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2011年10月1期三国志・戦国劉備の時代に諸葛亮が低い身分でありつづけた理由 TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼
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劉備の時代に諸葛亮が低い身分でありつづけた理由


1 :11/05/11 〜 最終レス :11/10/20
なんでかな

2 :
お前も身分低そうで何より

3 :
糞スレよ、私は帰ってきた!

4 :
>>1
三戦からでてけよカスwww

5 :
亮スレの予感
このスレはのびる

6 :
劉備の時代から丞相だろ

7 :
とりあえず諸葛亮が叩けりゃなんでもいいんだろ

8 :
なんでだろう

9 :
連名で名前が出る時は、劉備譜代中じゃ縻竺の次の序列なんだけどな。
関羽や張飛よりも上。

10 :
>>1
どのエロゲだよ

11 :
劉禅の陰

12 :
諸葛亮より縻竺や孫乾の方が上。
縻竺「控えろ!孔明!!」
孫乾「失せろ!孔明!!」
って感じ?

13 :
>>9
漢帝推戴時の序列はまだしも,漢中王推戴時の序列は不可解だけどね。
魏みたいに碑として残っていないから,序列が正確でない可能性がある。

14 :
そんなに好きじゃなかったんだろ。
士元ちゃんが生きてたら士元ちゃんが丞相

15 :
>>13
中央ともつながりがある客分格の大物
平西将軍・都亭侯 馬超(関中の大軍閥)
左将軍領長史・鎮軍将軍 許靖(名士中の名士で、故の御史中丞)
営司馬 ホウ羲 (故の議郎で劉璋政権の最大の実力者の一人)
議曹従事中郎・軍議中郎将 射援(三輔の名族で皇甫嵩の娘婿)
劉備譜代の宿将
軍師将軍 諸葛亮(行政実務の最高責任者)
盪寇将軍・漢寿亭侯 関羽(荊州の軍政の最高責任者)
征虜将軍・新亭侯 張飛(関羽と並ぶ宿将中の宿将で、益州の軍の中で最も信頼できる将)
外様のローカルレベルの有力者
征西将軍 黄忠(旧劉表軍の実力者で劉備の信任も厚い将)
鎮遠将軍 頼恭(荊楚の名族で、かつては交州刺史を務めた旧劉表軍の重鎮)
揚武将軍 法正(益州攻略最大の功労者で、首都圏の蜀郡の軍政を掌握する出頭人。劉備の寵臣でもある)
興業将軍 李厳(劉表・劉璋の下で県令を歴任し、荊州人士・益州人士の両方に顔が利く実力者)

16 :
>>15
諸葛亮以下は特に変ではないし,馬超と許靖が別格なのは分かるのだけど,
龐羲や射援が入っていて劉璋や麋竺が入っていないのはどういうことなんだろ。

17 :
>>16
劉備配下の要人全員が名を連ねなければいけないってわけでもないでしょ?
内外に「こういう人が劉備に漢中王になってほしいって思ってますよ?」ってアピールね。
ホウ羲は劉璋軍の中では頭一つ抜けた実力者で、なおかつかつては議郎という高位にあった。
劉璋旧臣の代表という立場と、元朝廷の高官というネームバリューの両方を買われたんだろう。
射援は三輔の名族で、皇甫嵩の娘と結婚できるほど毛並みが良い。兄弟で名声が高い。
若手名士代表ってところかな。
麋竺は州吏あがりで家柄も名声もイマイチ。
正式に賜った官位は、曹操の肝いりで受けた二千石や偏将軍にすぎず、関・張と大して変わらない。
宿将枠で入れるなら、社会的地位では同格で、なおかつ名声が天下に轟いてる関・張を入れれば十分。
客分枠なら、曹操とは無関係に正式な官位を受けていた朝廷の高官ホウ羲や、家柄と名声がある射援を優先すべきだろう。
劉璋?入れたらさすがに白々しいのもいいところだw

