2011年10月1期世界史■フランス復古王政〜第三共和政■ TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼

■フランス復古王政〜第三共和政■


1 :10/09/15 〜 最終レス :11/09/01
貴族vsブルジョワvs労働者
フランス復古王政
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E5%8F%A4%E7%8E%8B%E6%94%BF
七月王政
http://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%88%E7%8E%8B%E6%94%BF
第二共和政
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%85%B1%E5%92%8C%E6%94%BF
第二帝政
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B8%9D%E6%94%BF
第三共和政
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%85%B1%E5%92%8C%E6%94%BF
レジティミスム(正統王朝主義)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9
オルレアニスト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%A0
ボナパルティスト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0

2 :
地主vs金融資本vs労組って感じかな?

3 :
まっ貴族とブルジョワジーって仲悪いよね、元々敵同士。

4 :
首相ティエール。
母子3人と関係していた。

5 :
>>4
majd!?  山拓みたいだなww

6 :
>>5
まじ。最初と関係して
そのが自分のもとにティエールを繋ぎ止めようと
若い自分の娘とティエールを結婚させて
さらにティエールはその妹ととも姦通。

7 :
ワロタ!
元々チキンなティエールなのに、アッチだけはお盛んだw
モテタと言うべきなのかな?
普仏戦争の敗戦処理でパリで労働者と国民軍兵士を武装解除しようとして
正規軍を派遣したのに、逆にその正規軍が武装解除され、
指揮官や将軍が処刑されたのを聞いて
一目散にベルサイユ宮殿に逃げ込んだのがティエール首相
ティエール首相はオルレアン派の政治家で当初は王党派主導のボルドー議会
で首班指名され、対独講和、パリコミューン弾圧、オルレアン朝復古で動いていたが、
途中で日和って第三共和制を目当てに動き出した為に、オルレアン派だけでなく
正統王党派まで怒らせてしまい、議会で解任され失脚、政治生命を失う。
追い落とす過程で王党派やオルレアン派がティエールのSEXスキャンダルを大げさに暴露したのでは?

8 :
ティエール首相は、シャンポール伯爵率いるレジティミストとパリ伯爵率いる
オルレア二スト双方を裏切る形で第三共和制初代大統領に就任したからな。
そもそもレジティミストとオルレア二ストは、ティエール首相をガンベッタら
の共和主義派に対抗しうる人物として見ていたから、首班指名したのに、
ティエールは首相になってから「共和制は、民主主義者から革命の流れを
そらす為の運河の役目を果す政体である」と言う口実で第三共和制の樹立に動き
ついには自分が初代大統領に就任したから、そりゃ怒るわなw

9 :
フランス革命について語ろう
http://www.unkar.org/read/academy6.2ch.net/whis/1260884506

10 :
なんでルイナポレオンを迎えたの?

11 :
いきなり第二共和制の話かw
迎えたと言うよりも、ボナパティストの支持を得て自分から出てきた。
当初は、王党派と連携し、一部のレジティミストとオルレア二ストも支持に回った。
第二共和制が始まると新山岳派が台頭し労働者運動が盛んになった為にそれを抑える、
という公約にブルジョワジーと貴族の支持が集まった。
また王党派が内紛で正統派とオルレアン派に分裂し、ルイ・ナポレオンを押えられなかった。
また、大統領の時に既に人事権を行使し王党派や王族の将校・将軍を排除し
フランス軍要職に自分に近いボナパティストの軍人を配置し、
事実上フランス軍を自分の私兵化していたのも大きい。
ルイ・ナポレオンのクーデターの時にティエールは逮捕されている。
大方の王党派政治家はこの時に身柄を拘束されている。
逮捕を免れたビクトル・ユーゴーと新山岳派は、パリで抵抗委員会を組織し
パリ市民にバリケードを作って軍に抵抗するように呼びかけたが、
思ったほど集まらず、結局バリケードを巡って3日間の市街戦でフランス軍は
パリを制圧した。新山岳派議員も逮捕された。ユーゴーは、ベルギーに亡命する。
また、大地主貴族はこの時期にイギリスを真似て囲い込みを開始しており、
その為に苦しい競合関係に有った、地方の小土地所有農民にはナポレオン崇拝が
残っている事もあり、これも地方からの支持を集めるのに役立った。

12 :
ナポレオン一世の長男が子供をつくらないうちにが死亡し、ボナパルト本家が
事実上断絶した為に、ナポレオン一世の甥っ子であるルイ・ナポレオンがボナ
パルト家の当主と成り、ボナパティストの先頭にたった。
7月王政打倒を目差して2度反乱を起こすが、失敗する。1840年に終身刑となり
牢獄に入れられたが、1846年に脱獄してイギリスへ亡命した。2月革命勃発後
は補欠選挙で当選、議員としてフランスに復帰した。
1848年12月、対抗馬カヴェニャック将軍に圧勝して大統領に当選する。
六月蜂起の際、カヴェニャック将軍が陸相として戒厳令を布いて労働者の蜂起を弾圧。
3千の死者、2万5千の逮捕者を出した。これが原因で同年12月の大統領選挙で
はパリ市民から反発され、対抗馬のルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)に敗北した。

13 :
レジティミスト、オルレア二スト、ボナパティストは今でもフランス右翼の
三大派閥と言われている。その中で現在の最大派閥はオルレア二ストである。
当初は、レジティミストが最大の右翼派閥であったが、シャンポール伯アンリ
ダルトワが1883年に死亡してブルボン家直系が断絶した事により、支持者がオ
ルレア二ストに合流し、この派閥が右翼最大の勢力と成った。
シャンボール伯には子供がおらず、サリカ法に基づき、スペイン・ブルボン家
のモンティソン伯フアン・カルロスをブルボン家男系の長系継承者として、シ
ャンボール伯の後継者に選んだ。
しかし、モンティソン伯はスペイン人であり、この相続に納得できないフラン
ス人の王党派支持者が多く、結局多くのフランスの王党派はレジティミストか
ら離れてオルレアン派に合流してしまう。この為に現在では、レジティミスト
は少数派の王党派の右翼派閥に転落してしまっている。
現在のボナパティストは政治勢力としては、ほとんど実体がない、とされている。
フランス国内で政治運動としてのボナパティストの動きはほとんど無い。

