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2011年11月1期38: ▽▲▽三島由紀夫の社会学▼△▼ (511) TOP カテ一覧 スレ一覧

▽▲▽三島由紀夫の社会学▼△▼


1 :10/09/10 〜 最終レス :11/10/25
★小説家として有名な三島由紀夫ですが、多くの世評、放談を遺しています。
dat落ちした前スレ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/sociology/1213956170/

2 :
スキャンダルの特長は、その悪い噂一つのおかげで、当人の全部をひつくるめて悪者にしてしまふことである。
スキャンダルは、「あいつはかういふ欠点もあるが、かういふ美点もある」といふ形では、決して伝播しない。
「あいつは女たらしだ」「あいつは裏切者だ」――これで全部がおほはれてしまふ。
当人は否応なしに、「女たらし」や「裏切者」の権化になる。一度スキャンダルが伝播したが最後、世間では、
「彼は女たらしではあるが、几帳面な性格で、友達からの借金は必ず期日に返済した」とか、「彼は裏切者だが、
親孝行であつた」とか、さういふ折衷的な判断には、見向きもしなくなつてしまふのである。(中略)
マス・コミといふものが、近代的な大都会でも、十分、村八分を成立させるやうになつた。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より

3 :
遊び、娯楽、といふものは、むやみと新らしい刺戟を求めることでもなく、阿片常習者のやうな中毒症状を
呈することでもなく、お金を湯水のやうに使ふことでもなく、日なたぼつこでも、昼寝でも、昼飯でも、
散歩でも、現在自分のやつてゐることを最高に享楽する精神であり才能であらう。(略)プロ野球見物と
庭の水まきと、どつちが現在の自分にとつてもつともたのしいか、といふことに、自分の本当の判断を
働らかすことが、遊び上手の秘訣であらう。世間の流行におくれまいとか、話題をのがさぬやうにとか、
「お隣りが行くから家も」とか、「人が面白いと言つたから」とか、……さういふ理由で遊びを追求するのは、
人のための遊びであつて、自分のための娯楽ではないのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より

4 :
世の女性方は、たとへイギリス製の生地の背広を着こなした紳士の中にも、「ガーン!」「ガバッ!」
「ガシーン!」「バシーン!」などの擬音詞に充ちた低俗なアクションへの興味が息をひそめてゐることを、
知つておいて損はなからう。
男にとつては、いくつになつても、そんなに「バカバカしい」ことといふものはありえない。
「バカバカしい」といふ落着いた冷笑は、いつも本質的に女性的なものである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 いかもの料理『大人の赤本』」より

5 :
大体私は現在のオウナー・ドライヴァー全盛時代に背を向けて、絶対に自分の車を持たぬといふ主義を
堅持してゐる。何のために車を持つか?一刻も早く目的地へ到達するためだらう。ところが私の家から
都心までは、ラッシュ・アワーでも、バスと国電を使つて三十五分で確実に行くのに、車を利用すれば早くて
四十五分はかかる。これでもなほ車に乗るのは、どうかしてゐる。(中略)
電車なら、推理小説だのスポーツ新聞だのに読み耽つてゐるうちに、あつといふ間に目的地へ着いてしまふ。
一切あなたまかせだからイライラすることもないのである。
都会生活の真髄は能率とスピードだらう。車を持つこと、いやただタクシーに乗ることさへ、今や能率と
スピードに背馳しつつある。あとにのこる車の御利益と言つたら見栄だけだが、かう猫も杓子も車を持つやうに
なつたら、一向見栄にもならない。見栄にも実用にもならぬことに、どうしてお金を使はなければならないのだらう。
三島由紀夫「社会料理三島亭 クヮンヅメ料理『自動車ラッシュ』」より

6 :
よく人の家へ呼ばれて、家族の成長のアルバムなんかを見せられることがある。ところがこんなに退屈な
もてなしはない。人の家族の成長なんか面白くもなんともないからである。写真といふものには、へんな魔力がある。
みんなこれにだまされてゐるのである。ある家族が、自分の家族の成長の歴史を写真で見れば、なるほど
血湧き肉をどる面白さにちがひない。しかもそれが写真といふ物質だから、物質である以上、坐り心地のよい
椅子が誰にも坐り心地よく、美しいガラス器が誰が見ても美しいやうに、面白い写真といふものは、誰が見ても
面白からうといふ錯覚・誤解が生じる。そこでアルバムを人に見せることになるのであらう。(略)
大部分の写真は、不完全な主観の再現の手がかりにすぎない。それは山を映しても、ふるさとの懐しい山といふ
ものは映してくれない。ただ「ふるさとの懐しい山」を想ひ起す手がかりを提供してくれるにすぎない。
「ふるさとの懐しい山」といふものは、あくまでこちらの心の中にあるので、その点では、われわれ文士の
用ひる言葉といふやつのはうが、よほど正確な再現を可能にする。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より

7 :
いちばんいい例が赤ん坊の写真である。
他人の赤ん坊ほどグロテスクなものはなく、自分の赤ん坊ほど可愛いものはない。そして世間の親がみんな
さう思つてゐるのだから世話はない。
公園で母車を押した母親同士が出会つて、
「まあ、可愛い赤ちゃん」「まあ、お宅さまこそ。何て可愛らしいんでせう」などとお世辞を言ひ合ふが、
どちらも肚の中では、『なんてみつともない赤ん坊でせう。まるでカッパだわ。それに比べると、うちの
赤ん坊の可愛らしいこと!…(略)』さう思つてゐる。
カメラはこの「可愛い赤ん坊」を写すのである。実は、本当のことをいふと、カメラの写してゐるのは、
みつともないカッパみたいな未成熟の人間像にすぎないが、写真は、言葉も及ばないほど、「可愛い赤ん坊」の
手がかりを提供する。(略)かへすがへすも注意すべきことは、自分の赤ん坊の写真なんか、決して人に
見せるものではない、といふことである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より

8 :
私はこの世に生をうけてより、只の一度も赤い羽根を買つたことがない。そのシーズンの盛期に、大都会で、
赤い羽根をつけないで暮すといふ絶大のスリルが忘れられないからだ。赤い羽根をつけないで歩いてごらんなさい。
いたるところの街角で、諸君は、何ものかにつけ狙われてゐる不気味な眼差を感じ、交番の前をよけて通る
おたづね者の心境にひたることができる。自分は狙われてゐるのだといふ、こそばゆい、誇らしい気持に
陶然とすることができる。もし赤い羽根をつけて歩いてごらんなさい。誰もふりむいてもくれやしないから。
冗談はさておき、私は強制された慈善といふものがきらひなのである。(略)
駅の切符売場の前に女学生のセイラー服の垣根が出来てゐて、カミつくやうな、もつとも快適ならざるコーラスが、
「おねがひいたします。おねがひいたします」と連呼する。
私がその前を素通りすると、きこえよがしに、「あの人、ケチね」などといふ。
「アラ、心臓ね」「図々しいわね」と言はれたこともある。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

9 :
これは尤も、通るときの私の態度も悪いので、なるべく悪びれずに堂々とその前をとほるのが、よほど鉄面皮に
見えるらしい。しかし、ただ胸を張つてその前を通るだけのことで、鉄面皮に見えるなら、それだけのことが
できない人は、単なる弱気から、あるひは恥かしさから、醵金箱(きよきんばこ)に十円玉を投じてゐるものと
思はれる。一体、弱気や恥かしさからの慈善行為といふものがあるものだらうか?それなら、人に弱気や
羞恥心を起させることを、この運動が目的にしてゐると云はれても、仕方がないぢやないか?
大体、弱気や恥かしさで、醵金箱にお金を入れる人種といふものは、善良なる市民である。電車で通勤する
人たちがその大半であつて、安サラリーの上に重税で苦しめられてゐる人たちである。さういふ人たちの善良な
やさしい魂を脅迫して、お金をとつて、赤い羽根をおしつける、といふやり方は、どこかまちがつてゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

10 :
もつと弱気でない、もつと羞恥心の欠如した連中ほど、お金を持つてゐるに決つてゐるのだから、おんなじ
脅迫するなら、そつちからいただく方法を講じたらどうだらう。大体、私のやうに、赤い羽根諸嬢の前を
素通りすることで鉄面皮ぶつてゐる男などは甘いもので、もつと本当の鉄面皮は、ひよこひよこそんなところを
歩いてゐるひまなんぞなく、車からビルへ、ビルから車へと、ひたすら金儲けにいそがしいにちがひない。(中略)
本来なら、慈善事業とは、罪ほろぼしのお金で運営すべきものである。さんざん市民の膏血をしぼつて大儲けを
した実業家が、あんまり儲かつておそろしくなり、まさか夜中に貧乏人の家を一軒一軒たづねて、玄関口へ
コッソリお金を置いて逃げるのも大変だから、一括して、せめて今度は罪ほろぼしに、困つてゐる人を助けよう
といふ気で金を出す。これが慈善といふものだ。ところが日本の金持は、政治家にあげるお金はいくらでも
あるのに、社会事業や育英事業に出す金は一文もないといふ顔をしてゐる。(略)
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

11 :
ちつとも世間に迷惑をかけず、自分の労働で几帳面に仕入れたお金なんかは、世間へ返す必要は全然ないのである。
無意味な税金を沢山とられてゐる上に、たとへ十円でも、世間へ捨てる金があるべきではない。その上、赤い
羽根なんかもらつて、良心を休める必要もないので、そんな羽根をもらはなくても、ちやんと働らいてちやんと
獲得した金は、十分自分のたのしみに使つて、それで良心が休まつてゐる筈である。
さんざんアクドイことをして儲けた金こそ、不浄な金であるから、世間へ返さなければ、バチが当るといふ
ものである。(中略)
社会保障は、憲法上、国家の責務であつて、国が全責任を負ふべきであり、次にこれを補つて、大金持が金を
ふんだんに醵出すべきであり、あくまでこれが本筋である。しかし一筋縄では行かないのが世間で、(略)
助けられる立場にゐながら、人を助けたい人もある。赤い羽根も無用の強制をやめて、さういふ人たちを
対象に、静かに上品にやつたらいいと思ふ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

12 :
一体、「日本人が何をクリスマスなんて大さわぎをするんだ」といふ議論ほど、月並で言ひ古された議論はなく、
かういふ風にケチをつければ、日本へ輸入された外国の風習で、ケチをつけられないものはあるまい。もともと
クリスマスは宗教の風習化で、宗教のはうは有難く御遠慮申し上げて、何か遊ぶ口実になるたのしさうな
ハイカラな風習のはうだけいただかうといふところに、日本人の伝来の知恵がある。識者の言ふやうに、
日本人が外国人なみ(と云つてもごく少数の信心ぶかい外国人なみ)に、敬虔なるクリスマスをすごすやうな
国民なら、とつくの昔に一億あげてキリスト教に改宗してゐたであらう。ところが日本人の宗教に対する
抵抗精神はなかなかのもので、占領中マッカーサーがあれほど日本のキリスト教化を意図したにもかかはらず、
今以てキリスト教徒は人口の二パーセントに充たぬ実情である。そして肝腎のクリスマスは、商業主義の
ありつたけをつくした酒池肉林の無礼講、あたかも魔宴(サバト)の如きものになつてゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