18 :
>>17
表そのものは120人も名を連ねているのだし,
宿将やら客分やらの人数枠なんて考慮するような話ではないと思うのだが。
あと劉璋入れたら白々しいって,龐羲や射援も事実上何もしていない。
漢中王自称を公表するような白々しい上表で気にするのだろうか。

19 :
>>14
丞相:ホウ統
尚書令:諸葛亮
軍師将軍:法正
ぐらいになったんじゃないかな。
史実見ていても諸葛亮は戦略家・行政官って感じだし、戦術家として同行したホウ統や謀略家のイメージが強い法正がいれば
少なくとも軍令のトップの座にはついてないと思う。
ホウ統・法正がいる間は主に後方支援が担当だったし、地位が低いのも当然。

20 :
>>19
それだったらわざわざ曹操が復活させた丞相なんて置かずに,
その3人を三公にすればいいのでは?

21 :
>>20
そうなると
太尉:ホウ統
司徒:諸葛亮
司空:法正
ってとこか?
政戦両略に通じていたとされるホウ統を軍事専門にするのはもったいないし、
法正と軍部の間にも距離ができる。
なにより、法正を司空という監察長官につけることがどれほどリスクがあることか……
この辺りを考えると、ホウ統は政治・軍事両方の指揮権を握る丞相につけ、
法正は軍務謀略に、諸葛亮は行政にそれぞれ専念させるのが妥当かと

22 :

もし、法正が長寿だったら、三国志のストーリー自体変わって、
一般的に三国志で最も有名な天才軍師は法正になってたのかね?
今、みんなが孔明、孔明騒いでる人名も法
今頃は考直、考直騒いでたのかもしれんよね?

23 :
諸葛亮が本格的に軍を率いたのって、徐庶・ホウ統・法正・馬良・黄権といった正軍師候補がみんないなくなってからだからな。
全員そろっていれば曹操軍の郭嘉・荀ケ・荀攸・程c達軍師陣と並び称されるような
優秀な幕僚団になったんだろうけど(その代わり個々の実績は薄れるが)、
次々と死んだり投降したりした挙句、気がつけばマトモな将帥候補は軍才が微妙な諸葛亮しか残ってなかってのが実情だろ。
法正が生きていれば、まず夷陵の戦いが起きない。法正は蜀侵攻の功労者だけに、生前の蜀内でも劉備に直接意見できる位置にいた。
そうすれば、病死の劉備はわからないにしても張飛は生き残る。夷陵で死んだ第二世代武将も生存、馬良・黄権も健在の体制となる。
蜀軍が壊滅状態でなければ、史実のように軍備増強に時間を費やすことなく南蛮蜂起をすぐに討伐できる。
史実ほどの激減がない精兵、第二世代武将の生存、次期副軍師格(馬良・黄権)の健在、そして曹操本人から感心される正軍師法正。
これだけあれば北伐でもだいぶましなことが出来る、というところまでが連鎖的にほぼ確定する。
ホウ統が生きていた場合は更に恐ろしい。
劉備は内政担当として諸葛亮を成都(中央)に置く。法正は漢中方面(対魏戦線)の軍師に就任する。
ならば、ホウ統はどうなるか。残るポストは荊州方面軍(対呉戦線)軍師だろう。
ホウ統は呉に仕えていたこともあり、当時呉の軍師だった魯粛自身が劉備に推薦した経緯がある。
さすがの魯粛も手が出せない状況が出来上がる。ホウ統と関羽が揃えば呂蒙・陸遜とも対等に渡り合う可能性すらある。
すなわち、関羽戦死・荊州失陥が起きない可能性が出てくる。
ここまで来れば妄想と言われても仕方ないが、これらの人材がいたからこそ諸葛亮が高い地位につくことはなかったとも言える。

24 :
司馬懿が活躍しだすのも、郭嘉・荀ケ・荀攸・程cらがいなくなってからだよな。
北伐では余った2流同士の競り合いだったということか。

25 :
劉備の呉攻め自体は別におかしい計画ではないから
法正が反対したとも限らないんじゃないか
孔明の「法正がいれば」っていうのも負けてからの
後出しの意見だ。
そもそも法正って性格キツいから劉備の調整がないと
うまくやっていけないんじゃね。トップにたったら
嫌いな奴スポイルして人材枯渇させるか、恨まれて
足すくわれそう。スケールでかい楊儀みたいなもん
孔明は真面目で処世が上手いところも買われたんだろう

