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2011年11月1期1: 謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!59 (254)
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謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!59
- 1 :11/11/03 〜 最終レス :11/11/11
- 其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛
邪馬台国は、三世紀に日本列島に存在したとされる国の一つであり
古代史最大の謎として人々の関心は高い。
この日本建国に関わる邪馬台国、女王卑弥呼について議論をしましょう。
前スレ http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1314283178/
リンク http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listtitle
- 2 :
- >>989 sssさん
>宇美町から南に水行?
>畿内説のように、東に水行としてみてもやはり続かない。宇美町の東には海(水)はない。
>放射説を取ったとしても、伊都国から南に水行が続かない。
よこしますが、福岡県福岡市東区志賀島(金印公園)から
「漢委奴國王印」が出土されてる。
奴國が博多周辺だったという動かぬ証拠になる。
よって、伊都国は佐賀の方向ではなく、前原方面伊なるとは思いませんか?
コメントお願いします。
- 3 :
- たとえば、昔に福岡県福岡市東区の志賀島で「漢委奴国王印」が発見されましたが、
中国史の記録にも、『親魏倭王印を授ける』っていうのがありまして、
倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。
この「倭」ていうのは、記録と考古の両方から見て、外国ではなく日本列島で間違いない。
ただ、「記録」と「実態」については、現在みたいに人工衛星を使って正確な位置を
把握できる時代じゃなかった。
たとえば携帯電話やインターネットが普及してますが、ソノ時代は、
各区域間での情報のやりとりが困難だったため、多少、間違いが生じる。
徳川家康の会津討伐の際にも、その大阪城の御奉行との連絡に時間差が生じたりしてますよね。
邪馬台国の時代と言えばそれよりも時代は先なので、さらに正確な「情報」が行き来しない時代で、
どういうことを考えると、上記したような、
【記録】
女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。
【実態】
畿内のヤマトは、九州に大宰府を設けて、諸国を検察する
のように、多少の間違いは仕方がなかったのではなかろうかと思う。
- 4 :
- 「卑彌呼」の名だが、
日巫女(ひみこ)説、日御子(ひみこ)説、姫子(ひめこ)説、姫御子(ひめみこ)説、日女子(ひめこ)説
があり、私は、日巫女(ひみこ)をもって、「卑彌呼」と漢字表記されたんじゃなかろうかと考えてる。
大体、ヒミコ、ヒメコの2パターンの説が多いようだが、ヒメコていうのは、
男性・女性を称えた言い方でヒコ、ヒメ制からきてるのでしょうか。
しかし、倭人伝の文章中に「ヒメ」に対する、「ヒコ」がみれないことや、
もしヒメならば「卑彌」でも良い気がするのは私だけだろか。
話は戻るが、「卑彌呼」というのは、「卑」「彌」「呼」という字を見ても分かる通り、
中国側から蔑んだ「字」を当てられてる。
この事柄から想像するのに、ヒコ・ヒメ制からくるものではなく、
太陽を象徴する「日」から、シャーマンを連想する「巫女」であり、
当初日本側の主張では「日巫女」様だったのではなかろうか。
だから、蔑んだ「字」にされた。
ヒコ・ヒメ制のヒメ+コでは、蔑んだ「字」にされなかったこともあり得ないだろうか。
- 5 :
- 八幡神ていうのは、源頼朝はもちろん、
戦国時代の各武将にも崇拝されており、応神天皇ていうのは、日本で一番人気がある天皇の一人。
この八幡神っていうのは石清水や宇佐で「八幡神」として祀られており、
八幡神発生について、向こうの掲示板で議論してるんだが、
その起源をたどると豊国でもある豊前宇佐から生じてるらしく、
571年に始めてその姿を現し、鷹居社で神仏習合をもって応神八幡神は誕生した。
その後に、小山田社を経て、現在の宇佐神宮内にある亀山で祀られてる。
前方後円墳についてだが、
・200メートルを超える前方後円墳
・100メートルを超える前方後円墳
・50メートルを超える前方後円墳
・円墳、方墳 の4段階に分けられており、
この「大きさ」によって、「格」が分かるというか、
大陸や半島との外交には、200メートル以上の前方後円墳に葬られた「列島の主」があたり、
国内の周辺諸国との外交には100メートル以上の前方後円墳に葬られた「豪族」があたってたんじゃなかろうか。
前方後円墳の前の時代でいえば、副葬品をみると
九州のスグ岡本やミグモが立派なので、上記の「主」にあたるのはこれらに葬られた被葬者が該当すると思う。
- 6 :
- このスレもう廃止でいいのに
じゃなきゃ太国・唐松専用スレでおk
- 7 :
- >>6
だな。邪馬台国関連スレの主役である河童虫が帰ってきたじゃないか。
ドツボは必要ないな。
- 8 :
- 邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
卑弥呼の墓は、小城公園内の桜ヶ岡です。
ところで金印が志賀の島からでたからって、なんで奴国が博多周辺だといいきれるのですか?