13 :
私は日本のクリスマスといふのは、日本にすつかり土着した、宗教臭のない、しかもハイカラなお祭なのだと
思つてゐる。オミコシをかついであばれまはる町内のお祭は、今日ではもう、ごく一部の人のたのしみになつて
しまつた。ミコシをかつぐ若い衆も年々少なくなり、しかもどこの町内でも、ミコシかつぎが愚連隊に占領
されるおそれがあるので、折角のオミコシを出さないところもふえて来た。
こんな町内のお祭以外には、紀元節も天長節も失つた民衆は、文化の日だのコドモの日だのといふ官製の
舌足らずの祭日を祝ふ気にはなれない。そこで全然官製臭のない唯一のお祭であるクリスマスをたのしむやうに
なつたのはもつともである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

14 :
半可通の「文化人」がにやけたベレーをかぶつて、パリの貧乏生活の思ひ出をたのしむ巴里祭などより、
どれほどクリスマスのはうが威勢がよいかわからない。それに例の「ジングル・ベル」の音楽も、今では、
「ソーラン節」や「おてもやん」程度には普及してきたのである。(中略)
一昨々年は、ニューヨークで、三軒ほどの私宅によばれて、清教徒的クリスマス、インテリ的クリスマス、
デカダン的クリスマス、と三様のクリスマス・パーティーを味はつたが、清教徒的家庭的健康的クリスマスの
つまらなさはお話にならず、いい年をした大人が、合唱したり、遊戯をしたり、安物のプレゼントをもらつて
よろこんだりする、田舎教会的雰囲気は、とても私ごとき人間には堪へられるところではなかつた。よく外国へ
行つたら家庭に招かれて、家庭のクリスマスを味はふべきだ、などと言ふ人があるが、そんな話はマユツバ物である。
クリスマスを口実に、淡々と呑んだり踊つたりといふのが、世界共通の大人のクリスマスといふのだらう。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

15 :
…クリスマスは、キリスト教においても、本当は異教起源のお祭で、ローマの冬至の祭、サトゥルヌス祭の
馬鹿さわぎに端を発し、収納祭の農業的行事であつた。それを考へると、日本人がクリスマスを、その正しい
起源においてとらへて、ただのバカさわぎに還元してしまつたといふ点では、日本人の直観力は大したものである。
しかも、誠心誠意、このバカさわぎ行事に身を捧げて、有楽町駅の階段に醜骸をさらすほど、古代ローマの神事に
忠実な例は、あんまり世界にも類例を見ないのである。これもキリスト教に毒されなかつた御利益といふべきか。
ところが私には、妙な気取りがあつて、祭のオミコシをかついだ経験から言ふのだからまちがひないが、日本の
祭のミコシなら、ねぢり鉢巻でかつぎまはつて、恥も外聞もかまはずにゐられるのに、クリスマスといふ
ハイカラなお祭には、そのハイカラが邪魔をして、どうもそこまで羽目を外す気にはならないのである。
日本にゐて外国の祭にウツツを抜かすといふことに、何となく抵抗を感じる。「クリスマス、クリスマス」と
喜ぶのが何だか気恥かしいのである。(略)
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

16 :
ところで文化人知識人といふヤカラは、安保デモではプラカードをかつぎ、巴里祭にはベレーをかぶり、
クリスマスには銀座のバア歩きもやるくせに、どうして、日本のオミコシをかつがうとしないのであらう。
そこのところが、どうしても私にはわからない。
多分ハイカラ知識人は肉体的に非力で、オミコシなんか重くてかつげないものだから、軽いプラカードを
かついでゐるのではなからうか。あれなら子供ミコシほどの目方もありはしない。
クリスマスも、日本の神事祭事に比べて、ただ目方が軽いから、ここまで普及したのではあるまいか。日本の
祭には、たのしいだけでなく、若い衆に苦行を強制する性格があるからである。お祭といふのは、本当はもつと
苦しいものである。苦しいからあばれるのである。もつとも、年末は丁度借金取の横行するシーズンで、
形のある重いオミコシよりも、無形の借金の重さを肩にかついで、やけつぱちで呑みまはりさわぎまはる
「苦シマス」が、日本的クリスマスの本質なのかもしれない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

17 :
この間伊豆の田舎の漁村へ取材に行つてゐて、その村のたつた一軒の宿に泊り、夕食に出された新鮮な魚が、
ほつぺたが落ちるほど美味しかつたが、一晩泊つてみてびつくりした。別に化物が出たといふ話ではない。
ここは昔ながらの旅籠屋で、襖一枚で隣室に接してゐるわけであるが、前の晩の寝不足を取り戻さうと思つて、
九時ごろ床についたのがいけなかつた。(中略)
又眠らうと寝返りを打つたとたん、隣りの部屋へドヤドヤと人が入つて来て、酒宴がはじまつた。と、それに
まじつてトランジスター・ラヂオの大音声の流行歌がはじまつたが、ラヂオをかけながらの酒宴といふのも
へんなものだと思ふうちに、それがもう一つ向うの部屋のものだとわかつた。
更に別の部屋からは、火のつくやうな赤ん坊の泣き声。……夜十時といふころ、宿全体が鷄小屋をつつついた
やうな騒ぎになつてしまつた。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より

18 :
やつと静まつたのが十二時すぎだつたが、それがピタリと静まるといふのではない。しばらく音がしないで、
寝静まつたかなと思ふと、連中は風呂へ行つてゐたので、風呂からかへると、又寝る前に一トさわぎがある。
西瓜の話ばかりなので、商売は何の人だらうと思つたらあとできいたら果して西瓜商人であつた。
一時すぎにやつと眠りについて、朝五時をまはつたころ、村中にひびきわたるラウド・スピーカアの一声に
眠りを破られた。
「第八〇〇丸の乗組員の皆様、朝食の仕度ができましたから、船までとりに来て下さい」
それから間もなく静かになつて、又眠りに落ちこむと、今度はラヂオ体操がスピーカアから村中に放たれた。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より

19 :
(中略)――かうして一日たち二日たつた。
最初の一夜は、「これは大変だ」と思つたのに、馴れといふものは怖ろしいものである。二日目にはもう隣室の
話し声は気にならず、トラックやバスの響きに眠りを破られることがなくなつた。三日目になると完全にコツを
おぼえ、宿中全員が寝静まらぬうちは眠らぬことにきめ、女中を呼ぶにも大音声を張りあげ、食事がおそい
ときは、「おそいぞ!」と怒鳴り、よその子供がバタバタ廊下をかけまはれば、「うるさいぞ!」と怒鳴つて、
夜寝不足ならば十分昼寝をし、ほぼ快適な生活を送れるやうになつた。
――それはさておき、かりにも都会で、プライヴァシィを重んずる「近代的」生活を、生活だと思ひ込んでゐる
人間には、人の迷惑などを考へずにのびのびと暮してゐるかういふ旧式の日本人の生活は、おどろくべきもので
あつた。都会なら、となりのうるさいラヂオを容赦しないが、ここではラヂオはすべて音の競争であつて、
隣りのラヂオがうるさかつたら、家のラヂオの音をもつと大きくすればそれですむのである。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より

20 :
みんながそれに馴れ、何の苦痛も感じないなら、人間の生活はそれで十分なので、何も西洋のプライヴァシィを
真似なくてもいい。西洋の冷たい個室の、完全なプライヴァシィの保たれた生活の裏には、救ひやうのない
孤独がひそんでゐるのである。(中略)
そこへ行くと、日本の漁村の宿の明朗闊達はおどろくばかりで、人間が、他人の生活に無関心に暮すためには、
何も厚いコンクリートの壁で仕切るばかりが能ではなく、薄い襖一枚で筒抜けにして、免疫にしてしまつた
はうが賢明なのかもしれない。(略)
しかし、この昔風の旅籠屋が、襖一枚の生活を強制するのが、昔を偲ばせて奥床しいとは云ひながら、それが
そのまま昔風とは云ひがたい。何故なら、江戸時代には、人はもう少し小声で話したにちがひないし、怪音を
発するトランジスター・ラヂオなんか、持つてゐなかつたからである。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より

21 :
Q:…リトルロックの黒人学生の排斥問題があるんですが……
三島:あの問題は全然国内問題でね、僕は人種的偏見といふ問題については、外から言ふべきぢやないと思ふんだね。
そりやアメリカ人のみんなに会つてみなければわかりませんよ。そして自分の心の中から完全に人種的偏見が
とり去られなければ、どんな政治的な手や法律的な手を打つたつてだめなんで、時間の問題ですね。
日本人の中には黒人がゐないんだから、この問題を感覚的に理解することができない。人種的偏見つていふのは
心理的な問題であつて、外から、民主主義国にそぐはなくてけしからんといふべき問題ぢやない。つまり歴史と
伝統の問題だからね。
三島由紀夫「三島由紀夫渡米みやげ話」より

22 :
私は別に美食家ではない。おいしいものは好きだけれども、場合によつてはまづいものも好きである。
美食しかできないといふ人は、たとへばローマの「トリマルキオーの饗宴」の主人公のやうに、退廃した人間である。
私は男といふものは、絹のパジャマでも軍隊毛布でも同じやうに平気で寝られる人間であるべきだと思ふ。
絹のパジャマでなくては眠れないといふ人間は、男ではない。
(中略)自衛隊の食事は一日三食二百六十円である。マキシムは一食一万円である。おほむね値段からすれば
百倍である。ではマキシムが百倍だけおいしかつたかといへば、そんなことはない。
自衛隊では自衛隊の食事が相応においしく、マキシムではマキシムの料理が相応においしかつただけのことである。
その場その場でどちらもおいしいと思ふのは私の胃が健康だからであり、そしてそれだけのことである。
三島由紀夫「美食について」より

