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2011年11月1期42: 江戸時代の大名 (919)
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江戸時代の大名
- 1 :10/10/10 〜 最終レス :11/11/10
-
色々と語って下さい
- 2 :
- 終了
- 3 :
- 加藤清正が本多正信に髭を伸ばすのを注意されたとかいうお話があるけれど、
髭を剃るように命ずる法度が出たことはあるの?
- 4 :
- 大名は必ず従五位には叙任される。
また、大名家は、御三家、御三卿が詰める大廊下、国持大名クラスや御三家の分家が詰める大広間、徳川四天王や御家門が詰める溜間、関ヶ原以前より徳川に仕える大名が詰める帝鑑間、新規取り立ての城主大名が詰める雁間、無城大名が詰める柳間、無席に分けられる。
- 5 :
- >>4
ちなみに江戸時代の大名で最も位階の高かったのは誰?
- 6 :
- 尾張様だな
- 7 :
- 厳密な大名かどうかはあるが民部卿治済ではあるまいか
- 8 :
- >>7
犬公方の母ちゃんとどっちが偉い?
- 9 :
- 母ちゃんは從一位。民部は從二位
- 10 :
- 1はカス
終了
- 11 :
- 一般的にはだんじりでしか知られてないが和泉岸和田藩は本当の名家だよね。
関西で行われた幕府の大仕事には高確率で担当を任されてるし、最後の藩主とその息子たちは大臣や東京府知事、朝日新聞社長なんかになってる。
歴代藩主の中でもうつけと言われた人が一人もいない藩は珍しいだろ。
- 12 :
- 三百諸侯なんていわれるけど
一国丸々支配領域の大名ってあまりいない
- 13 :
- >>12
飛騨国を領有していた金森さんは偉かったわ
- 14 :
- 飛騨も甲斐もそうだけど、あういう鉱山利権のある領地は幕府が放っておかないね
- 15 :
- 従いまして松平甲斐守吉里は大和に国替えを命じられました
- 16 :
- 大廊下上ノ御部屋席
尾張中納言
紀伊中納言
水戸権中納言
田安大蔵卿
一橋刑部卿
清水宮内卿
鷹司右衛門督
大廊下下ノ御部屋席
松平越前守
松平阿波守
松平三河守
松平兵部大輔
松平相模守
- 17 :
- 血縁関係のない養子でも家が存続してたのはどうなんだ?
幕末の池田なんか両方とも水戸徳川家
- 18 :
- 蜂須賀なんざ高松松平、佐竹、将軍家など、あちこちから養子をいれておる。
- 19 :
- >>4
無城譜代の菊間も
- 20 :
- 黒田も養子が多い
外様大藩の島津から養子が来るって幕府もよく許可したもんだ
- 21 :
- 蜂須賀は血統が養子で途絶えいるのに子孫が御物を失敬して明治天皇に小六の子孫だと笑われてしまった。
- 22 :
- 秀吉さんと徳川さんから二十五万石も貰って家を長らえた蜂須賀さんはマジ偉い。
- 23 :
- >>20
その当時は家斉将軍の時代だが、
家斉夫人は島津重豪の娘で、
島津家から黒田の養子になった長溥も重豪の息子。
つまり黒田長溥は、家斉将軍の義理の弟で、
血こそつながっていないが、かなり近い縁戚だった。
- 24 :
- あと、親藩の松山藩久松松平家にも、
島津重豪の孫(斉宣の子)勝善が養子に入っている。
- 25 :
- 御家の存続が第一で血筋はどうでもいいんだな
- 26 :
- >>22
偉いかどうかはわからん。自分らの近くにいる卑屈な奴と大差ない気もする。
- 27 :
- 薩摩、大隅と日向の一部で77万石もあるわけがない
- 28 :
- 吉良義央は従四位上左近衛権少将であったけど、浅野長矩は従五位下
であった。
外様ではあるが、53000石で城主の浅野と高家(旗本)ではあるが4200石の
吉良。
普通の感覚だと浅野>吉良だが、家格では 浅野<<<<吉良なんだよね。
- 29 :
- >>27
うむ
火山灰質の痩せた土地で米作しても取れ高が幾らあるのか怪しい
- 30 :
- 表高にケチをつけても詮ないこと。
米なんて商品作物のひとつだろ。
薩摩は砂糖、茶、密貿易で食っていけるんだよ。
- 31 :
- 吉良義央の従四位上は浅野本家当主の安芸守綱長より上だ
- 32 :
- 私は越中富山藩前田家に生まれ、時分より英才の誉高く領民からは
「利阜様は国の宝」
と言われていたものです。
- 33 :
- どの方面で英才を発揮されたのですかな?
