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2011年10月1期世界史世界史に於ける秀吉の朝鮮征伐の考察その2
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世界史に於ける秀吉の朝鮮征伐の考察その2
- 1 :11/07/01 〜 最終レス :11/11/30
- 朝鮮征伐を考察してみよう
関連スレッド
【文禄】 秀吉の朝鮮征伐 【慶長】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1284462898/
秀吉による朝鮮征伐の軍事分析
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1308285858/
【文禄慶長】 秀吉の朝鮮征伐スレ5 【壬辰倭乱】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1265715021/
秀吉による朝鮮征伐に関する考察
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/war/1220349972/
秀吉の朝鮮征伐を明の観点からの考察
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/war/1220349972/
- 2 :
- 参考サイト
1592-1598
plaza.rakuten.co.jp/1592to1598/
“真相”文禄・慶長の役
https://sites.google.com/site/woruzan/home/bunrokukeichou
- 3 :
- 1592-1598
http://plaza.rakuten.co.jp/1592to1598/
- 4 :
- 文禄・慶長の役の英語版wikiを見たらなんか凄いことになってるな。
とりあえず変な点を列挙してみるw
・晋州城の戦いで日本軍3万人のうち1万人以上が戦死した!ソースはKBS!
・李如松が平壌を奪回し、この戦いで日本側の戦死者は実に1万2000人にのぼる!
・碧蹄館の戦いの結果は日本軍の戦術的勝利、そして明軍の戦略的勝利である!
・碧蹄館の戦いの投入兵力は明軍が1万2000、日本軍が3万〜4万。明軍の戦死者は2000〜2500、日本軍の戦死者は少なくとも6000人、最大推計で8000人である!
・幸州山城の戦いでは朝鮮軍2300人が日本軍1万人をぶっした!
・稷山の戦いで明軍の戦死者は200人だが、日本軍の戦死者は500人以上である!
・鳴梁海戦で李舜臣は、たった13隻で日本軍に8000人もの死傷者を出す大損害を与えた!
・蔚山城の戦いで日本軍の戦死者は6000〜1万人。なお、日本側の援軍の兵力は8万人だ!ソースはKBS!
・順天城の戦いでは日本軍の方が被害甚大!3000人も戦死したよ!
・露梁海戦は朝鮮・明連合軍の大勝利!
・戦役全体で少なくとも14万人の日本兵が戦死した!
碧蹄館の日本側の戦死者なんか、ちょっと前見たときには「2000〜8000人」だったのが
いつのまにか「6000〜8000人」に増えてるw
一体どんな連中が編集してるんだw
- 5 :
- 連携し共生すべきアジアの素敵な人々
- 6 :
- >ソースはKBS!
「ソースはNHK!」と言うのと同じでインチキくさいなw
- 7 :
- 秀吉が賢いのは、ちゃんと朝廷を立ててることだよな
これは信長にも家康にも無い要素だ
- 8 :
- 朝鮮征伐
- 9 :
- >>1 乙
でも、本当は”その2”じゃなくて”その10”だな。
- 10 :
- そのヌルハチも明との戦いで重傷をおって死んでるし、 明を滅ぼしたのは反乱の首領の李自成
李自成が成功しなければ女真族は天下を取れなかっただろう
- 11 :
- そりゃそうだろうな。
- 12 :
- 鹿児島国際大の増田勝機教授(東洋史)は、こうした福建軍との接触を通じ
て、合力計画が持ち上がった、とみる。注目されるのは、「請計処倭酋疏」
に戦艦2000隻、精兵20万で日本を制圧するという計画が見えることだ。
許孚遠はこの計画を提案した1か月後、再び工作船を薩摩に派遣している
(『神宗実録』)。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/003/re_003_040319.htm
- 13 :
- こんな荒唐無稽は与太話を載せる読売の糞ぶり
- 14 :
- >>12
そこ、島津義久による提案みたいなこと書いてるけど
ただの妄想にすぎないよ
薩摩に居た一明人にすぎない許儀後が「ボクの考えた最強の対日戦略」 として提案しただけの話で
政策決定に係るような立場の人間による提案でもなく
もちろん採用されることもなかった話にすぎないよね
義弘以下10000の軍を朝鮮に派遣してる島津家が
さらに4万も動員して上方まで攻め上るなんてできるはずがない。
領国は薩摩・大隅2か国だけだよ。
それに朝鮮への出兵中も
肥前名護屋には秀吉以下10万の軍勢が待機していたし
上方には豊臣秀次以下3万余の軍勢が存在していた。
仮に島津が少々の兵を動員して秀吉への反乱を実施したとしても
こんな状況では成功することなど有り得ない。余りに荒唐無稽。
結論として言えるのは、所詮この提案は一人の明人医者による全く現実味のない提案でしかなかったってことで
>>941のリンク先にある「島津の秀吉討伐計画」なんて言い方は全く事実を歪曲したもの。
- 15 :
- 訂正
× >>941のリンク先
○ >>12のリンク先
- 16 :
- 前スレ >>995すごいレスだったな
ローマは都市国家であってイタリア半島統一戦をやったのを知らないって事みたいだね。
びっくりしたよ。イタリア半島統一ってなんだと思ったの?