23 :
(中略)人生経験を積むにつれて、いろんなものを食べる機会にぶつかる。
私はエジプトの鶏も、ギリシャのムサカも、…(略)…、タイ料理、インド料理……あらゆるものを食べた。
自衛隊では、縞蛇もガマ蛙も自分で料理して食べた。
しかしこんなものは、毎日ほしいときに食べられたら、別に珍味といふわけではあるまい。
その時、その環境に応じて、むやみにおいしく思はれるときも、まづい時もある。私が外交官になりたくないと
思ふのは、職業として毎日義務的に美食をするほど人生で辛いことはあるまいと思ふからである。
結婚して毎日ご馳走を幾皿も家庭で作らせる亭主を、美食家と思つて、自慢のタネにしてゐる女性は哀れである。
くりかへして言ふが、いはゆる美食家は退廃した人間であり、何を食はせても「うまい」「うまい」と喜んで
平らげる男、女から見たら物足りない男こそ、女性にとつて誇るべき亭主なのである。
三島由紀夫「美食について」より

24 :
おかまの美食って・・・

25 :
このごろでは先生が鞭を鳴らしながら授業でもしたら、「サーカスぢやあるまいし」と、忽ちPTAにいびり
出される始末になるが、むかしは先生は、ちやんと「教鞭」を持つてゐたものであつた。
私自身の小学校時代をかへりみるに、賞罰は実にはつきりしてゐた。しかし、そこには先生の人徳といふもので、
同じひどい目に会はされても、カラッとした人柄の先生にはいつまでもなつかしさが残り、陰気な固物の先生には
やはり面白くない記憶が残る。(中略)
そのうちに怖いのは先生よりも上級生といふ時代がはじまる。
そのころ鬼よりも怖かつたA先輩など、今会つても頭が上がらない。私の母校は敬礼のやかましい学校で、
一級上の上級生にでも挙手の礼を忘れたら、どやしつけられた。
…小説を書く奴なんか軟派だと言つて目をつけられてゐたから、運動部の猛者は殊に怖ろしかつた。私は
旧制高校の最上級生のとき、総務委員といふものになつて、運動部の予算をもすつかり握る権力を得てから、
はじめて彼らに復讐する快感を満喫したのである。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

26 :
…文学者としての自分を考へると、一般的に「文学を否定する」雰囲気があつたといふことは、自分の文学を
育てる上で、大へんなプラスになつたことはたしかである。
私は天才教育などといふアホなものを信じない。「何クソ」といふ気持を養はせるだけの力がなければ、
何事も育ちはしない。
現在の学校教育の実態にうとい私だが、ほぼ確実だと思はれることは、そこには軟派と硬派の区別もなくなり、
文学芸術を否定する空気もなければ、一方、スポーツ万能を否定する空気もないことだ。むりやり右へ行けと
言はれるから、あへて左へ行く勇気も生まれるので、西も東もわからぬ子どもに、「どつちへ行つてもいいよ」
と言へば、迷ひ児がふえるだけのことである。その意味で、丹頂鶴の日教組の極端な左翼教育も、私には、
失ふに惜しいもののやうな気がする。この行き方をもつと徹底させれば、反骨ある愛国少年を、却つて沢山
輩出させることになるのではないか。もつとも、そのための極左教育は反抗期の中学生時代からやつてもらひたいが。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

27 :
…自分の我意に対して、それを否定する力のあることを実感するほど、自我形成に役立つものはない。
猿蟹合戦ぢやあるまいし、「伸びろよ、伸びろよ、柿の種」と言つてみたところで、柿は伸びないのである。
万人向きのバランスのとれた教育、四方八方へ円満に能力をのばしてゆく教育、などといふものは、単なる
抽象的な夢であつて、子どもはそれぞれ未完成で、偏頗(へんぱ)な存在である。個性などといふものは、
はじめは醜い、ぶざまな恰好をしてゐるものだ。美しい個性を持つた子どもなどどこにも存在しないのである。
それが一度たわめられなければ真の個性にならないことも見易い道理で、そのためには、文学書ばかり
耽読してゐる子からはむりやりに本をとりあげて、尻を引つぱたいてスポーツをやらせ、スポーツにばかり
熱中してゐる子は、襟髪をつかんで図書館へぶち込み、強制的に本を読ませるやうにすべきである。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

28 :
かういふ強制力は、こまかい校則によつて規定することはもちろん、罰則のない法規もないのであるから、
妥当な罰則を設け、かつこの規則を実施する能力としては、先生にも、生徒を心服させるだけの腕力が要求される。
生徒の闇討ちをおそれて屈服するやうな先生には、先生の資格がないので、生徒はめつたに先生の知力なんかには
心服しないものである。さういふのは新制大学のころから、学生に知的虚栄心が目ざめて来てからの問題であつて、
大学教育といふものは、もつぱら知識の授受に尽き、もはや教育と呼ぶ必要はない。
ネリカン上がりが尊敬されるといふのも、少年の歪められた英雄主義であるが、ネリカンの生活が苛酷だといふ
伝説乃至事実が、どれだけこの英雄化を助けてゐるかわからない。どこの学校もネリカン並みになれば、
とりたててネリカン上がりが尊敬される理由もなくなるので、少年不良化の防止になるにちがひない。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

29 :
暗い陰惨で辛い生活をとほりぬけて来たといふ自信と誇りを、今の子どもは与へられなさすぎる。
「学園」といふ花園みたいな名称も偽善的だが、学校といふところを明るく楽しく、痴呆の天国みたいな
イメージに作り変へたのは、大きな失敗であつた。学校といふものには暗いイメージが多少必要なのである。
学校の建物も質素で汚ならしいことが必要で、何だつてこのごろの学校は、高級アパートみたいな外見を
とりたがるのかわからない。冷暖房装置などは以てのほかで、少なくとも中学校以上は、暖房装置も撤去すべきである。
かじかんだ手でノートをとるといふあのストイックな向学心の思ひ出を、これからの子どもはもう持たなく
なるのではないか。
…何事にも感覚的享受しかできない少年期には、「精神」に接するにも感覚的実感が要るのだ。その「精神」の
感覚的実感とは、要するに「非物質的感覚」であつて、寒さであり、オンボロ校舎であり、風の音であり、
たよるもののない感じであり、すべて眠たくなるやうな「生活の快適さ」と反対なものである。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

30 :
私は、一流商社のやうなツルツルした校舎へ毎朝吸込まれてゆく学生たちが、数年後サラリーマンとして又もや
ツルツルした大ビルディングへ毎朝吸込まれていくことを考へると、その一生が気の毒になる。オンボロ校舎の
精神的風格などを一生知らずに、ツルツルした表紙の週刊誌ばかり読み、団地生活をつづけてゆく人間が
かうして出来上がる。政府は政令を発して、学校建築に制約を加へるべきではないか。(中略)
こんなことを言つてゐるうちに、すべてはノスタルジアに彩られ、日清戦争の思ひ出話みたいになつて来たから、
ここらで筆を擱くことにする。
最後に、まじめな私見を言ふと、硬教育の復活もさることながら、現代の教育で絶対にまちがつてゐることが
一つある。それは古典主義教育の完全放棄である。
古典の暗誦は、決して捨ててはならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。
ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、
即刻復活すべし。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

31 :
女の声でもあんまり甲高いキンキン声は私はきらひだ。あれをきいてゐると、健康によくない。声に翳りがほしい。
いはばかあーつと照りつけたコンクリートの日向のやうな声はたまらないが、風が吹くたびに木かげと日向が
一瞬入れかはる。さういふしづかな、あまり鬱蒼と濃くない木影のやうな声が私は好きだ。
寒気のするもの天中軒雲月の声、バスガールの声、活動小屋の幕間放送の声、街頭の広告放送の声。
燻(くす)んだチョコレートいろの声も私は好きだ。さういふとむやみにむつかしくきこえるが、そこらで
自分の声をちつとも美しくないと思ひ込んでゐる女性のなかに、時折かういふ声を発見して、美しいなと
思ふことがある。(中略)
時と場合によつては、女の一言二言の声のひびきが、男の心境に重大な変化をもたらす。電話のむかうの声の
たゆたひが、男に多大の決心を強ひる。「まあ」といふ一言の千差万別!
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より

32 :
声が何かの加減で嗄れてゐて、大事な場合の「まあ」が濁つてしまふことがあつても、それをごまかす小さな咳の
可愛らしさが、電話のむかうのつつましい女の様子をありありと
思ひ描かせることがある。
いくら声のいい人でも立てつづけに喋りちらされてはたまらない。そこで問題はおのづと声と言葉の関係に移る。
私はおしやべりな人は本当にきらひだ。自分がおしやべりだから、その反映を相手に見るやうな気持がして
きらひなのかとも思ふが、いくら私がおしやべりでも私は女のおしやべりには絶対にかなはない。(中略)
女のタイプライターのやうなお喋りがはじまると、私は目の前に女性といふ不可解な機械が立ちふさがるのを感じる。
尤も、友達として話相手になれるやうな女性は、大ていおしやべりであるし、教養があつてしかもおしやべりで
ない女など、まづ三十以下ではゐないと言つていい。黙りがちの女性はいかにも優雅にみえるが、ともすると
細雪のきあんちやんのやうな薄馬鹿である。
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より

33 :
女はゆたかな感情の間を持つて、とぎれとぎれに、すこし沈んだ抑揚で、しかもギラギラしない明るさ賑やかさ
快活さの裏付けをもつて、大して意味のない、それでゐて気のきいた話し方をするやうな女がいい。批判、皮肉、
諷刺、かうした話題が女の口から洩れる時ほど、女が美しくみえなくなる時はない。痛烈骨を刺す諷刺なんてものは、
男に委せておけばいい。(中略)
私は妙にあの「ことよ」といふ言葉づかひが好きだ。口の中で小さな可愛らしい踵を踏むやうに、「ことよ」と
早口でいふのが本格である。私がやたらむしやらこの用法に接するやうになつたのは、亡妹が聖心女子学院に
ゐた時からで、聖心では何でもかんでも、行住座臥すべて「ことよ」である。
「そんなこと知らないことよ」
「そこまで行つてさしあげることよ」
「いいことよ」…(中略)
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より

34 :
女の言葉づかひだけはどんな世の中になったても女らしくあつてほしい。襖ごしに、カアテンごしにきこえる
姉妹の対話、女の友達同志の対話、それを耳にしただけで女の世界のふしぎな豊かさ美しさ柔らかさ和やかさ
滑らかさ温かさが、女の世界の馥郁(ふくいく)たる香りが感じられるのでなければ、男どもは生きてゐることが
つまらない。襖ごしにこんな会話がきこえてきたら、世をはかなみたくなるではないか。
「さういふ実際的問題とは問題が別よ。もつと全宇宙的な……」
「さうよ。あんたの主張は理解できるわよ。しかし、何といふかなあ、さういふデリケートな
感覚的な没論理的な主張は……」
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より

