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★★★名族 六角氏について語ろう★★★
伊勢の名門―北畠―
【権六】柴田勝家 その2


関ヶ原の戦い


1 :11/11/08 〜 最終レス :11/12/10
石田はもっと武将を揃えるべきだ

2 :
フ━━━( ´_ゝ`)━━━ン!!

3 :
毛利厨の隔離スレか?

4 :
岐阜城陥落を利用して、
大垣城に宇喜多、島津、小西、三成を包囲したと嘘宣伝した福島らの譲歩操作の勝利。
輝元の失敗は安濃津城落城を使った情報操作をやらなかったこと。
これにより諸士に疑心が生まれた。

5 :
井伊と本多から小早川秀秋の家臣の稲葉と平岡が
小早川の本領安堵の書状を貰ったとする9/14付け書状の出典が
関原軍記大成2巻 巻の二十であり著者は宮川忍斎(1655−1716)
これ怪しい。完全に出典不明。
9/12三成→増田書状についても大津包囲戦が和睦になったと言うので
京の北面の某が高次の安否を聞くために飛脚を出した際
三成が大垣へ遣わす飛脚を捕らえて懐にあった三成→大坂宛て書状を
奪取して家康に出したから褒美が出たと言うのは本当の話だろうか。
大垣にいた三成が大垣へ大坂への書状を出すのは意味不明だし
では三成はどこにいた?って話だし
京から大津へ向けて出発した飛脚がそれを捕まえるのもおかしい。
そもそも書状内容が超トップシークレットだから
そんな重要な内容は普通に考えて使者が口頭で伝えるだろ?レベル。
内容的にも普通こんなに自軍の弱さ、弱点ばっか書き連ねるかね?という異質な長文。
つかこんな詳細かつ三成の心情付きの書状は関が原期間に一切書いてないし。
しかもこれ原書状が無いし堂考えてもニセモノだろ(古今消息集に写しが記載されてるだけ)

6 :
>>5
三成が重要機密をベラベラと書状に載せるのは真田や上杉に残されている書状からも明らか
というか秀吉自身が行っている豊臣家全体の悪癖

7 :
大津で敵味方が戦ってたわけだし
簡単にやられる一介の飛脚に持たせるとかあり得ないな。
つか秀秋のWikipediaに書いてある
長政と浅野幸長連名書状の
われわれは北政所の為に戦ってるとする書状と
三成らが秀秋に関白職と上方二か国加増約束する書状って
本当にあるの?一切それらしい内容のもんを見たことないんだけど。

8 :
>>7
「慶長右平記」という書物には
北面の某が大津へ向う途中、石田の飛脚を捕らえたとある
また、それ以前にも石田の密書を捕らえたことが福島・池田の書状で確認できる
石田はこの手の情報管理がザルな証拠
前者は知らないけど、後者は関原始末記にある

9 :
福島と池田の書状内容教えて

10 :
>>9
九月一日の書状で正確には家康が池田・福島に出した返書
そこには「廿七日之書状、并治部少内状、今日於神奈川被見候」とある

11 :
それは密書を奪ったとは言え無いのでは?
三成が書状を出した相手が、
身の潔白のために封をきらずに池田に譲渡したとか。
それに三成が福島の調略やってたから、
身の潔白から福島本人が書状をもらってた可能性あるし。

12 :
>>11
27日は岐阜城を落とした東軍が赤坂に集結した時期だから、その前後に三成が調略する余裕はないと思う
また、その辺の混乱を突かれて書状が奪われた可能性は高い

13 :
後、大日本史料稿文の慶長5年8月26日の状に
「是より先、東軍、美濃赤坂に進み、同國大垣城に逼る、是日、石田三成等、使を大坂に遣して、毛利輝元の來援を請ふ、使者、東軍に捕へらる、」

14 :
ちょうど犬山城のやつらや東美濃の国人達が三成から離反した時期じゃないか?
美濃書状を三成から離反した者が福島に帰順した際に渡した可能性を排除出来ない。

15 :
>>14
その辺の家康返書は九月三日以降に内応した相手に直接出されている

16 :
それどうなんだろ。
義演准后日記の26日は
三成が大垣から佐和山にいったん帰った日なんだよ。
だから佐和山から大坂に書状を出すなら
福島らが手に入れるのは難しいことになる。