ケルト攻略戦もあったしね
つまり攻勢側だったんだが。
要するにローマはあきらめなかったが日本はあきらめた
指導者達の意思と能力の問題
- 17 :
- 願わくば、「学問 文系」の名にふさわしい討論がなされますように
煽り愛はよそでやってね
- 18 :
- >>13,>>14
ホントに秀吉ラブのネトウヨはいい加減だなー(笑)
前スレでは『慶長の役は秀吉の作戦どおり』と
なにも裏付けとなるソースも提示できず、どこの学者も主張してない
荒唐無稽な与太話を盛んに吹聴しときながら、
鹿児島国際大の増田勝機教授(東洋史)が主張している『明・島津
合力計画』をただ気に入らないからっといって、なんの裏付けとなる
ソースも提示しないまま与太話と決めつけるんだから(笑)
これがネトウヨの自慰史観なんだね(笑)
- 19 :
- 構想だけ持ちかけられた調略なんて有りがち話だな。
福建からの義久ラインだけじゃなく、清正も秀吉の首を取れば王に册封してやると持ちかけられているしな。
どっちも豊臣政権が強力だから隙もないし現実性がなかったわけだが。
- 20 :
- >>19
はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな秀吉に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)
秀吉が慶長4年に追加の軍勢を派遣していたら、当然、身辺の兵が手薄
になる、そこで島津義久の軍勢が明国の艦隊に搭乗して名護屋城を急襲
したら、秀吉の首を取る可能性は十分あるけどな(笑)
また、島津とは別に豊臣政権に恨みを抱く、徳川家康も伊達政宗も毛利輝元
もいつまでも秀吉の妄想に付き合っていたとは思えんがね(笑)
毛利輝元なんかは史実では豊臣方だったけどそれは秀吉が死に、新たな脅威
として家康が登場してきたからだ(笑)
- 21 :
- はいはい、戦艦2000隻、精兵20万(笑)
どこで建造されて、どこで軍勢を集結させてたんだ?(笑)
そんな大部隊で日本を攻める気なら当然、全国に動員かけたんだろうな(笑)
まさか、慶長4年に日本軍が朝鮮半島に渡ったら急に天から降りてくるとかいうん
じゃないだろな(笑)
それと、あほみたいに身辺が薄くなるほど軍勢を派遣させるっていうソースは(笑)
それと何このー的妄想(笑)
↓
>また、島津とは別に豊臣政権に恨みを抱く、徳川家康も伊達政宗も毛利輝元
もいつまでも秀吉の妄想に付き合っていたとは思えんがね(笑)
毛利輝元なんかは史実では豊臣方だったけどそれは秀吉が死に、新たな脅威
として家康が登場してきたからだ(笑)
- 22 :
- >>21
はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな秀吉に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)
>それと、あほみたいに身辺が薄くなるほど軍勢を派遣させるっていうソースは(笑)
おまえら秀吉ラブのネトウヨが主張する荒唐無稽な『慶長の役は秀吉の作戦どおり』
では14万以上の大軍が南岸の防衛強化だけの為に派遣されているんだろ。
だったら南部4道を征服するためには30万くらいの大軍を投入しなけりゃ
ムリダナ(笑)
- 23 :
- >>23
はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな明に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)
早く答えろよカス(笑)
はいはい、戦艦2000隻、精兵20万(笑)
どこで建造されて、どこで軍勢を集結させてたんだ?(笑)
そんな大部隊で日本を攻める気なら当然、全国に動員かけたんだろうな(笑)
まさか、慶長4年に日本軍が朝鮮半島に渡ったら急に天から降りてくるとかいうん
じゃないだろな(笑)
それと、あほみたいに身辺が薄くなるほど軍勢を派遣させるっていうソースは(笑)
- 24 :
- >>23
はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな秀吉に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)
>はいはい、戦艦2000隻、精兵20万(笑)
>どこで建造されて、どこで軍勢を集結させてたんだ?(笑)
明国の福健省で建造するんだろ(笑)
- 25 :
- >>24
はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな明に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)
本当に馬鹿な奴だな(笑)福健省で2000隻の軍艦が建造されていたソース
を求めているんだよバーカ(笑)
まさか、大量の軍艦が急に現れるとでも思ってるのかよ(笑)
明への愛でここまで都合のいいこと以外見えなくなる典型なカスだな(笑)
併せて軍勢20万に動員かけたソースも早く出せ馬鹿(笑)
- 26 :
- >>25
ほんと秀吉大好きネトウヨって碌に人の意見も読まずに
反論するんだな(笑)
まあ、大好きな秀吉に都合のいい妄想のじゃまされたんじゃ
気持よくーできないもんな(笑)
>鹿児島国際大の増田勝機教授(東洋史)は、こうした福建軍との接触を通じ
>て、合力計画が持ち上がった、とみる。注目されるのは、「請計処倭酋疏」
>に戦艦2000隻、精兵20万で日本を制圧するという計画が見えることだ。
>許孚遠はこの計画を提案した1か月後、再び工作船を薩摩に派遣している
(『神宗実録』)。
計画を提案って書いてあるじゃん(笑)
