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2011年10月1期セピア母親との思い出
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★☆★みんな鼻クソを食べていた★☆★
´_ゝ`)流石だよな俺らinセピア板(´lt;_`
母親との思い出
- 1 :03/11/30 〜 最終レス :11/12/11
- まだ、自分が幼かった頃は、
ただうるさかったり、ダサかったり、邪魔だなぁと思ってたけど、
何もかも無償で自分を受け入れてくれたのは母親だけだったよね。
そんな母、お母さん、かあちゃん、ママンとの思い出、感謝、反省を語るスレです。
- 2 :
- いや、随分殴られた
- 3 :
- 生みの母は私が1歳のときに死にましたが何か?
継母は優しかったなぁ。実の子のようにかわいがってもらった。
- 4 :
- にゅうどん
- 5 :
- >>3
その「何か?」っていうの、きもい
成長しろよ
- 6 :
- 何か?
- 7 :
- 中学、高校のころはよくケンカしたなあ。
一人暮らしの為に家を出て・・離れてからのほうが仲良くなった。
三年前10年以上ぶりに家に帰ってきて、今は仲良くやってます。
一昨年二人してダイエットに励んで、あたしもかなり成功したんだけど
彼女には負けた・・・(笑)70歳なのに16キロ減・・
大丈夫なのか(笑)と思ったけど血糖値も血圧もかなり
正常になって歩くのが楽しいって言ってるぐらいだから
ダイエット一緒にやってよかったのかなあ。。
- 8 :
- 幼稚園の入園式のとき。
みんなはウルトラマンや仮面ライダーの上履きいれをもっていたけど、
オレは母親の手作り・・・。
当時はみんなと同じ市販品が欲しくて、なんか恥ずかしかった・・。
でも、お母さんがつけてくれた「くまのアップリケ」と「名前の刺繍」が
なんか恥ずかしいけど、とってもうれしかった。
ありがとう、お母さん。
あの時はいやがったけど、ほんとは嬉しかったんだよ。だって小学校5年生の
時に破れるまでつかってたんだよ。
ありがとう。あなたの子供に生まれて本当に幸せです。
あの頃のあなたと同じ年になり、自分の子供にも同じようにしてあげたいです。
- 9 :
- うちの母親も手作りだったよ。
手提げ袋からセーターまで(細い毛糸で編める巨大な織り機を持っていた)。
何でもかんでも手作りなので、無くしたり壊したりしたら申し訳ないと思った。
おかげでとても物持ちがいい息子になりました。
子供に物を大切にすることを教えるには、
自分が苦労して作ったものを持たせるのが一番ですな。
- 10 :
- >>9
しん・・・と心に染み入るんだよなあ。
汚損したりしたら、思わず「お母さんごめん」って誰もいないところで
呟かずにいられなくなる
親父がひときわ怖かったので、怒られないようにと庇ってくれたのも
お母さんだった。
ありがとう。長生きしてください。
- 11 :
- いつも寝るまえにミルクセーキをつくってもらった
牛に卵の黄身と砂糖をいれて混ぜただけ
あまりうまくはないと飲むたび思ったけど
つくってくれるのがなんだかうれしかった
- 12 :
- お絵かきが苦手な私に、いつもいっしょに絵をかいてくれてありがとう。
あんまり上手にはなれなかったけど、一緒にクレヨンでお絵かきしたのが
懐かしいです。
いつまでも元気でね。
- 13 :
- 電話の声。いつきいても安心するよ。
- 14 :
- 15年前にっちまったよ。誕生日にお小使の10円と四つ葉のクロ-バ-あげたの この間出てきて… ○○の(俺)思ひ出って書いた封筒に入ってた (/o\)オ-ンオ-ン 甦る記憶。小4位だ。
- 15 :
- くだらない修学旅行かなんかのお土産に買った
紙細工の人形をずっととっていたわ、、うちのおふくろ
そんなもんたいしたモンじゃねえよ!