17 :
8/26書状パクリ
大日本史料
石田三成等使ヲ大坂ニ遣ハシテ毛利輝元ノ来援ヲ乞フ使者東軍ノ為メニ獲ラル
これ覚書に書いてあるみたいね。覚書は二次史料以下だから・・・信憑性ないでしょ。
9/12三成→増田書状
大日本史料
叛将ノ質を誅セントシ愁憑ス書東軍ノ為メニ獲ラレテ達セス
書状を誰が所持してたのかもわからん古今消息集に写しが書かれてる該当書状が
東軍にパクられたとする記事を書く
關ケ原軍記大成の元々のネタ元は武徳安民記に記してあるようだが・・・
よくわからんけど「山科のあたりで14日の暁の同夜中に捕らえて神君に渡した」と書いてるな。
こりゃあガチで捏造っぽい100%眉唾レベル。
古今消息集もガセ書状っぽいし、パクられた話も1700年代に書かれてるから怪しい。
武徳安民記に至っては著者の木村高敦(毅斎1680〜1742没)より
關ケ原軍記大成の宮川忍斎(1655−1716没)の方がはるかに年上だなぁ。
ひょっとしてパクられネタは林鳳岡・人見友元・木下順庵らが編修した
官撰の武徳大成記にも載っている話なのかな?
怪しげなネタ満載の關ケ原軍記大成つながりじゃ、あんまり信用できる話じゃなさそうだ。

18 :
>>17
27日付けの書状と共に三成内状が届いている
後、保科正光書状にも書いていないか
ちなみに稿文にある覚書も書状部分だけだね
疑古派になるのは勝手だけど、明確に偽作と断ずる証拠が無い限り
事実であると認識するべき
怪しいから捏造とするが、その「怪しい」という認識はあくまで
自己の基準によるもの

19 :
稿文が汚い字で書かれた写しなのが弱点だよな。
原本を見て写したとか
写しを見て写したとか
書いてあればまだマシだった。

20 :
そりゃ草稿以前のものだし

21 :
知ってるよ。
だから写真撮れなんて
バカなことは書かなかった。

22 :
武徳安民記や関原軍記大成は
直江状に本来なかった
追而書を付け足す暴挙を
やってのけて加筆してるから全く信用できない捏造軍記。

23 :
古今消息集は直江状比較において
白峰曰く軍記軍学系の影響が見られ
成立が江戸中期以降。
しかし第十条の文中で懼と言う漢字を使用していることが
他の直江状写しに全く類例が無いことから
江戸末期ではと疑っている。

24 :
一部分が駄目だから、全て駄目という考えは編纂書には当てはまらない

25 :
>>5
関原軍記大成で秀秋内通のガセ書状が作られたのは間違いないが、
そもそも秀秋が内通してたとする捏造の元ネタは板坂ト斎記だろう。
家康の侍医の慶長年中板坂ト斎記も事実を改竄してて信憑性がないからね。
慶長元年5月に4歳の秀頼が上洛した際の記述が山科言科日記とまったく違うこと書いてるし。
秀頼上洛で伏見から家康も塗輿で付き従い上洛って言う事実を
京都の宿所から東福寺の門前まで家康と利家が仲良く大声で話ながら馬で迎えに出たと改竄してる。
他にも利家死去すぐの武断派7将の三成襲撃クーデターのメンバーを2人変更改竄してたり。
板坂卜斎のは日記じゃなくて
征夷大将軍徳川家のために後年に一気に書き上げた代物だよ。
だから記述が徳川史観になってる。
前田研究の大家たる岩沢氏も常日頃から家康と昵懇な山科の家族が見誤るわけが無く
家康と利家が馬上で仲良く話ながら秀頼を迎えに出たとする卜斎の記事は虚構だろうと断言してる。
上巻は書き置きからの写し書きで、書き足してる部分は完全にミスジャッジに誘導する歪曲だよ。
明らかに事実を書いたんじゃなくフィルターを通して書いてる。
下巻に至ってはもう日記形式を装うのも放棄して捏造してる。
さらに慶長記も中板坂ト斎記同様に利家と仲良く会話しながら
馬でやってきたとデタラメ吐いて事実化の工作をしてる。
それは加賀藩との関係に配慮して捏造してる証拠。

26 :
>>25
疑古派乙

27 :
>>7
秀秋のWikipediaは要出典を貼り付けた方がいいな!

