ったという虚報を流して勝ったという例が
どれだけあるのか、まずそれを検証しろよ。
で、こうこうこういう理由でこの作戦は非常に有効だから勝てるって証明してみせてよ。
つーか、このとき家康は内府じゃありません。

54 :
ちなみに『老将談話』の話で家康の切腹を止める人物は金地院崇伝と文殊院勢誉なのだが、
後者は慶長17年に既に亡くなっているので、この逸話は論外なのです

55 :
そもそも〜を討ち取ったと敵が叫んでなんだってと信用するおめでたい奴はいないだろう
まずは目先の事を片付けるだろうし真田が家康討ちとれるとこまで来てるなら包囲されて殲滅されあぼん
つーか現将軍たる秀忠がいるしそこまで動揺しないだろうし秀忠もむやみに退いたりしないでしょ

56 :
>>53 >>55
本営を真田兵に蹂躙され、馬印倒されて「討ち取ったり」って喚かれりゃ、
討ち死にしたって思うのが当然。大軍であっても動揺が広がれば総崩れ
って珍しくないよ。淝水の戦い、厳島の戦い。

57 :
まーこの時の徳川は家康と秀忠のツートップな訳で
将軍も秀忠だし
実際天王寺口はあの状況で本陣突かれても崩壊してないんだからさ
家康が討ち取られても案外整然と退却できたかも

58 :
>>57
外様の武将は徳川家に忠節心持ってるわけじゃなく、家康怖さに参陣
してるだけ。秀忠の命令に素直に従うかどうか?
真田信繁もそのあたり狙って家康付けねらったんだから。

59 :
>>57
「家康が討ち取られても案外整然と退却できたかも」
古来退き戦が一等難しい、兵に退却の指令だした時、追撃されれば
総崩れが相場。

60 :
大坂方で追撃できるのは毛利勢くらいじゃね?
真田や大野は消耗してるし親衛隊様は動く気ないし

61 :
適切な時に、適切な場所に、適切な兵力を、適切な将に投入させれば勝つ、
なんてのはご都合的な展開

62 :
>>61
IFものってみんなそうだけど。ことさらあげつらいのは野暮でしょう。

63 :
いやいや
外様でも黒田、藤堂、池田、浅野、京極なんかは
純粋に徳川への忠誠心で動いてると思うよ
後は豊臣への積もりにつもった恨み
毛利とか島津とか伊達あたりは忠誠心なんてかけらもないと思うけど

64 :
>>63
戦国大名そんな甘い連中じゃないでしょう。
幕末の諸藩は譜代、親藩さえ新政府に忠節誓ったんだよ。
長州の恨み買った会津は抗戦しましたがね。
「純粋に徳川への忠誠心」そんな武将居る訳ないっしょう。

65 :
幕末にむりくり合わせるならそれこそ豊臣家=幕軍で江戸幕府軍=新政府軍って状況なんだが
三百年余りたった幕府と各藩の関係と出来たばっかの頃の関係を同列に語られても困る

66 :
http://www.nhk.or.jp/program/saihai/
NHK「名将の采配」で取り上げてたが、状況をかなりはしょって伝えてる。
信繁の幻の秘策は、真田隊、毛利隊で天王寺口の徳川諸隊を吊り上げ、
家康本隊ががらあきになった時、明石隊が奇襲をかけて家康を討ち取る
と言うシナリオだが、この策に現実性帯させるには、秀頼を茶臼山まで出陣させ、
徳川諸隊を吊り上げ、浅野を寝返らせて明石隊と共に奇襲することが
必要だったと思う。信繁は長く紀州九度山に居住していたので、浅野と
気脈通じていた可能性なかったとは言えないと思う。

67 :
馬鹿だな。保身のために徳川家に対して忠誠を誓うんだよ。
これだけ尽くしましたよっていうスタンスを見せることが大事なの。

68 :
単純に考えれば寝返ったりしたら領国の周辺諸将にがら空きの領土攻め込まれるしねぇ
下手に戦わなかったりしたら幕府から咎められて改易になるかもだし
例え戦況が不利でも寝返る奴戦わない奴なんかいんのか
大阪城周辺以外全部幕府側だぞ 忠誠だの戦況以前に幕府にマイナス行為をする利益がない
秀忠家康が二人死んだら話は別だけどさぁ

69 :
>>65
戦国大名は利害以外では動かない、その点は幕末よりもっと徹底してる
一歩間違えれば一族滅亡が現実に起こっていた時代。忠節心など持ち合わせてない。