14 :
アンシャン・レジーム末期に王政改革が始めると、王権に寄生する宮廷貴族は
も反対したが、さらに地方貴族が、強固な王政改革の反対派になった。
このアンシャン・レジーム末期に王政改革には、貴族の免税特権の剥奪や徴税
効率のアップなど更なる王権への権力集中が図られており、王権拡大に対する
貴族達の反発によってナカナカ進まなかった。
このようにフランスの貴族は、近代的で開発独裁的で中央集権的な啓蒙君主制
には反対する傾向があった。それと同時にイギリスなどと比較してフランスで
の革命期の反革命領主層の抵抗が極めて頑強でもあった。これらはフランスに
おける地方の領主権強固さと領主の財政的な基盤の強さを現わしている。
王権にせよ、革命政権にせよ、現行を変更する施策に対しては地方の貴族層の
反対により、その実施には大変な抵抗があった、特にフランス革命の特徴には
国内の反革命勢力の武力的な抵抗と外国軍の侵入が、挙げられ、これらがフラ
ンス革命の激しさを特徴付けている。
ナポレオンが退位し王政復古がなり、エミグレが帰国し始めると、革命政府と
ボナパルト帝政期に確立されたブルジョワ支配体制を覆そうとする、当然貴族
とブルジョワの対立となるわけだが、王政復古期の貴族層の中でも特にユルト
ラは、ブルジョワや労働者と激しく対立しつつも、絶対王政の再建も望まない
といった不思議な政治傾向を見せる。むしろ貴族層の中でもブルジョワとの連
係により労働者を抑えつつ立憲王政を軌道に乗せる事を企む勢力の方が王権の
近代化と強化に乗り出す傾向を見せる。

15 :
ユルトラは、爵位復活に満足せず、アンシャンレジーム期の特権復活を目論み、
革命期に競売に付された自己の資産や土地を取り返そうと古証文を持ち出して
新しい所有者に迫った。これらユルトラの行動は問題だが、さらに問題なのは、
ユルトラ主導の下院議会が王政復古開始時に成立しており、彼らは議会主権を
振りかざして国王と対立してしまう。なぜなら彼らユルトラの理想の政治体制
は、近代的かつ中央集権的な絶対王政では無かったからだ。かれらは自己の理
想の体制を中世的な「分権的」王政に求めており、この事からのユルトラは、ア
ンシャン・レジーム末期の王政改革に反対する貴族層と同じ政治傾向を持つ事
がハッキリ判る。この弱体化した王権を求めるユルトラ貴族層の政治傾向は、
アンシャン・レジーム末期から王政復古期にかけて一貫性を持って堅持され、
新国王のルイ18世やナポレオン戦争後にフランスを占領した連合国をも悩ませ
る事になる。

16 :
王政復古期のユルトラは、自分に敵対するブルジョワジーや労働者階級に対し
て徹底的な抑圧を求めているくせに、王権の近代化や強化にも反対する姿勢。
ユルトラの2重の政治的請求は、無理な話。
王権が強化されると、貴族階級の既得権も王権に収奪される事への不安と不満
が有るのだろうが、それではブルジョワジーや労働者階級には勝てない。
はっきり言って無い物ねだり。

17 :
意外と知られていないが、王党派による虐(白色テロ)がナポレオン失脚時に
発生している。有名なのは山岳派による恐怖政治やヴァンデ地方やナント市や
ブルゴーニュ地方での王党派反乱鎮圧時の革命軍による地元住民の虐などで
あるが、虐は革命派ばかりが行ったわけではない。
フランスでは、比較的遅れた地域とされる南部と西部に王党派の勢力が強かった。
ブルボン家も南部の貴族の出であるし、ブルゴーニュ地方とヴァンデ地方は
王党派反乱が最も強かった地域である。7月王政下でもブルボン家による反乱
がヴァンデ地方へのブルボン家王族の潜入と共に開始されている。
フランス南部と西部は、貴族の大土地所有形態の農地が点在し、中小の農民と
の混在地区であり、なおかつ教会・修道院がかつて所有していた農地が多い処
である。ちなみに先進的な地域とされるフランス北東部は、貴族の大土地所有
は少ない。
そのフランス西部と南部で、1815年6月にワーテルローの戦いが負けた事
により、ナポレオン百日天下が終わる時期にユルトラによる元ジャコバン派や
ボナパティストへの白色テロが大規模に発生した。
貴族階級に雇われた元軍人や犯罪者、盗賊などが気ままな放火・暗・逮捕を行
いナポレオンの部将であるブリュッヘルやネイが虐された。全国で2000
人近くがされ、カトリック住民によるプロテスタント住民への虐も併行し
て行われた。この王党派白色テロで逮捕者7万人、政治犯9000人とも言わ
れ、すざましい報復リンチが行われた。
この時期に併行し1815年に下院の選挙が行われ、王党派による白色テロが
吹き荒れ捲っている時期に合わせて王党派が大量に議員に選出された。およそ
議席の9割が王党派と言う状態でエミグレやユルトラも含まれており、「王様
よりも王党派的」といわれる「またと見い出しがたい議会」が選出された。

18 :
復古王政期には、貴族階級は政治的に2つの派閥に割れていた。ユルトラと立
憲王政派である。ユルトラは、アルトワ伯がリーダーで、フランス革命を完全
否定し、アンシャン・レジームと貴族の封建的特権の復活を目論んだ、特に18
15〜16年にはユルトラの政治的攻勢が激しかったが、ブルジョワ支配は覆せなかった。
そしてこの時期にフランスを占拠している欧州各国軍の占領軍もユルトラの政
策には反対した、ユルトラの反動的な政策を強引に実行した時には、フランス
全土で農民の反乱や反抗を呼び起こし、占領軍が内乱に巻き込まれる事を心配
したからである。
またルイ18世も>>16の理由からユルトラに対抗した。アンシャン・レジームの
復活を求めるくせに、絶対王政にも反対するユルトラの2重のアナクロ二ズム
には国王自身も呆れ返っていた。占領軍は、ルイ18世に対し「ユルトラ議会
解散が占領軍撤退縮小の必要条件である!」と迫り、国王も早急に国王大権の
拡充を図る必要性を感じた為にユルトラ議会を解散した。
その後国王政府の反撃もあり、ユルトラは選挙戦に破れ政府派である立憲王政
派が議会の多数を占めた。この立憲王政派は、(憲章)<シャルト>の示す方向
性、つまり貴族とブルジョワを妥協・協調させ社会秩序安定を実現しようとした。
また、立憲王党派は、経済的には、大土地所有者と銀行・大企業などの大ブル
ジョワジー双方の利益を擁護する為に高関税政策を実行しており、この経済路
線は7月革命直前まで上手く行っていた。

19 :
アルトワ伯が早死にして、ルイ18世がもう10年くらい生きてたら、
7月革命は防げたかもしれない。
7月革命が起こらなければ、立憲王政派主導で君主制が安定してたかも。

20 :
マジレスするとルイ18世は太りすぎだった。
あの太りようは病的。肥満のせいで亡くなったようなもんだし。
余りの太鼓腹で普通の食卓に就くこともできず、
腹に当たるテーブルの部分を丸く切ってようやく座れたらしい。