- 9 :
- >>4
金印は持ち運びしやすい物だから志賀島周辺が奴国の証明とはならない。
卑弥呼は3世紀の魏の発音で読まねば合理性を欠く。望月さんという研究者の
研究結果では「ヒムカ」と発音するのが近いということだ。ヒミコでもヒメ
コでもない。
現代人の勝手解釈にあんたは陥っているよ。
- 10 :
- 卑弥呼はヒミカだと思います。
呼は当時カだったのです。不呼国はオカ国で岡田(遠賀川河口)にありました。
不はオで不彌国はオミ国で、佐賀県小城のことです。
よってヒミカと発音したようです。ただし弥ははっきりした音ではなかったようで、
中国人にはそう聞こえたということでしょう。
ヒミカはアイヌ語のピリカと同義語です。
ピリカメノコといったらきれいな女の子という意味です。
よってヒミカとは、美しい、素晴らしいという意味になり、素晴らしい女性である女王
にあたえられた尊称です。新興宗教だったら、「お光さま」といったところでしょうか。
あいつはピカ一だとか、ピカピカの一年生も同義語です。
光の音、ヒカリもそうです。
- 11 :
- >>9
>金印は持ち運びしやすい物だから志賀島周辺が奴国の証明とはならない。
なるほど。移動が容易なものは、遺物とその出土地との関連は認めない。 と。
ちょうど絹とかが該当しますな。出たからといって その土地のものだというのはおかしい。という主張だと承知。
- 12 :
- あげ
- 13 :
- 金印は偽物説も出てるが、このスレ的には本物前提ということか。
- 14 :
- >神武東遷以来勢力を伸ばしてきたヤマト王権が、一気にその版図を拡大する時期ではあります。
>しかし、それは四道将軍の派遣や出雲征伐などに見られるように、九州にはその勢力が及んでいない。
>景行朝で九州に手を伸ばすことになる。
>ここが畿内説と記紀との最大の矛盾だと思います
さて、なんて答えようかな・・・
>>8
>ところで金印が志賀の島からでたからって、なんで奴国が博多周辺だといいきれるのですか?
貴方方は、現実から目を背けたいだけであって、
志賀島で「漢委奴国王印」が出土された事実なんて
屁とも思ってないようですが・・・
金印とうのは、その辺に転がっていたわけではない。
当時の記録いわく、隠すように巨石の真下へ埋めてあったのであり
仮に平原1号分の大きさは、巨大な景行天皇稜と違って小さいので、
奈良県から、現在の九州前原市に埋め移されたのであろう〜と言ってるようなもんでして(笑)
- 15 :
- >>10 サガミさん
「卑彌呼」の「卑」「彌」「呼」の名称について〜
「卑」は、ヒ音で、日本側で使った漢字として考えられるのが
「日」「比」「火」「樋」あたりでして、「日巫女」「火巫女」なんてよく聞きますよね。
。
そして、「上代特殊仮名遣い」というのがあって、これは平仮名、カタカナの元となった
奈良時代より前の「万葉仮名」には、その音が2通りある。
その2パターンっていうのが「甲類」「乙類」だったかな、
「卑」はその後の「彌(ミ)」が甲類なので、それにならって「日」だろうといわれてるんです。
「彌」はなぜ甲類になるかというと 甲類・・・「見」「三」「彌」 乙類・・・「未」「身」 の内、
ここから選ばれたという感じだナノかな。
で、問題の「呼」ですが、呼が「コ」になるのか?「カ」になるのか?
私もここまではあまりよく調べてませんのでして、今ここで話せないんですが(笑)
しかし、たぶん、「呼」の音は「コ」で問題ないと思われます。
- 16 :
- 金印は海岸の波打ち際といっていいような(現在は波打ち際の道路の下にあたります。金印公園内ではありません。)
場所に隠しておいたのです。大石といっても当時の供述書から2人で持ち上げることができる程度の石です。
場所的にみて墓をつくるようなところでもありません。どう見てもあれは、戦いやぶれたドッカの国王が金印を持って志賀島
に逃げたが、島の主が庇護してくれるかわからないため、一時隠しておいたのです。
復活したらとり取りに来る予定でした。
しかし、されたのでしょうね。隠し場所の口をわらなかったために、江戸時代まで行方不明だったのです。
- 17 :
- >>16
>金印は海岸の波打ち際といっていいような(現在は波打ち際の道路の下にあたります。金印公園内ではありません。)
>場所に隠しておいたのです。
田んぼ周辺の巨石の下だった気がします。
それに、公園内じゃないって〜観光案内には現在の"金印公園"と説明してるハズだよ。
>場所的にみて墓をつくるようなところでもありません。どう見てもあれは、戦いやぶれたドッカの国王が金印を持って志賀島
>に逃げたが、島の主が庇護してくれるかわからないため、一時隠しておいたのです。
>復活したらとり取りに来る予定でした。
>しかし、されたのでしょうね。隠し場所の口をわらなかったために、江戸時代まで行方不明だったのです。
それは、貴方の憶測でしょ。
サガミさんは〜邪馬台国を佐賀県にしたい!と思う、気持ちから来る解釈。
そして、貴方は佐賀ルート説をとっていらっしゃるが、それは無理でしょうね。
なんせ、伊都国が「地名だけ」を頼りにしてるんですもんねえ。。。。
- 18 :
- 柳田國男集「妹の力」て読んだ事ある人はおる???