26 :
>>23
諸葛亮の官位は一定して武官位か、武官も兼ねる丞相のような特殊なもの
もしくは将軍の幕府における属官、文官位は基本的に武官位のオマケ扱い
蜀政権下においての扱いは軍事畑の人な
あと最初に記述の残る部隊指揮はホウ統生前な
劉備が益州の綿竹で劉璋軍の主力を打ち破った後に
張飛、趙雲と同格の部隊長として前二者と別行動で各地の制圧をしてる
ま、劉璋軍の主力はそのままラクに後退して1年の攻城戦の間に
ホウ統を射したりしてるが、俯瞰的に見れば主力がラクに拘束されてる間に
各地を制圧されちゃってるわけだから、1年掛かったと見るか1年掛けたと見るかは人それぞれだが

27 :

法正が劉璋の元で長年使えても重用されなかったボロが見え始めてきたね。
郭嘉を愛用した曹操なら使いこなせたかもしれないが、仁だ義だと五月蝿い劉備の元では相性が合わずに遅かれ早かれ左遷されそうだな。

28 :
劉備と法正はウマがあったんだが
曹操は初期人材が足りないときは気に入らない人間でも
才能あれば使ってた。後に余裕が出てきたあとは
荀イクでも冷遇したわけで、郭嘉だって生きてれば
どうなったか分かりゃしないよ

29 :
>>26
軍事畑にも二種類あってな、関羽や魏延のような軍令畑と楊儀のような軍政畑にわけられる。
兵站などの裏方に徹していた諸葛亮はどうみても軍政畑の人間で、軍令がやや不得手だったのは周知の事実。
蜀侵攻戦でも諸葛亮は基本的に後詰を張ってたようだから、戦術的軍令にはほとんど口を出していないはず。

30 :
法正が長生きだったら…それだけでもロマンだな

31 :
>>29
見事に分遣された制圧部隊を率いて各地の制圧しとる
後詰なんてどこにも書いて無い
また、諸葛亮の自己評価は「自分は戦場の指揮は上手いが、政略は下手」だぞ

32 :
>>31
たしかに、後詰の話は勘違いだった。
だが、諸葛亮の自己評価って、劉巴を評価したときの
「軍の天幕の中で策略を計算することには私は子初(劉巴)に遠く及ばない。
 私はただ、太鼓を持ち鉢をとり軍門に立って指揮し、百姓をして勇気を持たせる。
 このことについてなら人と競うことができよう」
って趣旨の奴か?
この評価から読み取れるのは「戦術・謀略は苦手、大将として百姓を統率することなら得意」ってとこだろ
百姓に勇気を持たせて軍を形成するという軍政の仕事は得意だが、戦術指揮などの軍令は劉巴に及ばないって
告白してるように読み取れるのだが

33 :
>>32
軍門は陣地の前のこと、前線、戦場
当時は「太鼓」は進軍の合図、戦場の指揮
百姓をして勇気を持たせるってのは民兵でも勇気ある兵士として戦わせるってこと
戦場での指揮は人と競える(自信ある)の意味

34 :
>>33
ようするに、統率力が高く兵法の常道に則った指揮は得意だが、法正や曹操のように奇策を練るのは苦手ってことか。
陳寿の評価そのまんまだな。

35 :
原文だと「運籌策於帷幄之中」
訳すと「帷幕の中で「策」を計画して(必要なものを)工面するのは」
大事なことはこの発言が「劉備が漢中王以前の将軍位だった時のもの」ということ
つまり「帷幕の中」は「左将軍の幕府の中」ということで、
これを「軍の天幕の中」と訳するのは不適当だと思われる
そこを踏まえると「(左将軍が行う幕府の)政治の策を練るのは」という意味になる

36 :

     もし、曹操と法正が組んでたらどうなってただろう

37 :
>>36
法正って上司の機嫌とるの上手いっけ?
空気読めなきゃ許攸みたいになるな

38 :
じゃあ郭嘉は?

