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世界史における中国王朝の影響Part7


1 :11/01/18 〜 最終レス :11/10/29
世界史における中国王朝の影響Part6
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1294844084/

2 :
世界史における中国王朝の影響Part7
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1295342542/ こっちが先

3 :
朝鮮王朝最強!
中国王朝最弱!

4 :
二輪戦車は韓国起源
宇宙も韓国起源

5 :
世界は韓国の一部
全ての人間は韓国人の子孫

6 :
朝鮮は中国の万年属国である事を、お忘れなく…。

7 :
>>6

8 :
ダメだこいつw

9 :
こういうのは無視した方が良いよ。
構ってもらえなければ、ワンワン泣き出して逃げていくから。

10 :
朝鮮半島は中国の一部でしかない

11 :
いやいや、属領だな。

12 :
そっか
まぁ、同等に扱ったら失礼やしね

13 :
>>11
属領とは聞き捨てならねぇぞゴルァ!

14 :
韓国>>>>>越えられない壁>>>>>中国(笑)=日本(笑)

15 :
>>10

16 :
まーた、キチガイの活動が始まったか…。

17 :
韓国人は天才
韓国人以外は気違い

18 :
そろそろネタ切れかな?(笑)

19 :
きもw

20 :
>>19
キモイのはお前

21 :
世界史における中国王朝の影響Part7
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1295342542/
世界史における中国王朝の影響Part6
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1294844084/
世界史における中国王朝の影響Part5
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1294482045/
世界史における中国王朝の影響Part4
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1293866635/
世界史における中国王朝の影響Part3
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1293283763/
世界史における中国王朝の影響(part2)
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1292568769/
当時の世界に対して最も影響力のあった中国王朝(part1)
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1291225206/

22 :
このスレは実質Part8です

23 :
陳登が呂布や孫策を破ったって言うけど、呂布も孫策も大した事無いだろ

24 :
陳登が呂布や孫策を破ったってのは何ソースなのよ

25 :
「陳登伝」って何?

26 :
呂布は虎牢関で諸侯を瞠目させ、董卓をし、劉備を降服させ、袁術と劉備の和解を弓の美技でとりもった。
孫策は厳白虎、王朗、劉?、黄祖を打ち、人望扱った(ただい中央の人士には仕官を誘ったが尽く断れている
あくまで江東の虎(w
呂布や孫策はマッチョリズムの塊のような輩ではあるが、陳登の三十代は概ねこの両群雄との戦いで彩られ、
寄生虫に腹を食い破られて不慮の死を遂げた。
生きていればさらに活躍をかさねただろう

27 :
結局、一武将でしか無いからな。
せめて三国いずれかの君主になったなら、まだしも。

28 :
まあ呉厨と呂布厨はそんなに顔真っ赤にするなよw 史実なんだからw

29 :
>>27
司馬懿「諸葛亮は一武将でしかないな。俺のように晋の礎つくったわけでないし」といったら負け惜しみ以外に聞こえるか?

30 :
諸葛亮も司馬懿も世界史レベルで見たら小(ry

31 :
http://d.hatena.ne.jp/mujin/20081002/p1
『三国志』張?伝の注に引く『先賢行状』によると、陳登は匡g城において2度にわたり孫策の侵攻を防いでいる。
この匡g城*1だが、まずその名称についてはおそらく人名に由来しているのだろうと言われている*2。ただ、場所が分かってない。
孫策伝の注に引く『江表伝』に、陳登は治府を射陽に置いた、とあるので、この匡g城もその近くだろうという説もあれば、
張昭伝の注に引く『呉書』に、張昭が匡g城を攻めたとある一方、呉主孫権伝では、九江郡の当塗県を攻撃させた、とあることから、
当塗県にあったのだという説もある。実際、陳登の支配領域から見ると前者の方が正しいように思われる。
対孫策戦のうち、2度目は功曹の陳矯を使者として曹操に救援を求めており、陳矯伝ではなぜか孫策ではなく孫権に攻められた
ことになっている。このとき陳登を攻めたのは果たして孫策なのか、孫権なのか。どちらかが間違っているのである。
わたしの知るかぎり、このころ孫権が広陵を攻めたという例はなく、おそらく孫策とするのが正しい*3。陳登の伯父にあたる
陳?が広陵郡の海西県に駐屯しており、孫策は呂範・徐逸に命じてこれを大破している。ただし孫策自身は呉郡の厳白虎を征討しており、
みずから広陵を攻めたわけではない。陳登はその報復として厳白虎の残党に手を回して孫策を暗させたのであるが、
ところで、その陳?が駐屯していたという海西は、会稽郡から見れば射陽よりずっと後方、つまり陳登の目前を通過しなければ
到達できない場所にある。陳登は2度の戦いのいずれも寡兵のため対応できず、奇策を用いざるをえなかったが、
それは呉軍が戦力の優位をたのんで敵地深く侵入した可能性を示唆している。匡g城の籠城戦と、呂範の海西侵攻が、
同一のキャンペーンのおのおの一部を構成していたのではないだろうろうか。

