1read 100read
2011年10月1期世界史【朝鮮民族の王朝?】渤海【中国の地方政権?】
TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼 ▼
【朝鮮民族の王朝?】渤海【中国の地方政権?】
- 1 :11/10/18 〜 最終レス :11/11/29
- 韓国では統一新羅とともに南北国時代を担う朝鮮民族による王朝と
位置づけておりますが私たち日本人は世界史の授業で中国の一地方
政権と教えられてきました。
どちらが正しいのかよくわかりませんがこの謎の国渤海について
語ってみましょう。
- 2 :
- 日本史板
◆◆渤海国について語ろう2◆◆
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1305981647/l50
- 3 :
- 中国英雄板
【靺鞨】渤海国の人材を語れ【高句麗】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1163416373/l50
- 4 :
- >>1
たて乙です。
興味がある話題なので、
いろんな人の意見を思っておりました。
>私たち日本人は世界史の授業で中国の一地方
政権と教えられてきました。
多分それは違うと思う。
手元にある高校時代の世界史の教科書(1999山川p79、古いけど)だと、
渤海は「唐文化の波及と東アジア諸国」の項に入ってる。
そのことからすれば、渤海は「地方政権」とか「中央政権」とかなしに、
東アジアの独立国として教えられている。
私見としては、近代国家の理屈をそれ以前の国家にあてはめて、
その帰属を取り合うことはナンセンスだと思うので、
この教科書のスタンスは正しいと思う。
- 5 :
- >>4
>いろんな人の意見を思っておりました。
すいません。聞きたいと思っておりました。のミスです。
- 6 :
- ◆◆渤海国について語ろう◆◆
http://unkar.org/r/whis/1043509346
358 :世界@名無史さん:04/07/17 22:09
日本経済新聞 朝刊 文化面 (2004年7月17日)
「渤海 ベール外す古代王国」
以下、重要部分の要旨。
当時の東アジア世界では、中国を「親」とする周辺国は互いに「兄」「弟」といった関係を
認め合うことがあった。
舅甥関係は兄弟関係より疎遠だが、「おじ」が「おい」より上位。
渤海の前に栄えた高句麗に対して日本は「兄」として外交。渤海と日本については
、どちらが「おじ」「おい」なのか従来、議論がわかれていた。石井正敏・中央大学教授は、
「続日本紀」「新唐書」の記述を分析し、日本が「おじ」に当たると結論。
中国と韓国・北朝鮮の間で歴史認識が対立。
渤海は朝鮮続とツングース系の靺鞨族を主体とした複合国家だったが、
中国の研究者が「中国辺境にあった数多い異民族国家の一つ」と位置付けるのに対し、
韓国と北朝鮮は「祖先が建てた国」とする。
日本の研究者にも、どちらの立場か迫ってくることがあり、論文の書き方次第では、
現地調査や共同研究などで協力が得られず、研究に支障を来たすこともあり得る。
「舅甥関係」でも、韓国や北朝鮮の研究者が「日本がおじ」と認めることは
まずあり得ないという。
- 7 :
- よくわかんないのだけど渤海の創始者の大祚榮は高句麗の将軍だったんでしょ?
- 8 :
- 渤海についてのビジュアルイメージが空白なところに、
これが刷り込まれてしまいましたよ↓
http://www.youtube.com/watch?v=-QrcKgM-2a4
まあなかなか面白かったけど
- 9 :
- 太王四神記の新羅・百済とは造形が違って
高句麗や北燕寄りなんだな。>大祚榮
- 10 :
- >>8
そのチェ・スジョンという俳優さんは高麗の始祖王建の役も別のドラマでやってたからごっちゃになったわ。。
- 11 :
- >>7
>高句麗の将軍
この言い方だと、高句麗王朝の武官だったようなイメージになるけど、
これだとちょっとちがってて、
大祚榮は高句麗に従属していた靺鞨の長だった。
彼が、滅ぼされた高句麗の遺民と協力して立てたのが渤海。
かといって渤海が靺鞨人だけの国家だったというわけではなく、
支配下に突厥やら契丹等いった連中もいた。
- 12 :
- なんで渤海が朝鮮民族の王朝になるんだYO!