- 34 :
- >>33 年少の頃は父を補佐し、長じて豊後府内藩主に就任した後には善政を敷きました。
- 35 :
- しかし、豊後府内藩は、先々代の松平近訓が永年、藩の実権を握り、近訓死去後に養父近傅とともに改革をせんとした矢先に死去。わずか一年しか親政できませんでしたな
- 36 :
- >>1
例外大名あれこれ
◇三つ葉葵紋の使用が許された外様大名
鳥取池田家…徳川家康の二女督姫の血が入っているため準家門扱い
◇陪臣で諸太夫(従5位下叙任)された藩
御三家・加賀前田家の家老職の一部の者など
◇小藩で伺候席が大廊下詰めの家
上野吉井藩松平(鷹司)家…鷹司信房の娘孝子が家光に輿入れした時に、弟の
鷹司信平がついてきて幕臣となり、紀伊家の婿となった家筋のため。
◇1万石未満で大名(諸侯)扱いの家
@喜連川家…五千石で十万石・国主格であり、御所の称を得ていた。
A松前家…蝦夷地で米の収納がなかったが大名格として認められた。
◇御三家連枝は2-3万石の定府の小規模な大名
讃岐松平家…12万石,親藩,溜間,城主であり、御三家連枝では飛び抜けている。
◇鍋島の3支藩
鍋島藩支藩の小城、蓮池、鹿島の各藩は、それぞれ本家の内高であるため、本来
は本家の陪臣であってもおかしくないが、幕初の徳川家に対する貢献があったた
めか支藩で存続した。
その他、一国一城の例外の城
尾張徳川家の犬山城、紀伊徳川家の田辺城・新宮城、仙台伊達家の白石城、
熊本細川家の八代城など
- 37 :
- ■中堅の石高だったが、一国支配のいわゆる國主の待遇を受けた外様大名の連中
陸奥二本松10万石 丹羽右京大夫
筑後柳川11万石 立花左近将監
伊予宇和島10万石 伊達伊予守
加賀大聖寺7万石 前田信濃守
越中富山10万石 前田出雲守
上野小幡2万石 織田近江守(のち、國主待遇は剥権さる)
ほかに米沢の上杉や久留米の有馬
■タブーな連中
@盛岡の南部信濃守と、弘前の津軽越中守は、同席させず、津軽を軽く扱う
A加賀の前田宰相と、上野小幡の織田近江守は、同席させず
B加賀の前田宰相と、二本松の丹羽右京大夫は、同席させず(幕末に講和)
C肥後人吉の相良民部少輔と、鹿児島の島津修理大夫は、同席させず
- 38 :
- >>37
丹羽さんは元太守だから?
立花さんは何で?
- 39 :
- 越前松平家と会津松平家の家格比較をしました。
◇石高による家格比較
越前松平家>会津松平家
越前松平家が32万石、会津松平家が23万石
◇将軍家との血縁にかかる家格比較
越前松平家>会津松平家
越前松平家の祖は、家康次男の松平秀康であり、会津松平家の祖は、
秀忠庶子の松平正之です。神君家康公からの血縁では越前家に軍配
◇伺候席による家格比較
越前松平家=会津松平家
越前松平家は「大廊下の下之間」であり、会津松平家は「黒書院の溜之
間」です。「大廊下」は最高格式の伺候席ですが、「黒書院溜間」も
@将軍や老中の諮問を受け直接幕政に参与する。
A将軍家の名代として、天皇や上皇に拝謁する。
B将軍家の名代として、紅葉山霊廟や日光東照宮へ参拝する。
など特別な存在であって、一概に、大廊下>溜間ではない。よって・・
◇極位極官による家格比較
越前松平家<会津松平家
個人でなく家としての極官は越前松平家が「従四位下近衛少将」
であり、会津越前家は「正四位下近衛中将」であるため、会津家
に軍配です。
☆結論
極位極官による家格の結論を尊重し、越前松平家<会津松平家と解釈
- 40 :
- 會津藩は土津侯以来、幕府の元老格としてあったが、越前福井藩は、養子の押し込み先というイメージしかない。石高も減らされる一方だし
- 41 :
- 越前家
初代:結城秀康
二代:松平忠直(秀康嫡男)
この先はしーらねw
- 42 :
- 幕府から公式に認められていた支城は>>36の他に
佐竹家の大館城・横手城
南部家の花巻城
鶴岡酒井家の亀崎城
会津松平家の猪苗代城
水戸徳川家の松岡城
加賀前田家の小松城
藤堂家の伊賀上野城
蜂須賀家の洲本城(山麓部の御殿のみ、山上部は廃城)
鳥取池田家の米子城
浅野家の三原城
がある。領地が広大で2国にまたがっていたり、付家老の城だったりするのが理由のようだが
鶴岡と会津の支城は近すぎて少し不自然だな。
- 43 :
- 会津の方は蒲生家の家格が高かった特例じゃないの?