って思ってたけど・・
今ならなんでも買ってやるのになあ 死んじゃった
- 16 :
- 幼稚園の母の日に作った、くだらない文鎮・・。
そういえば、ずっと大事に使ってくれたなあぁ・・・。
いろんなもの・愛情を与えてくれたけど、オレが返せたものは少ないなぁ。
- 17 :
- スレッド一覧で、このスレのすぐ真上に「はじめての手」というスレがあるから、
目線を斜めに動かしていたら思わず「母親との手」と呼んでしまったよ。萎えました。
- 18 :
- >>17
誤 呼んでしまったよ
正 読んでしまったよ
- 19 :
- 母は弱かった
でも偉大な人だった
亡くしてから悔恨するものだ。
- 20 :
- 親父がバイオレンスな人だったので
お母さんはよく泣いていた。
6歳くらいの時、「今日はお出かけするよ」と3歳の弟とおいらを連れて
日に2本しか運行しないバスで1時間かかる最寄り駅までいき、
いつもなら運賃だけですむ急行列車なのに、その日に限って
運賃の他に別料金がかかる特急列車に乗せてもらった。
しかも、今まで乗ったことのない2階建て車輌で、とても嬉しかったことを
覚えている。
「ねえ、どこにいくの?」
と列車内でお母さんに尋ねた。
お母さんは、「このまま3人で暮らそうか」と言って静かに
泣き始めた。
もう一度尋ねた。
「ねえー、どこにいくのー?」
「○○百貨店に行ってお買い物するのよ」
「ふーん」
で、百貨店に着いてレストランでお昼ご飯を食べてから、
お母さんは百貨店屋上のアミューズメントスペースで
おいらに「二人で仲良く遊んでてね」と三〇〇〇円渡された。
お母さん、あのあと怖い兄ちゃん達にお金とられたから
遊べなかったんだよ。
- 21 :
- >>20
続ききぼんぬ
- 22 :
- いつもありがとう。
- 23 :
- 母親にかぎらず、両親にはいつまでも元気でいて欲しいです。
いつも元気な母親が入院した時、マジで泣いてしまいました。
- 24 :
- age
- 25 :
- 死んだ母が入院する前の日の夕食、何を作ってくれたっけ・・・
もう忘れちゃったよ・・・
なんでだろう・・・
これが最後の夕食だって思いながら食べたのに・・・
あの日、末期がんだって知ったんだよな・・・
- 26 :
- 突然弁当作って近所の公園に連れて行ってくれた。
いつも来ていた所だから何で弁当持って来たんだろうな、って思ったけど。
「友達はみんな家族で旅行や遊園地に行ってるよね。家にお金が無くて
連れてってやれなくて本当にごめんね。今はこんな近場でピクニックしか
できないの。ごめんね。」と弁当食ってる時に言ってたの思い出した…。
何か自分の母親の話なのに泣けてきた…。
俺、マジでそんな事何も気にしてなかったんだよ、母さん…。
- 27 :
- >>26
いいおふくろさんだ
ご健在なら大事にしてやれ
- 28 :
- うちの母親はわがままで、天然バカで、だらしなくて、すごく嫌いだった。
反抗期なんかとっくに過ぎた高3の頃でも本気で、ママがいなければと思ってた。
お母さんってすごいよねって尊敬できるような母親が欲しかった。
去年、実家に帰った時に大喧嘩をした。私が必死で働いて買ったプレゼントを
「安物でしょ」と言って笑ったから。
傷つけようとして言ったんじゃない。天然なんだ。そう思ったけど、わかってた分、頭にきた。
私が少し怒鳴ったらママもキレて部屋に閉じこもってご飯も用意しなかった。
私が話し掛けても見向きもしないので、メールだけ入れて言葉も交わさないまま、私は東京に戻った。
2日して、メールがきた。
「悲しい思いをさせてごめん。あなたがママを嫌いでも、あなたはママたちの初めての子供だから、
ママは可愛くて仕方ありません。だから、少しくらいはママのことも認めてほしいな。」
今は、そのバカぶりも笑って過ごせるようになりました。
ママごめんね。
- 29 :
- 生きていればこそ・・・だ。
みんな、おかあさんがご健在なら悔いを残さないように孝行しとけよ。
♪死んでしまったら けして 代わりは 無いのだから(ゲルニカ
- 30 :
- 今から家出汁
もう耐えられん
- 31 :
- 何があった!!!
- 32 :
- オレの父親はグータラでロクな稼ぎがなかった。
そんな訳で、家は貧乏だった。
弁当にもっていったおにぎりの具も魚の骨だけ。なんて時もあった。
三人兄弟で年の離れた末っ子だったオレは兄と姉のお古ばかり着ていて、兄貴が使い古したラジカセを貰い、
何一つ欲しい物なんて買ってもらえなかった。
兄貴達も、よくオヤジに殴られたり正座させられてたりしていた。
そんなオヤジに母親はなんの文句も言う事もなく、寿司屋とかでせっせとバイトしてた。
オレはそんな家庭環境に生まれてきた事を小さい頃からホントに憎んでた。
なんでこんな父親なんだろう
母親はなんで働くんだろう
なんでうちは貧乏なんだろうと。
そして去年、27才になったオレは家を出て婿になって結婚した。
相手は3コ下の裕福な家庭で育った女性。