スレタイで釣るの辞めてくれ
- 13 :
- 過去の国を現在国の歴史として捉えるべきではない
それはあくまで地理上の、民族上の歴史であり、現在国家の歴史ではない
政治的にも良くないし軋轢を生む
渤海は渤海であり、中国でも朝鮮でもない
ユーラシア東部の満洲地方から沿海州に存在したというだけだ
支配層が同じ民族だから、被支配層が同じ民族だから
版図の一部が現在の国と被っているとか、文化を共有しているからと
一緒くたにして、現在の国の歴史と捉えてはいかん
- 14 :
- 朝鮮民族はまだ形成されてないんじゃね
- 15 :
- 大和民族のルーツを倭国に求めるように朝鮮民族が渤海(パレ)にルーツを求めてもよいのでは?
ただ一つ気になるのは南北国時代といってるが北の渤海国と南の統一新羅という二国の間で
どういった交渉があったのかあまりわかっていないことだ。
- 16 :
- エミシやハヤトを日本民族に含めるようなものか。
現代日本人の先祖の一部ではあるけど。
- 17 :
- 隼人は全量が日本民族に合流してるだろw
「蝦夷」も樺太アイヌとかまで含んでいた概念とは思えないから、
結局ほぼ全量が日本人に合流した格好だ。
逆に渤海を構成していた民族の大半が新羅人に合流して朝鮮民族を
作ったかというとはなはだ怪しい。
- 18 :
- サクソン人と同系のザクセン人がいたからドイツのザクセン地方は英国史に入るのか?
という滑稽な話に思える。
どうも、大陸でもなく孤島でもない半島という中途半端に安定した位置づけにあることが
朝鮮人の歴史意識と実態とを乖離させてしまう状況を作り出しているようだ。
- 19 :
- >>17>>18
そうだよなぁ。渤海遺民で、高麗に亡命した者は一部で、
後は遼の支配下に入ったっぽいし。
その理屈で、渤海が朝鮮史に入るんなら、日本は百済や高句麗の遺民を
受け入れているから、百済・高句麗は日本史に入ってしまうことになる。
渤海の領土が、北朝鮮の領土に重なってたところから主張していくしかないんじゃないか?
- 20 :
- 中国は中国でおかしいな。中国の地方政権じゃなくて独立国だろ。
唐も渤海のことを「海東の盛国」って中国とは別の国と認識してたじゃん。
渤海を中国の地方政権と定義するのはあまりに政治的な認識だと思う。
- 21 :
- ビザンツ史のドラマやるのにトルコ人が演じるみたいな。
- 22 :
- 遣唐使よりも渤海使の回数のほうが多かった
京都の島原に平安時代は溝臚館という外国使節を接待する施設に渤海使がよく来たとある跡碑がある
- 23 :
- 国家使節だけでも36回だからな。多いよ。
- 24 :
- 高句麗、百済もそうだけど、渤海とも日本は何か特別な親密さがあるね。
不思議と新羅だけ昔から疎遠なんだよな。
- 25 :
- 統一新羅の頃って、海賊に身代金誘拐されたても、新羅の政府が放置みたいなのがある。
しかし、4世紀頃の新羅とは親しいのではないかな?
駕洛国(金官伽耶)の故地である伽耶を併合してしまった
6世紀真興王の金氏の頃から疎遠になっている。
- 26 :
- いやいや4世紀以前の親密さでも段違いだよ。
日本書紀を見ても好太王碑文を見ても交流や衝突の話題がてんこもり、
往復したり縁のある人物の名前も山ほど残ってる。
新羅の方は岬が余ってたので国引きしたとか神功皇后の漠然とした征伐とか
「外国」ならどこでもいいようなあやふやな話が主体で
要人が往復するようなリアルな歴史的事件は圧倒的に乏しい。
しかし半島部はなんだってこんなに歴史的遺物が乏しいんだろうな。
日本の伝世品は異常にしても、出土品に関しては条件はそう変わらないし、
日本はもちろん中国側でも好太王碑をはじめ渤海遺跡から和同開珎が出たりしてる。
文献はまだわからなくもないが、半島は古代の遺物が少なすぎる。
- 27 :
- 698年、渤海が「震国」として建国された当初は、新羅と接近することで唐・新羅の連携を牽制していた。
しかし渤海と唐の関係が好転すると、逆に渤海と新羅が対立し、唐は両者の対立を利用した。
渤海は新羅を背後から牽制するため日本と通好したが、安史の乱の影響で平和政策に転じる。
790年と812年には新羅から渤海への使節も派遣されるが、大仁秀の時代には再び渤海が新羅を侵略。
10世紀初頭に契丹(遼)が興ると、渤海はこれに対抗するため新羅との和解を図るが、
新羅は契丹・渤海の両者に通じつつ、渤海の苦境に乗じて北方へ攻め込んでいる。
- 28 :
- 高句麗人は日本語をしゃべっていたんだろ?
