2011年11月1期35: 現代語による漢文訓読体を作るスレ (57)
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現代語による漢文訓読体を作るスレ
- 1 :11/05/11 〜 最終レス :11/09/22
- 漢文は、「訓読」とよばれる伝統的な翻訳法をもってまず古語の日本語に訳され、
その訳文(書き下し文)を日本語の現代語に移しかえることで読解されている。
たとえば「子曰、学而時習之、不亦説乎」という文は「し いわく、まなびて ときに これを ならう また よろこばしからずや」と訳し、
ついでそれを「孔子はいった 学んで時々それを復習する、それはよろばしいことではないかと」のように訳する。
いわば中国語→日本語(古語)→日本語(現代語)という二重の翻訳を行っている。
現代の日本人にとって、訓読の技術を身につけるには学習を必要とするが、
この書き下し文の意味をくみとるのにもまた学習を必要とする。二重の負担だ。
もし古語を介せず、はじめから中国語から日本語(現代語)への翻訳法があれば、その負担は解消されるのではないか。
さあ語れ。
- 2 :
- 読みくだしが長くならない?
- 3 :
- >>2
孟子見梁恵王、王曰、叟不遠千里而来、亦将有以利吾国乎 (梁惠王章句上 の冒頭)
読み仮名をふった文(実際には縦書きの漢字の右側にカタカナが小さく書かれているものと見てほしい):
孟子ガ 見エタ 梁ノ 恵王ニ、王ハ 曰ッタ、叟ハ 不ズ 遠クオモワ 千里ヲ 而 来イラッシャッタ、亦タ 将 有ゴザイマショウカ 以 利スルコトガ 吾ガ 国ヲ 乎
書き下し文:孟子が梁の恵王にまみえた*1。王はいった*2。
「叟は千里を遠く思わず*3いらっしゃった*4。またわが国を利すること*6がございましょうか。」と。
・現行の訓読体の要領で、意味のあうように名詞に現代語の助詞をおぎなう。
ここでは「孟子が」、「梁恵王に」、「王は」、「叟は」、「千里を」、「吾が国を」となる。
*1:現行の訓読体は時の区別がなく現在形で文を終えるが、過去のをできごとをあつかう文では動詞はかならず「-た」をつけることにする。
*2:現行の訓読体は、「〜曰『○○』」は「〜いわく、『○○』」となるが、これを捨てて「〜はいった。『○○』と」と単純化する。
*3:現行の訓読体ではこの「遠」は「とおしとす」と読まれているが、これを現代語でこなれた表現として「〜く思う」に変える。
形容詞が文中で動詞として用いられ、かつ「〜と思う」という意味をふくむ場合は、「〜く思う」または「〜いと思う」と読む。
*4:会話文の中では場面や話者に応じて敬語に訳する。ここでは恵王が「叟」(先生)という語を使っており、恵王が仮に日本語で話したら敬語を用いるところであろうから、敬語に訳する。
*5:現代日本語だと「わが国を利するを」のように動詞の連体形に直接「を」をつけられないので、名詞をおぎなう。
利吾国は国を利する方法の話という意味であるからおぎなう名詞は「こと」でよいだろう。
ほかに文によって「もの」「ひと」「とき」「ところ」などが候補になりうる。
- 4 :
- 孟子対曰、王何必曰利、亦有仁義而已矣
振り仮名を振った文:孟子ガ 対エテ 曰ッタ 王 何ヲ 必ズ 曰イマショウカ 利ヲ 亦タ 有アル 仁義ガ 而已ダケデゴザイマス 矣
書き下し文:孟子がこたえていった。「王、何をかならず利をいいましょうか。また仁義があるだけでございます。」
孟子は説客の身分であるので恵王に対して敬語を用いる。而已は「〜だけ」または「〜のみ」と読む。
矣は現代語に訳しにくいため現行の訓読体と同じく不読にする。
王曰何以利吾国、大夫曰何以利吾家、士庶人曰何以利吾身、上下交征利而*1国危矣