妻を親に紹介する時、婿に行くと言っても
「あんたの自由だよ」
と母に言われた。
その時は「当然だ」と思い何も考えもしてなかった。
そして結婚式前日、親から「最後くらいはみんなで食事しよう」と言われた。
それもそうかな?と思ったオレはアパートから実家に向かって出ようとした時、郵便受に手紙が入ってたのに気付いた。
それは母親からの手紙だった。
小さい頃のたわいもない出来事とか病弱だったオレを看病した思いなんてのを汚い字で書いてあった。
そして最後に、
「あなたのこれからの人生の幸せを願っております。27年間ありがとう。」
今までこんな事を書いたり口にしたりする人じゃなかった。
一生懸命働いて育ててくれた事を考えたらものすごく涙が出て来た。
いろんな思い出と共に、27年間お世話になりました。
- 33 :
- >>32
オヤジは救いないなぁ
- 34 :
- うちの母親は、ちょっとずつ進行する脳の病気と、
もう15年近くも付き合っている。
最初に症状が出たのは俺が中学生の頃で、
手足の震え、めまい、不安感、なんかで病院に行った。
俺が「学校行かない」やら「高校行かない」やらと、
勝手放題にほざいていた時期だったから、
家族の誰もが「疲れ」やら「精神的なもの」とか、
そんな風にしか思っていなかった。
診断は「パーキンソン病」なる治らない脳の病気だった。
それ以来、母親は毎月2度病院に通っては、
病気の進行を遅らす薬をもらってきて、
毎日必ず飲み続ける生活をしている。
俺は俺で、別に心を入れ替える訳でも無く、
何となく高校へ行き、
「やっぱりミュージシャンになる!」とほざいて実家を出て、
今だにフリーター生活が続いている。
この前の年末、実家に帰った時、
夜中2時頃、寝ている俺の部屋に来て、
「動悸がするから、起きて。」
と言って俺を起こして、床に座り込んでいた。
俺の手を握りしめて。
お母さん、
あんまり、実家に帰らなくて、
ごめんなさい。
心配ばかりかけて、
ごめんなさい。
ずっとそばにいてあげられなくて、
ごめんなさい。
こんなになるまで、
気付いてあげられなくて、
ごめんなさい。
- 35 :
- >>32
27になっても親の苦労を気遣ってやれなかったとはな。
- 36 :
- 数年前、母が若い頃使っていた化粧品やら香水の入ったダンボールがあり、
その中にいくつか手帳のような物も混じってたのを発見した。
その頃の私は母に暴言浴びせたりするような反抗期真っ只中で、
もっぱら喧嘩の最中だったりして、「ちきしょー見てやるっ!」とか思い勝手に見た。
それは、私の生まれる前・生まれた後の事をつずった日記のようなものだった。
私は赤ちゃんの頃・幼い頃は体も弱かったため、その事についても詳しく書かれてて・・・
いつ熱が出たとか、嘔吐したとか、医者に言われたこととか。また、私はイジメられっ子だったので、
そういった事についても書かれてた。私が今まで知らなかった母の苦労や、優しさを感じて、
思わず顔をくしゃくしゃにして泣いてしまった。わがままな事ばかり言ってる今の自分が愚かだなって思ったよ。
ケンカもたまにはするけど、これからも元気でいてほしいな。
- 37 :
- 生まれた時から心臓に欠陥があった私。
色々苦労させましたね、お母さん。
6回の手術のうち初めての手術の時、長かった入院生活は
お母さんを独り占めできて、ある意味嬉しかったよ。
今でもあの時の事を思い出すと涙が出てくる。
どんなに心配させたかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
病院の裏の芝生で、2人でお弁当を食べたのを憶えてますか?
もうあれから30年以上経ったんですね。
今は年に数回しか会えないお母さん。
いつも私のワガママを聞いてくれて、何でもさせてくれた事に感謝してます。
会うたびに「こっちに住みなよ」と言ってくれるけど、
未だにワガママな私は一人住まいをしていて、
こんな年になってもまだ心配させてごめんな。
本当は私もお母さんと一緒に暮らしたいよ。
朝、目が覚めた時、お母さんがいてくれたらどんなに嬉しいか・・・。
近々、また手術を受けることになるかも知れないけれど
その時には一緒に暮らそうな。
そっちで仕事見つけて、今度こそ恩返しするからな。
それまではお父さんと元気に暮らしててな。
私が帰るまで待ってて下さい。
- 38 :
- パソの画面が滲んで見える・・・飲み過ぎたか
- 39 :
- 痴呆の末に亡くなった母の遺品を整理していた。
幼い頃見覚えのある着物、編物の道具。
そういえば着せ替え人形の洋服を編んでくれたりしたっけ。
よくあんな小さな洋服を・・・。
そして古ぼけた大学ノートが数冊。
若い頃の母の日記だった。読み進むうちハッとした。
母は若い頃に子宮の病気をしていたのだった。
「神様。お願いします。子宮を取らないで下さい。
わたしは子どもを産んでみたいのです。自分の子供におを飲ませて抱いてみたいのです。
だから、どうか神様、赤ちゃんを産ませてください」
