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2011年11月1期49: 白村江の戦い2 (202)
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白村江の戦い2
- 1 :11/09/05 〜 最終レス :11/11/10
- 白村江の戦い2
前スレ
白村江の戦い
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1284027986/
- 2 :
- 2ゲット!
スレ立てありがとうございます!
- 3 :
- 藤原鎌足 乙
- 4 :
- 大海人皇子は何してたの?
- 5 :
- 軍事的才能がある天武ならば、強大な唐と戦うのを回避するために百済を見しにしたと思う。
徳川幕府が明王朝を見しにしたように。
- 6 :
- 天武の思想は「政治の要は軍事なり」だからのう
- 7 :
- 900 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/08/18(木) 06:21:17.83
壬申の乱。最初から明確に天武サイドについた有力氏族は大伴氏だけだっけ?
↑
これはどうなの?
- 8 :
- >>5
徳川が明を助ける利はなんもないでしょ
- 9 :
- >>7
大伴氏に対比し得るような有力氏族となると…紀氏くらいかな?
- 10 :
- >>8
明の宗主国になれる。
徳川氏が明皇帝に禅譲を迫ることも夢ではない。
- 11 :
- >>9
紀氏は最初から天武サイドだっけ?
関ヶ原の真田みたいに天武サイドと弘文サイドに分裂したのではなかったか?
- 12 :
- まあ軍事的才能がある天武が渡海して総指揮を取っていれば、たとえ負けたにしてもボロ負けは回避できたような気がする。
- 13 :
- >>11
大友側には紀大人がいたはずだが、乱後も処罰されず、没後正三位を贈られていたりするので、大海人に内応していたのかもしれない
まあ、明確に大海人側と言えないのは確かだけど
- 14 :
- 天智が病の床に伏し枕元に大海人皇子を呼び寄せた時に、天智に策略が有ることを大海人皇子に忠告した「蘇我安麻呂」
「壬申の乱」の犬上川のほとりに両軍が対峙し、いよいよ決戦というタイミングで近江朝の総大将である山部王をし近江朝の数万の軍を一瞬で瓦解させた副将の2人「蘇我臣果安」と「巨勢臣比等」
天智系近江朝側の中枢にすら味方された、大海人皇子陣営
蘇我臣果安は突然の謀叛で、大友皇子陣営の敗北を決定ずけたあと、全ての責任を取る様に自らの命を断つ
これは自らの野心で日和見したというよりも、謀叛人の謗りを自ら引き受けてでも実行しなければならなかった、一族のまたは国全体を憂いた苦渋の選択だったといえなくないだろうか
国難の危機から救い、国の命運を動かす為に、自らの命をなげうってでも実行した任務
滅私の魂を持った、後の世のサムライ精神の様で哀しくて切なくて泣けるではないか
まあこれは現代人的観点から見た、こちらの都合よく勝手に美化された観点かもしれないが
- 15 :
- 山部王は軍事的能力がわからないうちに死んじゃってるからね。
でもたとえ生きていても天武にはかなわなかったような気がする。
- 16 :
- 外圧の脅威と緊張感が高まった時に、国が二分して大乱(変革、内戦紛争)が起きるって、幕末→明治維新と同じだな
最悪の状況である外国の侵略に一番備えなきゃいけないから、国が疲弊されすぎる泥沼化の長期内戦継続は避けなきゃいけなかった
山部王は残念ながらされたけど、お陰で国力疲弊されずに済んだ
山部王からしたら、謀叛はあまりに理不尽だったろうが
山部王のご冥福をお祈りします
山部王はどういう血統か分かってないんだっけ?
- 17 :
- おそらく舒明天皇の孫。蚊屋皇子の子。天智・天武天皇の甥。
- 18 :
- 大友皇子派について最後まで従って戦った数少ない兵士の中に、百済系遺民がたくさん居たみたいだな
ある意味で「唐vs新羅」の日本国内での代理戦争の様相を呈したのが「天智系の大友皇子vs大海人皇子」
それに新羅と犬猿の、そして天智に援助された旧百済遺民がついて、
唐・旧百済がついた大友派という面白い捻れ現象が起きてるよな
大海人皇子側には、新羅のバックアップがさほどされてた気もしないけど、多少はあったかもね
- 19 :
- 今の最近の日本にも、例えば巨大メディアや広告や音楽業界なんかで「過剰気味な韓流押し」の流れや、
そういった業界で最近目覚ましく躍進する在日系人脈や企業の経済力や発言力の日本国内での高まりの問題とか、
不思議と「白村江の戦い」の時代と似た事象がいくらか重なったりして見えてくるものがあって面白い
事実、百済遺族のノウハウも日本国内文化に影響を与えた訳だし
6,7世紀もK-POPじゃないけど、あっちの楽器や音楽も日本に盛んに入ってたろう
聖徳太子も百済と中国の言葉をかなり理解してたという説もあるよね
歴史上唯一の臣下による「天皇弑逆者」の東漢直駒も、百済の言葉を貴族子女なんかに教えてた家庭教師だろ?