振り仮名をふった文:王ガ 曰イ 何ヲ 以テ 利シヨウカト 吾ガ 国ヲ、大夫ガ 曰イ 何ヲ 以テ 利シヨウカト 吾ガ 家ヲ、
士庶人ガ 曰エバ 何ヲ 以テ 利シヨウカト 吾ガ 身ヲ、上下ガ 交モ 征メ 利ヲ 而 国ハ 危クナリマショウ 矣
書き下し文:王が何をもってわが国を利しようかといい、大夫が何をもってわが家(いえ)を利しようかといい、士、庶人が何をもってわが身を利しようかといえば、
上下がこもごも利をもとめ、国は危うくなりましょう。
- 5 :
- 万乗之国弑其君者、必千乗之家、千乗之国弑其君者、必百乗之家、万取千焉、千取百焉、不為不多矣*2、
苟為後義而先利、不奪不饜、未有仁而遺其親者也、未有義而後其君者也、王亦曰仁義而已矣、何必曰利*4
振り仮名をふった文:万乗 之ノ 国デ 弑ス 其ノ 君ヲ 者ハ、必ズ 千乗 之ノ 家デゴザイマス 、
千乗 之ノ 国デ 弑ス 其ノ 君ヲ 者ハ、必ズ 百乗 之ノ 家デゴザイマス、
万ニ 取リ 千ヲ 焉、千ニ 取ル 百ヲ 焉、不ン 為イタシマセ 不ナイトハ 多ク 矣
苟シ 為ルナラバ 後ニシ 義ヲ 而 先ニスルコトヲ 利ヲ、不ネバ 奪ワ 不ン 饜キマセ 未ダ/ン 有ゴザイマセ
仁デ 遺テル 其ノ 親ヲ 者ヲ 也、未ダ/ン 有ゴザイマセ 義デ 而 後ニスル 其ノ 君ヲ 者ハ 也、
王モ 亦タ 曰ウ 仁義ヲ 而已ダケデゴザイマス 矣、何ヲ 必ズ 曰イマショウカ 利ヲ
書き下し文:万乗の国*1でその君を弑す(ころす)ものは、かならず千乗の家であり、千乗の国でその君を弑すものは、かならず百乗の家でございます。
万に千をとり、千に百をとる。多くないとはいたしません。もし*2義をあとにして利を先にすることをするならば、奪わなねば饜きません。
いまだ仁でありその親を遺てる(すてる)ものはございません。いまだ義でありその君を後にするものはございません。
王もまた仁義をいうだけでございます。何をかならず利をいいましょうか。
*1:「名詞+之+名詞」で名詞が名詞を修飾している場合は、現行の訓読体と同じように「〜の―」のように読む。
*2:苟は「いやしくも」と読まれるが、「もし」でよいのではないかと思う。
- 6 :
- 不為不多矣のところに*2がついてるのはつけまちがいだわすまん。
*4も>>3の*4とのつけまちがい。
- 7 :
- 読み下し漢文が難しいと感じるのが、古文と現代文の差という日本語の問題だから発想は面白い
- 8 :
- 子曰、巧言令色、鮮矣仁
書き下し文:子はいった。「言(ことば)を巧(よ)くし 色(かおいろ)を令(よ)くする人は、鮮(すく)ないな。仁は。」
- 9 :
- ・巧言令色をそのまま「こうげんれいしょく」と音読みするのは芸がない。
そこで意訳する。言は「ことば」、色は「かおいろ」と読む。
「巧言令色」は意味的に人を指しているので「ひと」を補う。
・「すくない」の後に「な」をいれて孔子の一種の感嘆を表す。
- 10 :
- 子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。(論語 学而編)
書き下し文:子はいった。「学んでときどき習う。またよろこばしくないか。ともが遠方から来る。また楽しくないか。人が知らずともうらまない。また君子ではないか」
- 11 :
- ・曰は「〜はいった」と読む
・時を「時に」と読んだとしても、時にというのがどういう意味か分かりにくいので直接に「ときどき」と読む。
・「之」は不読とする。
- 12 :
- ・「亦」は不読でもよいかもしれない。
・ここの「有」は訳しづらいので不読とする。だれしも「ともありえんぽうよりきたる」に違和感をもつことだろう。
・「来」は訓読では「きたる」と読むがこれを廃して基本的に「くる」と読むようにする。
- 13 :
- 時にをときどきまで行くと意訳になって、混乱するんでわ
- 14 :