21 :
クラウゼヴィッツはパリに帰還するルイ18世を目撃して
「あんな醜く肥満した国王が威信を保てるのだろうか?」とか
妻への手紙に書いたそうな。

22 :
duke of marlborough と prinz eugen にもう少し頑張ってほしかった。

23 :
大土地所有者で農業の貴族と金融や製造業中心のブルジョワジーの経済的利害の
対立もあるからな〜
関税率だけでも双方の意見はなかなかまとまらなかった。
ましてや相続法となると全然まとまらない。
それに結局ブルボン家は、支持基盤を貴族以外にあまり広げる事ができなかった。

24 :
>結局ブルボン家は、支持基盤を貴族以外にあまり広げる事ができなかった。
これは少し誇張され杉
一部のアンシャン・レジーム以来の特権大商人系のブルジョワジーや貴族階級
ではないが、古くからの地主などの地方の名望家は、王党派に主体的に参加している。
ジャコバン派政権〜ナポレオン時代に台頭した軍需系産業ブルジョワジーは
確かに共和派よりの姿勢ではあるし、金融系ブルジョワジーもアンシャン・
レジーム期から存在した連中でさえもオルレアン派か共和派が多い。
パリやリヨンなどの大都市部では、革命派(ジャコバン派)が多いとされたが、
リヨンでは、フランス革命期に王党派とジロンド派の妥協が成立し、ジャコ
バン派のリヨン市長が市議会により弾劾解任されギロチンで処刑されている。
パリでもヴェンデミエールの反乱の時は、王党派貴族の秘密結社(全仏で会員約2000名)
ある“聖ルイ騎士団”が大量の現金をパリ市内の貧民街でバラマキ、2万5千名の叛徒の
リクルートに成功している。
ルイ16世処刑時にもこの“聖ルイ騎士団”がルイ16世の身柄を奪回する
計画を立てており、それを警戒したジャコバン政府は、国民衛兵隊2万人を
動員し、処刑場に集結させ、戒厳体制下でルイ16世の処刑を実施した。

25 :
>>7-8
さんざんな言われ方をしているティエールだが、
その頃、岩倉使節団の副使としてフランスを訪問した木戸孝允(だったと思う)は、
ティエールのことをなかなかの傑物と高評価している。

26 :
ティエールは屑。
王党派の雇われマダムのような大統領のくせに
アンリ5世とパリ伯を裏切った悪党。
ジャコバンは何年たってもジャコバンてこと。
とっとと始末してればよかったのに!

27 :
もしブーランジェ事件が成功していたら君主制は復活したのだろうか。

28 :
>>26
ティエールは、ジャコバンではないですよ、元オルレアン派の日和見の共和派ですかね。
ブルジョワジーに近いようですので、イデオロギーだけを見ればジロンド派に近いと思います。
>>27
いや、ブーランジェが独裁的な大統領になるだけでしょうね。
この頃は、シャンポール伯爵アンリ5世も死んだ後で、王党派運動も沈静化していました。

29 :
ブーランジェ本人は、軍隊から王族(ルイ・フィリップの息子)を追放したりして、
「共和派将軍」として名声の高かった人だしね。
この人物をカリスマとして担がざるをえなかったところに、王党派の人材難がうかがわれる。
王党派は、マクマオンの失脚以後、選挙のたびに議席を減らしているジリ貧状態で、
90年代に入ってすぐの選挙では、とうとう元の王党派が全滅状態という打撃をこうむった。
教皇も王党派を見限って、フランスのカトリック勢力に共和派への「加担」を命じている。
だから、20世紀にモーラスがアクシオン・フランセーズで王政復古を主張しだしたときには、
右翼の内部ですら王政支持はほとんどなく、モーラスは時代錯誤と見なされていた。

30 :
>>29
王党派も一応ブーランジェ将軍を担いでいたのですね。
王党派が人材難とされますが、基本的に王家子孫が王党派リーダーですから、
人材は限られます。
ですが“五月十六日事件”を仕組んだブロイ侯爵なんかはナカナカの策士だったようです。
>王党派は、マクマオンの失脚以後、選挙のたびに議席を減らしているジリ貧状態で、
>90年代に入ってすぐの選挙では、とうとう元の王党派が全滅状態という打撃をこうむった。
首相であり政界の仕掛け人と言われたブロイ侯爵主導の王党派クーデター未遂事件
“五月十六日事件”以降、選挙のたびに議席を減らしているみたいですね
これは何でなのでしょうか?
>教皇も王党派を見限って、フランスのカトリック勢力に共和派への「加担」を命じている。
王政復古の時以来実はフランス王党派(貴族勢力)と教会は実はあんまり上手く行って居ない。
例のカトリック教会・修道院の土地を国有化した後に貴族も大量にカトリック資産を買収している。
で王政復古時にそれを貴族は教会には返していない。まだ売却していない残りのカトリックの資産も
結局教会には返さずに、主に貴族が購入している。
こんな事があり、革命以後はカトリックと貴族はそれほど良い関係ではない。

31 :
>王党派の人材難がうかがわれる。
ティエール、ギゾー、ブロイ侯爵、レミューザ、オディロン・バロ 等々
それなりに居るだろ、王党派の政治家。

32 :
関連スレ
フランス革命
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1286306945/

33 :
ティエールとラマルティーヌ、どうして差が付いたか 慢心、環境の違い

34 :
七月王政の宮廷には貴族は余り出仕しなかったようだ。
貴族達の邸宅街、サン・ジェルマン街では鎧戸を閉ざして
「ブオナパルテよりはましだが、やはり簒奪者」である
ルイ・フィリップ王に抗議、舞踏会では醵金を募って
亡命先のブルボン家に送金していたとか。

35 :
フランスにおいて、ウェルキンゲトリクスと戦場のアレシアが神話化されたのは
19世紀になってからなのだとか。
それまで、多くの歴史家や年代記作家は、フランス人をガリア人ではなくフランク人の
子孫とみなし、フランク人の初期の王からフランス史をはじめていた。
王党的伝統に立つ歴史叙述では、「最初のフランス人」にして「最初のキリスト教徒の王」
はクローヴィスだった。
第二帝政が始まった1850年代には、ガリアの要塞アレシアの場所をめぐって
議論が戦わされた。
アレシアはディジョン近郊のアリズ=サント=レーヌ村なのか、あるいはブザンソン
南方25qにあるアレーズ村なのか、いまだに決着はついていない。