28 :
Wikiの戦国武将の記述は要出典の宝庫だからな

29 :
subは自分が否定する史料は些細な間違いで全てを否定するが、
自分が持ち出す史料は何の疑いもなく全肯定
あの南宮山で凍死云々に、太平記を根拠に持ってくるぐらいだからwww

30 :
>>29
自演が見事にばれた毛利厨ってやはり恨み辛みで粘着してるんだなー。
太平記の話の時って君が敦賀越えの字句から想像して、
「敦賀は余呉より更に北にあって日本海側」と必死に反論したが、
実際にはまったく場所が違う近江塩津なのを指摘され恥をかいた挙げ句に、
さらに「でも月が違う」と執拗に粘着してきて
長慶宣明暦を提示され、
1600年は閏無しだが、
敦賀越えの歳は閏有りと言われて
連続論破されて完膚無きまでに叩き潰されてたじゃんw
毎回毎回自分がブザマに論破されまくってるから恨み辛みでストーカーになっちゃったんだね。

31 :
別人のツッコミを同一人物認定されてもなぁw
で天狗や魑魅魍魎が出てきて誤記や捏造満載の太平記を妄信するsubが、
卜斎記を信憑性なしと否定しても、普通に信頼性の高い一次史料として使用されるけどねw

32 :
毛利基地外得意技
別人宣言ワロスw

33 :
白峰の古今消息集の直江状批判は面白いな。
現存最古の直江状の写しの
下郷共済会所蔵の直江状が、
あくまで堀との争議についての弁明であり、
古今消息集の直江状は字句改変による家康への挑発を含む挑戦状に歪曲され、
徳川実記に直江状を読んだ家康が無礼だと怒ったと捏造記述がなされた結果、
直江状が会津征伐の原因であり
全部直江が悪いことにされたと指摘してる。
やはり古今消息集は捏造増幅させている悪因となってる。

34 :
>>17
関ヶ原軍記大成の秀秋の記述って完全に妄想だよなw
大谷吉継が関ヶ原の合戦において自害する際、
秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」
と言って切腹しておりこの祟りによって狂乱して死亡。

35 :
小早川の裏切りを読んでた大谷はさすがだな
脇坂らの裏切りまでは見抜けなかったけど

36 :
大谷もついでに寝返っちゃえば良かったのに

37 :
>>35
それを証明する一次史料を出して下さい。

38 :
>>1
むしろ出来過ぎな方だろ
問題は各陣営思惑がバラバラだったってこと

39 :
>>35
読むも何も、松尾山占拠の時点で誰がどうみたって東軍だっつーの

40 :
松尾山は本来、
毛利元康の中国軍が入る予定だったが、
毛利の不手際で大津の挙兵が発生した為に、
代わりに秀秋が入ったに過ぎない。
秀秋が松尾山を占拠した話は後世のデッチ上げで、
一次史料には全く無い。

41 :
まあ関ヶ原はこういう事だわな
・9月14日
家康が赤坂に旗印を立てる→それに呼応した小早川秀秋が松尾山占拠、これにより西軍は後方通路を塞がれる
→大谷隊などは取り敢えず松尾山に対する備えをし西軍中枢のある大垣城に知らせる
→西軍は松尾山の秀秋を排除することが直近の課題となる→深夜、秘密裏に関ヶ原に移動を開始
→東軍それを察知し追尾を始める
・9月15日
西軍、松尾山攻撃前に東軍に追われていることを知り、東軍を迎撃する形を取る
→朝10時頃開戦、正午ごろ西軍崩壊(家康書状や島津の武士などの覚書による)
とまあ、松尾山城をめぐる戦国時代に典型的な後ろ巻きの合戦だな。

42 :
>>41
なにその東照大権現神君家康公の神算鬼謀スゲー徳川ー史観丸出し文章www
家康は神だからすべてお見通しで、
会津征伐に出発した時点でこの結果はわかっていたと言うふざけた史観じゃんワロタ

43 :
>>42
情報がザルで盲人の西軍相手ならそうなるわな

44 :
>>42
シンサンキボウ?
単純に申し合わせって言うんじゃないの?
史実扱いでの有名どころでも吉川広家は内通してるし、脇阪某だって内通してる。
相当量のリークが有ったと判断すべきじゃね