- 20 :
- >>17
そうか
おそらく明確な自分の選択やら意思や考えとかじゃなくて、自然な流れにそのまま乗ってたら大友派の総大将として担がれて、されたんだろうな
- 21 :
- >>19
百済の支配層の扶余族は、今の半島住民とは遺伝的に殆どつながりないよ。百済の支配階級と同族と
言われる高句麗については、吉林省集安の高句麗の古墳から出た遺骨の分析が中国で進められているけど、
頭蓋骨からの復顔像とかは現在の朝鮮族とは容貌が異なるし、ましては半島住民とはさらに似てないという
結果が出ている。
今の半島住民は新羅人の子孫だろ。
- 22 :
- 日本は通販番組ばっかりで、しかもドラマはつまらん(特に台本が奇をてらいすぎてつまらん)
韓国ドラマに押しまくられるのは仕方ない状況。
- 23 :
- 当時に自らの意思や必要にかられて、そして祖国を失ったりして亡命の如く仕方なしに泣く泣く日本にやって来た旧百済遺民やら帰化人って、扶余系ばっかり(扶余系がほとんど)って事になるの?
でも一般庶民も朝鮮三国志時代の戦乱には、いろいろ多大な影響や被害を受けている訳でしょ
貴族みたいな支配者階級の上辺だけで、戦出来る訳もないだろうし
- 24 :
- 熊津遷都後は、かなり韓系が支配層にはいったらしい。
百済王族もかなり韓化していった可能性はある。
- 25 :
- >>23
乗船人員の限られた撤退する日本の軍船に載せられるのは、基本支配層のみでしょ。
百済の支配階級は、扶余系と楽浪漢族だから、日本に亡命してきたのはこういった層が中心。
そもそも、亡命者の姓も国姓の余と有力貴族の解、鬼室、億礼、木素、沙宅といった伝統的
扶余系貴族。
- 26 :
- >>18
美濃、尾張は新羅系豪族の根拠地だぞ
- 27 :
- >>26
へぇ〜なるほどそうなのか!
つまり大海人皇子が吉野脱出→東国入り
「続日本紀」に記された東国勢や尾張国造の尾張宿禰大隅らの援助だけでなく、新羅系勢力の援助ももしかしたら…という事か
面白いね
あの付近で言うと近江(滋賀)や信濃(長野)には、多くの百済系遺民に与えられた土地(百済系コミュニティー)が有ったんだよな
三重にもだったかな
滋賀三重県境あたりっていうと、だいぶ後の世にかもだけど甲賀と伊賀の忍びの里とかあるでしょ
何かしら遠因や関係があって繋がってるかも?なんてファンタジーを信じたくなってくるな
- 28 :
- 天智天皇と天武天皇の反目の最大の理由が、額田王の取り合い三角関係のこじれが原因…とかまるで少女漫画ストーリーみたいなスケールのあまりに小さな話で結論付けるのは一番詰まらんよな
もちろんそれもいくつかある反目する理由の一因になってる可能性はあるし、額田王は本当に素晴らしい女性で才能あって魅力的な人だったんだろうけど
額田王は実質は、相互人質交換で預けられた1人とした方が納得する
天智と天武は「相互人質交換」でお互い安全保障の補完をした上で「相互縛り監視プレイ」状態だったよね
「壬申の乱」で制裁を受けたりした「相手方の人質」は居なかったろうか?
- 29 :
- 百済王の王(コニキシ)って韓系の言葉だよね?