36 :
>>34
>七月王政の宮廷には貴族は余り出仕しなかったようだ。
>舞踏会では醵金を募って亡命先のブルボン家に送金していたとか。
七月王政は、ブルジョワ政権だからね、特にロスチャイルドが政権のど真ん中にいて
産業ブルジョワや非ロスチャ系金融業者(ペレールやラフィット)らですら不満状態。
1883年にシャンポール伯爵アンリ・ダルトワが死ぬまでのフランス貴族のほとんどが、
正統王党派だから、この時期の貴族は、オルレアン家を支持していない。オルレアン派
の貴族は少ないし、オルレアン派はむしろ金融業者たちが支持していた政治勢力。
七月王政の宮廷に出仕しているのは金融業者ばかりで、おかげでオルレアン朝は“株屋の王”とパリ市民に言われてしまう。
この時期のフランス貴族は、復古王政が革命で崩壊したという事もあり、地方の大土地所有者としての性格が強かった。
10億フラン法で旧体制時代の先祖代々の所有地を取り戻したり、革命期の国内残留組の貴族は国有地(教会・修道院所有地)を
安く買い占めて更に所有地を拡大した世代の子弟にあたる世代の貴族が多く、旧体制下の様に都市部のパリやベルサイユでの
宮廷生活よりも英国貴族型のカントリーハウスに住む生活スタイルだった。
また、政治的にも保守的風土が強い地方の方が貴族達に合っていたとも言える。

37 :
この時期に地主貴族化したフランス貴族は、広大な所有地を利用してイギリス式の囲い込みや農業土木の実施、農業全般の
改良を行って、食料の大増産に成功しつつあった。フランス革命勃発からナポレオン没落まで、フランス農業は停滞し
生産量がほとんど増えなかったのに対し、復古王政からオルレアン朝の時代にはフランスの農業生産は爆発的拡大を示した。
貴族により一円的な地主経営が、農業生産の拡大に寄与したし、フランス貴族によるイギリス式の農業技術の導入の成果であった。
また、フランス貴族は、イギリス貴族の様に大借地農に一括して所有地を貸し出す事は少なく、自分達の家令や執事、農業管理人を
使って、農業作業員を雇い直接的な農業経営を行った。これもこの時期に農業生産の拡大に伴いフランス貴族の収入が拡大した背景となる。
この為、フランス貴族は、農作物や食品の販売拡大により再び資金力を獲得し始めた。
一部の貴族は、国内需要の限界を見越して農作物や食料の輸出を行い、オルレアン朝の
外貨収入を助ける状態にまでになった。
この事で政権から追出された、正統王党派貴族は、農作物の増産で得た資金力を梃子に
ブルボン家を支援しつつ、フランス国内で都市部の社会主義者と組んでオルレアン家に
対する反政府運動を展開し始めた。王朝的左翼が生まれた背景がココにある。
大規模所有者として貴族は、地方のカントリーハウスとは別に、パリ市内にタウンハウスを
所有していた。農業生産で財政的に豊かになった貴族は、オルレアン朝の宮殿に出仕せず、
パリ市内にタウンハウスをさらに拡大したり、より豪華な豪邸に建替えたりしてサロン化し始めた。
そしてこのサロンでオルレアン家に対する反対運動ための会合や舞踏会、社会主義者との密会を繰り返した。
コレが1848年の2月革命の原動力となる。

38 :
フランスでは、カントリーハウスとは言いませんよ、シャトー(城or館)です。
タウンハウスも言わないんじゃね?たんにメゾンのはず。
シャトーにせよ、メゾンにせよ“渡辺篤史の建物探訪”に出てくるような
ウサギ小屋とは桁違いだけどね。

39 :
オルレアン朝は、1830年の7月革命で成立すると、早速政権基盤の強化の為に地方の貴族たちに政権の参加を呼びかけた。
しかし>>30の通りその成果は、乏しく、フランス貴族の正統王党派からの離脱は、1883年のシャンボール伯爵アンリの死亡まで
実現しなかった。
その背景は、やはり、オルレアン朝はブルジョワ政権であり、自由主義者を含んだ政治体制であり、この事が大部分を正統王党派で
占めるフランス貴族の理解を得る事が出来なかった事だろう。また、オルレアン家はフルボン家の分家でありながら、旧体制の動揺
と改革に乗じてブルジョワジーと結託しフランス革命の火付け役の1人になった訳で、この事もフランス貴族の支持が集まらない背景
の一つになっている。しかし、逆に言えばオルレアン家は、ブルジョワジーと妥協し自由主義者と政権を共有できる存在である為に、
ブルジョワ革命では利用されやすい立場にはあった。それが7月革命をへてオルレアン朝が成立した背景に有るが、それゆえに正統
王党派の恨みもまた買う存在なのである。
特に1825年に復古ブルボン朝政府は、正統王党派が大部分を占める貴族層の大土地所有地の細分化を防ぐ為に、長子相続法案を議会に提出したが、
ブルジョワ議員が多数居る上院で彼らの反対で否決された。これにより貴族とブルジョワの対立が再び激化し始めた。
そして1830年の7月革命の折、パリが暴徒と革命側に寝返った国民軍と正規軍の2個連隊に制圧され、シャルル10世が退位を決断した時に
王位を不人気な長男のアングレーム公ではなく、孫のシャンボール伯爵アンリ・ダルトワに譲り「アンリ5世」として即位させようとした。

40 :
しかし、大銀行家のジャック・ラフィットら金融ブルジョワジーと自由主義者が組織したパリ市委員会が事実上の臨時政府として機能し、
ラファイエットを国民軍司令官に任命し、新たにパリ市長をも任命した。この彼らの行動でアンリ5世への譲位は頓挫し、ルイ・フィリップが王位についた。
共和派の中にはラファイエットを大統領にして第二共和制の実現を図る動きもあったが、ルイ・フィリップの即位は、これを制する口実もあった。
この様に、貴族とブルジョワの対立は相続と言う経済的利益も絡んで対立が激化しており、ブルボン復古王政が倒れた後のオルレアン朝でも
この両社の対立が沈静化する気配はなかった。そして社会主義者や共和主義者からすれば、絶対王政よりはマシだが、共和制の実現には程遠く、
自由主義の名の下に財産の多岐での差別を実行するオルレアン朝もまた、打倒の対象でしかなかった。
故に社会主義者や共和主義者と正統王党派の政治的便宜的提携が可能なのである。