- 44 :
- 松平飛騨守秀行が猪苗代に出城を築いたと申すか?
- 45 :
- つまり江戸時代は特例だらけだったと。
逆にいえば、特例というモノがあるくらいに、ルールが出来上がっていたと。
中世じゃルールも特例もあったもんじゃない。
- 46 :
- 身内が奥に上がって「お世継ぎ」産んだひにゃ
ご出世
出来る時代でっせ?
- 47 :
- 桂昌院や月光院の一族ってどれくらい出世したんだろう
- 48 :
- ケーショー院の実家
丹後宮津八萬石
松平(本荘)伯耆守宗資
- 49 :
- >>48
八百屋から8万石の大名なら物凄いジャパニーズドリーム
しかし二条家って五摂家唯一正統が残っている家柄なのに
家臣の家系図使ってのロンダはゆるいんだな
- 50 :
- 譜代に政権を持たせる代わりに領地(軍事力)を持たせない政策は幕末では裏目に出たんじゃないか?
- 51 :
- 鷹司松平家は大廊下で肩身が狭かったのでは?
- 52 :
- >>50
彦根井伊家の寝返りをはじめ、
鳥羽伏見後の譜代大名の体たらくを見てると、
どれほど役に立ったか疑問だが。
- 53 :
- >>52
それに引き換え「三侫人」の一人林忠英の孫は頑張ったよね
あと幕末だと間部詮勝や田沼意尊とか太平の御世に
将軍の個人的信任で取り立てられた大名の子孫の方が
四天王とかよりよっぽど徳川のために活躍している
- 54 :
- 彦根藩を減封して敵に回す事なかったのにな。
- 55 :
- >>53
確か、晩年・今際の最に辞世の句は?と聞かれ
「幕末に”既に”詠んだ」
だったと
- 56 :
- >>54
第二次長州征伐の状況見るかぎり、彦根藩がどっち向いても影響はなかっただろうけどw
まあ西国雄藩に戦力的に対抗できそうなのは幕府歩兵隊くらいだけど。
- 57 :
- 近江藩井伊家はオランダ式に訓練された一個中隊をもっていたが焼け石に水
- 58 :
- >>55
考えてみれば最後の大名なんだよな。余生のほうがはるかに長い。
- 59 :
- 芸州の殿様とどっちが長生き?
- 60 :
- 長生きは岸和田の岡部じゃなかった?
- 61 :
- 最後の藩主だった岡部長職は明治時代後期の司法大臣で大正14年没。
その子の岡部長景が東條内閣の文部大臣で戦後は国立近代美術館の館長。
ちなみに長景の弟の村山長挙は朝日新聞社主。
- 62 :
- 明治維新の頃の現役の殿様で一番長寿だったのは林忠崇で昭和16年没。
「最後の殿様」として有名な浅野長勲は昭和12年没。
林は1万石のマイナー大名の上、戊辰戦争で改易・廃藩の憂き目にあってるから、
メジャーな大大名の浅野の方が「最後の殿様」で通ってるんだろう。
廃藩置県当時、まだ子供だった知藩事まで入れたら、昭和15年没の徳川家達とか、
近江大溝藩の分部なんとかさん(確か昭和19年没)とかもいる。
- 63 :
- 明治維新の時に負けて、処刑されたり族滅された大名家って何家ぐらいあるんですか?
- 64 :
- >>63
ひとつもない
上の林家の改易処分が一番重い、しかも後に男爵にはなった
家老クラスで切腹させられた家は多いけど
- 65 :
- わが藩は大御所家斉公の佞臣でして13000石だったのが、水野忠邦が命令で10000石に減らされました
- 66 :
- >>65
田沼の57000→10000と比べてマシとしなきゃ
- 67 :
- 徳川幕府の大名統制は最後まで成功したと言える。
大名、家老クラスで幕府を倒そうとする者は無かった
薩摩、長州も例外でない。
幕府の誤算は下々の反乱が計算出来なかった事である
- 68 :
- まあ、元々、紀州藩の足軽から旗本に取り立てられた家だし、
1万石の大名で維新を迎えただけでもよしとすべきだろう。
- 69 :
- 長州のスフ政之助は下級武士?