- 30 :
- ついでに言うと、河内国のウノの讃良地域も、新羅系渡来人の勢力が強い。
- 31 :
- >>29
たしかそうだ
- 32 :
- 天武は新羅に対抗して耽羅の独立を支援すれば俺得
- 33 :
- 後期には、国名も首都名も王姓も「扶余」にしてるが、
多分中国北周の再鮮卑化政策みたいなもんだと想像する。
- 34 :
- >>25
ちょっと待った。
百済王族の扶余氏や、「大姓八族」と呼ばれる八つの家門の有力百済貴族の中で、
扶余系またはわいばく系の可能性がかなり高いと見られてるのは、扶余氏、解氏、真氏くらいだな。
475年の、高句麗の長寿王の侵攻による漢城(現・ソウル市松坡区にあった百済第一首都)陥落以前からの有力家門ってことだ。
たとえば大姓八族のうちの一つである沙氏(=沙宅)とかは、
泗沘(「しひ」。現・忠清南道扶余郡扶余邑にあった、538年からの百済第三首都)周辺の有力者一門だったと見られてるし。
この頃には、韓系の有力者も百済政界に多かっただろうというのは、>>24の人の見解にもあるとおり。
付け加えると、これも大姓八族のうちの一つである白氏は、
熊津(現・忠清南道公州市にあった、475年の漢城陥落後の百済第二首都)周辺の有力者一門だったと見られてる。
ちょっときつい言い方に見えるかもしれないが、
なぜか百済人関係のスレでは、
「扶余系や倭系、場合によっては漢系までの存在をえらく強調するのに、韓系をすっぽり取り落とす見解」を書く人がときどきいるな。
なんでなのかは知らないが・・・・・・。
※「しひ」の漢字がもしも画面に反映されない場合のために、注釈。
「し」は「さんずいに四 [シ四]」。
「ひ」は「さんずいに比 [シ比]」。
- 35 :
- >>33
百済が国名を「南扶余」と名乗ったのは、泗沘遷都と同じ538年だったようだね。
(ただ、一般的に通用する国名としては、あまり定着しなかったらしい。これ以降は各種文献にも事実上出てこないし)
ちなみにこの538年は、日本に本格的に仏教が伝来した初めての年とも言われてる年だから、
百済が内政でも外交でも非常に積極的な政策に出た時期と考えられるだろうね。
百済王族の姓は538年以前からもずっと「扶余」と名乗ってるようなので、これに関しては後期に限らないみたいだ。
百済第三首都になった地域の百済時代の地名は、ずっと「泗沘(しひ)」で、
ここの地名自体が「扶余」になったのは、百済滅亡よりもずっと後のことだよ。
- 36 :
- >>29
>>31
王号としての自称は、「於羅瑕」だけどね。
- 37 :
- >>36
「於羅瑕(おらか)」というのが、どうやら扶余系言語で「王」をあらわす言葉みたいだね。
日本書紀には、これに相当する言葉で「おりこけ」って言葉が出てくるようだ。
「こにきし」というのは、
現代韓国語の固有語で「大きな」を意味する「クン」と同根の古語と、
中国で三国時代ごろに書かれた文献に現れる、韓系の「有力者」といった意味の「吉師(きし)」という言葉が
組み合わさった言葉ではないかという説がある。
- 38 :
- >>34
日本に亡命した百済貴族で鬼室は賜姓王族だから、扶余系で間違いないだろ。
- 39 :
- >>38
鬼室氏一門に関しては、
百済王族の系統である可能性もかなり強いから、扶余系である可能性も充分ある。
ただ、百済滅亡後に日本に亡命してきた人々、なかでも有力家門が、みな扶余系ばかりだったかというと、
上の記述にもあるとおり、扶余系ばかりではなく韓系が相当に多かったのは、ほぼ間違いないだろう。
たとえば沙宅氏一門は、韓系である可能性が非常に高い家門だし。
- 40 :
- 後期百済が韓系等もかなり高い身分(貴族?)に、取り上げられる環境になったのは理解しました
だが扶余系と韓系(というか扶余以外の民族)の婚姻などは、扶余系からしたらもってのほかの事だったのですか?
韓系からしたら婚姻出来るなら扶余系としたかったですか?
逆に韓系側も扶余と婚姻するのは嫌だったですか?
つまり異種婚姻や混血を認めるのか、純血主義かです
- 41 :
- >>37 一部訂正
中国で三国時代ごろに書かれた文献に現れる、韓系の「有力者」といった意味の「吉師(きし)」という言葉が
↓
中国三国時代ごろに相当する時代の韓系部族地域について、
これを記述した晋代の文献に現れる、韓系言語で「有力者」といった意味の「吉師(きし)」という言葉が
- 42 :
- >>40
結論から言うと、扶余系同士とだけしか婚姻しなかったという証拠は無いです。
特に晩期百済ともなると、ほぼ確実に他民族との婚姻は行われていたでしょう。
百済の武王(百済最後の王である義慈王の実父)の時代に建立された、
弥勒寺という寺院の址が、全羅北道益山市にあるのですが、
数年前にここで発掘調査が行われた際、
「百済王后佐平沙宅積徳女(=百済王の后である佐平(=百済の閣僚)沙宅積徳のむすめ」
という銘が書かれた遺物が発見されてます。
上にもあるように、沙宅一門は韓系だった可能性が高い家門なので、
百済王族が「我こそは扶余系である」と名乗っているからと言って、
同族としか婚姻しなかったというようなことは、特に泗沘時代にはほぼ確実に無かったと見ていいでしょう。
- 43 :
- >>40
> 後期百済が韓系等もかなり高い身分(貴族?)に、取り上げられる環境になったのは理解しました
尾張出身の前田家が加賀入りした時に、現地の有力豪族の長(ちょう)氏を家老にして
現地人懐柔策をとったようなもんだろうね。
- 44 :
- >>34
白氏 → 苩氏(「はく」の字は、くさかんむりに白)
- 45 :
- 凄い基本的な事を聞きますが、扶余は騎馬民族出身で百済時代に於いても、そういうルーツの騎馬民族らしい文化を色濃く保持してたと推測出来ますが
韓民族は元々は騎馬民族系ですか農耕民族系ですか?