巫女を知る上で、常に話題に出てくるのが、この「妹の力で」
この前購入して読んでたんですが、けっこうあっけにないよね。
構成は320ページから327ページの8ページ分なのですが、
なんていうかな・・・・普通というかw なんでこの本って
そんなに有名なのか、って思いたくなる。
- 19 :
- >>15
日本に漢字が入ってきたのが、いつのことか、これは定かではありません。
ただし、中国王朝からの文書の形で、少なくとも漢代には伝わっていたもの思われます。
文字がただの模様では無く、コトバを記録したものであることが解れば、それを読んでみようと思うのは人の世の常。
当時の倭人の中にもそう言う人達が居て、少数でしょうが漢字による読み書きは行われていたと思われます。
ここでも議論のる漢委奴国王印が、真物であれば一世紀の倭音を「奴」と言う字で記録した例となり、読み方も知れていたと思われます。
また、国内で倭音が記録された例として、最古級のものは稲荷山鉄剣や隅田八幡社鏡銘などが知られており、いずれも五世紀ころのものです。
五世紀の中国は南北朝期で、倭は南朝との通交を主としていたことから、この時期の漢字音も南朝の長江地域の発音であったと思われます。
万葉仮名は、基本的には、いわゆる呉音系の読み方をします。
呉音と言うのは、北方系言語の影響を受けた華北地方へ、随唐代になって留学した日本人が帰国後広めた、
いわゆる漢音が伝わる前の日本で使われていた音で、七世紀までに伝来した音の総称です。
つまり万葉仮名と言うのは一〜七世紀間の中国音(上古から中古音への時代)と八世紀の倭音を同じ漢字で表現したものです。
例えば「奴」、これを上古音では"nag"と発音し、後の中古音では"no"と発音したと言われています。
金印が一世紀として、この時代が上古音(ほぼ定説です)だとすると奴国は「な国」、
固有名詞なので、表記が定まれば、音の変化があっても文字資料としては慣用的に使われて行くものと思われます。
「日本」と言う国号も音はジッポン>ニッボン>ズーベンと変化しても表記は変わりません。
なので、三世紀の中国音で同時代の倭音を記録したと思われている「倭人伝」の中にも、古い時代の表記と新しい表記が混在しており、
奴国は一世紀以来、音ではずーっと「な国」、魏代の中国では中古音で「nokwoku」のように読まれ、
狗奴国はずーっと「この国」で、三世紀になって中国音で記録されたため「konokwoku]と表記にされたかもしれない。
同一文書内で同じ文字があてがわれていても倭音は違う、だから、500年も後の発音をもって類似を云々するのは、たいへんな作業となります。
- 20 :
- どっかで河童さんが出現してたね(遠慮してないで、こっち来ればいいのに)。
ちょっとネタを書き込みますが、
この前、富来隆「卑弥呼」をちら見してて、面白いことが書かれていた。
倭人伝の牛馬ですが
扶余伝(三国志)は「家欲得、輸牛馬乃與之」
高句麗伝(三国志)は「其馬皆小、便登山」
東沃沮伝(三国志)は「少牛馬、便持矛歩戰」
挹婁伝(三国志)は「有五穀、牛馬、麻布」
穢伝(三国志)は「祭虎以為神。 其邑落相侵犯、輒 ...」
韓伝(三国志)は「知乗牛馬、牛馬盡於送死」
州胡伝(三国志)は「好養牛及豬」
弁辰伝(三国志)は「乗駕牛馬」
倭人伝の「其地無牛馬虎豹 羊鵲」は上記、
ほかの国々と精密な比較にもとずいて、記載されてある らしい。
まあ、そうだろうねえ。
- 21 :
- これは縦目なのかな?まあ、よい〜ネタの続きを書き込むが・・・
よくドンコイのやつらがネタにしてる三角縁神獣鏡の事でも書き込みましょうかね。
倭人伝には「銅鏡百牧」と記述され、卑弥呼に贈られてるんですが、ほぼ、卑弥呼の鏡で間違いないんじゃなかろうか?
三角ではないんですが、人物が同じ方向の同向式神獣鏡が、三国(魏・呉・蜀)の魏の特徴で、
日本国内から出土した三角縁神獣鏡のうち、数個出土されてるはず。
で、画文帯神獣鏡を含む中に「師出洛陽」とか、「揚州会稽山で作られた」と記す銘文あり、
三角縁や画文帯が海を渡ってやってきた、すなわち舶載鏡で問題ないんではなかろうか?
このへん、反対する人はいるだろうがw まあ、ホボ間違いないんじゃない?
- 22 :
- 九州説スレみて〜〜
みんなして「河童」「河童」「河童」言っててウケルwwwwwwwww
馬鹿だなーっおめー等wwwwwww
- 23 :
- サガミ氏の佐賀ルート批判になってしまうが、
志賀島の「漢委奴国王印」出土だけで博多周辺が奴国と言ってるのではなく、
私は全体を通して言ってるんであってその辺を理解してほしい。
たとえば、箸墓というのは、全長150メートル以上ありますから、
日本列島を代表する王の中の「王」というのは承知だろう。
これは、日本最大の前方後円墳、仁徳天皇陵にも言える事でして、
クフのピラミッドにも引けを取らない規模であるからには、当然、本物の「王」墓ということがわかる。
そして、巨大な前方後円墳が出現する前の王の中の「王墓」を考えたらどこだろうか?
当時「鏡」が非常ぉ〜に高価なものでして人気もあった。
この鏡の出土数で多いのは、
日本no.1・・・平原遺跡で39面
no.2・・・椿井大塚山古墳の37面
no.3・・・佐味田宝塚古墳の36面
no.4・・・三雲南小路1号の35面
no.5・・・勝山と黒塚の34面
no.6・・・スグ岡本甕棺の32面 となってまして、
九州のみで言えば平原遺跡、三雲南小路1号、スグ岡本甕棺の3遺跡がずば抜けてる。
スグ岡本遺跡なんかは、古の「都」といわれてまして凄いはず。
で、伊都国、奴国というのは、伊都国=戸数千余(他の書では一万)、奴国=二万余でして、
比較的多い人口になってるはず。
上記のことからして、奴国とは、博多周辺だったと考えるのが妥当であり、
佐賀ルートがどうたらとか、間違いと思うんですが、如何だろうか。
- 24 :
- うーん、k−さんって結構詳しい人ですよね・・・
>あと狗奴国は熊襲(後の隼人族)のことと考えます。
>彼らは犬をトーテムとしていますから、「狗奴国」は卑弥呼の側からの敵対勢力に対する蔑称(犬野郎ということ)でしょう。
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on
狗←これはイヌですからねえ・・・・まあ、少し調べてみましょうかね。
誰か踏んで〜☆
- 25 :
- 3世紀初めの平場王墓 後漢鏡
纏向3類(前) ホケノ山 楽浪鏡 庄内3式期 239年垂仁末年
纏向3類(中) 廻間II初頭
纏向4類(後)箸中山・燈籠山、布留0の指標、261年景行末年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 274年~功渡海 纏向5類 (布留1)
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 後 )渋谷向山
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡、兵の引き上げ
- 26 :
- ホケノ山古墳(225〜250年) 楽浪鏡(同向式神獣鏡)、鉄器、穴あき壺(埴輪)