そして数年後身ごもった子供がわたしだったのか・・・。
亡くなる少し前には、何かを食べさせてもボロボロとこぼす母に苛立ち
母のオムツを替えるのだって内心めんどうに思っていた自分。
ごめんね。ごめんね。ごめんね。
こんなにも大切に産み育ててくれたのに私は・・・。
古ぼけた写真の中の母は微笑んでいる。
「いいのよ」って言ってくれているんだろうか。
もう一度会いたい。
- 40 :
- 幼稚園に入る時、ミッフィーのハンカチを買ってくれた。
ショルダー鞄(?!)のストラップ部分に結びつけてくれていた。
漏れは♂だが、他の♂はウルトラマンとか仮面ライダーのハンカチなのに、
何故か漏れだけミッフィーのハンカチだった。当時は♀っぽくて馬鹿にされてイヤだった。
先日久しぶりに上京したおふくろにその話をしたら、覚えていなかった。
それどころか「あ、あれ、『ミッフィー』っていうの?ただの女の子のうさちゃん」だと思ってた」だって。
でも、何故かよくわからないが何となく母親の愛情を感じて、小学校3〜4年まで使ってた覚えがある。
そんなこんなでミッフィーを見ると、何となくおふくろを思いだしてしまう。
そんなおふくろも今年還暦を迎えたが、かといってミッフィーグッズはプレゼント出来ね〜な(w
- 41 :
- >>38
漏れもだ。モニタの文字も、ケータイにつけたミッフィーも歪んで見える…
- 42 :
- 連投ゴメン。
>>39さん
漏れの母親も痴呆になった祖母の介護でヒステリーになったりしてたけど、
ばぁちゃんが亡くなってから、遺品を整理する時に似たような手記を発見して
また涙したそうだが、ばぁちゃんはとても優しい女性だったので、
「もっと優しくしてあげれば良かった」と後悔する母親や伯父や叔母たちに
>>39さんと同じように慰めた。
うちのばぁちゃんもそうだが、大丈夫だよ。>>39さんのお母様も許して(?)下さるよ。
つか、「子育ては苦労が付き物」だって思っていらっしゃると思うよ。
と言う漏れは今、病気で会社も辞めて無職状態が続き、両親には苦労かけてる。
早く復活してボーナスが出たら、親父とおふくろに旅行でもプレゼントしたいです。
- 43 :
- あかん、間違えた。
>>37さんすみません
もう気分台無し…LANケーブルで首吊っ(ry
- 44 :
- 昔からよく私を叱った母だ。打たれたことも何度あったか。
でも、今だからあの時母が何故怒ったか、わかる気がする。
今は叱ってくれた事に感謝すらしてる。痛みを知らない大人になるのは怖い。
そして大きくなって自分が他人を打ったとき、打った手が凄い痛くて驚いた。
胸も痛かった。あー、痛かったんだね、お母さん。クソババアなんてほざいてゴメン。
「あなたの娘で良かったよ」と言ったとき「なーに言ってんだか」と言って
頭を撫でてくれた母の笑顔、忘れたことはない。
母の目元に涙が滲んでるの見るの、昔も今も、変わらず苦手。
母の声を聞くと何故か安心してしまうのも、多分一生変わらない。
女手一つで育ててくれて、大学まできっちり行かせてくれて有難う。
あなたの身体が段々弱っていってることが今一番怖いけど、
あなたが打ってくれた分、あなたが頭を撫でてくれた分、これから孝行するから
だからまだ、私の前を堂々と歩くあなたの姿を見せてください。
もしも歩けなくなったら、昔あなたがしてくれたように私が背負って歩くから。
- 45 :
- >>44
きっといい娘さんに違いない
- 46 :
- 昔の写真みるとなけてくるよ・・・。
いつまでも元気でいてね。
- 47 :
- ひとり暮らしのやつら、2ヶ月以内に実家に帰って
母ちゃんの手料理食ってこい。これは命令でつ。
- 48 :
- >>47
2週間前に上京してきて、喰いましたがダメでつか?
- 49 :
- まもなくクソでんしゃ(田舎)が入ります
ご注意ください
- 50 :
-
- 51 :
- >>48
帰郷すると、親は一段と嬉しいものなんですよ。
たまには帰っておあげ。
- 52 :
- >>51
あい(^_^)。来月中旬にでも帰ろうかな。
- 53 :
- 自分が田舎から母をひきとって、東京で隣の部屋を借りてやって
暮らしていたが、どうも水が合わなかったり、バイト先でトラブルを
起こしてしまうため、母を田舎にかえすことに。そのとき、母が
諸事項に対してあまりにもいいかげんだったために殴ってしまった。
今思えば、自分はそのとき鬼だったのかもしれない。
ただ、田舎に帰った母は、鬼になって尻をたたく人がいなくなった
せいか、放置され、引きこもり、そのままボケてしまい、おととし
ってしまった。今でも、あの時殴られて歯が折れながらも笑顔で
俺を見ていた母を思い出す。
- 54 :
- >>53
。・゚・(ノД`)・゚・。
今度帰った時には、思い切りおふくろに優しくしよ(今も−自分で言うのも何だが−スゴく仲がいいが…)
>笑顔で俺を見ていた母を思い出す。
泣けて仕方ない。・゚・(ノД`)・゚・。
- 55 :
- >54 サンクスコ。煽られると思ったら逆の言葉がもらえてうれしいです。
手ぶらでもいいし、(あんまり)やさしくなくてもいいから、とにかく
何回も帰ってあげてください。不謹慎ですが「親が死ぬまで何回会える?」
とか考えると、ぞっとすると思います。親御さんが、多少変なことを
言っても、きつくおこったり、ケンカなんかしないで聞き流してあげて
くださいな。
ボケてしまったら、もう心が通じあうことができないんで、これじゃ
死んでしまったのとかわりないじゃないのと実感してしまったことが
ありました。厳しく接しながら、ほんの小さな親孝行も少しはできた
けど、弟夫婦と一緒に最期を看取れたというのが最後の思い出です。
1週間くらい交代で病院に詰めて、亡くなる前の日の夕方は、「暗く
落ち込んでちゃ母も心配になるはずだ」と病院のベッドの横で弟夫婦と
馬鹿話を続けて、ゲラゲラ笑ってました。他の病室の方には迷惑を
かけそうだったが、大目にみてもらうつもりで楽しく元気に騒いで
いました。
- 56 :
- 中学一年の時、美術の宿題がぜんぜん終わらなくて夜中までかかってしまった。
眠いし疲れたしイライラしていた私は、母の、「もう寝たら?」に
「寝れるわけないでしょ!!」とヒステリックに怒鳴ってしまった。
日頃から厳しい母に、私は絶対ぶたれると思って冷や汗をかいた。
でも母はぶたなかった。私が怒鳴った事を笑い飛ばし、
「じゃあがんばりなさい」って終わるまで一緒に起きててくれた。
お母さんありがとう。怒鳴ってごめんなさい。
- 57 :
- >>55
>何回も帰ってあげてください。不謹慎ですが「親が死ぬまで何回会える?」
とか考えると、ぞっとすると思います。
またまた泣けて仕方ない。・゚・(ノД`)・゚・。
体調崩して辞職しハロワ通いに加え、通院中の身故に、体調回復を優先せよとの
お達しもあるけど、マジで帰ろうか、それとも東京引き払って実家で暮らそうか
とも考えてしまいます。、
- 58 :
- >>57 息子が元気で幸せでいてくれるのが、一番の幸せですよ(´∀` )
- 59 :
- >>57
実家帰れば?東京で何かやりたいことあるの?
- 60 :
- 母が無職の夫(私の父)のかわりに臨時で教師してたとき、
私は「あんたの脳で教えられるわけない」とか「あんたに教えられた生徒がかわいそう」とか
言っちゃった。臨時は3年くらいでやめたけど、教師になるのが夢だったらしいと後できいて泣きたかった
- 61 :
- >>47
一週間ほど帰ってきたぜぃ!
- 62 :
- 小2の時に首を絞められてされそうになった
- 63 :
- 電話加入権廃止 7万2000円返金なし
http://life5.2ch.net/test/read.cgi/yuusen/1082054063/26
- 64 :
- 2chにこんな泣けるスレがあったのか。
しかもみんな文章力があるから、なお泣ける
- 65 :
- 今日、久々に両親が来てくれた、手作りのお弁当を持って。
いつも思うのは、世の中にこれほどのご馳走ってないだろうな、と。
もう高齢である両親は、歩くのもしんどそうで、
背中も丸くなり、顔には老人性のシミがたくさんできている。
お弁当に舌鼓を打つお父さんの目は、どこか寂しそうで、
お母さんは気丈に振舞ってはいるけど、それを見るのが私はとても辛い。
背中を丸めながらご飯を掻き込む姿を見ていると、
早くこの両親を安心させてあげたいと思う。
それなのに先日、お母さんが体調を崩した時、
私は傍にいてあげられなかった。
私が不調の時はあれほど心配させたのに、
私は両親に何一つしてあげた事がない。
ここのどなたかが仰ってたように、
あと何回会えるのかと考えただけで、沈みこんでしまう。
両親が帰った後、ガランとした部屋の中で何回も泣いた。
日々どんなに辛くとも、両親が元気でさえいてくれたら
それだけで今の私には十分幸せだと思える。
お父さん、お母さん、今日も気をつけて帰って下さい。
お盆には私の方からそちらへ行くからね。
- 66 :
- はっきりいって嫌いだ。
巨大宗教組織の在家団体の熱心な信者である母を冷めた目で見てた。
一人暮らしが随分経って疎遠になった。電話がかかってくるのは選挙の前だけ。
私からはかけることもない。帰郷するのも年始だけ。
家事が好きじゃない人で家はいつも宗教関連のものでちらかっていた。
炊事もダメ。極端に味付けが薄い人で言っても直らない。味がしない料理はもちろん不味い。
それに慣れてたから外食しても味が濃すぎて気持ち悪くなる。
人に「美味い店がある」といわれて付いて行っても美味いと思ったためしは無いし
グルメ番組を見てもピンとこない。いつしか食事に対して興味が無くなった。
ただ、裁縫だけは上手かったな。
私の祖母が上手かったらしく、祖母に習ったのを誇りに思ってるみたいだ。
古いはんてんを繕ってキレイに直してた。私はそのはんてんが凄く好きで
前に帰郷した時、まだ使ってることを言ったら「いいかげん捨てたらいいのに」
と嬉しそうにニコニコしていた。
温かいんだもんなあ、はんてん。捨てれないよ。
- 67 :
- お母さん、ありがとう。
小学生の遠足の日、共働きで忙しかったはずなのにお弁当に文句言ってごめんね。
中学生の試験のとき夜食作ってくれたのに、邪魔するなよとか言ってごめんね。
大学受験のとき、資金繰りで忙しいときなのに分かってあげられなくてごめんね。
大学受験に失敗したのに、優しくしてくれたのはお母さんだけでした。
ありがとう。本当にありがとう。
あなたには一生かかっても返しきれないくらいの恩を受けました。
お母さん、ありがとう。
- 68 :
- 皆さんのおかげで視界がぼけ気味なので、上手く書けないかもしれないけど
私も一つ。
進学のために実家を離れて一人暮らしを始めた頃のこと。
新しい生活の何もかもが上手くいかなくて、少しまいってた時期があった。
頼れる人どころか友達すらまだほとんどいなくて、気晴らしといったら
実家に用もなく電話することくらい。
といっても、家族に向かって弱音吐くのは 恥ずかしいから当り障りのない
話ばっかりしてたんだけど。
でもある日、母親と電話で話してて、ついポロっとね、きてしまった。
あー、もう実家帰りたいなー、って感じで。
で、うわヤバい!とか思いつつ必死に平静を装ってたんだけど、微妙に
感づかれたらしくて「泣いてんの?」って言われた。
当然私は「泣いてないよ、やだなぁ」って笑って誤魔化して、その時は
それ以上つっこまれることもなく電話を切ったんだけど、その数日後に
母親から手紙が一通届いた。
「あなたがそちらで泣いていても母は行ってあげることができません。
だからあなたが泣いていると辛いです。あまり泣かないで」
文章がクサいよ、母!って思いながら思わず泣いてしまった。
ただ、この人の娘で良かった、って本当に思った。
私はまだまだ頼りなくて弱っちいけど、いつかちゃんと恩返ししたい。
だからお願いします。その日まで元気でいてください、お母さん。
- 69 :
- >>68
>皆さんのおかげで視界がぼけ気味なので、上手く書けないかもしれないけど
充分泣けるぜ。
- 70 :
- 先の連休に帰省してきた!
おかん、ありがとう!
親父もありがとう!
曾孫抱くまで死ぬな!
- 71 :
- 思わず涙ぐんでしまった別板の母親の思い出スレ
('A`)カーチャン・・・
http://human5.2ch.net/test/read.cgi/male/1090370003/l50
- 72 :
- 俺が小学校3年の時、母が狂った。
父は勤務が不規則で留守がちだったために最初に気がついたのは
俺だった。意味不明な発言… 突然深夜の徘徊… 小学生の俺はただ
「意味わかんねぇよ」「どこにいくんだよ!」と怒鳴り散らして
いたが、激務の父に母の日常の行動を告げるのはためらった。
だが、当然母の行動も段々エスカレートしていく。近所の人たち
が俺に向ける視線も冷たいものになっていく。回覧版も玄関前に
置かれることが多くなった。決定的だったのは父の勤め先にまで
出向き、意味不明な発言をするようになったことだ。
俺は父に何度も、「病院に行って先生に診てもらった方がいいよ」
言ったが「それはダメだ…」と拒否し続けた。
そして俺が中学生になった頃、とても通常の生活ができなくなって
いた。父が親戚を呼び最後の「了承」を得た。
その日はやってきた。
母を「ちょっと出かけようか」と父が誘い、山奥の鉄格子のあ
る建物に向かった。いままで見せたことのない抵抗を母は見せた。
俺と父は「悪魔」とののしられた。
あれから15年
入退院を繰り返すも父と母は離婚せず、俺は結婚した。
お母さん
今度行く時は孫連れてくよ
(乱文乞許)
- 73 :
- さだまさし「案山子」
http://www.fk.urban.ne.jp/home/kazuaki3/utagoe44.htm
いけね、泣けてきた。
父ちゃん、母ちゃん。俺、東京で頑張ってるよ。
辛かったり苦しいときもあるけれど頑張ってるよ。
- 74 :
- 盆は、帰るか・・・('A`)
- 75 :
- 若いときは前しか見ていなくて、自分の足元など気にもとめていなかった。
家庭を持ち、子どもを育て、「子を持って知る親の恩」とは思ったが
やっぱり自分の家庭や子どもの事でいっぱいだった。
両親は両親で仲良くゆっくり老後を楽しんでいる様子に安心してた。
その父が病に倒れき、残った母も休息に衰えて介護の末に亡くなった。
だいぶ落ち着いてから遺品の整理としてみると、父の残した日記には
「昨夜○○(私)に電話したら元気が無いようだが、大丈夫だろうか」
あるいは子どもが発熱、仕事休めずで両親に子どもを預けたりしていたが日記には
「△△(子供)発熱にて預かる。旅行は中止」
えっ?旅行を中止してまで預かってくれてたの?
そして母の遺品の中から出てくる、出てくる!
幼稚園の卒園証書から就職したときの辞令までちゃんとしまってある。
化粧ポーチの中にあったプラスチックの櫛は何ですか?
私が小学校のときに使ってて、いつのまにか飽きて捨てちゃった櫛じゃないですか!
赤ん坊のわたしを背負うのに使ったねんねこまでしまってあるですか?
そういえば若い頃、年がら年中午前様だったわたしがうちに帰ると
必ず食卓の上に私の食事が置いてあって、傍らには必ず手紙が添えてあったっけ。
「○○へ。おかえりなさい。お味噌汁は温めて食べてね。冷蔵庫に××もしまってあります。
よかったらどうぞ。早く寝なさいね。おやすみ」って。
そんなことね、もうあたりまえに思ってたわけよ。
手紙だって読んだらクシャクシャに捨ててたし。
今の自分はどうよ?疲れてるって夕食手抜きしたり、イライラして子供叱り飛ばしたり
母が大事に育ててくれたように子供育ててる?
暖かさ、優しさ、慈しみ、そんな気持ち母から教わったじゃん。
どこやったよ?
専業主婦だった母を世間知らずみたいに思ってたわたしこそ大馬鹿者。
今になって思います。
たくさんの愛情をそそいでくれて本当にありがとうございました。
もっともっと話をしたかったよ・・・。
今度は私が自分の子供たちに母から与えてもらったたくさんのことを受け渡していかなくては。
私は母の子供で本当に幸せだった。
親って毎日少しづつ、でも確実に老いている。そうは見えなくてもね。
生きてるうちに大事にしてあげてください。
>>74 顔見せてあげてね。
- 76 :
- >>75
いいお母さんだったんだね。
あなたは幸せ者ですよ。
お子さん、旦那さんを大事にしてあげてください。
愛は惜しみなく与えてください。愛情は永遠に残る宝物だと思います。
- 77 :
- >>76
最後の一文、格言だと思います。
一人娘なのに東京に出てきてごめんなさい。
いつもそっけなく電話を切ってごめんなさい。
>>75の言うとおり会うたびに少しずつ老いているのを感じます。
好きな人ができました。今度実家に帰ったらお料理教えてください。
直接言うのはまだためらいがあるので、ここでこっそり母への手紙です。
- 78 :
- 『お母さんに「ありがとう」って言いそびれてました』のフラッシュ
ttp://pukapuka.or.tp/cgi/img/puka3970.swf
泣けてしまう度☆☆☆☆
- 79 :
- >>78
。。゚(゚´Д`゚)゚。ウァァァン
- 80 :
- お盆に帰省して母ちゃんに甘えてきた香具師挙手汁!
- 81 :
- お母さんに会いたい
http://human5.2ch.net/test/read.cgi/ms/1089799842/
鬼女板にもこんなスレが・・・
- 82 :
- 俺が小学校低学年の頃、母が手袋を編んでくれた。
親指と、他の4本指が分かれるヤツ。
しかも手首にはフリフリみたいな飾りがあり、ボンボンもついていた。
俺は友達の大半がしている5本指でジャイアンツのロゴ入りとかの
普通のヤツが欲しくてたまらなかったが、母に悪いと思い何も言わず
毎日手袋を使っていた。
習字の帰り道に片方の手袋を落とした事に気がついた。
俺はろくに探す事もせず家に帰り手袋を落としたことを母に告げた。
母は怒らずに新しい5本指の手袋を買ってくれた。
翌週、習字の帰り、道端のごみ集積所に泥で汚れ、ガビガビになった
片方の手袋が捨てられていた。何度も行ったり来たりしながら迷ったが、
結局俺は手袋を拾わずに家に帰った。
次の日 思い返して学校の帰りに手袋を拾いに行ったが、もう無くなっていた。
あの時のズタボロに汚れた青い手袋の姿が今でも忘れられない。
お母さん ホントごめん。
手袋ありがとう。
長文スマソ
- 83 :
- >>82
(;´Д⊂)
- 84 :
- 台風は大丈夫でせうか?
- 85 :
- 思えば、母のことを最後に「お母さん」と呼んだのは小学校低学年のときだったな。
うちの父は母のことをニックネーム?で呼んでたから、
当時父っ子だった私はそれを真似して母のことをニックネームで呼んでた。
でも母も怒らなかったし、私もずっとそう呼び続けた。
時々「お母さんって呼んでよ」と言われたが、
もうニックネームで呼ぶことに慣れすぎてしまったので呼んであげなかった。
「お母さん」ってそんなに難しい言葉じゃないよね。
うちの母はきっと母親としては未熟なんだと思う。
子供の躾も他の家よりはなってないと思う。
でも、私にとっては最高の母親だ。
ありがと、お母さん。
- 86 :
- 今18歳だが、俺も「お母さん」なんて小学校低学年以来言ってない。
- 87 :
- やばい…泣きまくりました(´Д⊂ かーさん長生きしてくれよ
- 88 :
- 私が小学生の時、母が喘息になった。初めのうちは苦しそうで、とても可哀想だったが、
だんだん慣れてきてしまって、それどころか咳込んだりタンを出す姿がうっとおしく思えてきた
ある日また喘息の発作が起きた時、私は「またか・・・」とうんざりしてた
母は寝床から起き上がる事もできなかったらしく、一日中起きてこなかった。
夕方、寝床から母が私を呼ぶ声がして行ってみると,あきらかに今までの発作と違い、息をする事もままならない
母の姿があった。私が立ち尽くしていると,「あんたは今までお母さんの様子なんて気にならなかったの?
