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三島由紀夫の噂話・思い出話2


1 :11/02/25 〜 最終レス :11/11/29
引き続き、要望が多数あったので立てました。
前スレ
三島由紀夫の噂
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/uwasa/1195914213/

2 :
(三島事件のあと)あるポーランド人の団体から招待されたときのことが想いだされてくる。
きっかけをつくったのはソルボンヌにおける私の学友、ポニアトスキー(仮名)だった。(中略)長身で赤ら顔の
ポーランド人で、つねに微笑をもって語り、その人柄は善意にあふれていた。いつも詰襟に丸首のカラーをしていた。
カトリック神父だったのである。
(中略)事件後ちょうど一ヶ月、クリスマス・イヴのことだった。その数日前まえに思いがけず、この友から
電話があった。
「きみのテレビ放送を見たよ。われわれの仲間は、みんな、ミシマのことを知りたがっている。ぜひ来て、
話してくれないか……」
「仲間」とは、誰だろう? その夜、パリ某所の指定された建物に出向いてみると、そこはむしろ、ささやかな
宗教的共同体といった感じの場だった。自分は出版社で働いているとかねがねポニアトスキーは言っていたが、
じっさいは、その家は、出版社兼宗教結社だったのである。(中略)
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

3 :
晩餐の部屋に降り立つと、すでに十数人の人々がテーブルについて待ちうけていた。思いがけなく、私が主賓だった。
(中略)うすぼんやりとした光のせいで、地下の窖にも似たその部屋の光景は、どこか抑圧された秘密の影を秘め、
カタコンベの一部といった感じさえした。この印象があながち間違っていなかったことを程なく私は知らされ
ようとしていた。ひととおりの会話のあと――その席上で私は先に国営テレビの文芸討論会で発言したことを
敷衍してしゃべったのであったが――長老格の人物が立って、こう述べたからである。
「国の従属の縄目(いましめ)を断ち切って立たんとした人の死が、いや、日本独自の、あの儀式的意志的死が、
イエスの十字架の思想より見たとき《受肉の完成》としての意義を顕わにするであろう、とのご高説には、
われわれ一同ふかく心を打たれております。(中略)貴国の偉大な作家ミシマの驚嘆すべき行為は、まさしく
この微行性(アノニマ)につうずるものであったと、いまや私どもには信じられるのです。……」
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

4 :
と、白髯を垂らしたその老神父は、左手で、黒のスータンの胸にかけた金色の十字架にそっと触れながら、
いったん句切りを置いた。
「……イエスにとって《受肉の完成》とは、十字架とともに復活をもって成しとげられるものでした。
ミシマにとっては……なんと言いましょうか……彼の復活の思想はなかったのですか?」
「彼の、ではなく、日本人の、とと申しあげましょうか……」と私は答えた。
「われわれが《七生報国》と呼ぶ思想こそはそれに当たるのです……」
じっとわれわれの会話に耳を傾けていた周囲のポーランド人たちから、「ほほう!」といった嘆声が洩れた。
枝付燭台の向こうで、長老の頬は紅潮していた。(中略)ポニアトスキーは大きな手をさしのべながら私に
こう言った。
「私どもの祖国の政治的状況は、きみも知つてのとおりだ。同胞の読みたがっている本も、そこでは自由に
出版することができない。こうして、パリ経由でわれわれがやっているわけなんだよ……」
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

5 :
いまや私には彼の言葉の意味するところは明瞭だった。私を招きいれた人々は、要するにポーランド独立の
地下抵抗運動の同志たちだったのだ。カトリックという精神領域を武器としての。
そしてこれらポーランド人たちにとって、世界の果ての国日本の一作家の信じがたき決起と死は、あの
第二次大戦末期、(中略)…いまにいたるソ連支配の屈従の運命に抗する勇気をあたえてくれるものだったのだ。
日本で、われわれのヒーローが「右翼」とレッテルを貼られ、「グロテスク」、「時代錯誤」と譏(そし)られ、
「恥さらし」―対外的に……――と罵られている、まさにそのときに。あるいは、現代日本のタイラント、
偏向したマスコミ中心の世論を怖れて、大半の知識人が、いっそ沈黙することを選びつつあるそのときに。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

6 :
(中略)
他者への害ではなく自害によって決着するその行為が、いかに深く西欧のもっとも高貴なる魂を振起し、
その魂の屈折をとおしていかに深く日本の名誉を購わんとしたものであるか、その夜、このうえなくはっきりと、
私はその名証を見たのだった。(中略)
しかも、氏の自刃が西欧人の心に掘りおこした感情は、ひとりキリスト教にとどまるものではなかった。
キリスト教と対立する古代精神の領域にまで広がるものであることを、やがて私は知らされようとしていたのである。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

7 :
明けて一九七一年となった。その年の六月にパリで開かれた《憂国忌》について、ここで語らなければなるまい。(中略)
この企画(映画「憂国」特別鑑賞会)が伝わるや、見たいという有志がぞくぞくと名乗りでてきた。
スポンサーは、詩人エマニュエル・ローテンがひきうけてくれた。惜しくもすでに故人となったが、小背で
容貌怪異、みずから好んで「フランドルの土百姓の出で……」と冗談をいうのがつねであった。(中略)
エマニュエル・ローテンと私とのあいだで初めて三島由紀夫が話題になったのは、氏の邸内においてであった。
事件後まもなくだったと記憶する。それというのも、そのときローテンは、例の「文芸フィガロ」誌の三島特集号を
手にして私のまえに現れるなり、朱の色をバックに抜刀したヒーローの大写しの表紙をこつこつと拳で叩きながら、
野獣の咆哮のごとく、こう言ったからである――「私は、あらゆる暴力に反対だよ!」と。
しかし、まもなく、この詩人の意見は一変してしまうのである。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

8 :
一つの偶然が、私のもくろんだ集いを大いに盛りあげることを助けてくれた。作曲家、黛敏郎氏の参加を得た
ことである。黛氏は三島由紀夫の『金閣寺』のオペラ化の打合わせでベルリンに見えていたが、パリにはいって
私と会い、企画を聞くや、言下に参加を快諾してくれた。われわれはそれが初対面の間柄であったけれども。(中略)
(参加者に)ガブリエル・マズネフ氏がいたことを、真先に挙げたいと思う。(中略)
ガブリエル・マズネフが当夜われわれあいだにいたということの意義は小さなものではあるまい。彼は
『挑戦』の一冊を手に会場に駆けつけてくれたが、あとで私はその扉につぎのような献辞を見いだした。
「タケオ・タケモトに、この私の作をささぐ。本日、貴君のはからいで見たミシマの忘れがたきフィルムが
まさにその開花であるところの、美と死とのこの、自のストイックなる理想を、本書のうちにまさに
貴君が再見されるであろうがゆえに。 ガブリエル・マズネフ」
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

9 :
(中略)ほかに、《パリ憂国忌》出席者についていちいち詳述するいとまをもたない。ただ、全体に、右の
ガブリエル・マズネフ、ミシェル・ランドム(作家、映画監督)、バマット(ユネスコ文化局長)の三氏がその
代表例であるように、集まった碧眼の知識人たちはきわめて精神的傾向が強く、一様に「日本のミシマ」の
果断の行為に心を奪われ、現代において――つまり日本においてのみならず――それがいかなる意味をもちうるか
ということを真剣に問う人々であった事実を記せば足りるであろう。(中略)
黛敏郎氏は次のように回顧している。
〈…映写が終り、客席が明るくなってからも、暫くのあいだ誰も声を発する者はいなかった。隣席のローテン氏は、
ポロポロと涙を流しながら、私の手を強く握りしめたままだった……〉
そうだ、エマニュエル・ローテンの、この変化こそは、観客全体の感銘を代表して余りあるものだったのである。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

10 :
黛氏はつづいて書いている。
〈ややあって、立ち上ったローテン氏は、声涙ともに下る短い演説をした。「いま皆さんが、スクリーンで
観られた三島氏は、この映画さながらの古式に則った武士道の作法通りに切腹して果てた。このような天才的な
芸術家が、何故、このような行為に出たのだろうか?」〉
あとはもう言葉ならなかった。
私は、胸を打たれて、いかつい顔のこの人物が頬鬚を涙でぐしょぐしょに濡らしながら嗚咽を抑えるさまを、
ただまじまじと視つめるのみだった。「私はあらゆる暴力に反対だ!」と、最初、事件を知って叫んだローテンの
意見をかくも急旋回せしめた力は、いったいなんであったか?
ここでわれわれは、事件の本質に関する甚だ重要な一点に立つのである。
観客のすべてが別室に引きあげてからも、ローテンだけは、場内にただひとり佇んでいた。そして私の姿を
見かけると、なおも涕泣しつつこういうのだった――「《愛と死の儀式》――私がここに見たものは、まさしく
神ということなのです……」
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

11 :
エマニュエル・ローテンといっしょに私が映写室を出ると、小さなサロンに一同は頬を紅潮させて集まっていた。
一言でいえば、それは、打ちのめされた光景だった。(中略)黛敏郎氏はこう書いている。
〈当然、私は質問攻めにあうことになった。私は、私に考えられる限りの、三島氏の自刃に対する見解を述べた。
要するに三島氏は、大東亜戦争敗戦後の虚脱状態から一転して今日の経済的繁栄を手にした現代の日本人たちが、
芸術的にも、精神的にも、日本古来の伝統を軽視し、それが天皇ご自身をも含めた日本人一般の風潮となって、
日本がその文化のすべてのよりどころとしてきた天皇制の危機を、誰よりも強く感じ始めたこと。(中略)あの
事件が世の中に与えるショックの性質と限界とは、氏にとっては計算済みのことであって、氏の目指したのは、
「精神的クーデター」の火をつけることであり、それは見事に成功して、あのショック以来、日本の知識人の多くは、
深刻に自己を見つめ始めたこと。以上のような説明が、私の口からなされると、讃同の意を表わしてくれる
フランス人たちが多かった。(中略)〉
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

12 :
「《ユウコク(憂国)》とはどういう意味ですか?」と真先に私に尋ねてきたフランス人があった。批評家
クリスチャン・シャバニ氏である。(中略)
「それは、国の運命を憂うる、ということです」と私は答えた。
そう聞くと相手は、「ああ、なんという美しいイデー(思い)だろう!」と叫んだ。
「つまり、単なる《愛国(パトリオチズム)》とは異なるんですね。(中略)そこには、深く民族の帰趨を案じ、
精神的にこれを指導する予言者の役を果たし、時いたらば人柱となって死するをも辞さじという、苦悩と殉教の
精神が、より脈々とあふれでている……ヒーローよりも、予言者の心情というべきではなかろうか。バビロンの流れ、
ケバル河のほとりで、幽囚の民族の運命を嘆いた旧約の《レ・グラン・プロフェット(大予言者たち)》のように」
どんなにか私は彼の手を握りしめたかったことであろう! この打てば響くような素早い理解、深い共感性……。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

13 :
地球の反対側で、ほかならぬ同胞のあいだで、犯罪者・精神錯乱者・エグジビショニスト、等々、ありとあらゆる
罵声が浴びせられつつあるあいだに、ここではその「元凶」は、「予言者」の名をもって語られつつあったのだ。
「ぼくは、はっきりとローマ派の人間だが……」と、ここでガブリエル・マズネフが口ゆ切った。…「つまり、
高徳のストイシャンだった古代ローマ人の生きざまを全幅に肯定する人間だが、しかし、このぼくにしてからが、
このフィルムを観て、まったく『シャッポー(脱帽)!』と叫ばざるをえなかったよ」(中略)
「…ローマの偉人たちはストア派の哲学に勇気の糧をもとめたのだ。もっとも、なかには、その勇猛をもって
鳴る武将、小カトーのように、プラトンの『パイドン』を読んだあとで自したという変わり種もあるけれどもね。
(中略)ところで、この小カトーの自が割腹によるものだったことは、ごぞんじでしょう?」マズネフの
問いは私に向けられていた。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