39 :
法正を劉備に取られたのは痛かった、と曹操自身の発言があったような

40 :
劉備に法正がついてると面倒なのは確かだろうけど
だからって曹操自身が重用するかどうかは別だろう
なにしろ魏は層が厚い
しかも蜀出身でコネのない法正が後発で入っていって
政治の中枢まで行ける可能性は低い
徐庶ぐらいがせいぜいじゃないの?

41 :
徐庶は寒門出身とは言え曹操軍閥の中核を為す潁川郡出身者
同郷のつながりってのはこの時代大きい

42 :
ということは徐庶が最強?

43 :
徐庶だってかなりの条件に恵まれてのあの位置ってことだよ
「徐庶くらい」と軽々しく言うなってことだ

44 :
そうはいうけど石韜は徐庶より出世してる(潁川郡出身だし
徐庶より生まれが良かったの可能性はあるが)。
法正が曹操のところへ行くとなれば劉備についた場合と
同じく蜀を手土産にした可能性が高いわけで
徐庶くらいはライバル視してもいいだろw
実際実績残してる法正と違って、徐庶の能力証明するのは
孔明の言葉だけじゃなかったっけ?
スレに則した内容に戻ると孔明の人物評価能力は本当に
信じられたのかって問題だな

45 :
>>40
魏は層が厚いから重用されないだろうって意見があるけど、関羽はヘッドハンティングされて曹操に仕えた時に重く用いられてるじゃん。
法正や孔明、ホウトウも重用されるっしょ?
徐庶は最初からヤル気が無かっただけで。

46 :
高名な人物なら使われることもあるだろう
関羽は曹操についた時すでに有名な将軍だった
徐庶は劉備のもとで何を成したかわからない
法正は名が売れた時すでに死期が迫ってる
孔明だって無名状態で曹操のところ行ったら
大して出世できなかったはず。それもあって
出世できそうな劉備のところを選んだんだと思う

47 :
>>46
曹操だったら才能さえ認めたら重用するだろう。
しかし当時の諸葛亮が直接曹操から評価されるのは難しいから,
才能を認めてもらうために下っ端としての実績を残す必要がある。
プライドの高そうな諸葛亮に下っ端が務まるかといえば疑問だけど。

48 :
曹操が才能を認めて抜擢する例って言う程多くないけどな
求才令とか求賢令とか言われてる布告も結局事実の追認のようなものだったし
基本的には門閥の延長の人選だよ

49 :

     才能抜擢主義は、むしろ劉備か?

50 :
>>48
曹操陣営の幹部クラスは荀ケが推挙してきた武将ばかりだしな

51 :
>>49
荊州以前は文句ナシでそうだな
正確には名士層で劉備に全霊で仕えようなんて物好きが滅多に居ないから、
才能か相性くらいしか抜擢する基準が無かった訳だが

52 :
関張に隠れがちだが、挙兵以来大事にしてた少年兵が田豫だったってのもパネェ
やっぱ人を見る目は凄かったんだろうな

53 :
じゅんいくって、だんだんと、出なくなってきたけど
どうして?2部なんてほとんど出てないよね。

54 :
>>53
微妙にスレチ

55 :
>>52
正直義弟のどっちかの代わりに田豫がずっと随行してくれた方が、
劉備の為になってた気がする

56 :
>>46
諸葛亮が無名ってのは無いだろ。
荊州の名士・司馬徽の門下生だぞ。
諸葛亮から伸びてる糸をたぐれば荊州の人材が芋づる式に掘れるし、
現に劉備の下にはそのコネを使って人材が集まってる。
関羽は、曹操に降伏した時点では劉備の一部将でしかなく、有名でも何でもない。
ただ劉備一門が曹操の下にいた時点に交流もあったろうから、
その縁もあって重用されたんじゃないか。
徐庶の官職である御史中丞は皇帝の側近の筆頭で、
州刺史や朝廷内の官吏を監督し、皇帝に関わる文書を検閲する役職。
大して出世してないどころか、大出世してるよ。
ただ実質的に蜀の全権を握るにまで至った北伐時の諸葛亮自身と比較して
知人が思ったより出世してないように見えただけで。

57 :
司馬徽の門下生の中でも諸葛亮は群を抜いてた存在だしな。
魏で埋もれた何人かの司馬徽の門下生らとは出来が違う。

58 :
>>56,57
根本的なことだけど、正史では諸葛亮と司馬徽の師弟関係は明言されてないぞ。
向朗伝で言及されている司馬徽門下生は向朗・徐庶・韓嵩・ホウ統で、諸葛亮が門下生だったかどうかは不明。
演義では司馬徽が伏龍・鳳雛について劉備に教えることになってるが、実際は徐庶の推挙。
伏龍の評価についてもホウ徳公の鑑定。
以上のことから、交友はあったかもしれないが司馬徽門下だったかどうかの証明は不可。
それでも人脈は確かにあっただろうね。
諸葛亮自身は徐州出身だけど妻・月英さんの実家の黄家は蔡瑁の姻族、つまり名士・豪族の親戚。
徐庶や崔州平とも交流があったことから、司馬徽門下生ともある程度のつながりがあった。
無名かどうかだけど、無名だったんじゃないかと思う。
いくらホウ徳公から高評価を受けていてもその影響力は荊州内ぐらいの物だろうし、
初期の諸葛亮は外交官や行政官、戦略家としての活躍だから表には出にくい。
蜀侵攻・南蛮戦はあくまで地方戦であって、対外的に将として認知されたのは北伐以降。
そもそも7年も新野を治めていた劉備が徐庶に言われるまで知らなかったって時点で有名ってのは無理がある。

59 :
蕭何 孔明
張良 馬良・法政・簡雍
韓信 ホウ統
って役割じゃないか

60 :
孔明の人脈って劉備にとってはそれはありがたいものだったと
思うが、そろそろ孔融さえ斬れるようになった曹操は
そこまで人脈作りに力いれてないんじゃね
才能や知識も大事だけど、経験や責任感から得るものは多い
その点で劉備の下の人間は経験値伸ばしやすかったと思う
孔明が魏にいったらあそこまで才能を伸ばせたかどうか
反対に魏は層が厚いというが、部下の人数に比例して
有能な(即使える)人物が多いわけではないと思う

61 :
>>58
曹操の配下は、最低でも州郡の中でも指折りの名士ばかりだもんな
天下に名を知られてる名士も少なくないし
少なくとも、荊州の若手の有望株として注目を集めてるぐらいじゃないと、
諸葛亮の名前は曹操の耳に入らないだろうな

62 :
諸葛亮はただの司馬徽門下の書生だぞ
行政手腕というがこの時代はネットや郵便なんてないからな
当然大衆の顔役への説得と面識が重要になる
ずっと地元の荊州に入れば別だが益州ではそんなもん発揮できまい
そもそも益州は全くの侵略だし仁義のかけらもない侵略してんだぜ
反感持ってる民衆がロジックだけでついてくるわけがないので
戦に負けた軍人は別として文官のほうは益州の人間しか評価されんだろう
そもそも諸葛亮は(多分実子だった)劉封を害して劉禅を太子にした人
劉禅が即位してからじゃないと評価はされなくて当たり前
諸葛亮を一番評価し信頼したのは劉禅だけだと思うぞ

63 :
>>62
だから、司馬徽門下という記述すらないんだって……
益州内で影響力が発揮できない自覚があったから、荊州人やそれ以前の家臣団で中央を固めて補強、
その後仁政をしくことで徐々に懐柔するしかなかったんだろうな

64 :
>>63
実際に司馬徽が就職の世話してんだから実質は間違いなく門下生だよ
三顧の礼をどんなのだと思っているのか知らんが
劉備が当時の名士であり学者である司馬徽の推す人物がどんなもんか話を聞きに行ってるだけだろ
そしてようやく三回目に劉備が採用を決めたってだけ。孔明が断ったとか言う記述のほうがない
そもそも若い小生が士官を望んでいなかっただのは有り得んだろうに
この時代、教え子の就職の世話すんのは当たり前
また名声を得るために世間に自分の噂を流してもらうってのも当たり前
乱世の奸雄、知性の能臣も金払って買った名声であることは明らかなのに記述がないから違うというのか?
お前の理論では記述がないから時代考証は無視しろという話になる

