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2011年10月1期三国志・戦国【肥前の熊】龍造寺隆信【竜造寺】
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【肥前の熊】龍造寺隆信【竜造寺】
- 1 :11/02/04 〜 最終レス :11/12/07
- 五州太守龍造寺隆信を中心に九州周辺で起こった争乱を語るスレ。
前スレ
【肥前の熊】龍造寺隆信【五州太守】
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1203054003/
関連スレ
龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1271704721/
【世界の】鍋島直茂・勝茂スッドレ【葉隠】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1220009690/
- 2 :
- 戦死が無ければ、鍋島の台頭は無かった
- 3 :
- >>2
そうだね。で?
- 4 :
- 沖田畷隆信生存ルート
鍋島・松浦・大村が島原から南下し天草占領
家晴・隈部・阿蘇も南下して隈本・宇土占領
隆信本隊が肥後入りした後に氷川付近で島津本隊と決戦
という電波を受信した
- 5 :
- 記憶熊。
- 6 :
- で秀吉にぬっされると
- 7 :
- 大名国人の後詰めや援軍要請を無視し続けた隆信なら
島津みたいに夢見がちな戦略はとらず秀吉を受け入れそうな感じはする
- 8 :
- 秀吉と戦ってもやっぱり全滅前に降伏して、結局佐賀藩の範囲くらいに
なるんじゃない?
筑前筑後以東、肥後は取り上げて、唐入りに重要な肥前北岸も没収。
肥前西部は残してくれるかどうか。
普通に従っても筑前・豊前・肥前北部は取り上げられるだろうけど、
十分な代替地もらえるかなぁ。
長宗我部だって国替え案がキツいから戦ったわけだし、龍造寺も強いまま
ならヘコまされるのでは。
- 9 :
- >>前998
>一回目の時って同行したっけ?
>すでに出家して円月だったんで寺に残ってたと思ってた。
寺に入ってても一族皆しの適応内の可能性があったんじゃないかな。
大叔父がどうしたか知らないが。
- 10 :
- >>8
織田政権から引き継いだ外交ムードがある長宗我部とは違って
領土問題で隆信に文句言ってくる奴が居るかどうかかが最初の課題
それで沖田畷の勝ち方は結構重要
有馬・肥後衆・島津を全員取り逃がした場合、島津と泥沼継戦で後々まで尾をひくだろうし
主要人物を残らず討ち取ったら維持出来るかはともかく、八代まで文句無しに進出出来る可能性も高くなる
- 11 :
- >領土問題で隆信に文句言ってくる奴
長宗我部の場合は毛利が伊予欲しがったのが原因なんだよな。
龍造寺が大版図を維持したら、文句言うヤツがいるいないに関わらず、
筑前と肥前北部(とたぶん筑後も)が秀吉自身の唐入り構想に必要だから
没収確実。
- 12 :
- 豊前・筑前・肥前は海運の問題からして入り用だろうけど
肥後・筑後は閉塞した内海にしか(肥後は天草を考えなければ)接しておらず
どちらかというと褒賞用・戦力抽出の土地で海外戦略上の優勢順位は低い
策源地にしたいなら唐入り用の木材集積地になった豊後日田みたく直轄領に組み込む筈
- 13 :
- 肥後は佐々に遣ったくらいだもんな。
でも筑後はどうだろ?没収されたのは史実だし。
- 14 :
- >>12
閉塞した内海は言い過ぎだよw シナの船来て貿易してたんだしw
- 15 :
- 問題は海外遠征には取っても意味のない土地だという事だろ
意味が出て来るのは国内の政治状況的に何かある場合
- 16 :
- >>14
>>12が海外遠征に意味がある土地だって言ってるように見えた?