14 :
「ええ『ブルタルコ英雄伝』の、ぼくは熟読者ですからね」
「ぼくも同様……要するに、剣は、ローマ共和国の武人たる以上、もっとも尋常の自の具だったんですよ。(中略)」
「ちょっと待ちたまえ……」と、ここで初めてアフガニスタン人の剣豪バマットが口を開いた。…さながら
「面!」の掛け声を掛けるかのごとく繰りかえしていう――「待ちたまえ! しかし、それら顕然たるローマの
歴史的武将たちは、自決するときに、なんらかの儀式(リット)にもとづいてそうしたかね? (中略)
日本のサムライの死は、勇気のあらわれというだけのものではないよ。プラスなにかが、そこにはある。
それゆえの切腹の儀というべきではなかろうか?」
「そうだとも!」
と、バマットのうしろから、そのソファの背にもたれて話に聞きいっていたエマニュエル・ローテンが叫んだ。
「それこそはミシマの言いたかったことのはずだよ」と。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

15 :
同時に、「セ・ジェスト(そのとおり)!」「ヴォアラ(しかり)!」「アプソリューマン(まったくそうだ)!」
という声々が、あちこちから興った。(中略)
しかし、間髪を置かず、一座の声々に呼応して、マズネフもこう言っいた。
「だから…だから…ぼくも、さっき、こう言いかけていたんだよ。『シャッポー』とね!」(中略)
バマットがまたも切りこみをかける「つまり、ローマ的自には、なんというか、《フォルム》がない。
フォルム――カタ(型)ですね……」と私のほうを向いて刀の柄を両手で握りしめるそぶりを見せる。
「つまり、文明全体のありかたにかかわるかどうかということだと思うな……」とミシェル・ランドムが静かに
言葉を挟んだ。「いいかね、すこし告白をしていいかね……」細い銀縁眼鏡の奥で、不適な彼の顔の表情と
不釣合な優しい目が、一、二度、しばたたいた。この人物もまた、疑いもなく、私がヨーロッパで知った第一級
知識人の一人である。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

16 :
「日本で武士道といわれるものが、もし単に勇気と武技の結合したものであるだけなら、ローマと日本のあいだに
なんの差異もないことになるだろう……
こういうことをぼくに教えてくれたのは、弓道のハンザワ(半沢)先生だった。ハンザワ先生といえば、
『弓と禅』を書いたあのドイツのオイデン・ヘリーゲルの師範――有名な東北の阿波研造名人の弟子にあたる
人だけれどもね。…このハンザワ先生の全人格から放射してくるもの、これは、断じてヨーロッパには
見当たらないなにかだった。つまり、そこに浸っているかぎりは死は存在しないといった……ハンザワ先生の
弓を見ていて、ぼくはそれが単なる武技ではないと悟った。先生は、射るとき、目をつぶっておられたのだから…」
私は、その光景を知っていた。ランドム氏のフィルム、『武道』のなかで、それはもっとも美しいシーンであったから。
また私は、半沢師範の訃報に接して彼が子供のように泣いたということも聞かされていた。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

17 :
(中略)会話は、こうして、いつのまにやら日本とローマの自決比較論のようになってしまった。
「問題は、しかし、二千年まえのそうした超越的死が、その後も脈々とわれわれの文明の頂点の一形式として
伝えられてきたかどうかということだよ……」声の主は、ふたたびミシェル・ランドムだった。
「日本にはそれがある。それがル・ブシドー(武士道)というものだ……」ぴしりと決まった一言だった。
日本人自身がその持てる最上の伝統を擲ってかえりみないときに、西洋人の側からこうした信念の吐露が
なされるということも、考えてみれば奇妙なことではあった。(中略)
たった一つ、その夕べ、会合者のあいだから洩れた「政治的」発言はミシェル・ランドムが発したつぎの質問だった。
「さきほどのムッシュウ・マユズミの言葉によると、ミシマは、天皇ご自身までが日本の伝統的精神の否定者で
あったと見ておられたとのことだが、それはどういうことなのですか?」と。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

18 :
(中略)日本的神聖の持続の問題は彼にとって重大関心事だったのだ。「日本はまさにカミ(神)の国だよ…」
ぽつりと彼の口を洩れたこの言葉の意味を、その後しばしば私は想いだしたものである……
「天皇は飽くまで神であらせられるべきだった、というのが三島の考えだったのです」と、そこで私は
『英霊の声』を想起しながらランドムの問いに答えた。「しかし、それにもかかわらず、自衛隊バルコニーで、
『天皇陛下萬歳!』を三唱して三島は死んでいったわけですが……」
「それはじつに重要なことだ! それはじつに重要なことだ!」ランドムは、驚いたようにこちらをじっと見て、
そう繰りかえし叫んだ。頃あいやよしと見て、エマニュエル・ローテンが、立ちあがって声をかける。
「メッシュー(みなさん)、今宵は、われわれの精神の通夜です。談論風発のつづきは、このあと、ぜひ拙宅で
やってください。亡き日本の天才をしのんで、心ゆくまで語りあおうではありませんか!」
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

19 :
(中略)ここでまた何人かの新規の参加者があり、そのなかに美術批評家ミシェル・タピエ氏の姿もあった。(中略)
「私は、ここに、なによりもシントー(神道)を感ずるよ……」
これが、サロンに足を入れるや、ミシェル・タピエがわれわれに放った第一声であった。「ここに」とは、
問題の自刃の行為をさして言ったものであることは、いうまでもない。
「ヨーロッパでは、《混沌(カオス)》といえば、それまでだ。しかし日本のそれは、コントロール(制御)
された混沌なのだよ……」警句めいた一言である。(中略)
ふたたび黛敏郎氏の記録にゆずろう。
〈…最後に、みんなの希望で、たまたまローテン氏が愛蔵していた拙作で、三島氏も生前好きだといってくれた
『涅槃交響曲』のレコードをかけながら、思い思いの瞑想にふけり、三島氏の魂を慰めようということになった。
『涅槃交響曲』のコーラスの響きが長く尾を引いて静まったとき、ローテン氏は静かに立ち上り、目に涙を
一杯たたえながら即興の詩を朗誦した……〉
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

20 :
世にも気高い《愛の物語》…… 
愛、おお かくばかりの愛! 
かくばかりの高貴な生! 
絶大の荘厳、《意志》の頌歌…… 
服喪の空は その暑いしずくを哭き 
ゆるやかな血流は落日を崇高ならしめる。
九腸よりほとばしる斑点の飛沫! 
一体となった双生の命 
一心となった二つの手の古代壺(アンス) 
そして求める《彼岸》への絶対の供物。
入念に死を決意して三島は 
意志の典礼を一点にむすぶ――
すなわち森厳の盛儀、切腹の行為を 
超越的《放棄》の聖なる戦慄へと。
エマニュエル・ローテン「愛と死の儀式(憂国)――三島にささげる詩」

21 :
千古脈々たる誇らかな儀式(リット)、
この久遠の神話(ミット)よ、
愛まったくして 死かくも辛く潔し。
剣はこのししむらを刺し、鞭打した。
恐るべき死の創傷を深めよと…… 
だが深められるのは夜ではなく《生の彼岸》なのだ。
介錯がこの供献を成就する。
だが成就されるのは自ではなく 
この讃歌なのだ。
融化した存在、密かなる聖体拝受(コミュニオン)よ! 
淋漓たる鮮血にこそ美の高潔があり、
淋漓たる《至誠》の書にこそ 
精神の解脱の場がある。
かくてこそ絶対の恩沢へと 
いま 精神は飛翔する、
大死一番の狂える寛容もて 
かの無限へと――
《Kami(神)》の一語もて 
名づけられた無限へと……
エマニュエル・ローテン「愛と死の儀式(憂国)――三島にささげる詩」

22 :
偉大な芸術作品はすべてある意味で作者の遺書である、とマルローが三島をめぐって言った言葉が想いだされてくる。
その意味で、たしかに『憂国』ほどぴったりと「遺書」と呼ばるべき作品も稀であろう。
(中略)かつて――一九五八年――ド・ゴール大統領のもとにフランス第五共和国が成立したとき、フランスは
アンドレ・マルローを特使として日本に派遣し、国交を樹立したことがあった。そのとき、偉大なる使者は、
満堂の聴衆を集めた講演席上において次のように提唱した。「西欧全体にたいして
フランスは日本の精髄の《受託者》たらんとするものであります」と。(中略)
日本の精髄の受託者……この精髄のいかなるかについて、そのときマルローはなんと言ったか? 
日本民族によって永遠に記憶され感謝されてしかるべきその言葉を、ここで石碑に文字を刻むがごとく
繰りかえしておくことは無意味ではあるまい。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

23 :
マルローはこう言ったのだ。
〈この日本の精髄について全世界が甚だしい無知のなかにいるということを、どうか、しっかりと肝に銘じて
いただきたい。全世界にとって日本とは、依然としてエキゾチズムか絵葉書風景の国、目もあやな、あの版画に
描かれたかぎりの国にすぎないのであります。さればフランスは、なによりさきに、こう表明しなければ
なりません――
日本は中国の一遺産ではない、なぜなら日本は、愛の感情、勇気の感情、死の感情において中国とは切りはなされて
いるから。騎士道の民であるわれわれフランス人は、この武士道の民のなかに、多くの似かよった点を認めるように
つとむべきであろう。かつ、真の日本とは、世界最高の列のなかにあるこの国の十二世紀の偉大な画家たちであり、
隆信(藤原)であり、この国の音楽であって、断じてその版画に属する世界ではない、と。〉
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

24 :
〈そして冀(ねが)わくば、日本とフランスとの接近が、フランスをして、その言葉に耳を傾けようとする人々
すべてにたいし、かく言わしめんことを。すなわち――
諸君が、かくも長いあいだ、目もあやなピトレスクの国民であると思いこんできた人々は、じつは英雄の民だったのだ。
もしこの民族の魂を知らんと欲すれば、彼らの絵画のなかではなく、むしろ音楽のなかにそれを求めよ。
鉄の琴に合わせて歌われたその歌は、死者の歌、英雄の歌、深淵なるアジアのもっとも深淵なる象徴の一つに
ほかならない! と。〉
(中略)マルローの講演を聞いて、時の宰相以下の日本の貴顕の士の全代表は、これに熱烈な感動の拍手を送った。
武士道の礼讃――たしかにこれは言うべくして美しい。つまり、遠来の賓客の讃辞としては。だが、その後、
いったい、誰が、教授なりジャーナリストなり批評家なりの誰が、投げられたこのテーマの発展をはかっただろうか?
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

25 :
とんでもない。大半の人々の耳に、フランス文化大臣のあの言葉は、いわば過去の甲冑に対する礼讃として
響いたにすぎないのだ。「武士道と騎士道の対話」ということをマルローが暗示したとき、本気で彼がそれを
われわれの文明の死活の問題として呈したのだということに気づいた人士は、まずほとんど皆無だったのである。
そして、おそらく天皇ご自身でさえも……(中略)
われわれにとって「武士道」とは、葬りさられたもの、断罪されたものにすぎなかったからだ。(中略)
いっぽう、フランスの側から見れば、そんな日本は軽蔑と無視の種でしかなかった。ド・ゴール大統領と
「対話」した日本の政治家にしても皆無である。…池田勇人首相にしても、むなしく相手から「トランジスター
商人」との寸評を得たにすぎない。彼我の観点の相違は、じつに歴然たるものがあったと言わなければならない。
われわれにとって「平和憲法」の名で正当化されるものは、フランスの目にとって隷属の条件にほかならなかった
からである。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