35 :
子供はよもや鯉幟(こひのぼり)を、形やデザインの面白さといふふうには見まい。小学校では五月の図画の時間に、
よく鯉幟の絵を描かされるが、子供の描く鯉幟はいづれも概念的で、青葉若葉に埋もれた家々の屋根高く、
緋鯉と真鯉が、地面と平行に景気よく風をはらんでゐる姿である。風がなくて、ダランとした鯉幟を描く子は、
よほどの問題児であると考へてよいが、どの子も、実際は、風がなくて垂れた鯉幟を見てゐるのに、絵に描くと
さうは描かない。ある意味では、垂れた鯉はリアリズムなのであるが、子供は、物事を典型的な、あるべき姿でしか
とらへようとしないのである。それに、垂れた鯉は本当の魚ではなくて、ただの布のオモチャだといふことを、
あからさまに証明してゐる。しかし風をはらんだ鯉は、ウソと本当、象徴と現実とを兼ねて、遊泳してゐるのである。
三島由紀夫「こひのぼり」より

36 :
(中略)
インドには、ヒンズー教の一つのあらはれとして、サクティ(エネルギーの意)崇拝といふのがあつて、
エネルギーは本来女性に属するものと考へられ、その神像は大地母神カリやドゥルガである。
日本の鯉幟に象徴されてゐるエネルギーはあくまで男性の活力であつて、武士階級の思想をあはらしてゐる。
農耕民族の神話時代の日本人は、天照大神をすべてのエネルギーの源泉と考へたのであるが、武士社会の
男性中心主義が、男性的活力を、ほがらかな明るい五月の空に、尚武の象徴としてひるがへしたのは当然である。
今のやうな女性の強力な時代には、そして日本男児がこれほど衰微した時代には、鯉幟なんか廃棄されても
よささうなものであるが、これに代る女性的活力の象徴としては、まさか、パンティーをひるがへすわけには行くまい。
三島由紀夫「こひのぼり」より

37 :
女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によつてろくなものはできず、
透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。
実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、
土性骨のすわらぬ男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしき
フランスが、女に選挙権を与へるのをいつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の
何たるかを知つてゐたからである。
道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在に
しばりつけるやうな道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで
惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義はいつも女性的なものである。男性固有の
道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと曲げられた。
そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

38 :
一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。
人間的立場から固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、
男はローマ人の廉潔を失つて、ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを
女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を包んでゐる。それは道徳的目標を、
ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いてゐるからである。
これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふ
ことであつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を
理解し、その構築に手を貸し、その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性から
かういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を男性をして自ら捨てしめ、
道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと
私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

39 :
(「危険な関係」の)ヴァルモンは、女性崇拝のあらゆる言辞を最高の誠実さを以てつらね、
女の心をとろかす甘言を総動員して、さて女が一度身を任せると、敝履(へいり)の如く
捨ててかへりみない。
…女に対する最大の侮蔑は、男性の欲望の本質の中にそなはつてゐる。女ぎらひの侮蔑などに
目くじら立てる女は、そのへんがおぼこなのである。
人間の文化はこの悲しみ(omne animal post coitum triste《なべての動物はのあとに
悲し》)、この無力感と死の予感、この感情の剰余物から生れたのである。したがつて
芸術に限らず、文化そのものがもともと贅沢な存在である。芸術家の余計者意識の根源は
そこにあるので、余計者たるに悩むことは、人間たるに悩むことと同然である。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

40 :
男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。
この孤独が生産的な文化の母胎であつた。したがつて女性は、芸術ひろく文化の原体験を
味はふことができぬのである。
私は芸術家志望の女性に会ふと、女優か女声歌手になるのなら格別、女に天才といふものが
理論的にありえないといふことに、どうして気がつかないかと首をひねらざるをえない。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

41 :
息子が大きくなれば全学連にならぬかとおそれをののき、娘が大きくなれば悪い虫がつきはせぬかとひやひやする、
親の心配苦労をよそに、息子ども娘ども、
「お前の高校はが一割だつていふぜ」
「アラ、わりかしいい線行つてるわね」
などとほざき、オートバイのマフラーをはづして、市民の眠りをおどろかし、雨の日には転倒して頭の鉢を割り、
あわてた親が四輪車を買つてやれば、たちまち岸壁から海へどんぶり。山へ出かけては凍え死に、スキーへ
出かけては足を折る。身体髪膚、父母からもらつたものは一つもないかの如くである。
三島由紀夫「贋作東京二十不孝――井原西鶴」より

42 :
蔭では親のことを「あいつ」と呼び、働きのない親は出てゆけがしに扱はれ、働きのある親とは金だけのつながり。
いつも親に土産を買つてかへる今どきめづらしい孝行者と思へば、万引きの常習犯で、親が警察へ呼び出されて、
はじめてそれと知つてびつくり。これなどは罪の軽い方で、いつ息子にされるかと、枕を高くして寝られない
親もあり、こどもの持つてゐる凶器は、鉛筆削りのナイフといへども、こつそり刃引きをしておいたはうが
無難である。
日曜日も本に読みふける子は、あつといふ間にノイローゼになり、本を読まぬ子はテレビめくら。親父の代には
不良は不良でも、硬派の不良となると世間も認めたが、今は硬軟とりまぜの時代で、親の目には一向見当もつかず、
軟派とおもへばデモ隊で声を嗄らし、硬派とおもへばいつのまにやらプレイボーイとかになり下がり、娘が
「オレ」と言ひ、息子は「あのう……ぼく」と言ふ世の中。
三島由紀夫「贋作東京二十不孝――井原西鶴」より

43 :
機能主義といふと、バカに働き者らしく威勢よくきこえるけれども、その実、現代人のナマケ性にマッチして
ゐるやり方かもしれないのである。三度の食事も、コソコソと、昔なら男子禁制の台所の一隅で、リビング・
キッチンとやらのおちつかない合成樹脂の棚の上で、大いそぎですませる。さういふと働き者みたいだが、
私に言はせれば、そんなやり方は、御飯のたべ方を怠けてゐるのである。むかしの人は御飯をたべるのにも、
煩をいとはず、全身全霊をこめて作り且つ喰べた。(中略)
グッド・デザインとは、生活に対する一生けんめいな、こまごました、わづらはしい意慾と関心が薄れて来た
時代の産物である。さういふ関心をみんな機械が代用してくれる時代の産物である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より

44 :
ところで、西洋ではグッド・デザインも意味があるので、ルイ式の家具調度や、曾祖母ゆづりの食器一式に
飽きた人たちが、かういふ簡素なデザインに魅力を感じる意味もわかる。古くさい家具や食器に対する、
離れがたいなつかしさと同時に、不便な憎たらしさがつのつてくると、新デザインの家具や食器がほしくなるのも
わかる。はるかに快適で、便利で、使ひよい。明るく清潔で、手入れも面倒でない。
しかし日本では、そこらへんが微妙である。日本の家ほど機能主義的な家はないので、一間が寝室にも客間にも
居間にも茶の間にもなる。ナイフやフォークやスプーンの代りに、箸が二本あれば足りる。襖は、壁とドアを
兼用してゐる。作りつけのベッドの代りに、ふとんがあり、くたびれたらタタミの上へぢかに寝ころぶことも
できる。……機能主義やグッド・デザインの狙ひはとつくに卒業してゐるので、日本における西洋風とは、
最新のモダン・リビング、最新のグッド・デザインでも、旧来の日本風よりいくらか反機能的な生活形態を
いとなむことに他ならない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より

45 :
(中略)
日本人は、様式の統一といふことをやかましく云はない。スキヤ建築の座敷にテレビを置くなら、どうしても、
紫檀か何かの箱でなくちや納まらない箸だし、芸者屋の茶の間にテレビを置くなら、ツゲの箱かなんかでなくては
をかしいのに、平気で新式デザインのテレビを置いてゐる。日本座敷の縁側に、パイプを折り曲げた椅子なんかを
置いてゐる。かういふ様式無視は、明治以来の日本人の美意識欠如と進取の気象をよくあらはしてゐる。(中略)
(グッド・デザインは)あくまで商業的成功であつて、「革命」ではないのである。グッド・デザインの
販路拡大を、「革命」だと思つてるデザイナーがゐたら、よほど考へが甘いのである。何もないところを
占領するのは革命ではありません。
その上、その商業主義的成功は誤解を生む。西洋式生活は簡便で安いといふ誤解である。こんな誤解は戦前には
なかつた。あきらかにアメリカ占領後の現象である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より

46 :
西洋人の生活は、見かけ以上にしきたりに縛られてゐる。その点では日本以上である。その上、生活における
様式の統一といふことを重んじる。手術室のメスみたいなナイフを使はうと思へば、まづ家全体を手術室風に
デザインしなければならん。コタツに足をつつこんで、メス式ナイフで、トンカツをちよん切るなんて器用な
ことは、西洋人にはできない。(中略)
貧乏して裏長屋に住んでゐる詩人が、タバコだけは英国タバコを吸ふ。これが日本式ゼイタクであり、西洋への
あこがれといふダンディズムである。裏長屋ならシンセイを吸ふはうが、様式的統一に忠実であり、かつ
美的であるといふことが、どうしてもわからないのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より

47 :
test

48 :
現代の若い人たちの特徴として、欲望の充足そのものをあまり重要なものとしてゐないのではないかと僕は思ふ。
それは欲望を充足してから後に、いつも「たしかこれだけではないはずだ」といふやうな飢餓の気持に襲はれて、
その感じの方が欲望の充足といふことよりも強く来てしまふんです。女の人に関しては、まだまだ欲望の
充足といふことは大問題かもしれないけれども、若い男にとつては欲望の充足だけが人生の大問題であるなんて
ことは、ほとんどないんぢやないかと思ふ。(中略)
今はさういふもの(性欲の満足)に対して、あまりにも近道が発達してゐるものだから、人間のかなり大事な
一つの仕事である生殖作用が、だんだん軽くなつてゐる。その一つの現はれがペッティングなどといふことに
なるんだけれども、これからますますかういふ傾向がひどくなるんぢやないかと思ふ。その結果、若い人たちの
性欲以外のいろいろな欲望に対する追求も、だんだんとねばりがなくなり、非常にニヒリスティックになる
といふことは言へると思ふ。
三島由紀夫「欲望の充足について」より

49 :
たとへば明治時代の立身出世主義のやうに一つの公認されてゐる社会的欲望が、大多数の人たちを動かして
ゐた時代もあるわけです。さうすると、社会的欲望の充足が、だれが見ても間違ひのない社会における完全な
勝利になる。さういふ時代には、あらゆる条件がそれに伴つて動いてゐたと思ふんです。たとへば上昇期の
資本主義の時代、さうして日本が近代国家として統一されて、まだ間もない時代、しかも恋愛の自由がまだ
完全にない時代――もちろんプロスティチュートはたくさんゐたし、さういふことの満足は幾らでも得られた
けれども、普通の恋愛がまだ非常に困難であつた時代、従つてたとひ男がプロスティチュートを買つても、
精神的に非常にストイックだつた時代、さういふ頃には、欲望の充足といふことは、みんな一つの大きな方向に
向つた大事業だつたといつていいと思ふ。だからさういふ立身出世主義みたいな世俗的なものの裏返しとしては、
あの時代は理想主義の時代だつたとも言へるかもしれない。
三島由紀夫「欲望の充足について」より