それは読み間違いだ。
- 17 :
- その肥後は小西と加藤が先鋒になったが、本来佐々が先鋒になる予定だったの
だろうか。
佐々が小西役で肥前にどこか足して加藤役かな
- 18 :
- 実際出した兵数から見るに、誰が将帥でも肥前肥後は3万人ぐらい出させる丼勘定してたんじゃないの
肥後国人一揆と島原天草一揆も龍造寺の中途半端な介入が遠因になったと思うわけ
そんでこの一揆の芽を事前に摘み取る事が出来たのは
周辺で唯一強権を発動出来る隆信ぐらいしか居ないんじゃないかと
もし生き残るならこのあたり頑張って頂きたい
- 19 :
- 一揆の危険を盾に秀吉を強請るのか。かっこいいwww
- 20 :
- 秀吉がお気に入りだった安って隆信の義娘だろ。
うまく行けば隆信と秀吉は親子関係だったのに残念。
- 21 :
- 安って波田に送りつけた小田の後家さんの事?
- 22 :
- 北肥前、東松浦・壱岐8万石が没収されるのって正式には文禄の役が始まった直後だろ
しかも波多のワガママによるもので
出兵に必要なのは正味名護屋付近ぐらいで、波多が大人しかったらそのまま龍造寺領だろ
- 23 :
- 波多は独立大名じゃなかったっけ?
- 24 :
- 波多だけがそう思ってただけで体外的に東松浦も龍造寺領
そうなったのは鍋島の謀略みたい話になってるけど
だいたい松浦党がうじゃうじゃしていた上松浦を波多の下に一元化(義娘と孫を送り込んで)したのが隆信だし
- 25 :
- 豊臣政権が波多を龍造寺の下に位置付けてるなら領地没収の権利あるのか?
波多に直接指示出したり。
形式的には龍造寺が統制できなかったことも手落ちだから、豊臣としては
龍造寺を減封して龍造寺はその分波多を取り潰しって形?
- 26 :
- 独立支藩と似たようなもんだろ
幕藩体制ほど厳密なものじゃないだろうけど
- 27 :
- 龍造寺藩31万石
波多藩8万石
鍋島藩5万石
があって有事の時は一緒に龍造寺家として動けよ、と
鍋島藩が龍造寺藩も動かしていたから奇妙な関係に拍車がかかってるけど
結局波多分の足りない兵は鍋島が余計に軍役負担して補ってたしね
- 28 :
- 鍋島の余計な軍役負担は龍造寺一門の分かと思ってた
- 29 :
- 波多の騒動のすぐ後に江上家種が釜山で戦死したのもデカいんじゃない? >鍋島の余計な軍役負担
- 30 :
- 平戸松浦5万石
有馬5万石
大村2万5千石
宗4万5千石
これも龍造寺として動かせたら江上も死なずにすんだかもね
龍造寺のは急造水軍だったし
- 31 :
- 目指せ龍造寺外洋艦隊
- 32 :
- 江上家種の領地って秀吉が知行割りした時、養子の伊勢松(勝茂)が9千石を相続して
残り千2百石が家種の隠居分になってたね。
- 33 :
- 江上の領地って普通に考えると鍋島の神埼郡ともろに被るんだよな
佐賀城⇔蓮池城の交換の時一緒に領地の入れ替えでもやったんだろうか
- 34 :
- 城下町なんて無いし家臣も全員地方領主な時代だから
領域的なものじゃなくてどの家臣が誰の幕下に居るかで考えないと
まあ自分には分からない
- 35 :
- 三根郡と藤津郡の一部だったと読んだことあるけど定かではない。
因みに家種の隠居分は2人の実子(佐野、勝山)が相続したらしい。
- 36 :
- 三根と藤津だと横岳と鍋島信房の領地なんかもあるね
- 37 :
- 文禄初頭の政家配下なら家種と家信が最大級の領主だろうけど軍役負担分がどの位だったのかがね
- 38 :
- あ、文禄だともう政家は隠居してるから高房配下になるのか
- 39 :
- 最大は家晴の諫早じゃないのか?
- 40 :
- だから最大『級』
隆信の息子達で一番動いてたのは家種だから
軍の指揮権力は強いと思うんだけど・・・
なんか家種の立場が微妙で
- 41 :
- 薩摩・大隅・日向諸県・奄美・琉球
肥前・筑後・肥後玉名・壱岐・対馬
すごくバランスがとれてる
- 42 :
- 龍造寺となあなあ関係だった松浦・大村・宗が独立を保ってて
あれやこれや画策していた連中は飛ばされるか、中央派遣組の下に取り込まれたのがなんとも皮肉
- 43 :
- 肥大化した龍造寺と和を結べば安全が保障される末端地域と
それ以外の回廊地域との違い
- 44 :
- 山内神代領は富士・三瀬・背振
- 45 :
- 神代の領土拡大(筑前方面)も、普通に考えれば大友傘下の小領主を食い荒ら
したんだよな。大友の獅子身中の虫は龍造寺ばかり目立つけど。
- 46 :
- 元々が少弐領だったとこを大友がハイエナしに来てるんだから仕方ない
- 47 :
- 1550〜60年頃だとまだ少弐VS大内の色が強く残っていて
大友の勢力は博多の大友五城周辺以外は筑前にも浸透してないと思うよ
- 48 :
- 1555年に隆信から三瀬を奪われた勝利が志摩の原田から援助してもらって
怡土郡長野に陣所を移し隆信が引いた隙に代官を討って三瀬を取り返してる
神代は志摩と怡土方面の豪族とは懇意だったみたい
- 49 :
- 神代って山賊の大親分というか、中世の悪党みたいな勢力だったんだと思う。少なくとも勝利の代までは。
- 50 :
- 早い話が神代党は少弐に雇われていた傭兵集団だと
- 51 :
- 神代って名乗るのに覚悟要らんか?
神の代って。
- 52 :
- 神代の云われは神代氏が言うには正に『神様の代わり』なんだけど、
隈代や熊代と表記していたのを神代に変えたのは三瀬に拠点を構えた後の勝利だろうし、
夢買いの逸話を信じるならば決意表明的なものではある。
後個人的には、神代に名を変えたのは拠点が神埼郡の三瀬だったというのも大きいと思う。
神埼の由来が神幸(カムサキ)でゴッドブレス的な意味だから。験を担ぐ意味でも。
- 53 :
- 神の代わりに勝利する男
クマ代大和守勝利
肥前のクマ
龍造寺山城守隆信
- 54 :
- >>51
「しろ」には「〜に捧げる米をとる田」という意味もある。
神田、コウジロと同じように、神社に奉納する田の地名だろう。
- 55 :
- ややこしいのは島原半島にも神代(コウジロ)という地名があってそこの神代城に神代氏が居た事と
直茂の兄が鹿島から島原の神代に移ったのと、神代(クマシロ)が山内から川久保に移ったのがほぼ同時期な事
- 56 :
- それがどうややこしいのかすらわかんねorz
- 57 :
- 隆信と勝利の最大の総力戦は永禄4年の川上合戦だと思うけど、この時の軍勢を見ると
隆信勢8千で勝利勢が7千8百とほぼ互角だったんだね。
- 58 :
- 神代がそれだけ人数をもって来れるのが驚き
山内兵は4000ぐらいなんだろうけど残りはどこから引っ張ってきたのか
- 59 :
- 綾部や馬場の一部が神代に加勢していたと考えられなくもない
少弐系の残党ならまず神代を頼るだろうし
- 60 :
- 龍造寺対神代も龍造寺対有馬連合も
肥前で一番強い奴は誰だ!? ってのを暫定的に決める為の戦いで領土の奪い合いじゃないんだよな
- 61 :
- 龍造寺対神代は一旦神代が波佐見まで逃げているのをみても、領主権の奪い合いではあるだろ
すぐに神代が戻って来るのをみると領主権=支配といえる程のものじゃ無かったんだろうけど
- 62 :
- 波佐見まで逃げたのに僅か3ヶ月で山内へ舞い戻るとは只者じゃない
- 63 :
- >>60
中世的な戦いと言うか、負けても領主がそのままみたいな戦いだよな。
そういうのを決めたら勝者はどんな利益を得たの?
- 64 :
- 絶対戦争論でいう所の拡大された決闘だな
つまるところ勝者が得るのは信用
- 65 :
- 絶対はいらない
戦争論だけでないと意味が通らなくなる
- 66 :
- 龍造寺の戦闘はかなり決闘な印象が強いね
挑戦状はよく出すし、負けたら一旦は大人しくなるし
- 67 :
- >>63
負けた奴の手下の領主が、みんな勝った奴の手下になる
九州ではよくある光景
- 68 :
- 勝者の総取りと、そう単純に済まないのが難しいとこ
- 69 :
- 龍造寺と島津と秋月の急膨張は、大敗した敵国に攻め込んで、
片っ端から国人を無血降伏させてったからなんだが。
- 70 :
- 決戦志向でも挑戦状送りつけて戦域を指定するのは理に適ってる
後詰め決戦なんて戦略的には下策だし
- 71 :
- 63年の龍造寺と有馬連合の合戦後
有馬は当主の蟄居や杵島郡の事実上の失陥があったり
敗者に血を流させるというのも当たり前に重要な事だね
- 72 :
- 永禄六年(1563)龍造寺側から見たら丹坂峠の戦い(隆信が有馬を撃破した場所)
有馬側から見たら百合野合戦(有馬が最初に陣を構えた場所?)
永禄四年の川上合戦もだけど隆信が事前調略で敵を誘導し撃破した、と戦史ではなってる
- 73 :
- >後詰め決戦なんて戦略的には下策だし
詳しく
- 74 :
- 攻撃側が後詰決戦したら援軍に挟まれて基本不利だろ
- 75 :
- 挟まれる前に移動して後詰め軍を出迎えるもんじゃないのか?
あぁ、少なからず城側の手当が要るから確かに不利か。
- 76 :
- 北肥戦史で隆信が勝利に宣戦布告する行
永禄四年辛酉九月上旬、龍造寺隆信、使を山内へ遣し、神代勝利へ申されけるは、隆信、御辺に対し鬱憤片時も止む事なし。
所詮有無の一戦を遂げて、両家の安否を極むべし。
然れば今月十三日、山と里との境なれば、河上へ出合はれよ。
勝負を決し申すべしといひ送られけり。勝利、仔細に及ばずと返答あり。
其後、又勝利よりも、河浪駿河守を龍造寺へ差遣し、弥々当月十三日、河上に出合ひ勝劣の程を試み候べしといひ遣されけり。
斯くて其日になりしかば、勝利、熊川の城にて勢を揃へ、都合七千余騎河上に出張し、手分を定めて口々を差固む。
- 77 :
- >>75
普通に考えりゃ相当不利よ
城方の後詰めに連絡線を遮断されないようにしつつ決戦場を設定しなきゃならん
って時点で前後に意識を注がんとならんくなる
ヘタすりゃ寄せ手が飢えるしね
後詰の来援で城方の意気があがれば城から出撃される可能性も高くなるわけで
こういう物質的な面だけじゃなく精神的にも圧迫されると、動揺しやすいのは
大多数を占める兵卒やら雑兵ってことで単純な戦闘力の低下も否めない
こういう死地で兵に死力を尽くさせるのが名将なんだろうけど
- 78 :
- >都合七千余騎河上に出張し、手分を定めて口々を差固む。
手分(布陣)はどうしたんだろか
- 79 :
- 神代が熊の川城を中心に陣を敷いて
龍造寺が古湯城を中心に陣を敷いた
ぐらいしか分かんね
んで川上は隆信の爺さん兄弟や叔父さんが勝利にぶっされた所でもあるのよね
因縁を感じるよね
- 80 :
- そりゃ三瀬峠と川上はセットで交通の要衝だから
- 81 :
- 守る側が交通の岐点を塞ぐのも当たり前の話。
- 82 :
- >>78
神代勢
河上與止日女社西の総門に勝利本陣を構え三瀬武家、同安家、古河真清、畑瀬盛政など二千余
大手宮原口へ嫡男長良を大将に叔父蕃元、福島利高、千布家利など三千余
南大門口へ二男種良を大将に松瀬宗楽、杠紀伊守、合瀬、芹田などの一千三百
河上川の東の都渡城へ三男周利を大将として八戸宗暘、西河、古湯、鹿路などの一千五百余
龍造寺勢
