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2011年10月1期セピア――昔、ぼくが住んでいた家――
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――昔、ぼくが住んでいた家――
- 1 :03/10/16 〜 最終レス :11/11/04
- 先日、十数年ぶりに私が子供の頃住んでいた家に立ち寄る機会があった。
見知った町並みは、わずかに変化していたものの、
記憶の中のそれと大きく変わる事は無く、
別段迷う事も無く、私は進んだ。
その場所に近づくにつれ、足は自然とその歩みを速める。
最後の角を曲がり、あの小路へと入った。
そこには、見知らぬ小奇麗な家があり、
中から、楽しげな笑い声が静かに漏れ聞こえていた。
- 2 :
- 2
- 3 :
- 俺が昔住んでた家は藁葺き屋根のボロ屋だった。
- 4 :
- (´・ω・`)ションボリなスレですね
- 5 :
- 奥の細道・冒頭の句ってなんだったけ?
- 6 :
- 百代の
- 7 :
- 小学校から帰るときは一番安全な普通の道を通って帰ってきなさいと言われていた。
けどやっぱり好奇心旺盛な時期だったので、色んな道を通って帰ってた。
玄関を入るとおばあちゃんが仁王立ち。
うおーこえぇ〜と思いつつ、普通の道かえって来ましたとう嘘をつく。
でも嘘だと見抜かれて怒られてた。
違う道から帰るときは決まっておばあちゃんが玄関で仁王立ちしてた。
なんでわかるんだーって、エスパー扱いしてたなー。
今でもいけないことをしたとき
玄関開けるとおばあちゃんが仁王立ちしてそうで怖くなる。
一人暮らしだからそんなわけはないんだけど。
明日帰ったら
玄関に立って待っといてくれないかな。
そして思いっきり叱ってくれないかな。あーなつかしい。早く帰りたいなー。
- 8 :
- 親友が引っ越した後、彼の住んでいた家が外装そのままで焼肉屋になった時は複雑な気持ちになった。(´・ω・`)
- 9 :
- 私が6歳の頃に祖父が破産し、大きな家を出された。
今はどこかの会社の寮かゲストハウスのようなものになっているそうだ。
3年ほど前に偶然そこを通りかかった。
記憶にあるよりも庭の木々が大きくなっていて、歳月を感じた。
- 10 :
- 僕の生まれた家は。。。解体されて今はもうない
次に住んだ家は。。。。やはり解体されて今はない
今住んでいる家は。。。ある意味家庭が解体されている
つらい
- 11 :
- >>10
元気出せ
- 12 :
- オイラが消防の頃は日〇の社宅住まい
転勤で越してからもう30年以上経つ
日〇の座間工場閉鎖であの社宅もどうなったのやら・・・
社宅の裏の林には防空壕があった
奥には日大の乗馬クラブがあった
どうなったんかなぁ・・・
- 13 :
- 公団住宅ですた
- 14 :
- 大阪市の南のほう、四つ橋線沿線の、戦前からの小さな商店街に家があった
親の転勤で3歳で海外に引っ越し、6歳の夏戻ってきて、その1ヵ月後に新しい家を買い
二度と戻らなかった
1ヶ月の間だけ、その町の小学校に通った
給食も制服もない日本人学校から大阪の小学校。カルチャーショックだった
商店街は長く大きく、風呂屋、本屋、米屋、みんな知り合いだった
しょっちゅうどこかのおばさんと話をしてた
向かいのクリーニング屋の上級生と野球をした
給食の食べ方を教えてくれた女の子の家に誘われた。文化住宅だった。近くの公園へ自転車で遊びに行った
家は祖母が経営する下着屋で、薄暗い店内にガラスケースが並んでいた
お客さんが来たところは覚えていない
二階にはおばの一家が住み母とは仲が悪かった
祖母はその後も店のある家に残っていたが、2年後手放してうちに越してきた
あの町に戻る機会はもうなかった
最近、用事で近くに行き、時間があったので発作的にその町に行った
2時間で来れたのに、20年間一度も来なかった
商店街はまだあったが、驚くほど道が狭かった。小さい頃だったので大通りだと思ってた
まだやってる店は少し。どこも古ぼけていて暗く、客も人通りも子供の声もなかった
いくつかの家は建て変わり、真新しいマンションに変わってしまっていた
むかしの家の場所には店はなかった。築10年くらいの普通の家が2軒建っていた。
みんなどこに行ってしまったのか、と思った
- 15 :
- 3歳まで住んだアパートの1階部分は893が経営するスナックだった。
おやじさんの腕には派手な入れ墨があった。
錆びた階段の黒い手すりと、おやじの墨が記憶にうっすら残ってる。
- 16 :
- いつも一人で庭の月山に登ったりしていた。
砂利がいっぱいあって、飛び石をはねてとんだ。
- 17 :
- 。・゚・(ノД`)・゚・。何か「思い出に残る食事」スレみたいな予感・・・
- 18 :
