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2011年10月1期三国志・戦国■戦国時代に書かれた日記を読むスレ■
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【i】真!姉小路良頼最強伝説・巻之壱【i】
三国志でヘッポコな武将は誰か??
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■戦国時代に書かれた日記を読むスレ■
- 1 :08/03/15 〜 最終レス :11/02/27
- 一般に知られる戦国時代や武将って、小説やゲームの中で作られたイメージで語られることが多く
大半の人は史実と虚飾をごちゃごちゃにして戦国時代を理解している。
このスレは戦国時代に書かれた公家日記や武家記録など当時のリアルな「生の声」だけを拾って
実際に彼らが何を考えどんなことしてたかってのを検証し戦国時代の実像に迫ってみようという、
・・・簡単に言えばトナメ用の板売名企画スレである。
- 2 :
- 2
- 3 :
- 3。
- 4 :
- >>1乙
- 5 :
- さてと、ただ無作為に日記拾って書いてくだけじゃつまらんので期間を絞ってみよう
信長が死んだ年である1582年(天正十年)の日記なんかは結構興味深いんじゃね?
てことでまずは信長周辺の簡単な略年表を書いてみる
1582年(天正十年)
1.1 正月、安土城に諸国大名・公家が集まり信長に祝賀を述べる
1.15 信長、安土で左義長を催す
2.2 信長の嫡男信忠が武田攻めのため岐阜を出陣する
3.5 信長、武田攻めのため安土から出陣
3.11 武田勝頼自して武田家滅びる
3.29 武田家の遺領に家臣の滝川ほか諸将を配する
4.13 信長、駿河国に入る
4.20頃 信長、安土に戻る
5.4 朝廷が勅使を派遣し、信長に太政大臣か関白か征夷大将軍になるよう薦める
5.7 中国地方攻略中の羽柴秀吉、備中国高松城を包囲する
6.2 本能寺の変
>>1乙
- 6 :
- 年表はこんなもんかな?
さてと本題
信長は6/2に本能寺で死ぬことになるのだが、
信長の周辺に居た公家や武家の記録を時系列に沿って順番に晒してみて
信長滅亡までの足取りや当時の状況を記し、リアルな戦国時代を見て行きたいと思う
今日が3/15だからとりあえず1582年の3/15(旧暦)の日記から一日一つづつ晒してみるぜ
- 7 :
- 確認だが、原文or現代語訳、どっち?
- 8 :
- >>7
どっちがいいのよ?
- 9 :
- 贅沢言わせてもらえるなら
原文が来て、現代語訳が望ますぃー
- 10 :
- 把握した。
ただし原文は変換出来ない漢字を■に
現代語訳は原文のふいんき(ryを尊重するために意訳に徹する
- 11 :
- 1一
- 12 :
- 天正十年(1582年)3月15日吉田兼見の日記――京都
今夜御神楽、如比雨降共可遂行欠、万里へ以使者尋遣之、返事云々、雨降共可被遂行之旨也、
『今夜御神楽(宮中行事)の予定やけど雨降りそうやし万里小路はんに聞きに行ったら
雨降りでもやると』
無油断可祇候之由被申■、及暮罷出、向万里小路、御急也、早〃令用意可参内之由云々、
『油断なく来はるがよろしいと言うてはった。暮れに万里小路はんとこに急いで行ったら
早よう用意して参内しなはれと言われた。』
藤右衛門佐、衣紋之儀昨日ヨリ内〃令約諾之間、唯今遣使者、相待之由申■、
『藤右衛門佐はんから衣装貸してくれる約束を昨日してたので使者をやって待ってた』
即来、先万里着之参内、次予着之、次右衛門佐■宅、申礼■、万里左右次第相待可祇候之由、
『すぐ(衣装を持って)来た。万里小路はんが参内した。右衛門佐はんは帰っらはった。
礼を言うといた。』
万里使者来、即参内、清涼殿東之御縁之辺ニ在之、内侍所之御供、役者令遅参、数刻被相待■、
『万里小路の使者が来たので私も参内。清涼殿東の辺りで(万里小路はんと)合流
内侍所のお供と役者が遅れて来た。数時間待たされた』
- 13 :
- 壱
拾
参
- 14 :
- 注文ばかりで申し訳ないが
天正十年(1582年)3月15日吉田兼見の日記――京都
今夜御神楽、〜
無油断可祇候之由被申■、〜
藤右衛門佐、〜
即来、〜
万里使者来、〜
『今夜御神楽(宮中行事)の予定やけど、〜
『油断なく来はるがよろしいと言うてはった。〜
『藤右衛門佐はんから、〜
『すぐ(衣装を持って)来た。〜
『万里小路の使者が来たので私も参内。〜
としてもらえると個人的にはうれしいが、他がどう思うかは知らない
とりあえず乙
- 15 :
- つうかだな・・・
残存する日記は九割方京都の公家のものなので
この時期に日記を通して信長を書こうと思っても
肝心の信長が京都に居ないわなw
- 16 :
- 上井覚兼の日記とかはこの時期どうなんですか?
