2011年10月1期三国志・戦国三国志好きな俺が華陽國志を劉二牧から劉備が死ぬまで訳し続けるスレ
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三国志好きな俺が華陽國志を劉二牧から劉備が死ぬまで訳し続けるスレ
- 1 :10/07/15 〜 最終レス :11/01/19
- 華陽國志を劉二牧から劉備が死ぬまで訳し続けるてすつ
訳の鉄則
1.分からん箇所は訳さず飛ばす。
2.あやふやな箇所は訳さず飛ばす。
3.気力の限り訳し続ける予定だが途中逃亡しても勘弁な。
底本:参考サイト↓ エンコードはBig5な
http://www.chinapage.org/big5/big5-history.html
簡単な質疑応答
Q:公孫述は訳さないの? →A:なにそれおいしいの?
Q:大同志は訳さないの? →A:なにそれおいしいの?
Q:お前一体誰なのさ?? →A:CQ値の高い唯の三国志好きさ
Q:最後にコメントどーぞ? →A:神奈子さまの最高です
- 2 :
- 四
漢の二十二世孝靈皇帝(の御代)になると,政治は衰缺し,王室には(事,物)故が多くなった;
太常であった竟陵の【1】劉焉字は君朗が【2】建議して言った:「刺史や太守は,貨賂(貨幣を賂
して)官と為ると,そのぶんを百姓から割き剝がしとっているため,以って離叛を致させることと
なっているのです。清名の重臣を選んで,以って牧伯と為し,方夏を鎮め安んじせしむ可きです。」
劉焉は内では州牧を求め,以って世の難を避けんとしていたのである。侍中であった廣漢の董扶は
私(ひそか)に【3】劉焉に於いて(謂って)曰く:「京都は將に亂れなんとしております。益州の
分野には天子の氣が有ります。」そこで焉は之に惑うと,意(つい)に益州に在ることとした。
刺史であった河南の郤【4】儉は賦歛すること繁擾であり(頻繁で庶民を擾患させ),流言が遠く
まで聞こえることとなるに會した。而して并州が刺史の張【壹】〔懿〕をし,【5】涼州が刺史の
耿鄙をすこととなったため,劉焉の議が行われること得られることとなった。
漢帝は將に郤儉を徴して刑を加えんとし,劉焉を以って監軍使と為すと,尋くして益州牧を領させた。
董扶も亦た求めて蜀の西部都尉と為った。太倉令であった巴郡の趙韙は,官を去って劉焉に從って
西へ來ることとした。【6】
- 3 :
- 東方厨かよ去ね
- 4 :
- 【1】(呉、何、王、石本無此二字,其他各本有。浙本剜補。)
【2】(元豐本、廖本、浙本は朗と作る。其の他の各本は並んで郎と作る。
此れより下では,張、呉、何、王、石本には「江夏竟陵の人で,
漢の魯恭王之裔」の十一字が有るが。他の各本には無い。
蓋し張佳胤が妄りに揩オたものであろう也。
浙本は剜去して,十一格を空けている。)
【3】(呉、何、王、石本の字は謂と作る。浙本は剜改している。)
【4】(《三國志》では郤と作していること,《郤正傳》に見える。)
【5】(《後漢書》は懿と作る。《三國志》は益と作す。
張、呉、何、王、浙本と<与>《函海》本には小注が有る。)
【6】(宋本と<与>錢、劉、李、《函》、廖本には並んで「來西」の二字が有る。
張、呉、何、王、石本には無い。浙本は擠添している。)
【7】(元豐本はャと作る。)
- 5 :
- 中平元年(184年),涼州の黄巾と逆賊の馬相、趙祗等は衆を綿竹に聚めると,縣令の李升をし,
疲役之民を募ったところ,一二日中に數千人を得ることとなった;そこで王饒、趙播等を遣わして
進んで雒城を攻めて【7】,刺史の儉をすと【8】;并わせて蜀郡、犍為を下し,旬月之間に,
三郡を破壞した。馬相は天子を自稱し,衆は以って萬を數えることとなった。又た別に巴郡を破って,
太守の趙【韙】をし【9】部。州の從事であった賈龍は,素より家兵を領して犍為に在った。【10】
乃ち青衣に之(ゆ)くと,吏民を率いて馬相を攻め,之を破り滅ぼした。州界は清淨となり,
龍【乃】【11】吏卒を選んで劉焉を迎えた。劉焉が既にして州に到ると,治を綿竹に移し,叛き離れ
たものを(慰)撫して納れ,務めて小惠を行った。時に南陽、三輔の民數萬家が地を避けて蜀に
入ってくると,劉焉は恣にして【12】之を饒し,引きあげて黨與と為すと,號して「東州士」とした。
そして張魯を遣わして北道を断ちきり。大姓であった巴郡太守の王咸、李權等十餘人を枉げて誅すと,
以って威刑を立てた。前、後、左、右部の司馬を〔設けると〕,四軍に擬して,兵を統め,位は皆
二千石とした。
- 6 :
- 【7】(元豐本はャと作る。)
【8】(《函海》は劉本に從って役と作るが,而して注して「李本ではと作っている」と云っている。)
【9】(舊各本は俱に韙の字を誤り衍している。茲刪。)
【10】(句は斷ちきられている,説は注釋に詳らかにしてある。)
【11】(此れは舊くから傳寫した者が誤まり移し而して衍したものであろう。)
【12】(《函海》本には小註が有り云わく:「恣は資と似ている。劉、呉、何、李本も亦た恣と作す。」)
- 7 :
- 【漢の】【13】獻帝の初平二年(191年),犍為太守の任岐,と<与>賈龍は
劉焉之陰ながら異計を圖っていることを惡むや也,舉兵して劉焉を攻め,成都の
邑下を燒きはらった。劉焉が之を禦ぐにあたり,東州人の多くが為に力めを致し,
遂に任岐、賈龍に克った。そのため劉焉の意は盛んとなり,乃ち乘輿車服千餘を
造ると,至尊を僭擬することとなったのである。劉焉の長子である範は左中郎將
と為っており,仲子の誕は治書御史となっており,季子の璋は奉車都尉となって,
皆獻帝に從って【都】【14】長安に〔在った〕,惟だ叔子である別部司馬の瑁
だけが劉焉に隨っていた。劉焉は相をみる者から陳留の呉懿の妹には當に大いに
貴ばれるべくなる相があると聞くと,劉瑁の為に之を聘した。荊州牧であった
山陽の劉表は,上焉有「子夏在西河疑【15】聖人論」。帝は(子の)劉璋を遣わ
して劉焉に曉諭させたが,劉焉は劉璋を留めて遣わさなかった【反さなかった】。
四年(193年),征西將軍の馬騰が,郿より<自>【16】劉焉、劉範と通謀し
長安を襲った。治中從事であった廣漢の王商が亟諫したが,從わなかった。
謀は泄れて,劉範、劉誕は誅を受けた。議郎であった河南の龐羲は,通家である
ことを以って,劉範、劉誕の諸子を以って蜀に入った。而して天火が【17】劉焉の
車乘を燒いて蕩盡させてしまい,それは延(焼して)民家に及んだ。
- 8 :
- 【13】(舊(もと)より各本には漢の字が有るが,當に衍すべきであろう。)
【14】(廖本は注して云う「當に在と作すべきだ」。)
【15】(當に儗に如くと讀むべきである。説は注釋に具にしている。)
【16】(《後漢書》は「霸橋」と作る。)
【17】(元豐及び張、呉、何、王、浙本は「夭火」と作る。)
興平元年(194年),劉焉は治を成都に徙した。既にして二子を痛んだうえ,又た
祅災あったことに感じて,【18】疽が背に發して卒してしまった。州の帳下司馬であ
った趙韙、治中從事の王商等は劉璋の温仁さに貪ろうとし,共になって父(の劉焉)
に代えるよう表した。【19】京師は大いに亂れており,更めて(牧となる人材を)
遣わすこと能わなかったことから,天子は劉璋を除して監軍使者とし,益州牧を領させた。
(そうしたところ劉璋は)趙韙を以って征東中郎將と為し,衆を率いて劉表を征させた。【20】
【18】(元豐本はと作す。)
【19】(元豐本と<与>廖本は父と作す。他の各本は又と作し,句下屬,非。)
【20】(李本は《三國志》に依って改めて(征を)撃と作す。)
- 9 :
- 劉焉は終わり。今日はここまででおんばしら。
- 10 :
- 非常に読みにくい
- 11 :
- 神奈子さまのうP
- 12 :
- >>11
いや、オチのボケにそういうレスを返されても・・・
>>10
じゃあちょっと文ごとに改行って形にしてみるわ。
あと出来るだけ旧字(正字)→現代字に変更してみる。
とはいえ、俺にも元の華陽國志自身、癖の強い構文に見えるんだよね。
それじゃ劉璋のところからスタート
五
劉璋は字を季玉といい,既にして襲位したものの,懦弱にして(決)断が少なかった。
そのため張魯が稍(やや)して漢中に於いて驕ることとなって,巴の夷である杜濩、朴胡、袁約等が(劉璋から)叛いて張魯に詣でるようになった。
劉璋は怒ると,張魯の母と弟をし,和コ中郎將の龐羲を遣わして張魯を討たせたものの,克てず,巴人が日ごと叛いてゆくようになった。
そこで乃ち龐羲を以って巴郡太守と為すと,閬中に(駐)屯させ【1】張魯を禦(ふせ)がせた。
龐羲は以って宜しく兵衛を須(ま)つべきだとすると,輒ち漢昌の賨民を召して兵と為すこととした。
或るものが劉璋に於いて龐羲のことを構じさせた,璋与之情好攜隙。
趙韙は数(たびた)び進んで諫めたが,(劉璋が)従わなかったため,亦た恚(いか)り恨むこととなった也。
【1】(元豐本は(閬中の閬を)朗と作すが。李ォは閬と改めている。)
- 13 :
- 建安五年(200年),趙韙は兵を起こすこと数万,将(ひき)いて【2】以って劉璋を攻めた。
劉璋は之を逆に撃った。明くる年,趙韙は破られ【3】敗れた。
龐羲は懼れて,吏の程郁を遣わして【4】程郁の父に於いて旨を宣べさせたところ【5】漢昌令であった(程郁の父の)畿は,賨兵を索きつれ益した。【6】
程畿曰く:「郡が部曲を合わせたのは,本もとは亂を為さないこととしようとしてのこと。
縱有讒【諛】〔●〕,【7】要は誠を盡くすに在ろう。
遂に異志を懷かんとするなど,聞く所に非ざることだ也。」
龐羲は程郁を令(し)て重ねて往かせた。
畿曰く:「我は牧より恩を受けておる,当に節を盡くすを為すべきなのだ。
汝は自ら郡吏であるのだから,宜しく效【8】力を念ずべきだ。
不義【9】之事,二意を有すことなど莫きようにせよ。」
龐羲は之を恨むと,人を使わして告げて曰く:「太守に従わざるなら,家は将に禍が及ぼうぞ。」
程畿曰く:「昔樂羊が子を食べたのは,父子之恩が無かったに非ず,大義の然るゆえであったのだ也。
今わが子を羹(あつもの)にすると雖も,この畿は之を飲みほすであろう矣。」
そこで龐羲は乃ち劉璋に於いて謝を厚くした。
劉璋は程畿を善しとすると,遷して江陽太守と為した。
【2】(此の将の字は率の字を作したものと解すものである。)
【3】(元豐本には破の字が有る。錢、《函》本では並んで空格となっている。呉、何諸本には破の字が無い。)
【4】(顧廣圻校註は云わく:「目録では祁と作す。《三國志‧楊戲伝‧季漢輔臣贊》では陳壽が注して郁と作している。然るに則ち郁の字こそ是であろう矣。」廖刻本には未だ此の註が収められていない。)
【5】(李本は文と誤作している。)
【6】(劉、李本では丘と誤作している。)
【7】(各舊本は諛或いは謏と作しているが義(字義)に於いて不協(ととのっていない)。当に●と作るべきで,以って相犯しあうと言うべきである也。)
【8】(錢、劉、李、《函》本では效と作っている。)
【9】(元豐本は羲と訛作されている。)
- 14 :
- (建安)十年(205年),劉璋は曹公が将に荊州を征さんとしていると聞くと,中郎将である河内の陰溥を遣わして敬いを致させた。
そこで公【a】は表して劉璋に振威将軍を,兄の瑁に平寇将軍を加えた。
(建安)十二年(207年),劉璋は復た別駕従事であった蜀郡の張肅を遣わして,叟兵三百人を送りとどけさせたが御物も并わせ雑(まじ)っていた。
公は張肅を辟して掾と為すと,拜して廣漢太守とした。
(建安)十三年(208年),仍(すなわ)ち遣わすにあたり張肅の弟である張松を別駕と為すと,公に詣でさせた。
公は時に已にして荊州を定めてしまっており,劉主を追いかけんとしていたため,張松に礼すこと存しなかった;
加えて望みに足らざることを(上)表されて,但だたんに越嶲の【10】比蘇令を拜すのみであった。
そのため張松は是を以ってして公を怨んだ。
公の軍が不利になり,兼ねるに疫病を以ってして,而して劉主が尋くして荊州を取ることに会すと,張松は還って,曹公について疵毀して,勧めて劉璋に自ら(関係を)絶つようにとし,因って劉璋に説いて曰く:
「劉豫州どのは,使君之肺腑でありますから,更めてこれと通ず可きです。」
時に扶風のひとである法正、字は孝直が,客として留まっていて蜀に在ったが,礼(のある待遇)に見えず,恨み望むこととなっていた。
張松も亦た身づからを以ってするに利器を抱くものであるとしており,劉璋を忖(度)してみるに有為に与するに足らざることであるとして,常に法正と竊って嘆息していた。
張松は法正を挙げて使わして劉主と好を交わす可しとした。
劉璋は之に従うと,法正を使て将に命ずこととした。
法正は佯(いつわ)って已むを得ないことと為して【11】行くこととした。