- 四国の外れに住んでいた。
かやぶき屋根の平屋。土間あり,練炭コンロあり,農具小屋あり…
ぽっとん便所だったっけ。風呂はもちろん薪で焚いた。
敷地は100坪ほど。ど田舎だったので恐ろしく安かったらしい。
農具小屋では近所のおばあさんが首つって死んでたなんてホラー話あり。
庭にはヤマモモ,グミ,金柑に枇杷。真っ赤なグミ,甘ーい枇杷,取りまくって
ジャムにしてもらったヤマモモ(サイコーにウマい)…
すぐ裏は山。山中駆け回り,どんぐりを拾い,椎の実は炒っておやつに,
そういや栗も取った。なんだか何でもあったような気がする。
つい先日,親父が旅行がてら見てきたらしい。家は朽ち果てて押しつぶされ,
庭も荒れ放題…
話を聞いていたら涙があふれてきた。
思い出とともに山に帰ったらしい。
- 19 :
- 近所の畑のあぜ道の突き当たりにはえてたグミとクワの実は
木に登ってよく食べたなあ。
柿の木は折れやすいから登なって親によく言われた。
祖父母の家を改築した時に枇杷の木を3本切り倒してしまって惜しいと思った。
- 20 :
- 大好きだった公園、新しくなって見る影なくなってた・・・・。
- 21 :
- 教師の両親と、教職員住宅に住んでいた。いくつかの棟が立ち並ぶ団地だった。
そこで隣に住んでいた老教師の夫婦が面倒を見てくれて、遊びに行くと妹と俺に
すいかを切ってくれた。
はじめて女の子と手をつないで帰ったりチューされたり女同士のグループ間の抗争w
に巻き込まれたのもその団地。
親の転任で引っ越して以来行ってないが、現在そこは閉鎖され、住人のいない住宅が
廃墟となって取り壊しもされないまま丘の上に朽ちた姿を晒してるらしい。
元住人としてはなんとも切ない・・・。
- 22 :
- アパートやってた。ウチが管理人室だったから4部屋、他は2部屋×5室
20年近くやってたが取り壊して新しい家を建てた。
ショベルで壊す日は見に行けなかった、、、
- 23 :
- 生まれてから4歳まで住んでいた家に行ってみたとき(これもかなり昔だが)
周囲には色々と新しい建物ができており、家の敷地は荒れ放題で草ボーボー、あばら家みたいになっていた
なんか寂しかった。あの頃よく一緒に遊んでいた子達はいまどうしているだろう?
- 24 :
- もう無いだろうなー、幼稚園の頃住んでた若竹荘。
ふた部屋借りて隣は祖父母が住んでた。
あの頃遊んでくれたお兄さんどうしたかな。
晴れた日は二階の通路から小さな富士山が見えるのが嬉しかったなー
- 25 :
- 小6まで親子6人で住んでた4K風呂無しの借家
自分が小4位までは台所が土間で蛇が出てた
汲み取り便所の間口が大きすぎて危ないからと
お袋がついてきてた そんなほろ苦い思い出の建物も
数年前に解体され今は駐車場に 先日通りがかった時
仕切られた白線で車4台分程しかなかったんだと分かり
涙が出そうになった。
- 26 :
- 今から20年前、小6のとき、一家で夜逃げをして西日本を転々とした。
夜逃げする前に住んでいた、神戸のニュータウンにあった一戸建ての家を思い出すと
泣けてくる。好きだった本もピアノも植木や旅行先のお土産のグラスも、友達も
全部おいてきた。
- 27 :
- >>26 つらいね・・・。
小3まで過ごした大阪の下町を最近見に行きました。
渡ったらいけない!と言われたロータリーを通って
『ゼッタイにみつからない』と自慢だったかくれんぼの公園へ。
・・・なんだよ。大人の目線でまるみえじゃん。
探すふりしてくれてありがとう。母さん。
- 28 :
- 最近、昔住んでたマンションの近くで働くようになったので、会社の行き帰りに
よく我が家のあった部屋を探します。
しかし街も変わったもんだな。10年ほど見ないうちにマンションや駐車場だらけで
セピアな思ひ出を灰色の日常で上書きする毎日です。
- 29 :
- ガキの頃横浜のはずれに住んでいた
国道246号線沿いのしょぼいマンション 賃貸だったのでマンションの住人はウチも含めてほぼ地方出身者
北海道から九州まで
色んな人が住んでたなー たまたま親同士の出身地が同じで俺と学年が同じだったヤツがいてそいつとよく遊んだっけな、アイツ元気かな
部屋がまたすげー狭いの何の リビングに二人分の学習机 しかも台所にトイレがあって親父が気張ってる
音を聞きながら朝飯を喰らう毎日、夜寝るときは家族で雑魚寝 家にベットのあるヤツがうらやましかった。
ウチの上空を爆音で飛んでく厚木基地の米軍機、近所に
墜落したこともあったとか、ベランダの外に広がる無機質な社宅群、どこかの家のピアノの音、西側の窓からみた大きな夕焼け 天気のいい日は
富士山も見えた。 エアコンもない熱帯夜 窓全開で家族で川の字になって寝たあの日の自動車の騒音と排気ガスの鼻をツンとさす匂い・・・・
親父の転勤で引っ越して随分経ったが今は一体どうなってることやら。