70 :
>>68
この時代の戦では、戦況が不利になれば寝返る武将履いて捨てるほどいたよ。
家康が討ち死にすれば幕府が存続するか否か不透明。
秀忠は無類の戦下手、徳川譜代衆、旗本は合わせて五万くらいは居たようだが
真田隊5500、毛利隊6500、大野治房の別働隊1500に引っ掻き回され
敗退重ねる弱兵、戦国武将はその点を良く見てるよ。

71 :
>>69
それはそうだな
そうするとだ家康を討ち取ろうが秀頼が出陣しようが寝返る奴は出よう筈も無い
滅亡寸前の豊臣に付き危ない橋を渡るより家康が死んでも揺るぎそうもない強大な徳川家に尽くし政権内の地位を高めた方が安全だしな

72 :
翻弄は出来ても撃破出来ないのが豊臣の限界だわな
仮に家康を討ててもその時点でほぼ無力化する部隊の方が多いし
ヘッド家康を失っても副ヘッド秀忠が無事で翻弄されててもまだまだ元気で数の居る徳川と疲れはて数も少ない豊臣どっちに付いたら得かなんて子供にも分かる

73 :
家康が死んだ後、秀吉没後の家康が台頭したようなことがあったか?
江戸幕府に抵抗した大名がいたか?いなかっただろ。
よって、夏の陣で家康が討ち取られようと普通に秀忠に従うわな

74 :
家康が死んで外様大名に多少同様が走ったとして、本多正信や土井利勝といった
幕閣の政治外交手腕に対抗できる人物が豊臣家には皆無。
真珠湾で米国海軍に大打撃を与えた旧日本軍が、最後にはアメリカに
物量や政治力で押し切られたのと同じように、豊臣家が最終的に敗北する
結末が目に見えてる。

75 :
>>70
別に大御所が死んだって将軍健在なら不安定にはならなくないか?
将軍あっての幕府だけど大御所は別に必要ないし
仮に頭おかしい奴が一人寝返ったらそいつの国元に周りの幕府の諸将が攻め込むでしょ
国元が落とされたら付き従う兵士は霧散するしどうすんの

76 :
>>66
あの番組は酷かったね
知らない人は見てて全く流れが分からないだろう
浅野と言っても監視の役人がいただけで大名自体は直接接触してないでしょ

77 :
>>76
浅野は信繁が紀州九度山脱出するのを黙認してたようだが。信繁、昌幸
幸長は旧知の間柄だし、浅野長晟や浅野家重臣と接触はしてたろう。

78 :
浅野が寝返るメリットがないな
家康秀忠の二人を討ち取った後ならまだしも二人が健在な状況でそんな日本全部を敵に廻すような危険すぎる賭をやるとは思えない
結局オタクさんの言うような事は家康秀忠両方を討ち取らないと無理でしょう
例え秀忠が戦場では無能でも将軍という立場がある限り諸将はそう簡単に離反しない

79 :
http://auction.mobile.yahoo.co.jp/p/auction/userinfo/view?userID=yukimidaifuku73&ySiD=ARuKTFm7HG6qQd9MsnOr&guid=ON

80 :
天王寺口の家康本陣が毛利、真田に蹂躙されるのを傍観してた黒田と加藤が
「あれは誰かな?」「あれは毛利勝永だよ」とか見物してたエピソードは笑うな
こんな戦で無理に兵力失う気は全くないってのがよく出てて

81 :
>>80
傍観はしていません、しっかり戦っています
取りあえず『大日本史料』を読んでみたらいかがでしょうか
まぁ2、3日は余裕で潰れますが

82 :
将軍しの汚名だけは被りたくない

83 :
>>80
黒田と加藤は秀忠隊二万三千が大野治房別働隊千四百に切りたてられたのを
みて、しょうがねーなって感じで秀忠救援に向かったんだよ。百戦錬磨の黒田長政
加藤嘉明あたりは何こいつらって思ったでしょうな。山っ気あったら秀忠ぶっしてたろうね。

84 :
どっちも関ヶ原での徳川軍のポカを見てるからああまたか程度にしか思ってなかったと思うぜ
もっとも山っ気があったろう政宗すら密かに真田の子女を匿う程度しかしなかったんだしその二人が寝返るなんてまず無いわな

85 :
>>84
徳川って1584年の小牧長久手以後30年間まともな戦闘経験無し。一方
豊臣浪人衆は朝鮮の役、関ヶ原で戦闘経験豊富、まともに戦闘やれば勝負にならない。
加藤、黒田、伊達の助勢でなんとか勝てただけ。外様がそっぽむけば逃げ回るしか
能ないポンコツ兵団。