又た法正と同郡の孟達を遣わして兵を将いさせて劉主の守りや禦りを助けさせた。
前後して賂(まいない)が遺わされたがそれに限りが無かった。
【10】(当に「永昌」と作るべきである。)
【11】(廖本は註して云わく:「当に而の字が有る。」)
- 15 :
- (建安)十六年(211年),劉璋は曹公が将に司隸校尉の鍾繇を遣わして張魯を伐させることとしたと聞いて,懼れの心を有した。
張松は進めて曰く:「曹公の兵は強く,【12】天下に敵しうるもの無し;若し張魯之資に因って以って蜀土に向かってこられたら,之を能く禦ぎえる者に誰がありましょうか乎?」
劉璋曰く:「吾は固より之を憂いているのだが,而して未だ計を有していないのだ。」
張松は対して曰く:「劉豫州は,使君之宗室であり,而して曹公之深き讎であります也。
用兵を善くしておりますから,之を使て張魯を伐せしめれば,張魯については必ずや破りましょう。
張魯を破りましたなら,則ち益州は強くなりますから,曹公が來たると雖も,〔能く〕為すこと無かることでしょう也。【13】
且つ州中の諸将である龐羲、李異等は,皆功を恃んで驕豪であり,外(ほか)に意を有さんと欲しております。
豫州どのを得られなければ,則ち敵が其の外より攻めかけ,民が内に於いて叛くこととなります,必敗之道というものです也。」
劉璋は之を然りとすると,復た法正を遣わして劉【先】主を迎えさせた。【14】
主簿であった巴西の黄権は諫めて曰く:「左将軍は驍名【15】を有しておりまして,今請うて到ったところで,部曲を以ってして之を(待)遇せんと欲すれば,則ち其の心を滿たしませんし;
賓客を以ってして【16】之に待(遇)せんと欲すれば,則ち一國に二君は容れざるものです。【17】
客に太山【18】之安きが有れば,則ち主に累卵之危うきが有ることになりますぞ。」
しかし劉璋は聽きいれなかった。
従事であった廣漢の王累は,州門に於いて倒れ懸かると,死を以って劉璋を諫めようとした。
しかし劉璋は壹(ひと)つとして【19】納れる所が無かった。
- 16 :
- 法正は既にして旨を宣しのべると,陰ながら獻策して曰く:「明将軍之英才を以ってして,劉牧之懦弱に乗ずこととしましょう。
張松【20】が(州)之股肱となって以って内に於いて響き応じます。
然る後に益州之富を資として,天の設けたりし<之>險しきに憑くこととす,
此を以ってすれば帝業【21】を成すこと,猶(すなわ)ち手を反(かえ)すがごとくでありましょう也。」
劉主は大いにスぶと,乃ち軍師中郎将の諸葛亮、将軍の關羽、張飛を留めて荊州を鎮めさせ,万人を率いて江を泝(さかの)ぼって西上することとなった。【22】
劉璋は初めから所在を敕りとして供奉したため,その入境は帰すが如くであった。
劉主が巴郡に至ると,巴郡の嚴顔は拊心して歎いて曰く:「此れは所謂る獨り窮山に坐して,放たれている虎から自らを衛らんとする者である也。」
劉主は巴水に由って涪に(到)達すると,劉璋は往きて之に見えた。
張松は復た法正を令て劉主に(建)白させて曰く:「今や此の会に因って,便じて劉璋を執らえる可きです。
そうすれば則ち将軍は用兵之労無く,坐したまま一州を定めることでしょう也。」
軍師中郎将であった襄陽の龐統も亦た之を言った。
しかし劉主は曰く:「此れは大事である也。
初めて他國に入ったばかりであって,恩信は未だ著わされていない,倉卒にす可きでない。」
歓飲すること百餘日となった。劉璋は劉主を推して行大司馬,司隸校尉とした。
劉主もまた劉璋を推して行鎮西大将軍とし,牧を領すること故の如くとした。
そこで劉主の兵を益して,張魯を伐するに使わすこととした。
又た白水の軍を督さ令めることとし,併わせること三万【軍】〔人〕,【23】車甲は精實であった。
【而るに別れて】【24】劉璋は州に還った。
劉主は葭萌に次ぐと,恩コを厚く樹てて,以って衆心を収めた。
- 17 :
- 【12】(元豐、嘉泰、錢、張、呉、何、《函》、浙の各本は彊と作す。劉李本は訛って疆と作す。王、盧、廖、石本は強と作す。強より下の字は同じである。)
【13】(《三國志先主伝》の文も同じである。此の句は「無能為也」と作す。)
【14】(舊もとは各本は皆先の字が有った。しかし上文に依って,当に「劉主」の二字と作すべきとした。)
【15】(《後漢書‧劉焉伝》では梟名と作る。)
【16】(呉、何、王、石本は「客賓」と作す。)
【17】(《三國志‧黄権伝》の文も同じだが。此下には若の字が有る。)
【18】(元豐本と呉何の諸本は同じく太山と作す,嘉泰本と錢、劉本は泰山と作す。)
【19】(元豐、嘉泰と劉、《函》、廖本は壹と作す。張、錢、呉、何、王の諸本は一と作す。)
【20】(《三國志》では此れに州の字が有る。)
【21】(《三國志》では帝の字が無い。)
【22】(《三國志‧先主伝》は「歩卒数万人を将いて益州に入った」と作す。)
【23】(《三國蜀志‧先主伝》文同此作三万餘人。)
【24】(この二字は,舊より各本に有ったが,衍文であろう也。
- 18 :
- (建安)十七年(212年),曹公が呉を征すと,呉主である孫権が劉主を呼んで自らを救わせんとした。
劉主は劉璋に書を貽して曰く:「孫氏と孤(わたし)とは,本より唇齒を為しております。
今や樂進が清泥に在って,關羽と相拒みあっているとか。
救いに赴くに往かざるなら【25】,楽進は必ずや大いに克ち,転じて州界を侵すこととなりましょう,其の憂たるや張魯に於けるより甚だしきものが有ります。
張魯は自守之賊でしかなく,慮るに足りません也。」として万の兵をと【26】及び資實を益さんことを求めた。【27】
しかし劉璋は但だたんに四千を許すのみであり,他の物は給すこと半ばであった。
張松は書をなして劉主及び法正に与えて曰く:「今大事が垂(まさ)に立つ可けんとしているのに,如何か此れを釋して去らんとしているのですか乎?」
張松の兄である廣漢太守の張肅は,禍が己に及ぶを懼れて,劉璋に白(状)したため,張松の謀は露わとなった。
劉璋は張松をした。
劉主は歎じて曰く:「君は吾が内主を矯めてしたのだ乎!」とし嫌隙が始まり構じたのである。
劉璋は諸關守にたいし劉主を内にいれないよう勅(令)した。【28】
龐統は説いて曰く:「陰ながら精兵を選んで,晝夜わかたず兼行し,成都を徑襲いたしましょう。
劉璋は既にして不武(われらが引きぬいてきたため武力をもたず),又た素より豫めしていたことも無いでしょうから,一たび挙げれば而して定まります,此れは上計です也。
楊懷、高沛は,劉璋之名将でして,各おのが強兵を仗にしており,關頭に據って守っており,数(たびた)び将軍を遣わし還らしむよう劉璋を諫める牋をなすこと有ったものです。
将軍遣与相聞,説当東帰,並使速裝。【29】
二子は既にして将軍の名に服しておりますし,又た将軍が去るを嘉しましょうから,必ずや軽騎に乗って來たりて将軍に見えましょう。
此れに因って之を執らえ,進んで其の兵を取ってから,乃ち【城】〔成〕都に向かう。【30】此れは中計です也。
之より白帝に退き【還って】,【31】荊州へと連ね引きつれてゆき,徐ろに還ってから之を圖ることとする。此れは下計です也。」
- 19 :
- 【25】(《函海》注云:「李本誤生。惠校改往。」他各本作往。)
【26】(《三國志‧先主伝》文同。此作「求万兵」。)
【27】(《三國志》は寶と作る。元豐本は實と作る。錢と劉、呉、何、《函》、王等の明清刻本は并わせて寶と作る。廖、浙、石本は實と作る。)
【28】(讀みは納に如く。)
【29】(《三國志‧龐統伝》は「並使裝束。外作帰形」と作る。謂使高、楊準備接防葭萌也。)
【30】(廖本は「城都。」と誤り作っているが他の各本は並んで「成都。」と作している。)
【31】(元豐本と廖本は此の五字を作す。《龐統伝》と他の各旧本や《常志》には之の字が無い。
今按ずるに:常璩は旧籍を援用し,其の意を存す毎に而して其の文を異ならせている。
此れは当に是れ還の字が重複するのを避けて改めて「退之白帝」と為すべきであった,
伝鈔した者も又た《統伝》に因って「還」の字を衍しただけであった耳。)
- 20 :
- 劉主は其の中計を然りとし。即ち楊懷等を斬りすてて,将の黄忠、【32】卓膺、魏延等を遣わして兵を勒して前へ行かせた。
梓潼令であった南陽の王連は城を固めて堅く守ったため,劉主は之を義であるとして,逼まり攻めることしなかった也。
進んで涪城に拠った。【33】〔大会すると〕,酒を置いて樂しみを作(な)した。
龐統に謂って曰く:「今日之会,樂しもうと謂う可きかな矣。」
龐統は対して曰く:「人之國を伐さんとして而して以って歓と為すは,仁者に非ず也。」
劉主曰く:「武王が紂を伐したおりには,前に歌をうたい後ろに舞いをまわせたが,豈に仁に非ざることであったか也?」【34】
龐統は退出した。劉主は尋くして還ってくるよう請うと,謂って曰く:「向者之談,【何ぞ】〔阿〕【35】誰が失を為せるか?」
統曰く:「君臣俱に失しておりました。」【36】
【32】(元豐本は忠と作す,張、呉本は中と作す,他の各本は皆忠と作す)
【33】(此下に《龐統伝》には「於涪大会」の句が有る。)
【34】(也は讀むこと耶の如し。《統伝》では邪と作す。)
【35】(元豐本と廖本は何と作す。他の各本と《統伝》は阿と作す。)
【36】(《統伝》には「先主大笑,宴樂如初」の句が有る。)
- 21 :
- (建安)十八年,劉璋は将の劉、冷苞、張任、ケ賢、呉懿等を遣わして劉主を涪に於いて拒ませたが,皆破られ敗れてしまい,還って綿竹を保つこととなった。
【縣令の】【37】呉懿は軍に詣でて降ると,討逆将軍を拝した。
初め,劉主之南伐するや也,廣漢の鄭度は劉璋に説いて曰く:
「左将軍は軍を縣ねて我らを襲わんとしておりますが,その衆は万に満たず,百姓も【38】未だ附かずにおり,野にある穀が是れ資としておるのです。
計りますに巴西、梓潼の民を驅せさせ,【39】涪川【40】以南を内にいれ,【41】蜀人は涪以外を以って北のかたへむかうと為し,内は南のかたへむかうを為すに若くは莫し也。
其の倉廩と野にある穀は,一えに皆燒きはらって除いてしまい,壘を高くし溝を深くして,靜かにして以って之に待すのです。
彼らが【42】戰を請うても許らずにいれば,久しくすれば資とする所は無くなりましょうから,百日を過ぎずに【43】必ずや禽らわれとなりましょう矣。」
先主は聞くと而して之を惡(にく)んだ。
法正曰く:「劉璋は終(つい)には用いること能いません,憂う所など無いでしょう【44】也。」
劉璋は果たして【45】群下に謂って曰く:「吾聞くに敵を拒むには民を安んずを以ってすものだ。
未だ民を動かして以って敵を避けさせるを聞かぬ。」とすると鄭度を絀して用いなかった。【46】
故に劉主は至る所で資とするものが有った。進んで綿竹を攻めた。
劉璋は復た護軍であった南陽の李嚴、江夏の費觀等を遣わして綿竹の軍を督させた。
李嚴、費觀が衆を率いて降ってきたため,同じく拜して裨将軍とした。
進んで劉璋の子である循を雒城に於いて囲んだ。
【37】(廖本は注して云う:「当に此の二字を衍すべきである」。茲刪。)
【38】(《法正伝》は「士眾」と作す。)
【39】(元豐本は由と訛作している。李ォは改めている,讀みは納の如し。)
【40】(元豐本は州と作す。他の各本は皆水と作す。廖本は川と作すが,是である。)
【41】(《法正伝》は「內涪水以西。」と作すが蓋し常璩が南に改め作したのであろう。)
【42】(此の下には《法正伝》では至の字が有る。)
【43】(此下には《法正伝》では「必将自走,走而擊之,則必成禽耳」が有る。)
【44】(法正伝では無可と作す。)
【45】(《法正伝》には此の下に「璋果如正言」の句が有る。)
- 22 :
- (建安)十九年,關羽が荊州事を統め。諸葛亮、張飛、趙雲等が江(水)を泝(さかの)ぼって,巴東を降し下すと,巴郡に入った。
巴郡太守であった巴西の趙筰は拒み守ったが,張飛が【46】攻めて之を破り,将軍の嚴顏を獲ると,【47】謂って曰く:
「大軍が至ったというのに,何ぞ以って降らずに,敢えて逆らい戰ってきたのか。」
厳顏は対して曰く:「卿等には状が無くして,我らが州を侵し奪わんとしたのだ。
我が州【48】には但だ頭を断たれる将軍が有るのみ,降る将軍など無いわ也。」
張飛は怒って曰く:「牽きずり去らせて頭を斫りとばせ(呉、王本は砍と作す。)。」
厳顏は色を正して曰く:「頭を斫るというのなら斫りおとすことを便ぜよ,何ぞ怒りを為すのか也。」
張飛は之を義とし,引きたてて賓客と為した。
趙雲は江州より<自>分かれて江陽、犍為を定めた。
張飛は巴西を攻め,諸葛亮はコ陽を定めた。
巴西の功曹であった龔ェは【49】張飛を迎えた。
劉璋の帳下司馬であった蜀郡の張裔は諸葛亮を距んだが,柏下に於いて敗れ,張裔は退いて還った。