どこにも建造していたって書いてないじゃん(笑)
大好きな秀吉をバカにされ、頭に血が上って
勝手に人の主張を勘違いするなよ。
「もし秀吉がもっと長生きしていたら、撤兵は許されず戦いは
さらに泥沼化したはずだ。
その時こそ島津氏と明の合力が実現していたかもしれない。
合力計画は、秀吉の死とともに消え、島津側の史料からは
抹消されたのだろう。(おわり)』
ていうのがこと記事の趣旨なんだから(笑)
- 27 :
- お互いもうその辺にしとけよ
- 28 :
- >>26
はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな明に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)
本当に馬鹿だな(笑)自分の書いたこともう忘れたのかよ(笑)
慶長4年に動員された日本軍の間隙を突いて名護屋城に攻め込んで秀吉を
打ち取るんだろ(笑)
慶長3年12月に日本軍が撤退して、慶長4年の春までほんの数カ月しか
ないのに、明軍が2000隻の軍艦(笑)の用意もせず、20万(笑)の軍勢も
動員していないんだから現実的に間隙を突いて名護屋城に攻め込むなんて
ことはあり得ませんから(笑)
まさか、慶長4年に日本軍が朝鮮半島に渡ってから、軍艦をつくり出して
20万を広い大陸からかき集めて動員するなんて思ってんの(笑)
用意するだけで相当な年月がかかるのに、さらに長い時間を懸けて危険極まりない
大海を渡るなんて非現実的なこと本気でできるとでも思ってんの(笑)
ちなみに慶長の役は、9月から始まって翌年2月ごろには軍勢の半数以上が本土に帰還してる
ので、日本軍が朝鮮半島で釘付けになるなんてことも妄想でしかない(笑)
- 29 :
- 14万の大軍を派遣した目的は城作りだけじゃなくて
朝鮮南部の掃討だって秀吉の出した朱印状に書いてあるじゃん。
慶長の役については秀吉の作戦通りに展開したといって良い。
- 30 :
- >>28
「もし秀吉がもっと長生きしていたら、撤兵は許されず戦いは
さらに泥沼化したはずだ。
その時こそ島津氏と明の合力が実現していたかもしれない。
合力計画は、秀吉の死とともに消え、島津側の史料からは
抹消されたのだろう。(おわり)』
ここは学問版だろ。
だったら上記以上のことを考えてもしょうがないじゃん。
日本側としても
慶長4年の再侵攻で順調に占領地を広げられず、手痛い
敗北を重ねて全軍撤退するかもしれない?
または順調に占領を重ねて、新たな占領地に多くの駐留兵を
置くことで本国の兵が手薄になるかもしれない?
(この場合秀吉周辺が手薄になり島津家に勝算がでてくる。)
明側としても
慶長4年の再侵攻を撃退して日本勢を朝鮮半島から追い出せるかも
しれない?
また、新たに占領地を広げられ、日本勢を撤退させるには他の方策
を考えなければならないかもしれない?
(この場合に島津家との合力の可能性がでてくる。)
なんともいえないなー(笑)
- 31 :
- >>30
占領地が広がれば、まず外様大名から疲弊していくだろうな。
出征中に豊臣政権が大名両国に立ち入って検地をするなど豊臣政権が強固になったことをお忘れなく。
- 32 :
- >>31
お前ってホントに秀吉が好きなんだね(笑)
秀吉のこと愛してるんだ(笑)
お前の書き込みの節々にお前の秀吉への愛が感じられるね(笑)
でもここって学問版なんだよね。
お前の秀吉に対する歪んだ愛を表現する場じゃない。
>占領地が広がれば、まず外様大名から疲弊していくだろうな。
じゃあなおさら島津家以外の外様大名も明国との合力の可能性
が出てくるね(笑)
だいたい朝鮮出兵参加の大名達はみんな自腹なんだから、秀吉への
不満は渦巻いてる。
明国が直接または島津家を通じて間接的に調略すれば合力する大名を
続々と出てくるかもな(笑)
- 33 :
- >>32
勘違いしてるみたいだが、31は携帯からでそれ以前のアンタへのレスはパソコンから。
ということはアンタにレスしてるのは複数人ということ。
- 34 :
- 上の明と島津のエピソードは初耳だけど
明人は一介の商人?でさえ戦略思考ができるのに
戦国日本人は軍機の中枢にいる人間が誰一人として戦略思考が
出来なかったってことがわかる
- 35 :
- 戦略思考というほどのもんかなぁ。なんかインパール作戦並に現実性から
かけ離れたもんにしか見えない。
そういえば、三路の戦いといい、碧蹄館といい戦略性よりもごり押しして
大敗パターンが多いな明軍は
- 36 :
- 中国の対北方遊牧民族戦争は
どれだけ損害が出ても侵攻を食い止めれば勝利っていう戦争だから
碧蹄館は日本にとっても明にとっても勝利、つまり引き分けと言える
この辺はノモンハンの戦闘に近い
- 37 :
- >>36
当時の日本軍の戦略目標は「北上」ではなく南下する明軍の撃破なんだから
どう贔屓目にみても「明軍の勝利」あるいは「引き分け」はないわ。
対して明軍の戦略目標は南下して「日本軍の撃破」にあるんだから
どちらが戦略目標を達成したかは一目瞭然だな。
- 38 :
- >>32
ところでお前。(笑)
を使って煽っているがwを使うのやめたのか
- 39 :
- >>32
どうやら、対立者が一人に見える病のようですね。
もう少し進行すると、自分以外が敵に見える病にステージアップします。
お大事に。
秀吉の戦争目的は学問的に研究されていますので、
期間や相手を無視して明征伐が常に掲げられていたかのような信仰心や、
秀吉が実力行使のみで問題を解決しようとしていたかのような
史実に基づかない空想に浸ることが病を深める要因です。
是非冷静になられることをお薦めします。
- 40 :
- 秀吉の目標ってなんだったの?