は、任那建国(210年)後であり、垂仁末をあらわす。
であるならば、
伊支馬=イクメ=垂仁 、都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守 となり
景行による九州遠征が”乱の収束”の為の戦いとなり、
255年頃
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
であり、274年~功渡海から舶載△鏡の時代に入る。
- 27 :
- 狗奴国は、女王国(倭奴國)の南にある。
景行の九州遠征。
戦争の遺物として鉄鏃がある。
大分方面の戦争は最初である。日向へ出ると、筑紫から西方へ展開。
最後に筑後から南へ侵攻する。
熊本から東へ向かい日向へ出て戦争の終了である。
- 28 :
- 卑弥呼の「鬼道」について書き込んどきましょうかね。
この鬼道っていうのは、シャーマン(巫女)の神託する事を言ってるんだろうが、
「鬼」の「道」と書いて、なんか恐ろしいですよねえ(笑)
たとえば、この「鬼道」ってなにも魏志倭人伝にだけにみられるのではなく、
史記の「封禅書」ってところにも「八通の鬼道を除す...」とかありますし、
三国志魏書「張魯伝」にも「張魯は鬼道によって人々に教え....」とかありますし、
また、後漢書「劉翊伝」にも「鬼道」の文字が見れる。
その中身ですが、
扶余伝(三国志)の「正月天を祭り....牛をし吉凶を占う」。
高句麗伝の「鬼神を祭る」。
あと〜、「穢伝」、「馬韓」、「弁辰」に載ってるような、祖先や動物の霊などには
神がかった力があり、それを祭ることによって得られる神託のようなものを指したのではなかろうか。
- 29 :
- 孤独やの〜
- 30 :
- >>19
>日本に漢字が入ってきたのが、いつのことか、これは定かではありません。
>ただし、中国王朝からの文書の形で、少なくとも漢代には伝わっていたもの思われます。
>文字がただの模様では無く、コトバを記録したものであることが解れば、それを読んでみようと思うのは人の世の常。
>当時の倭人の中にもそう言う人達が居て、少数でしょうが漢字による読み書きは行われていたと思われます。
移住民でしょうね。
秦の始皇帝時代の徐福伝説はもちろん、
倭人伝にも「皆黥面文身」や「タン耳・朱崖と同じ」、「皆徒跣」をみるかぎりでは、
どうも南方系民族の移住が多いのでは・・・といわれてるんです。
その時にあちら(大陸や半島)から持ってきたのではなかろうかと考えるんです。
>ここでも議論のる漢委奴国王印が、真物であれば一世紀の倭音を「奴」と言う字で記録した例となり、読み方も知れていたと思われます。
>また、国内で倭音が記録された例として、最古級のものは稲荷山鉄剣や隅田八幡社鏡銘などが知られており、いずれも五世紀ころのものです。
>五世紀の中国は南北朝期で、倭は南朝との通交を主としていたことから、この時期の漢字音も南朝の長江地域の発音であったと思われます。
そうですよね。
漢委奴国王印は一世紀のモノですから、其当時にはすでに少なくても首脳等は漢字を読めたという事になる。
南朝の長江地域の発音っていうのは興味深いですね。
>万葉仮名は、基本的には、いわゆる呉音系の読み方をします。
〜
>三世紀の中国音で同時代の倭音を記録したと思われている「倭人伝」の中にも、古い時代の表記と新しい表記が混在しており、
>奴国は一世紀以来、音ではずーっと「な国」、魏代の中国では中古音で「nokwoku」のように読まれ、
>狗奴国はずーっと「この国」で、三世紀になって中国音で記録されたため「konokwoku]と表記にされたかもしれない。
>同一文書内で同じ文字があてがわれていても倭音は違う、だから、500年も後の発音をもって類似を云々するのは、たいへんな作業となります。
はぁ〜詳しいですね。
ここはもう少し、調べてからコメントしますょ。
- 31 :
- 臣下 伊支馬≠垂仁天皇
臣下は天皇には絶対なれないのは、道鏡の如くだ。
臣下は、彼らを選んだ〜ww
オマエの論は「猿の惑星 ウソ西紀」 同然!ppp
- 32 :
- >>29
伊作かな?まあ、よい。
彼に一言、
つべこべ言ってないで、オメーさんの得意な「熊本説」を書き込んでみ。
て言いたい。
彼、畿内説の唐さんに論破されるのが怖くて逃げてるんだぜ〜wwww
だせー
- 33 :
- 大和に朝貢した国
- 34 :
- >>28
無理に難しく考える事なく、鬼道って、あやしい手段。だろ
- 35 :
- 伊作ょ かかって来ーい by 太国
私が、カッパさんの観てる前で、
伊作と議論してもいいが、太国が「俺にやらせろ!」って言ってるので(笑)
私は、温泉でも入って来ましょうかね(逃げ) 〜☆
- 36 :
- >臣下は天皇には絶対なれないのは、道鏡の如くだ。
妾の子崇神は天皇となった。
天皇位が絶対視されるのは、早くても倭王位を授与した、箸墓以後である。
その倭王位でさえ、~功渡海以後の内乱で乱れる。
允恭も内乱で死亡する。だから「倭の5王」と整合しない。
九州王朝は存在しない。
その証拠が前方後円墳の全国拡散である。
大和から派遣された屯倉臣の根源が239年と240年だ。
- 37 :
- 九州王朝は存在する。
年号の多出はオマエの否定から九州王朝の存在をガードする。
- 38 :
- http://www.mctv.ne.jp/~kawai/nikki2011_09/20110806.html
- 39 :
- 奉
天承運 制詔親魏倭王卑彌呼
帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所献男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到
汝所在踰遠乃遣使貢献 是汝之忠孝我甚哀汝
今以汝為親魏倭王假金印紫綬装封付帯方太守假授 汝其綏撫種人勉為孝順
汝来使難升米牛利渉遠道路勤労 今以難升米為率善中郎将牛利為率善校尉假銀印綬引見労賜遣還
今以絳地交龍錦五匹絳地□粟□十張絳五十匹紺青五十匹答汝所献貢
又特賜汝紺地句文錦三匹細班華五張白絹五十匹金八両五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛丹各五十斤
皆装封付難升米牛利 還到録受悉可以示汝国中人使知国家哀汝故鄭重賜汝好物也
布告天下 咸使聞知
景初二年十二月二十一日 御璽
- 40 :
- >>14金印のようにちいさなものは、懐に入れてでも簡単に持ち運びできるものなのです。
観光案内の記事はおおざっぱですから。
漢字の当時の読みについてですが、奴をナと発音するのは、戦後の邪馬台国論争のなかで、ハカタを奴国にしたいことから、
ナノツであることから、無理やりに当時は奴をナと発音(当時奴をなんと発音していたかの資料が中国にはない)と発音したとしたのです。
そうしたら、今度は辞書側が、偉い学者さんが奴はナと発音するといっているのだからそうなのだろうとして、辞書にナをいれるようになったのです。
なお、甲類乙類というのは日本の話であって中国の話ではありません。
- 41 :
- >>40
考古学ではどうなんです?