- 30 :
- おれは厨房のころ、ばあちゃんちに居候してた。家庭の事情ってやつ。
昼間でも薄暗かったけど、でもどこか懐かしい感じのすごく良い家だった。
夏は冷たい廊下が気持ち良かった。
おれがいた部屋は2階の一番奥でほんとに狭かったけど当時の夢で一杯の部屋だった。
もう今はない。
更地になったのを見るのが辛くて一度も行ったことはなかった。
今はどうなってるんだろうな。
あの頃が一番楽しかったな。
女の子が柔らかくてすぐ泣いちゃうのを知ったのも
煙草を吸い始めたのも、みーんなあの頃のことだ。
たった一人で夕方のテレビ見たりして寂しかったけど懐かしいな。
たまには墓参りに帰ろうかな。
そう思ってまた1年とか過ぎちゃうんだろうな。
- 31 :
- 劇的リフォームを見てると、
何だか無性に腹が立ってくる。
不便な家は、そこに文化を産む。思い出を産む。
起伏のない家には、物語は生まれないし、
光だらけの家では、感情を育まない。
- 32 :
- ↑それよかあの予算でこんな改築できるわけねーだろと小一時間
- 33 :
- 嫁姑問題で一時期団地に住んでたことがあった。
小さい頃の事なので良く覚えてはいないんだけど、
狭い一間に家族4人で住んでたっけ。
結局実家に戻ったけど、
母ちゃん、何度も俺を連れて家出しようとしたっけ。
でも、今ではちゃんと仏壇に手を合わせてる母ちゃんは偉いと思う。
- 34 :
- 埼玉の北のほうに10年間住んでいた。転校するとき「手紙送るからな」
と言いあった友人たちとも疎遠になり、ついに11年が過ぎた。東京の
大学に入った自分は、ついにこの間、意を決してかつての友人たちと会っ
てみようと決めた。
その町並みは11年を経ても、ほとんど変わってはいなかった。変わった
のは自分の感覚だった。「こんな狭い町が自分の全世界だったのか」とい
う驚きが胸に去来した。そして、友人の家が、あった。逡巡した後に呼び鈴
を押してみる。友人が出てきた。「‥‥」一瞬のうちに、誰が来たかを理解
してくれた。その友人が別の友人を呼び、何人もが再会を祝ってくれた。
こんな経験ができる自分は本当に幸運なのだと思う。
- 35 :
- >こんな狭い町が自分の全世界だったのか
非常によく解る…
- 36 :
- 電車の窓から 見える赤い屋根は
小さい頃僕が 住んでたあの家
庭に埋めた柿の種 大きくなったかな
クレヨンの落書きは まだ壁にあるかな
今はどんな人が 住んでるあの家
背伸びしてみても ある日赤い屋根は
隠れてしまったよ ビルの裏側に
いつかいつか僕だって 大人になるけど
秘密だった近道 原っぱはあるかな
ずっと心の中 赤い屋根の家
NHK教育の「ふえはうたう」内の歌「赤い屋根の家」です。
何かこのスレの雰囲気にぴったりだったので。
最初は、小さなオフィスビルの最上階に住んでいたのですが、
引っ越したあと、ある日突然どピンクに塗られていてびっくりしたことがありました。
3階のおばちゃん元気かなー。
- 37 :
- そして今、はるかに広い世界を知ったはずの自分も、
相変わらず小さなことで悩んでいる‥飛躍のときは
いつ来るだろうか。
- 38 :
- 幼稚園まで住んでた家、取り壊して林になったと思ってたのだが
久々に見に行ったら土台と玄関がまだ残っていた。
雑草の中に、見覚えのあるタイルの風呂桶もあった。
敷地がすごく小さく感じた。
- 39 :
- 階段上りきったところの横手に屋根裏みたい空間があって真っ暗だった(けっこう奥行きありそう)
10年近く住んでいたけど怖くてそこに入っていったことがないなー
よくかくれんぼとか家の中でやってたけど、ふとんが入った押入れの中ばっかに隠れてた
- 40 :
- 炭坑の住宅、炭住で育った。東北の炭坑の町。
小4の時、閉山。一気に人が減った。
貧乏ってわからなかったが、外へ出てうちのレベルが痛いほどわかった。
本当に小さな家だった。そこに家族6人、じいさんの入院費用が払えなくて
親戚に借金、借金を返すのがやっとの生活で父親も母親も必死だったのだろう。
わたしは子供の時の記憶がどうしても思い出せない。思い出したくないらしい。
家族で旅行とか楽しかったことなど何もなかった。どん底の生活だった。
でも、必死 生きるのに必死 脱出するのに必死だった。
去年の秋に親父、今年の夏に母親を送った。
独りになっちまったなぁ と感じた。
炭住跡地に行った。
ただ、草が茂る空き地が広がっていた。
生活に追われていた親父とお袋に涙が止まらなかった。
- 41 :
- 切ないスレだね… (´・ω・`)ショボーン…
- 42 :
- ボロいアパートに住んでました。
床の畳はふわふわ、台所はコンクリート、狭い部屋に親子4人で一杯一杯。
でもあの頃のほうが心が裕福だった。
- 43 :
- 六畳一間。台所が二畳くらい。トイレはしゃがみ式。お風呂は銭湯へ。