- 29 :
- 日本語そのものではない。もっとも近くても琉球語よりも遠い。
したがってゆっくりしゃべってもあまり通じない程度。
ただ、あれだけ高句麗や百済と通交があったのに現在の日本語には
朝鮮語系統の言語との通交を思わせる痕跡がほとんどないので
高句麗語や百済語が朝鮮語に繋がる言語であった可能性はほとんどないだろう。
- 30 :
- >>24
>不思議と新羅だけ昔から疎遠なんだよな
何いってんだよ、
新羅は日本人が建てた国という説がある。
浦島太郎伝説がそれ。
- 31 :
- 朝鮮半島西南からは古代の水田遺跡がよく見られるから、
そこから日本にも水田耕作が伝わったと言われている。
- 32 :
- 逆もまた真なり
- 33 :
- >>31
それ逆だよ。日本から伝わったんだ。
だいたい稲みたいな熱帯植物の栽培法が北から南へ伝わるとか不自然極まりない。
日本からなら自然なルートだが半島からとなると半島へはどっから来た?って話になる。
- 34 :
- 水田耕作は江蘇省や山東から恐らく海を渡って朝鮮半島西部に到達し、
そこで雑穀、農具や遼寧式銅剣などの北からの要素が加わったみたいだね。
- 35 :
- 大抵の日本や韓国ドラマはネットにあがっている中国だが、
大祚榮はあがらなかったし、海賊版DVDも売ってなかった(少なくとも
北京以南では)。渤海が韓国史となっているのが相当気に食わない様が
しのばれる。
- 36 :
- 渤海の話に戻ろうぜよ
…渤海で米はできたのかな
- 37 :
- >>36
無理だろ、最南端でも青森くらいの緯度だぜ。
8世紀ごろに稲作が可能だとは思えない。黍・粟・麦といったとこだろう。
- 38 :
- 主力は黍・粟・麦とかだろうけど新唐書の産品リストの中に「廬城之稻」が
ありまして、栽培に成功してたらしい
http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%96%B0%E5%94%90%E6%9B%B8/%E5%8D%B7219
- 39 :
- >>38
ひょっとして渤海使に対する日本の贈答品じゃねえのww
マジメな話、可能性高そうなのは新羅商人との交易品であるとか・・・。
- 40 :
- 盧城(盧州)は中京府の東方130里、中京府は現在の吉林省延辺朝鮮族自治区和竜市か。
今でもあのへんは米どころだが、遺伝子的に日本の米と朝鮮・満州の米は違うらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C
- 41 :
- 粟末が扶余系と高句麗系で、黒水がツングースでいいの?
粟末の末裔は朝鮮と女真になったと。
- 42 :
- 粟末靺鞨にしろ黒水靺鞨にしろ、靺鞨はツングース系であったというのが今の通説(争いはあるが)。
扶余と高句麗も同じくツングース系。
女真の前身となったのは、黒水の方。
渤海遺民の中には、高麗に亡命した者がいて、高麗人と同化した者もいたと言われている。
しかし、黒水靺鞨がそのまま朝鮮人になったようなイメージは正しくない。
- 43 :
- 失礼。訂正します。
×しかし、黒水靺鞨がそのまま朝鮮人になったようなイメージは正しくない。
↓
○しかし、粟末靺鞨がそのまま朝鮮人になったようなイメージは正しくない。
- 44 :
- 素人が基本的なところ聞くけど、高麗・朝鮮の世界に南北で区分される民俗形態はあったの?