明征服?朝鮮征服?大名どもが疲弊すればおk?中央集権化?失業対策の公共事業?
- 41 :
- 携帯使ってる奴が一人と断定できるのも被害妄想の為せる業?
- 42 :
- >>40秀吉は明に向かって「明を征服する」とは言ってないんだよね。
一方で朝鮮や大名を使役するときの掛け声には使っている。
時と場所を選んで使うレトリックであることは関係書籍でも解説されているはずなんだが、読んでないのか、読んでもわからなかったか。
- 43 :
- >>16
ほいほい
やっぱりでてきてたみたいだな
お前が言い出したのはハンニバル戦争とピュロス戦争だろうがw
この二人相手には内地に引き込んでの防衛戦争やってるのに
それまでの時代でローマが拡大戦争やってたから侵略側だとか
頭の悪さをみせつけてそんなに楽しいのかお前ww馬鹿の思考回路は理解できんなwww
だからお前みたいな馬鹿みたいに精神さえあれば大丈夫とかいって
指導部が必死こいて戦争継続してたナチスドイツ帝国は首都まで蹂躙されて完敗だ
大日本帝国も長引けばこうなってただけ
てか、お前の馬鹿みたいな妄想設定を使っても結局一時の有利不利云々いうなら
最終的に全面撤退の日本軍完敗、明朝鮮の完全勝利だろうがww
- 44 :
- >>42
おう、読んでないから知らないぜ、それで出兵の目的は何なんだぜ。
- 45 :
- そんなもの領土の切り取りに決まってるだろ。
大勝利すれば北京まで行くし大敗北すれば本土守備に必死になるってだけだろ。
- 46 :
- >>45
もっともだw
- 47 :
- カオスなことになってるな
- 48 :
- >>43
残念!!
>お前が言い出したのはハンニバル戦争とピュロス戦争だろうが
わかりやすい捏造だな。やっぱ日本語読めないんだな
最初ローマといってたんだが。無知なお前が勝手にハンニバルとピュロスに限定
慣用表現でピュロスの勝利は出したがな
しかもハンニバル戦を
>内陸に敵を引き込んで消耗を強いた
「引き込んで」!!!!!ここは根本的に間違っている。
最終的に持久戦法に戦法が限定されただけ
さらに>イタリア半島統一、といっているのに
>ハンニバル戦争当時のローマはイタリアを征服して
と再び無知をさらす。日本語の読解力がないからそうなるんだよ
お前の世界ではローマがいきなり半島統一国家として現れたみたいだな。
二度説明させるのも逃走負け犬の典型だな
そして論破された奴の典型としてこれらの主張はガン無視して罵倒するだけ。
みじめなやつだな。
反論できないってことは自分の無知さは理解できたんだろ
理論がまだ理解出来てないのはわかるが。
- 49 :
- >>44
それは天正20(1592、12月に文禄と改元)年5月18日付の、太閤秀吉
から関白豊臣秀次へ宛てた25箇条の覚書(前田尊経閣文庫蔵『古蹟文
徴』所収文書)を見ることで、おおよその輪郭が浮かび上がってきます。
二十五箇条の覚書 抜粋
┌--------
一、高麗都(ソウルの事)、去二日落去候、然る間、弥急度御渡海なされ、
此度大明国迄茂残らず仰付[おおせつ]けられ、大唐の関白職御渡しなさ
るべく候事----
征服後の明国の関白に日本の関白である秀次を任命する。
http://aizax.fc2-rentalserver.com/repo5/051214.html
- 50 :
- PCで書き込むと意味が変化するなんて言う人がいんの?
- 51 :
- >>44解釈する奴は色々居たが、一つに絞るのは無理。最初から最後まで一つだけに絞る必然もない。しかし、概念で言えば目的は政権の維持と強化だろ?
- 52 :
- >>45
秀吉は面子を立ててくれるなら撤兵すると交渉で言ってるが。
- 53 :
- ウィキの立花宗茂の記事に
安東常久(立花家臣)が李如松と一騎打ちして落馬させた、とあるけどマジ?