86 :
>>84
秀頼が七手組率いて家康本陣に殴りこみかけてりゃ如何動いたか解らない。
この時点でも徳川、浅野、黒田の主君は秀頼、徳川を誅するのは主君の
命により逆臣を討つで正当性確保でき、なんら精神的抵抗無かっただろう。

87 :
>>85
司馬の受け売りなんだと思うが
小田原攻めでは結構活躍してるし
関ヶ原でも島津と戦っている

88 :
>>86
局地戦で勝ったからと言って大局が変わるとは思えんな
家康秀忠両方が死なない限り幕府は健在で地元が不安になるから寝返るに寝返れないっての
そんぐらい家臣の身を預かる大名ならわかるだろ

89 :
>>87
小田原攻めではまともな戦闘なし。関ヶ原では300名程度の島津隊
をよせばいいのに井伊直政、本多忠勝、松平忠吉三隊で追っかけて、反撃
食らって井伊直政は重傷(後に死亡)、松平忠吉負傷とポンコツぶり丸出し。

90 :
>>88
二万三千もの兵力にも係らず千四百程度の部隊に追っかけまわされるポンコツ兵団
敵に回したって痛くも痒くもないって思ったんじゃない。このポンコツ
に攻められたって落城ありえない、国許の留守部隊で楽勝でしょう。

91 :
>>89
ああ島津は3000で、最初から井伊の旗本と松平忠吉とり合っていますよ

92 :
>>90
そのポンコツの集まりじゃん
何だそのおめでたい思考は 例え国元の城が小田原城より堅固でもそんな安心はできんわw
万に一つ城が落ちたら兵士の家族も皆しになるのにそんなお気楽な思考する奴は流石にいないと思うが

93 :
徳川は関東に移封されて、屈強な三河兵を失った。
侍クラスは変わらないが、兵員は関東兵になり、弱体化した。
また本能寺以降、急激な領土拡大のため、新規召し抱えの侍が増え、
精鋭では無くなってしまった。

94 :
>>86
この時点においても秀頼が徳川の主だとか……。
征夷大将軍就任によって形式的に家康が上位に。
二条城会見によって実質的にも立場が逆転してる。
結局のところ、家康がスタコラ逃げまくって馬印が倒れて、
秀忠本陣も柳生宗矩が刀を抜いて戦わねばならなかったほど混乱しても、
外様大名は誰一人として鉾先を変えようとしなかった。
なぜなら大名達は将軍家に本領安堵を受けており、その御恩に報いるために
参陣しているのだから。将軍家の御恩を放り出して寝返るには、家康と秀忠の
両者が揃って討ち死にするくらいの事態にならないといけないが、
夏の陣の大坂方の力ではまず無理。

95 :
征夷大将軍というのはそれだけ重いということだね
下手に裏切ると朝敵にもなる
外様大名的には家康、秀忠本陣が蹂躙されるのは恩を売るチャンスとしてオイシイ状況だったんだろう
家康が本陣捨てて逃走してるのに崩れずに逆に真田が討ち取られて毛利が撤退してるのがその証拠

96 :
ん?征夷大将軍なんて肩書きはの役にも立たないよ?
歴代の征夷大将軍みりゃわかるじゃん?
鎌倉将軍も室町将軍も大半が実権を取り上げられ、裏切られ、追放され、されてるからな。

97 :
>>96
将軍という存在の権威を過小評価しすぎ。
幼い将軍を擁立しても、その将軍(九条父子や宗尊親王)は成長するにつけて、独自の主従関係を
構築するなどして、執権(得宗)の脅威になりうるような存在になり、そのつど混乱が起こり将軍が
追放されるなどしているけど、結局北条氏は最期まで将軍の存在を必要とし続けていたわけだ。
後年の細川氏、三好氏、それから信長なんかも、将軍の権威や独自性には悩まされ続けたわけで、
「くその役にも立たない」というのはあまりにもイメージありきすぎる

98 :
>>97
ごめん。確かに君の言うとおりだ。
前言撤回するよ。俺が不勉強すぎた。
×の役にも立たない
○の役くらいには立つ可能性は否定できない

99 :
>>97
出来星の将軍家なんて誰も敬意払わない、家康の出自も怪しいし。
外様衆はいやいや従ってただけ。浅野が寝返りってうわさ飛べば全員信じたし。
前田は状況によっちゃ寝返るつもりだったようだし。七手組の進撃あれば
家康も秀忠も首飛んでたろうね。ポンコツ徳川兵団なんて軽蔑の対象
だったんじゃない。

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