夏,劉主は雒城に克つと,張飛等と合わさって成都を囲んだ。
而して偏将軍であった扶風の馬超が衆を率いて漢中よりきて降ることを請うてきた。
劉主は建寧督の【50】李恢を遣わして馬超を迎えさせた。馬超が徑至すると,劉璋は震え恐れた。
蜀郡太守を署す所であった汝南の許靖は〔将に〕依って【51】城を踰えて出て降ろうとしたが,劉璋は知ったものの,敢えて誅さなかった。
囲みを被ること数十日ともなったが,城中には精兵三万が有り,穀は二年を支えるもので,衆は咸(みな)が力戰せんと欲していた。
劉璋曰く:「父子が州に在ること二十餘年,恩コが以って百姓に加えられること無く,
攻戰すること三年ともなって,草野を肌膏(荒れ果て)させてしまったのは,
この璋を以って故とするものなのだ也。何ぞ以って能く安んじようか!」
遂に張裔を奉使に遣わして劉主に詣でさせた。
劉主は張裔に其の君を礼(遇)して而して其の民を安んずることを許した(認めた)。
劉主は又た従事中郎であった涿郡の簡雍を遣わして劉璋を説かせた。
劉璋は素より簡雍を雅(まこと)に敬っていたため,遂にこれと輿を同じくして而して出て,降ることとしたが,吏民で歔欷涕泣せざるもの莫かった。
劉主は其の佩せし所の振威将軍の印綬を復し,其の財物を還してやった。
そうして劉璋を南郡之公安に於けるに遷した。
呉主である孫権が荊州を取るや也,劉璋を以って益州刺史と為した。【52】
劉主が東征すると,劉璋は呉に於いて【53】卒した也。【54】
- 23 :
- 【46】(飛の字の上,張、呉、何、王、浙、石諸本は並んで張の字が有る。宋刻及び他の明清刻本には無い。)
【47】(《三國志‧張飛伝》では巴郡太守嚴顏と作すが,誤りである。当に本志を以って正と為すべきである。)
【48】(元豐本では此の二字は重なっていない,李ォが揩キ所である也。)
【49】(元豐本と廖本は「龔ェ」と作す。錢、《函》本は「龔祺」と作す。劉、李、呉、何、王、浙本は「襲謀」と作す。石印本は「襲ェ」と作す。)
【50】(上四字は張本は雙行小の字を作す。)
【51】(《法正伝》では将の字を輔している。)
【52】(《二牧伝》は「益州牧」と作す。)
【53】(旧刻本は「還」と作す。元豐及び廖刻本は於と作す。)
【54】(劉、李本には也の字が無い。)
- 24 :
- 六
譔に曰く【1】,公孫述は導江之資を藉せて,王莽之虐げるに値して,民には援ける者とて莫かったことから,巴蜀に跨るを得たのだが;而して天を欺き物を罔みし,自ら滅亡を取る者となった也。
然りながら,妖が夢で終わりを告げ,期は數(たびた)び極まること有ったのだから,身を奉じて歸順すれば,猶も以って免れる可きであったのだ。
【而して】【2】愚かしさを矜(ほこ)って非を遂げた,何ぞ其れ頑なであったろうか哉。
劉焉の器は英傑に非ざるのに,僥倖を射とめんと図った。
劉璋の才は人雄に非ざるのに,土に據って世を乱したのだから,其の奪い取られるに見えたこと,陳子は以為らく不幸に非ずとしたのである也。
昔齊侯は晉と魯之使いを【】〔嗤ったため〕【3】,旋(かえ)って易乘之困を蒙ることとなった。
魏君は公叔之侍人を賤しんだため,亦た割地之辱しめを受けることになった。
才を量って遠くを懷けるのは,誠に君子之先ず略すものである也。
劉璋を観て,曹公は之(ゆ)きて法正、張松を侮慢した。
二憾既にして徴(しるし)をしめし,怨みを同じくして相濟けあい,或いは家國が覆り亡び,或いは天下が三分されたのである【天下】。
古人一饋十起,輟沐揮洗,良有以也。
【1】(元豐と<与>《函海》本は「讚曰」と作す。)
【2】(他の各本には並んで而の字が無い。廖本は衍した。)
【3】(《函海》は廖本と同じ,他の各本では嗤と作すが,是である。)
【4】(旧刻は皆が「三分天下」と作す,疑旧鈔誤倒。)
- 25 :
- 劉璋も終わって二牧志も終わり。今日はここまででちゃばしら。
- 26 :
- 良スレだな
たどたどしくも翻訳してくれるだけで助かる
- 27 :
- それじゃ劉備のところスタート
華陽國志校補圖注卷六
劉先主志
一
先主は諱を備といい,字を玄コといい【1】,涿郡涿縣の人で,漢の景帝の〔子〕【2】中山靖王である勝の後である也。
勝の子の真が,【3】元狩六年に涿縣の陸城亭侯に封じられ,【4】因って家となること焉れなったのである。
祖父は劉雄といい,孝廉に察せられて,東郡范の令と為った。父は劉弘という。【5】
先主は幼いうちに孤りとなったため,【6】母と履、織蓆を販って【7】自業した。
舍の東南の角の籬の上に桑樹が生ずこと有って,【8】高さ五丈【9】余り,
遙かに望むと童童とすること車蓋の如くであったため,人は皆が之を異とし,
或るひとは謂わく当に貴人が出ずるべきとした。
先主は少なき時に,宗中の諸兒とともに樹下に於いて戯れて,言わく:「吾は必ずや此の羽葆蓋車に乗ることとなるぞ。」
叔父の子敬は謂って曰く:「汝妄言する勿れ!吾が門を滅ぼさんとするか也。」
年十五となると,母が遣わして學を行わせることとし,宗人の劉コ然、遼西の公孫瓚と俱になって故(もと)の九江太守であった同郡の盧〔植〕子幹に事(つか)えた。
コ然の父である元起は常に資給するに先主とコ然に等しくした。【10】
元起の妻は曰く:「各おの自ら一家であるのです,何ぞ能く常爾?」【11】
元起は曰く:「宗中に此の兒が有って,常人に非ざるからだ也。」
而して公孫瓚は深く先主と善くした。公孫瓚のほうが年長であったため,先主は之に兄事したのである。【12】
狗馬、音樂,美しい衣服を喜んだ。(身の)長は七尺五寸,臂を垂らすと膝より下がり,自らを顧みると耳を見るほどであった。【13】
能く人にへり下り,喜怒は色に於いて形なされなかった。
善く交わり結んだため,豪俠の少年は之に爭い附くことになった。
中山の大商(人)である張世平、蘇雙等は見えると而して之を奇として,之に金を与えること多く,先主は是に由って徒衆【14】を合わせること得たのである。
河東の關羽雲長,同郡の張飛益コは,【15】並んで壯烈を以ってして,【16】侮りを禦ぐを為した。
先主と二子は寢るにあたっては則ち床を同じくし,食すにあたっては則ち器を共にし,その恩は弟兄の如くであった。
然りながら稠人に於いては廣衆中,終日にわたり侍立していた。
- 28 :
- 【1】(清刻本は諱を避けている。)
【2】(《三國志‧先主傳》に依って補った。)
【3】(元豐本は真と作る。廖本も真とする。其他の各本は並んで《三國志》に依って貞と作る。)
【4】(《三國志》此下に「坐酎金失侯」の句が有る。)
【5】(此下,元豐本には二格の空きがあり,「早亡」の二字が無い。劉、呉、何、李、王本には「早亡」の字が有って,下に連なっている。錢、《函》二本には「早亡」の字が有って,仍ち一格を空けている。「早亡」の二字は「幼孤」と重複しており,蓋李ォ就旧本空位妄補。)
【6】(元豐本と廖本は與と作る。他各本は並んで其と作る。《三國志》の文も同じで,與と作る。)
【7】(各旧本は《三國志》の文と同じで,席と作る。廖本は草頭を加えている。)
【8】(何、王、浙本誤作主。)
【9】(疑うに当に尺と作すべき。)
【10】(等,齊也。)
【11】(《三國志》の文も同じであるが此の下に邪の字が有る。)
【12】(《三國志》の文も同じである,此の下には「先主不甚樂讀書」の句がある。)
【13】(此の下には《三國志》では「少語言」の句が有る。)
【14】(何、王、浙、石本は徒ではなく従と作す。)
【15】(元豐、嘉泰、錢、《函》、廖本は並んで《三國志》と同じく「益コ」と作す。呉、何、王、石本は「翼コ」と作す。張佳胤は改めている也。《通鑑》も亦た「益コ」と作す。当に「益」と作すべきである。)
【16】(此下には他の各本には「之」の字が有る,元豐及び廖本には無い,蓋し李ォが増した所であろう。)
- 29 :
- 中平【元】〔五〕年,【17】校尉の鄒靖に従って黄巾賊を討ち,功(績)が有って,安喜(県の)尉に除された。
督郵に(拝)謁せんことを求めたものの,得られず,【18】そこで乃ち入りこんで之を縛って執らえ,杖うつこと二百,以って綬を督郵の【頭】頸に繋げると【19】著馬,【20】【柱】【21】官に委ねて亡命した。
頃之(このころ),大將軍であった何進の募りに應じ,功が有ったため,下密の丞に除された。
復た【22】高唐の尉と為った。遷って令と為った。公孫瓚が中郎將と為ると,表して先主を別部司馬と為した。【23】
冀州牧の袁紹を拒み,數(たびた)び戰功が有ったため,【24】守平原令となった。進んで【25】平原相を領した。
郡民の劉平は【26】之が為に下となることを恥じて,客を使わし之を刺()させようとした。
客は其のコに服して,之を告げて而して去った。【27】
北海相であった魯國の孔融が,黄巾賊の為に囲まれる所となると,太史慈を使て救いを先主に於いて求めさせた。
先主曰く:【28】「孔文挙どのは天下に劉備有りと聞いていたのか乎?」として兵を以って之を救うこととした。
廣陵太守であった下邳の陳登【29】元龍は,太尉であった陳球の孫であり也,雋才を有していたが,天下の士を軽んじ【30】,その功曹であった陳矯に謂って曰く:
「閨門雍穆にして,有コ【31】有行であることについて,吾は陳元方父子を敬っている;
冰清玉潔にして,有コ有言であることについて,吾は華子魚を敬っている;
博聞強志にして,【32】奇偉【33】卓犖であることについて,吾は孔文挙を敬っている;
雄姿傑出し,【34】王霸之略を有すについて,吾は劉玄コを敬っている。名と器とは此れに尽きるのだ。」【35】
【徐州牧の陶謙が,表して先主を豫州刺史と為した。】
- 30 :
- 【17】(当に「五年」と作すべきである,説は注釋に具にした。)
【18】(《三國志》作「不得通」。)
【19】(《三國志》は「綬を解いて其の頸に繋げ」と作す。)
【20】(元豐と錢、《函》、廖、浙本は《三國志》と同じで,と作す。音は昂,馬を繋げる柱のことである也。張、劉、李、呉、何、王、石本は柳と作す。)
【21】(各おの旧本には皆有るが。当に衍すべきである。)
【22】(《三國志》では此の下に「去官,後」の三字が有る。)
【23】(《三國志》では此の下に「使為青州刺史田楷」の句が有る。)
【24】(《三國志》では此の下に「試」の字が有る。)
【25】(《三國志》は「後」と作す。)
【26】(《三國志》には「素軽先主」の句が有る。)
【27】(《三國志》は「客不忍刺,語之而去。其得人心如此」と作す。)
【28】(《後漢書‧孔融傳》では「備は驚きて曰く」と作す。)
【29】(《太平御覽》の卷四百六十六に引く此れには字(あざな)の字が有る。)
【30】(《御覽》は較と作す。)
【31】(元豐本には此の二字が有る。嘉泰本及び明清刻本の寫本には並んで無い。《函海》の注に云わく「《御覽》には有コの二字が有った」。廖本は元豐本に依っている。)
【32】(各おの旧本では皆識と作す。廖本は志と作す。顧觀光は云うには「二字は古には通じあっていた」。)
【33】(《御覽》は逸と作す。)
【34】(元豐本は桀と作す。)
【35】(張、呉、何、王本には此の四字が無い。元豐及び他の明清本には並んで有る。浙本は此の四字が剜補されている。)
- 31 :
- 今日はここまででかばしら。
>>26
まあ、基本、速度重視なので。巧遅より拙速を貴んどります。
あと色んなところで言ってるけど、各史書は書かれた年代で背景としている構文、文法が異なってる。
いつもは奈良飛鳥時代の文を訳してる人が鎌倉時代の武士の人が書いた書を訳すのと似た感じかな。
- 32 :
- 乙
- 33 :
- 劉先主志
二
徐州牧の陶謙は病が篤くなると,【1】別駕であった東海の麋竺【2】に謂って曰く:「劉備に非ざれば此の州を安んずること能わず也。」
陶謙が卒すると,麋竺は州を率いて【3】先主を迎えようとしたが。先主は未だ許さなかった。
【廣陵太守であった下邳の】【4】陳登が進めて曰く:「今漢室は陵遲せられ,海内は傾覆しており,功を立て事を立てるは,【5】今日に〔於けるに〕在るのです。
鄙(わが)州は【6】殷み富んでおり,その戸口は百萬,使君に屈さんと欲しております,どうか州事を撫臨されますよう。」
先主曰く:「袁公路が近く壽春に在る。此の君は四世五公で,海内の歸す所であるから,州を以って之を與える可きであろう。」
陳登曰く:「公路は驕豪であり,亂を治める之主に非ず。今使君の為に歩騎十萬を合わせんと欲す,
上は以って生民を匡濟して,【7】五霸之業を成しとげる可く,下は以って地を割きて境を守り,功を竹帛に於いて書とめる可けん。
若し使君が聽許するに見えざるなら,この登も亦た未だ敢えて【8】使君のことを聽きませんぞ也。」
北海相の孔融は先主に謂って曰く:「袁術など豈に國を憂いて家を忘れる者であろうか耶!