32 :
>>27
続き
陳登はこの戦いの功績により東城太守に昇進したとされ、下?国の東城県といえば魯粛の出身地でもあり、
これが分離独立して東城郡に昇格したと考えられているが、あるいは東郡太守の誤りであるとする説もある。
なるほど本郡から分割されたものとはいえ、このような片田舎の小郡の太守では昇進と呼びうるか怪しいものである。
ただし広陵の人民が郡境を越えて陳登にすがりついたという記述もあり、やはり東郡と解するのは難しいようだ。
なお、ほかに陳登を東城太守と呼ぶ記述はなく、たとえば華佗伝などでも陳登は広陵太守として見えており、
実際には着任する直前に死亡していた可能性がある。
また、陳登は呂布の誅伐により伏波将軍に任命されているが、のちに陳登自身が語るように後漢の元勲である
馬援も拝命した由緒ある名誉な称号で、陳登が当時、ひとかどの群雄として尊重、礼遇されていたことが分かる。
呂布厨、孫策厨涙目でござるwwwww

33 :
三国時代の中ではなかなかの名将だと思う

34 :
呂布も孫策も天下取れる器ではありませんでした まる。

35 :
呂布も孫策も弱いからね。
あくまで「地方一」ってだけで。

36 :
>陳登はその報復として厳白虎の残党に手を回して孫策を暗させたのであるが
孫策を暗したのは許貢の残党で裏にいるとすれば郭嘉だというのが一般的な解釈だが。

37 :
2度目の大軍をもって侵攻してきて責められようとしているのは陳登だろ。
曹操より陳登の策なんじゃねえの。 厳白虎配下で恨みもっている人物の調略は
対岸の徐州の豪族であった陳登の方がいろいろとノウハウもっとるだろうし

38 :
>>32
呂布の捕縛に色々と功績があった。
荊州の劉表の下にまで名声が鳴り響いていた。
三国志じゃさらっとしか触れてないけどね、ゾウ洪と同じ扱い

39 :
徐州周辺では手強いな>陳登

40 :
>>27
君主だから凄いとは限らん
神輿の皇帝だっているのに
蕭何・張良・韓信を知らないのか

41 :
傑物ではあるけど、一代の英雄孫策と比べちゃだめだろ

42 :
まあ劉表にしてみれば孫策は孫堅の時代からの宿敵だからな
名声というより孫策が横死したとメシウマ状態だったろう 

43 :
敵の敵は味方って言うしな。

44 :
一代の英雄が徐州を攻略できなかったとな? 呂布も孫策も陳登攻略できず、命を奪ったのは腹に巣食う寄生虫だったとか・・・・。

45 :
陳登も江東を攻略してないけどな

46 :
徐州は人住んでねえし

47 :
英雄というけど、旗揚げ当初、官位が何もなく中央の史大夫に仕官の誘いをしたものの、殆ど相手にされてないよ。
で、漢(実際は曹操)に官位を所望したけども、討逆将軍という雑号将軍もらった程度で鼻くそのような扱いを受けたまま。
呉厨が英雄ともちあげているけど、呉が重きを無したのは孫権になってからなんだな。
大体、甘寧とか元海賊なんだぜ。孫策軍団というのは劉備に負けず劣らず結構胡散くさい扱いうけていたぽい。
張コウなどの徐州人脈が呉にくるようになったのは曹操の徐州虐以降の話だな。

