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2011年10月1期三国志・戦国三国志通は地理と役職をやたら連呼するよね。
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三国志・戦国板の住民にありがちなこと
【●】三国志のちょっとしたトリビア【●】
【武士・忍者】太閤立志伝X総合スレ in三戦【水軍・商人】
徳川家康の生涯って面白みがないし、人気ないのも分かる気がする
三国志通は地理と役職をやたら連呼するよね。
- 1 :08/11/18 〜 最終レス :11/11/30
- 最近三国志板に二つぐらいスレたてたんだけど
三国志好きはやたら議論に地形と役職をいれるんだよね。
こう素人にわかりやすくしようって気が皆無なのがね。
三国志をマニアックにしてるって気づかないのかな?
- 2 :
- 【三戦板】 自治新党その129 【新秩序】
http://ex24.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1225893639/789-861
> 789 名前:斯波民部少輔うんぴ ◆BMWhZ4BQa6 [] 投稿日:2008/11/16(日) 22:19:11
> 反逆者うんぴは死んだ
> 今いるのはうんぴという名の蛇の抜け殻だ
> 790 名前:吟遊詩人ロココ ◆JqOQa9TZoM [sage] 投稿日:2008/11/16(日) 22:20:06
> >>789
> また安価でHN決めれば?
> HNを変えれば新たな気持ちでコテできるかも。
> 794 名前:斯波民部少輔 ◆BMWhZ4BQa6 [] 投稿日:2008/11/16(日) 22:21:40
> 確かにそうだ、最早うんぴという名は不要
> 名を捨てるとしよう
> 815 名前:斯波民部少輔 ◆BMWhZ4BQa6 [] 投稿日:2008/11/16(日) 22:33:43
> 俺は新党の職を辞して高水寺に隠棲しよう
> それが一番だ
> 818 名前:戸田ブルーうんぴ ◆rreaUNPIAo [] 投稿日:2008/11/16(日) 22:35:52
> >>815
> だったら俺がうんぴの名を継ぐけどいい?
> 837 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2008/11/16(日) 22:44:01
> >>815
> ほれ隠棲せい
>
> 高水寺
> http://changi.2ch.net/test/read.cgi/yume/1226842995/
> 860 名前:斯波民部少輔 ◆BMWhZ4BQa6 [] 投稿日:2008/11/16(日) 22:56:57
> この者こそうんぴの名を継ぐに相応しいでおじゃる
> 戸田ブルーうんぴよ、頑張りなしゃれ
> 861 名前:戸田ブルーうんぴ ◆rreaUNPIAo [] 投稿日:2008/11/16(日) 22:58:03
> >>860
> どうもー
> 挨拶まわりいそがしいそがし
あーこーゆうのな
- 3 :
- そんなことないアルよ
- 4 :
- スレ立てれた。ここ2ヶ月ぐらいでこの板に二つぐらいスレ
立ててるのに立てれるもんなんだな。
漫画板とかだと何ヶ月たててなくてもたてれないのに
基準が知りたいよ
- 5 :
- いや、ここは今立て放題に近い設定になってるはずだから
- 6 :
- この板は2日に1回くらいのペースで立てられるぞ
めちゃめちゃ規制緩いから
- 7 :
- 地理地理地理地理地理
- 8 :
- -------------初級問題--------------
左馮翊京兆尹と国相と郡太守の違いを述べよ( ^∀^)ゲラゲラ
- 9 :
- >>4
同じ回線から立てまくってる奴がいるんじゃね?
- 10 :
- 役職
役職
役職
- 11 :
- 同じ回線から立てまくれない
- 12 :
- >>1
みんなお前が嫌いなんだよ。
だからお前の理解できないレベルの話をして
お前を追い出そうとしているんだよ。
ただそれだけのこと。
- 13 :
- こう思うんだけどさ
この板の人たちがどれだけ三国志に詳しいかしらんけど
詳しいなら素人にわかりやすく説明すべきなんだよね。
地名と難しい役職言って素人を遠ざけてどうすんだろうね。
好きな三国志を一般人から遠ざけてマニアックにしようと
してるだけの行為なんだよね。
- 14 :
- 官職名はともかく、地名の類は仕方なくないか?