貴女の論説は机上で「ナ」とか「ヌ」とか言ってるダケでして・・・
上記した通り、奴国とされる福岡県春日市岡本の「須玖岡本遺跡」ですが、
ここからは、当時貴重な舶載鏡32面が出土されてる。
これは、全国第六位の数でして、倭人伝に記述される奴國は「二萬余戸」でして
須玖岡本遺跡を無視してどうするんですかって〜この須玖岡本に関しての反論をお願いします。
- 42 :
- 長々と返答をかいたのですが、タッチミスできえてしまいました。
いやになってきたのできょうはおわりにいたします。
- 43 :
- >年号の多出はオマエの否定から九州王朝の存在をガードする。
九州王朝を叫んでも、王都が存在しない。
北部九州は、庄内4式期には、大和の管理下であり、
布留1式期には、~功渡海がある。
だからどこそこの山間の地でひっそり王朝を維持していたと主張したいらしいが
前方後円墳の無い土地は、辺鄙な地方しか無い。
そんな片田舎でどう王朝を維持できるのか?
- 44 :
- 私の漢字の発音の解釈については、漢音を基本にしていますが、いろんな地名等を
くらべてみて、それに合わない場合がある場合は、ほかの事象とつきあわせて、倭
人が当時どのように発音したのを中国人がどのように聞いて漢字をあてはめたのか
と類推していきます。
ですから、学問上の発音と異なる音を決めることがあります。わたしは実証主義な
のです。
例えば、不の字は中国ではフと発音していたようですが、倭人は後にオと発音する
ことになる音であったとみるわけです。これは、小城が不彌国であり、岡田が不呼国であることから、当時
の倭人のある音をフであらわし、現在日本ではこれらの地名はオで表されているとみるわけ
です。
例えば、拘奴国というのがありますよね。これは通常クナ国と発音しているが、ど
うやら拘はクではなくコウだったようなのです。
その理由の一つは、日本では熟語などでは、コウと発音するものが多いということ。
つぎに、倭人伝、後漢書からみると、拘奴国は狗奴国と同じではないとみたほうが
よいことです。
従来は、拘奴国は狗奴国の書き間違いとみられているのであるが、女王国の東、と
みるならば、また、東に海があるとみるならば、同一国ではないとみたほうが合理的であるとみます。よっ
て、拘奴国は山口県にあった国であるとみます。
拘奴国はクト国(クナ国)ではなくコウ奴国なのです。(奴はトと発音するのが正しい)コウとよんでいた
国に、日本人は後に孔という字をあてて、孔奴国とし、さらに後には、孔の字義を取り、アナトとして穴門
という字でかきあらわすようになったのです。
私はかように考えます。
- 45 :
- >39
布告天下 咸使聞知
景初二年十二月二十一日 御璽
て……
何と言う書ですか?
- 46 :
- 奴国は伊都国の東南百里とあります。私は、伊都国は多久市中小路集落庄とみていますから、そこから東南に鈴山峠を越えて、
6.7kmの肥前山口の土元集落とみています。
六角川の河口付近にあり、そこから西に六角川流域に領土を広げていった結果、2万戸となったとみます。
スク岡本地区は伊邪国とみます。ボウコクなので戸数は分かりませんが、かなりの大国であったことは遺跡や遺物から想像できますが、
奴国であると指定するような遺物はでてないと記憶しておりますが。
- 47 :
- >サガミハラさん
旁国が同じ伊都国と同じような北九州にあるわけないでしょw
だったら遠絶なので戸数や里数の記載ができないと書くわけないし。
日本全域に視野を広げてみるべきだと思いますがね。
- 48 :
- 而公孫淵仍父祖三世有遼東,天子為其絕域,委以海外之事,遂隔斷東夷,不得通於諸夏。
景初中,大興師旅,誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,而後海表謐然,東夷屈服。
「委以海外之事」とは、後漢の勢力範囲以遠を指す。
この「海表」とは、境界をあらわす。
正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯俊等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王。並繼詔賜金、帛、
錦罽、刀、鏡、采物,倭王因使上表答謝恩詔。
正始元年,太守弓遵は、建中校尉梯俊等を遣り、詔書と印綬を奉げて倭國を詣で、
仮の倭王に拝する。…因みに倭王は使いをつかわし、上表文にて(倭王に)詔てくれた
ことに感謝し、答(倭王位受諾)える。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。
これ以後に、女王・女王国が登場する以上、女王=倭王とはならない。
- 49 :
- 北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
景初2年に魏魏使は、伊都国か奴国までしか来ていない。ここで倭国団結と朝貢を促す。
女王卑弥呼を倭国代表とし、邪馬臺國までの使節団を結成して景初3年の朝貢。
そして、3年この朝貢団と共に邪馬臺國を訪れ、倭王位を授ける。
- 50 :
- 「歴年無主」とはなんぞや。
歴年無主とは、歴年つまり暦でいうところの1章=19年7潤、この積み重ねが
暦であるから、歴年とは20年程度の長さ以上である。
「歴年無主」が畿内には存在しない、そして
前原王墓は3世紀前半で終了する。←歴年無主とできる。
そして”王”を名乗れるのは、魏(後漢から禅譲)が認めて王位を授与していなければ
魏は認めない。
女王卑弥呼は、朝貢団派遣時で女王である、であるならば、王位は何時認められたか?