百済より高句麗の方が、騎馬民族らしさやそういった文化をより保持し保ち続けたですか?
- 46 :
- 新羅は民族的・文化的にはどうなんですか?
- 47 :
- >>45
>韓民族は元々は騎馬民族系ですか農耕民族系ですか?
中国の朝鮮族ネットにはエベンキ語と朝鮮語の基礎単語と習俗の類似性の言及がある。
これは朝鮮族が自らそう認めている。因にエベンキ族は狩猟民族だが、馬は持ってなかった。
一応狩猟民族なので弓矢は得意な民族。
日本のジャポニカ米はDNA鑑定で長江流域から来たことが明白なので、古代韓族は狩猟民族だった可能性もある。
>
>百済より高句麗の方が、騎馬民族らしさやそういった文化をより保持し保ち続けたですか?
高句麗は突厥や契丹と交流あったからね。
- 48 :
- >>39
億礼も王族から別れた貴族で代々佐平・達卒を出した氏族のはず。
- 49 :
- 百済系の末裔といわれている高野新笠(桓武天皇生母)を調べてて気づいたけど
「壬申の乱」で突然の謀叛でされた総大将の山部王
平安京を築いた桓武天皇も同じ名前の「山部王(山部親王)」
された親戚の名前をなぞる様に名付けるなんてよっほど何かあるのかな
それか深く考えすぎ?
- 50 :
- >>49
親王の諱は壬生部か母の姓が付く。
桓武の諱は母の姓だという説が有力。
関係ないだろうね。
でもまあそうやって小説的にいろいろ妄想するのは楽しいよな。
- 51 :
- そうやって考えると「壬申の乱」でされた山部王は、やはり天武系よりも天智・大友系に近しく親密な生まれの可能性が高いな
天智の曾孫の母も務める、信頼の置ける天智系に近しい家柄なんだろうから
- 52 :
- 家柄なんだから ×
家柄で同じように育成されたんだから ○
- 53 :
- >>34
百済の場合、姓氏は地名由来が多いから、どこどこの土地の有力者といっても、それは征服後に領地として与えられたとも考えられるから、そく韓族と決めるのも早計だと思うよ。
有力氏族の過半数が韓族系というのは、韓国の説だよね。一方中国の説では、有力氏族は扶余族か楽浪漢族で一部に日本系がいたというもの。中国の説は東北工程の関係で新羅以外は、現在の南北朝鮮と関係ないという基本スタンスだから割り引く必要はあるけど。
その代わり、文献研究と考古学的調査は、何でも自国に結びつける韓国よりはしっかりやっている。
だから、欧米のアジア史研究者も中国説支持が多い。
- 54 :
- >>45
騎馬民族・狩猟民族っていう定義づけそのものが、
実際上の社会運営の上で農耕社会化していくうちにさほどの意味を持たなくなることはあり得ます。
ただ、扶余系を称する高句麗の始祖伝説の上で、
伝説上の初代王の名「朱蒙(または趨牟、都慕)」が「弓を弾くもの」という意味の言葉だったという言い伝えがあるあたり、
狩猟民族としての扶余系の出自をより強く象徴しているともいえるでしょう。
いっぽう、韓系部族は、扶余系部族よりもずっと早くから南下して農耕社会化していたものと考えられます。
より広い意味で言うと、
トルコ語(とその近縁のトルコ系中央アジア諸言語)、モンゴル語、満州語(や興安嶺・東シベリア周辺の狩猟民族言語の多く)、韓国語、日本語のどれもが、
文法的には膠着語(格助詞で単語と単語をくっ付けて構文する言語)のアルタイ語族系統と見られていて、
古代の中央アジア方面に起源を持つ言語集団であったと見られます。
>>47
興安嶺や東シベリア周辺の狩猟民族は、別にエヴェンキ族に限らないでしょう。
遊牧文化の民族の代表格のように語られるモンゴル族だって、
もともとは中央シベリア高原あたりから南下した狩猟民族だったのではと見る説も有力ですし。
それにしても、最近、ネット掲示板上でエヴェンキ族ばかりが、
(それもなぜか韓国史関連のスレばかりで)いつもクローズアップされるのはどういうことなのやら。
(しかも、エヴェンキ族も含む多様な中央アジア狩猟民族の生活文化や言語系統について、