50 :
けれども今の時代は、普通の若い人たちの間で、必ずしもプロスティチュートでなくても、欲望の充足が非常に
簡単になつて来てゐる。その簡単になつて来たといふ背後には、逆にどうやつてもいろいろな社会的な欲望の
充足が困難になつて来たといふ事情も入つてゐると思ふ。たとへば今学校で子供たちに、将来何になりたいかと
聞いたならば、大臣になりたいなどといふ子供はあまりゐないだらうし、大将などはなくなつてしまつた
やうなものだし、みんなのなりたいものは、プロ野球の選手だとか映画俳優くらゐしかなくなつてしまつた。
さうして社会が一種の袋小路に入つてゐて、未来の日本の希望といふものもあまり見られないし、社会そのものが
今発展期にないといふことが、非常に概念的な言ひ方だけれども、簡単に欲望が満足させられてしまふ悲しさ、
空虚感に、ますます拍車をかけてゐるといふ感じがする。
三島由紀夫「欲望の充足について」より

51 :
そこで欲望の充足といふことは、ほかの項目にある刺激飢餓といふことに、すぐ引つかかつて来る。
ヒロポンとかパRとか麻雀とかに対する狂熱的な欲望も、みんなさういふところに入つて来ると思ふのです。
だから性欲なら性欲といふことを一つ考へても、それにいろいろな条件がからんで来るので、もし性欲が非常に
簡単に満足されるとすれば、何も性欲である必要はないんです。それはある場合においては賭事であつてもいいし、
目先の小さな刺激であつてもいいし、何でもいいわけです。つまり一つの欲望が非常に大事であるといふことに
なれば、ほかの欲望もみんな大事であると言へると思ふ。もし性欲の満足が非常に大事な問題であれば、ほかの
欲望もそれぞれ人生の中での大問題になる。一つの欲望の充足がくだらぬことになつてしまへば、ほかもみんな
くだらなくなつてしまふ。
三島由紀夫「欲望の充足について」より

52 :
それが両方から鏡のやうに相投射してゐるから、何も女の子を追つかけなくても、ヒロポンを打つてゐれば
いいといふことになる。さうしてヒロポンがこはいといふ人は麻雀をやつてゐればいいといふことになる。
さういふ点から見てみると、案外今の若い人には――それは新聞や雑誌の言ふやうに性道徳が乱れて
めちやくちやになつてゐるといふ部分もあるでせうけれども、一部分には何だか全然何も考へないでパR
ばかりやつてゐて女の子とつき合ふこともない。ヒロポンなんか少し甚だしいけれども、一方では女の子と
ちつともつき合はないで麻雀ばかりやつて、うたた青春を過してゐるのも多いんぢやないか。従つてすべてに
欲望がなくなつた時代とも言へるんぢやないかと思ふ。
(談)
三島由紀夫「欲望の充足について」より

53 :
人間の恋愛は動物の恋愛と違つて、みな歴史、社会、環境、いろいろなものに制約されて
ゐるわけです。われわれが一つ恋愛をすると、その恋愛の中に全人類の歴史、全人類の
文化が反映してゐるのです。これは、われわれといふ存在が、ちやうど歴史の一端に
大ぜいの先祖と、大ぜいの文化の趨勢の上に生まれてきたのと同じに、今あなたないし
私のする恋愛も、決してひとりでまるで天から落ちかかつてくる隕石のやうに、恋愛が
始まるといふものではなく、みな何ものかに規約されてゐるといふことができます。
日本人の一番健康な恋愛らしきものが描かれてゐるのは「万葉集」ですが、「万葉集」の
恋といふのは、このヨーロッパ、ギリシャのやうな、哲学的背景を持つた恋愛ではありません。
ただ古い民族のすなほな肉体的欲望が、日本人のやさしい心持ちとか、繊細な生活感情の中に
溶け込んで、そこに、美しい別離の情とか、恋人に久しぶりに会つた喜びとか、
さういふものが素朴に、しかし正直に述べられてゐます。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

54 :
「源氏物語」の「もののあはれ」といふ大きな主題、この「もののあはれ」の中には、
いろいろ仏教的な考へもないわけではないのですが、根本的には、日本人が恋愛をただ
感情の形でだけ浄化してきた、その一つの完成した形が見られます。
概して少年期には、年上の異性を愛するやうになります。
われわれは皆、好ききらひがあつて、どんな美人でも、ある人にとつては、ちつとも
魅力のない場合があり、どんな醜女でも、ある人の目から見ると、非常に魅力的な場合があるのです。
恋愛の嗜好といふのは、実は、だれでも先天的に持つてゐるものではないので、ある人に
とつては母親のイメージがあり、ある人にとつては、早く死んだお姉さんのイメージがある。
しかし異性のイメージはその人個人のみでなく、祖先から民族全体から、どこかに深く
積み重ねられたものがあつて、それがその人の心の中に出てくるといふことが言へるのです。
つまり、何かその原形がある。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

55 :
人生が、自分のよい意図、正しい意図、美しい意図だけでは、どうにもならないといふことを
学んで、それに絶望して、だめになつてしまふ人は、人間としても伸びて行けない人だと
いはなければならない。それからまた、それですべてをあきらめてしまつて、自堕落に
一生を送らうといふ人、これはまた、人間としてゼロだといはなければならない。
ですから、けつきよく、人間が成長する途上で初恋の幻滅に会つても、それに打ちひしがれないで、
なほ積極的な態度で人生に向つていくといふ力強さ、さういふものが、試金石としての
初恋の値打だらうと思ひます。
恋愛は、相手の当人を特別な存在に見せ、たとひ、人から見て値打のないものでも、
自分にとつて世界中でかへがたいものに見せる心の働きです。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

56 :
情熱は、人間の心の中で一番崇高な、一番価値のある感情で、情熱があればこそ人間は
生きていくかひがある。
私は恋愛といふものを、プルーストのやうに悲観的には考へてをりません。なぜなら、
恋愛が錯覚であるならば、人生も錯覚であるし、一人の女をあるひは一人の男を美しいと
思つて恋することは、人間が自分の仕事を美しいと思つて、それを熱愛して、一つの仕事を
完成するのと同じことです。
恋愛中には、恋人はお互ひに愛し合つた上でも、やはり千変万化の働きをしなければならない。
なぞのない恋人は魅力を失つてしまふのです。それはわれわれの幻想を描く力を失はせて
しまふからです。
人間同士の信頼感といふものは、恋愛のほんたうの要素ではありません。信頼感ならば、
友だち同士の友情の方が強いでせうし、また、長いこと連れ合つた夫婦の間の愛情も、
信頼感といふ点では恋愛よりずつと強いのです。恋愛は結局、わからないことがどこかに
ひそんでゐなければならない。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

57 :
人間には心があるから、心で証拠を求めようとしても、からだで求められない。からだで
求めようとしても、心で求められない。かういふ、人間独特の分裂状態から、恋愛が
生まれてくる。それが、人間的なものの一つの特徴になるのであります。
そして情熱の法則は、自分で自分を裏切るといふふうに傾くもので、理性の法則とはまるで
違つてゐます。ですから、うそもうそでなくなる。真実も真実ではなくなつてしまふわけです。
よく、結婚したときに夫に向つて、自分の過去の恋人のことを全部告白してしまふ奥さんが
ありますが、これが誠実といふものかどうかは疑はしい。それによつて夫は、いつまでも
悩むことになるでせうし、彼女は、自分に誠実であつたことによつて、実は自分にだけ
誠実であつたことになるのです。すべて人間の愛の感情では、自分だけ誠実であるといふことが、
必ずしもその恋愛に誠実であるといふことにはならないといふ皮肉な法則があります。
…誠実さとは結局、自分の真心を押しつけることではなくて、むしろ自分を捨てて
相手のためを思ふことであり、そのためには、うそも誠実になつてくるのです。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

58 :
生まれつき同性愛の人はゐない。なぜかといふと、性ホルモンと同性愛とは関係がないことが
わかつてきて、女性ホルモンの多い女性も十分同性愛になり得るし、女性ホルモンの
少ない女性も十分異性愛になり得る。そして、女らしい女性でも、同性愛に陥るし、
ごく生理的に男らしい男でも同性愛に陥ります。結局、フロイドが述べてゐるところの
心理的な、いろいろな錯綜から生じた一種の病気であつて、その原因に、快感が加はると、
その快感を習慣的に追ふことによつて、だんだん深みに落ちていくといふふうにいはれてゐます。
あくまでも同性愛のほかに広い世界があるといふことを忘れないで、育つていくことが
大事だと思います。若くてさういふ世界に誘惑された少年少女は、それだけが全世界だと
思ひがちですが、人生には、もつと広い世界があるといふことを忘れなければ、必ず
その広い世界へまた出ていくことができるのです。さう言ふと、私は何も解決を与へてない
やうですが、同性愛は、すべて心理的な原因ですから、心理的に自分で解決していくことです。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

59 :
私の思ふのに、もし同性愛に対して欲求を持つた青少年がゐるならば、初めは思ふ存分
それに向つて突進したらいいでせう。
自分が自分の欲望を追求して、その欲望を突き抜けて、人生に対して同性愛といふものも
あるんだといふやうなのどかな気持で、もう一度自分を客観的に見るやうな余裕が持てる
ところまでいかなければ、どんな医者がどう言つても無理だと思ふのです。そして今
一般的には根治しがたい、不治の病のやうにいはれてゐる精神病の中でも、一番治しにくいのが
同性愛であつて、なぜならば、それは快感を伴ふから治りにくいのだといはれてゐるのですが、
さういふこととは別に、女性ならば女性であるといふ誇りを、男性ならば自分が男性である
といふ誇りを、いつでも持つてゐれば、決してゆがめられた、グロテスクな同性愛の底に
沈んでしまふといふことはあり得ないと思ひます。そして自分の本来の性の誇りが、
自然に彼を引き戻すであらうと私は思ひます。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

60 :
人間は生まれてから年をとるまで、いつも嫉妬と親しい関係にあります。
嫉妬は必ず、ある瞬間にもせよ、負けた側の人間に生じるものであります。
嫉妬は愛の表現ではあるが、しかしむづかしい言ひ方をすると、愛するといふことの不可能の
表現だとも言へると思ひます。
盲腸炎にかかつた人でなければ盲腸といふものの痛みもわからない。また歯が痛んだことの
ある人でなければ、歯の痛みもわからない。それと同時に、嫉妬の苦しみも、自分が一度
味はつたことのある人でなければ、決してわからないのであります。
美しい愛情はやはり情熱と理性とが適当に折れあつてゐなければならない。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

