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2011年11月1期21: 【安土城】天下人の黄金大天守【大坂城】 (429) TOP カテ一覧 スレ一覧

【安土城】天下人の黄金大天守【大坂城】


1 :10/09/16 〜 最終レス :11/11/11
語れ

2 :
だが断る

3 :
黄金茶室ならMOA美術館へGO

4 :
一時的とはいえ畿内を席巻した松永彈正大弼久秀の信貴山城も入れていいですか?

5 :
米倉が空を飛んだという信貴山城ですか

6 :
空に飛んだというのは茶器だろ

7 :
これか。ほほぅ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%B2%B4%E5%B1%B1%E7%B8%81%E8%B5%B7

8 :
今安土城の目の前に来てるんだが、見所はどこ?

9 :
八角平、御茶屋平

10 :
取り合えず天守登った後に三重塔見て来た
やっぱ廃城は良いね
公開されてない部分(未調査?)も見てみたいわhttp://beebee2see.appspot.com/i/azuY967tAQw.jpg

11 :
とりあえず安土城天守復元想像図は立派すぎると思います
史書には秀吉の大坂城天守の方が格段に立派だと書かれているのに
これでは大きさはともかく
派手好みの秀吉の作った大坂城天守よりも立派に見えるぐらいw

12 :
安土城て籠城戦に向いてない気がするんだが

13 :
安土城の元の姿は琵琶湖に突き出た山城なんだな。
陸岸の平地側は濠で遮断してあり、残る一方は尾根。
即ち三方を水に囲まれた鉄壁の構え。

14 :
2

15 :
城めぐりにはまったく興味なしの私が去年旅行ついでにひょんなことから、安土城に立ち寄った。
素晴らしいお城でした。眺めも抜群。
ただ気になったのは間近にたたずむ観音寺城です。
世の中には安土城に来て、観音寺城が気になる人とならない人の二種類の人間しかいません(うそw)。
まあ周知ですが安土城は防御というより物流その他を意識した城で
観音寺城はそうではない?湖に近いのは水運のためだろうけど。
私は観音寺城についてまったく調べてねえや(笑)
ていうか暗くて面倒くさいから観音寺城は一生登らないだろうなw

16 :
安土城跡w

17 :
>>12
そりゃそうだろう。
天下人は籠城はせん!

18 :
安土城には実質「詰めの城」というべき存在の観音寺城がある
でも正直そもそもそれ以前に
籠城しなければならなくなってしまった地点でもう終わってますね

19 :
所詮は猿真似の秀吉

20 :
安土の天主て構造的に歌舞伎座みたいなもんなんじゃないの?
吹き抜け、舞台、最下層に燈籠とか城機能は本丸がメインで
内部予想図だと現在の名古屋城みたいな造りよね

21 :
>>20
吹き抜けとはただの階段室のこと、説はどうよ

22 :
安土城って放火なの、失火なの、どちら?
タイミング的には放火なのだろうけど。

23 :
観音寺城で謎なのは石垣
小谷城の石垣は長浜城へ、安土城の石垣は八幡山城へ、坂本城の石垣は大津城へ、大津城の石垣は膳所城へ、佐和山城の石垣は彦根城へ
と、築城部材は殆ど近隣の廃城のものをリサイクルするもんなんだが
観音寺城の石垣は何故か他城へ遷されずかなり保存されている

24 :
>>23
山の上過ぎて労力に引き合わなかったんじゃね?

25 :
いつの間にか似たようなスレが立っているな。
天下人の天守で黄金と言ったら、安土城と大坂城、伏見城ってくらいか。
安土城はここが2本目
ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1245399223/
その他はここで話題に花が咲いているぞ
ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1284132297/
立てればいいというもんでもないぞ

26 :
>>23
人は城、人は石垣って言うし、人を使ったんじゃね。

27 :
つまんね

28 :
大河は内藤だったな。

29 :
aaaaaa

30 :
森本益宏 三四年十二付き二日前なう

31 :
最近安土城に中国人ばっか

32 :
>>31
何故?