女王卑弥呼が倭奴國王位の継承者である場合のみ可能である。
この時、邪馬臺國は、官伊支馬=イクメ=垂仁 でしかない。
- 51 :
- 官 伊支馬≠垂仁 でしかない。
官は天皇には絶対なれない。それは道鏡の事件からも明白である。
初代神武から今上まで臣下が即位した事実はない。それにオマエのは
途端に死亡したことになるわけで、どうやら怪しいインチキだという
ことが見え見えだ。ww おまけに弥馬獲支はミマキとして崇神に
あてがわず〜 ? で誤魔化すところを考えると、どうやら眉唾だという
ことが露呈している。ww
妾が産んでも、現今では不利になる身の上だが、当時はこんなことは
当たり前だ。ボスのオス猿は多数のメス猿がいるわけだが、どのメス猿
と小猿が出来ても、人間は生まれてこない。
つまり臣下(猿相当)は人間(天皇相当)にはなれない。当時の妾は
別に妥当ななりふりだったということだ。現在でもイスラムでは4人もの
女が持てるわけで、現在の日本では重婚は出来ないが、昔ならこんなこと
は当たり前のことであ〜る。それは真剣保持というのは現今では持って歩け
ないが(銃刀法違反)、当時は帯刀が出来たということの如くにだ。
- 52 :
- >九州王朝を叫んでも、王都が存在しない。
へっへっへっへ・・・
年号には「倭京」があり、九州王朝の王都があったことは明快にわかる。
つまり九州王朝の王都がないという論はデタラメなのである。
- 53 :
- >官は天皇には絶対なれない。
冠位十二階や十七条憲法の無い時代である。
”官”も”王”も魏の制度と言い分である。
>それは道鏡の事件からも明白である。
後世の出来事を古代にあてはめられるのであれば、
王都を築くには九州は偏りすぎている。
>九州王朝の王都がないという論はデタラメなのである。
九州王朝の王都が何処にあったかの主張がない。主張がなければ
妄想でしかない。
- 54 :
- 九州王朝は九州だよ。簡単だな。ww
秀魔電を書いた奴の住居が何処にあったかの主張がない、主張がなければ
妄想でしかない。
- 55 :
- 倭国のセモコ・ヘモコのヘモコは日矛ヒボコのことだろうな。
セモコは分からん。
- 56 :
- 九州は、景行により大和に従属する国となる。
大倭(大和)は伊都国に一大率を置き(九州)諸国を検察する。
だから九州も前方後円墳の勢力範囲となる。
磐井も畿内から派遣された人物でしかない。
だから、九州王朝を主張しても王都は存在しない。
- 57 :
- ほう、彼なかなか詳しいね(もう返レスがきてる)。
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on
まあ、有る程度の人じゃないヤリ甲斐が無いですし、
逆に知らない人だと、議論するこっちが恥ずかしくなるし、丁度良いのはいいんですが。
- 58 :
- >>46 サガミ
だから、貴方のは机上での妄想というか。
春日井市の古墳(弥生時代の都)という現実問題を無視し、
自分の都合のいい解釈で邪馬台国を探すからそうなる。
まあ、大学生もこのスレを観戦してる事だし、私が「議論のお手本」ていうのを見せてやるので
サガミさんも一緒にここでも観戦してなさい(笑)
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on
- 59 :
- >年号には「倭京」があり、九州王朝の王都があったことは明快にわかる。
「倭京」とは大和のことだろ?だから九州に王都が存在しない。
- 60 :
- >「倭京」とは大和のことだろ?だから九州に王都が存在しない。
倭京などという年号は畿内に存在しない。
従ってお前の主張したい畿内の年号にはならない。つまり九州王朝あ年号
であ〜る。日本統一は記紀成立のころであり、そんじょそこいらの恣意的
勝手な記載をした奴の朝廷の嫌われものたる秀魔電の成立のときでは
な〜い。景行は崇神のお助け役年代であり、秀魔電では末代の天皇で
あ〜る。なお五重在位は精神病院ご到着。ww
- 61 :
- >>60 訂正
× 九州王朝あ年号
○ 九州王朝年号
>九州は、景行により大和に一部従属する国となる
- 62 :
- >倭京などという年号は畿内に存在しない。
当たり前だろ、大和が倭京であるのは箸墓からである。
だから年号を使う頃には、大和が倭京であることは空気みたいなものだ
あるのがあたり前だから口にしない。
>日本統一は記紀成立のころであり、
こんな考えだから、前方後円墳の全国拡散も説明できない。
大仙陵この巨大古墳はどのようにつくられた?
もちろん九州からは、ピンク石が納められている。
- 63 :
- 「倭」と書いてヤマトと読む。何処から来たか?それは、
陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
邪馬臺國(大和)の王が倭王位を授与したからである。
だから、九州で“倭王”を主張したければ、時代を「後漢」とすべきである。
- 64 :
- なにを寝言をぬかす。
漢委奴国王には 委 とある。これは九州だね。すれば 委 の京が九州に
あったというのが当然の当たり前となる。
>大仙陵この巨大古墳はどのようにつくられた?