- 文脈による例外が多すぎてシステム的には破綻しそうだな
- 15 :
- 平安時代の訓読が参考になるよ。
- 16 :
- 韓非子 二柄編
明主之所導制其臣者、二柄而已矣。二柄者、刑徳也。何謂刑徳。
書き下し文:明主のその臣を導制するすべは、二柄のみである。二柄とは、刑徳である。何を刑徳というか。
・「〜者」はその前の語句を名詞化する働きをする。「所〜」も同じくその後の語句を名詞化する働きをする。
「導制其臣」に所がつき、その上に者もついて、所導制其臣者が一つの名詞として働いている。
現行の訓読体では、「所〜」を「〜するところ」と読み、「〜者」もよく「〜するもの」と読むが、
「〜するところのもの」は所と者の存在を示すだけで、原文の意味は「〜するところのもの」からは分からない。
この符丁のような読み方は弊害だと考える。
- 17 :
- 曰戮之謂刑、慶賞之謂徳。為人臣者畏誅罰而利慶賞、故人主自用其刑徳、則群臣畏其威而帰其利矣。
書き下し文:いうに、戮、これを刑といい、慶賞、これを徳という。人臣というものは、誅罰を畏れ慶賞を利む(このむ)。
このゆえに人主がみずからその刑徳を用いれば、群臣はその威をおそれ、その利に帰しよう。
・「曰」は、過去のだれかの言葉を表す場合は「いった」と過去形にする。
しかしここでは漠然と引用するはたらきをしており、過去のだれかの言葉ではないから、過去形にはせず「〜いう」とする。
- 18 :
- ・為人臣の「為」はコピュラの働きをしている。それに者がつき、「人臣であるもの」を表す。
ところでこの文脈では、ただの「人臣」と「為人臣者」との意味の違いはあまりなく、「為〜者」は語句をのばしているにすぎない。
現代の日本語でこれと同じようなはたらきをする言い回しは、「〜というもの」だろう。そこで「〜というもの」を意訳で用いるのはどうか。
・「故」は漢文で頻出の語で、前の文をうけて理由を表し、慣習的に「ゆえに」と読まれる。現代の文章語でも多用される。
「故」は本居宣長の批判にしたがって、「このゆえに」と「この」をつけるようにするのがよいと思う。
現代語で「〜した。そういうわけで〜」を「〜した、わけで〜」、「〜する。そのせいで」を「〜する。せいで〜」のようにいうことはないだろう。
理由を表す語を、指示語の修飾なしで文頭において使うのは現代語の基準では異様といわざるをえない。
- 19 :
- ・「則」は現行の訓読体では「〜すればすなわち」と読まれている。
しかしこの「すなわち」は単に則の存在を示しているだけで、何ら意味をもたない。
不読にして、前の文を「〜すれば」と仮定形にすれば用は足りる。
- 20 :
- 大道廃、有仁義。智恵出、有大偽。六親不和、有孝慈。国家昬乱、有忠臣。(老子俗薄)
書き下し文:大道が廃れて仁義がある。知恵が出て大偽がある。六臣が和せいで孝慈がある。国家が昬乱して忠臣がある。
・古文では用いられない「が」を補い、「あり」を「ある」に変えただけ。
- 21 :
- 訓読の基本の方針としては、下の四つはおおよそ同意されるところだろうと思う。
・和語で読んでも文意の害されない場合は、和語を用いるようにし、音読みにたよりすぎない。
(たとえば 吾日に吾が身を「三省する(さんせいする)」と読むのはよろしくなく、「みたびかえりみる」と読むのが望ましい)
・現行の書き下し文は時の表現があいまいになっているから、これをやめて、〜する/〜したの使い分けを厳格におこなう。
・自然な文にするために、会話文では適宜敬語を用いて訳する。
・「〜するゆえん」「〜すればすなわち」「〜するところとなる」「すべからく〜すべし」のような、
原文のこの字をこう読むという決まりごとをおぼえなければ意味のわからないような言い回しを使わない
- 22 :
- >>20
「六親が不和で」でいいんじゃないかな?