- 15 :
- 妄想を垂れ流すのならともかく、誰かと議論しようと言うのなら、ある程度の知識は必要だろう。
分からない事があるのなら、自ら調べるか誰かに教えを請えばいい。
自分は詳しくないからと、議論の主題と関係ない部分の懇切丁寧な説明を相手に押し付けるのはただのわがままだ。
分からない部分は、ちゃんと分からないと言えば、多少の説明は誰だってするだろう。
しかしそれも度が過ぎれば誰も相手にしなくなる。
- 16 :
- そういう事じゃなくてね。俺がいいたいのは「知識のありよう」
なんだよね。知識ってのは人に教えられて初めて知識なんだと思う。
自分が酔いしれるだけじゃ知識とはいえないって話、
多分、昔の中国の偉い人もそんな事言ってたと思う。
つまり人より知識がある人は偉そうにせず
持ってる知識をどうやったらうまく人に伝えられるかを
考えるべきじゃないかなと。
- 17 :
- >>16
あなたが立てた二つのスレには、教えてもらう立場と態度を表明した人間はほぼ皆無だったよ。
単発質問はあったけど。
教えてくれという態度を示した人がいれば、二つのスレは別の進行もありえただろうにね。
まことに遺憾なことだ。
- 18 :
- >>16
お前と話をした人に関して言えば、少なくともお前にはそんな事を言ってもらいたくないと思っているだろう。
はっきり言えば、お前は誰かの話を理解しようと言う姿勢に欠けている。
お前が分からないと言った事を、何人の人間が、どれだけの言葉を尽くしてお前に説明したと思っているんだ?
にも関わらず、理解できないだの何だのと言って、挑発的な態度を崩そうとはしない。
それどころか、どこが理解できないかを話すでもなく、子供じみた屁理屈を言うか、何も言わずに話を中断する。
理解しようとしない人間に理解させる事は難しいし、相手も愛想を尽かすだろう。
「一隅を挙げて、三隅を以って反らざれば、則ち復たせざるなり」という言葉もある。
- 19 :
- >>16
お前の思い込み
昔のえらい人は
「知ってる事は知っている、知らない事は知らない、
とちゃんと自分の知っている範囲を認識する事こそ『知る』という事だ」
という趣旨の事を言ってる
別のえらい人は
「どんな奴も勉強しないとただのバカ」とも言っている
そしてまた別のえらい人は
「ヴァカは、搾取されて」という趣旨の発言をしている
判らない自分を先ず恥じて、それから他人に遜って教えを請うってのは中華君主の美徳ってよく言われるよね
お前は2000年前の古代人にも悖るクソバカ野郎だよ
- 20 :
- >>17
まあこのスレと前に俺が立てたスレは関係がないんだけどね。
三国志通の歪みを指摘しただけで。
>>18
解かりやすくすべきって事なんだよね
たとえば俺はレスする時に必ず解かりやすくしてる。
単発質問レスが多いのはそれが一番わかりやすいからなんだよね。
名前のない2ちゃんねるで前後の繋がりを無視して
単発の質問をすることが一番わかりやすい。もちろんスレが止まってるときにね
やるんだけど。
>>19
そう?たしか西郷隆盛がそういう発言してたと思うが
昔から言われてたことじゃなかったんだね。
- 21 :
- 地名と役職は仕方ないだろ
名称だし
- 22 :
- まあ、なんであれ2ちゃんで学ぼうとするあたり、根本的に間違ってる気が。
- 23 :
- ええい!いいからとっとと埋めろ!
そしてこの糞スレを過去スレ倉庫の底に永遠に封印してしまえ!
こんな阿呆の痕跡はこの世に残すな!
- 24 :
- 地理と役職を学ぶスレに転用する
- 25 :
- それはいい考えだ。
三国時代の役職や地理について誰か適当に質問してみればいいんでないかな。
- 26 :
- じゃあ録尚書事って何?
- 27 :
- 何って言われたら官位って答えるしかないな
- 28 :
- >>27
官位なら序列とかあったんだよね?何と何の間くらい?
