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2011年11月1期11: ††国士無双†† 韓信 ††背水の陣†† (820)
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††国士無双†† 韓信 ††背水の陣††
- 1 :06/10/24 〜 最終レス :11/11/12
- 漢の三傑の一人。
中国史上のみならず世界史上の名将ともいえる韓信を語りましょう!m9(*・ヮ・)
軍事的戦略能力なら中国史上一かも?
韓信についてはココ↓
http://kanso.cside.com/kanshin-top.htm
- 2 :
- 自ら2げっと(*;ヮ;*)キャハ
- 3 :
- 股くぐりの件は、戦いに際して敵の油断を誘う効果があった反面、
こんな男に降伏するのは屈辱だ、と敵に降伏を拒ませる逆効果も生んじゃったそうだね。
- 4 :
- 強過ぎて君主から妬まれ怖れられるから困る
- 5 :
- @お腹いっぱい。 :
- 6 :
- 狡兎死して良走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(おさ)められ、敵国破れて謀臣亡ぶ
- 7 :
- 正攻法はあまり得意でないようだが
奇策・奇襲のうまさは神
あと徴兵能力・治安維持・兵糧管理・情報収集能力は秀でてそうだ
- 8 :
- 韓信に関心age
- 9 :
- 流浪の身でありながらどうやって軍事の知識を学んだのか謎だ
- 10 :
- 王侯になった後の醜態はどうなんだろう?
自分を頼ってきた旧友の首を差し出す、挙句に謀略にかかって侯に落とされしかし懲りずに反乱狙ってクビチョンパというのはちょっと…
- 11 :
- 戦の天才だが政治や権力争いは苦手だったのかな
- 12 :
- >>9
軍事専門の塾があったんじゃないかな。孫子や墨子はありそうなんだが。
- 13 :
- >>9
史記によると寄宿生活をしながら学問していたそうだが
母親が死んだ際に帰らなかった事で「不孝」扱いされて破門されてる。
その後は独学か項羽軍に在籍した際に得た実戦知識を
自分なりに応用したのだろう。
- 14 :
- 匈奴相手では使い者になりそうも無かったので、劉邦もアポーンしたのだろう。
- 15 :
- 劉邦も匈奴にw
- 16 :
- 韓信らを粛清した後に匈奴に負けて「良将を得て四方を守らせたい」と嘆息した劉邦に乾杯w
(言った人が記憶違いだったらスマン)
- 17 :
- でもそんな劉邦がお茶目で可愛い
- 18 :
- やっぱカキコ少ないのう。
おいらみたいに子供に「信」のいれるぐらいファンはおらんのか
- 19 :
- 織田家の末裔の方ですかな?
- 20 :
- 肝心なところで判断を誤るのは感心せんな
- 21 :
- 韓王信・・・
- 22 :
- >>21
ややこしいよね、それ。
時代も重なるし。
- 23 :
- 韓信は
貧しい時代の自分に食を恵んでくれた老婆に大金を持って報いた
施してくれたが中途半端だった男(追い出したのは妻らしいが)には僅かな金で報いた
自分に股くぐりさせた男は、家臣にした
微妙な……
- 24 :
- 韓信って項羽軍に入るまではニートだよな
- 25 :
- >>13
それ韓信じゃなくて呉起のエピソードだろ。
- 26 :
- >>23
股くぐりさせた男には、むしろ感謝したらしいね。
あの時、反抗していたら、今の俺はなかったって。
でも、股くぐりさせた男は、いくら感謝され、家臣にされても、
生きた心地がせんわなw
- 27 :
- 趙を制圧した際に韓信の私的顧問になった李左車の消息が不明なのは
やはり韓信処刑の際に連座したのかなと勘繰って見る。
- 28 :
- 結構李左車って謎な人物だよね
独立した伝がないからはっきりしたことが分からない
- 29 :
- 韓信 統率100 武力77 知力100 政治85 魅力85
張良 統率 90 武力55 知力 98 政治96 魅力98
蕭何 統率 85 武力55 知力 91 政治98 魅力93
- 30 :
- 張良が韓信を推挙したんだっけか?
もう忘れちまった
- 31 :
- 項羽軍から投降した韓信を劉邦に推挙したのは、夏侯嬰
治粟都尉→逃亡した韓信を連れ戻し大将に推挙したのは蕭何
- 32 :
- >>24
食客じゃないかな。金持ちの家にタダ飯ぐらいの居候をさせてもらう。
ニートより質悪いな。
- 33 :
- 現在で言うニートは勤労意欲も上昇志向も無い無職を指すが
飯を恵んで貰った際に「出世したらこの恩は返す」と言っている韓信は
内心、自身の能力に相当の自信を持っていてかなりの上昇志向の持ち主だった。
だから仕官前の韓信をニートと呼ぶのは如何なものか。
- 34 :
- 出世したからいいものの、
> 内心、自身の能力に相当の自信を持っていてかなりの上昇志向の持ち主だった。
だけだったならまさに現代のニートそのもの。
世界にひとつだけの花現象っていうんだよね、確か。
- 35 :
- >>28
李左車は雹神に祀られたとどっかで聞いた。
なんで雹神なのかは不明。
- 36 :
- 背水の陣っていつの間にか言い訳の材料として使われるようになったのが不満だな
韓信の背水の陣→わざとヘタレに見せて敵を誘い込みガラ空きになった敵本陣を伏兵が突撃
吉川元春→味方を鼓舞させる為、あえて味方を窮地に追い込む
某企業社長→自分の無為無策の為にいつの間にか背水に追いつめられ
そこで自分の危機に気づきようやく必死になり始める
- 37 :
- >>29 なんだそのゲームのやりすぎ数値は
こんぐらいだろ
韓信 統率100 武力37 知力82 政治47 魅力80
張良 統率 40 武力35 知力98 政治92 魅力90
蕭何 統率 35 武力35 知力85 政治98 魅力93
韓信はそこまで頭いい訳じゃないし、陰謀や権力争いでは常に後手を踏んでる
適切なアドバイスをする人物もいたのに時代すら読めない。
自分の実績に過信しすぎる典型的な戦バカ。
指揮官としてはまさに国士無双な天才肌なのにすごいもったいない。
兵を一度も率いた事がないことが有名なまさに天才的アドバイザーの張良が
なぜに統率高いんだよW
三国の諸葛亮やらの兵を率いた現場指揮官、将軍とは立場まったく違うんだぞ
- 38 :
- >>36
現代人が使う背水の陣ってのは、中身はどちらかといえば項羽が鉅鹿で用いた
方の背水の陣に近いんよね
韓信の様に計算ずくで初めから十二分な勝算のうえに用いているのとは違うもの
- 39 :
- 韓信を独立勢力として、天下三分の計を・・・・
- 40 :
- そこが韓信は不思議なんだよね
ただの馬鹿だったら劉邦の無理難題に怒っていつか反乱したろうし
ちょっと見通しのきく奴ならやっぱり華北で独立?したよね
中途半端にぐづぐづしてたのは何なんだろうな
味方のふりして漁夫の利えようとしたにしても
- 41 :
- トップになりたくなかったんじゃないの?