- 70 :
- >>68
まあもともとを言えばそうなるな。
しかし新築した相良城がわずか数年で破却というのは惜しい。
あと短期間しか勤められなかった相良藩士も悲惨。
- 71 :
- でも田沼家自体は1万石で子爵になれたんだからよしというのは確かにその通り。
- 72 :
- 田沼家は藩士の入れ札によって家老を決めたそうだな。ユニークだ
- 73 :
- それは初耳、てっきり倉見家の世襲かと
でも意次の遺訓を考えるとありうる話だな
- 74 :
- 請西藩林氏は室町時代、家康公の祖先松平親氏の同僚だったんだろ。
特別の由緒があるということで、正月では将軍家に最初に謁見でき、兎を献上する。
幕初は3000石の旗本だったが、家斉公の代に大名へ。
- 75 :
- >>42
寺沢氏が島原の乱以前、唐津城の他に富岡城を持っていた
元和偃武の例外
- 76 :
- >>74
故に家紋に「一」の文字があるんだよな
- 77 :
- 駿河の堀江藩とか・・・
- 78 :
- 失礼、
堀江藩は遠江だな。
大沢基寿は知藩事にはなったけど、廃藩置県の後で実高5486石→1万0006石の誤魔化しがばれて、
禁錮1年の実刑とともに華族から士族に降格
- 79 :
- あと十年頑張れば華族になれたのに残念です
- 80 :
- 旗本寄合から大名、そして華族へ!
- 81 :
- その蒔田相模守というのはどの地域を治めていた旗本なんですか?
- 82 :
- いまの岡山県の総社市です。
- 83 :
- ほう。池田侯が一国一円支配かと思うたに、かかる旗本がおったとはな
- 84 :
- 岡山県は備前・備中・美作の3国を合わせたもので、
池田侯は備前一国の国主にすぎませんから。
備中あたりは小大名や旗本の領地や天領の錯綜地帯です。
- 85 :
- 心得た
- 86 :
- まー「北の零年」ですよ
徳島・淡路稲田家家臣団の物語
映画自体は「・・・」ですが
- 87 :
- 江戸から最も遠い領地から参勤交代していた大名家で最小石高なのはどこ?
- 88 :
- 三池藩立花氏一万石
- 89 :
- 福江藩主・五島淡路守盛利
- 90 :
- >>89 五島氏って宗氏みたいに三年に一回とか免除なかったのか。
あの距離いったりきたりは一万五千石にはつらいね。
分家の富江領三千石も交代寄合だったから…
- 91 :
- >>78
湖面を石高に含めるという離れ業をやってのけようとした事件だよね>万石騒動
大名と旗本とでは維新後は天と地の差だから主従とも必死になるのはわかるけど。
それにしてもその端数の6石が気になる
>>79
そのケースは罰せられての収公だから不運としか言いようがないけど、
せっかく若年寄になって旗本から船形1万石で立藩した平岡さんは
瓦解でわざわざ返上しちゃったよねえ・・・せっかくの子爵の地位と金禄公債が
>>80
蒔田の浅尾藩といえば第二奇兵隊襲撃事件が印象深い
- 92 :
- 福江藩は、捕鯨が最大の収入源にて候えども、他領漁民との漁業権紛争や、江戸初期の御家騒動、さらには民から血を搾り取る暴政・奴隷制やいまどき幕末に城を建てたりとか、
あまりにも仁政というものをば、等間視にしており候。改易のうえ、藩土を御領となし、良民救恤ならびに西海海防は公儀に委ねるべきであった
- 93 :
- 封建制の完成形は、少数のサディストと多数のマゾヒストによって以下略
- 94 :
- 最後の改易大名
福岡知藩事黒田長知
- 95 :
- 老中を多く出した勢家は・・・・
■阿部一族(12名)
幕府機構が安定してきた3代以降だけでも12名の老中を阿部一族から出している
家光時代の老中
・阿部正次 ・阿部忠秋 ・阿部重次
家綱時代の老中
・阿部正能
綱吉時代の老中
・阿部正武
家宣時代の老中
・阿部正喬
家冶時代の老中
・阿部正右 ・阿部正允
家斉時代の老中
・阿部正倫 ・阿部正精
家慶時代の老中
・阿部正弘
家茂時代の老中
・阿部正外
他にも本多一族が多そう
- 96 :
- 大名の中で出自が信頼できるのは何家くらい
- 97 :
- 新羅三郎を祖とする佐竹氏
佐竹義宣が、源氏を自称する徳川とかいうのに大坂城の殿中で行き会って
慇懃に挨拶しながらもクスと鼻で笑っちゃう場面が「群雄関ヶ原へ」にあって、
読み返すたびに笑ってしまう。
- 98 :
- 細川家も言うほど名門じゃないけど出自は信頼できる。
島津も名門じゃないけど古い家。
南部は源氏系の名門。
あとは生きる化石みたいな那須七党の大田原家と大関家とかw
- 99 :
- 三河の新田を舐めるなよ!
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