こんな感じで。
北) ツングース系譜。扶余・高句麗・渤海遺民の子孫による風俗。黍・粟・麦からスタート。
南) 南方由来系譜。伽耶・百済・新羅の子孫による風俗。水稲耕作からスタート。
- 45 :
- >>44
史料に乏しい上に、
半島への民族の流入・混血が何度も繰り返されているために、
朝鮮民族の系統ははっきりしない。
ただ、中国の史料によれば、伽耶・百済は南方系(?)ではなく、
扶余と同じくツングース系であったらしい。
新羅は、言語や文化が伽耶・百済とは異なっていた。
- 46 :
- 中国の史料は王族や支配者層が中心ですぜ
- 47 :
- >>46
そういうわけで、百済は扶余系民族の国であったという説と、
扶余系の支配層が、朝鮮族を支配していたという説があるんです。
- 48 :
- ははあ、まーよくわからんと。
高麗時代とか朝鮮時代の遺物で、北と南で食文化などの風俗の違いは確認されてない?
それは気候由来の可能性もあり、必ずしも民族系統の相違を意味しないけども。
- 49 :
- 百済は漢陽から熊津に首都が移ってからかなり韓化した可能性もある。
後で国名を南扶余にしたのは韓化で失った扶余らしさと戦闘力を
取り戻したかったのかもしれない。
- 50 :
- >>49
横から補足であいすまないが、
「漢陽」は後代の用語だね。
少なくとも高麗期の記録だと、
百済第一首都の漢訳名は「漢城」だ。
- 51 :
- 百済の支配層の起源は、高句麗が313年に帯方郡を接収した際に置いた駐留軍とみられる。
魏志東夷伝には馬韓の伯済国があるが、国と言っても部族程度で、特に王もいなかった。
342年頃、本国の高句麗は鮮卑慕容部の前燕に攻撃されて首都が陥落し、
この機に乗じて高句麗駐留軍の将軍であった肖古(照古、速古、余句)が自立して百済を建てた。
そのため支配層は高句麗と同じく穢・夫余系だが、国内には韓人や倭人、中国人もいた。
百済の王の称号は、王族の言葉で「於羅瑕」、民衆の言葉で「健吉支」と言ったが、
日本書紀でも高句麗の王を「おりこけ」、百済・任那・新羅の王を「こにきし」と呼ぶ。
では高句麗・夫余・穢の言語系統はというと、おぼろげな高句麗語も含めてはっきりしない。
夫余は「鹿」、句麗は「城」を意味するらしいが、単語が多少分かる程度。
ただ、夫余の後裔という豆莫婁の言語は勿吉(靺鞨)と異なり、室韋・庫莫奚・契丹と同じであったというが、
契丹語はモンゴル語と同系統らしいので、高句麗語はモンゴル語の遠い親戚だろうか?
- 52 :
- たしか、白村江の時代では百済王(コニキシ)だな。
- 53 :
- >>51
百済は高句麗王朱蒙とソソノ(召西奴)との間に出来た温祚王によって建てられた国じゃないんですか?