親子3人暮らし。
今、一人で暮らしいてるアパートも六畳一間だけど、
あの頃は今より、部屋が広く感じたものだった。
- 44 :
- >>42
> でもあの頃のほうが心が裕福だった。
ふーむ・・・
- 45 :
- 川崎市多摩区の西三田団地って、30年前から変わってないよな。
- 46 :
- 今度、お正月に実家に帰った時、
昔住んでた所にも寄ってみようかな…。
8年くらい前にちょっと見に行ってみた時には、
周辺も既にボロボロに寂れてたけど。
- 47 :
- このスレのみんながうらやましいような、なんというか
うちは持ち家だがいろいろ事情があってねぇ
築後40年の家に住んでいた、同級生から「ぼろ、ぼろ」ってバカにされて泣いて帰ったこともあった
「なんでうちはぼろなんだ?」って両親に泣いて訴えてたこともあった
小学校5年のとき、家を改築した。土地の関係で古い家を少し壊した
その時の写真を見ると、死んだ爺さんがすっきりしたような、それでいてさびそうな顔をしていた
親父も寂しそうなそれでいて、嬉しそうな顔をしていた。子供の俺にはわからなかったが。
今思えば・・・
戦前は山を持ち、嫡男の爺さんは小学校も通わず商売を勉強し、大学出の弟に破産寸前まで追いつめられた爺さん
戦後、ばあちゃんが死んで自暴自棄になって心臓を壊した爺さんを助けるため、東京の大学を辞めて家を継いだ親父
2人のいろいろな想いがこめられた「ぼろ家」が壊される瞬間の写真だったんだって思う
その「ぼろ家」が壊れて13年。新築の家も12年目。
俺はこの家にどんな思い出を残すんだろうって思うと、ちょっと考え込むこのごろw
- 48 :
- 2004年カレンダー、注文受付中。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~diet/calendar.html
- 49 :
- 親が転勤族だったため、いろんな所をあちこちと
思い出も出来たけど良い思いでは少ない・・・子供ながらに色々考えはあった
どうせまた引っ越しだろ?友達なんていらない!って・・・
一つ印象に残ってる場所、空き地のドラム缶は秘密の隠れ家。
親と喧嘩してそこに行くと同じくらいのトシの女の子が泣いてた。
同じ理由だった、一緒に泣いた・・・
あの子、どうしているだろうか・・
- 50 :
- おまいら、ここ見れ。
ttp://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WF_AirTop.cgi?DT=n&IT=p
マンションが建つ前、みんなで遊んだ空き地。
改築される前の小学校。
そして当時○歳の自分が中にいるであろう自宅。
みんなそのまんまここには残ってるぞ。
やべ、なんか涙が出てきた・・・。
- 51 :
- 自分の人格を高めて「徳」を積まないで、富である金品のみを積もうなどと考えてはなりません。
肝心な徳を失っていては砂上の楼閣となった現象の富は、私たちの生活に豊かさと安心と幸福を
保証するように見えながら、実は様々な心労をもたらすものです。例えば、それは権力を保証する
ように見えながら何時しか嫉妬や羨望と勢力争いとを生じることになります。それは幸福を保証
するように見えながら不幸を招来し、永遠を約束しながら僅かな間にして消え去るのであります。
人格や品性が低く大きな器を得るだけの相応な「徳」の乏しい者が必要以上な「富」を獲得すると
き、富は彼を富ましめるよりも彼を破壊する方向に働くことになるものです。
様々な災難から逃れ幸せを掴むには、何時、如何なる場合も人格や品性、徳の高さが要求される。
この件に関する出典の説明があるHP↓に注目。参考にしよう。危機が近し心して暮らそう。
ttp://www.d7.dion.ne.jp/~tohmatsu/
- 52 :
- ↑NG指定しますた
- 53 :
- 僕の生まれた家は。。。今日解体されました
- 54 :
- ここの30です。
よもぎ饅頭をコンビニで買ったらばあちゃんの家を思い出したんで書きます。
ばあちゃんの家はよもぎの香りだったことを思い出したんです。
それだけです。
懐かしいあの頃。何でだろう。
ひとりでさびしかったし、夕方暗くなってくると不安になったのに。
黄色い電球。高い天井。静かな家。夏の夕方にはセミが鳴いた。
- 55 :
-
- 56 :
- 昔は金持ちだったから立派な家に住んでたなぁ。。旅行も沢山したし、高級外車にも乗ってたっけ。でも、父親の会社が倒産して離婚。それからは母親とマンション住まいに。今も昔には無かった別の幸せはあるけどね。
- 57 :
- 不況だ、なんだと言いながら、今の生活は物質的には豊かになったと思わん?
今の生活で昔に戻ったら結構裕福なほうだよな、なんて思う。
でも、心の豊かさはどうなんだろうね?
- 58 :
- 築60年、土間あり七輪あり火鉢あり井戸あり雨漏りあり、
無論ボットン便所で、夜は鼠が走り回るわ開かずの間があるわ
絵に描いたボロ屋。周りの民家も戦前から建ってるような家ばかりだったが、
区画整理で今は一面まっさらな駐車場になった(しかもこさえたのにガラ空き)。
写真を撮らなかったことが悔やまれてならない。
- 59 :
- イイスレ賞を進呈しよう。cd−rにとっとこう。
- 60 :
- >>50
遅レスだが、ここを教えてくれてありがとう。
- 61 :
- 引っ越して昔住んでいた家が取り壊されて以来すごく後悔しています。
何でもっと写真を撮っておかなかったのか。
最近毎日のようにそこを通り昔の良かった思い出を偲んでます。
どうやらペットロス症候群と同類の症状が出ているようです。
何かいい治療法でもないもんでしょうか。
- 62 :
- >>61
愛欲に溺れる
- 63 :
- 5年に一度は引っ越している私だが、夢の中で帰るのはいつも同じ家。
1歳から12才まで住んだ一軒家で、近くに雑木林があった。
その中をつっきる小道は学校への近道だった。
グミや山桜の実を取って食べたりした楽しい思いでが沢山ある町だった。
今は雑木林はマンションが建ってて、家も新しいのに建て替わっているのに、
夢の中では大人になった今の自分が、あの小道を通ってあの家に帰る。
- 64 :
- わたしもイイスレ賞を進呈
読んで涙流したスレは初めて。
気取らずに書いてる文章って 凄いね
- 65 :
- >>50
漏れの実家のへんはいまのほうが空き地だらけだよ
- 66 :
- おととし、15年ぶりに幼稚園のころ住んでいたアパートを見に行った。
新幹線と特急で4時間、それだけのために。
駅からアパートまで、昔とは違い驚くほど近い。
通った幼稚園は、建物は残っているものの使われていないようだった。
そしてアパートは、取り壊しの工事が始まっていた。いちばん東端の、住んでいた部屋だけがまさにこれから取り壊されるために
残っていた。
前日に突然見に行こうと思いついたのだけれども、アパートが最後に呼んでいたのかな…と思った。
- 67 :
- >>66
泣けるね・・・
- 68 :
- 正月に弟が、兄さんこれ覚えてるかいと出してきたのは
船の舵のようなペンダントだ。
二人とも小学生だった頃、病弱だった母とお祭りの夜店で買って貰った物だ。
おれも、メッキが剥がれガラス玉も数箇所抜け落ちているが、捨てられずずっと持っている。
無くなった母と暮らした家は、無いかもしれないが風景だけでももう一度見たくなった。
近くの母とよく買いに来たパン屋。
いつも買うのは片隅の台に置いてある、茶色の紙袋に入った300円のを一袋だけ。
クリームパン、アンパン、ジャムパン全部中身が、はみだしていたりしている。
こげの強いメロンパン そんなハネ品ばかり一杯入っている。
「おかあさん、いろんなのが入ってる袋まだあったよ!」
ニコニコして持ってくる弟。
店を出て、おれ達に「お店の中で大きな声、出すんじゃないよ」
悲しそうに静かに話す母の言葉の意味が、おれにはなんとなくわかった。
母のいない]マス、二人の貯金箱をはたいて
イチゴが載ったショートケーキを、二つ買って ロウソクも二本つけて下さいって
言ったら、「これは]マスのプレゼントだよ」ってショートケーキより大きな、
板チョコもくれた店のおばさん。
その、パン屋さんも無くなってた、 一言お礼が言いたかった。
- 69 :
- >>50
いいサイトを教えてくれてありがとう
みんな、自分の家を上げてみない?