41 :
1830年の7月革命時に政治的な裏側で活躍した大銀行家のジャック・ラフィットは、
旧体制末期からナポレオン時代半ばまでを生き抜いてきたスイス人銀行家のペリゴの部下であった。
ペリゴは旧体制下のフランス銀行の前身である、ケース・デスコント(フランス手形割引銀行:ルイ16世が免許交付)
の理事を勤めており、既にフランス革命開始時には上層銀行家として名をはせていた。彼はパリで暴動が勃発すると、
他の銀行家と同様に軍人に金をバラマキ買収した。ルイ16世にパリを武力弾圧させない為である。
革命期にラフィットがペリゴ銀行に入社し、部下として活動し始める。
ペリゴは、恐怖政治下に逮捕されたが、国民公会財務委員長のガンボンに助け出され、
スイスに亡命する。テルミドールの反動後にペリゴはスイスから帰国し、経済立て直しの為に
国民公会付属の諮問機関である商業審議会の審議員に就任、総裁政府でも重責を担う。
ナポレオンが台頭し始めると、ペリゴは彼の政府に融資した。そしてペリゴを始めとするパリの大銀行家は、
通貨発行銀行としてのフランス中央銀行の創設を求め、ナポレオンはケース・デスコントを引継いでフランス銀行を創設する。
そして今までの貢献からナポレオンは、ペリゴらパリの大銀行家たちをフランス銀行理事に任命した。
同時に彼らはフランス銀行の株主にもなった。

42 :
しかし1807年にペリゴはフランス銀行の政府からの独立性を確保しようと画策して、
ナポレオンと対立し引退した。そしてラフィットがペリゴ銀行を引継いだ。
ラフィットもペリゴ同様にフランス銀行の独立性を確保しようとしたが、
ナポレオンは政府のフランス銀行に対する監督権を強化する。
その為にパリの大銀行家であるフランス銀行理事とナポレオンの対立が続くが、
そのうちにナポレオンは敗北し、ブルボン王朝が復活した。
ラフィットは、王政復古早々に累積した財政赤字に悩むルイ18世と交渉しフランス銀行の
独立性を確保し、ついにオルレアン朝政府は1836年までに拒否権を行使しなくなった。
7月革命の時に、シャルル10世と交渉し退位と亡命を同意させたラフィットは、オルレアン公から勲功として
フランス銀行から借り入れの保証人になってもらった。ラフィット自身が7月革命前からの不況により不良債権を抱え、
破産に瀕していたからである。

43 :
ttp://www.youtube.com/watch?v=8pkreNdI60M
NAPOLEON 1927 Part 1

44 :
マイアー・アムシェル・ロートシルト(1744-1812)は、彼の息子5人各人を家族の
銀行帝国の分家を設立するためにヨーロッパの各商業都市に送った。
ジェイムズ・ロスチィルドはこれにより1811年にパリに移住し、1817年にフランス
ロスチャイルド商会を開業した。ナポレオン戦争の敗戦国フランスがイギリス
を中心とする同盟に支払う賠償金の総額は七億フランにも達し、この莫大な支払
を公債として引き受けたのがフランス・ロスチャイルド商会なのだった。
1815年当時、5つのロスチャイルド商会の資産総額は333万フランだったけれども、
3年後には4200万フランとなり、10年後には1億1840万フランにも膨れあがったという。
この額は自己資本だけの控えめな計算で、実際は1億6500万フランを超えていた。
このうちパリ・ロスチャイルド商会の推定資産は3700万フラン。
パリ第2位のラフィット銀行が700万フラン、
ナポレオンが設立した発券銀行であるフランス銀行でさえ6000万フランの時代。
欧州5都市で展開するロスチャイルド商会の総資産1億6500万フランが、いかに巨額だったかが分かる。
ラフィットとペレールを追い抜き、シャルル10世とルイ・フィリップ 二人のフランス王の助言者として、
ジェイムズはフランスの最も強力な銀行家となる。
七月革命が勃発して国王が交代したとき、ジェイムズは逃げたシャルル10世が、
万一戻って来ても良い様に丁寧に謝礼を支払っておいた。
そして、新王となったルイ・フィリップとも大金を貸し付けてきた仲であったので、
ジェイムズにとっては、誰が国王となってもヴェルサイユ宮殿を意のままに動かせる
周到な準備が成り立っていたのだった。

45 :
1820年代のブルボン復古王朝期は、イギリスより20年以上遅れての産業革命期であった。
その為に都市部での労働者階級の増加は著しく、サン・シモンやフーリエのユートピア社会主義が広まり始めた。
復古ブルボン王朝という貴族制大土地所有者による反動的政権下で産業革命が始まり、それに対する不満は
ブルジョワも労働者階級も同じく持っていたが、労働者階級はフランス革命期のサンキュロットとは異なり
ブルジョワの下から離脱し、労働者は労組や社会主義政党などに終結し独自の動きを見せ始めていた。
フランス革命期のように大ブルジョワの下にプチブルジョワそしてその下にサンキュロットないし貧民という序列に
従っての行動はもう取らなくなり、労働者は自ら資本主義を打倒して理想社会を建設するという思想に転換していた。
その為に革命勢力もブルジョワの意向に必ずしも賛同せず、ブルジョワジーが労働者との利害の不一致から革命の操作に苦労し始める時期でもある。
1925年にイギリスで始まった不況が、フランスにも伝播しストライキやデモが散発し始める。
ブルジョワは、穀物価格吊り上げの為の穀物高関税政策に不満をぶつけ、復古王朝下での貴族性大土地所有者とブルジョワジーの
経済上の妥協も不可能になってしまった。

46 :
このためにシャルル10世は、アルジェ出兵を決断し、政府軍の中でも主力の精鋭部隊5万人を動員した。
戦争による景気拡大策である。その時アルジェ出兵にあたり、パリ国民軍を閲兵したシャルル10世に対して、
国民軍兵士やパリ市民が罵声を浴びせた。
この様な情勢下でシャルル10世は、アルジェ出兵が順調に進んでいる事に気を強くして、議会を解散した。
しかし王党派は大敗北しブルジョワを支持する自由主義者が第一党になってしまう。この為にシャルル10世は
(7月勅令)を発布し新議会を早速解散してしまい、ブルジョワを排除する形で再選挙をしようとする。
いわゆる国王のクーデターである。
(7月勅令)では、出版自由の停止の内容もあったが、新聞各社はそれを無視して発行を継続、そのために警察が
新聞社を襲い弾圧を始めた。7月27日の朝の出来事である。それに乗じて労働者がパリ各地の街頭でバリケードや
デモを始める。学生もそれに合流し始め、ブルジョワジーもブルボン家や貴族等の大土地所有者の支配を打倒する
好機と捉え、工場や作業場を急遽休暇にしてしまい労働者がデモに参加し易い様にした。
夕方からは、8月10日事件の直前の様に、パリ各地区で蜂起の委員会が組織され、国民軍兵士達が政府の動員令を
無視して蜂起の委員会に詰め始めた。また学生も革命委員会を結成しラファイエットを委員長として蜂起の準備に
参加した。