肖古王ってその五代先の王だったと思うけど。
- 54 :
- それは12世紀に書かれた『三国史記』の中の神話伝説で、同時代史料とはまるで違う。
朱蒙にしたって王莽にされた高句麗侯と夫余の建国神話をくっつけただけだし、
3世紀の馬韓には隣の辰韓に宗主権(商取引権)を持つ月支国の辰王しか王がいない。
4世紀に実在した肖古を「近(2世)」とし、即位年の六十干支を3巡(180年)遡らせて作ったのが『三国史記』の肖古(1世)。
肖古の子の貴須(仇首)も同様にして「近仇首」にされた。「近」肖古の父は比流とされるが、これは温祚の兄の沸流と同じ。
蓋婁は5世紀の蓋鹵から引っ張ってきて、5世紀の方を「近蓋婁」にした。
あとは適当に系図をつなぎ合わせて、高句麗の始祖からの系譜のできあがり。
- 55 :
- >>31>>34
稲のDNA検査によれば日本の稲は江南由来で、それも紀元前4000年代に伝わったよ
品種の多様性からみても江南→日本→朝鮮半島南部と徐々に多様性が乏しくなる
つまり南鮮への伝来は一番最後で遅い
- 56 :
- 北方から韓に移動した百済はもちろん、
高句麗も征服と遷都によって、民族構成が大きく変わってるかもね。
- 57 :
- >>56
楽浪郡や遼東郡の中国人はかなりの程度逃げちゃったよ。
残ったのは高句麗内でもそれなりの地位を保った一部の上流階級だけ。
でも中国語じゃなくて高句麗語しゃべるようになって同化されたろう。
- 58 :
- http://homepage1.nifty.com/uraisan/yakata2/j0403.html
初期の高句麗壁画古墳は中国のものと極めてよく似ており、 中国の影響の大きさが判る。
それは当時、 中国(晋)で王朝が滅亡し、 大小さまざまな小国が中国全土を割拠した時代であったからで、
そうした混乱を避けて高句麗に逃れてきた漢人らによって高句麗壁画古墳が築かれたと考えるのが一般的である。
- 59 :
- 好太王碑文は漢文で書いてある
あんな多様な種族がいる国で、高句麗語しか話さないわけにいかんだろ
- 60 :
- 当時の中国周辺国家では日本も含めどこもチャイニーズ・アドバイザリースタッフ
とでも称すべき漢人官僚的な層が存在して、そいつらが外交、文書行政、文化事業を
とりしきっていた。なにしろ漢字漢文以外文字がなかったからね。
例えば百済から日本へ千字文を持ってきた王仁博士もそういう人で、当時の百済人は
百済風の名前を名乗っていたから、漢字漢文知識を日本に売り込みに来た
オウ・ジンと中国風に名乗るこの人は当然自分のことを「中国人」と認識し、
かつそう言って売り込んでいただろう。
- 61 :
- >>59
高句麗、高句麗と近縁な種族、漢人、2種族しかいないな。
それに李朝の時代の碑文は満語、モンゴル語、漢語で書かれているし
突厥碑文は突厥語、漢文、ソグド文字で書かれている。
漢文のみで刻まれた好太王碑文を見るにつけ
如何に高句麗が中国から多大な影響を受けたかが解る。
- 62 :
- 総論としては間違ってないが時系列的に無茶苦茶すぎだろw
高句麗が存在した時期には近隣でまともに稼動していた文字は漢字しかない。
西方文化での対抗が可能な方面でもやっとまともに文化が頭を突き合わせるのは
唐代以降のこと。突厥碑文ですら大半は高句麗滅亡より新しい。対訳碑文の
大半は10世紀以降の擬似漢字新造ブーム後のもので、そのブーム自体、
唐代以降の東西交流の影響が大きい。不適切な例を対照しすぎw
たまたま結論が当たってもダメ出しが出るレベルの雑な論だw
- 63 :
- 種族w
またへんな「学派」が沸いている
- 64 :
- 民族 ならいいのか?
- 65 :
- 「種族」だと、日本猿とか金絲猴みてーじゃんw
- 66 :
- 日本人がああいう碑文作っても漢文になるんじゃないか?
- 67 :
- なるね。特に碑文はかしこまるから一般公用文としては漢文はもう全く
使われていなかった明治時代になっても漢文による碑文がごろごろある。
- 68 :
- 渤海国では何語が話されていたのか?
- 69 :
- 渤海って人種のるつぼみたいな感じになっていたんじゃねえのか?