きちんと学術的に考察してるとはとても言いがたいような文脈や表現で)
それに、ジャポニカ米の話と、韓族が狩猟民族だった可能性の話とは、どういう文脈でつなげてるんですか。
その文だけだと、あなたの論点は全然わかりません。
- 55 :
- >>53
楽浪郡が現在の忠清道や全羅道あたりまでを直接統治下に置いていたという証拠は無いですよ。
韓系部族の言語的痕跡とかも、文献にかなりの程度残ってるんですし。
それらを全く等閑視するのは、あまりに極論だと思うんですが。
- 56 :
- >>54
> それにしても、最近、ネット掲示板上でエヴェンキ族ばかりが、
> (それもなぜか韓国史関連のスレばかりで)いつもクローズアップされるのはどういうことなのやら。
> (しかも、エヴェンキ族も含む多様な中央アジア狩猟民族の生活文化や言語系統について、
> きちんと学術的に考察してるとはとても言いがたいような文脈や表現で)
エベンキ族ト韓国朝鮮人との関連性につては、中国の朝鮮族によるネットメディアの朝鮮族ネットの
中国の各小数民族の説明に、習俗と言語と遺伝子の類似性から、朝鮮族との関連の深い民族と
いう説明が発端。別に、嫌韓の人や右翼系の人の造作ではないよ。文句なら中国の研究者に言ってくれ。
ただ、中国は自国の朝鮮族とエベンキ族のDNA調査を行った上で主張しているから欧米でも支持され
るってことだよ。
- 57 :
- 農耕地帯に移住した少数の遊牧民が
多数派の農耕民の文化に染まっていくのは
よくありそう。
- 58 :
- >>56
欧米の、どういう人がどういう場でどういう意味の「支持」をしてるんですか。
その点がよくわからない。
それに、「類似性」があるのは、エヴェンキ族に限定される話ではないのでは。
いわゆるトゥングース系民族は、ほかにもたくさん存在するんですから、
その点でさらに綿密で広範囲の考察が必要だと思うんですけど。
少なくとも、言語面の研究で、
韓国語の重要な固有語名詞と同根と見られてる例が(エヴェンキ語も含め)数多くのアルタイ系言語にいろいろと存在するのは、
別に今さら大げさにネット上でクローズアップされなくても、ずいぶん昔から研究されてることですよ。
- 59 :
- >>54
> それに、ジャポニカ米の話と、韓族が狩猟民族だった可能性の話とは、どういう文脈でつなげてるんですか。
> その文だけだと、あなたの論点は全然わかりません。
陸稲も含めて米のプラントオパールの出土は朝鮮半島では紀元前2000年が最古である一方で、日本での陸稲の
プラントオパールは紀元前6000年前のものが岡山県から出土している。今の日本の水稲の直接的祖先のジャポニカ
種の水稲は、日本では炭素14による鑑定で2800〜3000年前まで遡れる。
だから、少なくても朝鮮半島のほうが農耕化が遅れていて、原アルタイ系民族の終了民族的な性質が濃厚だったの
ではないっかてこと。
- 60 :
- >>57
そういう例って、たとえば、
モンゴル帝国時代に農耕地域の統治のために配属されたモンゴル族の子孫が、
モンゴル帝国滅亡後も現地に残留して事実上完全に農耕生活に移りつつ、
祭祀やおまじないの習慣の中に、モンゴル族としての習慣の痕跡を留めてるってこととかがあるみたいですね。
- 61 :
- >>58
> >>56
> 欧米の、どういう人がどういう場でどういう意味の「支持」をしてるんですか。
> その点がよくわからない。
積極的にDNA鑑定を取り入れているところが「科学的」との支持を受けている。
これも、中国のメディアでの発表だから、バイアス掛かっているというなら、中国政府に言ってくれ。
ただ、韓国よりも科学的に証拠固めすると言う姿勢は一貫しているところが評価されてるんでしょ。
>
> それに、「類似性」があるのは、エヴェンキ族に限定される話ではないのでは。
> いわゆるトゥングース系民族は、ほかにもたくさん存在するんですから、
> その点でさらに綿密で広範囲の考察が必要だと思うんですけど。
>
中国の研究者に言ってくれ。これ別段、俺個人の説じゃないんだからさ。
> 少なくとも、言語面の研究で、
> 韓国語の重要な固有語名詞と同根と見られてる例が(エヴェンキ語も含め)数多くのアルタイ系言語にいろいろと存在するのは、
> 別に今さら大げさにネット上でクローズアップされなくても、ずいぶん昔から研究されてることですよ。
だから、中国の研究者に言ってくれ。あるいは、バイアスが入っているというなら中国政府にに言ってくれ。
- 62 :
- >>60
ロシアのタタール族やポーランドのリプカ人は、元々はジュチ・ウルスのテュルク化したモンゴル族だが、
かなり農耕もしている。ポーランドのリプカ人に至っては、造園業とかまでやっていたりする。
- 63 :
- >>58
> それに、「類似性」があるのは、エヴェンキ族に限定される話ではないのでは。
> いわゆるトゥングース系民族は、ほかにもたくさん存在するんですから、
> その点でさらに綿密で広範囲の考察が必要だと思うんですけど。
中国東亜研究中心の発表内容について紹介すると、
・エベンキ族の遺伝因子と華北の漢族、満州族、内蒙古のモンゴル族、朝鮮族との比較で朝鮮族との近似性が
一番高かった。
・現在の標準的な朝鮮族とエベンキ族を比べても容貌の近似性が高い(細くて吊り上がった目、頬骨の骨格的
特徴も近い。
>
> 少なくとも、言語面の研究で、
> 韓国語の重要な固有語名詞と同根と見られてる例が(エヴェンキ語も含め)数多くのアルタイ系言語にいろいろと存在するのは、
> 別に今さら大げさにネット上でクローズアップされなくても、ずいぶん昔から研究されてることですよ。
・満州語はトゥングース系言語だが、基本的に開音節の単語が多く、例外的な閉音節の単語は外来語。
中国語でも普通話を中心とする北方漢語は入声が殆ど消滅して単語の殆どは開音節。一方、エベンキ語は
閉音節の固有後の単語が多い。朝鮮語も同様に固有語でも閉音節の単語が多い。
・漢語と満州語とモンゴル語のいずれにも受動態(受身)表現があるが、エベンキ語と朝鮮語には受動態(受身)表現
がないことが共通している。
だから、中国東亜研究中心もバイアス掛かっているのかもしれないが、それなりに研究成果を根拠としている。
- 64 :
- >>58
> 欧米の、どういう人がどういう場でどういう意味の「支持」をしてるんですか。
> その点がよくわからない。
今東京大学社会科学研究所の教授を務めている元カリフォルニア大学助教授のグレゴリー・ノーブル博士。
「朝鮮半島の歴史が中国との深い交流のなかから生まれてきたことを考えると、中国側の見方に
根拠がないわけではない」
- 65 :
- 韓国人や北朝鮮人でなく中国朝鮮族か。
- 66 :
- >>57
遊牧より農耕のほうが生活しやすいからね。
- 67 :
- >>63
「目つきや頬骨の近似性がどうの」なんて大真面目に語ってる時点で、
眉唾も甚だしいな。
君、いっぺんソウルなり釜山なり街中を散歩してみればいい。
はっきり言って顔立ちなんて千差万別。
君自身が韓国語で話しかけられるぞ、きっと。
てか、なんかスレの本題から外れ過ぎてるな、ここんとこ。
誰か三国史記なり日本書紀なりから晩期百済史の話振ってくれないか、扇動無しで冷静に。
- 68 :
- 【1次的】「白村江の戦い」の日本・唐・新羅・百済・高句麗の情勢など
【2次的】「白村江の戦い」の前後関係、関連事項、663年から±30年くらいの事象
【3次的】「白村江の戦い」からやや離れるが何かしら繋がりのあると思われる事象、663年から±100年くらいの事象、国家の成り立ち、隨など異なる時代の王朝事情など、豪族や民族のルーツなど
あくまで叩き台の案ですが、極力3次的ネタより2次、1次をより考える様にいたしょう
しかし長いリーチに立って考えるのも古代史では大事なので、例外はもちろんありです
- 69 :
- >>67
だから、文句なら中国文化部と中国東亜洲研究中心に言えよ。何度脚気場理解するんだよ。
日本語わからないのか?
- 70 :
- もしかして新笠の先祖はこの時代に来た百済人なのではとか想像もできるな。
- 71 :
- http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4404039042/ref=mp_s_a_3/378-5662418-9940641?uid=NULLGWDOCOMO&qid=1315577238&sr=1-3
伽羅や伽耶の意味が「神の国」、伽羅(カラ)はその後に韓(カラ・カン)にその意味が引き継がれた
朝鮮半島南端部の伽羅諸国(きんかん伽羅)などが「神の国」
それは一旦置いといて、
どこぞの国の神話に、天上界の「神の国」から、船に乗って九州の高天ヶ原に神々が「降臨」した話ってあるよな
こう書くと意図的操作になるのか
詳しい人、 何か聞かせて下さい
- 72 :
- 自己訂正
九州の高天ヶ原 ×
「神々の国」高天ヶ原→九州の高千穂 ○
あと天から「天磐船(あまのいわふね・空飛ぶ船のイメージか!?)」に乗って日本の地上にやって来たんだっけ
- 73 :
- >>68
「1次」と「2次」を横断するような論題、たとえば「済・羅・麗・唐・倭・突厥(・渤海)の同盟関係の変遷」あたりは、
かなり興味深そうだね。
それぞれの国内情勢の推移も、相当に外交路線に影響してくるし。
>>69
バイアスがかなり強そうだと自分でも思えるほどの話なら、
尚更そんな話を丸写しにしたりしないで、
自分なりに、客観的・現実的に、よく考えてから書くようにしようよ。
「反論は原典の論者に言ってくれ」だけ言っていると、「ではなぜそんな話を引用したのか?」と問われるよ。
>>70
高野新笠の始祖伝説が武寧王代と結び付けられたのは、
時代としては武王代・義慈王代よりも相当に遡及するけど、
何ごとか事情がありそうな気も。
熊津時代百済は、晩期百済と並ぶくらいの激動期だったし。
あとたとえば、大内家の始祖伝説は、武王(義慈王の父)代に関わってるんだよね。
内政も外交も激動期で、人の動きが激しかった時代には違いなさそうだし。
これにしても、そういう時代に始祖伝説が結び付けられるのは、何らかの訳があっても不思議ではないかも。
- 74 :
- 唐が滅ぼした国や地域とか、領土の変遷とか事件や年号経過とか一目で分かったら見やすいのにな
あと唐の戦争や一般の科学力(科学兵器)、ハイテク兵器の水準とか
分かりにくかったら前後時代から推測したり
- 75 :
- 右翼タカ派的な意味合いじゃないけど、
欽明天皇の遺言みたいな「半島の領地奪回」の悲願を、聖徳太子も為し得なかった
中大兄皇子(天智天皇)も為し得なかった
秀吉は本来は「唐入り」が目的だけど、最終的に為し得なかった
ロシアや欧米列強の侵略の脅威があったとはいえ、朝鮮併合で遂に悲願を成し遂げた形だったんだな
- 76 :
- >>64の出典て、日本語版wikipediaの「高句麗」の項目の、
中韓間の帰属争いの説明から持ってきたコピペだな。
或る民族同士の近縁関係の分析だとかとは、まったく関係無い談話だ。
全然関係ないことで勝手に談話をコピペにされた助教授さんが、気の毒だ。
>>64のレスを載せた者は、もうこれ以上書いちゃ駄目だな。
- 77 :
- >>75
でも、結局最終的に、
ジャパニーズ対コリアンの、
民族間不和をわざわざ拡大させた格好になって、
外交的な面でも、その後の歴史的展開でも、
結果的にはマイナスのほうが遥かに大きかったな。
もっと穏健な付き合い方って無かったものかね。
過去の歴史は取り戻せないにしても、未来への教訓だな。
まあ、スレ趣旨から大ずれしそうな話なので、さらに深入りして書くのはやめとく。
- 78 :
- 大海人皇子の槍さばきって見てみたいなぁ
- 79 :
- 「藤氏家伝」に中大兄皇子と大海人皇子が激しく意見対立した時に、感情的になった大海人皇子が槍を床に突き立てて、それを見た中大兄皇子が大海人皇子をそうとしたけど中臣鎌足が2人の仲をいさめたという武勇伝というか美談が載ってるらしいね
藤原家の一族史書「藤氏家伝」しか載ってないけどねw
鎌足に都合が良すぎるけど、見てみたい場面ではある
傍に槍があるのも変な話だけど
- 80 :
- 内大臣などの要職で中大兄皇子(天智天皇)を全面的に支える一方で、有力皇族の大海人皇子(天武天皇)の元にも2人も実の娘を妃として送り出している中臣(藤原)鎌足
抜かりないな。全くハンパねえ
神代は別にして、藤原1200年の朝堂を守り生き抜いた闇の支配者一族の始祖だけはある
- 81 :
- >>80
関ヶ原の真田家もそうだが「どっちが勝ってもOK」ということだよな。
- 82 :
- もっとも、鎌足の娘が天武夫人となったのは、
本人や但馬内親王・新田部親王の想定される生年から、
鎌足死後(さらには壬申の乱以降)の可能性も高いけどね。
- 83 :
- 古人大兄皇子「韓人鞍作臣 吾心痛矣」
韓人が蘇我入鹿をした 私は心が深く痛む
- 84 :
- >>82
そうなんだ
でもそうなると、余計に2人の娘が嫁いだ事が解せないな
鎌足がいくらやり手でも死後までは手腕を行使(娘を有力者に嫁がせる)出来ない訳だし
藤原一族内に鎌足死後すぐの頃にまだ他にやり手な人間がいたか、
鎌足の生前から内々であらかじめ結婚が決まってた→予定通り結婚なら納得するけど
- 85 :
- 鎌足の娘、大原大刀自(藤原五百重娘)は
天武天皇妃として新田部皇子を生み、天武天皇没後に異母兄の藤原不比等と婚姻し藤原麻呂を生む
- 86 :
- 刀自(とじ)という名前がよく散見されるが、何かしら意味などあったのですか?
- 87 :
- 中臣鎌足は息子の藤原不比等が、まだ小学生くらいの年令の時に没しているな
だから不比等が鎌足に英才教育を施されたと見るには限度がある
あっても数年だろう
- 88 :
- >>84
>やり手な人間
というか、鎌足の嫡妻・鏡姫王の存在があると思う。
- 89 :
- 額田王が大海人皇子→中大兄皇子と変遷
鏡姫王が中大兄皇子→藤原鎌足と変遷
額田王が鏡王の娘で、鏡姫王も名前から鏡王と関連を推測されており、額田王と鏡姫王は姉妹とも同一人物とも言われる説も一部ある
もしも2人が同一人物なら大海人皇子→中大兄皇子→藤原鎌足と変遷したという事か!?
彼女本人の意思と関係なくなら、これほど勝手な話はない
そうだとしたら一番悪いのはやっぱ中大兄皇子だな
おそらく額田王を大海人皇子から(半強制的に無理やり?)召し出させ、参謀のかわいい鎌足に鏡姫王を下賜し与えてんだから…
- 90 :
- >>88
もう少し補足説明を、分かりやすくお願いします
- 91 :
- 天智(中大兄)と天武(大海人)が兄弟じゃなかったというのはいまや常識だな
- 92 :
- そういう説がいろいろあるってだけだろ
まだ確定されるだけの証拠は見つかってないってのが現状だろう
じゃあ誰なんだ?皇族以外か?
大海人皇子がおかしいってか?
- 93 :
- >>91
かなり非常識だよ。
- 94 :
- あれだけ自分の意にそぐわない可能性があると判断した(?)有力者や有力皇族を、数々粛清する事に見事成功してきた中大兄皇子が、
大海人皇子だけはどうして粛清や暗や謀叛の濡れ衣によって、葬れなかったんだろう?
大田皇女、鵜野讃良皇女、大江皇女、新田部皇女の自らの四人娘全員を大海人皇子の元だけに嫁がせねばならなかった理由はなんだろう?
しかしこの時代の家系図を自作でまとめとして書こうとしたら、とんでもないややこしくて難解な目に合う
- 95 :
- >>94
> 大海人皇子だけはどうして粛清や暗や謀叛の濡れ衣によって、葬れなかったんだろう?
唐が攻めてきた場合のことを考えると、軍事的才能がある皇族を粛清するのはまずい。
いざという時に困る。
- 96 :
- >>94
天智皇女も鎌足娘同様、大江・新田部は壬申の乱後に天武の妃となった可能性あり。
大田・菟野との縁組も、中大兄の策というより、皇次子を慮った母・斉明の発意という考え方も出来得る。
- 97 :
- 天智天皇の長女の大田皇女が、天武の天皇即位以降までずっと長生きしてたら、きっと天智天皇の次女の鵜野讃良皇女(持統女帝)が天武の皇后になってない
大田皇女は人物像は早くに没したのもあってよく分からないけど、苛烈な性格な妹の持統よりは穏和な性格の可能性が相対的に高いだろう
自分が生んだ皇子以外の有力皇子を計略で葬ってきた持統は、天武系統の命脈を摘んで天智系統に引き戻した張本人
藤原不比等を引き揚げた事といい、粛清といい、父の天智天皇と生き写しだ
よく一般的に言われているように「持統は天武の政策と理念を引き継いだ」とは到底思えず、むしろ天智の政策と理念に逆戻りさせた「静かなる革命に成功した」としか思えない
- 98 :
- >>67
DNA鑑定の補足で要望の近似性について言及しているのに、DNA鑑定のほうは
スルーかよ。とんだ文系朝鮮脳だな。
顔なんて現代の朝鮮半島人は整形で変えまくっているが、DNAは変えられない。
- 99 :
- >>76
都合が悪いことは引用するなとは、思考停止だな。
韓国人は自分に不利な見解に耳を傾けるべきだな。
自民党代議士に対して金浦空港で糞尿ぶちまけてしてやるといってた
キチガイ韓国人と同じレベルというか、在日韓国人なんだろ。
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