33 :
なんたら小学校を見に行った帰りのアニオタじゃねぃ

34 :
>>25
駿府城もな。大御所時代に立てたという巨大で美しい天守を
見てみたい。
図面や絵らしきものがあればすぐに再現できるのに

35 :


36 :
外人さんが城跡を見て喜ぶのかな?
安土城の石垣なんかは見応えあるけど
石垣だけの平城は何だこりゃあだろ

37 :
やっぱり安土城以外は興味そそる城ないな
特に天主はこの城以外はつまらん
見た目だけ豪華でも内装は単なる物見櫓ばかりだからな
実際に御殿として機能してた安土が最強

38 :
山上に、高い建造物を建て、その中に住むなんて正気の沙汰ではないからね
馬鹿と煙は高いところに…と言う奴ですな

39 :
そういう問題ではなく
外観だけ豪華でも中は単なる櫓のその他の城には
魅力を感じないということ
姫路とか確かにきれいだけど内部は
倉みたいなもんだからだ
大阪なんて黒に金ぱく張り巡らした豪華な外挿に反して内部は櫓とか
つまらんだろ
安土天主はイメージとしては金閣の豪華版みたいなイメージ
廊下で天皇を迎える御所と同じ建物も有ったみたいだし、戦のものでは無いので当然だろうがね

40 :
>>39
天守というのはその威容を以て、権威付けをするものである
そうなれば、天守内部を案内するということもない限り外見だけで、
十分ということ
逆に客として天守内部を見せるという行為は、権威の確立ができて
いないということになる

41 :
>>40
権威を見せるための建物なら別に天守で有る必要はないしでしょ
本丸御殿の物凄いのをつくれば良い訳で
櫓としての機能だけならあんな巨大にする必要はないし、豪華にする意味もない
そもそも天主の原型は安土なわけで、その使い道は本来は戦のための櫓ではなく、御殿だったんじゃないか?
字も違うし

42 :
>>41
一般大衆も城下から見れるという点で天守の存在は重要
後、「天守」は「天主」「殿守」とも書かれ、特に意味はなく、その場のノリで使われている

43 :
>>42一般大衆も城下から見れるという点で天守の存在は重要
そうは言っても天守のない城が主流だった時代もあるし、
聚楽第や江戸城みたいに作ったけど消失後再建されないものもある
江戸は三回立てたけど三度とも焼けちまったんだっけ?
けっきょく太平の世には必要無いと言うことつまり機能としては櫓でしかなわけだよ
そんなもんの外見が重要だと思えないがね
そこを実際に住むなり越権の間、台國殿として使うなら別だが
信長な使い方は正にそれだったわけでしょ
だからあんな豪華な建築になった

44 :
>>43
その頃になると箱物に頼らなくても権威を確立できたから、建てられなくなった
むしろ見せないことが良いとされるようになっている
内部を飾る必要があった時代、外見のみで良かった時代、必要としない時代
それぞれによって必要とされる要素に違いがあったというだけのこと

45 :
>>43
ちなみに聚楽第では天守は居住部分として機能していた
もっとも城主織田信長が住んだ安土城とは異なり
聚楽第の天守には豊臣秀吉の側室摩阿姫(前田利家息女)が住んでいた
どういう理由で側室が住むことになったのかは知らんが
とにかく聚楽第の天守は居住空間として使われたらしい

46 :
>>43
江戸城天守は慶長度と元和度は解体、寛永度が明暦の大火が焼失
慶長度は本丸の拡張のため(資材は大坂城天守に転用)、元和度は白漆喰の壁面が
風雨で早期剥離するのでその是正工事とされる

47 :
俺も天主内部が御殿だった安土に一番惹かれる
単純にもしも現存していたとして、一番観光して見たいと言う理由だけどな
姫路城昔行った事あるけど、天守登っても中は倉みたいで、あまり楽しくなかった
二条城の方が楽しめた
襖絵や、豪天井の見事さとかそう言うの見る方が好きなんで、
姫路城とか、御殿の見学もさせてくれば良いのにと思う