- 29 :
- コロコロ変わっててよくわかんねぇってのが正しい
いくつか推測はできるけど当て推量に近いからなぁ
- 30 :
- 録尚書事に相当する領尚書事というものが、前漢の霍光に与えられており、
これが領尚書事というものの初出だろう。
この領尚書事というものは、皇帝が崩御して新たに皇帝が立てられた時に与えられており、
それは以後の領尚書事も変わらない。
録尚書事という形で現れたのは後漢の章帝の時で、牟融という人物に与えられていて、これも章帝が即位した直後の事。
つまり、もともと録尚書事というのは、皇帝が親政するには未熟であるという時に、
摂政として動く為に置かれたものと考えられる。
本来皇帝のみが行う事のできる詔勅の決裁などを行っていたのだろう。
その頃の尚書は、少府という役所に属して詔勅の起草等に関わっていたので、独立した機関ではなかった。
だから録尚書事も、尚書の長と言うより、詔勅を発行する権限自体を指していたと考えられる。
後に尚書は尚書台として独立したので、録尚書事も、尚書台の長である尚書令の上に名目上置かれる事になったが、本質は別だろう。
結論としては、官位と言うより、摂政職を指す言葉だったと思えばいいと思う。
- 31 :
- いきなりこわいところを突くなw
まず尚書の説明からかからないといけない。
尚書とは、九卿の一つ少府に属し、皇帝に出入りする文書を掌る役職のこと。
その長官は尚書令と言う。皇帝の禁中に属する官(内朝官とか中朝官という)のため、初め場宦官の職だった。
後漢から魏晋南北朝にかけては、三公(いわば三人の宰相)九卿(大臣)ら、外に役所を構える「外朝官」の実権が
形式化していった時代だった。特に後漢では皇帝に近い存在だった宦官・外戚が全盛を誇った。
その時代の中で、皇帝の傍に仕える尚書もまたその実権を伸ばして朝廷の執務を事実上決済するようになり、
階級を上げ、時には実力のある士人が為って外戚や宦官と権力闘争を繰り広げた。陳蕃・竇武と曹節の争いなどが有名かな。
録尚書事、或いは領、平尚書事というのは、高位の官職にある者が尚書令の職務を兼務する際の職名のこと。
だから大将軍録尚書事とか、太尉領尚書事などと必ず前に他の官職が付く。「尚書の事務を領する太尉」という程度の意味だね。
外朝官の高位や時には実権と、内朝官の影響力を兼ねる、実力者の就くポストということになる(まあ、その時々だったろうけど)
後漢末三国時代では、臣下の身で実権を握った曹操が鎮東將軍録尚書事、司馬師が撫軍大將軍録尚書事とその身に帯びている。
また、尚書令が実質行政長官として機能していたらしい蜀漢でも、諸葛亮、蒋エン、費イ、諸葛瞻、董厥、姜維ら高官が任じられて
高い地位や時には軍権と、劉禅への発言力を維持したものと思われる。
- 32 :
- >>30
なるほど、録尚書事が非常置なのはそういうわけか。
- 33 :
- 録尚書事は尚書令の兼務っておかしくない?
領尚書令でいいんじゃない?
尚書令も別にいるのに
- 34 :
- >>28-29
兼官なので、録尚書事自体に序列は無い。
●●・録尚書事の●●の部分が、その任命された人間の席次序列になるわけだ。
- 35 :
- >>32
いや、俺も官職を研究しているわけではなく、これも史書からの推測なので、断定はできないと思う。
ただ調べれば分かるけど、前漢、後漢では、やはり新帝即位時に設けられている。
あと、よく調べたら霍光が初めてではなくて、武帝の時代に張安世が領尚書事になってた。
- 36 :
- >>35
張安世が領尚書事になったのは後からじゃないか?
霍光、上官ケツ、金日テイの三人が最初だったはずだ
- 37 :
- まあなんとなく分かった
で、よく武官っていうけど中郎将と都尉と校尉と将軍ってあるじゃん
どう違うわけ?なんでこんな何種類もあるの?
- 38 :
- >>36
俺もそう思ったんだけど、後漢書肅宗孝章帝紀の注釈に、
「武帝初以張子孺領尚書事。録尚書事由此始」とあったんだよね。
この辺の話は、三戦だと俺より怨霊さんとかのが詳しいと思う。今いるかは知らんけど。
- 39 :
- >>33
確かにおかしいね。ごめんw
では三公級の高官が尚書の職務(或いは権利)を有する場合の兼官、くらいの意味かな
- 40 :
- >>38
確かにあるけど、漢書の列伝では武帝の頃は尚書令と光禄大夫にしかなった形跡がない
李賢ぼっちゃまの間違いじゃね?