- 23 :
- すごく勉強になります。
- 24 :
- 史記の項羽本紀の、項羽の死ぬ場面(於是項王乃欲東渡烏江から始まる箇所)。おなじみで簡単そうだから、これを現代語でやってみた。
本文は中国哲学書電子化計画(http://ctext.org/shiji/zh)を見てくれ。
- 25 :
- そうして、項王は東へ烏江を渡ろうとした*1。烏江の亭長は船を檥(よそお)って*2待っていた*3。
項王に謂(い)った。「江東は小そうございますが*4、地は方にして千里、衆(たみ)は数十万人でございます。また王となる*5に足りましょう。
願います、大王の急いでお渡りになることを*6。今独(ひとり)臣(しん)のみ*7船が有(ござ)います。漢の軍が至っても、渡るものはございません。」と。
- 26 :
- 項王は笑って曰(い)った。「天のわれを亡ぼそうとするときに、渡ってどうなろう*8。また籍は江東の子弟八千人と江(こう)を渡って西にいった*5が、今一人とて還るものはいない。
江東の父兄がわれを憐れんで王としたところで、どんな面目(かお)をして見(あ)おうか、かれが言わなければ、独(ひとり)心に愧(は)じぬのか。」と。
- 27 :
- そして亭長に謂(い)った。「公は長者と知(み)た*9。われは五歳*10この馬に騎(の)った。当たるところに敵はいない。
一日に千里行くこともあった*11。すには忍(た)えられない。そこで公に賜(あた)えよう。」と。
そして騎にみな馬を下りて歩行(ある)かせ、短兵を持って接(じか)に*12戦った。独(ひとり)で籍がした漢の軍は、数百人であった。
- 28 :
- 項王もまたその身に十余りの創(きず)を被った。顧(ふりかえ)ると漢の騎司馬の呂馬童を見て曰(い)った。「なんじはわが故人(とも)ではないか」と。
馬童は面(かお)をそむけ*5、王翳に指をさして曰(い)った。「こやつが項王でございます」と。
- 29 :
- すると項王は曰(い)った。「われは漢がわが頭(くび)を千の金、万の戸(いえ)の邑で購(か)うと聞く。なんじのために徳(めぐん)でやろう。」と。そしてみずかららくびを刎(き)って死んだ。
王翳はその頭(くび)を取った。余(ほか)の騎は蹂践(ふ)みあって*13項王を争った。しあった者は数十人であった
- 30 :
- >>21
>この字をこう読むという決まりごとをおぼえなければ意味のわからない
むしろそれは分かりやすいんじゃないかな
- 31 :
- 最も後に郎中の騎の楊喜、騎司馬の呂馬童、郎中の呂勝、楊武が、各(おのおの)一体を得た。
五人がともにその体を会(あ)わせると、皆そのままであった。
これによってその地を分けて五つとし、呂馬童を封じて中水候とし、
王翳を封じて杜衍候とし、楊喜を封じて赤泉候とし、楊武を封じて呉防候とし、呂勝を封じて涅陽候とした。
- 32 :
- *1:「欲+動詞」は意味によって読み分けるようにする「欲+動詞」が願望を表し、行為をともなわない場合は、
「〜したい」「〜したいとおもう」「〜しようと思う」と読む。三つから通りのよいものを選ぶ。
「欲+動詞」が願望を表すが、行為をともなう場合は「〜しようとする」と読む。欲東渡烏江はこれに当たる。
「欲+動詞」が、願望を表わさず、「将」と同義であるとき、「〜しようとする」と読む。
- 33 :
- >>30
「べし」と読む字(再読文字含む)の一群を見てみよう。
可:べし
宜:よろしく〜べし
須:すべからく〜べし
当:まさに〜べし
応:まさに〜べし
当応、応当:まさに〜べし
合:べし