冢中の枯れくちた骨ならん,何ぞ意に介すに足ることだろうか。今日之事については,百姓は能に与すもの。
天の与えしものを取らざるなら【9】,悔いても追う可からざることとなりますぞ。」
先主は遂に徐州牧を領した。
- 34 :
- 【1】(元豐本では「表先主為豫州刺史」の句の下に一格が空けられている。又た下に重ねて「徐州牧陶謙」の字がある。
張、呉、何、王、浙本は前の四字が重なっていず,亦た空いてもいないし,上文に連ねられており,謙の字より句を起こしている,張佳胤は刪している也。
錢、劉、李、《函》と石印本は此の四字を重ねており,其の上は空いていない。
依李ォ嘉泰本,未だ元豐本を改めていない也。顧觀光校本は文を重ねて上に「後」の字が有る。
注に云う:「宋本には後の字が無い,」蓋し謂わゆる廖本が宋本と為ったのであろう,實に未だ元豐本と嘉泰本を見ない也。
廖本には此の上に二格が空いている,而して仍ち此の四字を重ねていること,元豐本の如くである。
二顧無校語。今按ずるに,舊刻諸本には誤衍上文「後至刺史」十四字耳。
《常志》原書於此分章另起。固より必ずや當に「徐州牧陶謙」の字が有るべきなのだ。)
【2】(元豐本と錢、吳、何、王、浙、石本は並んで糜と作る。劉、李、《函》、廖本は《三國志》に依って麋と作る。下は同じである。顧廣圻校は云わく:「廣の韻は麋である。」)
【3】(此の下,元豐本と廖本には人の字が無い。他の各明清刻本には之が有る。蓋し李ォが《三國志》に依って補ったのであろう。
《常志》原文應無。即ち《三國志》にある人の字も,亦た衍文なのだ耳。「率州」義已足。茲不補。顧觀光は云わく「宋本では人の字が脱けている」とあるが,非である。)
【4】(此六字は上の章と重複している,《三國志》には「廣陵太守」の四字が無く,《常志》では各本に皆有る。當に衍すべきである。説は注釋で詳らかにしている。)
【5】(廖本は此の下に注して云う:「當に於の字が有るべきだ,《三國志》を見よ。」)
【6】(《三國志》は彼州と作す。)
【7】(元豐、廖、浙本は匡濟生民と作す。錢、劉、李、呉、何、王、石各本は「匡主濟民」と作す,李ォは《三國志》に依って改めている也。元豐本は誤りでない。)
【8】(元豐本は此の下に見の字が有る。)
【9】(元豐本は此の下に能の字が有る。浙本は此の下に能の字を剜補している。)
【10】(《三國志》は「求和」と作る。《常志》の舊刻各本は「連和」と作る。廖本は「合」と改めている。)
- 35 :
- 建安元年(196年),曹公が表して鎮東將軍と為し,宜城亭侯に封じられた。
先主は袁術と相拒みあったところで,而して下邳の守將であった曹豹が叛いた。
また呂布の為に敗れる所となり,先主は妻子を失って,軍を海西に轉じた。
麋竺は妹を夫人と為すよう進め,客奴二千,金銀寶貨に及ぶまで之を資とした。
先主は因って而して振うを獲たのである。それから呂布に於いて連なり【合し】〔和し〕【10】たため,呂布は其の妻子を還した。
先主の衆は萬餘であり,軍を小沛に移した。呂布は之を惡み,自ら先主を攻めた。
先主は曹公に歸した。公は以って豫州牧と為し,其の軍を益し,使わして呂布を伐させたが。利を失った。
呂布の將である高順が復た先主の妻子を虜として呂布に送った。
公は夏侯惇を使て先主を助けさせたが,克つこと能わなかった。
- 36 :
- (建安)三年(198年),公は自ら呂布を征し,之を生け禽りにした。
呂布曰く:「この布を使て明公の為に騎を將いさせしむなら,天下は定むに足らざることとなりましょう也。」公には疑いの色が有った。
そこで先主は曰く:「公は呂布を待(遇)すること丁建陽、董太師に如くこと能いましょうか乎?」公は之に頷いた。
呂布は先主を目して曰く:「この大耳兒こそ最も叵信なる者なのだぞ也。」遂に呂布をした。
先主は妻子を還され得て,公に従って許に還ると,左將軍と為った。
公は之を禮すること甚だ重く,出れば則ち輿を同じくし,坐して則ち席を同じくした。
又た拜して關羽、張飛を皆中郎將とした。公の謀臣であった程c、郭嘉【11】公に先主をすよう勧めた。
公は英豪の望を失うことを慮り,許さなかった。
袁術が淮南より徐州を經て北のかた袁紹に就かんと欲していた。【12】
〔公は先主を遣わして軍を率いさせて之を要撃させようとしたが。未だ至らぬうちに,袁術は死んだ。
先主の未だ出(陣)せざる時に,〕獻帝の舅であった車騎將軍の董承が,【13】帝より受けた【14】衣帶の中に密詔があり,当に公をすべしとあった。
董承は先ず先主及び長水校尉の种輯、將軍の呉子蘭、王子服等と謀を同じくし。以って將に行わんとしていながら,未だ發しないでいた。
公は従容として先主に謂って曰く:「天下の英雄は,惟だ使君とこの操のみだ。本初之徒など数えるに足らぬ也。」
先主は方(まさ)に食そうとしていたところ,匕箸を失った。天が雷を震わせるに会ったため,
先主曰く:「聖人の言にあります,迅雷風烈は必ずや變あるとのこと,良有以也。
一震之威,乃ち此に於けるに至るのでしょうか也。」公も亦た失言を悔いた。
先主は還【沛】解,【15】公は之を覘(のぞきみ)させ使むこととしたところ,其の方に披を見た,廝人を使て之を為させたところ,端なくも,正に杖を舉げて之を撃とうとしていた。
此の覘た者は還って報(告)し語った。
公曰く:「大耳翁よ未だ之に覺らざるか也。」其の夜,先主は急ぎ東のかたへ行った。
程c、郭嘉が【16】復た之を言った。公は使いを馳せさせて之を追わせたが,及ばなかった。
先主は遂に徐州刺史の車冑をして以って叛くと。關羽を留めて行下邳太守事とし,身づからは小沛に還った。
而して董承等の謀が洩れて誅を受けた。
先主は衆数萬をあつめ,従事である北海の孫乾を遣わして,自ら袁紹に於いて結んだ。
公は將軍の劉岱、王忠を遣わして之を撃たせたが,克てなかった。
- 37 :
- 【11】(二字は当に衍すべきである。説は注に詳らかにしておいた。)
【12】(廖本は此の下に小注があり云わく:「按ずるに,此の下に当に公遣先主要擊術云云が脱けているはずである。」としている
今按ずるに:旧刻は原より一行脱けている也。茲は《三國志》に拠って十八字を補っている。)
【13】(《三國志》では此の下に辭の字が有る。)
【14】(元豐本と廖本は並びに《三國志》は同じ帝と作す,其の他の各本は皆命と誤作している。)
【15】(各本は並んで「沛解」と作す。李本は廨と作す。
顧校稿では云わく:「廣圻の按ずるに,沛の字は衍(字)であろう。解は即ち廨の字のことである。」
廖本は小註にて云わく:「按ずるに:沛の字は当に有るべからず。解は即ち今之廨の字のことである也。」)
【16】(当にcと作し,郭嘉を無くすべきである。)
- 38 :
- (建安)五年(200年),公が東のかた先主を征すと。先主は敗績し,妻子及び關羽が獲らえられるに見えた。
先主は青州に奔り,刺史の袁譚が道路で奉迎すると。馳せて以って父である袁紹に白した。
そこで袁紹は身づから鄴を出てくること二百里,先主と相見えることとなった。
公は関羽の勇鋭さを壯とすると,拜して偏將軍とした。
初め,関羽は先主が公に従って呂布を濮陽の於いて圍むのに隨った,時に秦宜祿が呂布の為に張楊に於いて救いを求めた。
関羽は公に啓して:「妻に子が無いため,城を下したら,乞いねがわくば宜祿の妻を納れたいものです。」公は之を許した。
城門に至るに及び,復た白した。公は其の有色(美人ではないだろうかと)を疑い,【17】自ら之を納れた。
後に先主が公と獵をしたおり,関羽は獵中に於いて公をそうと欲したが。
先主は天下の為に惜しんで,聽きいれなかった。故に関羽は常に懼れを懷いていたのである。
公は其の(精)神の安んぜざることを察すると,將軍の張遼を使て情を以って之を問わせた。
関羽は歎じて曰く:「吾は曹公が我を待(遇)すること厚いことを極めて知っている。然りながら吾は劉將軍より恩を受けており,死を共にすることを以って誓いとしていて,之に背く可からざることだ。
〔要当〕,【18】效を立てて以って曹公に報おう。」公は聞いて而して之を義とした。
是歳,袁紹は官渡を【征す】〔爭う〕こととすると,梟將の顏良を遣わして,東郡太守の劉延を白馬に於いて攻めた。
公は〔劉延を救おうとし〕,【19】張遼、関羽を使て先鋒と為した。
関羽は顔良の麾蓋を望見すると,馬を策すと顔良を萬の衆の中に於いて刺し,
其の首を斬りおとして還ったが,袁紹の將たちのなかに敵うものとて莫く,
遂に劉延への圍みが解けたのである。
公は即ち表して関羽を漢壽亭侯に封じ,重ねて賞賜を加えたが。【20】盡く其の物を封ずると,書で拜して辭を告げて而して先主のところへ帰した。
左右は之を追おうと欲したところ。公曰く:「彼には各おの主が有るのだ。」
先主は袁紹にむかい南のかた荊州牧の劉表と連ねるよう説いた。
袁紹は遣わして其【21】兵を将いさせて汝南に至らせた。
公は將の蔡楊を使て【22】之を撃たせた。
先主は謂って曰く:「吾が勢いは便ぜざると雖も,汝等が百萬來たろうとも,未だ吾を如何ともせざらん。
曹孟コが單車にて來たるなら,吾は自ら去りゆこう。」蔡楊等は戰うこと必ずせんとして,先主の為にされる所となった。
- 39 :
- 【17】(李本は他と作す。)
【18】(元豐本には此の二字が脱けている。廖本も亦た無い。他の各本には皆有る,蓋し李ォが《關羽傳》に依って補った所なのであろう。)
【19】(《三國志‧袁紹傳》に依って補った。説は註に詳らかにしておく。)
【20】(此下には元豐本と廖本には羽の字が無い。他の各本には皆有る,李ォが補った所だろう也。)
【21】(本宋、明及び清初の各本は皆卒と作る,廖、石本は《三國志》に依って本と改め作っている。)
【22】(元豐本と張、呉、何、王、浙、石本は並んで《三國‧先主傳》に依って陽と作る。錢、劉、李、廖本は楊と作る。下は同じである。)
- 40 :
- 今日はここまででひばしら
- 41 :
- 読み応えあるな
保存の意味でもpukiwikiかなにか立ててアーカイブ化したほうがいいんじゃないの
- 42 :
- 劉先主志
三
公【1】既にして袁紹を破ると,自ら汝南に南征した。
先主は麋竺、孫乾を遣わして劉表に詣でさせた。
劉表は【之を】〔先主を〕郊迎すると,【2】待(遇)するに上賓を以ってし,【3】使わして新野に(駐)屯させた。
潁川【4】のひとである徐〔庶〕元直は,瑯琊の諸葛亮のことを致して曰く:「孔明は,臥龍です也。將軍は之に見えんことを願いますか乎?」
先主曰く:「君と俱に來させてくれまいか。」
徐庶曰く:「此人は就きて見える可かるも,屈し致す可からざることです也。」
先主は遂に諸葛亮を造すこととし。凡そ三たび〔往くことになった〕。【5】
因って人を屏して曰く:「漢室は傾頽しており,奸【6】臣が命を竊って,主上は蒙塵しておられる。
孤(わたし)はコを度(はか)らず力を量らず(徳と力ともにそれをするに足りぬが),天下に於いて大義を信にせんと欲したのだ【7】。
而して智術は浅く短かく,遂に用って猖蹶させてしまい。【8】今日に於けるに至ったが,志は猶も未だ已まぬ。
君は計を謂うが將た安んぞ出ずるか?」
- 43 :
- 【1】(上文を承っており曹公のことである。)
【2】(旧各本は之の字を作る。茲(ここ)に先主の二字を改める。説は注釋に詳らかにした。)
【3】(《三國志》には「益其兵」の三字が有る。)
【4】(李、呉、何、王、浙本は穎と作すが。字が誤まっている。)
【5】(《三國志》では「凡そ三たび往きて乃ち見えた」と作る。)
【6】(元豐、錢、《函》、廖本は奸と作る。錢寫はと作る。張、呉、何、王、浙、石本は《三國志》に依って姦と作る。)
【7】(讀みは伸の如く。)
【8】(元豐と劉、李、《函》、廖本は蹶と作る。錢、張、呉、石本は《三國志》と同じく獗と作る。
何、王本は厥と作る。《通鑑》も亦た蹶と作る。胡三省は注す:「蹶とは,顛蹶のことである。」
《文選》で李善は此れを注引して:「先主謂諸葛亮曰:孤遂用猖獗。」と作る)
- 44 :
- 諸葛亮は対して曰く:「董卓より以來,豪傑が並び起ち,州を跨ぎ郡を連ねた〔者は〕【9】不可勝数(数え切れませんでした)。
曹操の袁紹に於けるに比べると,則ち名は微かで而して衆も寡なかったのに,然るに【10】遂に能く袁紹に克ち,弱を以って強と為しました,【11】
天の時があったと云うと雖も【12】,人謀をも抑えること〔亦た〕あったのです【13】也。
今や曹操は已にして百萬之衆を擁し,天子を挟んで而して諸侯に(命)令しております,
此れは誠にこれと〔鋒を〕【14】爭う可からざることです也。【15】
孫權は江東に拠りそれを有すこと,已にして三世を歴しております,國は險しく而して民は附きしたがっており,賢能之が為に用いられております,
此れは以って援けと為す可きであって,而して圖る可からざることです也。
荊州は,北のかた漢沔に拠り,利は南海に尽くし,東のかたは呉会に連なり,西のかたは巴蜀に通じております,
此れは用武之國でありますが,而して其の主は不能(能わず),【16】殆んど天が以って將軍に資とせよとする所でありましょう也。【17】
益州は險塞沃野でありまして,【18】天府之土であります,高祖は之に因って以って帝業を成したのでございます。
劉璋は闇弱であり,張魯が北に在り,國は富み民殷みて而して卹すことを知らず,【19】賢【20】能之士は,明君を得んことを思っております。
將軍は既にして帝室之胄たりて,その信義は四海に於いて著わされております,英雄を總攬し,賢を思うこと渴えるが如くであります;
若し荊益を跨ぎ有し,其の險【21】阻を保ち,西のかた諸戎と和し,南のかた夷越を(慰)撫し,【22】好を孫權と結び,内は脩除【23】政理;
天下に変有らば,【24】一上將に命じて,荊州之軍を將いさせて以って宛洛に向かわせ,
將軍は身づから益州之衆を率いて秦川に於けるより出ることとすれば【25】,
天下孰不簞食壺漿以迎將軍者乎?