65 :
>>64
襄陽記では確かに司馬徽が推挙したように書かれてるけど、正史の本文では徐庶の推挙。
徐庶が「将軍自身が来訪されたほうがいい」と発言しており、その直後には「三度の訪問のあげく、やっと会えた」との記述。
「孔明は二度断った」なんて記述はないしこっちも言ってない。
そもそも「劉備が三回とも諸葛亮に会えた」なんてどこから出てきた推論なんだ?  記述通りなら不在だったはずなのに。
「記述がないから〜」と批判しているが、記述を無視して独自考証をするのはもはや三国志研究とは言えない。
仮に門下生だとしたら、向朗伝の記述はどう説明するんだ?
司馬徽が推挙したと書かれていた同じ襄陽記からの注なのに、向朗と親しかった司馬徽門下生の中に諸葛亮の名前はない。
徐庶やホウ統と親しかった向朗が諸葛亮と親しくなかったというのはそれこそ考えにくい。
ホウ統・向朗伝にはそれぞれ司馬徽との繋がりが明記されているのに、諸葛亮だけはのどの伝にも
「司馬徽に師事・司馬徽門下」とは書かれてなく、ホウ徳公を中継しなければ司馬徽とはつながらない。
劉備が司馬徽から聞いたという記述を信じるとしても、自分の門下生からしか選ばなければならないというわけでもない。

66 :
>>65
襄陽記をまるっと信用すればそうなるな。
襄陽記ではそういう記述があるのは確かだが
正史自体には司馬徽が名前を教えたとある。
どっちが正しいかはなんともね。
あとはまあ司馬徽門下の人間と共に学んだというのをどう取るかだな。
まあ司馬徽が推挙したとすると推挙する理由としては門下だったからしかなさそうだ。
孔明はまだ有名じゃないからな。推挙できるだけの理由がないとは思う。
孔明に関しては謎が多すぎる。独学で学んで名声を得たのだろうか。
それとも嫁の親父の黄承彦が名士だったからというだけで
名前が売れて登用されただけなのかも知れない。

67 :
>>66
誤解を生む書き込みは慎んでほしい。
襄陽記(正史注釈)に書かれているのは「司馬徽推挙説」であり、正史本文中には「徐庶推挙説」が書かれている。

68 :
>>67
ごめん。間違えただけ。

69 :
どっちかと言えば孔明は司馬徽よりはホウ徳公門下つうか舎弟格だった気がするが
そうなら司馬徽門下でなくても門下の連中と繋がりがあるのは当然だし

70 :
おしっこしたい

71 :
>>70
放尿我慢してまで必死に熟読してたんですね
わかります

72 :
>>66
嫁さん関係で名を売って仕官の流れなら劉表に仕えるのが自然だろう
ホウ徳公や司馬微との関係で名を売って、結果名士黄家の嫁ゲットの流れだったんじゃね

73 :
そうなんだよな
孔明の嫁選びの話を聞くと
陳平が金持ちの高家と結婚したのと変わらん気がする
どう考えても出世の肥やしにしてんだろ

74 :
>>66
諸葛亮には、名声らしい名声はなかったんじゃない?
どの資料でも、諸葛亮に名声があったとは書かれてない。
品行や学問に優れていたという評判もない。智謀や政治手腕で評価される機会もない。
ただ、友人知人の「あいつは大した奴だよ」って評価だけ。
人物評価で名が知れてて、揚州名士との交友も記録されているホウ統と比べると、実に地味。
劉備が「諸葛亮は大した奴だから会ってみたら?」って、
徐庶か司馬徽に言われて、話してみたら思いのほか使えそうだったから、幕僚に加えたと。
赤壁での勲功と、荊州での人脈を買われて、軍師中郎将に抜擢されて、
糜竺や孫乾らを差し置いて筆頭幕僚にのし上がったって流れじゃないかと。