容:べし
- 34 :
- 当宜須の三者は「べし」の前に何かをつけて読むを字を区別しているが、
当/応/当応/応当、可/合/容の区別がない。
「べし」と呼応する「よろしく」「すべからく」「まさに」自体を取り出してみても、
当宜須のニュアンスの違いを表してはいない。
この三つは、単に「べし」と訓読される字が
原文では何であるかを表すために付加されるだけの、無意味な符号になっている。
- 35 :
- こういうものは有害だと思わないか?上のを一律に「べし」のみで訓読したところで、
原文の理解度が変わるわけではない。現に当と応の差は無視されている。
「よろしく」「すべからく」「まさに」があるメリットに比べて、
高校生が宜をまちがえて「まさに〜すべし」と読み点をはねられたり、
「再読文字」という名で教科書に余分に紙が使われたりする、そのデメリットは大きいと思うぞ。
- 36 :
- ある一定のルールに則った漢文訓読を行うのか、意味に合わせて通常の漢字の読みを逸脱したものを認めるのかどっちなんかな
- 37 :
- >>36
どっちでもいいだろ。お好きなように。
- 38 :
- >>36
それはきわどいところだ。明確には自分も持ち合わせてないが、これから模索したい。
- 39 :
- 低レベルなスレだな・・・
- 40 :
- 低レベルだと言うだけで高みを決めこんでるやつが一番価値がない。
- 41 :
- test
- 42 :
- 結構おもしろいと思うけど。
- 43 :
- 梁恵王章句上より
梁の恵王は曰(い)った。「寡人(わたくし)*1の国でのありさまは、心を尽くすばかりである。
河内が凶であれば*2、民を河東に移し、粟(ぞく)を河内を移す。河東が凶であってもまたそのようにする*3。
隣国の政を察(み)ると、寡人の心を用いているような者はいない。隣国の民が少なくならず*4、寡人の民が多くならない*4のは、なぜか」と。
孟子は対(こた)えて曰(い)った。「王は戦いをお好みになりますから、戦いで喩(たと)えましょう。
填然として鼓(つづみ)をうち、兵刃が*5接しました。甲(よろい)を棄て兵を曳いて走りました。
或(あるひと)*6は百歩いって後に止まり、或(あるひと)とは五十歩いって後に止まりました。五十歩で百歩を笑えば、いかがでございましょうか。」
曰(い)った。「可(よろし)くない。直(ただ)百歩ゆかなかっただけで、是(そのもの)もまた走ったのだ。」と。
曰(い)った。「王、もしこのことをご存じであれば*7、民が隣国より多いことをお望みになってはなりません*8。」と。
- 44 :
- *1:「寡人」をそのまま音読みして「カジン」とするか、「わたくし」とするかは分かれるところだ。
*2:「〜〜、則〜〜」のとき、則を不読にして意味の合うようにつなげる。ここでは仮定形。
*3:「然」は「しかり」と読まれるから、直訳すれば「そうだ」となるが、「河東が凶であってもまたそうだ」よりは「河東が凶であってもまたそのようにする」のほうが現代語では自然かもしれない。
*4:原文でここに「加少」「加多」という語句が使われている。「すくなきをくわえる」「おおきをくわえる」は現代語では異様な表現であるから意訳にたよった。
*5:原文で「兵刃既接」となっている。現代語で「既」にぴったりした語が分からない。
*6:「或」は文意によって「ある+○○」の形で補って読む。ここでは兵士をさしているから「あるひと」とする。
*7:「知る」の尊敬語は「ご存じある」であるから知(チ)という漢語をゾンという漢語に訳することになるが、これはしょうがない。