47 :
7月27日から29日が、栄光の3日間と言われるパリの市街戦であるが、27日は、前哨戦でもあり
それほど激しい戦闘は無かった。前日の26日にはポリニャック首相からマルモン元帥に対してパリ政府軍
の司令官に任ぜられ、労働者や学生、国民軍の鎮圧を任される事になった。
しかしこのマルモン元帥は、旧体制下では元々地方貴族で宮廷貴族の為に軍内部での出世は進まなかったが、
ナポレオン時代に軍事的才能を見出され元帥まで昇格した。そして7月革命のリーダーでもあるラフィット
とも親しかった。マルモン家の資産運用や資金管理をラフィット銀行でも行っていたからである。
ラフィットは早速マルモン元帥と面会し、政府軍の撤退を要請した。しかしナポレオンに元帥の地位を与えられても
貴族意識の強かったマルモン元帥は、このラフィットの要請をきっぱりと断り、政府軍1万人でパリ市制圧作戦を開始した。
政府軍主力5万はアルジェに居る為に、この時のパリ制圧作戦の政府軍の数は少なかった。

48 :
また銀行家ラフィットも不況による破産の危機を迎えていた為に、ルイ・フィリップに救済を求める意味も有って好戦的になっており、
革命側のリーダーとしてこの革命の裏側を担う事になった。そして当時「革命的銀行家」と言われたカジミール・ペリエ、ルフェーブル、
ドレッセール、オディエ、コチエなどの銀行家も同じく不況により苦しい銀行経営を強いられていた。
ただし、資金力が桁違いに強いパリ・ロスチャイルド銀行だけは、優良顧客が揃っていた事もあり、不況でも経営は安定していた。
その為にロスチャイルド家は、革命に参加する事は無く、むしろシャルル10世とルイ・フィリップ双方に資金を融通していた。
特にパリ・ロスチャイルド家が革命で退位し国外に亡命した後のシャルル10世にも資金を融通し続けたのは、オルレアン朝治世下
であってもフランス西部や南部を中心に農民の支持をブルボン家が集めており、地方の地主貴族の大部分も正統王党派で有り続けた為
ブルボン家が政局次第では復活する可能性があった為であった。
シャルル10世や評判の悪いアングレーム公が王位に復帰する事が無くても、
シャンポール伯アンリ・ダルトワが王位に復帰する可能性は常にあり、
この為にパリ・ロスチャイルド家はブルボン家との経済的な繋がりを絶つ事は無かった。

49 :
age

50 :
あげ!

51 :
ヴィシーフランスレがなくなったのは悲しいな

52 :
栄光の3日間の二日目、28日未明には大銀行家で「パリの王様」と言われたラフィットが動き出し同じく銀行家の
カジミール・ペリエも合流、学生革命委員会を率いるラファイエットも加わり、“蜂起の司令部”が組織された。
この頃、ランブイエの森での狩からサン・クルー城に戻ったシャルル10世は、ポリニャック首相と
パリ政府軍司令官のマンモル元帥からパリでの戦況報告を聞いていた。パリからの招待客も
サン・クルー城いたが、彼らやポリニャック首相は、国王の怒りを招かないように、事態を矮小化して報告した。
そのためシャルル10世は、パリでの革命的事態を把握していなかった。
7月28日は、朝から政府軍とパリ民衆や国民軍のあいだで市街戦が展開された。パリ市庁舎や
ノートルダム寺院、その近くにあるパリ警視庁などのパリ中心部を民衆側が占拠した。
ブルボン支配に対する革命の象徴である三色旗が打ち立てられたものの、マンモル元帥率いる
一万の政府軍は、効果的な部隊運用とルーブル宮殿を中心とする優れた作戦配備をもって
パリ民衆に対抗し、寡兵ながらも市庁舎などのパリ中心部を奪回した。
さらに政府軍は、パリ民衆を追撃し、パリ東部の労働者街まで追い詰めるが、前日に労働者や
国民軍兵士がバリケードを作っていたので、これを利用してパリ労働者は政府軍を家一軒、
バリケード一個を取り合う市街戦に持ち込みんだ。これにより政府軍は労働者街のバリケードを
打ち破る事ができず、政府軍も疲弊し始めた。
パリ労働者は、その頃合いを見て、バリケードから押し出し、さらに蜂起の司令部からの要請で
更なる国民軍の参加を呼び掛け、政府軍を押し始めた。政府軍はジリジリとパリ中心部に戻され
政府軍のパリの拠点であったルーブル宮殿は、パリ民衆と国民軍に包囲されてしまった。
ただ政府軍は、多数の砲兵を配備していた為に、これらの効果的な砲撃でパリ市民によるパリ
中心部を占拠は、阻止された。
28日時点で、国王は首相にパリ帰還を相談したが、首相はこれに反対し阻止した。

53 :
夏場の7月28日は、夜7時くらいまでは明るく、その頃までは、パリ中心部で政府軍とパリ民衆のあいだで
戦闘が続いていた。しかし完全に日が落ちると、戦闘は止み、双方とも翌日の戦闘やけが人の手当てや死
亡者の回収を続けた。
パリ市内の政府軍拠点は、ルーブル宮殿、テェイルリー宮殿、ブルボン宮殿、パリ警視庁などだが、
28日の夜の時点では、マダこれらの拠点は政府側が保持していた。蜂起の司令部は、先手をとる為に
29日未明から、攻撃を再開し再度ルーブル宮殿の占拠を目指した。パリ市民や国民軍兵士は、
未明からルーブル宮周辺の陣地を攻撃し、先手を取ったが、政府軍は一斉射撃と先日と同じように
効果的な砲撃でそれを阻止していた。この様にセーヌ川左岸からパリ中心部にかけては
激戦が繰り広げ、重火器も使われる戦闘が29日早々に再開された。
パリ中心部での戦闘の合間に、蜂起の司令部は、既に他の国民軍に革命側に参加を呼びかけていた。
そして革命側に付いた国民軍が、急遽パリ中心部から離れているブルボン宮殿を攻撃し占拠した。
ブルボン宮にも政府軍守備隊が警備をしていたが、パリ中心部に政府軍が圧し戻された時にモンマル
元帥がブルボン宮守備隊を割いて中心部に援軍として配置してしまった。その為に警備が手薄になった
ブルボン宮は、革命側の国民軍に急な攻撃を受け占拠されてしまった。
この報で、パリ中心部を攻撃しているパリ民衆の意気は上がり、更なるルールブ宮への攻撃が激化した。
逆にこの報は、政府軍の士気には悪い影響を与えた。そして更に臨時政府としての“パリ市民委員会”
が組織された報も入り、またこの委員会からの要請もあり、政府軍2個連隊が民衆側に寝返ってしまった。
これでパリ中心部の政府軍の防衛線が弱まった。