欠落もあるようだけど
- 17 :
- 中野区は中央専門だろ
- 18 :
- 日記だけじゃなくこの日に書かれた文書とかないですか?
- 19 :
- ここは日記スレだから質問スレけ
- 20 :
- 20bikurri
- 21 :
- 21ト
- 22 :
- 2ン2ク
- 23 :
- 弐拾参
- 24 :
- 仁志敏久
- 25 :
- ニコニコ
- 26 :
- >>21-25
荒らすなカス
- 27 :
- >>20も含めろ
- 28 :
- 中野区さん
結局>>16はどうなんでしょうか
- 29 :
- 俺達も日記を書いて比較してみる
- 30 :
- 2008/03/15(土)晴れ
↓
- 31 :
- >>1
張本「喝!!!!!! 『かぁぁぁーーーーつ!!!!』
だいたいねぇ、こんな駄スレを立てて人様に
迷惑をかけるなんて最近の若者はなっとらんですよ。
親の教育、学校の教育が悪いとか色々いわれますけどねぇ、
結局最近の子供は外で遊ばんでしょう。ゲームやインターネットばっかりやって。
我々が子供の時なんてそんなもんありませんから、外で遊ぶしかなかった訳です。
外で遊ぶ、外で皆んなで野球をやって、それで人と人との交流を測る訳ですよ。
最近の子はコミュニケーションが下手でしょ?それもこれもね、
みんながみんな一人で遊ぶ、自分一人の世界に閉じこもって
周りが見えない事を、個人主義、個人の自由と勘違いしとるんです。
大体アメリカもね、実力あっての個人主義なんですよ。
その点を最近の若者はわかっとらんですねぇ。喝ですよこのスレは。」
>>1
大沢親分「喝だなこりゃあ!!!!!!!」『かぁぁぁーーーーつ!!!!』
大沢「まぁ駄スレが何本立とうと俺にゃ関係ねぇけどよ、
少しは人様の迷惑ってもんを考えねぇといけねぇよ。
匿名つっても誰かが見てる訳だしな。
削除人もちゃんと仕事しねぇといけねえな。俺ぁ金貰ってねえからって
サボられたんじゃあ皆んながたまんねぇよ。折角皆んなの代表なんだから
ちゃんと仕事しねえと。削除人にも喝だなこりゃあ。」
関口宏「ほう、削除人にも喝ですか。』『かぁぁぁーーーつ!!!!』
- 32 :
- 毎日更新する気か
- 33 :
- ( ^ω^)( ^∀^)
- 34 :
- 切り出しのややこしいスレやのー。
- 35 :
- ( ^∀^)( ^∀^)( ^∀^)( ^∀^)( ^∀^)( ^∀^)
- 36 :
- 細かいが数刻を数時間とするのに若干の違和を覚える
- 37 :
- そうだね、プロテインだね。
- 38 :
- 何故こんなすれがたつの?
- 39 :
- 歴史板だから
- 40 :
- ああ、忘れてた
- 41 :
- 今日のは?
- 42 :
- 当時のエロ日記とか書いてくれ
- 43 :
- か
わ
つ
る
み
- 44 :
- >>16
伊勢守日記には3月の項はねえよ
>>36
正直「数刻」を数時間と訳したのには抵抗あった
同日の日記には刻の使い方として「子刻出御」という重要な記述がある
これだけで「帝が子の刻にお出ましになった」と訳すわけなんだが
帝を数時間も待たせるとは考えにくいし、
かといって子刻と数刻を対応させても刻の使い方に相違はない
だから敢えて数時間としたわけだ
小銀なかなかやるな
- 45 :
- そらそうよ。国語の成績は5だったからな
- 46 :
- だがしかし刻という単位を厳密に約2時間とするのはも少し後だけどな
天正のこの時期は三島暦と京暦の問題、閏月の問題など暦の上でも行き詰まってたし
割とアバウトな感覚があったのかも知れね
- 47 :
- さて今日3/16は朝廷が信長の陣中見舞いに公家・万里小路充房の派遣を決めた日であり
他方、織田の元に武田父子の首が届いた日でもある
朝廷が信長の存在をいよいよ重要視しまくって、にわかに慌ただしくなってきたわけだ
んで今日の日記なんだが公家・武家・神官・僧侶・坊官どの日記がいい?
- 48 :
- 個人的には、世の中の流れを客観的な視点で述べられている日記があれば
- 49 :
- 日記ってえのはその性質上、個人的な体験や思いの記録なんだから
客観性なんぞ求めるだけ酷だぞw
- 50 :
- じゃあ、坊官で
- 51 :
- こりゃあトナメ前に1000行くかも名
- 52 :
- 結局1日で終わったか
- 53 :
- >>50
坊官の日記書こうと思ったら実家にあることが判明した
同じ坊官の日記でも天正十一年のならあるんだけどよ
>>52
日記は日次毎に晒すつもりだが毎日書けん場合もある
俺様は毎日暇とは限らんのじゃヴぉけwwwww
- 54 :
- それなら、今一番手元に近いやつでおk
- 55 :
- 天正十年(1582年)3月16日勧修寺晴豊の日記――京都
雨降、陣へ万里さしくたされ候へきよし之
『雨降、(信長の)陣中に万里(小路充房)を下向させるようだ』
- 56 :
- 天正十年(1582年)3月17日松平家忠の日記――甲府
乙亥、上様信濃諏訪迄御着ニて、家康御越候
『上様(信長)が信濃の諏訪まで来られたので家康様も(諏訪まで)お越しになった』
- 57 :
- 天正十年(1582年)3月17日山科言継の日記――京都
去十五日内侍所臨時御神楽、奉行職事頭右中弁充房朝臣、
『こないだの15日の内侍所での臨時御神楽では右中弁(万里小路)充房が奉行職を務めた』
次出御、〃簾・御裾充房朝臣、御草鞋宣光、御剣雅〃朝臣、
『帝がお出ましになって簾と裾を充房が、草履を(中御門)宣光が、刀を(飛鳥井)雅朝が』
脂燭殿上人兼和朝臣・永孝朝臣・季満朝臣・為良朝臣・諸光・元仲・藤原秀直尤也、所作人、
『燭台を(吉田)兼和・(高倉)永孝・(四辻)季満・(五条)為良・(薄)諸光・(五辻)元仲
・(富小路)秀直らが務めた。(内侍)所の楽器引く人々は』
本拍子持明院中納言、末拍子源三位、付■元仲、笛四辻大納言、■■諸光、和琴季満朝臣、
『本拍子を持明院(基孝)、末拍子を五辻為仲、付■を(五辻)元仲、笛を四辻(公遠)、
■■を(薄)諸光、和琴を(四辻)季満』
近衛召人景長朝臣・忠宗・久氏・久宗・忠雄・忠季・久賢・多忠頼・安倍季房、人長多忠重尤也、
『近衛府から呼んだ召人景長・忠宗・久氏・久宗・忠雄・忠季・久賢・多忠頼・安倍季房、
近衛府の人長多忠重だった』
同恒例所作人、本拍子元仲、末拍子忠宗、付■久氏、笛景長朝臣、■■安倍季房、和琴季満朝臣、
『同じく恒例の楽隊として本拍子元仲、末拍子忠宗、付■久氏、笛景長朝臣、■■安倍季房、
和琴季満朝臣、』
近衛召人■長尤同前云々、巳上如此伝聞也
『近衛府の召人は■長ら同じようだった。そのような様子やったと聞いてる』
- 58 :
- ちなみに補足しとくと>>57の薄諸光は日記の主山科言経の弟で橘氏長者
持明院基孝は大坂夏の陣で豊臣方に混じって刀を振り回して討ち死にしたw
俺様の中では九條政基と並んで血の気の多すぎるキチガイ公家wwwwwww
- 59 :
- 九條殿って具経じゃなかったっけ?
- 60 :
- 改名したんだよ
- 61 :
- コテ意外にまともなレスがない件
- 62 :
- 月末に、例の坊官の日記と茶人の日記を取って来ようと思ってるんだze
- 63 :
- >>57それは恐縮
ところで、この天正期とその前後の時代を含めて、宮中女官の日記というのは伝わってないのか?
- 64 :
- あるけどまたなんで?
- 65 :
- 特にこれと言った理由はないが、なんとなく宮中のことを詳しくしるなら女官の日記かなと。
愚痴や不満しか書かれておらず、当時の宮中の雰囲気が窺い知れない日記の可能性もあるのかもしれないが
- 66 :
- 内侍の日記も持ってるが、正直主上の身の辺と風聞
あとは参内した人員くらいしか載ってないな
それとな、女房言葉って凄まじいほどに訳しにくい
読みたいなら書くけど
- 67 :
- それはあまりに身の回りすぎるから、せっかくだけど遠慮しておく
- 68 :
- ちなみにその日記さ、応仁の乱くらいから幕末まで400年くらい延々と書かれてるんだぜw
- 69 :
- 日記の引継ぎだとしたら、かなり稀な希ガス
- 70 :
- 引き継いで書かれた日記といえば大乗院雑事記なんかもそうなんだが
お湯殿の400年には負けるな
- 71 :
- 七十一
- 72 :
- 72かいいこと
- 73 :
- 磯野73平
- 74 :
- 74田監督
- 75 :
- 75り雪
- 76 :
- 76阿弥陀物
- 77 :
- 77転び八起き
- 78 :
- 天正十年(1582年)3月18日勧修寺晴豊の日記――京都
雨降夕晴、陣之様体種々せり之、定相ふ聞之、御局、万里当年始御出、両人さしそへ参ル
『雨降り夕方晴れ、(信長の)陣の様子を色々聞いた。あんましよくわからん
お局と万里小路は今年初めての出仕。二人そろって参内しはったわ』
- 79 :
- 79な
- 80 :
- 天正十年(1582年)3月18日吉田兼見の日記――京都
丙子、向万里下向治定用意之、向救庵面会、信州之義彌相齊之由条書披見了、向清少、雨降暫相談
晴時分出清少、向牧庵、次参近衛殿、御方御所御対面、暫祇候了
『万里小路んとこ行ったらチジョウ(信長の所)に行く準備してはった。
救庵とこ行ったら信濃の件を平定しろという内容の条書を見せてもろた。
清原国賢とこ行ったら雨降り。しばらく相談した』
『晴れたころ清原んとこ出て牧庵とこ向かう。そん次近衛前久様んとこにお邪魔した。
御方とご対面。しばらく居させてもろた』
- 81 :
- 治定が信長か。
- 82 :
- 天正十年(1582年)3月19日松平家忠の日記――甲府
丁丑、上様三川ヲ御帰陣候ハんする欠、遠州御陣所作候、酒左衆本栖へ越候へ由申来候
『信長様は三河国に本陣を移すのだろうか遠江国にご陣所を作ってる
酒井忠次らが本栖へ行くことを言いに来た』
- 83 :
- 3/19の日記だが、タイムラグってどれくらいなんだろうか。
- 84 :
- >>81
治定、治罰ってのは綸旨なんかに使われる言葉。
この場合、万里小路は朝廷の使者として信長の元に派遣されることがわかってるし、
その後に続く条書の内容から治定とは
「信長に信濃の争乱を鎮めるよう申し付ける文書」ってことがわかる
つまり下向治定用意は万里小路が(そういう使命を携えて)信長の元に向かうということさ
- 85 :
- >>83
家忠の場合は恐らくその日かその日から間隔を開けない日に書いてる
ちなみに吉田は天正十年中の一年分を改竄して書き換えてるがなwwwww
- 86 :
- なるほど。痴女うそのものが信長のことではなく、この場合に限って信長を指すということか。
ところで日記の冒頭のふたもじは
十干と干支だが書いた日でおk?
逆に月を書かないことが不思議
>>85
タイムラグっていうのはトオトウミに陣を作っているということを3/19に書いているが
つくりはじめたのがいつで、どれだけの時間かかって甲府に伝わっているんかなーってこと
- 87 :
- タイムラグは調べないとわからんと思うから、放置でええよ
- 88 :
- 天正十年(1582年)3月19日吉田兼和の日記(原本)――京都
丁丑、信州御陣へ差下使者喜介、当番之、西洞院令相縛不参
『信濃国の信長んとこに派遣さす使者は喜介。(今日は私が参内する)当番。
西洞院(時通)は(何らかの事情につき)来ない』
- 89 :
- >>86
かいつまんで説明すると丁丑も丙子も12×12の組み合わせてその二文字だけ見れば
何月何日かを示してるわけよ
遠州御陣がいつから作られたのかについては家忠は19日に知ったようだ
酒井にでも聞いたんだろうか。
この辺のいつ頃から作ってたのかについては信長公記にも書いてないしな
ちなみに信長の本陣はこの後諏訪から浜松など移動するが全て宿所を経ているから
この時も本陣を構えるための建物を普請するわけではなく
信長を饗応するための本陣の準備程度のものを差して「御陣所作」としてるようだ
- 90 :
- 天正十年(1582年)3月18日太田牛一の日記――諏訪
上之諏訪法花寺に御居陣、諸手の御陣取り段々ニ仰せ付けラレ候之
『上諏訪の法華寺に(信長様は)陣取られている。攻撃側(味方)の陣取りを指図されている』
人数持ち備へ之次第、織田七兵衛信澄、菅屋九右衛門、矢部善七郎、堀久太郎、長谷川竹、
福富平左衛門、氏家源六、竹中久作、原彦次郎、武藤助、蒲生忠三郎、永岡与一郎、池田勝九郎、
蜂屋兵庫頭、阿閉淡路守、不破彦三、高山右近、中川瀬兵衛、惟任日向守、惟住五郎左衛門、
筒井順慶、此の外、御馬廻御陣取り是又、段々ニ是れあり
- 91 :
- >>90は3/19に訂正
- 92 :
- しばらく休憩。続いて3/20を投下
- 93 :
- 天正十年(1582年)3月20日僧英俊の日記――奈良
廿日、前右府甲州へ出馬付、一七日可有満寺一味同心之祈祷之由、去四日之綸旨別当へ来之
『20日。信長の甲斐国出陣に関して、興福寺総出で17日間の祈祷を行うよう
綸旨から(興福寺)別当へ来てたようだ』
- 94 :
- 天正十年(1582年)3月20日山科言経の日記――京都
戌寅、去十一日甲斐国戦有之、去月以来之由、三位中将殿御發向、武田一党悉打死了、
前右府信濃国ニ在陣也云々、珍重々々
『3/17に甲斐国で戦があったそうや。2月以来みたいや。
織田信忠が向かい武田一党はことごとく討ち死にしたらしい
信長はんは信濃国にあらっしゃるようや。よかったよかった』
- 95 :
- お前一体何冊歴史本持ってんだ?
- 96 :
- 歴史本以前に現本持ってるだろ
- 97 :
- 中野区はそこらの学者とかより知識があるから
- 98 :
- 吉田兼和
吉田兼見
山科言継
山科言経
勧修寺晴豊
松平家忠
英俊
太田牛一
かなり残ってるものだな
- 99 :
- 上井覚兼を忘れてる時点でお前は素人
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