- 54 :
- もういい加減秀吉を過大評価するのはやめようぜ。
農民上がりの俄か武士が120年にわたる戦乱を統一
したのはすごいけど、秀吉本人がその業績に見合う
能力を持っていたわけじゃない。
漢民族の形成に甚大な影響のあった漢王朝の創始者、高祖劉邦だって
農民上がりから天下人になったが、 後世の歴史家からは分不相応な出世
と受けてめられている。
秀吉なんかも、せいぜい5大老の一人として所領100万石の大名くらい
が分相応だ。
- 55 :
- ( ´,_ゝ`)プッ
- 56 :
- 彼が羽柴秀吉として織田家に使えていたころは、
竹中半兵衛や黒田勘兵衛などの兵法軍学をマスター
した軍師達と相談しながら作戦を立案していたが、
彼が豊臣秀吉として織田家に変わって天下統一に
万進した以降は、石田三成や長束正家などの能吏
達に作戦を効率良く実施させるようになった。
それ以前の軍師達のように秀吉と共に作戦を立案することもなく
秀吉がほとんど一人で立てた作戦を工夫して実行に移すのが彼ら
能吏の仕事だ。
- 57 :
- 正当に評価してるから明に殴りこむつもりだった文禄の役は失敗、
南部の掃討を目的とした慶長の役は作戦成功
その成功をどういう具合に勝利に結びつける気だったのかは
秀吉が死んで戦争が終わったので不明。
- 58 :
- >>51
政権強化のための領土拡大じゃないの?
家臣にどんどん加増して忠誠心ゲット的な。
- 59 :
- >正当に評価してるから明に殴りこむつもりだった文禄の役は失敗、
日本の十倍以上の人口を誇る相手に対し、ろくに準備もせず戦争を
仕掛け、結果、1年程で失敗してる。とても正当に評価したとはい
えないね(笑)
>南部の掃討を目的とした慶長の役は作戦成功
>その成功をどういう具合に勝利に結びつける気だったのかは
作戦が順調にいってると思うんなら、勝利に結びつける方法もわかるだろ?!
実際には順調になんていってないから(笑)
- 60 :
- >政権強化のための領土拡大じゃないの?
もしオタクのいうとおりなら、秀吉死後4年半で江戸に幕府が開かれ
豊臣家の領土も4分の1程に減らされているんだから見事に失態した
わけだ(笑)
- 61 :
- 朱印状によると、目標は南部の成敗、城の築城、
漢城より五日路も六日路もかけてやってくる明軍の迎撃
とあるから、単純に南部占領地に築城し領土化を目指した作戦じゃないぞ。
慶長の役は当初の目標を達成したといえる。そこはイデオロギー抜きで正当に評価しないと。
- 62 :
- >>60
まぁこの指摘は正しいな、秀次をし秀頼の成人前に秀吉自身が死んじゃったので
豊臣政権はあっさり崩壊した。
本人は秀頼が成人するまでは生きてるつもりだったんだろうな。
- 63 :
- >>61
秀吉の朱印状が大雑把な為、いろいろ自分に都合のいい
解釈をしてるんだろうけど、普通に読めば南部に侵攻し、
仕置きの城を築城しろと読めるけどな。
ちなみに『仕置き』の意味について三省堂大辞林では、
(3)戦国時代、封建領主が領民を支配すること
となっているので仕置きの城とはすなわち朝鮮人を支配
する為の城のことだ。
すでに文禄の役のころに占領し支配する為の城も作ってある
南岸での新たな築城命令なわけはないだろう。
- 64 :
- >>60
政権崩壊の原因は後継者問題であって朝鮮征伐とは関係ないな
- 65 :
- >>59
お前の主張と笑いを入れて上から目線で煽るとこは、例の負け犬っぽいな
どちらにしろ、作戦が中断したんだから勝利の可能性がなかったとは言えんな。
それから60も似た文体だが、60は64で言った通り、関係ないことを関係あるかのように語っているので
低能さがわかる。
- 66 :
- >>65
>どちらにしろ、作戦が中断したんだから勝利の可能性がなかったとは言えんな.
まあ、1%ぐらいは勝利の可能性あったんじゃないか(笑)
- 67 :
- >>66
その数字も根拠がないので笑うほどではないな。
しかし長文煽りをする人間にしてはえらくおとなしいくなったな。
- 68 :
- >>67
>しかし長文煽りをする人間にしてはえらくおとなしいくなったな。
長文煽りって?
- 69 :
- >>63
いや、秀吉は小早川隆景に宛てた書状の中で沿岸部に築かせた橋頭堡的な城郭群のことも「仕置の城」と呼んでいるわけだが
それに小西行長の「仕置の城」が全州会議の時点で順天に築かれる方針だったことはどう説明するんだ?