54 :
(つづき)
パリの民衆側は、このチャンスを生かす為に寝返った政府軍と共にパリ中心部の拠点を再度総攻撃し、
政府軍とスイス人衛兵隊の砲撃をかいくぐりルーブル宮殿に突入占拠した。さらにその後にパリ警視庁や
ノートルダム寺院等を含むパリ中店心部の占拠にも成功した。
こうしてノートルダム寺院の時計台を始めとしてパリ中心街は革命旗である三色旗で埋め尽くされた。
この事態でパリの政府軍の拠点は、ほとんど陥落、モンマル元帥は辛うじてルーブル宮殿から脱出し
政府、は残った拠点であるにテェイルリー宮殿むけて撤退を開始した。29日正午頃である。
先の述べたが29日正午頃に参謀本部として使っていたラフィット邸にラファイエット、ペリエ、ラフィットら
革命側の重要人物5名が集まり、“蜂起の司令部”を“パリ市委員会”に改編して事実上の臨時政府と
しての活動を開始した、まずは、パリ国民軍司令官にラファイエットを任命し、パリ市長にラフィットが
選ばれた。そして彼らの名と要請により、パリ中心部で民衆側と戦闘中の政府軍の一部を寝返らせる事に成功し、
パリでの市街戦のすう勢が決しルーブル宮殿を占拠する事が出来た。
最後に残ったパリ市内の国王側の拠点であるテェイルリー宮殿には、ルーブル宮から辛くも脱出したモンマル
元帥や傷つき、疲れ果てた国王側の残存部隊が集結をしていた。モンマル元帥はパリ市内の各地に残居する
国王側の部隊をテェイルリー宮殿の庭園に終結させ、最後の防備を固めていた。
テェイルリー宮殿は、国王側の最後の拠点であるだけでなく、国王のパリの居城であり、テェイルリー宮殿
の厩舎を改造した付属の建物が議会の議場になっていた。
その為に臨時政府としてのパリ市民委員会は、最後のダメ押しとして、また、議会を確保し臨時政権の
正当性を確保する為にテェイルリー宮殿の占拠をパリ民衆と国民軍兵士に要請した。
パリ中心街をやブルボン宮を占拠したパリ市民や国民軍兵士は、テェイルリー宮殿進軍を開始
国王側の兵力ではとても適わないので、モンマル元帥はテェイルリー宮殿防衛の為の戦闘は
行わず、国王側の残存部隊をベルサイユやパリ郊外に移動させテェイルリー宮殿を放棄した。
29日の午後には、パリの民衆側が、テェイルリー宮殿を占拠し、パリの国王側の拠点は全て陥落した。

55 :
30日になり、パリ市委員会は、議会の早期開催を口実にテェイルリー宮殿を占拠した民衆を宮殿から退去させ、
パリ国民軍と寝返った政府軍に宮殿と議場の警備を命じた。これにより議会をブルボン家サイドの王党派と
急進的革命と第二共和制を求めるサンキュロットの伝統を持つパリ市民双方から切り離し、銀行家が主導する
パリ市委員会の武力管制下に置いた。
これで議会を事実上パリ市委員会が操作する事が可能になり、革命の後処置と新政権の樹立は銀行家
により準備される事になる。また、新政権のフランス国内の領域的支配地域はまだパリ市内だけで
パリ市郊外には、まだ国王サイドの部隊が多く存在した。これらの部隊をどう撤退、もしくは新政府
が吸収出来るかも銀行家に課された政治的課題であった。
また同30日からベルサイユ宮殿に居るシャルル10世とパリ市委員会との秘密交渉が始まっていた。
窓口は、ポリニャック首相と“パリ新市長”のラフィットで、国王のクーデタと言われる一連の
勅令の撤回と内閣総辞職、その代わりとして王位の維持を国王サイドから申し出ていた。
しかしこの程度の提案では銀行家は納得せず、きっぱり拒絶していた。
パリ市委員会は、国王との秘密交渉と併行して、議会を30日中に召集し、パリ市委員会を臨時政府として
正式に承認する事を決議した。そしてラファイエットの国民軍司令官の任命も議会は追認した。
これにより、パリ市委員会が臨時政府に格上げされ、フランス全土に駐留する軍部隊に命令を発する
事が出来るようになった。またラファイエットの国民軍司令官への正式任命もそれを後押しする事になり
パリ近郊の部隊の支持を臨時政府と国王双方が取り合う事になる。

56 :
30日から31日未明までシャルル10世と臨時政府側の交渉があり、それぞれポリニャック首相と
パリ新市長のラフィットがそれぞれの窓口となり、交渉に当っていたが、この時点で国王は
退位するつもりが無く、首都の争奪戦に負けた割には強気だった。
なぜならモンマル元帥がパリから撤退してきた後、モンマル元帥やシャルル10世は
国王側に参じる部隊の確保に躍起になり、それなりの部隊が国王の下にはせ参じてきた
という背景がある。この時点のフランス軍の将校には王族や貴族将校が数多く存在し
ナポレオンに任命された新貴族の将校ですら必ずしも新政府にはなびいていない状態
だった。ラファイエットは、新貴族将校の新政府帰参を進める為に国民軍や臨時政府に
ボナパティストの軍経験者を参加させたが、それでも国王側に忠誠を誓う部隊がこの
時点で意外と多かった。また国民軍には共和派の元軍人や古参兵が多かったが、それも
貴族将校が新政府に反発する原因となった。
意外な国王の強硬姿勢に出くわした臨時政府は、30日に議会に対しルイ・フィリップを国王代理に
任命する様に要請し採決の結果認められた。そしてラフィットの決断で31日未明に秘密交渉の場
でシャルル10世の王位の維持をきっぱりと断り、31日には臨時政府として議会で正式にブルボン家
の支配の終焉を宣言してしまう。