61 :
恋愛は完全に健康なもの、そして円満な人格、欠点のない人がら、さういふことものを
見きはめて愛するものではありません。結局、欠点を愛することになるのが恋愛の一般の
法則であり、その欠点ないし弱味は、ともすると人の同情をそそる形で現はれます。
相手の同情をよぶことが何かの効き目を持つのは根本法則ですが、相手に自分の与へてゐる
魅力がまづなければならない。魅力のないところに同情を持ちかけても、何もなりません。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

62 :
性的な幻滅とか、性的な荒廃とか不良化とか堕落とかいふものは、実は、性そのものに
関する無知ではなくて、私には人間そのものに関する無知と、よく現代の社会の構造を
見きはめないといふ無知からくるもののやうに思はれる。
なぜ現代社会であんなに早く人間が動物的に成熟しながらも、結婚がだんだんおくれていく
傾向にあるか、これは現代社会の矛盾ですがしやうがない矛盾なのです。つまり性的結合は、
経済的独立が伴はなければ社会の公然たるものとして認められない。これが現代社会の
一つの鉄則と言つていいものです。もし経済的独立が伴はないで性的結合が行はれれば、
必ずそこにいろいろな不調和が生じる。そして無理に無理が重なつて、堕落と、おそらく
犯罪が待ちかまへてゐることになります。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

63 :
男の秘訣は、女に対しては、からだの交渉を持つまでは、決して女の欲望を認めてはいけない
といふことです。あたかも、相手には欲望がないやうに、ふるまはなければなりません。
それは、女性の羞恥心を、悪く刺激することになるからです。少なくとも、は自分の
欲望を認められることを、大へんきらふものです。
世間には浮気を浮気としてやれる人と、本気でなくてはやれない人とがあります。そして
それは、必ずしも前者が不まじめな人間で、後者がまじめな人間だとは限りません。後者の中には、三人でも四人でも同時に愛するといふ
離れわざのできる人間もあるからです。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

64 :
日劇のストリップ・ショウの特別席は、大てい外人の観光客で占められてゐるが、鬼をも
とりひしぐ顔つきの老婆と居並んで、ぽかんと口をあけてストリップを見てゐる老紳士ほど、
哀れな感じのするものはない。ああいふのを見ると、私はいつも、西洋人の夫婦を
支配してゐる或る「性の苛烈さ」を感じてしまふのである。尤も御当人の身にしてみれば、
鬼のごとき老妻に首根つこをつかまへられながらストリップを見るといふ、一種の
醍醐味があるのかもしれない。
三島由紀夫「西洋人の夫婦」より
男性は、安楽を100パーセント好きになれない動物だ。また、なつてはいけないのが男である。
裏切りは、かならずしも悪人と善人のあひだでおこるとはかぎらない。
世間ではどんなに英雄的に見える男でも、家庭では甲羅ぼしをするカメのやうなものである。
“男性を偶像化すべからず”職場での彼、デート中の彼から70%以上の魅力を
差し引いたものが、家庭での彼の姿。
三島由紀夫「あなたは現在の恋人と結婚しますか?」より

65 :
「BL作品の氾濫は少子化の原因。児童ポルノとは別枠で小説も含めた厳しい規制が必要」
「ゲーム脳」の提唱者・森昭雄日大教授の新著「ボーイズラブ亡国論」(産経新聞社刊)
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news2/1221494175/

66 :
男のおしやれがはやつて、男性化粧品がよく売れ、床屋でマニキュアさせる男がふえた、といふことだが、
男が柔弱になるのは泰平の世の常であつて、大正時代にもポンペアン・クリームなどといふものを頬に塗つて、
薄化粧する男が多かつたし、江戸時代の春信の浮世絵なんかを見れば、男と女がまるで見分けがつかぬやうに
描かれてゐる。男が手や爪の美容に気をつかふのは、スペインの貴族の習慣で、そこでは手の美しい男で
なければ、女にもてなかつた。
私はこんな風潮一切がまちがつてゐると考へる人間である。男は粗衣によつてはじめて男性美を発揮できる。
ボロを着せてみて、はじめて男の値打がわかる、といふのが、男のおしやれの基本だと考へてゐる。
三島由紀夫「男のおしやれ」より

67 :
といふのは、男の魅力はあくまで剛健素朴にあるのであつて、それを引立たせるおしやれは、ボロであつても、
華美であつても、あくまで同じ値打同じ効果をもたらさなければならぬ。指環ひとつをとつてみても、節くれ
立つた、毛むくぢやらの指をしてゐてこそ、男の指環も引立つのだが、東洋人特有のスンナリした指の男が、
指環をはめてゐれば、いやらしいだけだ。
多少我田引水だが、日本の男のもつとも美しい服装は、剣道着だと私は考へてゐる。これこそ、素朴であつて、
しかも華美を兼ねてゐる。学生服をイカさない、といふのも、一部デザイナーの柔弱な偏見であつて、学生服が
ピタリと似合ふ学生でなければ、学生の値打はない。あれも素朴にして華美なる服装である。背広なんか犬に
喰はれてしまへ。世の中にこんなにみにくい、あほらしい服はない。商人服をありがたがつて着てゐる情ない
世界的風潮よ。タキシードも犬に喰はれてしまへ。私はタキシードの似合ふ日本人といふものを、ただの一人も
見たことがないのである。
三島由紀夫「男のおしやれ」より

68 :
少年期の特長は残酷さです。どんなにセンチメンタルにみえる少年にも、植物的な
残酷さがそなはつてゐる。少女も残酷です。やさしさといふものは、大人のずるさと
一緒にしか成長しないものです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 教師を内心バカにすべし」より
ワシントンは子供心に、ウソをついた場合のイヤな気持まで知つてゐたので、正直に
白状したのかもしれません。たいてい勇気ある行動といふものは、別の或るものへの
怖れから来てゐるもので、全然恐怖心のない人には、勇気の生れる余地がなくて、
さういふ人はただ無茶をやつてのけるだけの話です。
三島由紀夫「不道徳教育講座 大いにウソをつくべし」より

69 :
お節介は人生の衛生術の一つです。
お節介焼きには、一つの長所があつて、「人をいやがらせて、自らたのしむ」ことができ、
しかも万古不易の正義感に乗つかつて、それを安全に行使することができるのです。
人をいつもいやがらせて、自分は少しも傷つかないといふ人の人生は永遠にバラ色です。
なぜならお節介や忠告は、もつとも不道徳な快楽の一つだからです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 うんとお節介を焼くべし」より
現代では何かスキャンダルを餌にして太らない光栄といふものはほとんどありません。
世間には、外貌と内側の全然一致しない人もある。
三島由紀夫「不道徳教育講座 醜聞を利用すべし」より

70 :
友人を裏切らないと、家来にされてしまふといふ場合が往々にしてある。大へん永つづきした
美しい友情などといふやつを、よくしらべてみると、一方が主人で一方が家来のことが多い。
三島由紀夫「不道徳教育講座 友人を裏切るべし」より
世間で謙遜な人とほめられてゐるのはたいてい犠牲者です。
己惚れ屋にとつては、他人はみんな、自分の己惚れのための餌なのです。
恋愛から己惚れを差引いたら、どんなに味気ないものになつてしまふことでせう。
三島由紀夫「不道徳教育講座 できるだけ己惚れよ」より

71 :
どうでもいいことは流行に従ふべきで、流行とは、「どうでもいいものだ」ともいへませう。
流行は無邪気なほどよく、「考へない」流行ほど本当の流行なのです。白痴的、痴呆的流行ほど、
あとになつて、その時代の、美しい色彩となつて残るのである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 流行に従ふべし」より
世間に尽きない誤解は、
「人そのもの」と、
「つちまへと叫ぶこと」
と、この二つのものの間に、ただ程度の差しか見ないことで、そこには実は非常な質の
相違がある。
三島由紀夫「不道徳教育講座 『つちまへ』と叫ぶべし」より

72 :
洋食作法を知つてゐたつて、別段品性や思想が向上するわけはないのです。
エチケットなどといふものは、俗の俗なるもので、その人の偉さとは何の関係もないのである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸ふべし」より
全く自力でやつたと思つたことでも、自らそれと知らずに誰かを利用して成功したのであり、
誰にも身を売らないつもりでも、それと知らずに身を売つてゐるのが、現代社会といふものです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 美人の妹を利用すべし」より

73 :
男といふものは、もし相手の女が、彼の肉体だけを求めてゐたのだとわかると、一等自尊心を
鼓舞されて、大得意になるといふ妙なケダモノであります。
女の人が自分の体に対して抱いてゐる考へは、男とはよほどちがふらしい。その房、
そのウェイスト、その脚の魅力は、すべて「女たること」の展覧会みたいなものである。
美しければ美しいほど、彼女はそれを自分個人に属するものと考へず、何かますます
普遍的な、女一般に属するものと考へる。この点で、どんなに化粧に身をやつし、どんなに
鏡を眺めて暮しても、女は本質的にナルシスにはならない。ギリシアのナルシスは男であります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 痴漢を歓迎すべし」より
人に恩を施すときは、小川に花を流すやうに施すべきで、施されたはうも、淡々と
忘れるべきである。これこそ君子(くんし)の交はりといふものだ。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人の恩は忘れるべし」より

74 :
若いくせにひたすら平和主義に沈潜したりしてゐるのは、たいてい失恋常習者である。
およそ自慢のなかで、喧嘩自慢ほど罪のないものはない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 喧嘩の自慢をすべし」より
「洗練された紳士」といふ種族は、必ず不道徳でありますから、お世辞の大家であつて、
「人間の真実」とか「人生の真相」とかいふものは、めつたに持ち出してはいけないものだ、
といふことを知つてゐます。ダイアモンドの首飾などを持つてゐる貴婦人は、そのオリジナルは
銀行にあづけ、寸分たがはぬ硝子玉のコピイを首にかけて出かけるのが慣例です。
人生の真実もこれと同じで、本物が必要になるのは十年にいつぺんか二十年にいつぺんぐらい。
あとはニセモノで通用するのです。それが世の中といふもので、しよつちゆう火の玉を抱いて
突進してゐては、自分がヤケドするばかりである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 空お世話を並べるべし」より