大手宮原口へ隆信の旗本勢三千五百余で第一陣は広橋一祐軒、第ニ陣は福地信重、三陣が隆信本隊、殿軍は弟長信
南大門口へは納富信景を大将とするニ千五百余
都渡城へ弟信周を大将として、従弟鑑兼、小川信友などのニ千余
結果は神代方に裏切りが出て隆信が大勝 勝利の二男種良、三男周利が戦死し
勝利自らは大村領の波佐美村まで落ち大村純忠の庇護をうけていたらしい
- 83 :
- やっぱり数字は誇大なんだろうなぁとしみじみ思う。
神代方の名字なんて脊振山地の地名ばかりで、あの山の中から兵7、8千
なんて出せないよなぁ。
- 84 :
- 守勢側だって事で無理やり動員しているとしても
その半分以下ぐらいが妥当な数字かな
少弐方の敗残兵を一時的に吸収して下につけているならもう一声増やせるかも
- 85 :
- 隆信方の八千もないな。数年後の村中城篭城の時だって五千が精一杯だったから
隆信四千、勝利三千ってところだろか
- 86 :
- 戦争すっぞ!ってお触れ出したら筑後あたりからも人が集まってたみたいだしな
大隈重信の家系もそれっぽいし
- 87 :
- >>85
永禄十二年の時は隆信の旗本譜代だけで戦ったんだし
東肥前諸将の大半が降っている永禄三年時がそれより下って事はないな
- 88 :
- ちょっと気になるのは三瀬側を背(東)に布陣している筈の神代勢が
三瀬にも撤退出来ず波佐見(西)に落ち延びている事
- 89 :
- 龍造寺の追撃が厳しくて北の峠超えて筑前に入ったんじゃないの
そっからなら原田領→草野領の唐津街道で陸路からも行ける
- 90 :
- 谷田合戦(弘治元年)では三瀬城まで追撃されたから反対の方へ落ちたんじゃないかな
この時は高祖城主の原田了栄入道を頼ったらしい
- 91 :
- なるほど、川上合戦の時も谷田合戦時と同じような落ち延び方して伊都に来た
川上合戦の時は伊都から更に波佐見まで落ちていった…とするとしっくる
- 92 :
- 広橋一祐軒(信了)は川上合戦でも武功一番、佐嘉城防衛でも一翼を任せられてる叩き上げの主力部将なのに
須古攻めなんかで失って勿体無かったね
- 93 :
- >>88
味方の裏切りで退路を断たれた、ってのは?筑前に逃げられたなら筑前に
いればいいかなぁと。
- 94 :
- > 筑前に逃げられたなら筑前にいればいいかなぁと。
前回と同じところに居たら龍造寺の追撃が来ないとも限らないでしょ
龍造寺に原田への介入機会をみすみす与えるようなもの
あと原田が波多と関係悪いってのも関係してるかも
有馬・大村・波多の親族連合が出来そうな時期だし
- 95 :
- 永禄3年だと龍造寺は三潴の堤に築城の手伝いを派遣してる
大友からの要請で有馬の東肥前への再進出も同時期
龍造寺の活発化と大友の締めつけが強化され始めた時期だし
弘治年間とは原田側の事情が違ったのかもね
- 96 :
- 久留米にも進出してるね。直茂(信昌)はこの頃から筑後方の担当だったみたい。
- 97 :
- 与止日女神社は川上の西側だから
北
山山山山山
2河A
1 川
西 3川B 東
川
川4
川C
南
1勝利隊 A隆信隊
2長良隊 B信景隊
3種良隊×C信周隊
4周利隊×
龍造寺の本拠地は戦場の南
神代の本拠地は戦場の更に東
たぶんこんな感じ
- 98 :
- ついに龍造寺スレからAAが
- 99 :
- >>97
その図なら普通に潰走して西へ逃げたって事になるな
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小早川隆景 VS 直江兼続 Prat2
孔明の罠
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