45 :
>>41
察知するのあまりにも遅すぎだから家康が三成を誘い出したというのはないな。

46 :
小早川の本領安堵の書状を貰ったとする
9/14付け書状の出典が
関原軍記大成にしか無いのなら
秀秋が以前から内通してたとする前提は完全に崩壊するな。
幕府捏造史観の公式では下記のように
極めて政治的な玉虫色の有耶無耶決着を図られてるし
「直江と安国寺と小西と三成が全部悪いから景勝の罪は問わない」
「毛利も三成に騙されただけだから輝元の罪は問わない」
「秀秋は最初から家康に味方だった」
「島津も消極的参加だから罪を問わない」
「佐竹は小山陣前後で表裏したから出羽転封」
「長宗我部の罪は重いので改易」
やはり稲葉正成が秀秋を神君に内通させたと主張する捏造で
家光の母の春日局(正成の妻)の権威付けをしたんだろうね。

47 :
>>45
家康としては大垣城を出てくれればそれで充分という認識

48 :
家康は福島らが裏切るかもと疑心暗鬼で江戸城に引きこもりやってたら、
福島らが毛利が攻勢をかける伊勢戦線への援軍要請を無視して
三成憎しで岐阜城を落として三成のいる大垣へ進軍した挙句に
家康に「三成を大垣に閉じ込めたwww」ってウソ書状を出したから
家康は騙されて「水攻めで三成を降伏させるから。お前らストップ!!!」って
自分がいない間に三成捕縛して終わっちまうと困るわって急いで西上しただけの話だけどな。

49 :
長曾我部の重罪って何よ?

50 :
>>17
覚え書きは捏造の温床だから参考資料にすらならない。

51 :
一次史料信者は歴史を少々知った人間が陥る典型的な病
それ自体は麻疹の様なものだが、拗らせると自分の考えを通す為に
都合の悪い史料全否定に陥る

52 :
三成憎し。
もうそういう講談的な根拠はやめようよ。

53 :
佐和山は捨てて大阪城に籠城して長期決戦するべきだったと思うな
短期決戦では足並み揃わない西軍じゃ家康倒すの不可能だろう
事実、裏切り続出だし
長期決戦にしてれば、上杉、真田ももっと活躍出来て面白くなった

54 :
問題は関ヶ原敗戦で諦めた事じゃないの?
小早川秀秋より毛利が悪いよ、
輝元が大坂城に篭り、
伊勢に軍がいる時点で負けじゃない。
大坂攻められたら、
伊勢の軍で横腹つけるじゃん
長期戦になった時に、
毛利の領地に危険あったけ?

55 :
>>54
黒田官兵衛の軍が九州制圧して毛利の領地に攻め込むと思うわ

56 :
>>53
長期化したら、普通なら足並みの揃ってない方は、更に乱れる。
長期化したら、それこそ秀頼が裏切りかねない。
>>54
それこそが三成首謀者論を支える事実の一つでもあんじゃね?
三成が敗走して西軍は陣営の維持も出来なかったんだろw
まあ、そんな毛利輝元だから無理に改易する必要が無いって見逃して貰えたんじゃね?

57 :
>>56
短期決戦で一日で敗北よりいいだろう
情けなさ過ぎるわ、関ヶ原の西軍の負けっぷりって
まともに戦ったの宇喜田と石田隊くらいだろ

58 :
家康を暗して欲しかったぜ

59 :
東軍、西軍に安易に分けようよとするから、
いけないと思いませんか?
例えば、イラク戦争の時に、
日本は、アメリカ側でしたが、
毛利のようにイラク本土戦には参加してませんよね。
アメ機に給油はバンバンしてましたけど。
勢力として、
最上、伊達は東軍ではありませんよね。
上杉と真田も別に西軍ではないし、
徳川と恩顧東軍、前田も別、
奉行系、毛利、九州からの軍、
九州の黒田、加藤、島津も別。
それぞれ戦への動機も違うし、
長期戦のグタグタになったら、
また、違う展開があったと思います。
重要なのは毛利が粘る事だけですが…

60 :
>>58
そう思ってた人が多いから、
黒田如水が息子に『ボーっとしやがってカス!お前の空いてた方の手で何で家康のクビ位取ってこんかったボケ!』
と言ったって逸話が残ってんだろw
(まあ、これは裏切りの話だから西軍のグダグダぶりとは無関係だが)