75 :
男と女の一等厄介なちがひは、男にとつては精神と肉体がはつきり区別して意識されてゐるのに、
女にとつては精神と肉体がどこまで行つてもまざり合つてゐることである。
女性の最も高い精神も、最も低い精神も、いづれも肉体と不即不離の関係に立つ点で、
男の精神とはつきりちがつてゐる。いや、精神だの肉体だのといふ区別は、男だけの
問題なのであつて、女にとつては、それは一つものなのだ。
五百人の男と交はつた女は、心をも切り売りした哀れな娼婦になり、五百人の女と
交はつた男は、単なる放蕩者に止(とど)まつて、精神の領域では立派な尊敬すべき
男であるといふ事態も起り得る。
三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より

76 :
精神と肉体をどうしても分けることのできない女性の特有そのものを、仮に「罪」と
呼んだと考へればよい。そして一等厄介なことは、女性の最高の美徳も、最低の悪徳も、
この同じ宿命、同じ罪、同じ根から出てゐて、結局同じ形式をとるといふことです。
崇高な母性愛も、良人に対する献身的な美しい愛も、……それから「よろめき」も、
御用聞きとの高笑いも、……みんな同じ宿命から出てゐるといふところに、女性の
女性たる所以があります。
虚栄心、自尊心、独占欲、男性たることの対社会的プライド、男性としての能力に関する自負、
……かういふものはみんな社会的性質を帯びてゐて、これがみんな根こそぎにされた悩みが、
男の嫉妬を形づくります。男の嫉妬の本当のギリギリのところは、体面を傷つけられた
怒りだと断言してもよろしい。
三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より

77 :
戦争も大事件も、必ずしも高尚な動機や思想的対立から起るのではなく、ほんのちよつとした
まちがひから、十分起りうるのです。そして大思想や大哲学は、概して大した事件も
ひきおこさずに、カビが生えたまま死んでしまひます。
運命はその重大な主題を、実につまらない小さいものにおしかぶせてゐる場合があります。
そしてわれわれは、あとになつてみなければ、小さな落度が重大な結果につながつてゐたか
どうかを知ることができません。
人間の意志のはたらかないところで起る小さなまちがひが、やがては人間とその一生を
支配するといふふしぎは、本当は罪や悪や不道徳よりも、本質的におそろしい問題なのであります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 0の恐怖」より

78 :
死者に対する賞賛には、何か冷酷な非人間的なものがあります。死者に対する悪口は、
これに反して、いかにも人間的です。悪口は死者の思ひ出を、いつまでも生きてゐる人間の
間に温めておくからです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 死後に悪口を言ふべし」より
ケチな人と附合つて安心なのは、かういふ人には、まづ、やたらと友だちに「金を貸してくれ」
などと持ちかけるダラシのないヤカラはゐないことです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 ケチをモットーにすべし」より
利口であらうとすることも人生のワナなら、バカであらうとすることも人生のワナであります。
そんな風に人間は「何かであらう」とすることなど、本当は出来るものではないらしい。
利口であらうとすればバカのワナに落ち込み、バカであらうとすれば利口のワナに落ち込み、
果てしもない堂々めぐりをかうしてくりかへすのが、多分人生なのでありませう。
三島由紀夫「不道徳教育講座 馬鹿は死ななきや……」より

79 :
告白癖のある友人ほどうるさいものはない。もてた話、失恋した話を長々ときかせる。
やたらと人に弱味をさらけ出す人間のことを、私は躊躇なく「無礼者」と呼びます。
それは社会的無礼であつて、われわれは自分の弱さをいやがる気持から人の長所を
みとめるのに、人も同じやうに弱いといふことを証明してくれるのは、無礼千万なのであります。
どんなに醜悪であらうと、自分の真実の姿を告白して、それによつて真実の姿をみとめてもらひ、
あはよくば真実の姿のままで愛してもらはうと考へるのは、甘い考へで、人生をなめて
かかつた考へです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 告白するなかれ」より

80 :
北欧諸国で老人の自が多いのは何が原因かね。社会保障が行き届きすぎて、老人が何も
することがなくなつて、希望を失つて自するのである。
青年男女の自といふのはママゴトのやうなもので、一種のオッチョコチョイであり、
人生に関する無智から来る。
大体、男女といふものは、色事以外は、別種類の動物であつて、興味の持ち方から何から
ちがふし、トコトンまでわかり合ふといふわけには行かないのであるから、どこへも
男女同伴夫婦同伴などといふのは、人間心理をわきまへぬ野蛮人の風習である。
三島由紀夫「不道徳教育講座 日本及び日本人をほめるべし」より

81 :
どんな功利主義者も、策謀家も、自分に何の利害関係もない他人の失敗を笑ふ瞬間には、
ひどく無邪気になり、純真になります。誰でも人の好さが丸出しになり、目は子供つぽい
光りに充たされます。
友情はすべて嘲り合ひから生れる。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人の失敗を笑ふべし」より
三千人と恋愛をした人が、一人と恋愛をした人に比べて、より多くについて知つてゐるとは
いへないのが、人生の面白味ですが、同時に、小説家のはうが読者より人生をよく知つてゐて、
人に道標を与へることができる、などといふのも完全な迷信です。小説家自身が人生に
アップアップしてゐるのであつて、それから木片につかまつて、一息ついてゐる姿が、
すなはち彼の小説を書いてゐる姿です。
三島由紀夫「不道徳教育講座 小説家を尊敬するなかれ」より

82 :
神経が疲労してゐるとき病的に性欲が昂進するのは、われわれが、経験上よく知つてゐる
ことである。これを「強烈な原始的性欲」とか、「本能の嵐」とかに見まちがへる人がゐたら、
よつぽどどうかしてゐるのである。これはむしろ本能から一等遠い状態です。
三島由紀夫「不道徳教育講座 性的ノイローゼ」より
怪力乱神は、どうもどこかに実在するらしい、といふのが私のカンである。
仕事をしてゐるときでも、ふと自分が怪力乱神の虜になつてゐると感じることがある。
しかしこの世に知性で割り切れぬことがあるのは、少しも知性の恥ではない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 お化けの季節」より

83 :
人間対人間では、いつも勝つのは、情熱を持たない側の人間です。
あるひは、より少なく情熱を持つ側の人間です。
セールスマンの秘訣は決して売りたがらぬことだと言はれてゐる。人が押売りからものを
買ひたがらぬのは、人間の本能で、敗北者に対して、敗北者の売る物に対して、
魅力を感じないからであります。
人を待たせる立場の人は、勝利者であり成功者だが、必ずしも幸福な人間とはいへない。
駅の前の待ち人たちは、欠乏による幸福といふ人間の姿を、一等よくあらはしてゐると
いへませう。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人を待たせるべし」より

84 :
いくら禿頭でも、独身の男といふものは、女性にとつて、或る可能性の権化にみえるらしい。
男にとつていかに独身のはうがトクであるかは、言ふを俟ちません。かく言ふ私でも、
結婚したとたんに、女性の読者からの手紙が激減してしまひました。
孤独感こそ男のディグニティーの根源であつて、これを失くしたら男ではないと言つてもいい。
子供が十人あらうが、女房が三人あらうが、いや、それならばますます、男は身辺に
孤独感を漂はしてゐなければならん。
…男はどこかに、孤独な岩みたいなところを持つてゐなくてはならない。
このごろは、ベタベタ自分の子供の自慢をする若い男がふえて来たが、かういふのは
どうも不潔でやりきれない。アメリカ人の風習の影響だらうが、誰にでも、やたらむしやうに
自分の子供の写真を見せたがる。かういふ男を見ると、私は、こいつは何だつて男性の威厳を
自ら失つて、人間生活に首までドップリひたつてやがるのか、と思つて腹立たしくなる。
「自分の子供が可愛い」などといふ感情はワイセツな感情であつて、人に示すべき
ものではないらしい。
三島由紀夫「不道徳教育講座 子持ちを隠すべし」より

85 :
日本も三等国か四等国か知らないが、そんなに、「どうせ私なんぞ」式外交ばかりやらないで、
たまにはゴテてみたらどうだらう。さうすることによつて、自分の何ほどかの力が
確認されるといふものであります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 何かにつけてゴテるべし」より
現代は一方から他方を見ればみんなキチガヒであり、他方から、一方を見ればみんな
キチガヒである。これが現代の特性だ。
三島由紀夫「不道徳教育講座 痴呆症と赤シャツ」より
男が持つてゐる癒やしがたいセンチメンタリズムは、いつも自分の港を持つてゐたい
といふことです。世界中の港をほつつき歩いても最後に帰つて身心を休める港は、
故里の港一つしかない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 恋人を交換すべし」より

86 :
想像力といふものは、多くは不満から生まれるものである。あるひは、退屈から生まれる
ものである。われわれが危急に際して行動に熱中し、生きることにすべての力を注いで
ゐるときには、想像力の余地をほとんど持つことがない。もし、想像力がノイローゼの
原因になるとすれば、空襲にさらされた戦争中の日本は、最もノイローゼの出にくい
状況であつた。
人生といふものは、死に身をすり寄せないと、そのほんたうの力も人間の生の粘り強さも、
示すことができないといふ仕組になつてゐる。ちやうど、ダイヤモンドのかたさをためすには、
合成された硬いルビーかサファイアとすり合さなければ、ダイヤモンドであることが
証明されないやうに、生のかたさをためすには、死のかたさにぶつからなければ証明されないのかもしれない。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

87 :
泰平無事が続くと、われわれはすぐ戦乱の思ひ出を忘れてしまひ、非常の事態のときに
男がどうあるべきかといふことを忘れてしまふ。金嬉老事件は小さな地方的な事件であるが、
日本もいつかあのやうな事件の非常に拡大された形で、われわれ全部が金嬉老の人質と
同じ身の上になるかもしれないのである。
危機を考へたくないといふことは、非常に女性的な思考である。なぜならば、女は愛し、
結婚し、子供を生み、子供を育てるために平和な巣が必要だからである。平和でありたい
といふ願いは、女の中では生活の必要なのであつて、その生活の必要のためには、何ものも
犠牲にされてよいのだ。
しかし、それは男の思考ではない。危機に備へるのが男であつて、女の平和を脅かす危機が
来るときに必要なのは男の力である。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

88 :
約束や信儀は、実は快楽主義のためにさへ守らなければならないのである。なぜなら
快楽は鳥の影のやうなもので、一度われわれがそれをつかみそこねたら永遠に飛びさつて
しまふからである。
私は昔から約束を守らない女性は、どんな美人であつても嫌ひである。なぜなら私の考へでは、
どんな快楽も信儀の上に成り立つといふ考へだからである。
伝統は守らなければ自然に破壊され、そして二度とまた戻つてはこない。
外国人の目には、すべて民族的な服装は美しい。しかし美しいのと、便利とは別である。
日本人は、わりに便利といふことに弱い国民である。
服装は強ひられるところに喜びがあるのである。強制されるところに美があるのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