*8:禁止を表す文では「〜することなかれ」と読まれるが、これは現代語では異様な表現と言える。
しかし単に「〜するな」というのでは不自然な場合もあるから、「〜してはならない」と「〜するな」を使い分けるようにする。
- 45 :
- 梁の恵王は曰(い)った。「寡人(わたくし)は安らかに教えを承(う)けたいと願っている。」と、
孟子は対(こた)えて曰った。「人をすのに梃(つえ)でするのと刃(は)でするのとで*1、異なるところはございましょうか*2。」と。
曰(い)った。「異なるところはない。」と。曰った。「刃でするのと政でするのとで、異なるところはございましょうか。」と。
曰(い)った。「異なるところはない。」と。
*1:原文「以梃与刃」は「以梃与以刃」の意味であるから日本語で「〜でするのと、〜でするのと」のように同じ語句をつける。
*2:原文「有以異乎」にあるこのような「以」は不読にする。
- 46 :
- >>43
王様が「わたくし」というの?
- 47 :
- 普通に現代日本語訳で読めばいいんじゃないの?
訓読のメリットは何?
- 48 :
- 現代語訳するだけなら訓読なんてしなくてもいいんだぞ。
白文→訓点→現代語 だけでいい。
訓読するのは授業で語順を確認する時くらいだ。
- 49 :
- 漢文訓読が日本語の書き言葉の文体を作ったんだよ。
訓読から独立に作られた現代日本語文体では訓読は無理。
- 50 :
- 口語的訓読体というもうひとつの中間言語が生まれるだけ。
理解するにはそこからさらに解釈を必要とする。
二重の翻訳であることに変わりはない。
むしろ深刻な文語離れを食い止めることの方が有意義。
明治大正の詩文や論説文など、漢文訓読体に基づく文語表現には
豊富なテクストの蓄積があり、今も再生産可能なのだ。
これを省みず存在すら忘れるから>>1のような発想が生れる。
古典に連なる伝統の連続性を無視するなど本末転倒。
- 51 :
- >>44
寡人kajin,でいいんじゃないの?
朕と同じで高貴な人の自称だから、「わたくし」だとニュアンスが伝わらないし。
- 52 :
- こうしてみると、漢文訓読ってすさまじくよくできた翻訳システムだよな。
- 53 :
- 出版社でもさぁ、訓読文、下し文、訳文、
の三倍構造にするんじゃなくて
訓読文に返り読みする現代語訳が付加されたような状態にすべき
目線の移動が最少だし、必要なきゃどんどん飛ばせるし
物理的にもコンパクトに出来るし
既存のものも、これで再編集して出して欲しい
赤で訓点も良いかも
- 54 :
- お前らの新提案ってなんでいちいち韓国みたいなやり方なんだろう
訓読やめろとか、返り点廃止とか
- 55 :
- 誰がそんなこと言ったの?
- 56 :
- >>54
確かにそうだな。韓国は漢字を廃止したけど、最近また復活してきてるし。
合理的に見えても意外と実際は合理的ではない事も多いからな。本当に合理的ならとっくの昔に漢文の訓読なんて変わってるよ。
それに現代の言葉で漢文を訓読して面白いか?
まあ、>>1の考えは面白いけどな。
- 57 :11/09/22
- 東電元社長のKO大学卒(文系低能)の清水の退職金は,5億円だってさ。
東京都港区のオール電化の2億の高層マンションも,
これで一発返済。
原発のことなんか,もうさっさと忘れて,
35歳年下の嫁さんと,イヤらしい毎日を過ごしている・・・
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