八月中旬の全州会議で「御仕置きの城々、おのおの惣談相定まり」、
その後全羅道・忠清道の掃討を完了してから十月下旬に泗川城が、十一月初旬には蔚山城の築城が始まってるんだから
これらの城が秀吉の書状にある「仕置の城」と見るのが自然だろう
- 70 :
- 逆に「仕置の城々」が内陸に築かれる予定だったという根拠となる書状とか、資料ってあるのか?
今まで一度も出てきてないよな
- 71 :
- >>69
文禄の役でのことだろ。
新たに占領したばかりの朝鮮半島南岸に仕置きの城を作らせても
なんら不思議じゃない。
小西行長の順天城については推測だが対馬の宗義智と一緒に講和交渉を行った
関係から、慶長の役においても明国との交渉役を担当するのに便利だから
じゃね?
- 72 :
- >>70
慶長二年の立花家朱印状の第一条と第二条をつなげて読めば
内陸の新しい占領地に仕置きの城を作ることを命じているとしか
読めないが。
- 73 :
- それは「領土の割譲が目的なんだから占領地を手放すなんて不自然だ」
って思い込みだな。
- 74 :
- >>72
それだと諸大名が秀吉の指示を無視して独断で南岸部に城を築いたことになるぞ
そのことについて諸大名が秀吉に対して申し開きをした書状でも残ってるというならわかるが
あと小西の城が順天にあるとなんで交渉に便利になるんだ?意味がわからん
- 75 :
- >>74
72じゃないけど、順天は唯一全羅道に食い込む飛び地で
実質最前線になるからでしょ。
- 76 :
- >>75
いや、全羅道・忠清道を掃討した後、その内陸部に仕置の城を築く予定だったというのが>>72の主張だから
そうなったら順天って最前線どころかかなり後ろの方になるでしょ
- 77 :
- 諸大名が秀吉の命令を無視して南岸部に城を築いたと考えるよりは、
「仕置の城は海辺に築け」という休戦期間中の秀吉の方針が慶長の役でも継続されていたと考えるほうが自然でしょう
休戦期間中の「仕置の城」も慶長の「仕置の城」も在番組と帰朝組を定期的に入れ替える点で共通してるわけだし
なるほど慶長二年の立花家朱印状だけ読めば、
「この仕置の城とは内陸の支配用の城のことだ」と考えたとしても不思議じゃない
しかしその他の様々な資料に目を通せば違う結論が見えてくる
- 78 :
- どう考えても諸大名が「仕置きの城の配置が決まりました!」と秀吉に
報告した1ヵ月後に南岸に赴いてるんだから「内陸部に築け」というのは
デタラメだろ
- 79 :
- >>76
他と違って小西の城は「全羅道に築け」と指定されていたから。支持通り。
- 80 :
- >>73、>>77
>なるほど慶長二年の立花家朱印状だけ読めば、
>「この仕置の城とは内陸の支配用の城のことだ」と考えたとしても不思議
>じゃない
だったら素直に認めればいいじゃん。慶長の役の作戦目標は、内陸の新たな
占領地に仕置きの城を作ることだったって。
>「仕置の城は海辺に築け」という休戦期間中の秀吉の方針が慶長の役でも
>継続されていたと考えるほうが自然でしょう
「全羅道・忠清道を掃討した後、一度南岸に撤退して仕置きの城を増設しろ、
そして慶長4年からの再進攻までは城に立て籠もり、明・朝鮮軍の攻撃も
籠城して迎え撃て。」
という意味合いの秀吉の朱印状をソースとして出せばいいじゃん。
- 81 :
- >>78
>どう考えても諸大名が「仕置きの城の配置が決まりました!」と秀吉に
>報告した1ヵ月後に南岸 に赴いてるんだから「内陸部に築け」というのは
>デタラメだろ
慶長二年の立花家宛の朱印状のとおり実行するだけなら、再進攻から1ヶ月程
の八月中旬に在地諸将が集まって全州会議を開催する必要なんてないんだが。
秀吉の命令があまりにも漠然とし、なおかつ現地の実情を無視したもの
(たとえば最優先事項である全羅道民の無差別戮)なので、在地諸将が現地
の実情に沿った形で作戦計画の詳細を決める為の会議だったのだろう。
- 82 :
- 前スレで紹介された九州大学比較社会文化研究院の中野等はその著書
「秀吉の軍令と大陸侵攻」 において、
316頁で「赤国不残悉一篇ニ成敗申付」として皆しの対象だった全羅道民
に対しても、方針を転換し、敵対する者以外は掃討の対象から外し、それが
終わったら仕置きの城々を作る手筈となっていたが、詳細はわからないが戦況
に影響されて計画どおり仕置きの城々を作れなかった、と主張している。
また317頁ではその理由として左軍による全羅道での食糧調達がうまくいかず、
それは朝鮮王朝による清野作戦(焦土作戦)によるものではないか、と根拠
も提示せず主張しており、南岸へ撤退した理由の様に読者を誘導している。
- 83 :
- >>81
>>慶長二年の立花家宛の朱印状のとおり実行するだけなら、再進攻から1ヶ月程