48 :
>>47
もし熊本来ることあったら
御座船波奈之丸の船屋形部の一部は見てみてくれ
あと城のすぐそばの正妙寺の天井画と鶴と孔雀の襖絵

49 :
信長が天守に住んだんじゃあ
対面の時には一番下まで降りてくつろぐときには階段いくつも登って
瞑想するときには最上階へ夜寝るときには側室たちがいる別の建物へ
で面倒だったろうに
姫路城でも見たことがあるが当時天守や櫓の上り下りに使われたのって
相当傾斜が急な吊り階段ばっかりなんだよね

50 :
信長の住居スペースは主に4回に集中してる復元図多いから
あまり上り下りしなくても良いようにはなってたと思う
上の展望や、八角堂なんて滅多に上らなかっただろうし

51 :
しかし来客や遠征も多かった信長はやっぱり一日に何度も
登ったり降りたりする必要があっただろう
(4階から外には出られない)
信長が登ったり降りたりすれば小姓や女中たちも一緒に
いちいち登り降りする必要がある
側室たちは別の建物にいただろうしね
表御殿(政務の場所)は天守ではなく
本丸御殿か何かを使っていたのだろうし

52 :
高山城天守とか駿府城天守が人の住む天守としては正統派だろう。
各種安土城の復元案は疑問だ。

53 :
天主に住むって発想はやっぱルイスフロイスとかの影響もあったのかな?
西洋の城とかの話を聞いたとか
自分を拝めって言っちまう位だから、生き人神の自分が住む御殿は
天主みたいな高層建築である必要があったのかもしれんね

54 :
>>52
高山城天守や駿府城天守は一階部分に本丸御殿のような御殿があって
一部に楼閣が付き出て天守になってるんだよね
たしかに高層階に住むのは不便すぎると思う

55 :
>>51政務は本丸ではなく天主だったのかもしれんぞ
天主を権力の象徴としていたのなら尚更対面する建物としてふさわしいと思うし
天皇を迎えるための御所を見下ろす様な建て方してるから
誰が一番の実力者なのかを見せつけるのにもちょうど良いしね
側室何日にあいに行く時は下山したのかもね

56 :
>>54
駿府城は怪しいけどね

57 :
人が住むための天守といえば宇土城天守

58 :
>>55
安土城の天守台の大きさは発掘調査によって確定している
他の諸大名で見られるような大掛かりな広間があったとは確認できない
しかも大勢の大名が天下取りを目指す信長に会いに来る、
公家や高齢の人々も多かったと思うが
いちいち梯子階段を大勢の付き人とともに何度も登らせるのかい?
天守が表御殿だったというのは非現実的。

59 :
安土日記の拝見記(部屋の広さ&襖の画題)を読むと、天主は明らかに信長と濃姫、側室と子供達の奥御殿だし、
本丸御殿は明らかに天皇の御成り御殿だから、普段人を入らせるわけがない。
よって(安土日記には記載がないが)諸大名や貴族たちとの謁見のための大広間(幅4間くらいの上段の間)を備えた表御殿は、
通説どおり、天主西隣の二の丸御殿だったと思われ。

60 :
表御殿の屋根は武家殿舎の定石、杮葺きだった可能性が高い。
寺院建築(瓦葺き)公家建築(桧皮葺き)武家建築(杮葺き)と
さながら安土城は明治村のような屋外建築博物館みたいな趣だったろう。

61 :
武家殿舎の杮葺きと言えば、洛中洛外図の細川管領邸が有名だぬ。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/ba/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%AE%B6.jpg
同じ武家でも、足利将軍邸(花の御所)は、公家風の檜皮葺き…
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/15/Han-no_Gosho.jpg
なんで???