48 :
>>45
三十代の終に寄生虫症にやられて死んだから生きていたら後半生に豫州か揚州の都督諸軍事の目あったかも孫呉には強かったし

49 :
とは言え、呉の礎を築いたのは孫策だからなー。

50 :
孫策の長江沿岸の平定の速さは凄まじい。
孫呉がその後の江南王朝の礎を築いたのは明らか

51 :
>>49
孫策は揚州各地の群雄を討伐したが、手ごわい敵を倒したなというのは父の仇をうった黄祖戦ぐらいじゃね?
中央に進出しようとしたら、陳登を抜けなかったそれが実態。 
あ、太史慈を降服させた戦いはあったな。劉?がクズ過ぎただけだけど。

52 :
赤壁の戦いで曹操軍を跳ね除けるだけの兵力を用意出来たのは、
孫策が生前に揚州一帯を押さえておいたからなんだよね

53 :
孫策が徐州を押さえて中央への橋頭堡に成功していればそもそも、赤壁は怒らなかったんじゃね?それ以前に許昌急襲できていたろw
関羽でなく、孫策が猛攻かけられていたはずだけど全部画餅に帰しちゃったね。

54 :
周瑜は孫策時代の盟友で周瑜無くして赤壁の勝利は不可能だったと言っていいほど。

55 :
それは孫策が死んだ後の話だろ。 孫策自身の話ではない。 

56 :
>>51
孫策は陳登相手にしてないしな、軍勢送っただけで出向いてないし

57 :
孫策が抱き込んだ周瑜は明らかに逸材。優に中原の人材にも匹敵する

58 :
>>56
本人が出向いていないというのなら、2度目の侵攻時に刺客に屠られたのは替え玉だったのか?w
なかなか斬新な説だなw

59 :
>侵攻時に刺客に屠られたのは
通説では狩猟の際に許貢の食客にられたというが。
孫策は瞬で下手人を皆しにしたそうだが。

60 :
瞬で下手人を皆しにできるというのに自分がされたとかw 
自分で書いていて疑問に感じないの?  

61 :
傷を受けたが即死ではなくその場の下手人は斬りし張昭や周瑜、孫権を呼び遺言した。

62 :
それに関しちゃ疑問だな
死んでたから孫権が立っただけとも考えられるし
周瑜の子孫や張昭の冷遇を見ると胡散臭い

63 :
案外、孫権が謀っ(ry

64 :
それにしては若すぎないか?

65 :
>>63
孫権(笑)なんかただのみこしやん
むしろ晩年は迷惑かけただけ

66 :
陳登厨は去ったかな?

67 :
孫策が大軍で攻めて陳登を滅ぼせないなら、呂布の猛攻に耐えた荀ユウや程c、謀臣郭嘉、カクの相手にもならんだろう。
呂布同様に鉄壁の布陣で固められて何もできないよ。
小覇王というけれども揚州の天下取りで終わった人だね。

68 :
しかし、陳登もマヌケな死に方してるなw

69 :
>>65
孫権は陳登の死去直後にちょろっと長江北部を占領したぐらいで
長い治世の大半で豫州徐州すら制圧出来なかった。
蜀漢も荊州取られてからオワコン感漂うけど、呉もなかなかのヘタレ。
魏→晋交代時になんとか反司馬勢力と糾合しようとしたけど、
結局何も出来なかった。
結局とのところ三国志のメインは袁紹が潰れた時点と
司馬氏の高平陵の変が転換期だったね。呉蜀は所詮
オワコン王朝。

70 :
>>67
孫策軍は呂布軍よりずっと版図広いし、呂布程度にしか勝てない荀攸・程c・郭嘉・賈詡程度では相手にならないな。

71 :
>>68
http://homepage2.nifty.com/o-tajima/san/chintou.html
 また、彼は意外な箇所でも正史に登場する。『魏書』「方技伝」のなかには天下の名医・華佗の往診カルテが記載されているが、
その患者の一人が広陵太守陳登だった。刺身を食べて寄生虫に侵されて胸がつかえ、顔がてかりだし、重体に陥ったので
名医華佗の診療を仰いだのである。華佗は即座に胃の中に寄生虫がいることを見抜き、特製の虫下し薬を処方して二升も飲ませたところ、
陳登は果たして大量の寄生虫を三升ほど吐き出した。だが華佗は「この病は三年後に必ず再発するので安静に。」と予言して去る。
果たして三年後に再び同じ状態となったが、このときは華佗がいなかったため、為すすべがなく亡くなったという。
虫入り刺身にやられた模様。 怖いのう。