の八月中旬に在地諸将が集まって全州会議を開催する必要なんてないんだが。
なんでそうなるの?秀吉は
国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。
全羅道の成敗とその他忠清道などの成敗せよ
といった後に
右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割
符、丈夫ニ可申付事。
と相談して仕置きの城の配置を定めよと言ってるじゃん。全州会議なんて指示通りそのままでしょ。
- 84 :
- >>83
>全羅道の成敗とその他忠清道などの成敗せよ
ふーん、8月中旬の全州会議の時点で全羅道民の皆しや
忠清道他への侵攻も完了してたんだ(笑)
初めて聞いたよ。
- 85 :
- >>84
こいつ本当に頭悪いなぁ(笑)それに相当暇人だな(笑)一日中張り付いてやんの(笑)
いいか低脳ニート
全州会議の結果、諸将は秀吉に以下のことを報告している。
一、先度自全州、御使衆ニ如申上候、青国へ相動。國中過半発向仕、夫
赤國うち相残りおり、各到割付、発向仕半ニ御座候、隙明申次次第、御仕置城
御普請ニ取掛り可申候事
そしてそれが終わると、秀吉自身全羅道と忠清道での敵軍の成敗が完了して南岸に城を築くこと
に満足してるんだよ
赤国青国相動、悉く平均申付梁山へ罷出、仕置之城拵、其方居城之由、尤ニ思召候
黒田長政宛 秀吉朱印状
それと質問な。全羅道と忠清道で日本軍が南岸に撤収するまでがんばった明・朝鮮の
部隊って何(笑)お前が全羅道と忠清道の討伐が完了していないと思うんなら当然言えるよな(笑)
俺はお前みたいに暇じゃねえから20時間以降にまた見に来てやるよ(笑)
- 86 :
- >>85
お前って本当に頭悪いな(笑)
まだ気づかないんだから。
秀吉は慶長2年の立花家宛ての朱印状で
「赤国不残悉一篇ニ成敗申付」
と最優先事項として全羅道民の皆しを命じているんだぞ。
お前の頭の中では日本軍は全羅道民を皆しにしてるんだな(笑)
だったら全羅道民を皆しにしたソースを出せや(笑)
- 87 :
- というか、百歩柚って仕置の城が本当に内陸に築かれる予定だったとしたら
色々と矛盾が出てくるんだけどな
諸大名が秀吉の「内陸に仕置の城を築け」という指令を無視して沿岸部に城を築いたのは何故か、
それについて秀吉に申し開きすらしなかったのは何故か、
それに対して秀吉が叱責を加えなかったのは何故か、
そもそも当時、破竹の勢いでさしたる抵抗も受けていない日本軍が、急遽沿岸部まで撤退したのは何故か
- 88 :
- 全州会議の時点で方針を転換して占領地を維持せず掃討するだけにとどめ
内陸に作るはずの城を南岸に城を作ることでお茶を濁すことにしたとすると、
さぞ会議は紛糾したうえに秀吉は激怒しただろうな。
- 89 :
- 飽きないねえ
朝鮮人が粘着してるの?
- 90 :
- >>86
まだ気付いてないのはお前だよアホ(笑)本当にアホすぎ(笑)
「赤国不残悉一篇ニ成敗申付」のどこで全羅道民を皆しにしろと読み解けるんだ(笑)
頭に蛆でも湧いてんのか(笑)
日本軍が全羅道と忠清道で明・朝鮮軍ら反日本軍分子を蹴散らすと秀吉は輝元宛に
全羅道・忠清道を征伐し平均したから渡海せずとも良いと言っている。つまり、秀吉の標的は
間違っても全羅道民(笑)ではなく、全羅道・忠清道の明・朝鮮軍ら反日本軍分子を悉く蹴散らす
ことだったと読み解けるわな(笑)
急度被仰遣候、朝鮮先々動之儀、平均ニ申付候間、其方渡海之儀、無用候
輝元宛秀吉朱印状 慶長二年十月五日
それとさっきの黒田長政宛にも「赤国青国相動、悉く平均申付梁山へ罷出」と全羅道・忠清道での成敗が
完了してることを秀吉は認めているんだよ。ここでも、秀吉の計画には86みたいなアホな全羅道民皆し(笑)
なんて馬鹿な発想は微塵もなかったことがわかるわな。というか書状示してやってるのに読みもせず、質問にも
一切答えられず妄想で反論してくるこのアホは一体なんだ(笑)厨房引きこもりか(笑)
- 91 :
- >>90
赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。
だったらお前にはなんて読めるんだ(笑)教えてくれよ(笑)
それに黒田長政への朱印状って慶長2年12月のことだろ。
慶長2年2月立花家宛ての朱印状とは10ヶ月も違うじゃん
九州大学の中野等はその著書「秀吉の軍令と大陸侵攻」
の316頁で「赤国不残悉一篇ニ成敗申付」
として皆しの対象だった全羅道民に対しても、方針を転換し、
敵対する者以外は掃討の対象から外したと主張している。
- 92 :
- >>91
成敗するのは当然敵だわな。常考。
味方を成敗してどうする?