朝鮮民族はもとより漢民族、契丹、突厥、靺鞨(のちの女真族)など
色んな民族が混交した国家でそれぞれの言語が使われていたのだと思う。
ひょっとしたら日本語も話されていたかも知れない。
- 70 :
- >>63とか>>65とか、ドヤ顔してアホ面さらしてるのは
ゆとり出身のニワカなのかね。
ネットでしか字を読まず、まともな論文みたことないんだろうな
- 71 :
- >>68-69
新唐書に渤海語の単語が20だか30だか載ってたはず。
靺鞨語っぽいのが6割7割、高句麗語っぽいのが2割3割って感じ。
- 72 :
- 初期は靺鞨語を用い、しだいに唐の文化を受け入れて漢語を用いた。
国内の高麗(高句麗)・突厥・契丹・室韋・ウイグルなどの諸族は各自の言語を用いた。
渤海の言葉では「王」を「可毒夫」と呼んだといい、これはツングース語らしい。
ただ靺鞨とか高麗とかいうより、彼らはもはや「渤海人」と呼んだ方がよかろう。
渤海国滅亡後も、渤海人は契丹や女真の支配下で生き延びており、
モンゴル帝国では旧金国民の「漢人」を契丹・女真・渤海・高麗などに区別した。
- 73 :
- >>72
>彼らはもはや「渤海人」と呼んだ方がよかろう。
「渤海人」といわれると、そういう単一民族がいたかのようだが、
そこまでの混交は進んでたとは思えない。
モンゴルでの区分は「漢人」の表記から分かるように、
モンゴル人から見ての政治的な区分で、民族区分とは完全には一致しない。
- 74 :
- ただ、渤海王朝が滅亡して数百年たっても契丹、女真、高麗と並列される
程度には枠組が残っていたというのは注目に値するな。
- 75 :
- 民族と国家や集団は違うからな、契丹では真と生女真を区別した。
>>69
ベースは靺鞨、そこに高句麗からの亡命者や唐から下った漢人がいた感じ。
朝鮮民族?なにそれ?詳しく教えてくれ
- 76 :
- >>74
金に所属していた旧渤海人が女真と区別されているということは、
女真の言語(ツングース)とは違う言葉だったんかな。
「扶余語族」か。
- 77 :
- 朝鮮とは、もともと平壌(楽浪)付近を指す地名らしい。その南は真番といい、後漢以後は韓と呼ばれた。
そこの先住民も朝鮮と呼ばれたが、数百年に及ぶ漢人の支配により、この「先住朝鮮人」はすっかり漢化して消滅した。
穢はより奥地の山岳部に住む狩猟民で、遅れて漢化したため従来の文化を比較的保った連中のようだ。
しかし、穢系の高句麗が5世紀に平壌へ遷都したからといって、国号や自称を朝鮮に変えたわけではないし、
南の韓人や倭人を「同胞民族」と見なしていたとは思えない(百済の支配層は高句麗人の一派だが、国としては仇敵)。
半島の各地には韓・穢・漢・倭・女真など様々な出自の人々が存在したが(李成桂は女真ともいう)、
7世紀後半以後、新羅・高麗・李氏朝鮮という統一国家が存在したことにより、
その領土の住民は、少なくとも対外的には一まとまりのもの(新羅人・高麗人・朝鮮人)と見なされるようになった。
近現代の朝鮮(韓)民族の民族名と民族意識は、直接的には李氏朝鮮→大韓帝国の住民だったことにある。
ただ檀君神話を生んだ高麗が「高句麗の後継国」を自認していたため、朝鮮(韓)民族にも「高句麗の末裔」という意識があり、
「高句麗は朝鮮(韓)民族の国」と見なしてしまうのだろう。
- 78 :
- マルコ・ポーロが高麗地域を「カウリー」と書いたおかげで、
「コリア」が世界的にかの半島の呼び名になっちゃったしなあ
もともと高句麗後期の正式名称が高麗だったのに
- 79 :
- 漢字〜契丹文字→女真文字
ではないかと
- 80 :
- 現在満州族(女真族)って漢民族に同化されて固有の民族としては存在しないらしいね。
あと漢民族というのも固有の民族のことではなく中国大陸にいた各民族が混交して出来た
いわゆる「中国人」の総称であると何かの本で読んだことがある。
- 81 :
- >>77
>高麗が「高句麗の後継国」を自認していたため
これがあるから、高句麗が朝鮮史ってのはまあ分からんでもない。
しかし、「渤海の後継」という認識は、戦後でてきたみたいで、
どうも胡散臭いんだよなぁ。
- 82 :
- いや、既に18世紀くらいから「渤海人は朝鮮の先祖」と主張する人間はいた。
- 83 :
- 李成桂が渤海人だったとか?