72 :
孫策も孫策で詰んでたと思うけどな。
あれ以上は勢力拡大の余地が無い。
北へ行けば陳登に負けるし、西へ行けば劉表、南へ行くのは無理。

73 :
>>72
何故無理なの?
まだ土地が空いてるはずだけど

74 :
てか、長江が有るせいで、陳登いなくても徐州に攻め込むの難しいよな

75 :
孫策と周瑜のコンビは相当破壊力ありそうだが。

76 :
>>69
長江北部って孫策の代から支配してないっけ?

77 :
>>75
周瑜なら陳登ごとき勝てるだろうな。
何故、周瑜が軍を率いなかったのか不思議だ。

78 :
交州や交趾にも孫権の代に進出しているけど、それでも魏や晋には全然かないません。
蜀漢から荊州奪回したりもしたけど、呉は飽くまでも合肥や寿春、東興にこだわったんだよなあ。
そもそも、呉は侵攻戦苦手なんじゃね? 寿春も合肥も東興も失敗していて
魏にまともにかてた侵攻戦って呂蒙が魏と連携して関羽を滅ぼしたときと、曹休を陸遜が破ったときぐらいじゃないか?

79 :
>>76
豫州のことならあれ袁術の勢力圏だろ。 オヤジが死んだ後、袁術に兵の大半ごともっていかれなかったか。

80 :
>>78
揚州・交州ってほとんど空き地だよな
空き地を掠め取った程度では、中原の覇者に敵うわけ無いわな

81 :
>>79
だからこそ、孫策が江東を短期間で制覇出来たのは凄いよね。

82 :
確か孫堅って江南に独立政権を建てたかったんだろ
中華統一が目的では無いはず

83 :
いやまぁ、隙あらば中原へ攻め込んでくると思うけどね・・・。
実際そうだったし。

84 :
多分,孫堅と孫策はまったく基本方針がちがうはず。
揚州の地盤を固めた後は徐州に出ようとしていたから、
父の真意はともかく、孫策自身は中原で覇権を争う
意思はあったとみてよかろうよ。

85 :
先に交州を取ったという事は徐州制圧が一歩遠のいたわけだな。

86 :
それ以前に、一歩足りとも近づいてないけどね

87 :
孫堅の夢は一応達成されたわけだが、
それでは国を維持するのが困難だったというね

88 :
中国でも王朝でもない人たちのこと語ってどうすんの?
三国志語りたいなら正史三国志スレ行け

89 :
何言ってんだコイツ

90 :
確かに三国志語りたいなら他でやればばいいのにとは思うな

91 :
>>89
江南は中国じゃないという事だ。

92 :
まぁ、それを言うと三戦板が有るのに、中英板や世界史板で三国志語るのもおかしい話だな

93 :
>>80
南部沿海部には、百越の南越・閩越、輋蛮・畬蛮、京人などもいましたが、何か?
前スレで出ていた山越や武稜蛮に比べれば、文書で交渉事が通じるだろうけど
無住の地ではなかったですよ。

94 :
無人というよりは、漢人のいない土地と言った方が正しいだろうな。
僻地ではあるが、人口はまあまあ(中原に比べるとやや少ない)

95 :
呉が現在のベトナムの一部まで支配していたってのは、本当?

96 :
>>95
オマエ士燮を知らんのか

97 :
確かに中国の歴史は誇大表現される事も多々あるが
それは割と史実

98 :
南越国が解体されても、既存の世襲領主を通しての支配なので
各地域が自治をしていたよ。
士燮はその時代の世襲領主たちと孫呉との交渉窓口役だ。
五代十国や趙宋の時代には、また独自の動きがでてくるがね。

99 :
>>96
ベトナムでは称えられてるよな。

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