- 93 :
- 中野等が権威ある歴史学者なのは確かだけど
今だに「日本戦史 朝鮮役」の記述を無批判に受け入れちゃう人でもあるからなあ
学者だからといって全部鵜呑みにしない方がいいよ
- 94 :
-
一、赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。
一、右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割
符、丈夫ニ可申付事。
>>91 がたびたび話題に出す↑この朱印状についてなんだが、面白いものを見つけたぞ
上の朱印状の記述について、以前このスレでは
「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。それが済んだら仕置きの城を築き、
在番の城主を決めてそれ以外は帰国せよ。」と意訳されていた
でも、共立女子大学教授の北島万次は、著作「秀吉の朝鮮侵略」の中でこう解釈してる
・・・「慶尚道南岸にある倭城の守りを固め、朝鮮の穀倉地帯である全羅道攻略に当面の狙いを絞り、
ついで忠清道、さらに京畿道へと進撃せよというものであった」
あと韓国の国防史学会長である李烱錫も、著作「壬辰戦乱史」の中でこう意訳してるんだ↓
・・・「赤国を漏れなく攻略し、青国はなるべく攻略すべし。作戦終了次第各築城区分に従い、
城主を決めて修築普請に粗漏なきように致し、引き上げ隊の帰還を容易にすべし」
何が言いたいのかというと、上の朱印状の記述は「城の新築」というよりは
すでに沿岸部に築かれていた「仕置の城」の「修築」の指示だったのではないかということ
「普請」という言葉は「建設」と「修築」両方の意味を持つからな。思わぬ落とし穴だ
慶長の役の築城が休戦期間中の築城と比べてはるかに少なかったこともこれなら辻褄が合う
- 95 :
- >>90,>>92
お前が見苦しくしがみ付いている
慶長2年12月に秀吉が黒田長政宛に出した朱印状の
「赤国青国相動、悉く平均申付梁山へ罷出」
この部分の間違いを指摘しておくわ。
赤国は全羅道のことで間違いないが、青国は忠清道のことじゃないぞ。
http://www.exblog.jp/blog_logo.asp?slt=1&imgsrc=200706/15/21/b0052821_22524051.gif
忠清道と京畿道のことだ。
- 96 :
- >>91
お前アホすぎるだろ(笑)お前読むことすらできないのか(笑)
>だったらお前にはなんて読めるんだ(笑)教えてくれよ(笑)
もう一回言ってやるよ(笑)日本軍が全羅道と忠清道で明・朝鮮軍ら反日本軍分子を蹴散らすと
秀吉は輝元宛に全羅道・忠清道を征伐し平均したから渡海せずとも良いと言っている。
つまり、秀吉の標的は 間違っても全羅道民(笑)ではなく、全羅道・忠清道の明・朝鮮軍ら
反日本軍分子を悉く蹴散らすことだったと読み解けるわな(笑)
急度被仰遣候、朝鮮先々動之儀、平均ニ申付候間、其方渡海之儀、無用候
輝元宛秀吉朱印状 慶長二年十月五日
>慶長2年2月立花家宛ての朱印状とは10ヶ月も違うじゃん
おいおい(笑)また、読んでねえなこのアホ(笑)
黒田長政宛の手紙は、全羅道と忠清道を成敗したことを主眼に言っているのではなく
全羅道と忠清道の成敗が完了して、黒田長政が南岸の梁山城に配置されたことに関して
秀吉は満足の意を表明してるんだよ。本当にアホだな〜(笑)ちなみにこの書状からも秀吉の
意に逆らって日本軍が南岸に撤退したわけでもなく、秀吉が全羅道と忠清道の成敗が完了して
いたと認識していたことも明快にわかるな〜(笑)
>九州大学の中野等は〜敵対する者以外は掃討の対象から外したと主張している。
恥ずかしい奴だな(笑)自分の言葉で反論できないから「九州大学の中野等が(笑)」
なんて恥ずかしいことを言う(笑)
中野等が(笑)なんて言わず、お前が秀吉の全羅道民皆しにしろという秀吉の書状(笑)と
作戦の失敗を伺わせる書状や秀吉の叱責なり示さなければお前のアホな妄想
「全羅道民の皆しの失敗により、日本軍は全軍撤退し南岸に追い詰められた(笑)」が
成り立たなくなるぞ(笑)
- 97 :
- >>95
馬鹿のくせに威勢だけはいいな(笑)
上でも指摘しておいたが、青国は忠清道
と京畿道のことなんだが、そして黒田長政
は京畿道の安城市までしか攻め込んでナイゾ(笑)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/6/6f/Map_Gyeonggi-do_ja.png
それで青国の成敗が完了したってなに寝ぼけたこと言ってるんだ(笑)
- 98 :
- >>95
>お前が秀吉の全羅道民皆しにしろという秀吉の書状(笑)
「一、赤国不残悉一篇ニ成敗申付」これを訳してみろ。
- 99 :
- >>97
「青国其外之儀者、可成程可相動事」、つまり「青国はなるべく攻略すべし」なので
秀吉の指示はあくまでも「なるべく」だから必ずしも青国全域を掃討する必要はない
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