- 41 :
- >>37
まためんどいな!
中郎将とは、中郎の将という意味。郎とは廓(くるわ)であり、つまり中郎将とは
皇帝に近侍し護衛する近衛軍の将ということになる。
機動的な軍団を殆ど持たなかった後漢では、五官・左・右・虎奮・羽林などの中郎将は
宮殿を宿衛する皇帝直属の精鋭であり、同時に地方征伐に派遣される有力な常備軍だった。
尉、校も軍官・士官のこと。校尉は部隊長という程度の意味だろうか。
後漢では、城門校尉以下五校尉や西園八校尉のように京師(首都)を護る常備部隊に名づけられることが多かった。
司隷校尉という首都圏長官職もある。
「都尉」の都は「全て」という意味。諸郡都尉や都護、後に都督という職が造られることから、
「ある領域を掌握する指揮官」くらいの意味かと勝手に当て推量しているが、わからない。
中郎将、校尉、特に都尉は様々な軍事警察の職や辺境守備軍、治水や兵站のような
後方軍政的な職の名にも使われて、命名の法則は自分にはほとんどわからない。
或いは指揮する兵の出自が関係するのだろうか。
以上が、後漢王朝に於ける常設の軍事組織。
「将軍」は、中央から征伐に派遣される際に指揮官が号するものであり、非常置の職。
征伐から帰ると任を解かれる。
後漢代では、光武帝の統一の時代に多数の将軍号が発っせられたが、戦争の時代が終わると
それらの軍は解体された。
後漢盛期では、朝廷の実権を握った者が為った大将軍や車騎将軍を除くと、
将軍号は度遼、征西など、数えるほどしか発せされなかった。
だが後漢末に為ると、割拠した軍閥が勝手に名乗ったり、実力を追認する形で朝廷が任命したのを皮切りに、
将軍号は増発が重ねられ、四征鎮のような新たな名号も作られ、その指揮下の武官達も帯びるようになった。
三国時代、国境地帯には諸軍が張り付いたままとなり「兵を収める事が出来ない」状態となったため
将軍号は実質常設の官となって南北朝時代へと続く。
「将軍」が高級士官の代名詞的に用いられるのはここに始まると思われる。
- 42 :
- >>41
三国志の各地の軍閥が任命してる校尉は、将軍の配下の部隊長だね
一方、都尉は郡の警察・軍事担当で郡兵を指揮する
だから軍閥の長の将軍直属なのが校尉、郡の統治のため駐屯するのが都尉、という住み分けになる
- 43 :
- >>40
太平御覧にも、「漢書曰張安世領尚書事職典枢機…」とかあるんだよね。
んで調べると、神爵元年に領尚書事となった記述が韓王信の列伝にある。
これを勘違いしたのかもしれんね。
- 44 :
- >>41-42
調べるのがあまりにも面倒だと思ったが、俺がやる前に説明してくれた人がいたか。
皆親切だな。
- 45 :
- 付け加えるなら、中壘、屯騎、歩兵、越騎、長水、胡騎、射声、虎賁の八校尉を置いたのは前漢の武帝。
都に所在する中軍の指揮官としての校尉は、恐らくこれが初だろう。
- 46 :
- >>42
それは後漢末に入ってからの序列に思えるんだよな
郡の警察・軍事担当の都尉は諸郡都尉だけど、都尉の名は奉車、附馬、水衛、都尉など
多岐に及んでいる。
戦時体制の確立の中で指揮系統を明確に一本化するため、また軍官の増大に対応するため
雑号中郎将というものまで出来て、将軍>中郎将>校尉という序列が定まったと思えるけど、
後漢時代からそうだったかというとだいぶ怪しい。
いやま、三国時代の理解としては、将官>佐官>尉官 みたいなものだと覚えてもそんなに
的外れではないかもしれないけど。
- 47 :
- 三公ってあるけど、魏になるまで曹操の司空以外全然出てこないよね
なにやってたの?