62 :
>>59
拝見記には濃姫らしき人の記述はないわけだが。
織田信長には側室が多かったのに(最低でも10人以上)側室が皆天守に住むのは物理的に無理だし
側室に仕える侍女たちの局も確保できない。
天守は江戸城で言ういわゆる中奥(将軍の御休憩所)的な用途があっただけで
側室たちが住む奥御殿は別だろう。

63 :
信長が竹生島に弁才天を勧請しに行った時、羽柴秀吉の長浜城に泊まると思った女中たちが、
【二の丸】や桑実寺に遊びに行ってしまった。そこへ信長が日帰りしてきて、成敗されたと記録にあるが、
この↑【二の丸】というのは、現在の天主西隣の伝二の丸跡なのだろうか?それとも八角平なのだろうか?
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1508490/img_1508490_56996089_62?1247324314

64 :

幻の安土城と城下町−CGで再現−
http://www.youtube.com/watch?v=Jc3gvdhjy94
幻の安土城を探る−内部構造の謎を解く−
http://www.youtube.com/watch?v=ezXhA79G73w

65 :
>>62-63
八角平は搦手口(台所口)から主郭部へ入る際の入り口脇&主郭部直下に位置しているから、
信長生母/正室/側室たちの奥御殿があったとすればココ以外に考えられない。
とすると、やはり女中たちが遊びに出かけた二の丸というのは伝二の丸跡としてよいとも考えられるが、
さらに想像を逞しくするなら、主郭部・八角平から更に北尾根の眺めが良い場所を削って造成された(現在発掘されていない)北の丸とも言うべき、二の丸が眠っているという可能性も排除できない。
その場合は、本丸=主郭部全体、二の丸=尾根伝いの飛び地に造った北の丸、となり、貞享年間(江戸時代)の屋敷地比定の全面的な見直しが必要だろう。

66 :
>>59
>本丸御殿は明らかに天皇の御成り御殿だから、普段人を入らせるわけがない
これはどうなんだ?
天皇行幸を迎えた豊臣秀吉の聚楽第でも徳川家光の二条城でも、
臨時の行幸御殿が設けられただけで、わずか数日間の
天皇行幸のためだけに恒常的な本丸御殿が築かれたことは一度もない。
それでも安土城本丸御殿が天皇のためだけの御殿だったと言い切る人は
「信長は天皇を京都から追い出し、安土に住まわせるために本丸御殿を建てた」
というのだが、これは同時代史料で確認できず、あてずっぽうと言わざるを得ない。

67 :
安土城本丸御殿が天皇の行幸御殿だというのは
@正親町天皇が安土城へ行幸する噂があった(あくまでも噂)
A本丸御殿が清涼殿に似ている
というものらしい。
ところで、安土城本丸御殿は3棟からなっていた。
このうち、本丸御殿南殿が「清涼殿そっくり」の建物らしいのだが、
見晴らしが悪く、しかも廻廊で天守と結ばれていた憶測があり、
どうやらこれが信長の奥御殿の可能性が高いらしい。
本丸御殿が天皇のために建てられ、織田家のものは使用できなかったというのは
かなり強引な説といわざるをえない。

68 :
安土日記の独自解釈から、安土城復原天主を上梓された森俊弘氏
http://homepage3.nifty.com/okayama-chiho/chiho/0001.htm

69 :
>>65
貞享絵図の郭配置、屋敷割は元々信憑性はないんじゃないの・・

70 :
>>69
>>65は位置的には伝二ノ丸辺りが二ノ丸であった可能性もあると言っているだけなのでは?
俺も、搦め手側の八角平辺りが信長の正室らが居た御殿や女中の一部が詰める建物ががあったのでは無いかと思う。
女中達の住いははもう少し下だったかもしれないけど。
八角平から更に北尾根というのがどこかよくわからないが、
ここ?
http://uploader.sakura.ne.jp/src/up36045.gif
場所的に離れすぎで普段は利用されにくい場所なので二ノ丸的ではないな。