57 :
同日皇太子アングレーム公は、国王衛兵隊を見せ付ければ事態は好転すると勘違いをし、わずかな衛兵を
率いて騎馬隊も含めてベルサイユからパリ西口の門であるポン・ド・セーブルまで進軍したが、革命軍
の一斉射撃を受けて命からがらベルサイユ宮殿に引き換えしてきた。
この時点でシャルル10世は、ベルサイユからランブイエに移動の決断をする。
ランブイエはベルサイユから30キロ離れたところだが、パリに近く、それでいて城があり
パリの臨時政府に抗戦するのには丁度良い場所であった。その為に国王とモンマル元帥は
パリ近郊で国王側にはせ参じる兵力をランブイエに集結させておいた。
8月1日の時点でシャルル10世は、そこに拠点を移して更にパリの臨時政府と対峙するつもりだった。
ランブイエには、国王側の部隊13000名と40門の大砲が集結していた。食料補給はラファイエット
国民軍司令官によって遮られていたもののが、弾薬や砲弾は十分に備蓄されていた。
この時点でマダこれだけの部隊が国王側にあったので、この部隊でパリに進撃するか、
そこまでしないまでもベルサイユまで進出させて、パリを牽制すれば、まだ勝機は有ったとされる。
しかしシャルル10世は、次第に弱気になり始め、ルイ・フィリップとの交渉や臨時政府との
交渉を継続する。そして王党派の勢力が強いフランス東部のヴァンデ地方かブルターニュ地方
に拠点を移して抗戦を続けようとも考えていた。
しかし8月1日の夜、シャルル10世は、ついにルイ・フィリップに手紙を出して、議会で採決
された“国王代理”ルイ・フィリップの地位を認め、自分は退位し、アングレーム公も王位
を断念し、孫のアンリ5世が成人として国王に即位するまでは、ルイ・フィリップが摂政と
してその代わりを務める旨の条件をだした。
シャルル10世は、ランブイエ市長を交渉の仲介役とし、ルイ・フィリップのもとにこの手紙を届けさせた。

58 :
31日には、議会でそれぞれ国王代理と国民軍司令官として承認されたルイ・フィリップとラファイエットは、
ノートルダム寺院の時計台から三色旗が並ぶパリ市民の群集に喝采を浴びた。
しかし、この時点では、ブルボン家支配の終焉の意味は有ったが、その後の政体まではまだ決まっていない。
さらに、シャルル10世は、31日はまだベルサイユ宮殿に居り、国王側の部隊をかき集めている最中だった。
“栄光の3日間”が終了していた時点では、
1.パリ郊外の軍隊やヴァンデ地方やブルターニュ地方の農民、地方の地主貴族は、ブルボン家支配の継続を求めていた。
2.パリ市内の銀行家やブルジョワジーは、オルレアン家によるブルジョワ王政・立憲王政を求めていた。
3.パリ市内の市民、労働者、学生は、ラファイエット大統領による第二共和制を求めていた。
と言う構図になる。
フランス国内では、各政治勢力により3分化されていた。その為に銀行家が主導する臨時政府は、
貴族勢力が押すシャルル10世のブルボン家支配を終わらせ、尚且つ、パリ労働者や学生が求める
第二共和制を封じ込めなくては成らなかった。この為に臨時政府は、パリの武装した民衆とは別に
国民軍や正規軍をかき集め、パリの労働者・学生の武力依存から脱却しなければならなかった。
しかしこの栄光の3日間では、死者が800〜1千名、負傷者は4000〜6000名とも言われ
その多くが、革命側のパリ市民や国民軍兵士だった。その為に臨時政府側の部隊は傷ついた
兵士も多く、また、貴族出身の将校による新政権への反発もあり、約2万人の兵力しか
集まっていなかった。これは国民軍や若干のパリ市民・学生を含めての数字である。
ラフィットら銀行家が率いる臨時政府の軍事的基盤は弱く、先に述べたが、シャルル10世が
ランブイエに集結させた1万3千の兵士と40門の大砲でパリを攻撃するか、ベルサイユにて
革命側と対峙すれば、国王にとって有利な方向への事態の好転の可能性も有った。

59 :
良スレなのに、レスがつかないのは残念だな。
マクマオン元帥というのは、ヒンデンブルク、ホルティ、フランコとかと同系統の指導者だな。

60 :
何の証拠もなかったアルフレッド・ドレフュスを逮捕した理由って何なの?
ユダヤ人に対する偏見があるんだろうが、さすがに無理筋だろう。
そして本当の売国奴を庇い続けた軍やその支持者たち。
なぜあんなあり得ない展開に発展したのであろうか。

61 :
7月革命の経緯をこのスレで初めて詳細に知ったよ。
恥ずかしながら。
正統王朝派、オルレアン派、共和派の三つ巴の対立は知っていたけど
パリ市内外での具体的な戦闘の経緯なんて知らなかった。

62 :
>>59
個人的には王政復古を成功させて欲しかった。
シャンポール伯の白百合国旗への執着心が残念だ。
>>60
組織防衛じゃなかろうか。
ドレフュスを一旦冤罪で投獄し軍から放逐してしまった以上
今更「あれは間違いでした。謝罪して撤回します」なんてなったら
国軍の威信が崩壊するという怯えと、自分達首脳部が
責任追及されるという自己保身。
パリ・コミューンで活躍した女性闘士(名前忘れた)までが
「愛国者」ぶりを発揮してドレフュスを攻撃しまくったんだっけ。

63 :
ドレフュス事件では自者も出たけど
映画で知ったその遺書の内容がショックだった。
ドレフュスはあくまで真犯人であるのだと。
全部内情を知っていたアンリという佐官の遺書。
「人の将に死なんとするやその言善し」というが
実際は人間、死に際しても体面のためなら嘘を付くんだなあ、って・・・。

64 :
体面のためならる人が結構いるみたいですねえ

65 :
愛国者が、売国奴の無罪を主張するって、ドイツにとっては実際のスパイ行為以上の思いもかけない収穫となったな。

66 :
復古王政で活躍したリシュリュー公爵って、あのリシュリュー宰相と関係あるの?

67 :
子孫(というか爵位の継承者)です。

68 :
枢機卿の甥っ子の家系だよね、リシュリュー公爵って

69 :
「シャンポール」(P)じゃなくて「シャンボール」(B)では。

70 :

「誠に残念ですが、日本は貧しい国になるでしょう」… - 米国家経済会議前委員長の米ハーバード大学教授
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1301741974/
http://diamond.jp/articles/-/11689?page=5
欧米、とくにフランスを筆頭とした国々は、日本のことを悲惨な震災に見舞われた被災国というよりも、原子力エネルギーを管理できない核犯罪国家とみなし始めている。
このままではG8の一員である先進国としてどころか、放射能汚染を放置する無政府状態の最貧国として扱われる日が近いのかもしれない。

71 :
age

72 :11/09/01
普仏戦争後ティエールが執政となり新たに選出された議会は
ブルボン派とオルレアン派を合わせると王党派が優勢
しかし王政復活では一致したものの国家理念では鋭く対立(主に大革命の評価)
結局オルレアン派と共和派との妥協でとりあえず共和国として出発
その後ティエールは失脚、ブルボン派のマクマオン元帥が大統領に就任
それでも揺り戻しはあったにせよ王政が復活することはなかった
近代的法制度が定着し権威的政府を必要としなくなってたからでは?

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