61 :
その如水も本戦勝利の報が届くまでは大友勢との戦で
一杯一杯だったぞ

62 :
福島の暴走に、徳川も石田も振り回されたような感じだな。

63 :
>>62
目付の本多・井伊が上手く押さえ込んでいる

64 :
>>52
七将が三成隠居に追い詰めてるんだから
よっぽど憎かったのは間違いない。
>>53
当初の予定では西軍主力の毛利が伊勢を北上して尾張を衝く予定だった
だから大垣まで出張っていただけの三成なので佐和山云々での戦闘は
福島らの急激な北上による結果。
ただしこうなったのは毛利の責任。
毛利は秀元の家臣と広家の義弟の益田配下がケンカして
軍が遅延したりとダラダラやって降伏勧告しているうちに
下野国小山の家康陣から富田や分部や古田らが戻ってきて
安濃津城の防御を固めつ時間を充分に与えてしまった。
さらに安濃津城落城後に毛利は伊勢を自領化する野心で
増田とトラブル起こして尾張の入り口にあたる長島城への進軍が遅れた。
結局、毛利は長島城への押さえの陣を鍋島に任せて関が原へ移動。
>>54
毛利は美濃へ戻らずに長島城攻めをして尾張を圧迫した方が良かったかもね。
実際、小牧長久手の時の秀吉は、伊賀・伊勢南方を奪いとって信雄を降伏に追い込んで
家康から切り離して家康の屈服を謀ってるからね。
福島の所領の尾張を奪ってしまえば武断派の影響力は低下するし
東海道は秀吉恩顧でかつ、武断派に所属してない大名も多いから揺さぶりをかけられるし。
このくらいの決意と動きを示して見せねば上杉や佐竹も大きく動いてくれないだろう。
そうしておいて福島らを引きつけて三成らには引き続き大垣で籠城する態勢を整えて粘るのも一策。
西軍として蜂須賀隊もすでに近江まで着ていたし。
>>55
制海権を支配してる毛利領へ黒田が渡海するには
村上水軍を撃破する手段が必要だが難しいだろう。毛利は小倉や門司も森氏から接収して軍を入れてるし
毛利の伊予侵攻などもそうだが、基本的に毛利の動きを海上で阻止することは不可能だったし。
>>56
輝元が大事な時にヘタレて保身に走ったからだろ。
増田と輝元は三成と安国寺に全責任を押し付けて、罪科逃れに大坂城を譲渡したが
大坂を受け取った家康は輝元を許さず断罪した(広家が毛利を救った話は偽文書)
しかし島津征伐が議題にあがったから減封で済ますことになっただけ。
>>61
そのとおり。黒田は関が原敗報を使って西軍諸城を開城させていっただけ。
>>63
例えば?

65 :
>>64
岐阜先陣の調停とか

66 :
美濃侵攻の渡河で
先陣抜け駆けが起きてる時点で、
完全に目付頑張り無視でダメじゃん。

67 :
>>66
相手が攻撃したから応戦は当然でしょ

68 :
>>67
そんな事実無いでしょ。
一次史料出して。

69 :
>>68
抜け駆けで一触即発になったと言う一次史料も存在しないはず

70 :
井伊「岐阜では孤独に耐えながらエア調停しました」

71 :
>>70
家康『例えエアでも、調停はしたのか?』
榊原他『俺達が、着く前にケリ付ける気だったんだろ?』

72 :
>>16
やはり覚書なんて捏造の温床なんだよ。
義演准后日記の方が正しいに決まってる。

73 :
>>72
義演が26日の日付に「三成が佐和山に戻った云々」とあるのは26日にそういう話を聞いたという事で、
実際はそれより前に入城していたんじゃない
ちなみに同日に岐阜城落城の雑説を耳にしている(23日)

74 :
23日に三成らは川での対陣を諦め大垣城籠城のために退却してる。
26日以前に佐和山に三成が戻って佐和山城の守備を固めているなら
なおさら福島らが佐和山→大坂宛て書状を盗むのは地理的に不可能じゃん。
なんせ大津城が西軍と手切れになったのは9/3だもん。

75 :
>>74
23日に呂久川から大垣に戻り、同日から26日以前の間に佐和山に出向き、26日までに大垣に戻ったということ

76 :
26日大垣に戻ったとする根拠は?

77 :
正確には26日までに
「慶長5年8月27日 石田三成・小西行長等、美濃顯性寺に禁制を下す」
とあるのでこの時には大垣にいたことになる
そうなると前日までには大垣に帰っていると思う

78 :
普通に考えて26日に移動してたなら出発前に佐和山から大坂に書状を出してるだろ。
だから大坂に書状出すなら27日に大垣から改めて出すだろ。
そもそも27日に佐和山から大垣に戻った可能性もあるわけで。

79 :
>>78
実際には24日か25日に佐和山から大垣に戻った事になる
恐らくは23日に呂久川から大垣に戻って直ぐ佐和山に行ったのであろう
9月12日の増田宛三成文書から輝元出馬要請は届いているので、佐和山で
一回出して、その後に催促として大垣で出した二回目の書状が捕らえたかと

80 :
>>79
そんな1日か2日しか佐和山にいなかったとか非現実的じゃね?
それじゃ東軍が佐和山を襲う可能性を考慮して
備えを固める時間的いとまがないじゃん。
つうかそもそも覚書なんて後から書かれた
いくらでも捏造できる書留めを信用して
パクられた書状と決め付けてるのかが理解できない。
三成から離反した者から渡されたものかも知れんのに。
「廿七日之書状、并治部少内状、今日於神奈川被見候」
この書状に対応して後世に書かれた覚え書きだろ。
この書状自体は昔どっかで読んだことがあるから知ってたが
改めて読んでみようとしたら、ぜんぜんどこにあったかわからん。
この書状が収録されてるのってどこだっけ?

81 :
>>80
佐和山に戻った理由が佐和山を固めるためという根拠はない
例えば、佐和山にいる兵を大垣に出すためとも考えられる
後、「覚書に採録されている文書は信用できない」なんてなったら、
歴史学なんて碌に語れなくなるのだが、そこん所理解している?
中村不能斉採集文書

82 :
>>81
あれ?たしか綱文だか注意書きだか覚えてないけど
佐和山に帰った理由を守りを固めるためと書いてなかったっけ?
覚書を信じる前提なら、当然にそれも考慮しないとならないと
思ってそう書いたんだけど。
正直、覚え書きを信用すると
松川の戦いにおける佐藤次兵衛功名覚とか木村宇右衛門覚書とかの
両陣営それぞれの主張を全部鵜呑みにしろと言ってるようなもんで
関が原支戦ですら収集がつかず
ましてや膨大な覚書が後世にそれぞれの立場で書かれている
関が原などはかなりの史実歪曲を肯定することになる。
覚え書き書いた者勝ちとなると勝者の論理にしかならない。

83 :
>>82
「按ずるに」つまり稿文を編纂した人物の考えに過ぎない
そういう相反する内容ならどちらが正しいかの批評ができる
では、貴方が言う所の「覚書の文書は偽作」とする根拠の史料は何か

84 :
つまり覚え書きも「按ずるに」で書いてるのと変わらない。
しかも自分の立場や陣営擁護やその後の歴史を知ってる者が書いてる。
しかもいつ、どこで、誰が書いていて
どういう由緒で誰の手に渡っていたのが収集されたのか
わからないものが多数。
武田家に関する戦国期の書状や覚え書きなんて捏造の宝庫だぞ。
みんな仕官に役立つから製造されてる。

85 :
>>84
で、三成書状を奪ったとする覚書内の書状を否定する史料は何?
覚書だから意味はないは聞き飽きたので

86 :
覚え書きは一次史料じゃないから信用に値しない。

87 :
>>86
あなたは歴史研究というものを根底から勘違いしている

88 :
そんな出所不明の覚え書きを盲信する方がおかしいわ。

89 :
一次史料のみで歴史を知ることができると考えるほど、お目出たい脳みそは持っていないので
例えば、合戦の経過を一次史料のみで組み立てることなど不可能

90 :
合戦の経過なんて正答は「ほとんどわからない」に決まってるだろ。
誰が合戦の詳述ができると宣言したんだ?

91 :
>>90
できないで済ますか、二次も用いて考察するか

92 :
二次を用いた時点で糞駄文

93 :
じゃあ歴史学者は全て糞駄文の論文を書いていることになるな

94 :
お前ら仲よすぎるだろうwwwwww
よくそう飽きもせず二人楽しくおしゃべりしてんだよ。羨ましいぞこの野郎www

95 :
まぁ二次史料を用いたら
筆者の好みや贔屓を確実に反映させてしまうからねぇ。
中立性が保たれない。

96 :
>>95
そりゃ、一次史料も同じ
記録者の好みや贔屓が入る

97 :
バッカ
それが一次史料って言うんだよ。
その当時の人がどう考え、そう反応したかが読み取れる。
お前いろいろと混同しすぎ。

98 :
>>97
それだけじゃ不足するから二次史料が使われるわけ
馬鹿みたいに二次史料否定すれば自分カッコイイと勘違いしている奴がいる訳だ
研究者も二次史料使いまくっていると言ったら逃げたけど

99 :
>>98
1人で軍記読みながらオナってろよ…

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