75 :
>>74
確かに諸葛亮の名が知られるようになったのは出仕後だな。

76 :
>>75
あと、諸葛亮の思考がまったく名士的じゃないってのもある。
曹操すらしのぐほどに功利的で、儒教的建前を本当に建前としか思ってないのが良く分かる。

77 :
陸カの言う通り儒学は守成の思想で進取が不可欠な乱世にゃ向かんもの
特に孔明は自分を管仲楽毅に比してた時点で推して知るべし
劉秀を至高の名君扱いしてるのも然り

78 :
おしっこがしたい

79 :
王莽の名前に似た人物が三国志の中にいたよね?
いつも気になるんだけど思い出せない。
分かる人いる?

80 :
>>77
そうでもない。儒学のエッセンスは交渉術や人心掌握にも応用できるから、
儒学の教養と応用力を兼ね備えた人物は乱世でも名政治家や名将になれる。
魏の鍾ヨウ・王朗、呉の張昭・張紘などは儒者としても政治家としても一流。

81 :
>>79
王粲

82 :
司馬イも手が出ないほど、諸葛亮は軍事の才能もあった

83 :
>>82
その二人、直接戦ったのは第四次・第五次北伐の2回だけだろ
うち第五次は目立った戦闘のない持久戦だったから評価対象外、
第四次は確かに司馬懿が負けたが諸葛亮が過去三回北伐に従事しているのに対して
司馬懿は曹真急死から急遽引き継いだので隴右方面に慣れていなかった可能性もある。
対等な条件での大戦が起きていない以上、軍才の差に関しては一概には判断できない。

84 :
>>82
「受け」は確かに強かったが,「攻め」は得意ではなかった。

85 :
>>83
芝居が部下の統率取れなかったのが四次だっけ?

86 :
司馬懿だ諸葛亮だと優劣の話があるが、結局は兵の装備と精兵さ、兵の数が戦にモノをいうわけで
戦略は二の次だろ。

87 :
司馬懿の本領は速戦即決だから、諸葛亮のように隙がない相手には分が悪いな。

88 :
>>87
北伐を考えたら,立場が逆の方が面白かったのに。
隙のない強敵をどうやって倒すのかって意味で。

89 :
田豫が劉備の所にいたらよかったな

90 :
丞相か大将軍になれたかな?

91 :
>>90
多分劉備時代は南蛮勢の抑えか漢中都督、
諸葛亮時代(いわゆる五虎将の死後)には魏延に代わっての実質的蜀軍副司令(最重要戦力は魏延)、
諸葛亮死後に大将軍ってとこかな。

92 :
>>73

93 :
>>91
劉備在世中は蜀郡か巴郡の太守と、護軍将軍か輔漢将軍を兼任。
劉備死後は江州都督と四方将軍を兼任し、諸葛亮の晩年に車騎将軍か驃騎将軍に昇進。
諸葛亮死後に大将軍・録尚書事。
李厳のポジションにハマりそうな気がするけど、どうかな?

94 :
田豫が劉備のもとに居続け関羽が3年早く世を去って荊州の総督を田豫に任せれば荊州失陥は免れたよ
劉備の人材不足が大きいな

95 :
>荊州失陥は免れたよ
根拠薄過ぎ

96 :
まぁね

97 :
>>86
逆だろう・・・。
まあ最低限の装備と兵の強さがあった上での話だが。
物量や兵站も戦略の内でもある。

98 :
勿論、物量や兵站以外の戦略も重要だが。

99 :
ポンキッキを保育所行く前に毎日見ててらんらんが大好きでした。
それから僕も成長するにつれてらんらんのことやポンキッキーを見ていたことも忘れていきました。
当時は保育園児だったのでらんらんの苗字が鈴木ってことも知らなかったです。
最近あるきっかけでポンキッキやらんらんのことを思い出しました。
また高2ですがらんらんの舞台見にいきたいです。てれびにもまた出てほしいです

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