89 :
人間は、場合によつては、楽をすることのはうが苦しい場合がある。貧乏性に生まれた人間は、
一たび努力の義務をはづされると、とたんにキツネがおちたキツネつきのやうに、
身の扱ひに困つてしまふ。
人間の能力の百パーセントを出してゐるときに、むしろ、人間はいきいきとしてゐるといふ、
不思議な性格を持つてゐる。
社会全体のテンポが、早く走れる人間におそく走ることを要求し、おそく走る人間に早く
走ることを要求してゐるのである。
これが現代日本の社会のひづみの、おそらく根本原因である。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

90 :
音楽は生活必需品かといふと、人によつてちがふだらうが、私にとつては必ずしもさうではない。それは思考を
妨げるからだ。私には、音楽の鳴つてゐる部屋で物を考へるなど、狂気の沙汰としか思はれない。このごろの
青少年がジャズをききながら試験勉強をしてゐるのを見ると、私と別人種の感を新たにする。
では、音楽は休息の楽しみとして必要だらうか。私にとつては必ずしもさうではない。机に向かふのが仕事の私には、
休息とは、体を動かすことである。運動にはそれ自体のリズムがあつて、音楽を要しない。アメリカのジムなどで、
ムード・ミュージックを流してゐるところがあつたが、何だか運動に力が入らなくて困つた。
では、私にとつて音楽とは何なのだらうか。それは生活必需品でもなければ、休息の楽しみでもない。それは
誘惑なのである。
三島由紀夫「誘惑――音楽のとびら」より

91 :
むかし米軍占領時代に、家から三丁ばかり離れた大きな邸が接収されてゐて、週末といふと舞踏会が催ほされる
らしく、夜風に乗つてダンス音楽がかすかに流れてきて、食糧難時代の新米文士の仕事を攪乱したものだつた。
しかし、その音楽には、今そこにないものへの強烈な誘惑があつた。「今そこにないもの」を、音楽ほど強烈に
暗示し、そこへ向つて人を惹き寄せるものはない。もちろんただの幻である映画だつてさうかもしれない。
が、音楽のこの誘惑の力を借りてゐない映画はきはめて稀である。
「今そこにないもの」にもピンからキリまである。ピンは天国から、キリはつまらない観光的な熱帯の小島まである。
ピンは、人間精神の絶顛から、キリは性慾の満足まである。それに従つて、音楽にもピンからキリまであるわけだが、
かう考へると、音楽は生活必需品でなくても、人生の必需品、むしろその本質的なものとも思はれる。
「今そこにないものへの誘惑」にこそ、生の本質があるからである。
三島由紀夫「誘惑――音楽のとびら」より

92 :
八巻正治。氏の学歴は以下の通りです。
【学習歴の記録】
 美幌幼稚園 卒園  美幌小学校 卒業  美幌中学校 卒業   美幌高校 卒業  ※高校は途中転入で、しかも不登校でした!
 順天堂大学  体育学部  健康教育学専攻   卒 業 ※ガンガン勉強しました!
 青山学院大学  第U文学部  教育学科  卒 業 ※幼稚園での教育実習も行いました!
 東洋大学  第U文学部  教育学科  卒 業 ※養護学校の教員免許を取得しました!
 立教大学・大学院  文学研究科:博士課程(前期)   教育学専攻  修 了 ※良き学師たちに巡り合えました!
 カリフォルニア神学大学院日本校    博士課程  キリスト教神学  修 了 ※神様の深き愛の素晴らしさを学びました!
 米ニューポート大学大学院  博士課程  教育学専攻  修 了 ※論文執筆に燃えました!--------------------------------------------------------------------------------
資       格
1973年03月19日   中学校教諭1級(千葉県教委 昭47中1普 第501号),高等学校教諭2級(昭47高2普 第427号) 教員免許状(保健体育)取得
1973年04月26日  衛生管理者免許状(第61号) 取得
1978年03月31日 養護学校教諭1級(東京都教育委員会 昭53養学1普 第132号) 教員免許状取得
1994年02月26日 『米セント・チャールズ大学(カリフォルニア神学大学院日本校:提携校)』より 『博士(宗教学)(Ph.D.)』 の学位を取得

93 :
私は別にかつての軍隊の讚美者でもなく、軍隊生活の経験も持たない身は、それについて論じる資格もないが、
大分前に、「きけ、わだつみの声」であつたか、その種の反戦映画を見て、いはん方ない反感を感じたおぼえがある。
たしかその映画では、フランス文学研究をたよりに、反戦傾向を示す学生や教師が、戦場へ狩り出され、
戦死した彼らのかたはらには、ボオドレエルだかヴェルレエヌだかの詩集の頁が、風にちぎれてゐるといふ
シーンがあつた。甚だしくバカバカしい印象が私に残つてゐる。ボオドレエルが墓の下で泣くであらう。
日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが
論理的であり、人間は結局個人として死ぬ以上、おのれの死をジャスティファイする権利をもつてゐる。
三島由紀夫「『青春監獄』の序」より

94 :
絶対的に受身の抵抗のうちに、戦死しても犬のやうにされたといふ実感を自ら抱いて、死んでゆける人間は、
稀に見る聖人にちがひない。
私はすべてこの種の特殊すぎる物語に疑ひの目を向ける。兵隊であつて文学者あつた人の書くものも、一般人を
納得させるかもしれないが、私のやうな疑ぐり深い文士を納得させない。私の読みたいのは、動物学者の書いた
狼の物語ではなく、狼自身の書いた狼の物語なのである。
狼がどんなに嘘を並べても、狼の目に映つた事実であり嘘であれば、私は信じる。私は何も礼を失して、
宮崎氏を狼呼ばはりするのではない。しかし氏の著書は、或る見地から見て、実に貴重なのである。
三島由紀夫「『青春監獄』の序」より

95 :
新聞の持つてゐる社会的正義感といふものには、ときどき反撥を感じることがある。
だれでもみづから美徳の代表者を買つて出れば、サンザンな目に会ふのが当節で、新聞だけが、何の傷も負はずに
社会的正義の代表者たりうるはずがないからである。また、いろいろと虚偽の多い時代に、新聞が、子供も
読むものだといふので、ともすると家庭ダンラン趣味、事なかれの小市民趣味に美的倫理的基準を置くのも困る。
みにくいものは、みにくいままに報道してほしい。
戦争中の大本営発表以来、新聞は一たん信用をなくしたが、こんどあんなことがあるときは、新聞はこんどこそ、
最後までグヮンばつて抵抗するだらうといふことを我々は期待してゐる。この期待を裏切らないでほしい。
某紙の新聞批判に「新聞を愛すればこそ批判するのだ」と言訳がついてゐたが、いやしくも批評をするのに、
こんな言訳を要するやうな空気がもしあるならば、それを払拭されんことをのぞむ。
三島由紀夫「ありのままの報道を――私の新聞評」より

96 :
理想的な父親の教育とは、父子相伝の技術の教育であつた。そこに父親といふものの意味があつた。漁師の父親が、
息子に、縄のなひ方から、櫓のこぎ方、網の打ち方、などをだんだんに教へてやる。時には、わざと教へないで、
息子に危険を犯させて自得させる。そして父親の死後、息子は若かりし日の父親とそつくりの、村一番の、逞しい、
熟練した漁師になる。舟を漕いで沖に向ふとき、朝焼けの空の雲一つが、人の顔のやうに見え、その顔から、
父親のきびしい、しかし温かな面影を思ひ出す。……
これが本当の父子といふものだ。しかるに都市のインテリ階級は、息子に伝へるべき技術を何も持たぬ。上役に
おべんちやらを言ふ技術なんか、息子に教へるわけには行かない。私のやうに、都市インテリ階級の家に生れて、
その上、特殊な文筆業の、決して息子に伝へることのできない一代限りの技術で生活してゐる者はどうすれば
よいのか?
三島由紀夫「わが育児論」より

97 :
事業を持つてゐれば、事業を息子に継がせるための教育といふものもあらう。しかし、私は自分の息子が文筆業者に
なることを決して望まないのである。世俗の目からは収入(みいり)のいい職業だと思はれてゐるかもしれないが、
この職業の心の地獄を私はよく知つてゐるからだ。
そこで子供には普通の市民生活への道を歩ませたいのだが、そのためには家庭の環境が特殊すぎる。大体子供が
向上心を持つには、親が適度に貧乏であることが必要なのだが、むかしの日本では、貧富を問はず、子供(殊に
男児)に贅沢をさせない気風は徹底してゐた。私は貿易自由化の今でも、学生が、高価なスイス製の腕時計を
はめてゐたり、舶来の万年筆を使つてゐたりすると、言ひやうのない不愉快な感じをもつ。しかし今の子供は
昔とちがふ。(中略)今では、収入の多い親が、ムリヤリ経済的に子供を圧迫して、自分の古い儒教的倫理観を
満足させたところで、そんな不自然なことには、子供がついて行かないのである。
三島由紀夫「わが育児論」より

98 :
私は今六歳の女児と三歳の男児を持つてゐるが、女児が生れたとき、私は父親の最低限度の教育として、三つの
言葉を教へようと骨を折つた。それは、
「こんにちは」
「ありがたう」
「ごめんなさい」
の三つである。「こんにちは」は、「おはやう」「おやすみ」「ごきげんよう」「こんばんは」「さやうなら」
等々を含み、要するに日常の挨拶である。
「ありがたう」は、社会生活の要求する最低限度の言葉で、人に
何かをしてもらつたとき、人に何かをもらつたとき、必ず言ふべき言葉である。
「ごめんなさい」は、自分があやまちを犯したとき、素直に口をついて出るべき言葉である。
この三つが、大人になつてもスラリと出ない人間は、社会生活の不適格者になる。私は口やかましくこれだけを言ひ、
子供たちはどうやら言へるやうになつたが、言はないときは忘れずに寸時を措かずにこちらから催促する。
とにかく命令して言はせるのである。
三島由紀夫「わが育児論」より

99 :
それから、テレビをみんなで眺めながら黙つて食事をするこのごろの悪習慣は、私のもつとも嫌悪するところで
あるので、どんな面白い番組があつても、食事中はテレビを消させる。私は一週一回は必ず子供たちと夕食をとるが、
多忙な生活で、それ以上食事を共にすることができない。
子供たちの就寝時間は厳格に言ひ、大人の都合で遅寝をさせるやうなことも決してせず、まして子供のわがままで
時間をおくらせることもしない。休日といへども、同様である。子供を連れて出れば、必ず、就寝時間三十分前には
帰宅する。
子供のつくウソは、卑劣な、人を陥れるやうなウソを除いては、大目に見る。子供のウソは、子供の夢と
結びついてゐるからである。
三島由紀夫「わが育児論」より

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