何度も呼んだのに・・・」と肩で息しながら泣き出した。
そして「もう死にたい・・・こんなに苦しいならもう死にたい」と泣き崩れた。
- 89 :
- 続きです
私は母が泣いたこと、死にたいと言った事、こんな酷い発作になるまでほおって置いてしまった事に
愕然としてしまったが、母の呼吸が尋常じゃなかったため、急いで救急車を呼んだ。
結果,大事には至らず入院となったが、医者に「あと15分救急車を呼ぶのがおそかったら危なかった」といわれ、ヒヤリとした。
病室に入ると母は酸素呼吸器と点滴を付けて眠っていた。看護婦さんに「あなた○○さん(母)の娘さん?
お母さん、きっと誰も自分の所に来ないって泣いてたよ。優しくしてあげてね」と言われた
私が病気の時は,眠らないで看病してくれた母だったのに,私は母になんて酷いこと思ってたんだろうと、この日を境に
母を大事にしようと決めた。入院中、動けない母の世話をできる限りした。そうしてる内に、母も以前の様に私と話してくれるようになった。
退院してからも何度も入退院を繰り返したけど、私の誕生日や参観日などには,外出許可をもらって来てくれた。
今私は結婚して親になった。母の優しさ、偉大さを改めて思い知る。
ただあの日母を泣かせてしまった事は一生涯の後悔になりそうだ・・・
- 90 :
- >>89
(;´Д⊂)
- 91 :
- なんか画面がぼやけて見えるよ…
- 92 :
- あげ
- 93 :
- 地震だいじょうぶかな
- 94 :
- 母ちゃんは俺が4つの時病気で死んだんだ。
ぼんやりと覚えてる事がひとつ。
公園でいつも遊んでた、夕方になるとみんなの母ちゃんが迎えにくるんだ。
うちの母ちゃんは入院生活が長くて、どうせ帰っても親父は仕事だし誰もいない。
暗くなってもよく公園にいたな、兄貴が部活終わって公園の前通って一緒に帰るのが日課だった。
その日も暗くなっても砂場で遊んでた。
そしたら俺を呼ぶ声が聞こえて母ちゃんが息切れしながら歩いてきた。
ママーママーって馬鹿みたいに叫んで走ったよ。
暗い中、ブランコに一緒に乗ろう、って母ちゃんが俺を膝に乗せてしばらくそうしてた。
その後何日かして病院で死んじまった。
後から親父に聞いたら、自分でも長くない事わかってたらしい。
あの時母ちゃんどんな気持ち抱えてたんだ?
どうしていつも病院にいるの?ってしつこく聞いてごめん。
辛かっただろう。
来年、俺彼女と結婚するよ。
母ちゃんの分も向こうのお袋さん大事にすっから。
長文スマソ。
- 95 :
- >>94
(⊃д`)・。・。泣いたよ
おまいさんの優しさは母さんゆずりなんだろうな
お嫁さんの親御さんにも優しくしてあげてね
- 96 :
- マジ泣いた(⊃д`)…
>>94
おまいはいい奴に違いない。うっ(⊃д`)
- 97 :
- >>94
(⊃д`)
- 98 :
- >>94の見て号泣しちゃったよ。
うちの母親も私が小5の時病気で死んじゃったんだ。
入院生活も長かった。
遠足とか運動会のお弁当はいつも父が作ってくれてた。
ママは病気だから仕方ないって頭ではわかってたつもりなんだけど。
みんなはママの手のこんだ可愛いお弁当でさ、
それが凄く羨ましくて3年生の遠足の時、朝父が作ったお弁当見て
「可愛くない!みんなはママが可愛いの作ってくれるのに私恥ずかしいよ!」って父に言っちゃった。
父は、ごめんって会社に行った。
ふてくされてたら洗面所にいた兄貴が飛んできて私をひっぱたいたんだよね。
「んなら遠足なんか行くな!」って。
ワーワー泣いて結局その日休んじゃった。
いつもより早く父が帰ってきて、こっそり覗いたら台所のテーブルで何か本見てる。
「こどもの喜ぶお弁当」みたいな本だった。
それ見たら自分がした事の酷さに又泣いた。
それから父が朝作ってくれたお弁当一緒に食べた。
「ごめんなさい」って言ったらちょっと父が涙ぐんでた。
ママにはこの日の事言えなかった。
病院で「遠足楽しかった?」って聞かれて「うん」って嘘ついた。
ママ、あの日パパに酷い事言ってごめんね。
嘘もついてごめん。
- 99 :
- >>98
ひっぱたかれたのは仕方ないにしても
(⊃д`) いい父上と兄貴だ。
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