まあ他人のを見ても面白くないかもしれんが、意外と面白いかもしれないので。
とりあえず言い出しっぺが上げてみる。
ttp://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=CSI-75-5&PCN=C3&IDX=3&PNO=1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29,30,31,32,33,34,35,36
昭和50年10月21日火曜日、漏れが5年生くらいか。平日13時だから、昼休みが終わる頃かな・・・
- 70 :
- 小学6年生まで住んでいたアパート。
8畳ほどが3部屋の続き間で、裏には小さい庭があった。
最近聞いてみると、田舎とはいえ月3万だったらしい。
2階建てで10部屋あった。
東京なら一軒家が10軒は建ちそうな駐車場。学校から帰ると意味もなく外に出ていた。
一緒に小学校行こうねって言ってたけど小学校上がる前に引っ越しちゃったあやちゃん元気かな。
いつも泣かせててごめんね。
落っこちたことのある階段。乗り越えては怒られていたフェンス。
久しぶりに見ると、どれもこれも小さく思えた。
- 71 :
- >>68
泣かせないでくれ・・・仕事中なんだから・・・
- 72 :
- >71さん 泣かないで下さい。
これは、「昔、ぼくが住んでいた家」の楽しかった一人語りなんですから。
パン屋のあった跡を、右に曲がると通った小学校が見えてくる。
この小学校の運動会の朝、父が特製だぞと 朝早くから太巻きを作ってくれた。
弁当のふたの上の「すまん」と書いた紙に目が止まり、開けて見ると
父が、みようみまねで作った、でろでろのチラシ寿司みたいな太巻きに
半熟もいい所の、ゆで卵の黄身が染みていた。
あわてて、弟の所に行ったが 弟は笑いながら級友とすでに食べていた。
多分、上手に出来たのを選んで弟に入れたのだろう。
俺は一人家に戻って、母が好きだった紫色の桔梗が咲く小さな庭を見ながら食べた。
もう三人しか座ることがない、四角いちゃぶ台には
「お帰り、二人とも良く頑張ったね」と、父が書いたメモと
ちょっと黒く痛んだ、バナナが置いてあった。
- 73 :
- さりげなく戻った、午後からの運動会。
それは俺ら兄弟には、一大事な種目があるのだ。
父兄同伴競技、 父は仕事でいない 母は空の上から見ている。
親との二人三脚、弟は担任の先生と力いっぱい走った。
俺は、全校生徒父兄の全面で 一人で思いっきり突っ走ってやろうかと考えていた。
自分達の班が呼ばれて、それぞれの親達も出てきた。
突然、「さあY君、お母さんの分も一緒に頑張って走るよ。」
隣近所の同級生のKさんのお母さんだった。
同級生のお母さんと走るのは、すごく恥ずかしかったけど だけどちょっと・・・。
Kさんはお父さんと走った、ゴールは俺の方が先だったけどKさんのお母さん喜んでた。
娘が負けたのにさ。俺、ちょっと遅く走れば良かったのかなって思ったよ。
- 74 :
- 町に一種の連帯感があったところっていいよね。
うちは引っ越し魔なうえ親が見栄っぱりだったから、
近所付き合い的にはどこに住んでても孤独ということでは一緒だった。
だからこそ、幼少時に一番長く住んで同年代の友達と野山で遊んだ
あの町、あの家に、心はまだ住んだままなのかもしれない。
- 75 :
- >>50
S49年のとS58年の見たけど田んぼと畑と空き地が多かったなあと。
あれだけいた蛍やキリギリスや玉虫やカエルはどこ行ったのか。
今では同じデザインのマンションやアパートや舗装された駐車場だらけ。
こんな変わり方したら人の心もすさむんじゃないかと思った。
古き良き時代にはたしかに地域にいい意味での連帯感があった。
今あるのは悪い意味の個人主義でしかない。
- 76 :
- >>74
私が小学生の頃住んでたところもすごくいい雰囲気の連帯感があった。
町の運動会とかも、負けたって楽しければいいじゃんって感じで。みんなが家族みたいな。
でも隣の地区に引っ越したら、そこはみんな見栄っ張りで意地汚くてすごく戸惑った。
運動会でも、勝つことしか考えてないし、負けたら責められたし、
レクで行ったプールのロッカーの鍵が一個なくなった時、最後までなくした人を探し出してた。
そんなのみんなで割って弁償すればたいしたことないのに・・・
ちょっと隣に行っただけなのにこうも違うのかと思った。
やっぱり環境で人間は変わるね。
- 77 :
- >>73
Kさんのお母さんって
学級会スレに書いてあった川子さんのお母さん?
なんか、しみじみしたな・・あったかいね
- 78 :
- >77さん
そうです、 あっちも見てたんだw
- 79 :
- お父さんじゃなくてお母さんが走ってくれるとこが憎いね
- 80 :
- 映画でこの手のノスタルジーを味わうならシチリアが舞台の「ニューシネマパラダイス」だな。主人公もシブイ
- 81 :
- >>80
イイネ!!