71 :
安土山って隣の観音寺山に比べたらめっちゃ小さいよね。

72 :
>>65>>70
漏れも八角平=奥御殿説に賛同する。
国立歴史博物館の作ったCGの天主右上に北の丸と思しき曲郭があるんだけど、
これが成敗された女中が遊びに行った二の丸かも。
「遊びに行く」ということは主郭部から少し離れているというニュアンスがあると思うんだけど、どうよ?
安土城復元CG(天主の右上に大きな曲郭と御殿が…)
http://inoues.net/club/cg_aduchi07.jpg
>>71
ホンマや!安土城改めて実測地図>>63見ると小さいな…
織田一門や馬廻・御弓衆・小姓衆の屋敷地くらいしか造れなかったんジャマイカ?
今週土曜日(4/23)13:30〜16:00安土城考古博物館で観音寺城フォーラムやるよ(予約不要・参加無料)。
http://www.geocities.jp/nobunaga9999castle/dengonban.html#slide

73 :
>>72
薬師平だな。
http://www.geocities.jp/pappakun12/aruku/takoku/azuti/azuti2000.gif
ところで、フロイスの記述により、安土城主郭部には池泉式の庭園があったことが判る。
>宮殿や広間の富、窓の美しさ、内部で光彩を放っている金、赤い漆で覆われた柱とすべて塗金された柱の数々、食糧庫の大きさ、
>多種の矮樹がある庭園の美しさと新鮮な緑、その中の高く評価されるべき自然のままの岩塊、魚のため、また鳥のための池…(後略)
伝本丸御殿の南側や伝二の丸跡には、池泉式庭園を造るほどのスペースはないとので、
この庭園は、女中たちが遊びに行った「二の丸」にあったとすると、薬師平=二の丸説も成り立ちうるだろう。

74 :
↓この安土城模型復元ブログ、すごいyo!
http://ameblo.jp/kindoflonesome/theme-10025664748.html

75 :
NHKBS「秀吉が愛した桜『醍醐の花見』物語」
http://violet8.dreamlog.jp/archives/51655129.html
秀吉は醍醐寺の境内に趣向を凝らした8つの茶屋を造らせ、それらを秀頼・正室・側室と巡りながら桜を楽しんだように、
安土山全体が巨大な回遊式の空中庭園だった可能性も考えられる。

76 :
>>74
デアゴの組み立て日記かと思ったら、土台から自作とは…
そのうち全山復元する勢いだぬ。

77 :
>>75
>安土山全体が巨大な回遊式の空中庭園
都市衛星ウルクみたいだなw 信長は大神官大総統か?(解る香具師には解る)w

78 :
>>77
ロボットの馬もいたんですか?

79 :
>>77
ハ見寺は大魔神の神殿ですか?

80 :
>>72>>73
俺が示した>>70の場所も薬師平だ。
薬師平は二ノ丸と言うにはやはり遠いし、庭園を造るには狭いうえに峯の上なので地形的にも適さないと思う。
俺は、堀邸射場と呼ばれている主郭の東にある曲輪が庭園を作るには適した場所だし地形だと思う。
北側に地山をそのまま残していて適度な広さが確保されている。
庭園背景(奥側)に山を配置するのは庭園の定石。
信長の事だから来賓の接待に使用した御殿もそれなりの規模で建てていた事だろう。
その御殿から庭園を眺められるようなっていたとすれば堀邸射場くらいの広さが必要だと思う。
http://uploader.sakura.ne.jp/src/up36131.gif

81 :
改めて安土山ってあんなに小さな山なのに謎が謎を呼ぶな。
5000人〜6000人で山頂に引き上げたという「蛇石」も行方不明。信長の「盆山」も行方不明。
この辺の謎解きが、天主復元案とともに安土城の魔力なんだろう。
それはともかく、このスレ的には 公記の「二の丸」≠伝二の丸跡 で桶?
薬師平説>>72と伝堀邸跡説>>80が出てるが、他にない?