26 :
現代の予言者とは、なによりも、「収容所列島」の現実を知り、これにたいして精神と歴史の両面にわたって
絶対的「ノン」のアクションを取りうる人々である。(中略)
それはまた、「文武両道」と彼が呼んだものの、現代的発露の方向でもあった。自己の身命を擲(なげう)っても
自由を守ろうとする文化の原理と、自由を擲っても生命以上のものを守らんとする武士道との統合は、がんらい
至高の矛盾の統合であって、およそ「文民統制(シヴィリアン・コントロール)」などという考えをもって
量りきれるレベルの問題ではない。(中略)
なぜなら、ここにいう「文武両道」とは、(略)…自衛隊バルコニーから絶叫した次の瞬間には古式に則って
自分の腹を掻きさばいていたという超越的抗議形式によって、ヨーロッパ知識人の目に、「人間の条件」と
「日本の条件」を同時に乗りこえる意志を示した壮絶無比の行為として映ったところのものにほかならないからである。
彼らの目に、この場合、文学的死、政治的死の区別はなかった。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

27 :
(中略)日本は、他の諸文明が宗教によって「人間の条件」をこえる超越軸を求めてきたときに、ただひとり、
武士道によってそれを求めてきた点において、たしかにユニークだったのである。ここのあたりの実相を
もっとも適格に見据えていた人ありとすれば、それが、日本においては三島由紀夫その人であったと言わなければ
ならない。(中略)
「一つの墓をも寺をも建てえなかったわれわれの文明……」という、マルローの議会演説中の言葉が、さながら
応答のように、静かに、同時にここでわが胸によみがえらずにはいない。「日本人の死の衝動」と言ったとき、
期せずして三島は、日本のみならず、《彼岸》なき現代文明の運命そのものについて語っていたからである。
「ル・カ・ミシマ」をヨーロッパが、政治に始まり人間に終る、ないし日本に始まり西欧に終る文明の問題として
受けとった理由はここにあるといえるであろう。無理もあるまい。文明の没落の意識において、彼らはわれわれに
半世紀余も先んじた地点に立っているのだ。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

28 :
そのようなヨーロッパ的反応の興味ぶかい一例を示そう。巣鴨教誨師として東条英機以下「A級戦犯」七士の
処刑に立ち会った花山信勝師に、そのかけがえのない体験を記録した『平和の発見』なる名著がある。同書の
見事なフランス語版ならびにイタリア語版の翻訳者であるピエール・パスカル氏なる人物が、われわれにとって
まことに胸打つばかりの反応を示しているのである。パスカル氏は、一九四九年、『平和の発見』が日本で
刊行された年に、いちはやくこれを入手し、かつ翻訳していたという。しかし、その後二十年間というもの、
訳稿を筐底に秘めておかざるをえなかった。〈過去百年にもわたる進歩主義者たちの放埒のただなかにあっては〉
これほどの本を出版したところで、ただ無理解をうけるのみ、と判断したからである。ところが、三島事件を
聞いてパスカル氏は愕然として目覚めた。そして、時こそ至れと、感嘆すべき克明な注解と研究を付して堂々の
訳書刊行にいたったのであった。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

29 :
およそ日本では考え得ざるほどの、自由かつ雄弁なる訳書の体裁であって、じつに内容は、東京に始まって
三島礼讃に終っているのであった! 本文そのものは「東京」にちがいないが、付録の一つになんと
「ユキオ・ミシマの壮絶無比の選択」なる一文が添えられ、さらに巻末には訳者による手向けの歌まで加えられて
いるのである。「一九七〇年十一月二十六日、日本の宮中のお歌所の伝統にならいて詠める」と詞書きして、
フランス語による「俳句十二句ならびに短歌三首」が披露されているのだ。題して「ミシマ・ユキオの墓」という。
その情熱、炯眼、大胆に、ほとほと私は感ぜずにはいられなかった。なにより驚いたことは、東京から
三島決起にいたる因縁の糸を見事に読みとき、これを手繰りよせたことであった。日本人が行なってしかるべき
ことを、この未知のフランス人がやってのけたのである。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

30 :
(中略)これだけの炯眼ぶりを氏が発揮したことの裏には、「東京」そのものにたいするその仮借なき
批評眼があった。いかにしてここから三島礼讃の挙にまで行きついたかを知るために、その主張するところを
瞥見してみよう。
〈…「東京」は、実際には、何人かの被告を見せしめに裁き、全員、愛国心のゆえに有罪なりと宣言したに
すぎない。(中略)民主主義思想の愚鈍ぶりは、東条英機をして「ファッシスト的」独裁者たらしめた。これは
歴史的真実に反するのみならず、当時の君主制日本の神制政治上の概念にも相反するものである。諸政党解党に
つぐ大政翼賛会の唯一党結成は近衛公の意志によるものであって、東条英機将軍は、公に代って帝国政府の
総帥となるに及び、連合国にたいする政府の決断躊躇をすべて引きつぐ結果となったのである。連合国側こそ、
「経済制裁」に名をかりて、宣戦布告もなく日本を窒息死せしめんとしていた事実を忘れてはならない……〉
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

31 :
〈…捕虜収容所の日本人指揮官のなかには、無数の捕虜にたいする扱いが穏当でなかった者も、それは多々
あったであろう。しかし、「捕虜虐待」で絞首刑にされた人々の運命たるや、シベリアへの「死の行進」や
カティンの大虐をやってのけた連中、またケニヤ・エジプト・北アフリカ・インドなどの収容所の警護者どもの
思いもおよばないようなものだったのだ。
…リチャード・ストリーがその著『近代日本史』のなかで記しているごとく、日露戦争時において、ロシア兵の
捕虜ならびに支那の民間人にたいする日本軍のふるまいは「世界中の尊敬と感嘆を勝ちえた」事実を思うがよい。
でなくして、旅順開城ののち、露軍司令官ステッセルは、なぜ乃木将軍にその白馬を献じようと欲したであろうか?〉
(中略)一冊の極東軍事記録も刊行されなかったフランス、いやヨーロッパにあって、このような発言は
貴重と言わねばならない。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

32 :
(中略)パスカル氏はいうのだ。
〈正義の審判の名のもとに《不正義》によって刑死せしめられた人々の想い出が、いまや、裁いた者たちの
想い出よりも日一日と荘厳となっていく。裁いた者たちのほうが、早くも使い捨てという忘却の闇へと沈んで
ゆくのだ…(中略)
キリスト再臨を待つまでもなく、正義はすでになされたのだ。…あの日、一九七〇年十一月二十五日、…
《夷狄の君臨》にたいして相変らず不感症のまま日本が、黙々として世界第三位の産業大国となりつつあったとき、
ユキオ・ミシマは、その儀式的死によって、みずからの祖国と世界とにたいして喚起したのである。この世には
まだ精神の一種族が存し、生者と死者のあいだの千古脈々たる契りが、いまなお不朽不敗を誇りうるということを。
おのれの存在を擲ち、祖国に殉ずることによって、もって護国の鬼 le remords de cette patrie と化さんと、
生の易きに就くよりも、かかる魂に帰一することのほうを、ミシマは望んだのであった。…〉
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

33 :
〈個人的絶望によってではなく超越的《愛他主義(アルトルイズム)》によって、かつ、愛のかなたの愛によって
決行されたユキオ・ミシマの聖なる自は、《共和国擁護》を叫ぶ古蛙どもの、いつ果てるとも知れぬ金切声の
大合唱を西欧世界に喚起するにいたった……畢竟、それらは、遠い昔にとっくに地に堕ちた名誉なるものに
たいする、一種の畏怖心にすぎない。…まるで、もうちょっとで、あちこちに、《反ファッシズム監視委員会》の
どさ廻り小屋でも造られかねない勢いだった。〉
(中略)一息入れてパスカル氏は、またも筆を取りなおす。〈このユキオ・ミシマが自己犠牲をあえてした場所が、
「愛国心の囚人」にたいして米軍があえて有罪宣告を下した旧日本帝国大本営の跡地、市ヶ谷台上であったのだ。〉と。
(中略)ミシマに触れたヨーロッパならびに海外の無数の記事のなかで、ずばぬけて出色の出来であったとして
同氏は、一九七〇年十二月一日付のローマ紙「イル・テンポ」に掲載された「東京のハラキリ」なる一文を挙げている。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

34 :
尊敬すべき洞察力をもって、その執筆者マギナルド・バヴィエラ氏は書いているのだ。しかも、三島自刃の
直接目的――改憲と防衛の問題にまで突っ込んで。…まず、アメリカの対日政策の変化が語られる。
〈…アメリカ人は、自分たちが精を出した毒草除去の作業が完全すぎたという結果を、恐怖心をもって視つめてきた。
(中略)(ドイツ、日本、イタリア)の野心をあまりにも徹底して摘みとりすぎたために、これら蛇蝎のごとき
三国が歴史のつんぼ桟敷に追いやられて商人国家へと変貌していくさまを、「アンクル・トム」はただ呆然と
見守るほかはなかった……われわれヨーロッパ人が、自国侵略の危険をはらんだロシア赤軍用のトラックを
競争さわぎで製造しつつあるあいだに、もはやどこからも侵略の恐れなしと信じきった日本は、アジアの警備役は
アメリカにまかせっぱなしで――日本株式会社は二度と軍事大国になるつもりはないと公言しつづけてきたのである。〉
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

35 :
〈なんとかして日本人にもういちど尚武の気概と世界政治の巨視観を持ってもらいたいと、アメリカ人の側で
躍起になってきたのも、むべなるかなというべきである。(中略)全アジアの骨組がひっくりかえってしまったいま、
太平洋の防人の役は徐々に日本に肩代りしてもらいたいというのが、彼らの本音にほかならないからである。
(中略)(日本の)首相は、にんまりと、憲法第九条があるじゃありませんかと応じたものだった。(中略)
恒久武装放棄を声高に誓わされた、あの屈辱の憲法である。(中略)「残酷な戦争をもって日本を敗北せしめたあと、
その憲法をわれわれに押しつけたのは、あなたがたのほうではありませんか。こんどは、こっちのほうでそれを
大事にする番ですよ…」かくて日本は、豪華けんらんとしてかつ陰鬱なるヴァカンスを享受しつづける安楽へと
兎跳びに跳びあがり、富裕にして怡悦なき一億の日本人は、熱狂の空虚を、国家的目標と集団的希望の欠如を、
時とともにはっきりと認識するにいたった。〉
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

36 :
〈日本――だが、誰がその真実の姿を知ろう? (中略)
再度日本を訪れたおりに、私自身、ここにはきっと秘密の国が隠れているにちがいないとの直感を持った。
それは、たまたま私が、防衛庁の位置する市ヶ谷の丘を昇っているときのことだった。(中略)訪う人なきこの丘、
いまなお一軍が身を隠しつづける丘から、だが、一つの叫びが、いま、われわれの耳に届いたのだ。沈黙は破られた。
ヴェールは、一瞬、かなぐり捨てられた。ユキオ・ミシマ――この世界的名声の作家が、万人の面前で短刀を
自分の腹に突き立てたのだ。いまはなき特権階級(カスト)、サムライの儀式的自である。(中略)
祖国はもはや自分が夢みた国ならずというのでスペインのファランへ党員が自分の心臓に弾丸をぶちこむ。
盟主ロシアが共産党員としての自分の夢を打ち砕いたといってプラハの学生が火だるま自する。祖国日本が
非武装に甘んじ、もはや歴史舞台への回帰を放念したという理由で、一人の作家が東京で自刃して果てる。…〉
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

37 :
〈これら自者たちは何を信じ、何を得ようと望んだのか? 世界中の良識の徒は、一様にただ、せせら笑いを
浮かべるのみである。
しかし私としては、この問題を考えるとき、あまたの自のイメージをとおして古代ローマがわれわれの心に
なお生きつづけているという真実を思わずにはいられないのだ。生を厭うがゆえにではなく愛するがゆえに、
古代ローマ人は自ら生命を断った。これは、この方面の研究の第一人者、ガブリエル・マズネフも書いたとおりである。
たしかに、そこからして彼らは解放者ジュピターを自の守護神として選びさえもしたのだった。ジュピターとは、
愛する者のため自己犠牲という至高の自由を選ぶ寸前に彼らが熱祷をささげたところの、最高神だったからに
ほかならない。
その後、ミシマに負けじと、事もあろうにゼンガクレンの、しかしミシマを崇拝してやまない一学生が、
「われはよりよき世界に生きたし」という言葉を遺して自している。いったい、なにがどうなっているのであろうか?〉
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

38 :
〈(中略)ともあれ、私は、ここに告白する。これらの恐るべき秘密をもってわれわれ諸外国の人間のみならず
自分たち自身をもいまなお驚嘆せしめる能力を持った一民族にたいして、そぞろ自分は羨望の念を禁じえない、と。…〉
(中略)三島をめぐる論争は、パリからローマへと飛び火した。「高度経済成長」の奇蹟として世界中の人々を
驚かせてきた日本――は、じつは「政治的には両手を断ち切られた国」(アンドレ・マルロー)であったと、
白刃によって切裂かれたヴェールごしに人々はその実像を初めて直視したのである。(中略)これはわれわれの
問題であるとともに現代史の問題そのものであることを、「イル・テンポ」紙の記事は喚起している。(中略)
現代の日本人がいかに眉をひそめようと、現実に彼らがユキオ・ミシマにおけるこの《日本的流儀》によって
魂を震撼せしめられたという事実だけは、いかんとも覆いがたいのである。
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

39 :
ピエール・パスカル氏も、その無数の紅毛人のなかの一人であった。だれから頼まれるでもなく、この人物は、
前述のごとく『永遠の道』一巻の最後に自作のフランス語「ハイク」と「タンカ」を添えて日本の英雄の霊を
弔っている。(中略)全ヨーロッパに向かって敗者日本の声なき慟哭を伝え、その魂魄いまだ死せずと叫んだ、
花も実もあるこの人物の義挙――どうして義挙でないことがあろうか?――を深く徳とし、その二、三首を
拙訳をもって、ここに日本人の感謝のあらわれとしたい。士道の華――それは見事にヨーロッパで咲いたのだ。
 ユキオ・ミシマの墓   ピエール・パスカル
いましわれいのち消ゆとも火箭(ひや)となり神の扉に刺さりてぞあらむ
獣(けだもの)の栄ゆるときは汝(な)が首を斬りてぞ擲げよ友らつづかむ
この血もて龍よ目覚めよその魂魄(たま)は吠えやつづけむわが名朽つとも
竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

40 :
Q――日本は異常な死によって先に三島由紀夫を失い、いままた川端康成を失いました。
(中略)このような死はどう映りますか?
アンドレ・マルロー:現在までに、たしかに相当数の日本人作家が自決してきています(se sont tues)。
西欧では、これらの人々をさして自した(se sont suicides)と言っているがね。しかし、彼らは、ぜったいに
自したなどというものではない。自ではなしに自害した、すなわち武士道たけなわなりしころの死とおなじく、
意志の力によって、一死よく生をまっとうしたと見るべきだと思うのです。
アンドレ・マルロー
1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより

41 :
三島については、これは、あまりにも偉大な現実的証というほかはありません。そこには偉大な伝統が息づき、
儀式(リット)がものをいっている。気合もろとも…(左から右へぎりぎりと腹を掻き切る身振りをして)
この行為の意義は甚大と言わなければならない!(中略)
日本的自決ということには、はかり知れない大問題が秘められている。いかなる文明も、死なるものをエリートの
与件として問題化したことは他にないからです。ある流儀によってこれを問題化したものこそは、日本の
武士道であった。しかし、武士道と私はいうのであって、日本そのものとは言いません。それにしても、
なにゆえ、ある流儀と、あえていうのか?
アンドレ・マルロー
1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより

42 :
ああ、もし人が、《死》なるものがまったく存在しないような一文明と遭遇したとしても、なんとそれは
当然の(自然的な)ことだろう! だれもが、そこでは、子供のころから、自分の自害すべき瞬間を選ばねば
ならないと知っているような文明と遭遇することは……。
こういって正しいのか間違っているのか、私自身にもはっきりとは言いがたいのだが……私はね、ガス管で
自するよりは三島のやりかたで死ぬほうが、ずっと自分自身にふさわしい気がするんだよ。いま、「自」
という言葉を使ったが、これがけっきょく西欧流の自と同じでないことは、さっきも言ったとおりだがね……
そう言ったからといって、しかし、どっちの立場を私が擁護するわけでもないが……私には、ただ、川端の死より
三島の死のほうが身近に感じられるというだけのことです。
アンドレ・マルロー
1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより

43 :
そんなことを言ったって、おまえたちの国ではハラキリなどしないではないか、という人もあるかもしれないが、
しかし、われわれにだって拳銃というものがあるからね。そして私の場合だったら、(ガス管やストリキニーネ
よりも)やはり拳銃のほうがぴったりする。(中略)
東西の自の違いの問題にもどると、このような死の意味を西欧の人間――ということは、つまりヨーロッパと
アメリカの両方をひっくるめた人々――が説明しようとすると、かならずキリスト教的観念から割りだしてくるので、
そうなるといっさいが自という言葉で処理されてしまうことになって、結局のところ、なにもわからなくなって
しまうのが落ちなのです。それは、ちょうど、ヨーロッパの騎士道――これもなかなかに立派なものだったが――
について、騎士たちは自したというのと同じことで、的はずれと言わざるをえません。
アンドレ・マルロー
1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより

44 :
神風特攻隊のメンバーは、ほとんど例外なくその先祖が武士だったのだよ。
ミシマの本はすべて必読だ。
切腹とは、死ぬことではない。死を行なうことである。
アンドレ・マルロー
竹本忠雄との談話より
私は、どんな日本に関心があるかといえば、それはけっして政治的日本といったものではありません。それは、
永遠の日本(le Japon eternel)なのです。
…この日本は、死の意味においても愛の意味においても音階(ガム)においても、中国とはまったく異なっている。
…日本という国は「日本それ自体」の国であって、そっくりそれを受け入れるか拒否するか以外にありえません。
私自身はこの日本をどう見るかといえば、日本が意味するものはじつに測り知れないものがあると思っています。
アンドレ・マルロー
1969年11月25日、マルロー邸でのインタビューより

45 :
覚えておいてくださいよ。切腹は自にあらずということを。
切腹とは、祖廟をまえにした犠牲(いけにえ)であるということを。
この庭園も、これまた一個の祖廟ならずしてなんであるか。
アンドレ・マルロー「日本の挑戦」より

46 :
一条の滝をまえにしてこのような感銘をうけたのは、私にはまさに空前絶後の経験だった……私は思った――
これはアマテラスだ、と。日本の女神にして、水と、杉の列柱と、日輪との神霊。そしてそこから天帝が降臨してくる。
この垂直の水は、二百メートルの高さから落下しつつ、しかも不動なのだ。
(伊勢・熊野、那智滝を見て)
アンドレ・マルロー「非時間の世界」より
そそりたつ列柱、そそりたつ飛瀑、光に溶けいる白刃。日本
アンドレ・マルロー「反回想録」より
日本の歴史には《聖なるもの》が洞窟より顕れでる瞬間というものがある。
見よ、日本の夜明けは来る。きっとやってくる。
アンドレ・マルロー
1974年、来日時の在日外人記者団との会見より

47 :
それにしても私は、三島について、いつも心にこう思っているんですよ。なぜ彼は、結局のところ消えさらねば
ならなかったのか、と……。あのとき以来、私が自分の胸に問うていることは、こうなのです――あれは、
はたしてなにものかの、つまりほんとうに偉大で価値あるものの始まりだったのか、それともそうしたすべての
終りだったのか、と……。私自身の考えはどうかといえば、それは、なにものかの終りだったのだと思う。
しかし、それがなければ始まりが不可能であるような、そうした終りだったと思うのだよ。さまざまな偉大な
文化の歴史を例にとれば、じつにしばしばその最後はかくのごとしといった例があるものなのだ。
この点について、ロジェ・カイヨウが面白い意見をもっていてね。カイヨウによれば、日本における三島の
ケースは、ヨーロッパにおけるピカソのケースと同じだというんだ。カイヨウはピカソを、ヨーロッパ絵画の
《決算者》le Liquidateur と考えていたからね。
アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

48 :
この決算者とは、大文字でLを書く意味のそれだけれども。つまり、カイヨウは、ピカソの作品を一種の
自として考えていたということで、そのようにいえば、きみも、同様にしていかに三島を解釈しうるか、
わかるというものだろう。三島は必要ななにものかだった。そのことは、はっきりしている。
では、いまやそれがいかなる色合いをおびるかということになると、つぎのようにいうのがおそらく賢明であろう。
それは、日本そのものがいかなる色合いをおびるかということいかんにかかっている、と。今後、日本が、その
精神力のある種の化身に、しかもまったく思いがけない化身に行きつくということは、大いにありうることなのだ。
しかし、これについて私の考えるところはこうだ――いまから百年後に日本的精神性の与件は、現在われわれが
持っている与件のすべてをひっくるめたものとまったく似ても似つかないものとなるであろう。すなわちそれは、
まったく別の与件となることだろう、と。
アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

49 :
「なんぴとかが別の生のもとに生まれかわったとしても、その人間は、自分の過去世においてどういうことが
起こったかということにもはや気づかないであろう」(『豊饒の海』)
……しかし、にもかかわらず、過去世は存する。《業》によってそれが存するゆえに。いや、業と言ったのでは
日本固有の考えではないから、たとえば《ヒロイズム》と言おう。このヒロイズムこそは、別の生における
あなたがた日本人のありかたというものを一変せしめたものなのだ。諸聖人の《通功(コミユニオン)》のように。
このようなヒロイズムこそは人類をある程度一変せしめたものであって、幾千年もの他の事象とともに
《輪廻転生》les reincarnations と呼ぶにふさわしいものだ。なぜなら、彼らはすべて、こう考えているからだ
――すなわち、いわゆる法燈伝なるものは、〈覚者(ブッダ)〉の群れを外にしてはこれ迷信にすぎない、と。
一個の人物が別の一人物に転生するにあらず、ただ普遍的輪廻転生があるのみ、と……。この点『マスの法典』の
意味は了然 formel といわねばならない。
アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

50 :
いいかね、英雄的日本は、いまに、かならずや(不可避的に inevitablement)現われてくるであろう。
一個の国なるものはその魂の上に横たわっているのだから。
ところで、現在の日本は、かつて遭遇したことのない最悪の状況下に置かれている。それというのも、第二次
世界大戦の結果、貴国は、どうみてもアブノーマルとしか見えない諸々の生活条件のなかで世界最強の国の一つと
なってきたからだ……。このような状態のままで、なにもかもがつづいていいというはずがない! 
……アメリカ人は、話し相手は中国だと信じこんでいるが、そんな話合いは書割(デコール)にしかすぎない。
太平洋の問題とは日本なのだから。
いつの日か、いまわれわれがここで話しあっている事柄は、きっとドラマチックな形をとって現れることとなろう。
そしてそうなれば日本は、フランスがド・ゴール将軍のもとに再統合されたように、あるべき日本の真の姿の
もとに再統合されることとなるだろう。
アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

51 :
一個の国民は、みずからのもっとも深い魂がはたしてこれでいいのかとなったあかつきには、いやおうもなく
この魂の上に自己を再発見することを迫られていくものだと、私は信じている。しかるに、現在の日本が
置かれた条件が、繰りかえしていうが、根本から非道 deraisonnable なものであるというのに、どうして
この日本がこのままでいいというはずがあろうか、いや、とうていそんなはずはありえないと私は思うのだ! 
いや、私ばかりではない、私が会ったアメリカの大統領たちをはじめ国家要人は、すべて、私とおなじ目で
問題を見ていることに変りはない。
アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

52 :
日本は、中国が原爆を持っていなかったあいだは、ずっとアメリカと友好関係を保つことができた。しかし、
中国が原爆を持ってからというものは、あなたがたは、いままでの現実を敷き写しにして生きていくわけには
いかなくなっている。そこで、どうしてもつぎのいずれかの解決を必要とする段階に立ちいたるであろう。
すなわち、この原子爆弾をアメリカからもらうか、またはその自力製造権をどこからか獲得するか、あるいはまた
ソ連から原爆を入手するか、そのいずれかを必要とする岐路に立たされるだろう。
日本のような国柄の国家が、人口八億もの人間を擁し、しかも原爆によってあたながたを破壊する能力を有する
中共をまえにして、手をこまねいていることははたして可能か……。
中共が原爆を持った以上、日本もそれを持たずにはいられなくなる。持つべきか否かと自問した結果、持たない
ということが不可能になってくる……。
いずれにせよ、なにがどうなろうとも、日本という国は『このままでけっこう』というような国ではあるまいと
私は見ています。
アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

53 :
三島由紀夫が他界してから、彼の死を中心にして実に多くの本が出版された。この現象は今後も続くと思うのだが、
僕が読んで納得がいく三島由紀夫論、三島由紀夫評は、全部に目を通した訳ではないものの、意外に少ないようだ。
僕は、三島由紀夫が死をもって問いかけたのは、手続き民主主義とも呼ばれる今の体制の中で、本当のナショナリズムを
形にすることは可能なのか、という問題だったのではないかと思う。そのように視点を定めてみると、見えて
くることがいくつかある。僕は、ナショナリズムを国粋主義、排外主義と同一視するのは、伝統尊重を保守反動と
同じと見る考えと共に、いわゆる進歩主義の大きな誤りだと思っている。
(中略)戦後のわが国の議会主義が政策を中心としたものではなく、手続きを中心にした民主主義を本質として
いたことが現れているように僕には思われる。
辻井喬「叙情と闘争」より

54 :
三島由紀夫が自らの生命を賭けて反対した思想の重要な側面は、この、手続きさえ合っていれば、その政策や
行動の内容は問わないという、敗戦後のわが国の文化風土だったのではないか。彼の目に、それは思想的頽廃としか
映らなかったのである。確かに、このような社会構造の中にあっては芸術は死滅するに違いない。
しかし、多くのメディアや芸術家は、彼の行動の華々しさや烈しさに目を奪われて、それを右翼的な暴発としか
見なかった。もしかすると戦後の社会は、1970年の時点ですでに烈しい行動に対して、ただその烈しさを恐れ、
その奥に思想的な純粋性や生命の燃焼の輝きを見る力を失っていたのかもしれない。
辻井喬「叙情と闘争」より

55 :
「(三島由紀夫の)絶えず真剣に生きることを望み、『にせものの平和、にせものの安息』(「白蟻の巣」)を
軽視する姿勢は、今となってみれば、だらだらと生きるわれわれへの痛烈な批判となっている。現代の日本人の
ありようを予見していた天才だったと思う。」
なかにし礼
「三島さんのあの『行動』を基準点として、そこからの距離をはかりながら考へるのが習ひ性となつてゐます。」
長谷川三千子
「戦後教育で『人の生き方』だけを教わり、『死に方』を教わらなかった。衝撃でした。
身の処し方、諫死の是非、日本人の責任のとり方、等々あれこれ考えさせられました。今は当時以上に、強く
考えます。」
出久根達郎
「七〇年までは、激しいものこそが美しかった。音楽、絵画、文学、演劇、映画、そして人間の生き方も。
三島由紀夫氏の死は過激が美しかった時代の最後の花だったな、と今になって思います。」
佐佐木幸綱
雑誌「諸君!」三島由紀夫特集アンケートより

56 :
この機会を逃すと永遠に埋もれてしまうので、三島由紀夫という人間の誠実さについて述べておきたいと思います。
三島さんは、自刃のちょうど一ヶ月前の昭和45年(1970)10月25日に、『東文彦作品集』の序文を
書いています。この東文彦氏は学習院時代に親しくしていた文芸部の先輩で、同人誌『赤絵』はこの東氏の
父君である季彦氏の援助で創刊しています。三島由紀夫は、事件の数ヶ月前に講談社の野間社長に自分が序文を
書くので、東氏の作品集をぜひ出版してくれと頼み、承諾を取ったわけです。このことは、自刃するにあたり、
世話になった方への恩返しをし、後顧の憂いなく事を起こすという事だったのではないかと思われます。
三島由紀夫と東文彦氏は学習院時代手紙を数多くやりとりしていました。お互いに信頼しあった文学上の先輩・
後輩関係だったのですが、東氏は昭和18年に23歳で亡くなり、三島由紀夫は告別式で弔辞を読んだそうです。
そこには堀辰雄も列席していたといわれています。
佐藤松男
持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

57 :
(中略)
じつは、この東文彦氏の父君の東季彦という方は学長職も歴任していた私の大学時代の恩師なのです。(中略)
その東先生から伺ったことですが、三島さんは息子の命日には今も家にお参りに来てくれると言っていました。
(中略)世界的作家になったあとも、命日にはみえていたということです。凄いのはそれにもましてそのことを
三島はだれにも語っていなかったということです。
これは三島由紀夫の年譜などを見ても、そのことについては書かれていません。あれほど自己顕示欲の強かった
三島由紀夫が、お参りに行ったというのを誰にも語らなかったのですね。普通の人だったら、俺は昔世話に
なった人のことはいつまでも忘れない、だから俺はいまもってお参りに行っているんだとすぐ言いそうなものですが、
それをひと言も言わなかった。(中略)ここに私は三島由紀夫の律義さと誠実さを見るのです。この律義さと
誠実さが結局はあの事件の要因の一つになったのかとも考えてしまいます。
佐藤松男
持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

58 :
(中略)
日本の安全保障について、疑問点を二つほど提起しておきたいと思います。第一の疑問点は、安保条約第五条の
共同防衛条項です。(中略)第五条に共同防衛として日本国の施政下にある領域において、いずれか一方に対する
武力攻撃があった場合に、共通の危険に対処することが明記されています。が、問題なのは、その中に「自国の
憲法の規定及び手続に従って行動する」と謳われているところです。それは、福田先生がフジテレビの番組
「世相を斬る」海外版で、エドワード・ケネディ上院議員と対談した際に台湾を守る米華条約は「台湾に危機が
迫つたとき、アメリカはそれを助けるかどうか、議会で審議する義務があるといふ程度のものだ」とケネディ議員が
明言していたからです。米華相互防衛条約(1979年失効)を調べてみると安保条約のこの条文とほとんど同じ文言に
なっています。ということは日本も台湾と同様の扱いを受けることになるのは間違いないでしょう。
佐藤松男
持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

59 :
(中略)台湾は「タダ乗り」の日本と違って、アメリカの要求に対してお釣りが来るほど防衛努力を行っていた
国ですが、その台湾に対して、ケネディ上院議員のこの発言です。(中略)このケネディ発言を通してアメリカの
相互防衛条約に対する本音が垣間見えてくるようです。
二つ目の疑問点は、アメリカの「核の傘」の信憑性です。このことについては、キッシンジャーの『核兵器と
外交政策』(1957)を取り上げ考えていくべきかと思います。(中略)キッシンジャーはその中で注目すぺきことを
述べています。(中略)そのキッシンジャーが全面戦争に際し、西ヨーロッパを守るにあたって、合衆国の
大都市を犠牲にすることを躊躇しており、西半球以外のあらゆる地域、当然日本もそれに含まれていますが、
それに対しては、守る価値がないように見えるであろう、と書いているのです。この発言は「核の傘」を考えるに
あたって、見逃すことのできない重要な意味を含んでいると思われます。
佐藤松男
持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

60 :
要するにアメリカは、ロシアや中国を相手に最終的にはアメリカ本土を犠牲にしてまで、同盟国を守れないと
いう事であり、このことは、茶化すようですが、「己のごとく汝の隣人を愛せ」というクリスト教の愛の思想は
イエスとその弟子たちのみが実践できたに過ぎないので、格別驚くことではないのかもしれません。が、保守派の
知識人で安全保障問題に口出しする人達は、これらの問題について、きちんと論じるべきだと思います。また、
ここ三十年位完全に精彩を欠いている左翼知識人ももう一度勉強し直して、我々国民の「知る権利」に是非応じて
もらいたいものです。要はアメリカが助けに来てくれる保証などどこにもないということを肝に銘じ、同盟を
結びつつも対米依存から抜け出し、自国の防衛はできるだけ自国で当たるという「人類普遍の原理」に一日も早く
立ち還るべきものと思います。
佐藤松男
持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

61 :
それから、小泉、安倍政権下の改憲論では、憲法第二十条の信教の自由について、全く触れられていません。しかし、
三島由紀夫も晩年主張していたように、占領軍は、自分達が唯一神のクリスト教徒ですから、宗教というのは
排他的な非寛容的なものだという先入観で被占領国の習俗的なものまで宗教として裁いて、神社はだめだとやった
訳です。ですから改憲する場合には必ず第九条だけでなく、天皇条項、第二十条の信教の自由も全部セットで、
行うべきで、一部分だけの改正というのは、本質が解っていないという事と、なにかアメリカとの関係からとしか
思えない。戦後レジームからの脱却だとか言っていたけれども、結局はアメリカからの要請による憲法改正なの
でしょう。だからけっこう罪は重い。一見、戦後体制を脱却するような標語を掲げながら、実際にはアメリカに
一方的にますます組み込まれていくような内容での改正でしかないのですから。
佐藤松男
持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

62 :
(中略)
もし三島由紀夫がいま生きているとしたら核武装についてどう考えるかというと、これは条件次第だと私は思います。
先ほどの憲法問題ともリンクすることですが、憲法の改正あるいは憲法を廃止するにしても、いまの憲法に対する
明確な基準ができること。これが一つ。もう一つは日米安保条約に対する明確な双務性を盛り込むこと。この二つの
条件がクリアできれば、核武装については少なくともいつでも核を持ちうるように技術開発は進めるべきである、
おそらくそう考えるだろうと思いますね。
いまの北朝鮮の問題を見てもわかる通り、あんな小さな国がアメリカあるいは五ヶ国を相手に五分の外交的
駆け引きをしているのですから、やはり核は外交上のそれなりの力になっていると思います。ですから三島先生が
いま生きていれば、おそらく核武装に対するアプローチをかなり積極的にしていただろう。ただし、そのためには
憲法と安保条約に対する条件を検討した上でのことですけれどもね。
持丸博
持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

63 :
人は、自分で自分を制するのが、一番難しい。
他人の欠点は、よく見えるが自分には甘い。他人にやさしく、自分に厳しいという人はなかなかいませんが、
先生は、そのどちらでもないです。
全ての事において他人にも厳しいが、自分にも厳しかった。
時間の使い方も、普通の人とは違っていました。これ程までに時間を大切にして生きてきた人にこれまで会った事が
ありません。
当時、四十を過ぎていた先生は、「楯の会」の二十代の若者に囲まれて、いつも元気でうれしそうでした。
大きな口を開けて、大きな声で笑い、瞳はつねにキラキラ輝いていました。筋肉いっぱいの腕を大きく広げ、
ついでに自慢の胸毛を見せながら、身体全体で、おしゃべりしていました。
それは、それは、いつでも、とても楽しそうに……。
ところが、どんなに騒いでいても、どんなに楽しそうであっても、自分で決めた時間になると、まるで今までの
ことが無かったかのように、ぴたっと人が変わって別人になる。
松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より

64 :
やさしい瞳から、すべてを射るような厳しい目に一瞬にして変わる。時間をスパッと切ってしまう。
もう、そこには、誰も入れない。誰も寄せ付けない。
多くの人は時間に引きずられて、もう少し……などと時間に負けてしまうのに、先生は刀で竹を割るように
時間を切る。
何と、まぶしく男らしく映ったことか。
あの澄んだ瞳、遥か遠くに焦点があるような力強い不思議な瞳を持つ人に、私は、その後、今もって出会ったことが
ありません。
先生は、真剣に生きていらした。純粋に。ひたむきに。
まさに一瞬、一瞬を生きることを楽しんでいるかのようでした。
先生にとっては、一時、一時が美しい文学であり、人生そのものが一編の小説であったのかもしれません。
松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より

65 :
(中略)
昭和44年8月の暑い夏の日、持丸との婚約のご挨拶のため、馬込の三島先生のお宅を訪問しました。
先生はにこにこされて、とても上機嫌で、溢れるような笑顔で迎えて下さいました。
先生の机の上には、いつも紺色に白鳩のデザインの、お洒落なピース缶が置かれていました。缶の蓋を開け、
指に挟んでたばこを吸うポーズをとってはいますが、先生が実際にタバコを吸って、煙を出している姿は記憶に
ありません。お洒落な紳士は、女性の前ではたばこは吸わないのかもしれません。(中略)
しばらくすると、お手伝いの方が、お茶とお菓子を運んで下さいました。
「どうぞ」
と言われて、茶器の蓋をとって、びっくり! 茶碗いっぱいに大きな櫻の花が一つ。ひらひらと花びらが揺れています。
「わあ! 綺麗!」
感激して思わず叫んでしまった私に、先生は満足そうに、にこにこと笑みをうかべてくれました。先生は、
どんなことにも真剣でしたが、この時も全身で喜んで下さいました。
私は、あの時の先生の笑顔を一生忘れる事はないでしょう。
松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より

66 :
(中略)
私が、三島先生と最後にお目にかかったのは、昭和45年11月26日の夜でした。
先生が割腹されたのが、その前日、11月25日ですから不思議に思われるかもしれません。が、確かに私は
この日先生と最後の言葉を交わしました。
(中略)今でもあの日の先生の表情、声、すべて鮮明に浮かんで来ます。
衝撃の25日が過ぎた翌日、私は疲れきって、ぐっすり眠っていたのでしょうか。
その夜は、夫は研修か夜勤で留守でした。
トントンとドアを叩く音に目を覚まし、扉を開けると、そこに三島先生が立っておられました。
突然の訪問で驚きましたが、いつもの先生ではない、ただならぬ気配が伝わって来ます。
「先生どうなさったのですか?」
先生の後ろに誰かの姿があるようだ……が、誰かはわからない。
「とにかくおあがり下さい」
(中略)ともかくも座っていただいた。先生の後ろにたしかに人影があるのだが、ぼおっとして判らない。
あわててお茶の準備をしようとすると、
「すぐに遠くに出かけなければならないから、お茶はいいよ」
と言われました。
松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より

67 :
とてもお急ぎの様子で、どこかに行かれる途中立ち寄った感じである。
「持丸君は?」
と聞かれましたが、夫はいない。
「今夜は、夜勤で泊りです」
と答える私に、少しがっかりされた様子でした。
「そうか……残念だなあ……じゃ芳子さんから、持丸君に伝えて欲しい。後の事はたのむと……。とにかく
後のことはたのむと、それだけは、伝えて欲しい。くれぐれもよろしく伝えて欲しい。」
「はい、わかりました。必ず伝えます」
先生は、何度も念をおされて、ほっとした様子で席を立って行かれようとする。
何故か、どうしても止めなきゃ! 不安になり
「先生! これから何処にいかれるのですか?」
とお聞きすると、振り返り、静かに深くうなずいて行ってしまわれました。
夜が明けてから、私は、ただ茫然とするばかりでした。
先生がいらっしゃったのは、夢だったのだろうか? 夢にしてはあまりにもリアル過ぎる。
確かに夫は夜勤でしたし、夢の訳がない。先生は、あの世へ旅立つ途中に寄ってくださったのだ。
とすれば先生の後ろの人影は、森田必勝であったかもしれない。
先生は、旅立ちの前に、最後の言葉を下さったと、私は今でも信じている。
松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より

68 :
私が初めて三島由紀夫を町で見かけたのは中学三年生の夏。(中略)
友達と三人でアイスクリームを食べながら歩いていたら、前方から絶対に見覚えのある人が歩いてきた。
「あっ、ほらあの人、三島由紀夫だよ!」と友だちが興奮気味に叫んだ。シーっと人差し指を唇に当てたものの、
私の胸はドキドキと高鳴った。私たちが興奮した理由は三島由紀夫の大ファンだったからというわけではなく、
この年の四月に封切られたセンセーショナルな映画『憂国』をすでに観ていたせいだった。(中略)
忘れようにも忘れられない顔の三島由紀夫が、なんとこの下田に突然現れて前方から歩いてくる、なんて。
興奮を抑え切れない私たちに、黒いサングラスの三島氏は唇の片側の端を少し上げるようなスマイルを浮かべながら、
私たちの横を通りすぎた。あのときの胸のときめきを私はずっと覚えている。
当時はマスコミをにぎわす有名な作家として中学生にもよく知られていたので、その姿をまざまざと見た感激も
あったけれど、それとは別の、なにか宇宙人的な、硬い静かなオーラが一瞬放たれて私の中にスッと入ってきた
ような感覚があった。
横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より

69 :
私たちは、サインしてくださいと言いそびれたし、それを言うには映画の印象が強烈すぎたのだ。誰かが
「後つけちゃおうか」と言い出した。キュッとしまったお尻、なんとなく親近感をおぼえる小柄な後ろ姿は
後をつけるには最適の口実だった。
あの日の三島さんは、ちょっとメッシュがかった黒いシャツに細身の白のトラウザーと白い靴を履いていた。
強い日差しの中でその白さが目にしみるようだった。(中略)
三島さんは宇宙人的オーラを発散させながら一メートル四方に入れない近づきがたい雰囲気を漂わせていて、
だからこそ私たち中学生に、もっと近づきたい、追っかけてみたいという気にさせたのかもしれない。『憂国』の
主人公を追っかけたいし、何より私たちはヒマをもて余していたのだった。(中略)三島さんは脇見もせずに、
機械的にカツカツとした足どりでまっすぐに背を伸ばして歩いている。
大工町のゆるい坂を上り大浦の切り通しと呼ばれる、江戸期に船を取り調べるお番所があった方角に向かってゆく。
その先は海だ。
横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より

70 :
(中略)「そういえば前に見た写真もスゴかったよね。ロープでぐるぐる巻きにされてすごい形相してるやつ」…
(中略)(写真集『薔薇刑』を)私たちは図書館で見ていた。その表情から、痛めつけられながらもどこか
それが好きというオーラを私たち中学生は感じ取ったのだろう。
「よし、三島由紀夫をおそっちゃおう!」という突拍子もないアイディアが生まれてしまった。
(中略)私たちは忍者のように追っていった。でもいったいどこまでゆくのだろう。
鍋田浜手前のトンネルに入ったので少し距離をあけた、見つかったら大変。ドキドキしてきた。私たちがトンネルに
入ったとき、三島さんはちょうど東急ホテルのプールへの上り道を登ろうとしていた。
そのときだった。急に三島さんが私たちの方を振り向いた。そして黒めがねを上に上げてアッカンベーをしたのだ!
キャッと声を上げて私たちは後ずさりした。要するに、ずっとお見通しだったわけだ。中学生は簡単に遊ばれて
しまった。
三島さんの目はやさしく笑っていた。
横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より

71 :
(中略)
昭和45年7月7日のサンケイ新聞に掲載された「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」は三島さんの
遺書としてたびたび引用される。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまう
のではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、
ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。」
1980年代の経済バブルを見事に三島さんは言い当てた。現在の日本はというと、コロコロと世界に類を
見ない早さで首相がかわる不安定な「自信のない国」になっている。デモもクーデターも若者の反抗もなし、
平和ボケは極まっている。
私は、いまこそ、三島由紀夫の死の意味を考えるべきだと思う。その死は美とエロティシズムに導かれたもので
あったとしても、大局的には、アメリカに支配された「日本という恋人」に向かっての死を懸けたメッセージ
だったのだ。
横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より

72 :
切腹はあの日の日本人の意識を変えさせるくらいの衝撃であり、あれくらいの憤怒を示さなければ、私たちは、
本来、日本人のもっている魂に気づかない、と思ったことだろう。実際その効力はジワジワと年月を超えて
私たちの脳内に浸透している。日本を愛する心について真剣に考えたい。
犬死にと笑われてもいい。五十年後の日本人が理解してくれれば……。
私は、市ヶ谷での「檄文」を三島由紀夫の最後の叫びとして素直に評価したい。ヤジと怒号の中で「男一匹が
命を懸けて訴えているんだぞ」とバルコニーから叫んだ言葉を信じる。三島由紀夫の「本気」を信じる。なぜなら、
私がある鑑識の方から見せてもらった事件直後の写真には、「本気」以外の何物も写っていなかったからだ。
凄惨な場面ではあったけれどそこにはなんともいえない清潔感があった。三島さんの顔は少年のように白く
清らかで安らかだった。
横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より

73 :
三島さんはやりきった! そう思うと不思議なことに晴れ晴れとした気持ちが湧いてきた。これが「大きな仕事を
するので来年は来られません」という意味だったのだ。
今年も三島由紀夫の来た夏が巡ってきた。
私はいつも思い出す。三島さんの愛した下田の夏のさらっとした風を。どこかやさしげな直射日光を。手を挙げて
「また来ましたよぉ」と呼びかけながらお店に入ってくるまぶしい笑顔を。肉体が発していた不思議なオーラを。
「あなたは、なーんにも心配することはないんですよ。のびのびとおやりなさい」「遊びにいらっしゃいね」
という声のトーンを。
四十年以上も私の中に住みつづける三島さんは、私の父のようであり、兄のようであり、演劇部の先生であり、
とびっきりステキな人であった。でも、いまの私の気持ちを言おう。
長い年月を過ぎて三島さんの姉貴のような年になった私にとって、彼は、私にアッカンベーをするかわいい弟に
なったのだ。永遠に頭の上がらない弟に。
横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より

74 :
三島の、非常にドストエフスキー的でロシア的な情念の力は、彼の文学の全て、行為の全てから感じ取れる
ものである。自らの信念と理想に忠実に生き、割腹という終末へと向かった作家は、彼がいかに異文化的な側面を
持っていようとも、ロシア人の愛の包容から逃れられるとは思えない。三島の最初の本がロシアで出版されてから
二十年が過ぎたが、それ以来、多くの三島作品が何回再版されてきたのかもう私は知らない、いつか数えるのを
やめてしまったから。劇場では三島のドラマが上演され、ロシアのブログでは、三島の名が愛情を込めて
ロシア化され、“ミシンカ”とか“ミシミッチ”と呼ばれており、彼の写真はゲイクラブやジムなどを飾り、
Tシャツにもプリントされている。それどころか、ロシアには三島の生まれ変わりがいるのである。エドワルド・
リモノフという、有名な作家でマッチョ、過激な若者達の英雄、そして三島の「楯の会」を思い起こさせる、
国粋的なボルシェビキ党のリーダーである。そのリモノフは、メディアからたびたび“ロシアの三島”と呼ばれている。
ボリス・アクーニン「ロシアの作家ミシンカ」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

75 :
三島由紀夫君と森田必勝君のことを思うと、思いうかべるのは、やっぱり満開の時を待つことなく自ら散った
桜の花であります。これを総理大臣は「狂気の沙汰」と呼び、防衛庁長官は「せっかく育った民主主義にとって
迷惑千万だ」と言った。おとなしい日本国民も、この軽率な発言にはびっくりしました。「狂気の沙汰」は
まさに彼らの発言の方でありましょう。事件の意味を深く考えることなく、即座にこんな軽率な言をはくのは、
少なくとも「正気の沙汰」ではありません。あるイギリス記者は目を泣きはらして、村松剛君に言ったそうです。
「この事件で三島を弁護した政治家はなぜ一人もいなかったのか。こんどほど、三島由紀夫が偉大に見え、
日本の政治家が矮小に見えたことはない」
そのとおりでありましょう。
作家としての三島君の姿は、私どもの目には、まさに花盛りの桜でありました。だが、彼自身の目は文学者の
魂を通して日本の現状と未来に向けられていました。
林房雄「弔辞」より

76 :
(中略)いつわりの平和と繁栄――平和憲法、経済大国、福祉社会、非武装中立という、政府と与党、野党と
俗流ジャーナリズム合作の四つの大嘘の上にあぐらをかきつつ、破滅の淵に向って大きな地すべりを始めている
日本の実状を敏感に予感し、予見して、この十年間あまり、絶えず怒り憂いつづけてきたのであります。彼は
私との対話「日本人論」の冒頭に、この怒りと憂いを告白しております。また、「政治家というものは詩人や
文学者が予見したことを、十年ほどすぎてやっと気がつく」とも言っております。(中略)
明日にでも“政治的連鎖反応”が起るというのではありません。これは精神と魂の問題であります。三島君と
その青年同志の諌死は、「平和憲法」と「経済大国」という大嘘の上にあぐらをかき、この美しい――美しく
あるべき日本という国を、「エコノミック・アニマル」と「フリー・ライダー」(只乗り屋)の醜悪な巣窟にして、
破滅の淵への地すべりを起させている「精神的老人たち」の惰眠をさまし、日本の地すべりそのものをくいとめる
最初で最後の、貴重で有効な人柱である、と確信しております。
林房雄「弔辞」より

77 :
昭和四十三年の春、青梅市郊外、吉野梅郷近くにある愛宕神社に、見なれぬ軍服姿の男たちが集まった。
作家の三島由紀夫と論争ジャーナルのスタッフ、そして学生たちのグループ十二人である。
社殿を見上げる百尺ほどの石段は、今を盛りの桜の花でおおわれ、その下で一行は記念の写真撮影をした。
この一行こそが「楯の会」創設時のメンバーである。しかしこの時「楯の会」という名前はまだなかった。
楯の会を考える時、どうしても『論争ジャーナル』をぬきにしては語れない。この月刊誌は昭和四十二年一月に
創刊され、当時左翼一辺倒の論壇に、真正面から立ち向った保守派のオピニオン雑誌であった。そのスタッフの
一人、万代潔が昭和昭和四十一年春、三島由紀夫を訪ねたことから、三島と論争ジャーナルの関係は始った。
持丸博「楯の会と論争ジャーナル」より

78 :
この時、三島は既に「英霊の声」「憂国」を世に出し、この頃「奔馬」の執筆に取りかかっていた。
「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することも
ある」(小島千加子「三島由紀夫と檀一雄」)と自ら語っているように、四十二年の初めから、三島と
論争ジャーナルグループとの急速・急激な接近が始った。編集長中辻和彦と万代、そして当時学生であった私は
頻繁に三島家を訪ねるようになり、「俺の生きている限りは君達の雑誌には原稿料無しで書く」と言わせるまでに
信頼を勝ち得ていた。実際この年の三月から四十四年の三月までの二年間、三島は十回以上にわたって
論争ジャーナル誌上に登場した。四十二年の十一月号では、その頃交際を断っていた福田恆存と対談し、論壇を
驚かせた。この時期、三島はあたかも論争ジャーナルの編集顧問のような熱の入れようであった。
持丸博「楯の会と論争ジャーナル」より

79 :
昭和四十二年四月から、三島は自衛隊に体験入隊し、四十五日間の訓練をした。これを機に「祖国防衛隊」構想が
計画され、論争ジャーナル編集部との間に、活発な議論が展開された。明けて四十三年一月、この構想は
「祖国防衛隊はなぜ必要か?」という表題でタイプ印刷され、限定で関係者に配られた。内容は、自衛隊を
補完する民兵の設立を想定したもので、その網領案によれば「市民による、市民のための、市民の軍隊」であり、
一朝事あれば「以て日本の文化と伝統を剣を以て死守せん」とする有志市民の「戦士共同体」であるとされた。
この「戦士共同体」の中核を作るために計画されたのが学生達の体験入隊である。「祖国防衛隊」の名は
外部には一切秘して、第一回体験入隊は昭和四十三年三月から一ヶ月間、私が学生長として御殿場の富士学校
滝ヶ原分屯地で実施された。以後四十五年三月まで五回にわたり、のべ約百二十人の体験学生を生んだ。
持丸博「楯の会と論争ジャーナル」より

80 :
「楯の会」の名前が出来たのは、第二回の体験入隊終了後、会員数が四十名余りとなった昭和四十三年九月の
ことである。これから一年後の四十四年九月まで、会の事務局は論争ジャーナルの編集部内に置かれ、当時、
副編集長の私が会員の募集、選抜、事務手続き等実務に当って来た。しかし、楯の会とはいわば表裏一体として
マスコミ界に新風を吹き込んできた論争ジャーナルは、昭和四十四年頃から経営がきわめて悪化し、時には
発行が遅れることもあった。この財政上の危機をのりきるために、責任者の中辻は大変な苦労をした。父親の
退職金を全てつぎ込んでも足りなかった。そこで右翼系のある財界人から資金援助を受けることになる。
それまでどこからも資金援助をうけずに楯の会を維持してきた三島にとって、論争ジャーナルに「黒い噂」が
あることは、同時に楯の会の資金的な倫理性を損なうことになると考えた。それほど両者は密接に結びついていた。
持丸博「楯の会と論争ジャーナル」より

81 :
体験入隊を「純粋性の実験」といい、楯の会を「誇りある武士団」と見る三島は、これを看過できなかった。
こうして三年近く密接な関係にあった三島由紀夫と論争ジャーナルは訣別した。確かにこれは悲劇であった。
しかしこの二つの運命的ながなければ、楯の会がこの世に生まれなかったこともまた確かであったろう。
     ※
ここに一枚の誓紙がある。
〈誓 昭和四十三年二月二十五日
我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ〉
三島は平岡公威の名で署名し、以下あの愛宕神社の撮影会に参加した中の十名の名前が続く。
今は伝説となった血判状である。今春、私は三十五年ぶりに愛宕神社を訪ねた。花の盛りには少し早かったが、
桜の木々は昔のまま立っていた。あの日満開の桜の中に立つ三島由紀夫の姿は、「我が生涯の師」として、
今なお私の心の中に、あの時、あのままの姿であざやかに生きている。
持丸博「楯の会と論争ジャーナル」より

82 :
三島がその文学の出発点においてすでにテロの美に惹かれていたことはあらためて言うまでもない。(中略)
『十五歳詩集』の冒頭に置かれた詩「凶ごと」の第一連に「わたしは夕な夕な/窓に立ち椿事を待つた、/
凶変のだう悪な砂塵が/夜の虹のやうに町並みの/むかうからおしよせてくるのを」とある。椿事すなわちテロを、
そして美を待つ心は、多かれ少なかれ誰にでもある。だが、三島は幼くしてそれが言語の事象であることを
熟知していたように思われる。というより、三島は、言語の事象の極北に、テロとその美を見出したのだと思われる。
むろん、三島にとってだけではない。テロも美も言語の事象にほかならない。
問答無用はテロリストの常套、したがってテロは言語を拒否するように思えるが、逆だ。テロがたんなる人以上の
意味を持つのは、人間が身体であるとともに役割すなわち意味であるからだ。人間においては意味とは言語である。
テロは身体である人間をすことによって、意味としての人間を消す、人命は地球よりも重いというその人命の
意味を消し、修辞の欺瞞を嘲笑う。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

83 :
テロは、人間の二重性、人間が身体の次元と意味の次元に同時にかかわるという二重性を前提にしている。むろん
この二重性はパラドックスとともにある。自のパラドックスと同じだ。自は自己否定だが、それは自己否定の
自己否定であるほかなく、論理的には成立不可能なのだ。自する自分を否定することは自の不可能性を
意味する。ここにはエピメニデスのパラドックス、ゲーデルがその不完全性定理によって形式化した自己言及の
パラドックスが潜んでいる。にもかかわらず多くの人間が自するのは、人間がもともと二つの次元にわたる
存在であることを示している。自分をす自分は、生きている自分を超えた次元に立っていなければならない。
これが言語の次元であることは三島には自明のことだった。言語はこの世にあってこの世を超えている。
これを精神の次元と言っても、超越論的次元と言っても同じだ。彼岸と言っても、神と言ってもいい。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

84 :
十九世紀以降は、神の代わりに、民族や、歴史という名目で語ることが流行した。人は、民族のため、歴史のために
命を捧げるようになったが、論理的に違いはない。神も民族も歴史も、個人の上位にある次元、個人の生命に
比べれば永遠と言っていい次元を意味している。人間は言語がある限り自するだろうし、テロをつづけるだろう。
自爆テロは人間の条件の極限を示す。三島は自刃することによって、人間の二重性を強烈に示したことになるが、
それは身体についても物質についてもひたすら言語の側からのみ眺めていたからである。
三島は出発の当初からこの二重性を鋭く意識していた。(中略)人生が作品を包み込むというより、作品が人生を
包み込んでいる。『憂国』『英霊の声』『十日の菊』という、いわゆる二・二六事件三部作はむろんのこと、
初期の『花ざかりの森』や『中世』から、中期の『鏡子の家』を経て、『豊饒の海』へといたる過程の全体が、
三島の人生の最期を包み込んでいる。
三島由紀夫のこのような在り方は二十世紀の文芸批評の在り方とは決定的に対立すると思える。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

85 :
作家と作品は別であり、テクストはテクストとして自立的な世界を作り上げるというのが、アメリカのニュー・
クリティシズムからフランスのヌーヴェル・クリティックにいたるまでの基本的な姿勢である。テクストは自立し、
作家の実人生とは何の関係もないというこの思想はしかし、人間存在そのものがテクストとしてある、いや、
テクストとして以外にありえないという簡単な事実を無視している。
自己という現象は、テクストとしてしか現象しえない。三島は、ルソーと同じ『告白』という表題、『仮面の告白』
という表題の小説で、戦後の文壇に華々しく登場した。この事実は、自己がテクストとしてあること、その
テクストに対する解釈であるほかないもうひとつのテクストすなわち文学作品は、結果的に無限遡及――謎――に
陥らざるをえないことを、三島自身、熟知していたことを示す。三島の文学は一般には私小説とは名指されないが、
むしろ極限的なかたちで私小説という形式を示していると言っていい。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

86 :
(中略)
安部(公房)は、その初期から自己言及のパラドックスに人間の条件を見ているが、三島も同じだ。たとえば
『美しい星』は、自己言及のパラドックスそのものを主題にした作品である。(中略)三島は人間のこの
パラドックスをひとつのメランコリーとして描いている。『仮面の告白』の印象的な言葉を用いれば、「罪に
先立つ悔恨」として。これは『仮面の告白』のヒロイン・園子との恋愛にともなう感情を表わしたものだが、
三島はすぐに「私の存在そのものの悔恨」という言葉を用いて、それが全存在にかかわるものであることを
示している。悔恨には多くの訳語が当てられうるだろうが、三島自身がそれを深い悲しみと形容している以上、
メランコリーと訳すべきだろう。
三島の主人公の多くは終わってしまった人生を生きているように描かれている。みな既視感のもとで行為している。
この既視感はどこから来るのか。(中略)言ってみれば、自分で自分を死後の眼で見ているのである。世界が
すべて終わったように感じられるのは必然である。この感覚が三島の主人公たちを苦しめているのだ。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

87 :
これは言語の病、言語という病である。
テロも美も、はじめは、この非現実感から逃れる手段として要請されたように見える、たとえば『金閣寺』がそうだ。
テロと美による陶酔が疎隔感を忘れさせるという論理がそこにある。だが、テロだけではない、美もまた二重性の
もとにあるのだ。(中略)
白川静は、古代中国の甲骨文の研究によって漢字の起源を解明した現代のもっともすぐれた漢字学者のひとりだが、
「美」に含まれる「大」は羊の後ろ足であって、美はすなわち羊であると述べている。だが、その「羊」は神への
生贄の羊であって、ただの羊ではない。それが美しいのは、神への生贄だからである、というのだ。つまり、
美には、はじめから神のために死ぬもの、という意味が含まれているのである。美しさの内実は、犠牲と畏怖なのだ。
美もまた彼岸と此岸を結ぶからこそ美なのである。
この事実は、「美は恐るべきもののはじめ」という、リルケの『ドゥイノの悲歌』の有名な一行を思い起こさせる。
三島が全存在的に惹かれた美もまたこのようなものであったことは指摘するまでもない。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

88 :
三島の全文学、いや全人生を貫いて「サン・セバスチャンの殉教」というルネサンス絵画の主題があるが、
それはドストエフスキーにとってのホルバインの「キリストの遺骸」に匹敵する。(中略)
美はこの世にあってあの世を、つまり永遠を暗示する。救済とはそういうことだ。したがってテロと美が似て
いるのは必然と言わなければならない。ともに、現在の自分を超える何かに犠牲的にかかわることである。
テロも美も永遠と現在を含んでいる。とすれば、それもまた人間の条件――言語という条件――を極限的に示して
いるにすぎない。
人間は自身のなかに人間的ならざるものを含んでいる。人間的ならざるものを含んでいるところに人間の本質がある。
あの世という観念は、その人間的ならざるものの中心にある。だがこれは、言語という現象をたんに二重に
対象化したにすぎないのではないか。三島が逢着したのもまた同じアポリアであったように見える。政治の前に
文学は取るに足りない。だが、政治こそ文学、言語の技なのだ。歴史という文学がそれを証明している。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

89 :
(中略)
三島があの世とこの世という思想に親しんでいたことは、十代から早熟な天才として日本ロマン派の人々と深い
親交があったことからも疑いない。(中略)三島が保田(与重郎)のロマンティック・アイロニーという概念を
自分なりに吸収し、それによって自分のメランコリーを基礎づけたことは否定できない。
(中略)このアイロニーすなわち逆説がいまも重大な問題としてあるのは、ほぼ同じ心情がイスラム原理主義の
テロリズムのなかにも感じられるからだ。
(中略)
神も虚無も、宙吊りのままでその力を発揮するのではないか。これがおそらく、三島が保田から必死の思いで
引き出したアイロニーの技法であったように思える。橋川(文三)ならばまさに頽廃と呼ぶだろうが、とすれば
頽廃は言語そのものに潜むのである。
むろん、三島が全身で摂取したのはアイロニーだけではない。賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤と流れる日本の
近世国学の思想をも、保田とその周辺の文学者たちから吸収していたのである。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

90 :
(中略)
不合理ゆえに我信ず、と言ったのはテルトゥリアヌスである。神の存在は疑わしいからこそ、日々、信仰を
決断しなければならないのであって、疑いもしないものは信仰が薄いのだ。(中略)
人間はすべて半信半疑の世界に住んでいる。言語を所有したということはそういうことだ。言語によって人は
解釈の世界に住むことになった。人は、自分が何ものであるか、自分自身に向かって解釈しなければならなくなった。
自己とは自己を解釈し、しかるのち自己にふさわしい行動をするということだ。とすれば、人間の行動とは
すなわち装うことではないか。人間はまず、他人に対してではなく、自分自身に対して自分は自分だと言い聞かせ
なければならない。安部公房が最後まで繰り返した主題だが、これが同じように三島の主題でもあったことは
『美しい星』が、また『豊饒の海』が証明している。
紙幣はたんなる紙切れにすぎない。犬や猫に通用しないのは、それがたんなる紙切れだからである。しかし、
人間には通用する。これを、全員が通用するように装っているからだと解釈してもまったく不都合ではない。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

91 :
現に通用しているという事実から、通用させている力を想定し、それを神と考えるところに形而上学が生じる。
人間はおそらく、すべては装っているだけだと考えるのは不安なのだ。貨幣を価値づけているのは人間の労働で
あるとマルクスは考えたが、人間の労働という概念も、神という概念も、さかのぼって見出された根拠すなわち
幻影であることに変わりはない。ニーチェが言ったのは、そういうことである。ニーチェは、宗教や社会のみならず、
経済こそ無根拠だ、つまり恐慌こそが自然なのだと宣言したのである。
貨幣が通用するのとまったく同じ仕組みで、言語も通用している。ひとつの語を、自分が感じているように他人も
感じているという保証は、どこにもない。そしてその言語の上に、あの世が築かれているのだ。三島の生と死が
浮き彫りにするのはこの問題である。
日本文学には三島の死後、村上龍が登場し、村上春樹が登場する。(中略)これらの若い作家たちは、興味深い
ことに、みな、あの世のことを、あからさまに、あるいはそれとなく、書いている。あたかも、文学がそれを
要求しているのだというように、書いている。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

92 :
(中略)
半信半疑こそが、言語を持った人間の常態なのではないか。そしてこの半信半疑こそ、人をテロへと、美へと
駆り立て、さらにそこから逃げ帰らせるものなのではないか。
イスラム原理主義のテロリストの多くが、中流以上の裕福な家庭に育った高学歴者であることは広く知られている。
ある意味で、9・11以後の世界は明治維新後の日本に似ている。古来のコスモロジーのもとにあの世を中心と
する世界を復興させようとする勢力、いわば反動的な勢力が、明治維新の力になったのである。しかしその運動の
先端に立って新政府を樹立した人々はやがて彼らの母体を裏切り、結果的に、西洋文明を全面的に受容することに
してしまった。この矛盾の軋みが、近代日本の度重なるテロを惹き起こしたと言っていい。昭和維新はその最後の
ひとつと言っていいが、その担い手たちは、資本主義はむろんのこと、共産主義も社会主義も知らなかったわけ
ではない。並みの人間よりははるかによく知っていたのだ。イスラム原理主義の人々にしても同じことだ。思想と
行動は数式のように等号で一致するわけではない。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

93 :
平田篤胤は、戦後、ファシズムを惹き起こした危険な思想家と見なされた。だが、近世日本におけるきわめて
興味深い思想家であることに変わりはない。篤胤は、日本神話のコスモロジーすなわち神道を、世界宗教にまで
高めようとしていた。彼は、キリスト教をも含めて、世界さまざまな宗教に関心を持ち、研究していた。篤胤以後、
何人かの思想家、とりわけ右翼の思想家が、イスラムに関心を持ったのは自然なことだと言っていい。彼らの
多くは、神道とイスラムには似ているところがあると考えた。たとえば、イスラムには神の代理人が存在せず、
誰もが神と直接つながるところに、自分たちが理想とする天皇制と同じものを見出したのである。
三島と、日本の若い作家たちと、イスラム原理主義のテロリストたち。およそ結びつかないように思われるが、
そうではない。すべて最終的には言語の問題に帰着するからだ。三島の生と死は、言語のこの不思議な仕組みを
浮かび上がらせる巨大な閃光としてあったと思われる。
三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

94 :
政治的、イデオロギー的含みを持たせた、三島の暴力的行為と自己破壊によって、日本のなかに生じた衝撃と
当惑は、かなり長い間続いたように思われる。その結果として、ある種の麻酔と沈黙がもたらされたようだ。
ここ何十年か多くの外国人は、三島について質問するとき、相手の日本人の態度からそう感じとってきた。
ピヴェンは、次のように言っている。「日本人の多くは、まるで三島が鬼っ子であり、彼の読者は倒錯的な
狂信者であるかのごとく、ぎこちなく口を閉ざそうとする」と。恐らくこうした日本人の反応は、この出来事が
一種のトラウマとして受け取られていることを証し立てている。(中略)さまざまな方法で三島に触れ、三島を
扱っている多くの作品においては、主に三島の死が中心的モチーフとなっており、そのような傾向がこの質問に
正当性を与えているように思える。この四十年間、日本の文学界において、高度に知的で抽象的な小説から風刺や
魔術的リアリズムに到るまで、三島と直接関わる、あるいは少なくとも彼を間接的に参照している数多くの詩や
小説や物語を目にすることができる。
イルメラ日地谷=キルシュネライト「世界の文学と三島」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

95 :
(中略)
村上春樹の小説『羊をめぐる冒険』でも三島事件は、やはり軽い調子で取り扱われている。(中略)この作品の
キーとなる第一章には、三島事件が起きた日付である「1970/11/25」がタイトルとして付けられている。(中略)
三島事件は、この場面においてだけではなく、作品全体の文脈においてもハイライトとして機能すべきものなのだ。
また、青海健が指摘しているのは、三島の死を「日本の死」あるいは「日本文化の終焉」の象徴として受け取り
がちな一般的傾向に対する、カタカナの横文字をふんだんに使ったこのシーンが持つアイロニーである。(中略)
若い女がやがて自らの夭を予言するこのシーンは、物語を前に進めるための仕掛けとなっている。(中略)
この小説のなかでは、ひとつの歴史的出来事と交差させ、主人公の人生のある瞬間を際立たせるために三島事件が
使われているのだが、同時にこの作品は、主人公の生と死に対する姿勢が、三島のそれとは著しく異なって
いることをもはっきりと示している。
イルメラ日地谷=キルシュネライト「世界の文学と三島」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

96 :
(中略)
私が知る限り、三島由紀夫というテーマに最も強くコミットしてきた作家は、大江健三郎である。大江はこれまで、
それこそあらゆる機会を利用して、三島の文学から、人間三島から、三島のあらゆるものから距離をおこうと
試みてきた。それにもかかわらず、あるいは、まさにそのために、大江健三郎は、亡き三島由紀夫に祟られて
いるかのように見えてしまう。(中略)最近英語で出版された大江文学を分析した本においても、やはりこの作家の
多くの作品における、三島に取り憑かれたかのような現象“enduring obsession with Mishima”が確認されており、
それらの作品が書かれた時点において、三島はとっくに死んでしまっていたにもかかわらず、相も変わらず
三島に焦点を合わせずにはいられない大江健三郎という文学者の名は、将来政治的な層において、常に三島の名に
連なるかたちで連想されることになるかもしれない、そうこの本の著者は予測していた。
イルメラ日地谷=キルシュネライト「世界の文学と三島」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

97 :
メタファーに満ちた物語である『英霊の声』を舞台にすることの最大の困難は、一見したところ、プロットの
描写がまばらにしかないという点にあるように見える。その上、降霊の儀式に参加した者たちは、英雄達の死の声を
聞くだけで、ほとんど動くことがない。だが実際のところ、この事実は、この作品を能楽として演出することの
可能性を広げているのである。(中略)『英霊の声』を舞台にするためには、死霊の描写をその強度をがずかつ
単純化しすぎることのないように、言葉によらない演技に移す必要がある。このような試みは最初はほとんど
実現不可能に思えるかもしれないが、能楽がつねに象徴的で複雑な話を扱ってきたことを考えれば、実行可能で
あるように思われる。最もありふれた「カタ」を見てみれば、能楽における定められた規則や一連の動作によって、
嘆き、悲しみ、誇りといった『英霊の声』を構成する全ての感情だけでなく、風や雨なども表現することが
出来るだろう。能は儀式的で様式的であるが、これらを制限的なものと考えるよりも、既存の規則は出来事を
美学的に詩的な強度を備えた形で舞台で表現する機会を与えてくれるものと考えることができる。
レベッカ・マック「三島由紀夫の『英霊の声』――近代の能楽として」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

98 :
(中略)
劇場の持つ形式的な条件も、舞台に仕立てることの困難もともにクリアできる。というのは、この小説の様々な
細部は、能楽の標準的な形式と一致しているからである。このテクストが様々な媒体によって演出されうることを
認識するのは、『英霊の声』を能楽として読むことで二通りに作品を読解し全体を理解するために重要である
だけではなく、構造というのは内容のレベルにも遡及するという点からも重要である。戦後の退廃に対する英霊の
不満は、したがって、形式のレベルにおいて、日本の美である古典劇の伝統という最良の例に対比されるのである。
作品が初めて出版されて以来、三島自身がこの作品が二つの媒体において演出できるような構造になっていることを
明言してきたにもかかわらず、『英霊の声』が今まで決して劇として読解されることがなかったのは悲しむべき
ことである。(中略)近代の物語を能楽のように構成することで、三島は伝統的な日本文化は創作に応用できるし、
また応用されるべきだということを示したのである。
レベッカ・マック「三島由紀夫の『英霊の声』――近代の能楽として」
イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より

99 :
素晴らしい

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