- 48 :
- いや的外れかw
中郎将の格が低くなったとしても、将軍の属官ではないもんな
- 49 :
- >>47
「三国志」に出てこないという意味なら、曹操が実権を握ると自分以外の公を置かなかったから(丞相以前も多分置いて無いと思う)
董卓・李カクの時代ならたくさんいるよ 楊彪 王允 黄エン 荀爽 馬日テイ 趙謙 皇甫嵩 朱儁他
でも「三国志」は魏呉蜀を中心とする史書なので、後漢朝廷のことは事件でも無い限り扱われない。
- 50 :
- ( ゚Дメ) 50
- 51 :
- (=゚ω゚)ノぃょぅ
- 52 :
- >>1
地形と役職がいやならカードゲームでもやってろ
- 53 :
- 相手すんな。
時間の無駄だ。
- 54 :
- 録尚書事=「尚書の事を付録する」でいいんだよな?
ただ下っ端官僚録尚書事なんて奴が存在しないから実際には高官限定のマテリアみたいなもんで
- 55 :
- 録は総領の意らしい。百官己を総べて以って聽くという言葉が録尚書事任命の詔勅によく使われているから、
>>30の摂政職という見解に当てはまるのでないかな。
- 56 :
- 尚書を掌握している実質政権を担当している者の役職だからね。
- 57 :
- 往時の制度スレを彷彿とさせる良スレになったな
って、往時っていっても憶えている人なんていないかも…
- 58 :
- 怨霊・・・
- 59 :
- >>55-56
勉強になった
行○○将軍みたいな正式なポストではない、というニュアンスかと思ってた
- 60 :
- テス
- 61 :
- 「関白」の語源となった霍光は大司馬大将軍領尚書事
大司馬大将軍が「将軍の最上位」なのは衛青から分かる
ということは、「関白」たりえる権限は「領尚書事」から生まれていることになる
- 62 :
- >>59
行●●にも何通りかの使い方があって、
例えば
劉備の左将軍行大司馬は、「左将軍を本任とし、その資格序列のままで大司馬の職務を代行する」だけど
曹操の司空行車騎将軍は「司空を本任とし、車騎将軍の職を兼務する」になる。
大将軍録尚書事というのは後者の使い方に属する。ことになる、と思う。
- 63 :
- 尚書僕射ってのは何なんだ?
なぜ「ぼくしゃ」じゃなく「ぼくや」なの?
尚書と中書と侍中と軍師(祭酒)の違いは?
尚書と公卿(九卿?)の役割の分担は?
公卿は各役所を代表する大臣で、尚書が総理直属の政策立案グループ?
- 64 :
- 僕射は、まあ次官のこと。かつては射に優れた者が
ぼくやなのはそのような発音を日本語読みにしたから。
中書は秘書官。その長は漢では令で魏晋では監。
軍師は正式な官職として確実に認められるのは曹操が初めて。
三公や車騎など高位の者が軍を率いる時の広義の参謀職。
祭酒は、祭酒の號を加えるは,以って優尊を示す所也。 参謀長というところか
>公卿は各役所を代表する大臣で、尚書が総理直属の政策立案グループ?
そんな感じ
- 65 :
- ミスった。
僕射は、かつては射に優れた者が警護に任じられたからとかなんとか聞いた気がする
- 66 :
- 抜けてたな
侍中は加官で顧問官のようなもの。
- 67 :
- >>64
官職として認められる軍師は後漢最初期が初出でいいと思う
尚書も中書も皇帝の秘書
漢においては公式な場所の士人の秘書が尚書、皇帝が後宮にいる時の宦官の秘書が中書だった
司馬遷も宮刑になってから中書令になっている
中書が先に皇帝の側近として力を持ったが後に廃止され、尚書が代わりに使われるようになった
でも魏の時代になると尚書が皇帝から独立した機関になって秘書としては機能しなくなってきたので、今度は士人の秘書として中書を再設置した
- 68 :
- >>64
官職として認められる軍師は後漢最初期が初出でいいと思う
誰だっけ。忘れたけど、
あれが一般名詞ではなく官職だという根拠はあったっけ?