- 84 :
- >>82
いや、18世紀に「渤海人は李朝の先祖」と主張する人間は極少数派の異端
ほぼ全ての李朝人は、渤海人は李朝と無関係という印象
- 85 :
- 今も満族はいるが、あえて満洲族や満州民族とは呼ばれない。
漢族もそうだが、現代中国の「民族」は中央政府が制定したもの。
中国人・中華民族と漢族はイコールではない、というところにミソがあり、
多様な民族集団を包括していた清朝を受け継ぐためにそうした。
なので現代中国の統一領土意識は最大時の清朝にある。
- 86 :
- 李成桂は高句麗系というよりも新羅か百済の系統だろ。
李という姓から鑑みると新羅系じゃないかな。
- 87 :
- …と「龍飛御天歌」などには記されているが
例によって系譜は捏造されるのが普通である
- 88 :
- 渤海の支配層はツングース系?扶余系?
- 89 :
- >>88
高句麗系の乞乞仲象と靺鞨系の乞四比羽は唐に対する反乱を起こしました。
渤海はこの両民族を複合した国家として誕生しました。
その中で数は少ないものの文化的にも勝る農耕系の民族すなわち朝鮮系の
民族が高句麗の王族の血をひくという大氏をもとに支配層を形成していった
とみるのが妥当です。
このように靺鞨族が多く居住する地域に高句麗の旧族によって統一国家が
建国されその支配層は夫余・高句麗族がほぼ独占したので形としては高句麗の
継承国となったもののその国民の大半はツングース系の靺鞨であった。
(上田雄著「渤海国の謎〜知られざる東アジアの古代王国」より)
- 90 :
- やっぱり渤海国は朝鮮民族の支配していた国だったんですね
- 91 :
- >>90
支配層しか朝鮮に合流した形跡がない渤海を朝鮮民族支配の国と呼ぶなら、
支配層が日本に合流した百済は日本民族の国ということになるが、それでよければ。
- 92 :
- 新羅に合流した百済の支配層や高句麗の支配層もおるでよ
- 93 :
- つまり朝鮮民族形成前のことをムリヤリ線引きしても意味はないってことさ。
渤海には「朝鮮人」なんていなかった。子孫が関係してるだけ。これがFA。
- 94 :
- >>91
百済の支配層は扶余であって新羅(朝鮮系)じゃないでしょ
- 95 :
- この先生の専門は、遣唐使とか、日本と渤海の交通史やでぇ。
- 96 :
- >>94
扶余人の子孫の大半が朝鮮人に合流したのも事実。
新羅=朝鮮というわけでもないよ。新羅人を中心に半島にいた住民を全部
合わせて形成されたんだから。当然半島在住倭人も吸収されただろう。
しかし渤海の場合、日本へ逃げてきた高句麗や百済の支配層以上の大規模移民が
新羅・高麗に押し寄せたとは考えられない。
渤海遺民の大半は上の方で出てるように金代にはまだ「渤海人」という枠組が
まだ多少残っていたらしいが元明代に「女真人〜満洲人」に溶けてしまった。
李氏朝鮮は旧渤海領への進出に成功して現在の鮮満国境以南を朝鮮領に
取り込むが、このときはもう別民族で、「土人」を清の故地へ押し出すことに
よって朝鮮に取り込んでいる。つまり渤海人の大半の子孫は朝鮮人には
合流していないと考えられる。
だから渤海人を朝鮮人視するのは無理があるし、間違っている。
- 97 :
- 分かってねーな
9世紀10世紀の初め頃は渤海だよ
唐が一部を占拠
半島南に新羅その下に武州だよ
- 98 :
- >>96
渤海から高麗へは数千とか数万とかの流入が複数無かったっけ
白村江の戦いの後、日本へ来たのって数千人とかだったような?
- 99 :
- 現代朝鮮民族の本貫は新羅・高麗・中国起源があらかたで、百済・渤海はごく少ないけどな
- 100read 1read
- 1read 100read
TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼 ▲