2011年11月1期39: 【五大藩】加賀藩・薩摩藩・仙台藩・紀州藩・長州藩 (58) TOP カテ一覧 スレ一覧

【五大藩】加賀藩・薩摩藩・仙台藩・紀州藩・長州藩


1 :11/05/21 〜 最終レス :11/11/08
江戸時代の大藩といえば、ベスト3が加賀・前田家の102・3万石、薩摩・島津家の77.1万石、仙台・伊達家の62.5万石の外様3藩。
続く4位が御三家の尾張徳川家62万石で紀州藩は5位である。
以下、熊本・細川家54万石、福岡・黒田家52.3万石、広島・浅野家42.6万石、長州・毛利家36.9万石、佐賀・鍋島家35.7万石。
以下御三家の水戸徳川家35万石、鳥取・池田家32.5万石、津・藤堂家32.4万石、福井・松平家32万石、岡山・池田家31.5万石までが30万石以上の大名
http://www.ken-ohashi.jp/contents/2b/dagakki3/05series/55mangoku.html

2 :
幕末動乱が吹き荒れる中にあって、仙台藩は薩摩藩・長州藩・土佐藩・加賀藩とともに五大藩として挙げ
られ、大いにその活躍を期待されていた。
特に仙台藩では、当時の諸藩で一番多くの家臣数を誇っていたため、一度活動すれば、大いに時勢が
動くと知識人は見ていた。
 ”奥州の眠れる獅子”と呼ばれた仙台藩は、公武合体を成すに当たって、重用な筆頭となるべき藩だったのである。
http://jpco.sakura.ne.jp/shishitati1/kakuhan-page1/13.htm

3 :
加賀藩ってマジで幕末になんにもやってないな。
福井藩の方がよっぽど立派

4 :
>>3
天狗党の乱の鎮圧に当たったんじゃなかったか?

5 :
>>3
鳥羽伏見の際に幕府方として出兵しようとしたけど負けたと聞いて
新政府に帰順している。

6 :
しかし宇和島藩は小藩ながらよくあそこまで幕末に存在感を示せたね。
伊達宗城公様様ですな。

7 :
>>6
宇和島藩=現高ギリギリ5万石超えだったので、叙爵内規に則り伯爵に叙爵。
後、伊達宗城の維新勲功により陞爵、侯爵。
仙台藩=戊辰戦争の懲罰削封が原因で現高6万7千石強、叙爵内規に則り伯爵に叙爵。
→本流・庶流逆転→仙台藩家涙目→「家伯」と書いて「かはく」と読ませる珍造語が生まれるw
コラ!Y宗!!地震で倒れた墓石建て直すとか言ってる場合か!!
相馬救援隊を見習わんか!!

8 :
>5
篭城していたら紀州共々、大阪城攻めに参加したかな?

9 :
妙円寺詣りが、なぜ旧暦9月14日なのか…
http://s1.shard.jp/rabbit1/0204/45/299_1.html
9月14日は、なんと春日局の命日であった。

10 :
津藩も石高は一丁前だが幕末の政界で威力を発揮できなかったね
一応藤堂家は伯爵だけど

11 :
>>10
国持大名&あの表高で、現高15万石超えないなんて恥ずかしい(><)

12 :
>>8
参加しても役に立ったかどうかは……
北越戦線での扱い的にw
真偽を確かめたことはないが、鳥羽伏見敗戦後は大割拠目指したって話も

13 :
>12
篭城していたら徳川に、味方するでしょうね。

14 :
俺の待望のスレが来たか・・・
幕末の仙台は幕府に数回貨幣鋳造申し出てるほど、経済破綻している。
それにくわえ、蝦夷地警備ときたら京都藩邸は抜け殻状態。
薩摩密貿易や偽金。長州は撫育方。土佐は藩政改革。
仙台は林子平の策、してれば・・・結局藩内の統治制度に問題が。

15 :
>>13
正直それは単なる希望的観測だなぁ。
加賀藩の軍がどの時点の報告を聞いて撤退を決断したのかが分かれば、
その辺の判断材料になると思うが。
鳥羽伏見の報だけを聞いて撤退なら、まず日和見だろうw
大坂城退去まで聞いて撤退を決断したなら、そうならなかった場合は
そのまま進軍してた可能性もある。
加賀と仙台が近代化してたら、情勢も大きく変わったんだろうなぁ。
藩政改革の動きとか無かったのか?

16 :
薩長に味方するでしょう。
仙台は額兵隊がありましたよ

17 :
安泰大藩ならではのフットワークの悪さが仇為したパターンが多いな。

18 :
間に合わなかったんだっけ、それとも出し惜しみしたんだっけ、額兵隊

19 :
藤堂藩

20 :
>18
どっちもでしょ。

21 :
額兵隊の1部は脱退して函館で土方の一緒に奮戦してるんだけどねw
まさか新政府が諸藩の外国負債負うの知ってたら、買い漁ればよかったのに
金沢は京都に近いのに、2回は主役になれたでしょ。秀吉死後と幕末。

22 :
淀藩の最後裏切り

23 :
>>2
「アジアの眠れる獅子」清国同様、奥州の眠れる獅子も実は死にかけた豚だったのである。

24 :
でもなんかヤル気は満々

25 :
加賀藩の天狗党残党大虐

26 :
奥州の眠れる獅子は立地上、シナや西洋諸国と幕末に貿易できなかったのが最大の敗因。
薩摩や佐賀はもの凄い西洋技術を身につけていた。

27 :
やろうと思えばいくらでも出来ただろ
自分達が住んでる土地を奥地と思い込んでいた人間が多かっただけだ

28 :
庄内藩や長岡藩とかも、同じ様な立地なのに頑張ってたしね。

29 :
庄内は裏切り者の菅を、処刑するべきだった

30 :
金沢と仙台は賊軍だったから県名になれなかったな

31 :
>>30
それ、完全に宮武外骨の俗説

32 :
薩摩は藩を挙げて奄美黒糖の大収奪やった金で、幕末活動できたようなもの。
金が無ければ、元来閉鎖的なお国柄ゆえ、加賀や仙台以上に引きこもってたと思われる。

33 :
もしもの時の為の蓄えを庭づくりに使った加賀、そもそも蓄えてない仙台

34 :
会津と長州「友情」の歌響く 2高校が共同制作し合唱
http://www.asahi.com/national/update/0805/TKY201108050423.html
第35回全国高校総合文化祭福島大会(ふくしま総文、文化庁など主催、朝日新聞社など特別後援)は3日目の5日、
福島市で合唱部門があり、福島県の会津高と山口県の萩高が、共同制作した曲「友情 時を越えて今」を歌った。
 会津高のバスが渋滞に巻き込まれて到着が遅れ、合同リハーサルを一度もできないまま本番に。それでも、息の合ったハーモニーで大きな拍手を浴びた。
 会津と長州が戦った戊辰戦争以来、両地域の一部には今もわだかまりが残る。「友情」は、そんな歴史を乗り越えようと、
5年前に山口県であった国民文化祭の一環で制作され、会津高が作詞、萩高が作曲。以来、定期演奏会のDVDを交換したり、手紙のやりとりをしたりして、交流を続けてきたという。
 歌は「明日を信じ/優しい未来に向かって/飛び立とう さあ」という歌詞で終わる。会津高の金成昌吾部長(18)は
「過去の歴史はあるけれど、僕たちが新しい歴史を築いていこう、という思いで歌った」。萩高の杉山太紀部長(18)は「震災で大会開催も危ぶまれたが、一緒に歌えて本当に良かった」と話した。
 秋篠宮ご夫妻と次女の佳子さまは午後に来場し、4団体の演奏を鑑賞した。(神庭亮介)
http://www.asahi.com/national/update/0805/TKY201108050423.html

35 :
加賀藩の職制
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/rekishi07.htm
 加賀藩の最高の家格は「年寄」です。
 加賀八家(はっか)とよばれ、藩の最高決定機関として合議制で藩政を運営しました。
 本多家(5万石)
 長家(3万3千石)
 横山家(3万石)
 前田土佐守家(直之系 1万1千石)
 前田対馬守家(長種系 1万8千5百石)
 奥村家(嫡流 1万7千石)
 奥村家(支流 1万2千石)
 村井家(1万6千5百石)
 の八家で、いずれも万石以上の知行をもっています。

36 :

薩摩藩島津氏の歴史は、隠れた民族浄化
http://2nd.geocities.jp/jmpx759/0203/39/266_1.html
日本の天皇一族の陰謀は、本当に巧妙だ。
鹿児島に島津氏を民族浄化特命担当として送り込んだことは間違いあるまい。
これこそ、日本が得意とする「ほめし」だった。
薩摩の歴史の全てが筋道が通る。
今日も、何も変わらない。
例えば、鹿児島市長森博幸の誕生日は、10月30日だが、
http://2nd.geocities.jp/jmpx759/C/10/30.html
この日は、日本の民族浄化の金字塔の日だ。
(仮説を含む)

37 :
>>33
幕府に重箱の隅を楊枝でほじくるようにようにして粗探しされるより、
金を使ってるところを見せて
「加賀の連中は工芸だとか芸能だとかと遊びほうけておる」
と思われようとした前田は賢いだろ。
まあその狸の振りも何代も続くことによって本当の狸になっちまったんだから、末路はどうしようもないが。

38 :
幕末期の加賀藩の存在感のなさは異常。大藩なのに。

39 :
“薩長”商議所が友好盟約 観光で連携強化へ
http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2011/1105/4p.html

40 :
>>32
御用盗は犯罪ですし取り締まるのは、当たり前です(怒)。

41 :
尾張藩は違うの?

42 :
加賀藩って天明天保飢饉の影響で財政難とかあったの?
北前船の航路でもあるし、海軍に至っては幕府、薩摩、佐賀あたりに次ぐものがあったんでは
仙台藩は破産状態だから仕方ないとして、何であんな消極的なのか

43 :
フローが大きくてもストックは意識しないと貯まらないもんでしょ

44 :
>>42
梅鉢艦隊ですか

45 :
加賀藩士が、存在感をはじめて示したのは、明治11年の大久保暗だよ。
幕末の加賀藩は、徳川慶喜と良好な関係であったので、積極的にはうごかなかった。

46 :
前田 斉泰(まえだ なりやす、1811年8月28日(文化8年7月10日) - 1884年(明治17年)1月16日)は、加賀藩の第12代藩主
最初は保守的な改革であったが、やがてペリー来航などで開国論などが囁かれ始めると、いわゆる革新派を登用して洋式軍制の導入に取り組むなど、藩政改革を革新的に行なった。
しかし、元治元年(1864年)の禁門の変では嫡男の前田慶寧に兵を預けて御所を守らせていたが、これが無様にも敗れて退京してきたため、怒った斉泰は慶寧を謹慎させ、
家老の松平康正(大弐)と藩士の大野木仲三郎に切腹を命じている。
そして、これを契機として慶寧と親密な関係にあった尊皇攘夷派の武士たちを、城代家老の本多正均(本多正信の子孫)と協力して徹底的に弾圧した。
本多正均は、明治2年に暗されている

47 :
本多政均が明治2年にされた後に、その本多の家臣が、明治4年に敵討ちをしている。
明治忠臣蔵」十二義士の墓とは?
「日本が近代社会への第一歩を踏み出した明治2年、加賀藩の筆頭家老・本多政均(まさちか)が藩内の対立勢力に暗された。
政均の家臣は主君への忠義を全うするため、赤穂浪士如く立ち上がり敵討ちを決行し、後に12人が切腹した。
ほどなくして時の政府が「敵討禁止令」を交付。政均の家臣らの敵討ちが日本で最後の大規模な物となった。
非合法なものとしては、しばらくあとに、秋月藩士の息子が行ったものがある。
http://www.ken6net.com/page/page3/stop/true#top
享年32歳の若さでこの世を去ることになる。この仇討顛末は明治4年に決行されたもので、比較的時代が新しく、詳細に記録が残っている。

48 :
薩摩の感想は、「石川県人に何ができるか?」だった。
明治11年(1878)5月14日
『紀尾井坂の変』大久保利通暗事件。この事件は旧加賀藩士族の島田一良、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名で犯行に及んだ。
尚、主犯格の島田は本多政均暗事件の仇討を実行した十二義士に対して取調べを行った人物の一人である。また、脇田巧一は事件実行するにあたり罪が家に及ぶのを恐れて士族を辞めて平民になっているが、
この事件を境に金沢の実家は土地家屋を売却している。玉泉園庭園がそうである。
ちなみに、大久保利通暗計画は、警視庁に事前に計画が漏れていた。
当時の警視庁大警視である川路利良の耳に情報が入った時に、その情報に対して一喝したという。「石川県人に何ができるか?」と最初から相手にしなかった。
それは危機管理に対しまた職務に対し全くの怠慢と見るべきか?それとも明治新政府に西郷隆盛を入れたいと思って動いていた大久保に対して大隈や伊藤博文と対立していたのか?
今となっては何も立証はできない。

49 :
■旧加賀藩士族が掲げた、大久保暗理由(斬奸状)
 「薩長藩閥の専制独裁」
 「法令の乱用による政府官吏の私利私欲」
 「国費の乱費と憂国の士の排斥」
 すなわち、大久保らの専制政治は民権を抑圧して国費を浪費し、政府官吏の私利私欲。さらに外交の失敗により国権の失墜を招いたというものです。
■平成の石川県で、こういう運動があったみたいだな。
 島田一良ら六烈士慰霊祭
http://www.houyusha.jp/menu309.htm
http://w2223.nsk.ne.jp/~toramoto/tash1.htm
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/data/zatugaku06.htm
大久保利通は明治近代国家建設の為、ある一面に於ゐては貢献したかもしれなゐが、その手法につゐては国の行末を大ゐに誤り、
大久保が推進する西洋覇道主義は決して日本に相容れるものではなかった。島田一良ら六烈士は西郷党の残党とはいへどもその節を守り、
あくまでも東洋王道の道を歩まむとしたところに第二維新先がけの片鱗をみるのである。
その精神は伏流水のごとく平成の時代にまで脈々とながれ、僕たちの運動に継承されてゐる。

50 :
島田一良の可哀想なところは、日本の歴史本の多くや、大河ドラマでは、
大久保暗後に逃走して警察に逮捕されたように描かれていることだな。
真実は、
首謀者6人
 島田一良(しまだ・いちろう) 長連豪(ちょう・つらひで) 杉本乙菊
 脇田巧一 杉村文一(以上石川県士族) 浅井寿篤(島根県士族)
 彼らは「暗は卑怯だから」と思い、大久保を襲撃後すぐに凶器を投げ捨て、まっすぐに宮内省に駆けむかいました。
門前に立ち、大声で自分たちが大久保害の下手人であることを名乗った。

51 :
>>49-50
アフォ杉p
大久保利通一人相手に、多勢に無勢のテロってだけで、
新選組同様、武士では全然なくて、クズの集まりなんだよp

52 :
>>51頭大丈夫か?
俺は、石川県民の中には、大久保が大嫌いな人がいると教えてやっただけだよ。
俺は石川県民ではない。
明治維新後に、薩摩は、加賀藩出身者を馬鹿にしていた、だから大久保暗に繋がったんだろ。
仙台藩や加賀藩でも、薩長に馬鹿にされれば、一部の人間は行動を起こすと言う事だろ

53 :
●大久保は、石川県民に嫌われていました
『紀尾井坂の変』では、政府は無関係な石川県民を30人も逮捕しているぞ
5月15日に大久保に正二位右大臣が追贈され、大久保および御者の中村の移霊式が行われ、
17日に両者の葬儀が行われた。
大久保の葬儀は大久保邸に会する者1,200名近く、費用は4,500円余りという近代日本史上最初の国葬級葬儀となった。
警察の捜査は厳重を極め、斬奸状を起草した陸や、島田に頼まれ斬奸状を各新聞社に投稿した者
(しかし各紙に黙されて掲載されなかった。「朝野新聞」は要旨を短く紹介したが即日発行停止を命じられた)、
事件を聞いて喝采を叫んだ手紙を国許に送っただけの石川県人など30名が逮捕された。

54 :
大久保が狙われているという風評があった。また、真偽は分からないが、島田一郎は「不日(近いうちに)汝に天誅を加う」という通告書を大久保に送っていたといわれる。
明治十一年三月二十五日、島田一郎たちが大久保を撃つべく金沢を出発したことを、金沢の警察が察知し、石川県令から「石川県氏族に不穏な動きがある」ということを内務省に電報で知らせてきた。
  内務省官僚がこのことを大警視川路利良に伝え、大久保の身辺警護を強化するよう要請した。しかるに川路は、「石川県人は因循(ぐずぐずしていて決断がつかない)にして実行力に乏しい、
彼らはた何をか為さん」「加賀の腰抜けに何ができますか」と言って、警戒を強めなかった。川路のこのような加賀に対しての軽侮の念は、前田氏或いは加賀藩が関ヶ原の時もどっちつかず、
明治維新戦争の時もどっちつかずの姿勢であったことによるといわれる。
  川路利良は鹿児島に探索隊を送って西郷隆盛の武装蜂起を挑発して西郷を死に至らしめ、
その反動として西郷信奉者の旧加賀藩士によって大久保利通が暗されたということで、紀尾井町事件の後、
「西郷と大久保を死地に追いやったのは川路である」という川路の責任を追及する声があがった。
特に川路に大久保の身辺警護強化を要請した内務省官僚・千阪高雅(米沢藩出身)は「下手人は島田にして島田ではない。警護を怠った川路である」と
極言して川路を罵ったという。川路もまた責任を感じ、以後、枕頭に西郷隆盛など西南戦争で亡くなった人たちや大久保利通の霊が立つといわれ、
ノイローゼ状態になったという。
  当時は「武士たるものが自分で自分を守ることができず他人に警護してもらうなどということは卑怯である」という観念が残っていた。
それが西南戦争直後の物情騒然としていた時期であるにかかわらず、武士階級出身である政府要人を警察に警護させることを潔しとしなかった風潮もあったという説もある。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-shinomiya/ron/2010/kura001.htm

55 :
>>51は、少し頭を冷やしたほうが良いよ。
大久保暗の責任は、川路であると言うのが、明治11年当時の批評だよ。
あんまり、石川県人を馬鹿にしないほうが良いよ。
新撰組は、池田屋事変では、たった数人で、大量の攘夷派の中に斬りこんでいるよな。
これも、本物の武士ではないと馬鹿にされた反動が、池田屋で爆発したからだろ。
長州は、池田屋事変の前に、新撰組のことを大分馬鹿にしていたようだからな。
長州藩士って、相手を馬鹿にして怒らせることの恐さを実感していないんだよな

56 :
薩長は、石川県民を馬鹿にし続けていた。
「加賀の腰抜け」
「加賀の腰抜け」
「加賀の腰抜け」
「加賀の腰抜け」
「加賀の腰抜け」
連呼されれば、怒り出すに決まっているんだがな

57 :
大久保がやられたのは言論統制したからだろう
井伊直弼と同じ

58 :11/11/08
>>55
つっても戦場ではクソの役にもたたなかったけどな>新撰組

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