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2011年10月1期三国志・戦国【長尾大庭長江】平姓鎌倉党総合スレ【香川梶原俣野】 TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼
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【長尾大庭長江】平姓鎌倉党総合スレ【香川梶原俣野】


1 :09/07/07 〜 最終レス :11/12/11

香川、梶原、俣野、長尾、大庭、長江、酒匂、只野(多田野)、古屋、
豊田、桑良(景行系長尾)、安積氏らについて語りましょう。
時代は平安後期から戦国時代まで、江戸時代以降藩士になった家の話題もあればどうぞ。

2 :
基地害長尾厨がまた論破されるためにスレ立てたのかw
お前ら本当にドM野郎だなw

3 :
>>2
ここは鎌倉党全般のスレです。長尾に限らず鎌倉氏一族ならなんでもおk

4 :
良スレハケーン

5 :
猪俣もそうだっけ?

6 :
北条は違うの?

7 :
北条は伊勢平氏系

8 :

梶原景時は忠臣

9 :
それは知ってる

10 :
10げっと

11 :
良スレアッ━━━━━━!!

12 :

需要が有りそうで無さそうなスレ

13 :
長尾景春について騙ろう

14 :
お前らこんど大船駅でオフ会やるよ。
缶ビール持ち寄って長尾郷で宴会だ。

15 :
>>14
www

16 :
鎌倉景政―大庭景継―長江義景―長尾景行  でおk?

17 :
坂東平氏はみなはやい時点で平を名乗らなくなるのね 独立志向が強いのか

18 :
平氏じゃないからじゃない?

19 :
伊豆北条は違うの?

20 :
実家が横浜戸塚区俣野町だから
大庭一族俣野氏のエリア・・旧ドリームランドの丘の麓が居館跡
ちなみに戸塚区栄区泉区の御霊神社はほとんど鎌倉景政を祀る

21 :
>>18
宝賀オタ乙w

22 :
宝賀は、古代士族と地方下向平氏・源氏の招婿婚による
勢力的・領主的な合一を無視しすぎ

23 :
>>22には同意。

24 :
某スレよりコピペ
>宝賀寿男がバカなのも、日本は中世までは婿入り婚(妻問い婚)だったという事実を(恐らく故意に)無視しているから。
>「○○氏は祭祀体系が源(平藤橘)氏のものとは明らかに違う、よって仮冒であろう」なんてのが多いが、婿入り婚だった当時の社会背景を考慮すれば、当たり前だってのw。

25 :
>氏は源平藤橘でも、中身は母系集団の一員として育ってるんだから。
>「実際は古族の末裔であろう」なんてのもバカかアフォかと。
>国造に代表されるような「古族」が、時代時代の中央勢力の一族(源平藤橘など)から婿を取って、父方は中央貴族、実体は母方の一族を継承しているってのが殆んど

26 :
まあその程度の奴が大手を振ってる今の日本の学界のショボさを嘆くべきだな
カクコウゾウみたいなのがTVに出まくってる時点で終わってるが

27 :
>>25
もしかしたら父方が地方豪族で母方が源平藤橘というのも
中にはあるかもしれないが、平安後期〜鎌倉期に現れた武家には
何かしらの由緒があって本姓を名乗るのが実情と見るべきで
怪しいところがあるからといって全て仮冒とするのは間違っているよなあ

28 :
三浦氏なんかは良文と忠通との間の欠落が大きいね
系図によっては良文―忠頼―忠通とか、良文―忠光―忠通 になってるけど

29 :
宝賀は系図の欠落に関しては、
『一世代を補う必要はあるものの基本的には信頼して良いものと思われる』
みたいに系図を肯定的に捉える場合も多いんだよな。
その線引きがなんとも主観的なんだがw

30 :
>>28
忠通の前に忠光や忠頼が入っていないと系図として成立しないしな。

31 :
良文(886)―忠光(920?)―貞通(貞光、956?)―忠通(980?)―為通(1010)―為継(1047)

32 :
下賤長尾が仮冒なのは確定事項

33 :
良正が良茂の子というのは諱から認めたくない。
三浦氏は忠常の血を何らかの系統で紡いでいると信じたい。

34 :
良文―忠頼―忠常―忠通―為通・章名 という系図もあるね

35 :
>また一部の歴史学者が仮冒だ偽系だと騒ぐのも可笑しい話で、出自(家系)とはそういうものなのである。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a2.htm
(招婿婚や女系系図についても書いてある)

36 :
三浦氏が北条執権の下でも族滅させられかけても大族であり続けられた理由として、
血統の折目が北条より正しかったんじゃないかと思うんだな。
でなければ良文流、良正流、良兼流など複数の高望王の系譜が存在しないだろうから。

37 :
三浦家は二度滅びる

38 :
そして微妙な庶流を遺す。

39 :
蘆名、和田、黒川、・・・・

40 :
40げっと

41 :

意外とレベルが高いスレだなw

42 :
懐島も大庭も梶原も長尾も砦跡の案内板があるが
豊田と俣野はないな、、どちらも場所が特定できないのか・・。

43 :
(´;ω;`) ぶわっ

44 :
44げあと

45 :
日本語おk

46 :

>>1
相模古族の末裔であろう(キリッ

47 :
その古族とは?
国造?

48 :
武蔵国造とか相武国造とか。

49 :
相武国造って相模川流域が地盤で
師長国造が酒匂川流域か、、、

50 :
成務朝での国造封建は非常に多いですよね。

51 :
混み入った説明が面倒なので、この話題について触れたことのない方は
以下のスレを参考にしてください。
ttp://yy33.kakiko.com/test/read.cgi/kikyoya/1135071745/

52 :
>>51
殆ど相模に関しては触れていなかった様に思いますが・・・

53 :
鎌倉党は相模に直接繋がらないっぽいからそんでいいの。

54 :
なるほど。
そういうものなんですね。

55 :
戸塚に相模国造の三世代下の者の古墳があるが
相模川流域が国造の勢力圏ではないのか?

56 :
おーっとw

57 :
相模国造となりますと、漆部伊波が760年代に任じられておりますね。
まぁ、この人物も仲麻呂の乱鎮圧に功績を挙げたとの事ですし、その
点は武蔵国造となった武蔵氏(丈部氏)や入間宿禰の姓を与えられ
た物部氏同様ですしね。
まぁ、詳しくはわかりませんのでなんとも言えない内容ではありますが
、この地域ですと相模国造ではありませんが、神奈川県東部を支配
していたとされる相武国造でしたら、武蔵同様に出雲臣族が国造で
あったとされますし、壬生氏でしたら皇族との兼ね合いや関東近辺に
あった国造との関連性もあるかもしれませんね。

58 :
あぅ・・・トリしくじってますね・・・

59 :
出雲系は力あったんだなあ・・やっぱ鉄は国家ナリ。

60 :
上杉は榎本宿弥

61 :
まぁ、相武国造及び相模国造は武蔵国造とその派生一族に関連
がありそうですし、徐々に調べてみますかね。
なお、本題となっている鎌倉党?と呼ばれる方々ですが、鎌倉が絡
むものとしては、日本武尊の後裔(鎌倉別?)、鎌倉氏(但馬、隠
岐、相模)、鎌倉家(藤原北家御子左冷泉家流、日野家流)、
通称?(清和源氏嫡流、足利氏流)等があるようですね。
まぁ、本当に表面のみをすくっただけですから断言はできませんが、表
面的なものからは相模国造家をはじめとする旧国造家との関連性
は見当たらないようです。

62 :
くわしいな

63 :
長江の本拠は葉山でいいのか?

64 :
現在の葉山町の周辺がかつての長江邑(後に長柄邑)だったとの事
ですので、良いんじゃないでしょうか?
なお、鎌倉党ではないかもしれませんが、三浦氏や太田氏に関しま
しては、古代氏族(国造系)との繋がりがあるかもしれませんね。

65 :
下向した皇胤が地方古族に招婿となって
のちの武士、大名になったのがほとんどやろ

66 :
蛆虫三戦

67 :
どうしても俣野城の場所が知りたい。
俣野町の観音堂一帯か、、、東俣野中央公園一帯か、、

68 :
昔の俣野は広大だったのか?

69 :
東俣野・俣野が戸塚区
西俣野が藤沢市
境川をはさんで広大だわな

70 :
>>67-69
俣野氏(股野氏)に関しましては、當麻無量光寺の伝記によります
と呑海上人という人物が股野氏の出であり、その上人が開いた寺院
として、藤沢の清浄光寺をあげており、この一帯が旧来よりの俣野氏
の勢力圏において重きをなしていた辺りなのではないでしょうか?
なお、この呑海上人という人物は俣野郷の地頭俣野五郎景平の兄
弟とされているとの事です。

71 :
なお、三浦氏に関しましては、相模国の三浦郡の旧名が御浦であり、
この郡内に御浦郷がありまして、その地の豪族として御浦氏の存在が
姓名録抄等に見られ、この豪族の後裔として三浦氏が考えられると
の事です。
なお、この御浦氏でありますが、薬師寺文書の天平勝宝年間に記載
がある「御浦郡司代太田部直國成」など太田部直一族の末裔と考え
られており、この太田部直は相模国造家に連なる豪族とされます。
因みに、相模国造家は出雲臣族の漆部直(相模宿禰)でありますが
同じくほぼ同時期に国造となった武蔵国造家の丈部(武蔵宿禰)氏も
出雲臣族であり直姓となっており、この武蔵国造に関しては国造となっ
た者やその一族とされる豪族などに関しましても、笠原直、大伴直、
丈部直(武蔵宿禰)、物部直(入間宿禰)、など多くが直姓と言うこと
もあり、この太田部直は出雲臣続系国造家の一族とみる事は難しく
ないかと思います。

72 :
>>70
遊行寺のことですね、、時宗総本山
もともとは西俣野にあり、それが今の場所に移った。
やはり境川の川っぷちが俣野氏の本拠か・・・

73 :
>>72
まぁ、個人的には、自分自身の投稿を読み返しまして、少々疑問に
感じたと申しますか、全くと言っていいほど中世史に詳しくない私
としては理解出来ない点がありまして、個人的には普通、寺院を自
勢力内において建立するとすれば、勢力の中で最も繁栄している場
所を選ぶと思うのですが、最終的に建立された場所は、かつて寺院が
あった寺院跡であり、この点が非常に不可解ですね。
もし、この段階までに俣野氏が完全に没落していたとすれば、最終的
に一族が最も繁栄していた時代において重きをなしていた場所ないし、
その時代に非常にゆかりのある寺院(廃絶した寺院が俣野氏に関係
する場合ではありますが)の再建としての選択など、古来にその立地
の理由を求めることが出来ますが、この開祖となったお坊様は俣野郷
の地頭であったとされる俣野景平の兄弟であるとされ、仮に相当な年
齢さがあったとしても、寺院を建立する段階で廃寺になるほどの時間
的な差は生まれないと思うんですよね。
まぁ、強いて言えば、俣野氏がある程度の勢力があったとすれば勢力
の中心地に廃寺のままにし続ける事はないでしょうし、ある程度の規
模の寺院は豪族の支配地にそうそう多くは建立されていないでしょう
から、何故その地を選んだのか、という点は非常に疑問だったりします
ね。

74 :
投げっぱなしになっていたので書いておく。
高望王とその子息たちの分布は、当時の中央の風習であった妻問婚が全国に波及した
時期と一致する。
常陸に拠った国香と良正は常陸大掾源護の入婿であり、
下総に拠った良将は下総少目県犬養春枝の入婿。
(同じように源護の娘婿でも良兼は父高望の臣籍降下後の嫡男なので)
(その遺産である武射屋形を相続した過渡期の異例と考える。)
村岡五郎良文についてはまた改めて。

75 :

良文−忠光−貞通−忠通−為通?

76 :
三戦ってなんで糞なの?

77 :
君といつまでもってwikiによると300万枚以上売れたとか書いてるのに
歴代シングル売り上げに入ってないんですけど何故なんですか?

78 :
血筋は平氏でも家柄(家名)としては古代氏族ってことか?

79 :
>>76
おまえみたいな奴が居るからさ

80 :
80げっと

81 :
母方で養育され財産も女子が継承したなら何故天皇家の財産は内親王がすべてもってかなかったんだ?

82 :
>「母方で養育され財産も女子が継承した」
( ^ω^)??

83 :
妻の家に婿入りする風習といっても、家政を取り仕切るのは一族の長老男性だろ、日本の中世の場合。

84 :
妻問婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
妻問婚(つまどいこん)とは婚姻の一種で、夫が妻の下に通う婚姻の形態のこと。招婿婚ともいう。
女系制の伝統のある社会など母権の強い民族に多く見られる婚姻形態で、普通、子は母親の一族に養育され、財産は娘が相続する。 かつてこうした婚姻形態を持っていた民族として有名なのは、インド南部ケララ州に住むドラヴィダ人、古代の日本人など

85 :
古代の、って書いてありますやん
何自慢気にコピペってはるんですか?

86 :
平安までは古代なんだが

87 :
>>85
高望王の子が関東の豪族の入り婿になったのは鎌倉以後って事?

88 :
違うよ。
平安中期からは中世だよ。

89 :
壬申の乱までが古代というのが現在では常識です
そんな何十年も前の知識で語られても困りますねw
だいたいソースがwikipediaとか舐めてるんですか?

90 :
一般的な歴史区分では鎌倉幕府成立以降になってるはずだが

91 :
>>87
お前頭おかしいんじゃないの?
一例だけで全部が確定とか全体主義者ですか?

92 :
一般的な歴史区分なら院政の開始が中世の始まり

93 :
>>91
鎌倉以後=中世で考えればそうなるだろ
そもそも一般的な古代の定義とずれた定義でいわれてもとは思うが

94 :
院政期だとしても高望王はそれより100年以上前に関東に下向しているな

95 :
>>93
あんたレベル低すぎ、議論の資格無いw
たった一つの例だけを持ち出して滅茶苦茶なこと言われても、
こっちとしては共感も何も出来ませんわw
じゃあ今からその説学会で発表してきたらどうです?
高望王が生きていた時代は鎌倉時代なんです!!!!ってさw

96 :
>>89
何十年前の知識のわりにはいまだに最新の教科書にものるような知識なんだがな
学説と定説はちがう
一般人の常識と好きで調べている奴の常識もちがう

97 :
ようするに高望王の下向したのは平安時代なわけだな
その平安時代は一般には古代に属するわけだ

98 :
妻問婚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[編集] 男系社会における妻問婚

古代日本は基本的に一夫多妻制の男系社会ではあったが、財産は女子が相続し、社会的な地位は男子が相続する形態を取っていたと考えられている[要出典]。
基本的に、女子は社会的地位(位階)は夫に準じ経済力は実家を引き継ぐが、男子は社会的地位は父に準じ経済力は妻の実家に準じる。
女子の後見人は兄弟や一族の男性であり、男子の後見人はやはり一族の主だった男性である。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%BB%E5%95%8F%E5%A9%9A
ウィキ(笑)から引くにしてもせめてここまでは引用せんといかんだろw

99 :
>>97
>>93氏の説によると高望王が関東に下向したのは鎌倉時代だそうですよw

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