- 69 :
- >>64
サンクス
曹操のときの軍師や軍師祭酒って文官系が多くいたと思うけど、
要は将軍付き相談役(参謀)というだけであって
軍事の専門職ってことではないのかな?
- 70 :
- 地理の話。
公孫サンが袁紹と対峙した時に発干に陶謙が進駐したとかの話、別人との説もあるけど
徐州の陶謙(あるいはその部下)が発干まで進駐するというのは可能だと思う?
公孫越が豫州に派遣されたのや袁紹が劉備を汝南に行かせたのもそうだが、
当時の軍は他勢力圏を素通り出来たのだろうか?
威力偵察的強行突破なのか、隠密or電撃的急行なのか。
あと単経(あるいはその部下)は実際にエン州に駐屯したのかな?
それとも遙任?
隣接地域ではない州の刺史の遙任ってただの名誉職?
情報収集などの仕事あり?
- 71 :
- >>69
そりあえず望まれてない突っ込みから入ると、「軍師」という職が武事を担ったならば、それは武官だよ。
文官系も何もない。「郭嘉は文官だ」というのは文になっていない。「郭嘉」は官職の名前じゃないから。
とはいえ、袁渙の記述などを見ると、軍師というのは丞相や大将軍の征伐にも付き従い戦術戦略のみならず
人事や政事にも助言する総合的な参謀(集団)だったようだね。
ちくまの官職表によると長史・司馬の上に立つことからも、現代の参謀本部のような役割にかなり近いと思う。
臣下の身で漢王朝を宰領した曹操に必要だった属僚集団の中でも特徴的なものの一つだろう。
しかし、元の三国職官表持ってないんだけど、これの品秩や秩石って魏のものとしてはどれだけ正確なんだろうか?
- 72 :
- >>71
宋書や漢書からの類推だから想像の範疇は超えない
が、まあそれなりに価値はある代物
- 73 :
- >>72
まあやっぱりそんなものか。太守が五品なのに二千石のままとかなのはそのせいか。
でも確かに漢から比べて序列の上下変動などは興味深い。
郡の地位が凋落して州や都督諸軍事級の将軍が上に来ているところとか。
- 74 :
- >>70
少なくとも、袁紹が劉備を行かせた頃はエン州が敵をスルー状態だったよ
テイイク伝参照
- 75 :
- >>70
軍を派遣するくらいならできると思うよ。
当時の軍隊が戦線を形成できたとは考えられないので、土地を支配していても、
城市と城市との空間にまで軍隊を満たす事はできず、土地が開けていて、
且つ前進経路近傍の城市に脅威となり得る大軍が駐屯してさえいなければ進む事はできただろう。
その分、補給の維持には多くの兵力を割かねばならなくなるので、大軍の恒常的派遣は難しい。
ただ、発干が公孫瓚の勢力範囲であり、その地で公孫瓚による補給が受けられるなら、
補給の度合いに応じた軍を発干に駐屯させる事はできると思う。
まぁ、陶謙本人が本拠を留守にして発干に行ったとは思えないけど。
- 76 :
- 陶謙の発干駐屯がおかしいというのは、
劉備や単経と比べて突出しすぎていることと、
後漢書によればその時期の前に朱儁に精兵三千を貸し、
直後に朱儁を討董卓の元帥にしようと動いているはずなのに
公孫サンに顎に使われて最前線に行ってる場合なのかってことかな。
しかし、朱儁への支援のことが後漢書陶謙伝でさえ一言も触れてないってのも
奇妙な話だけど。ベースにした史料が違うのだろうか。
- 77 :
- 討董卓じゃなくて討李カクだったか
- 78 :
- 情勢まで加味して考えると難しくなるね。
公孫瓚と袁紹の戦争が重要だと思うけど、袁紹が公孫瓚を界橋に破った後、
公孫瓚が薊を攻囲した崔巨業を破って勢力を盛り返すまで、平原の辺りは袁紹の勢力範囲だった。
陶謙が軍を派遣したとして、それが界橋の後なのか前なのかという事だが、これは界橋以前だろう。
界橋の後だと、公孫瓚には、彼が崔巨業を破り、袁紹が鄴の反乱鎮圧に忙されるまで、
平原周辺に軍を駐屯させる余裕は無い。
しかしそれ以降だと、田楷を劉備と共に斉に派遣した頃となり、平原に劉備は置けないだろう。
もう一つの問題が、曹操が兗州牧を得る前なのかどうかって事だな。
青州黄巾との戦いは寿張から斉北辺りまでで行われ、斉北で黄巾を降した後に劉備らを破った事になっている。
当時の曹操の本拠は発干と近い東武陽なので、曹操がここに戻っていたとしたら、
陶謙の軍が発干に到着する前に、兗州で攻撃していると思う。
また、戻っていなくとも、曹操が寿張とか斉北にいたなら、陶謙は兗州を経由して発干に軍を送る事は難しいだろう。
恐らく、陶謙が軍を派遣したなら、初平二年か、遅くとも初平三年の初めには送っており、
公孫瓚の冀州侵攻を援護する形で行われたのだろう。
その後、界橋で公孫瓚が敗れ、曹操が兗州で黄巾を降した事で孤立し、曹操らに撃破される事となったのだと思う。
- 79 :
- 陶謙二人説
三国志本伝と注の呉書で全然経歴が違う理由はこれだ
- 80 :
- 遅い
- 81 :
- 他スレ用に書いたものだけど使わなかったのでリサイクルさせてくれ
各勢力の大雑把な位置関係を書くと
烏丸・鮮卑
公孫サン/劉虞
曹操/袁紹
袁術/陶謙(劉備)
袁術/陶謙(劉備)は公孫サン寄り、他は劉虞・袁紹寄り
ちょうど互いに包囲しあうような形になっているが、
劉虞との関係が悪化しなければ公孫サンが北方を心配する必要はあまりない
ただ、劉虞と烏丸の丘力居が親交を持とうとすると妨害したり、
劉虞の子が袁術に捕らえられると従兄弟の公孫越に命じて横取りしようとしている
公孫サンの資金源は国境の交易に一枚噛むことだったようだが、
劉虞が異民族対策に関わるのが邪魔だったのかも知れない
ところで公孫越だが、袁術と周キン(袁紹系)の小競り合いに巻き込まれて戦死してしまう
袁紹からすれば「知らんがな」と言いたい所だが公孫サンは袁紹に報復する姿勢を見せ、
袁紹の懐柔策を逆手にとって先手を打ち大軍を率いて南下する
袁紹はこの時点では冀州を掌握しきっていなかったと思われ、
界橋の戦いは袁紹は望まず公孫サンの注文通りだったはずだが敗れている
袁術・陶謙は袁紹の後方を衝こうとしたが撃退され、
その後陶謙は病死して劉備が徐州を譲り受けるが呂布が乱入
袁術は劉備を攻めたり皇帝を僭称したりで袁紹包囲網は機能しなくなった
- 82 :
- 袁術と陶謙が当初から連携する仲だったかはよく分からないが、
ともあれ袁術が揚州に移ると徐州伯を名乗り、陶謙と小競り合いをするようになる。
それを受けてか劉備は徐州を継ぐと袁紹に挨拶し、
曹操から官位を貰って完全に袁曹派に属している。
その状況で徐州を奪った呂布は、袁曹(献帝)派と袁術派の板ばさみで行ったり来たりした。
曹操に寄り添いたい陳親子と今更曹操へは戻れない陳宮が象徴的だろうか。
結局皇帝を名乗った袁術に付いて同時に沛県の劉備を攻撃し、劉備は許へ逃げ込んで曹操の攻勢を招く。
袁術は呂布救援の兵を出したのか出さなかったのか、役に立たなかった。
前年の淮南飢饉が響いたのかもしれないな。
- 83 :
- 信長に対する家康のように曹操が袁紹の背後でバックアップしてたんだろうが、
公孫サン支持者は曹操に吸収される、というのはほとんど法則だな
袁術、陶謙(劉備)、張燕
結果袁紹が振り向くと曹操が進路を塞いでいたという
- 84 :
- >>83
当時の力関係で言えば、曹操は袁紹が河北平定の間の黄河以南の足止め役だろうね。
でも公孫サンを破る間に曹操も当面の敵を殆ど下して献帝を抑えていた。
それでも袁紹と曹操の勢力差は相当なものがあったようで、曹操は官渡で袁紹を撃退してから
袁尚の息の根を止めるまで七年、攻撃を繰り返さねばならなかった。
その七年で最も貴重な時間を稼いだのは孫権、ひいては劉備だろうな。
- 85 :
- 大司馬と大将軍と太尉の関係って?
- 86 :
- 太尉・大司馬は前漢の上卿(丞相、太尉、御史大夫)、または前漢末からの三公(大司徒、大司馬、大司空)の一つ。兵馬を掌る宰相。
相国→丞相→大司徒→司徒や御史大夫→大司空→司空と名称が変わった以上に、太尉・大司馬は細かく名と実権が変化しているので説明は面倒くさい。
大将軍は、複数の将軍を率いて征伐に 漢中王劉邦の下で韓信が為っている。王朝成立後では衛青が著名。
また外戚の霍光が大司馬大将軍として輔政したが、大将軍の地位自体は丞相と御史大夫の間というところだったようだ。
後漢の三公は司徒、太尉、司空で安定するが、代々力をつけた外戚達は霍光に倣い大将軍位について
政権を執ったため、三公の形式化に伴い大将軍は朝廷の政権を握る職となった。
董卓が朝廷の実権を握ると、大司馬を復活させ、当時太尉で幽州牧として外に出ていた劉虞をこれに為し、
自分が太尉となって中央の軍権を正式に掌握した。
大司馬が太尉と並立し三公の上に立つ魏晋の制度はここに始まると思われる。
董卓はまた同じように相国も復活させて自らこれに就き、曹操もこれを継いで丞相と改名して権力をここに集中させた。
- 87 :
- >>86
じゃあ曹仁がなった大司馬は太尉と同じものなのか?大将軍から横滑りしてるけど
- 88 :
- ハハ、遅すぎるわ
- 89 :
- 典校って何をやったの?
- 90 :
- 地理と役職
地理と役職
地理と役職
地理と役職
地理と役職
地理と役職
地理と役職
地理と役職
地理と役職
地理と役職
- 91 :
- >>89
典校秘書とか、秘書校書郎とかは、後漢だと東観にあって、
各種典籍の校閲をやっていた職務だと思うよ。
ざっと読んだ感じ、「典校」自体に、典籍の校閲という意味があるのだと思う。
- 92 :
- >>91
呂壱って典籍の校閲だけであんなに嫌われたの?
- 93 :
- >>92
呂壱の場合、典校と言っても馬融らの行ったのと違い、中書典校として、
「諸官府と州郡の文書を校閲や取締りに当った」という事なので、
中央政府は愚か地方の行政上の書類まで全てを検閲する権力があった。
従って、これを悪用して権勢をほしいままにしていたのが嫌われた原因だろう。
- 94 :
- >>93
それって「文書をつき合わせて監査して汚職や違法行為を摘発しようとした」から嫌われたんじゃないの?
- 95 :
- >>94
呉に関しては、魏や蜀と比べてあまり詳しく読んでないんで分からんが、
そうだとすると、呉の政治は相当腐敗していた事になるし、
最終的に呂壱が誅されたのも、全然違う見方になってしまうな。
こういうのは、呉についてよく調べてる人に聞くのが良いんじゃないかと思う。
- 96 :
- >>94
最近呂壱再評価の論調があるけど実際どこまで呂壱がやってたかは不明だが
よく言われるのは豪族から既得権益を奪取しようとしてたのではって話しだね
- 97 :
- 容赦なく官僚選抜をやって自に追い込まれた曁艶がいるけど、
彼は人物評価を徹底しすぎてKYだったという感がある。
呂壱は孫権本人以外に擁護してくれる存在が皆無だからねえ。
有力豪族と孫氏の力関係を改善しようとする意思がなかったとは言わないが、
人望ある皇太子・孫登からも苦言を呈される状況だったようだから、擁護しづらいよね。
- 98 :
- >>97
俺は、そもそも呉の皇太子は世間で言われるように単純に優秀、惜しいというようなものじゃないと思うんだよな
特に孫和は怪しいが、孫登もあまりに大臣たちつまり豪族に取り込まれてるような感じがある
好意的な評価の裏に何があるのか、考えた方がいいんじゃないのかなあ
- 99 :
- ( ゚Дメ) 99
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