建築学の板にでも行け。
- 65 :
- > 委 とある。これは九州だね。
だから後漢時代なんだ。
~功渡海は、晋による冊封体制への参加である。
渡海ルートは大和が押さえる。
壱与もその子孫も登場しない、つまり、九州倭奴國は大和に吸収された。
まあ壱与(五百野姫)自身が大和から派遣されているから、問題にならない。
- 66 :
- 陸行一月,至邪馬壹國,即倭王所都。 ←これでいいのう。ww
- 67 :
- よし、書き込んできた!疲れたので寝る〜☆
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on
- 68 :
- >つまり、九州倭奴國は大和に吸収された。
九州されようと、「倭京」とともにある「継体」の年号は畿内の継体天皇
の時代のころの九州の年号だと如実に分かる。
つまり景行の代に九州統一は出来ない。また秀魔電成立の時代に日本統一
が成ってないことを意味している。日本統一は記紀成立のころであ〜る。
つまりオマエの主張は秀魔電を記紀以上にデッチ上げたいオマエという
朝敵の工作したイカサマなのである。そうはさせない。
- 69 :
- 後漢時代に倭王を主張してもだ、
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
この様に”歴年無主”で説明される程度の王朝だ、
だから、楽浪鏡が納められた王墓が存在しない。
後漢末,公孫度自號平州牧。及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。
東夷九種皆服事焉。楽浪鏡が存在しないということは、公孫度に服すほどの勢力ではない。
- 70 :
- サガミさんの>>44と>>46については、後日レスします。
今日は疲れた〜zzzz
- 71 :
- >景行の代に九州統一は出来ない。
そりゃそうだ、大和朝廷をまっとうな暦も使えない集団と主張する限りその通りであるが、
太陰暦を使用していたと主張するこちらから見れば、
>「継体」の年号は畿内の継体天皇の時代のころの九州の年号
「継体」の称号は後付けである。であるならば、「継体」を九州年号から頂戴したという文献を出してみなさいよ。
「継体」の称号は「途絶えた天皇を継ぐ」から来ているか正当性を検討しようではないか。
出してくれ。
- 72 :
- こんなん考古学の専門職で仕事してるような人以外はナンセンスな作業でしょ。
素人が倭人伝を一字一句吟味して、独自に解釈してなんになるんです?
巻向の発掘さえ進めば邪馬台国問題など終わりますから。だって畿内が邪馬台国だしw
学生の僕でもわかることなのに、年配の方々がなぜこんなこともわからないのか
理解に苦しみます。
- 73 :
- >太陰暦を使用していたと主張するこちらから見れば、
↓ 太陽暦の文献だ
神皇紀
人皇第一代 神武天皇元年
太陰暦を【太陽暦】に改め、
30日を一月とし、十月を1年と定め給う。
太陰暦という文献を出してみなさいよ。
- 74 :
- 「継体」の称号は後付けであるという文献を出してみなさいよ。
- 75 :
- 景行の代に九州統一は出来ない。また秀魔電成立の時代に日本統一
が成ってないこととなる。日本統一は記紀成立のころであ〜る。
つまりオマエの主張は秀魔電を記紀以上にデッチ上げたいオマエという
朝敵の工作した松本某の上にアグラをかく超態度のデカい自己と秀魔電の
カリスマ化を企んだイカサマなのである。そうは問屋が卸さぬ。
- 76 :
- 以下のように訂正
オマエという朝敵の〜工作した(松本某の上にアグラをかく)超態度のデカい
自己と秀魔電の カリスマ化を企んだイカサマなのである。そうは問屋が卸さぬ。
- 77 :
- >>36
>九州王朝は存在しない←大ウソ ↓のとおり。
九州年号
継体 善化 正和 発倒 僧聴 同要 貴楽 結清 兄弟 蔵和 師安 和僧
金光 賢接 鏡當 勝照 端政 従貴 煩転 光元 定居 倭京 仁王 聖徳
僧要 命長 常色 白雉 白鳳 朱雀 朱鳥 大和 大長
- 78 :
- >だって畿内が邪馬台国だし
記紀には卑弥呼も壹與の記事も彼女らの即位記事も(倭人伝の借り物たる
神行39年等の記事を除いて)それらの相当年代には存在しない。
ヤマトとは畿内のことと日本全体のことと九州のことを指す場合があり、
必ずしも畿内だけとは言えない。
つまり畿内に卑弥呼の国は存在しなと観るのが相当である。
- 79 :
- 訂正
× 存在しなと観るのが相当
↓
〇 存在しないと観るのが相当
- 80 :
- >>73
>神皇紀 人皇第一代 神武天皇元年 太陰暦を【太陽暦】に改め、
30日を一月とし、十月を1年と定め給う。太陰暦という文献を出してみなさいよ。
崇神天皇元年(甲申前九七)正月甲午。《十三》◆元年春正月壬午朔甲午皇太子即天皇位。
崇神天皇元年(甲申前九七)二月辛亥《十六》◆二月辛亥朔丙寅。
上記の如く、崇神元年1月は、29日である。
そして、“朔”を一日として、月・年を数えるのが太陰暦である。
「太陰暦を【太陽暦】に改め」であれば、“朔”を1日として数えることは無い。
だから「30日を一月とし」は誤りである。
>>74 「継体」と名付けたのは誰ですか?
>>75 考古学は箸中山古墳を最初の大王という。箸中山古墳に誰が葬られていると思う?
>>77 九州年号 継体。 だから「継体」という年号を使用した文献を出せば?
文献が無ければ、「継体」という年号を確認できないだろ。
>>78 それらの相当年代には存在しない。 この相当年代とは、太国倍年の事だろ?
だから太国倍年は存在しない証拠である。
- 81 :
- >「継体」と名付けたのは誰ですか?
簡単だよ。人間だ。それとも猿の惑星か〜〜?ww
その古墳をそのように考古の誰が言ったのですか?
二中歴でも読むんだね。秀魔電より確かだからねえ。
九州王朝がないとどの古文献の誰が言ってますか? そしてどの証拠に
より無いとしてますか?
>それらの相当年代には存在しない。
この相当年代否定とは、宿主空年の事だろ?
だから宿主空年は存在しない証拠である
- 82 :
- >崇神天皇元年(甲申前九七)正月甲午。《十三》◆元年春正月壬午朔甲午皇太子即天皇位。
>崇神天皇元年(甲申前九七)二月辛亥《十六》◆二月辛亥朔丙寅。
これには太陰暦とも何の文献かも説明してないでしょう。それとも題名無し
の文献ですか?ww
- 83 :
- 九州年号
継体 善化 正和 発倒 僧聴 同要 貴楽 結清 兄弟 蔵和 師安 和僧
金光 賢接 鏡當 勝照 端政 従貴 煩転 光元 定居 倭京 仁王 聖徳
僧要 命長 常色 白雉 白鳳 朱雀 朱鳥 大和 大長
当時の日本が、畿内と九州の2極支配だったということを意味している。
これは大陸の鼎の3極 魏呉蜀 支配の如くであり、日本は当時1極の
畿内政権だけではなく、九州に文武の代ころまで九州王朝があったという
文証である。勿論 倭京 の年号から都があったことは確かである。
また半島でさえ高句麗、百済等分極してたわけであり、日本が1極支配
だったという論が盲象であることが分かる。
このことから日本統一は記紀成立のころとなり、秀魔電成立のときでは
ない。つまり宿主の主張は秀魔電を記紀以上にでっち上げしようとする
朝敵宿主のインチキたる陰謀なのである。
- 84 :
- 邪馬台国の卑弥呼が日本書記などに書かれていないのは
シャーマン国家みたいな書き方で遅れている国として書かれていたから
そりゃ国書にそんなん書けんでしょ
- 85 :
- >九州王朝がないとどの古文献の誰が言ってますか? そしてどの証拠に
より無いとしてますか?
九州王朝があったという古文献の九州王朝は、卑弥呼、男王、までである。
そして、この時、倭人伝に
大倭は伊都国に一大率を置く。
以後、九州に王朝のあった古文献は無い。
>>83 の年号を使用した古文献が有りますか?
なければ、そのような年号も存在しない。
>>84
>シャーマン国家みたいな書き方で遅れている国 この様な国家に”王位”を授けるか?
半島の初国王は、邑長・邑君の叙勲を受けた。
新羅は韓に属す=王位授与は無く、邑長・邑君の叙勲を受け韓(王)に属す。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
280年 太康元年 6月 東夷十國歸化。7月 東夷二十國朝獻。
この時代、東夷は9国として冊封体制に組み込まれる。
王位を授与している邪馬臺國(大和)は、274年~功渡海、で冊封体制に組み込まれる。
274年=布留1式期=九州北部に半島の土器と共存。
323年 ~功49年 半島占拠、領土分与。←半島占拠に大きな戦は存在しない。
なぜならば、大和は、伊都国に置いた一大率の行為を半島で行う(警察行為を行う倭軍)
晋滅亡により、政治的空白地帯となる半島。
そこを、占拠する倭軍。一大率行為を行っていたから、大きな混乱もなく占拠できた。
326年 ~功52年=七支刀。
書記の主張に齟齬は無い。正しい主張をしている。それを、間違いのある百済本紀に合わせるから
歴史が見えない。
- 86 :
- 神武元年が41年 の年号を使用した古文献が有りますか?
なければ、そのような年号も存在しない。
- 87 :
- >書記の主張に齟齬は無い。正しい主張をしている
ははぁ、そうですか〜。
ならば書紀の何処に五重在位の主張があるのかね?
そのような在位も存在しない。今一度言う。
五重の在位を記載した古文献が有りますか?
なければ、そのような在位も存在しない。
- 88 :
- http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
- 89 :
- 九州年号は厳然と存在する。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin11/knengou.html
なお景行の代、日本統一は出来ない。日本統一は記紀成立の代のころ
である。なお秀魔電はそんじょそこいらのたのオッサンが恣意的妄想を
入れこんで書いたトンデモが充分存在、含有する危険思想の書である。
- 90 :
- >>89
あれは九州年号でなく、古田年号というものだろ?
- 91 :
- あれは日本統一でなく、宿主統一というものだろ?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC#.E4.B9.9D.E5.B7.9E.E5.B9.B4.E5.8F.B7.E8.A1.A8
- 92 :
- そのような年号も存在する。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou59/koga59.html
- 93 :
- 「高良、九州ノコソウヒウタルカ、天平勝宝元年己丑ノ年、宇佐八幡ノ御社造立アリテヨリ、
この言葉使いは、江戸時代あたりだろう。
善紀元年壬寅(五二二)、大唐より八幡大菩薩〔大帯姫也〕日本に還り給いて、廻りを見給うに、
この言葉使いは、平安時代以後だろう。(古文を読んでいれば、江戸時代でも可能な文言)
年号が使われたころの、文献を出してくれ。
- 94 :
- >この言葉使いは、江戸時代あたりだろう。
オマエの秀真電もそういうところがあるだろう。ww
- 95 :
- 41年が即位されたころの、文献を出してくれ。
- 96 :
- ついでにこれもだ。
http://chinachips.fc2web.com/repo5/051204.html
- 97 :
- http://www.mctv.ne.jp/~kawai/nikki2011_09/20110806.html
- 98 :
- >>97
「九州年号」対比一覧表(古田武彦著『法隆寺の中の九州王朝』より)
古田年号のもととなる文献は?
- 99 :
- 九州年号について
元号は、天皇や皇帝のもとにつくられるものである。よって誰かさんも九州王朝の王ないし天皇がいたなどといっているようである。
ところがわたしがみた九州年号には大和の天皇名がかかれておった。
つまりこれは九州年号をつくったひとたちは、大和の天皇のもとにおける年号であることを認めていたようなものである。
結局これらの年号は数寄者が遊びでつくったものなのである。
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