82 :
安土城=城オタの知恵の輪 なんだよw

83 :
>>81
盆山は信長廟にあるやつがそうなんじゃないか。
状況的にいえばあれ以外には考えられない。
本物が失われていてその代わりの石の可能性もあるが。

84 :
>>64の2つめの動画「内部構造の謎を解く」の2:30くらいに天主1階の盆山の間が出てくるが、
動画では大津市の聖衆来迎寺としているが、金閣寺にある九山八海石のような仏教的な宇宙観を表す石だったと考えられる。
金閣寺・九山八海石(秀吉が聚楽第の庭石に運ぼうとしたが叶わなかった)
http://everkyoto.web.fc2.com/s1102ad07410.jpg
信長廟の上に置いてある石はあまりにも大味というか、美的センスに欠けるような希ガス。
秀吉は醍醐寺の庭を造る際も、信長が義昭のために二条城に運ばせた藤戸石を徴収しているから、
名石好きの秀吉が信長の盆山も密かに着服し、大坂城の庭石にでもしてしまったのではないか?

85 :
動画で言っている九山八海石は仏教世界を表現云々と言う事だが、要するに盆石。
姿かたちが山の風景の様に見える石を飾って想像を巡らせる様なものだ。
盆山は信長自身を映す存在だから、もっとシンプルな形であってもおかしくない。
そういう点では信長廟の石はそれほどおかしな形でもないし大きさも適当ではないかな。

86 :
ここだけの話、安土城に無料で登れる方法教えてやる。
南の正門から登ろうとすると門番のに金取られるから西の小さい脇道から登るんだ。
心配しなくていい。 すぐに正規ルートと合流する。
ただしその場合、総見寺で茶を飲んでくつろぐことはできない。

87 :
本丸、伝二の丸、伝三の丸を合わせた主郭部一帯で本丸と考えるのが自然だよな。
考えられるのは、山上だと元々の本丸虎口からつながる伝堀邸跡一帯、馬場平ぐらいしかない。
あるいは山麓という可能性もあるんじゃないのかな。

88 :
>>86
別に、全然ここだけの話じゃないけどな。
知ってるけど、やるかやらないかの差だけだろ。

89 :
やりすぎに、自称・秀信の子孫が出てたな

90 :
>>84
オレもあの石は盆山じゃないと思う。本当の盆山なら家臣の誰かが持っていってしまうよ。
フロイスによると、総見寺の2階の仏壇に置かれていたとあるから、あんな大きな石ではなく、せいぜい30〜40pくらいなの小さな石のはず。

91 :
>>78-79
「ニュートリノビーム防御膜放射!」「はぁ?」「放射だ」

92 :
池泉式庭園があるとしたら居染氏庭園のように、対岸の琵琶湖の絶景や比良山脈(近江富士)を借景にした山の西側に作るはず。
どこにでも転がってるような景色(観音寺山と田んぼ)しか見えない東側はないわ。

93 :
>>88
まるで俺がDQNみたいな言い方じゃねーか

94 :
>>93>>86と同一人物ならそうなるな。
こんなところで不法侵入について俺はやり方を知っているぞとばかりに自慢する奴はDQNでないとしたら何んなる?

95 :
>>94
あれは別に不法侵入ではないんだよ。

96 :
大手道や百々橋道以外に、搦手道や七曲道と曲輪も整備してくれたらいいのにね。
入場料収入をハ見寺本堂の再建に使うよりずっと収入アップに繋がると思う。

97 :
>>95
安土山の所有者であるハ見寺が許している範囲以外に許している所以外から入るのは立派な不法侵入。
訴えられたら立派な犯罪者。
>>96
世の中のごく普通の人はただの通路より建物の方に興味が行く。
観光パンフに載せた時もアピールしやすい。
本堂再建が集客目的かどうかは知らんけど・・・

98 :
立ち入り禁止前の八角平辺りや台所、伝三の丸辺りはわりと整備されていたのに、
立ち入り禁止になってからは荒れ放題になっちまったな。
維持するのが面倒なのか、金がないからなのか・・・だから立ち入り禁止にしたのかな。

99 :
>>86みたいなモラルが低くマナーの悪い奴が多いからだよ

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