此の如かるならば,【26】則ち霸業も成る可し,漢室も興こる可けん矣。」
先主曰く:「善し。」として(曰く善しとは,猶ち云わく善しと稱えたのである。)
そうして諸葛亮との情好は日ましに密になり,自らを以って為すに猶ち魚の水を得たるがごとしとした也。
- 45 :
- 【9】(按ずるに《三國志》の文は当に者の字を補うべきである。)
【10】(《三國志》には操の字が有る。)
【11】(《三國志》には者の字が有る。)
【12】(《三國志》では「非惟」と作る。)
【13】(《三國志》では亦の字が有る。)
【14】(元豐と廖本は此の下に鋒の字が無い。他の各本には有ある。)
【15】(《三國志》では「爭鋒」と作る。)
【16】(《三國志》では此の下に守の字が有る。元豐本及び錢、劉、李、《函》、廖本には無い。
張、呉、何、王、浙、石本には並んで有る。張佳胤が増す所であろう也。
茲に按ずるに:《三國志》の今本守の字も亦た衍文であろう。陳氏原当無有。)
【17】(《三國志》は「此れ殆んど天の將軍に資を以ってせんとする所。將軍豈に意を有さんとてか乎」と作る。)
【18】(廖本の小注は云わく:「当に千里の二字が有るべきである,《三國志》を見よ。」茲に按ずるに,二字は省く可きである。)
【19】(《三國志》は「存恤」と作る。)
【20】(《三國志》は智と作る。)
【21】(《三國志》は巖と作る。)
【22】(此の下に《三國志》では外の字が有る。)
【23】(廖本は外とし,各本は皆修と作る。)
【24】(《三國志》では此の下に則の字が有る。)
【25】(《三國志》は「以出」と作る。)
【26】(《三國志》では「誠如是」と作る。)
- 46 :
- (建安)十三年,劉表が卒し,少子のjが襲位した。曹公が南征すると,劉jは使いを遣わして降ることを請うた。
先主は樊(城)に(駐)屯していたが,知らなかった。
曹公の卒が【27】至ると【宛に至ると】,【28】先主は乃ち知って,遂に其の衆を將いて去った。
【29】比して当陽に到ると,その衆は十餘萬人,車は数千兩となり,日行(日毎の行程)は十餘里にまでなっていた。
別に關羽を遣わして船に乘せ【30】江陵で会うこととした。
或るひとが先主に謂って曰く:「宜しく速やかに行くべきです。
大衆を擁すと雖も,甲(よろいかぶと)を被っている者は少ないからです。
曹公の軍が至ってしまえば,何をか以って之を禦ごうというのです?」
先主曰く:「夫れ大事を濟さんとするは,人を以って本と為すものだ。
今人が吾に帰さんとしおるのに,何ぞ之を棄てるに忍びえようぞ。【31】」【32】
公は以って江陵には軍實が有るため,先主が之に拠ってしまうことを恐れて【33】,乃ち輜重を釋すと,
輕騎五千を【以って】〔率いて〕【34】先主を追いかけること,一日一夜にして三百里を行き,当陽之長阪に於いて及ぶこととなった。
先主は妻子を棄て,諸葛亮や張飛等数十騎と(逃)走した。
公は其の民衆を盡く獲ると,急ぎ先主を追った。
張飛は水<河川>に據って橋を斷ちおとすと,馬をざまにして矛を按じて【35】曰く:
「我こそは張益コ【36】なり也。來たりて死を決す可し。」公は徒して乃ち止まった。
先主は漢津へむかって斜めに趣き【37】,関羽と船にて会するに適った。
而して趙雲は身づから先主の弱子である後主を抱き,及んで先主の甘夫人を擁【37.5】して相及び。そうして(長)江を濟った。
諸葛亮曰:「事は急くこととなっています矣!請いねがわくば命を奉りて孫將軍に於いて救いを求めさせていただきたい。」
時に孫權は柴桑に軍をすすめており,既にして先主の大名に服していたうえ,
又た諸葛亮の奇雅なるを悦び,即ち周瑜、程普の水軍三萬を遣わして先主を助けて曹公を拒ませ,
公の軍を赤壁に於いて大いに破ると,其の舫舟を焚きはらった。【38】
公は軍を引きあげて北のかたへ帰った。【39】先主は劉表の長子であった江夏太守の劉gを以って荊州刺史と為した。【40】
先主は南のかた四郡を平らげると,【41】武陵太守の金旋、【42】長沙太守の韓玄、桂陽太守の趙範、零陵太守の劉度は皆降った。
廬江の雷緒が部曲数萬口を率いて稽顙してきた。【43】劉gが病死すると,先主は荊州牧を領し,【44】公安を治(所)とした。
孫權は妹を進め,恩と好みが綢繆されることとなった。【45】
諸葛亮を以って軍師中郎將と為し,南のかた三郡の事を督させた。
關羽を以って盪寇將軍と為し,襄陽太守を領させると,江北に住まわせた。
張飛を征虜將軍、宜都太守と為した。
初め,先主之敗れて東のかたへ走るや也,鄂へと徑往せんとし,土も地も無かった。
關羽は之を責めて曰く:「早くに獵中での言に從っていたら,今日のことは無かったのに。」
先主曰く:「安んぞ此が福と為らざると知るや也。」【46】荊州を得るに及び,復た人衆を有すことになった。
- 47 :
- 【27】(讀みは猝の如し。)
【28】(《三國志》では「至宛」の二字が有る。実に衍文であろう。《常志》不当亦有。
旧校が縁るにあたり《陳志》の衍に誤り依ったのであろう。)
【29】(当に「欲保江陵」の四字が有るべきだ。)
【30】(劉、李、《函海》本は「舡」と作る。下も同じである。)
【31】(元豐本は棄と作る。下も同じである。)
【32】(元豐本は此の下に四格が空いている,当に脱文として「不聽」の字が有るべきであろう。
錢、《函》、廖本は但だ空格してあるだけである。)
【33】(劉、李本は至と作る。)
【34】(《三國志‧先主傳》と《張飛傳》に依って改めた。)
【35】(元豐本は案と作る。)
【36】(呉、何諸本は前と同じく翼と作る。)
【37】(張本は作「邪趨」。呉、何、王、石本作「徑趨」。浙本は「徑趨」と作る。)
【37.5】(張、呉、何、王、石本は雍と作る。)
【38】(元豐及び錢、張、劉、李、《函》、廖、浙本は「舫舟」と作る。張、呉、何、王、石本は《三國志》に依って「舟船」と作る。)
【39】(張本は改作して「曹公引軍北帰」とす。呉、何、王、石諸本は「曹公引帰」と作る。
廖刻は元豐本に依って此文を作っている。錢、劉、李、《函》本も同じである。
浙本は此の下が全部改刻されており元豐本の如くとなっている。)
【40】(此下,張本には先主の二字が有る。呉、何、王本には無い。並んで俱に《三國志》の文に依って「又南征四郡」と作る。
此の如く屢(しばしば)《三國志》の原文を用いて《常志》を改易している,それは四十七行之多きに達するのである。皆張佳胤が為せし所である也。
呉、何、王、盧、石本は并わせて之に遵っている。錢、劉、李、《函》、廖本は則ち悉く元豐本と同じくす(嘉泰本も当に同じであるべきだ)。
浙本は剜改して宋旧に従っている。以下凡そ張佳胤が各字を改めているもの,但だたんに注で「張改」と云うだけにしておく。
更めて具さに列すことしないが「呉、何、王、石本」,及び「浙本剜改」等の字も(同)樣である。)
【41】(張は「又南征四郡」と改める。)
【42】(張は璇と改める。)
【43】(張改本は此の句を刪している。)
【44】(張改:「劉gが病死するに会うと,群下は先主を推して荊州牧と為した。」)
【45】(張改「孫權稍畏之,進妹固好」。石印本固作恩。)
【46】(也の讀みは耶の如し。)
- 48 :
- 今日はここまででんしんばしら
- 49 :
- >>1
乙
これどう読むの?
訳文多分ネットにないから美味しいと思う。
つぎこれおながいします。
http://zh.wikisource.org/zh/%E8%9C%80%E9%83%BD%E8%B3%A6_(%E5%B7%A6%E6%80%9D)
- 50 :
- >>49
もことわりします。
今のとこ興味が無いため、モチベーションが沸かない。ゼロです。
こういうのは読みたい人が自分で読もうと努めて読むのがいいのですよ。
- 51 :
- >>49
横レスだけどgoogle翻訳とエキサイト翻訳でちょっと読んでみたんだが
蜀の風物を語ってる以外のものはないような気がするんだぜ
- 52 :
- 劉先主志
四
孫權は使いを遣わして共になって蜀を伐さんことを求めた。
【又た曰く:雅願以隆,成為一家。諸葛孔明の母兄が呉に在ったため,可令相并。】【1】
主簿の殷觀曰く:「若し呉が為に先驅けとならば,大事は去りましょう矣。今は但だ之を贊ず可くも【2】,言うに新たに諸郡に拠ったばかりであるから,未だ以って動かす可からざることとなさいませ。
彼らは必ずや我らを越えてまでして而して蜀を有そうとはしますまい也。」【3】
先主は乃ち報いて曰く:「益州不明,得罪左右。庶幾(こいねがわくば)將軍よ義を高くして,上は漢朝を匡し,下は宗室を輔けられよ。
干戈に尋ねること必ずせんとの若かるなら,この備は將に山林に於いて放髮することとし;
未だ【4】命を聞くこと敢えてせざるものです。」
孫權は果たして輟計した(計画を棚上げした)。そこで殷觀を別駕に遷した。【5】
十六年,益州牧の劉璋が法正を迎えに遣わし,遂に西のかた益州に入った。【6】
- 53 :
- 【1】(「雅願」之願は錢寫は顧と作る,《函海》は顧と作る。「成為一家」の,「成」の下は錢寫本では三字が脱けており,空格が有る。按ずるに此の二十二字,係るに後人が注で,小さな字で加えたものを,寫を被ったさいに正文と為されたのであろう。)
【2】(元豐、錢、劉、李、《函》本は并わせて讚と作る。)
【3】(以上,張、呉、何、王、盧本は《三國志‧先主伝》の文を全く改め用いた,
作るに:「孫權は使いを遣わして云って曰わく共に蜀を取ろう。とし。
(但だたんに「或以為宜報聽許,呉終不能越荊有蜀。蜀地可為己有」の二十一字を刪すのみとしている。)
荊州主簿の殷觀が進んで曰く:若し呉の為に先驅けとならば,未だ蜀に克つこと能わざるうちに,
退いては呉に乘じられる所と為って,即ち事は去ってしまいましょう矣。
今は但だ其の蜀を伐すを然りとして贊ず可きです。
而して自らは新たに諸郡に拠ったばかりであるため,未だ与し動く可からずと説きなさいませ。
呉は必ずや我らを越えてまでして而して獨りで蜀を取ること敢えてしますまい。
此の如くなれば,進退之計となり(呉本は誤って討と作る),呉蜀之利を収めるを以ってすこととなります。」
除刪二十一字外,一字不易。何義門朱校本,泐去其字,全用朱改寫,如劉、錢、《函》、廖本。蓋依元豐本也。)
【4】(錢寫本は不と作る。)
【5】(張、呉、何、王、盧、石本は復た《先主伝》に従って全改し,「先主は之に從った。
孫權は果たして計を輟った(棚上げした)。そこで殷觀を遷して別駕從事と為した」と作る。)
【6】(元豐本と錢、劉、李、《函》、廖、浙諸本は只だ此の十七字があるだけである。
張、呉、何、王、盧、石本は作るに:「十六年,益州牧劉璋遙聞曹公向漢中討張魯……」としているが全く《先主伝》に依っていて是年の文を直録し,
「軍を進めて雒を囲んだ。時に劉璋の子の循が城を守り,攻められて且つは一年を被っていた」の句に至って止めている,凡そ五百三十九字である。
其の俱に已に先に《二牧志》に於いて著わされているのを未だ覚らざるところが似ている。
信(まこと)に顧廣圻校が批(判)して云うが如くである:「事は自ら《劉二牧志》で具になっているのだ。
それなのに張佳胤は妄りに改めたり妄りに添えたりしており,古人の著書之法を知らないだけなのだろう耳。」
此下,宋刻と錢、《函》、廖本は空格である。劉、張、呉、何、王諸本は提行している。
茲(ここ)に按ずるに:十九年の上に建安の字を冠すると,常氏の原本が提行された之證と為るのである。
此れ劉本之遇年の提行及び張本之《三國志》に依る提行は同じでない。)
- 54 :
- 建安十九年,先主は蜀に克った。蜀中豐富盛樂,酒を置き大會すると,三軍に饗食した。
蜀城中の民から金銀を取りあげて將士に頒賜し,其の穀帛を還した。
諸葛亮、法正、關羽、張飛に金五百斤,銀千斤,錢五千萬,錦段萬匹を賜った。其の餘りは各おの差が有った。【7】
諸葛亮を以って軍師將軍と為し,左將軍府事を署させた。法正【8】を揚武將軍,蜀郡太守とした。
關羽を督荊州事とした。張飛を巴西太守と為した。馬超を平西將軍とした。
許靖を用いなかったところ。法正は説いて曰く:「虚譽を獲ること有っても而して實の無い者は,靖でしょう也。
然りながら其の浮き名は海内に稱えられ播かれておりますからには,人は將に公のことを士を輕ろんじたと謂うことでしょう。」そこで乃ち以って長史と為した。
龐羲を司馬と為した。李嚴を犍為太守と為した。費觀を巴郡太守と為した。益州太守であった南郡の董和を徴して【9】掌軍中郎〔將,〔と為し〕【10】大司馬府事を署させた。〕【11】
〔巴郡〕太守であった漢嘉の王謀が別駕と為った。廣漢の彭羕は【12】治中と為した。零陵の劉巴を辟して西曹掾と為し,廣漢の長であった黄權を偏將軍と為した。
是に於いて,諸葛亮は股肱と為り,法正が謀主と為り,関羽、張飛、【13】馬超が爪牙と為り,許靖、龐羲及び麋竺、簡雍、孫乾,山陽の伊籍が賓友と為ったのである。
董和、李嚴、黄權は本もと劉璋が授用する所のものであった也;
呉懿、費觀は,劉璋之婚親であった也;彭羕は,劉璋に排擯せられた所のものであった也;
劉巴は,【已にして】【14】恨みを宿す所のものであった也;しかし皆之を顯位に處させ,其の器能を盡くさせたのである。
そのため志を有す之士は,競って勧めざること無かった。
群下は先主に劉瑁の妻を納めるよう勧めた。先主は其の同族であることを嫌った。
法正曰く:「其の親疏を論ずるに,【15】晉文之子圉に於けるといずれでしょうか乎?」としたため之に從った。
法正は既にして郡に臨むと,睚眥之怨み、一餐之惠とて報復せざること無かった。
そのため或るひとが諸葛亮に謂って曰く:「法正の【16】蜀郡太いに縱せること,將軍は宜しく主公に啓(発)すべきである。」【17】
亮曰く:「〔主〕【18】公之公安に在るや也,北のかたは曹操之強きを畏れ,東のかたは孫權之逼るを憚り,内は孫夫人が肘腋之下に於いて變を興こさんかと慮ってきた。【19】
孝直が輔翼と為ると,遂に【20】翻り飛びたち翱翔して,復た制す可からざることとなったのだ。
如何禁法但稱其姓,目指之意也。(どうして法律で禁じえよう。但たんに其の姓を称えることで注視されているのを気付かせ、)其の志を行うこと得られざら使むのみだ也。」【21】
孫夫人の才は剛猛に捷ち【22】,諸兄の風が有った。侍婢百人は【23】皆劍を仗にして侍立した。先主は下車する毎に,【24】心では常に凜凜とした。法正は先主に勧めて之を還疑させた【25】
- 55 :
- 【7】(張、呉、何、王、石本は此の上に仍ち《先主伝》に全てを依って改作している
「十九年夏,雒城破。進圍成都。數十日,璋出降。蜀中殷盛豐樂,先主置酒大饗士卒。
取蜀城金銀,分賜將士。先主遂領益州牧。以諸葛亮為軍師將軍」云云と。
原文の城の下にある一つの「中」の字と「還其穀帛」の四字を刪す而已である。)
【8】(張、呉、何、王、石本正は上に法の字が有る。)
【9】(錢寫本は徴の字が脱けている。)
【10】(廖本は注に云わく,「当に為の字が有るべきだ」。)
【11】(為、將の各字は,舊より各本には並んで無い。茲(ここ)に《三國志》和本の伝文に依って補った。
廖本の注に云わく:「当に『將,巴郡』の三字が有るべきだが,將の句は絶たれた。《三國志》に見える。
王謀は劉璋の時に在って巴郡太守と為っていた,陳壽《季漢輔臣讚》注に見える。」)
【12】(呉、何の諸本は羕と誤り作っており。下も同じである。)
【13】(元豐本と張、呉、何、王、浙、石本は并わせて飛羽と作る。他の各本は飛の字を倒している。)
【14】(元豐本、廖本には已の字が無い。他の各本には有る。蓋し李ォが補った所なのであろう。)
【15】(錢、劉、李、《函》は疏と作る。何と元豐及び錢、劉、李、廖本はと作る。張、呉、何、王、浙、石と《函海》本は異と作る。)
【16】(顧觀光校は云わく:「正の下には原(もと)もと於の字が有った。」とするが今按ずるに《法正伝》に耳(のみ)於の字が有り,各本には有るものが無い也。)
【17】(《正伝》には「抑其威福」の句が有る。)
【18】(舊各本には無い。廖本の注に曰く:「当に主の字が有るべきだ。」《三國志》は有る。)
【19】(《三國志》は生と作る。《三國志》には「当斯之時,進退狼跋」の句が有る。」)
【20】(《三國志》は令と作る。)
【21】(也の讀みは耶の如し。)(《三國志》は作る:「如何禁止法正使不得行其意邪。」)
【22】(元豐本作ノ。明、清各本俱作捷。李ォ依《三國志‧法正伝》文改也。)
【23】(《三國志》作百餘人。)
【24】(《三國志》下車作「入」字。)
【25】(当に(疑は)遠と作るべきである。)。(《法正伝》には原もとは此の句が無い。)
- 56 :
- 今日はここまででひとばしら
- 57 :
- 乙
正史とあまり違った所は無いね
- 58 :
- >>57
結局、先主志については三国志のものが一番整っているからかな。
注釈の方で三国志のものから勝手にとってきて改変してしまうから原文が無くなっちまったよボケって書いてるし。
それじゃ始めます。
劉先主志
五
(建安)二十年,孫權は先主に報わ使めて【1】,荊州を得ようと欲した。
先主は報じて曰く:「吾方に涼州を圖らんとす。涼州定まりたれば,荊州を以って相與えあおう。」
孫權は怒り,呂蒙を遣わして長沙、零陵、桂陽三郡を襲い奪わせた。
先主は公安に下ると,關羽を令て益陽に【下らせた】〔向わせた〕。【2】
曹公が漢中に入り,張魯が巴西へ走るに會すと【3】。
黄權は進めて曰く:「若し漢中を失えば,則ち三巴は振わぬこととなります,此れは蜀人の股臂を裂くことになりましょうぞ也。」
是に於いて先主は呉と【4】連和し,荊州を分けあった。
江夏、長沙、桂陽は東のかたへ屬し,南郡、零陵、武陵は西のかたへ屬すこととし,軍を引きつれて江【夏】〔州〕へ還った。【5】
黄權を以って護軍と為し,張魯を迎えさせた。ところが張魯は已にして北のかた曹公に降ってしまっていた。
そこで黄權は公の署す所であった三巴の太守ら杜濩、【6】朴胡、袁約【7】等を破った。【8】
〔曹〕公は征西將軍の夏侯淵、益州刺史の趙顒及び張郃を留めて漢中を守らせた。
公は東のかたへ還ると,此另節回溯破三巴夷王以前事,故句首公字上當有曹字。
張郃は數(たびた)び巴の界(域)を犯し掠めとった。先主は張飛等を率いて軍を宕渠之蒙頭に進め,張郃を拒み。相持つこと五十余日となった。
張飛は他道より張郃を邀えうち,陽石に於いて戦うと,遂に張郃の軍を大破した。
張郃は馬を失い,山に縁って,独り麾下十余人と間道より南〔鄭〕へ還った【也】。【9】
(建安)二十一年,先主は成都へ還った。
- 59 :
- 【1】(元豐本と廖本は只一つだけ使の字がある。他の各本は使の字を重ねている,李ォが《先主伝》に依って増したのだろう也。)
【2】(元豐本は「下益陽」と作る。廖、浙本も同じである。
李ォは《三國志》に依って「入益陽」と改作した,劉、李、錢、《函》本も同じである。
張佳胤は「入益州」と改作し,呉、何、王、石本も同じ誤りをしている。)
【3】(元豐與錢、劉、李、呉、何、《函》、王、浙、石本は定と作る。廖本は《先主伝》に依って走ると改作する。)
【4】(《先主伝》は權と作る。)
【5】(舊刻各本は誤まって「江夏」と作る。茲に《先主伝》に依って「江州」と改める。)
【6】(元豐本及錢寫本は此の下に空二格を並べている。《函海》本も空格がある,
仍ち注して云わく:「此下應連寫。劉、呉、何、李本には空位が無い。」他の各本は連とある。
当に連とすべきである。)
【7】(元豐本は此の下に又た二格を空けている。他の本は連とする。)
【8】(此下《先主伝》に依って一つ曹の字を補っている。)
【9】(宋、明、清各舊本は并わせて也と作る。茲に《陳志‧張郃伝》に依って南鄭と改める。)
- 60 :
- (建安)二十二年,蜀郡太守の法正が進めて曰く:「曹操は一たび挙げて張魯を降し,漢中を定めながら;
此の勢いに因って以って巴蜀を圖らず,【10】而して淵、郃を留めて,身づからは遽って北のかた還りました;
それ智の逮せず、力の足らざるに非ず,將に内に憂逼が有っただけであるのです耳。
今淵、郃の才略を筭りますに,吾らが【11】將率に勝てぬでしょう,【12】衆を挙げて往きて討つこととすれば,則ち必ずや擒らえる可きことでしょう。【13】
天が以って我らに與えんとしておるのです,時は失う可からず也。」
先主は之【に從った】〔を善しとした〕【14】。以って儒林校尉である巴西の周群に問うた。
周群は對して曰く:「当に其の地を得るべきも。其の民を得ず。若し偏軍を出せば,必ずや不利となりましょう。」しかし先主は遂行した。
諸葛亮は居守すると,食を足らせ兵を足らせた也。【15】
【10】(《函海》は屬と作る。並んで注して云わく:「劉、呉、何、李本は蜀と作る。《蜀書‧法正伝》も亦た並んで蜀と作る。」)
【11】(元豐、廖本は吾と作る。他の各本は我と作る。)
【12】(《法正伝》は「不勝國之將帥」と作る。顧廣圻校稿は云わく:「按ずるに,(率)即帥字。」)
【13】(廖本と錢寫本は擒と作る。他の各本は並んで禽と作る。)
【14】(《法正伝》に依って改めた。)
【15】(《函海》の注に云わく:「原(もともと)共と誤っていた。劉、呉、何、李本は並んで兵と作る。」蓋指所據紅豆齋鈔本作足食足共也。)
- 61 :
- (建安)二十三年,先主は急ぎ書をおくり兵を(徴)発させた。軍師の諸葛亮は以って從事であった犍為の楊洪に問うた。
洪は對して曰く:「漢中は,蜀之咽喉であり,【15.5】存亡之機〔會〕であり,【15.6】若し漢中を無くしたら,則ち蜀も無くなるのです矣。
此れは家門之禍というもの,男子は当に戰うべし,女子は当に運ぶべし。兵を(徴)発するについては何をか疑うのです?」
諸葛亮は以って法正が從行していたため,先主に【白し】〔表し〕【16】,楊洪を以って蜀郡太守を領させることとし。後には遂に即ち真となった。
初め,楊洪は犍為太守である李嚴の功曹と為った,郡を去ること數年して,已にして蜀郡(太守)と為ると,李嚴は故より在職していた。
而して蜀郡の何祗が楊洪の門下書佐と為り,郡を去ること數年して,已にして廣漢太守と為ると,楊洪は故より在官していた。
是ぞ以って西土では咸(みな)が諸葛亮は能く英秀を攬【17】拔することに服したのである也。
【後に楊洪、何祗は俱に諸葛亮の門下に會すと,楊洪は何祗に謂って曰く:「君の馬は何ぞ(どんだけ)駛(はやい)のか?」
何祗は對して曰く:「故吏の馬が駛(はやき)を為したのではなく。明府の馬が進まなかっただけです耳。」】【18】
【15.5】(呉、何、王、石本は「喉咽」と倒し作っている。)
【15.6】(《楊洪伝》に依って補った。)
【16】(《楊洪伝》に依って改めた。)
【17】(錢寫本は擾と誤り作る。)
【18】(「君馬何駛」之「駛」について,呉、何、王、石本は駃と作る,下も同じである。按ずるに此の三十一字は史局と關わりが無い。
疑うに後人が《益部耆舊雜記》に拠って注を插しこみ,正文が寫入を被ったのであろう。
宋人は裴注を見るとこれが有るから,遂に未だ戡削しなかっただけなのであろう耳。)
【19】(《三國志》では銅と作す。)
【20】(言わく先主は蜀を得るも,寅卯之間に当に失うべし。漢凶劉本誤四。錢寫作●。年在庚子。)
按ずるに此れは常氏自らの注語であり,被って伝寫のさいに正文に入ってしまったのであろう也。)
【21】(舊の各本では王の字が重なっている,当に衍すべきである。)
【22】(顧校稿では「大司馬」の三字は三角號が旁加されている。有人批云「未詳,疑有誤」。
顧廣圻泐去,別に批(評)して云わく「《三國志》の文である也。」)
【23】(《三國志‧費詩伝》では「與高祖少小親舊」と作す。)
【24】(呉本は諭と作す。他の各本は《三國志》と同じく論と作す。劉、《函》本には此の字が無い。)
【25】(何、王、石本は拜と作す。)
【26】(《費詩伝》では班列と作す。)
【27】(元豐本以下の舊刻は并わせて小注が有って云わく:「黄忠の字である也」。張、呉、何、王、石本では但だ「忠の字である」との二字だけを作している。
蓋し常氏が自ら注語したものであろう。《三國志‧費詩伝》は「隆崇於漢室」と作す。常氏が之を改め正したのであろう也。)
【28】(《費詩伝》では祿と作す。)
- 62 :
- (建安)二十四年(219年),先主は漢中を定めて,夏侯淵を斬りすてた。張郃が吏民を率いて内へ徙った。
先主は呉蘭、雷同を遣わして【19】武都に入らせたが,皆沒してしまった。そこで乃ち群より茂才を挙げさせた。
時に州の後部司馬であった張裕が,亦た占術を知っており,〔漢中を争うは不利であると謂って,〕言を漏らしたことを坐し,【20】誅された。
曹公が魏王と為った,【王が】【21】西征すると,法正の策であると聞いて,曰く:「固より玄コが此れを辨じたのでないのは知っていた。」
又た曰く:「吾は奸雄を收めて略し盡くしたはずであったが,独り法正をだけ得ていなかったのか邪?」
群下は先主を上げて漢中王,大司馬と為した。【22】
許靖を以って太傅と為し,法正を尚書令と為し,零陵のョ恭を太常と為し,南陽の黄權を光祿勳と為し,王謀を少府と為し,武陵の廖立を侍中と為した。
關羽は前將軍と為り,張飛は右將軍と為り,馬超は左將軍と為り,皆節鉞を假せられた。
又た黄忠を以って後將軍と為し,趙雲を翊軍將軍となした。其の余りは各おの官號を進められた。
軍師の諸葛亮は曰く:「黄忠の名望は,本より關張馬超之倫に非ざること也。今張馬は近くに在りますから,親しく其の功を見ておりましょうが,猶も喩指す可きでしょう。
關羽は遙かにいて之を聞いておりますから,恐らく必ずやスびますまい。」
先主曰く:「吾自ら之を解こう。」
時に關羽は江陵より<自>きて樊城に於いて曹仁を圍んでいた。
前部司馬であった犍為の費詩を遣わして拜して節を假しあたえた。
関羽は怒って曰く:「大丈夫終に老兵と列を同じくせず。」拜を受けるを肯んじなかった。
費詩は謂って曰く:「昔蕭、曹は高祖と幼なきよりの舊(知)でありましたが,【23】陳、韓が亡命してきて後に至りますと,【24】其班【25】爵を論じたおりには,【26】韓が最も上に居りましたが。
未だ蕭、曹が此を以って怨みと為したとは聞きません。
今王は一時之功を以ってして漢升を<於>隆め崇めることとしたのですが,【27】意之輕重については,寧んぞ当に君侯と齊しかるべきだとしていましょうぞ乎?
王と君侯とは,譬えるなら猶ち一つの體でありまして,禍福は之を同じくするものでしょう。
愚かしくも謂わせていただきますなら君侯は宜しく官號之高下、爵位【28】之多少を計るべきではありませんぞ也。」そこで関羽は即ち拜を受けた。
- 63 :
- 初め,関羽は馬超が來降したと聞くと,素より非知故,書をなして諸葛亮に与えて,其の人材を問うた。【29】
諸葛亮は関羽がひとが前にあることを忌むのを知っていたため,【30】答えて曰く:「孟起は,【黔】〔黥〕【31】一世之【桀】〔傑〕でありまして,【32】コと並んで先を驅せ爭うべきものの,猶も髯どの之絶倫【33】なるに如かず也。」
関羽は書を省みて忻スすると,以って賓客に示した。関羽は美しい鬢【34】髭であったため,故に諸葛亮は稱えて髯と云ったのである也。
関羽の臂は嘗て流矢が中(あた)ったことがあって,天の陰る毎に疼痛した。醫<医者>が言うには矢の鋒に毒が有ったため,須く臂を破って毒を刮きとれば,患いは乃ち除くことができるとした。
関羽は即ち臂を伸ばして治(療)せ使むこととした。時に會客に適っており,臂の血が流れ離れて,盤器に於けるを盈たしたが,而るに関羽は酒を引きよせ炙りにくを割かち,言笑すること自若としていた。
魏王は左將軍の于禁を遣わして【35】七軍三萬人を督させて樊(城)を救わせたが,漢水が暴長したため,皆関羽に獲らわれる所と為ってしまった。
又た魏將の龐コをしたため,威は華夏を震わすこととなった。
魏王は議して許から都を徙そうとした,以って其の鋭を避けようとしたのである。
而るに孫權が江陵を襲い,將軍の【傅】士仁、【36】南郡太守の麋芳が呉に降ってしまった。
関羽は久しく城を拔けずにいたところで,魏の右將軍である徐晃が樊を救った。
そのため関羽は退き還し,遂に孫權の為にされる所となった。
呉は荊州を盡く取ると,劉璋を以って【37】益州牧と為し,【姊】〔秭〕歸に住かせた。
是歳,尚書令の法正が卒した,謚して曰く翼侯である。そこで尚書の劉巴を以って尚書令と為した。
【29】(《三國志‧羽伝》では「問超人才可誰比類」と作す。)
【30】(《羽伝》では「護前」と作す。)
【31】(元豐と廖本は黔と作す。他の各本は並んで黥と作す。李ォは《羽伝》に依って改めている也。)彭之徒,(《羽伝》には「兼資文武,雄烈過人」の句が有る。)
【32】(元豐、廖本は桀と作す。他の各本は傑と作す。)当に益(張、呉、王、石本は翼と作す。)
【33】(《羽伝》には「逸群」の二字が有る。)
【34】(元豐本は●と作す,錢、《函》、廖は鬢と作す。張、呉、何、王、浙、石本は并わせて《羽伝》に依って鬚と改作している。●の字こそ是である。)
【35】(《函海》注は云う:「李本には七字が闕けていて,空格が有る。」)
【36】(唐百川校箋は云う:「傅の字は当に衍すべきである。《三國志‧楊戲伝》及び《呉主伝》、《呂蒙伝》には均しく無いからである。今本の《羽伝》でも亦た衍されている。」との説は是であろう。)
【37】(《函海》は「潘璋」と誤り作している。)
- 64 :
- そんなわけで今日はここまででおんばしら
- 65 :
- 本当は先週末までに終わってしまいたかったが予想より忙しさが前倒しになりました
ここはフラグ管理に失敗した>>1を罵るスレとなります。すまn
- 66 :
- ok
- 67 :
- そんなわけで折を見つけて投下することにします。
スローペーススローライフ
劉先主志
六
(建安)二十五年(220年)春正月,魏の武王(曹操)が薨じ,嗣王の丕が即位し,改元して延康となった。
蜀は漢帝が害されるに見えたと傳え聞いたため,先主は乃ち喪を發し,服を制すと,追謚して曰く「孝愍皇帝」とした。
所在では(いたるところで)並んで衆瑞(瑞兆の衆(あまね)かること)を言ってきた。
そのため故の議郎である陽泉亭侯の劉豹,青衣侯の向舉,偏將軍の張裔、黄權,〔大〕司馬屬の陰純【1】,
別駕の趙莋,治中の楊洪,從事祭酒の何宗,議曹從事の杜瓊,勸學從事の張爽、尹默、【譙】周〔群〕【2】等が上〔言〕した:
「河洛の符が驗め,【3】孔子の甄す所です。【4】〔《洛書‧甄曜度》に曰く:〕赤三日,コ昌九世,會備合為帝際。
《洛書‧寶號命》【5】に曰く:天は帝道を度(はか)り,備わっていれば皇と稱える。」と【6】
又た《洛書‧録運期》と<与>《孝經鉤命決解》を引くに兩つともに條されて有ります。
又た言うに:「周群の父が未だ亡くならずにいた時,數(たびた)び言っておりましたことに西南に黄氣が有り,立つこと數十丈,而して景雲祥風が璇璣の下より<従>,來たりて之に應じたと。
《圖》、《書》に如かば,必ずや天子が出ずること有ろうことかと。方今は大王には(天命の)際に應じて而して生まれ,神と<与>契りを合わせられました。
願わくば速やかに洪業に即きて,以って海内を寧んぜられんことを。」【7】先主は未だ許さなかった。
冬,魏王丕が皇帝の位に即き,改元して黄初とした。漢の獻帝は遜位して,山陽公と為った。
- 68 :
- 【1】(各舊本では(大司馬の大が)脱けている,《三國志‧先主傳》の原文には有る。廖本の註に云わく「當に大の字が有るべきである」。)
【2】(各舊本は《三國志》と<与>同じく「譙周」と作す。考ずるに譙周は當時には尚も未だ入仕しておらず,而表中明有周群。當是傳鈔誤周群為譙周。茲改正。仍詳注。)
【3】(《三國志先主傳》では「臣聞:《河圖》《洛書》,五經讖緯」と作す。)
【4】(《函海》此の下に注があり云わく:「劉、李本には水の字が有った。《蜀書》にも有る:『驗應自遠。謹案《洛書‧甄曜度》曰』云云。」
【5】(元豐及び錢、劉、李、《函》本では《洛寶書號命》と作る。張、呉、何、王、廖本は《三國志》に依って改めている。)
【6】(《先主傳》では此の下に「以統握契,百成不敗」の句が有って,《寶號命》の文を為している。)
【7】(原(もと)の表の全文は《三國志》に在る。《常志》は二百字近くを節刪している。)
- 69 :
- 章武元年は,魏の黄初二年である也。
春,太傅の許靖、安漢將軍の麋竺、軍師將軍の諸葛亮、太常のョ恭、光祿勳の黄權、少府の王謀等が乃ち【8】先主に漢の絶たれた(胤)統を紹して,【9】帝號に即くようすよう勸めた。
先主は許さなかった。諸葛亮が進めて曰く:「昔呉漢、耿弇等が世祖に(帝位を)勸めて。世祖が辭讓すると。
耿純は進んで曰く:天下に英雄喁喁とし,望む所を有さんと冀っているのです。若し議に從わないなら<者>,士大夫は各おの【其】(求【10】主(主を求めて),【11】之(ゆ)くことでしょう。
今曹氏が漢を簒(奪)したため,天下には主が無くなりました,大王が世を紹して而して起つは,乃ち其れ宜しくすべきことでございます也。
士大夫で大王に隨い久しく勤め苦しんだ者は,亦た尺寸之功を望もうと欲しておりますこと,耿純の言の如くでございましょう耳。」そこで先主は乃ち之に從った。
諸葛亮は博士の許慈、議郎の孟光と<与>禮儀を建立し,令辰を擇び,〔尊號に上るようにとした。〕【12】
費詩が上疏して曰く:「殿下は以って曹操父子が主に逼って位を簒(奪)するにあたり,故より乃ち萬里を羈旅して,【Y】〔糾〕【13】士衆を合わせ,將いて以って賊を討たんとしてきたのです。
今大敵に未だ克たずして而して先に自立すれば,恐らく人は【14】疑い惑いはしますまいか。
昔高祖は楚と<与>約(束)するに,先に秦を破りし者が王となるとのことでした。
咸陽を屠って,子嬰を獲るに及ぶと,猶も【15】推讓いたしました。
況んや今殿下は未だ門を出でぬうちに,【16】便じて自立せんと欲されるとは。【17】
愚かしくも臣は誠に殿下の為に取らざることです也。」
朝廷は【18】費詩を左遷して【19】永昌從事を部させた。
夏四月丙午,先主は帝位に即くと,大赦し,章武と改元した。
諸葛亮を以って丞相と為し,節を假し,録尚書〔事〕とした;【20】司徒と為した;
張飛を車騎將車とし,司隸校尉を領させ,封を西郷侯に進めた;
馬超を驃騎將軍とし,涼州刺史を領させ,斄郷侯に封ずると,北のかた臨沮を督させた;
偏將軍の呉懿を關中都督と為した。
魏延を鎮北將軍に進め【21】,李嚴を輔漢將軍とし,襄陽の馬良を侍中と為し,楊儀を尚書と為し,蜀郡の何宗を鴻臚と為した。
宗廟を立てて,高皇帝、世祖の光武皇帝を祫祭した。
五月辛巳,皇后呉氏を立てた,呉懿の妹で【劉璋の兄の瑁の妻である】【22】也。
子の劉禪が皇太子と為った。
六月,子の劉永を立てて魯王と為し,劉理を梁王と為した。
- 70 :
- ×諸葛亮を以って丞相と為し,節を假し,録尚書〔事〕とした;【20】司徒と為した;
○諸葛亮を以って丞相と為し,節を假し,録尚書〔事〕とした;【20】許靖を右【20.5】司徒と為した;
- 71 :
- ×【11】之(ゆ)くことでしょう。
×【11】公に従うこと無くなりましょう也。としたところ世祖は之に感じいったのです【11.5】。
- 72 :
- 【8】(按ずるに《陳志‧先主傳》文,乃の字は當に「表」と作すべきである。)
【9】(何、王の二本では二字が倒(逆転)している。浙本は剜改されている。)
【10】)(元豐と<与>廖本は其と作る,他の各本は求と作る,李ォは《三國志》に依って改めている也。
當に求と作るべきである。)
【11】(《三國志》では此の下に為の字が有る。)
【11.5】(《函海》本は惑と作る。)
【12】(《先主傳》に依って三字を補った。)
【13】(元豐、錢、廖本はYと作る。他の各本は並んで糾と作る。)
【14】(張、呉、何、王、浙石本は《費詩傳》と同じで此の下に心の字が有る。)
【15】(《費詩傳》では此の下に懷の字が有る。)
【16】(《費詩傳》では此の下に庭の字が有る。)
【17】(《費詩傳》では此の下に邪の字が有る。)
【18】(錢、《函》二本は庭と作る。)
【19】(張、呉、何、王、石本は帥と作る。他の各本は並んで詩と作る。)
【20】(《諸葛亮傳》に依って補った。)
【20.5】(《靖傳》には右の字が無い。)
【21】(呉、何、王、浙本は此の下に侯の字が有る,當に上は呉懿に属し為る句であろう。
元豐と<与>錢、劉、《函》、廖本には並んで無い。蓋し張佳胤が揩オたのであろう也。)
【22】(この五字は當に是れ後人の注文である。)
- 73 :
- >>71は下が○ね。なんかめちゃくちゃだな。
もうねるわ。今日はここまででおんばしら。
- 74 :
- そんじゃ更新。コオロギのちっさい奴が辺りを飛び回って五月蠅い
劉先主志
七
先主は將に東征せんとした,以って關羽之恥を復さんとしたのである。
張飛に命じて巴西から萬の兵を率いさせ,將に江州で會すこととなった。
張飛の帳下將であった張達、范彊が【1】張飛をすと,其の首を持って呉に奔った。
初め,張飛の【2】勇は三軍に冠たりて,【3】〔關羽と〕【4】俱に萬人【之】敵と稱えられた。
関羽は善く小人を待(遇)するも而して士大夫には驕り,飛は君子を愛し敬するも而して小人には卹さなかった,是で以って皆敗れることとなってしまったのである。
先主は常に【之】〔飛〕を戒めて曰く:「卿は刑【5】が差すこと過ぎる,健兒【6】を鞭撻しながら【7】左右に在ら令むこととしているが,此れは禍を取る之道だぞ。」しかし飛は悟らず,故に敗れたのである。【8】
先主は飛の營軍の【9】都督之表有ることを聞くや也,曰く:「噫(おお)!飛死せり矣。」
それから丞相亮に命じて司隸校尉を領させた。[a] 秋七月,先主が東のかた伐せんとすると,群臣の多くが諫めたが,納れなかった。
廣漢の秦宓が天の時は必ずや其の利を無くすものだと上陳したことから,先主は怒り,理に於いて之を縶げた。
孫權が書を送って和を請うてきたが,先主は聽きいれなかった。呉將の陸議、【10】李異、劉阿等の軍が【姊】〔秭〕帰に至った。【11】
左、右の領軍であった南郡の馮習、陳留の呉班は建平より李異等を攻め破って,軍は【姊】〔秭〕帰に次ぐと。【12】武陵の五溪蠻夷が使いを遣わしてきて兵を請うた。
- 75 :
- 【1】(錢、劉、李本では疆と作す。)
【2】(元豐本及び他の明、清諸本には皆羽の字が有る。廖本には無い。)
【3】(元豐本と廖本は「三軍」と作す。他の明、清本は「三國」と作す。)
【4】(廖本は注に云わく:「当に脱しているものが有る。」とは此を指しているのだろう。)
【5】(《飛伝》には既の字が有る。)
【6】(《飛伝》には而の字が有る。)
【7】(《飛伝》では撾と作す。)
【8】(《飛伝》は「猶も(改)悛せず」と作す。)
【9】(《飛伝》には「營軍」の二字が無い。)
【10】(顧廣圻校稿は云う:「陸遜は一名に議という。」)
【11】(廖本は秭と作す。他の各舊本は秭と作す。
《三國志‧先主伝》は云わく:「呉將の陸議、李異、劉阿等は巫、秭帰に(駐)屯した。」
《常志》と舊刻中の元豐、錢、劉、李、《函》、廖、浙本には至の字が有る。他の各本には無い。)
【12】(此の處(箇所)は元豐本も亦た姊と作す。仍ち当に秭と作すべきであろう。)
- 76 :
- 二年春正月,先主は【姊】〔秭〕帰に軍をすすめた。呉班、陳【戒】〔式〕【13】等の水軍は夷陵に(駐)屯し,江を東西の岸から夾んだ。
二月,將に進もうとすると。黄權が諫めて曰く:「呉人は悍戰(戦いにおいて剽悍であります)。而して水軍は流れに【泝らい】〔順い〕ますから【14】,進むに易く退くに難いものです。
臣請いますに先驅と為りて以って寇を嘗しましょう【15】。陛下には宜しく後鎮と為られますように。」
先主は従わず,黄權を以って鎮北將軍と為し,江北の軍を督させた。
先主は營を連ねて稍して前へすすみ,夷道の猇亭に於けるに軍すると,侍中の馬良を遣わして佷山を經らせて,五溪蠻夷を安んじ慰(撫)させた。
夏六月,黄氣が【姊】〔秭〕帰の十餘里中より見えた,廣さは十餘丈であった。
後れること十數日,呉人と戰ったところ,先主は敗績し。馮習及び將の張南は皆死んでしまった。
先主は嘆じて曰く:「吾之敗れたるは,天にある也!」舟舫を委ねると,歩道に由って魚復に還った。
將軍であった義陽の傅彤が後ろで殿と為った。【16】兵衆は死に盡きたものの,傅彤の氣は益すます烈しかった。
呉將は喩えて降るよう(命)令した。傅彤は罵って曰く:「呉の狗め!何ぞ漢の將軍で降る者が有ろうか。」遂に戰死した。
従事祭酒であった程畿は獨り江を泝(さかの)ぼって退いた。
衆曰く:【17】「後追が以って【18】至らんとしております,宜しく舫を解きはなち輕行すべきです。」【19】
程畿曰く:「吾の軍に在りて,未だ為敵之走を習わず,【20】況んや天子に従っているのだぞ乎?」亦たされるに見えた。
黄權の偏軍は孤絶してしまったため,遂に北のかた魏に降った。李異、劉阿等は先主を踵【21】躡して,南山に(駐)屯した,〔秋に至って巫に退いた。〕
先主は魚復を改めて曰く永安とした。
丞相である諸葛亮は聞くと而して歎じて曰く:「法孝直が若しも在りせば,則ち能く主上を制して,東のかた行かざら使むものを。
【既にして】〔就きて〕【22】復た東のかた行くこととなったとしても,必ずや不顛【23】危矣。」
八月,司徒の許靖が卒した。
是歳,驃騎將軍の馬超も亦た卒したが,沒すに臨んで上疏して曰く:「臣の宗門二百餘口は,孟コの為に誅される所となって略盡することとなりました。
唯だ従弟の岱だけは,当に微かとなってしまった宗(族)の為の血食之係とすべきところであります。深く陛下に託すしだいです。」馬岱の官は平北將軍にまで至った。
傅彤の子の僉を拜して左【右】〔中〕【24】郎將とした。
冬十月,詔を丞相亮にくだして南北の郊を成都に於いて營んだ。
- 77 :
- 【13】(元豐、錢、張、呉、何、王、浙、石本は戒と作す。劉本は誠と作す。李本は畿と作す。《三國志‧先主伝》は式と作す。顧廣圻校稿は云う:「後では式と作す。」)
【14】(各舊本は皆泝と訛作している。茲は《陳志‧權伝》に依って順と改作している。)
【15】(元豐と錢、劉、李、《函》本は嘗と作す。呉、何、王、浙、石は当と誤り作す。)
【16】(李本は「殿後」と作す。)
【17】(《陳志‧楊戲伝》は「或告之曰」と作す。)
【18】(元豐、錢、劉、李、廖、浙本は以と作す。張、呉、何、王、石本は《陳志》に従い已と作す。)
【19】(《陳志》は「解船輕去」と作す。)
【20】(《陳志》は「未だ曾て敵の為に走らず」と作す。)
【21】(元豐、錢、劉、李、《函》、廖、石本は踵と作す,張、呉、何、王、浙本は追と作す。)
【22】(元豐、劉、李、呉、何、王、浙、石本は並んで既と作る。錢、《函》本は帰と作る。《法正伝》は就と作る。当に就と作るべきである。)
【23】(元豐と廖本は顛と作す。浙本はK巴と作す。他の各舊本は均しく《三國志‧正伝》に依って傾と作す。蓋し李ォが改めた所であろう也。)
【24】(元豐本と張、呉、何、王、浙、石本は並んで中と作す。錢、《函》、劉、李本は右と作す。廖本も亦た右と作す,有注云「当作中」。)
【25】(《三國志》は住と作す。住は此れ則ち再挙が可能であること有るということで,故に孫權は懼れたのである。舊(もと)より在を鈔訛したのであろう也。)
【26】(劉本は大と作す。)
【27】(《楊洪伝》の殿版には「喜」と作る,宋本は「善」と作る。)
【28】(何、王、浙本は寢と作す。)
【29】(呉、何、王、石本は兵と作す。浙本はK巴。)
- 78 :
- 孫權は先主が白帝に【在る】〔住くと〕【25】聞くと,甚だ懼れ,使いを遣わして和を請うた。
先主は太【26】中大夫である南陽の宗瑋を使て命に報いさせた。
十有一月,先主は疾で寢こんだ。
十有二月,漢嘉太守の黄元は,素より亮が善くせざる所であった,【27】先主が病を疾んだと聞くと【28】,後患有るを慮り,郡を挙げて【29】拒み守った。
- 79 :
- 三年春正月,丞相である諸葛亮を成都に於けるより召した。【詔がくだされ】諸葛亮は永安に於いて疾を省みることとなった。【30】
黄元が臨邛城を燒きはらった。治中従事の楊洪は太子に啓(発)して,將軍の陳曶、鄭綽を遣わし青衣水に由って【31】黄元を伐させ【32】,之を滅ぼした。【33】
二月,諸葛亮は永安に至った。先主は謂って曰く:「君の才は曹丕に十倍す,必ずや能く國を安んじ,終には大事を定めるであろう。
若し嗣子が輔ける可きものなら,之を輔けよ。其の不才に如かば,君自ら取る可し。」
諸葛亮は涕泣して對して曰く:「臣敢えて股肱之力(つと)めを竭くし,忠貞之節を效じて,之を繼ぐに死を以っていたしましょう。」
先主も又た詔敕を太子に為して曰く:「汝は丞相と与(とも)に事に従い,之に事えること父の如くせよ。」
諸葛亮と尚書令の李嚴が並んで寄託を受けた。
夏四月,先主は永安宮に於いて(崩)殂せられた【34】,時に年六十三であった。
諸葛亮は後主に表して曰く:「大行皇帝は仁に邁(進)されてコを樹(立)し,覆育無【彊】〔疆〕してまいりましたが【35】昊天は弔さず,今月二十四日,奄忽として升遐せられました。
臣妾は號咷とし,考妣を喪ったが如くであります。
なればこそ乃ち遺【36】詔を顧みて,事にあっては【37】太宗のことを惟い,【38】百寮は哀を発すも,三日すれば服(喪)を除すことといたしましょう。
葬が到ったならば【39】復た服(喪)すこととしましょう。【40】其の郡國の守、相、令、長、丞、尉は,【41】三日したなら服(喪)を除すこととしましょう。」
五月,梓宮が成都に至った,謚して曰く昭烈皇帝である。秋八月,惠陵に葬られた。
- 80 :
- 【30】(舊各本は詔の字を衍している。当に刪剔すべきである。)
【31】(当に出と作すべきである。)
【32】(当に截と作すべきである。)
【33】(当に「禽之」と作すべきである。)
【34】(元豐、錢、劉、李、《函》、廖本は殂と作す。嘉泰本も当に同くすべきである。呉、何、王、石本は崩と作すが張佳胤の改めた所であろう也。浙本はK巴と作す。)
【35】(《函海》註は云わく:「原(もと)より彊と訛ったものである。」今廖本も亦た彊と訛作する。元豐及び他の各本も並んで同じである。《三國志》は疆と作る。)
【36】(何、王二本は遣と誤作している。浙本はK巴となっている。)
【37】(元豐及び錢、劉、李、《函》、廖本は並んで事と作る。張、呉、何、王、浙、石本は並んで是と作る。張佳胤が改めたのである也。《先主伝》と《武侯集》は並んで事と作る。)
【38】(元豐本は中と作る。浙本はK巴となっている。《先主伝》では此の下に「動容損益」の句が有る。)
【39】(元豐本,と呉、何、王、浙、石本は此の下に「期」の字が有る。錢、劉、李、《函》、廖本には無い。当に無くすべきである。)
【40】(《三國志‧先主伝》が作るには:「到葬期復如禮。」としている)
【41】(《陳志》には丞の字が無い。)
[a]ニセクロ注:それまで張飛が司隸校尉であった。
- 81 :
- 今日はここまででおんばしら
- 82 :
- 乙
- 83 :
- はい最後。
劉先主志
八
譔に曰く:【1】漢末大いに乱れ,雄桀が【2】並び起った。
董卓、呂布、二袁、韓、馬、張楊、劉表之徒の若きは,州を兼ね郡を連ね,衆は萬計を踰え,
叱吒之間に,皆自ら謂いけらくるに漢祖は踵む可く,桓、文は邁すに易いとしたのだが;
而して魏武の神武幹略によって,戡屠盪盡されてしまった。
時に於いて先主の名は微かであって人は鮮なかったが,而して能く龍興鳳舉するをえた,【3】
豫(州)に(方)伯たりて、徐(方)に(人)君たりて,翼を荊楚に假り,梁益之地に翻り飛びたつと,
漢祚を克ち胤(つ)いで【4】,而して〔與〕呉、魏【與之】鼎峙(呉や魏と之に鼎峙することとなったのである。)【5】
英才命世に非ざれば(英傑や俊才、世に天命を受けたものに非ざるなら),孰くか之に如かるに克ちえたであろうか。
然るに,曹氏を以ってして漢に替えんとすること必ずせんとするならば,宜しく信を扶けて至公を明らかにするを以ってして順うべきであったろうが,
還って名號に乎いて,義士の非とする所を為ったであろう。
其の死に寄るに及んで,何ぞ本より(天)命を作しえたであろうか。【6】
諸葛亮に於いて託孤し而して心神に貳つのこと無かった。ゆえに陳子は以為らく君臣之至公たること,古今之盛軌であったとしたのである也。
【1】(元豐と《函海》本は「讚曰」と作る。他の各本は並んで「譔曰」と作る。)
【2】(元豐、錢、廖本は桀と作る。他の各本は並んで傑と作る。)
【3】(《函海》は注して云わく「龍興鳳舉の四字は元が注で作られたものである。劉、呉、何、李本は大文と作る」。今按ずるに元豐と旧の各本は並んで大文と作る。)
【4】(元豐、廖本は克と作る、他の各本は並んで元と作る。)
【5】(旧の各本では與の字は倒下しており,並んで之の字を衍しているが。文法に於いて合わないことである。當に乙刪して正すべきである。)
【6】(顧觀光校戡記も亦た命と作る。)
- 84 :
- これにて>>1の目標達成。
俺の建てるスレは100レスもいらんかったんや!
あと最後の方になって(前回)チョンボしてしまったがもういいや。
ここに立てるおんばしらを以ってこのスレの地鎮を治め
ここまでのレスをもって神奈子さまへの信仰の証とし、
やはり神奈子さまのは最高でしたということで
このスレを終わりとしたい。
みんなありがと、ばいばい。
- 85 :
- クスコd
ログとして残してあとでじっくり読むよ
- 86 :
- まんせー
- 87 :11/01/19
- >>1
早く訳せよ
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織田ビリーブ長
捏造で伊達政宗を戦国最強天才にするスレ
正直,劉備ってどう思う?
劉備存命時に蜀が天下統一してたら劉協はどんな扱いになったの?