あの雰囲気はまさにセピア
- 82 :
- >>80
俺も好きだ。でも金曜ロードショーだかで放送されたやつは大幅に切られてた。
- 83 :
- 小さい頃住んで居たのはピカピカの白い壁のマンションだった。
だけど先日見に行ったら薄汚れてひび割れたコンクリの壁だった。
建ってから30年以上たってるんだもんなあ。
- 84 :
- 子供の頃に住んでいた社宅は9棟まであって、それとは別に独身
寮もあった。夏にはそこの駐車場で盆踊り大会。
里山のすぐそばなので、夏には灯火にカブトムシが飛んでくる。
近くの畑を借りて野菜を植えて楽しむ人もいた。
工業地域で交代制で働くお父さんたちは時々厳しいがけっこう
頼り甲斐があり、お母さんたちは付設の小さな公園や駐車場で
遊ぶ子供を夕餉の時間に窓から呼んだりしていた。
あの頃が懐かしいです。5階の2DK。ベランダからは小学校が
見下ろせた。春の夜にはカエルの声がうるさかった。
今はその社宅に住む人もずいぶん少なくなり、自分のいた7棟は
数年前に取り壊されました。
帰省した時に見物に行って、携帯で写真を撮って廻りました。
社宅に上っていく坂、使われなくなったバス亭、まだ残っている
いくつかの棟、小さな神社。
集会所の写真を親に見せたら懐かしがっていましたね。
- 85 :
- >>84
読んでオモタこと。
人件費かさんでも人海戦術で雇用があった時代の方が、
経済がまわるから結果として儲かってたんじゃないかと・・
スレちがいな話題なのでsage
- 86 :
- 今社宅はその役目を終えた?のか取り壊されたり、住民が半分位しかいな
かったり、廃墟になってたりしている。
日本の高度成長期には地方から出て来て家賃の安い社宅に住んで貯金できたが、
今地方から来た人は家賃が給料の1/3はするアパートを借りなければならない。
今いるホームレスのほとんどは高度成長期に地方から出稼ぎに来た人だ(首都圏
在住の者は家はあるんだからホームレスにはならない)。
社宅の安い家賃のおかげで貯金して持ち家を得た人は多い。
そう考えると社宅が無かったらもっとホームレスが増えていたのかもしれない。
話は変わるけど、黒○播磨の頑なにまで社宅(一戸建ての物も多数)を取り壊
さない姿勢は神の領域だと思う。人なんてほとんど住んでないのにだ。
周辺は住宅地で駐車場が不足してるにも関わらず広大な敷地の原っぱすらその
ままなのは凄いの一言。駅からも近く土地の値もかなりな場所なのに。
そこ以外の社宅も近くにあるがそこは住民が一人もいないのに(そこもすごく
敷地が広い)社員がまめに手入れまでしている。
- 87 :
- 友達が引っ越す時は、転勤よりもおうちを建てた時の方が多かった。
引っ越した友達とは年賀状のやり取りをしていたがいつしか絶えた。
今でも付き合いがあるのは1人だけ。少し寂しい。
家を建てて社宅から出て行くのがみんなの夢だった。なのに懐かしい。
風呂を焚く時、ハンドルを回して着火した面倒くささまでもが。
嫌なことは多くあったはずだが、思い出すのは楽しかったことばかりだ。
子供だったからなおさらかもしれない。
>>85
社宅全盛期は、おうちを買うためにお金を貯めて貯めて、でも苦しい
やりくりの中からカラーテレビやビデオデッキなど当時の新製品の家電
とかを買ってた時代ですね。1世帯当たりの消費が少なくても、多数が
一斉に購買すれば経済は循環しますね。
>>86
場所によっては社宅を一般向け賃貸にした所もあるようで。それにしても
黒○播磨…すごいですね。気合でしょうか。
- 88 :
- >風呂を焚く時、ハンドルを回して着火した面倒くささまでもが
沸かしたまま放っておくとお湯が沸騰してて風呂の蓋が溶けたりしてたな。
今住んでる家の風呂はボタン一つでお湯張りから設定温度まで全て自動。
かき混ぜるのも自動なのでかき混ぜ棒も捨ててしまった。
>多数が一斉に購買すれば経済は循環しますね
金あってもこれすごく欲しいという物が少ないような気がする。
昔は家にビデオが来たり新しい自転車買って貰った時なんかすごくうれし
かったけど今はそんな気持ちになれない。飽食で物が溢れる世の中じゃ
無理な事かもしれないけど今の子はちょっとかわいそうだと思う。
年金制度も滅茶苦茶だし益々購買意欲が減るのは仕方ない。
- 89 :
- どっか遠く(といっても今だと大したことない位なだけど当時学区外に行く
事は犯罪だった)から帰った後社宅の敷地に入る時の安心感は良かった。
敷地内に自分の世界があった。あの子供にとっては広い空間はかけがえない。
- 90 :
- 社宅や団地だと明確な敷地があるからテリトリーが広い感じがするかもね。
うちは戸建てだったが、高台の中腹にできたすりばち状のくぼ地に建っていたので
その小さなすりばちの中(町内会が一つあるくらいの範囲)が見える坂の入り口まで
くると、帰って来た〜という気になった。
- 91 :
- 2ちゃんねるではじめて泣かされた。
- 92 :
- 俺がガキの頃に住んでいた公団住宅(いわゆる団地)へ久々に
行く機会があった。懐かし〜、このオンボロ公園まだ残ってたのかぁ
とか言いながら近所をうろうろしていて、ふと気がついた。
あれ?ここって、山崎パンの店だったはずじゃ…
呆然と立ち尽くしていた俺に見知らぬオバハンが声をかけてきた
よく見ると、さんざん世話になったHさんだった。
「山崎パン…つぶれちゃったんか?」と訊いてみた。
「もうずいぶん前にここのオバアチャン亡くなってるのよ…」
いつも店番していたバアチャン、上1玉下5玉の旧式ソロバンで
おつりを計算していた。でも、俺の暗算のほうが圧倒的に速かった。
「すごいねえ、将来は学者さんになれるよ」といつも誉めてくれた。
ごめんな、バアチャン。俺…無職だよ。
- 93 :
- >>50のリンクで町検索して、いまも住んでる地域を見つけた。
昭和40年代の活気ある町並みが脳裏に蘇ってきたーよ。(つД`)
じいちゃんの経営する町工場もはっきり写ってた。あの頃は工員さんも
いっぱいいて、いけいけどんどんで景気がよかった。大手にシェアを奪
われて家内制手工業に移行したあと、引退したじいちゃんはあっという
間にボケてしまい、深夜に工場を徘徊するようになった。
ずっと仕事人だったから、職場以外に自分の場所を見出せなかったらし
い。一度すっ転んで、額から血を流しながら泣いていたじいちゃんを見
た時、よくわからないけど悔しくて俺も泣いた。
- 94 :
- 小学生の頃住んでいた家は、東京の山手の下町にある、マンション。
もう18年位前 それでもそこは築20年以上。
4階建ての4階で、エレベータなんてものはついてなかった。
ふうふうと高い階段を、まわりながら上がって、1階につき2部屋ずつの右側の部屋がうち。
3畳ないくらいのキッチン。12畳くらいの居間。6畳の寝室。
安月給の父には大分無理した家賃。
古くて、お風呂場には小さな虫が沢山出てた。カビもたくさん。
でも、隅田川の花火がちいさくみえる、大きな窓がついてた。
トイレも洗面所もせまくて、古作りだなぁというのが小さな私にも
わかった。
でも、東京タワーが見えて、天気の良い日は富士山までみえるこの部屋を
私はとても好きだった。
母のスカートをはき、鏡台のまえでくるくるとお姫様ごっこをしたのも
この頃だ。
学校から歩いて6分くらい。親友の家はお寺で、裏道を嬉しそうにそこまで歩いた。
駄菓子屋さんをおぼえた。坂の多い町で、でも子供だった私には、
しんどいよりも、その坂を上りきって見下ろす、その町が好きだった。
昨年。
東京に勤め始めた私は、真っ先にその町にいってみた。
もう40年近くたっているであろう前の私の家は、
いまだ、そこに健在だった。
白く塗りなおした壁、オートロックになった玄関。
それだけが、月日のたったことを教えてくれた。
すこしほっとして、小学校への道をたどると、、、
そこには、私の通った学校が、幼稚園が、
まったく、違う建物で、建っていた。
すこし、切なくなって泣いた。
アーバンコートの、剥けば剥がれる舗装。
鉄板をはがして夏になると現れるプール。
一周、200mなんてない、グラウンド。
かどぶつけをした花壇。。
なくなるってこういうことなんだな、と思った。
すみません。長文で。駄文でした。失礼しました。
- 95 :
- 都会の学校は建て替え進んじゃうよなぁ。
そういや廃校になった学校が少なからずもある。
家が無くなっても、学校があるから面影残ってるけど、
学校も無くなったらもう面影は全くなくなっちゃうなぁ・・・
- 96 :
- >>93
泣きますた。。・゚・(ノД`)・゚・。
- 97 :
- 小学校三年生まで長屋の団地に住んでいた。
母は父方の両親とうまくいかなくて、
兄が生まれてすぐ父と母が逃げるように引っ越してきた家だった。
お正月は正方形の小さい炬燵に家族四人で縮こまって迎えた。
石油を買えないから、ストーブが使えないわ、隙間風は吹いてるしで
もう本当になんでこんな家に生まれてきたんだろうって
そればっかり考えてた。
庭に面した窓にはいつも家族みんなの靴が並んでいた。
玄関から出入りすることなんて滅多になかった
誕生日に買ってもらったばかりの靴を野良犬に持っていかれてしまって
大泣きしていたら隣のおばちゃんがみかんをくれたことがあった。
父は世話はしない癖に木を植えることや植物の種をまくのが好きで
狭い庭には春、桜とチューリップ、それからたくさんの花が咲いた。
花の名前はひとつひとつ父に教えてもらったはずなのに、今は思い出せない。
母は、「植えたら植えっぱなし、蒔いたら蒔きっぱなし・・・」と呆れ顔で笑っていた。
兄は暖かくなると庭に虫が来ると父を睨んでいた。
私は本当にあの庭の春が本当に好きだった。
あの家はまだあの場所にあるし、見に行こうと思えば行ける距離にある。
でも、もうあの庭はない。
桜の木は切り倒されてしまったし父と母は別れた。
だからあの家にはもう行けない。
お家帰りたいけど帰れない。
帰れないってわかってるけど、私は帰りたい。
あの家に帰りたい。
- 98 :
- 一昨年、実家が立ち退きにあった。
何十年も昔からの市の整備だとかなんとか。
どうみても道作る必要ないだろ?
ここに道とおして交通量ふえるか?
仕事で離れてた俺は荷造りに休みとって帰った。
実家には親父独り。お袋は他界しててもういない。
俺も親父も無言で荷造り。
家を壊す時は仕事で立ち会えなかった。
姉ちゃんが帰ってきて親父に付き添った。
親父は静かに泣いていたらしい。
親父とお袋が苦労して立てた家はもうない。
この間、はじめて実家跡にいってみた。
野ざらしの跡地が、そのまま残ってた。
道はできていない。
- 99 :
- 俺、春休みになったら小学校時代に住んでた町に行って写真取り捲って来る予定
思い出の場所が多いから多分何時間もかかるだろうなぁ
団地の中で写真とってたら不審者って事で通報されたりしないか不安
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