技術者とか芸術家とか同じ気質。オレを認めてくれる奴についていくぜと
でも忠誠心は薄いし、他人の警戒心には鈍感だから身を保てない
- 42 :
- 韓信が匈奴と戦うはめになったら野戦を避け長城の増築にいそしんだと思う。
- 43 :
- >>41
天才的な名将だったけど他人にどう思われてるかに鈍感だったのは
源義経や大村益次郎やスキピオもだな。
天才には凡人の嫉妬心や警戒心など分からんのかもな。
- 44 :
- 源義経wwwwwwwwwwwww
- 45 :
- そして九大天王の一人
- 46 :
- >>43 弓の天才・養由基を思い出した
他の者達が何発射ても当たらなかった猿を一発でしとめた際、周りから賞賛されても
『猿を射るのはこんなにも簡単なのになぜ皆は賞賛するのだ?』と言い放ち
他の将軍との弓比べに勝った際、養将軍曰く『弓は私の方が上だが飯を食う量ではあなたに勝てない』と言い放つ
決して養将軍はイヤミや皮肉で言ったのではなく真性で
弓の上手い奴→別にその程度出来て当たり前じゃん
他の事で凄い奴→すげー。私には絶対真似できないっす。尊敬しちゃうな
と思いこんでいたから始末に負えない
- 47 :
- 養由基は将軍ではないよ
- 48 :
- >>42
長城ってどれぐらい役に立つんだ?
- 49 :
- 韓信と項羽って戦ったことないよね?
項羽の方が戦にかけては強い気がする。
- 50 :
- >>49
一度だけ、垓下で正面から戦ってる。
兵力が拮抗していた時点では項羽におされ、漢が全戦力を投入して
三倍の兵力差に達した時点で項羽が敗走。
食料・疲労などの諸々の要素を考えれば項羽の方が悪条件。
- 51 :
-
- 52 :
- 股くぐりage
- 53 :
- >>43
得てして非凡な才能を持った者はそれが世間では普通の事で皆の考えと同じと思っているからな
義経なんて正にそうだし、でも韓信は孫子を読んでたとしたら孫子は老荘の思想が入ってる筈なんだから
韜晦の術を身につけていてもおかしくない筈なのだが
陳平、張良も同僚としてアドバイスしなかったのも不思議だし・・・
- 54 :
- むしろ政治センスでしょ、これは
功績に相応しい扱いをされたい、と思うのは誰でも当然
使い捨て扱いを忍従するには却って意志の強さが邪魔になる
張良のようにそこそこ待遇で悠々暮すか、ショウカのように統一後も有用な人材として認められるか
戦場一筋の男にはちょっと縁遠い思考だったのかも
- 55 :
- 政治的センスと保身は別問題だと思うのだが・・・
現に蕭何は劉邦に危険視されてたし、かなり際どかったが召平の助言を受け悪宰相を演じる事で粛清を免れた。
張良はわざと欲の無い所を見せて警戒心を逸らせたり
本気で仙人になろうとして穀物断ちを行い呂后に止めるよう命令された。
老子の中に「功遂げ身退くは、天の道なり。」「足るを知れば辱められず、止るを知れば殆うからず。」という言葉があるが
これを張良はを実践したのである。
陳平は高祖の懐深く入り込み常に信頼を勝ち取る努力を怠らなかった。
高祖の危機を何度も救いながら全く慢らなかった。
蕭何は政治的手腕を張良、陳平は、そのプラス滔海の術を身につけていた。
韓信も知恵袋なり補佐の人間が居なかったのか?
ちなみに老荘の思想は腰抜けになれと奨めている訳ではない。
- 56 :
- 楚王韓信が鐘離昧と組んで反乱を起こすif
- 57 :
- 韓信は、統一後に国を収めた時期もあるし
統一前でも別働隊を率いていた時期も長い
それでいて、問題が起きたという話しも聞かない
特に後者は政治力がないと無理だと思うな
世渡りは下手だったかもしれないが
- 58 :
- そだね。ボーっとした顔付きで体が大きかったらしいから、
戦術家としてのみ頭が回る人で、案外体育界系で、武骨だったのかも。
- 59 :
- 良く言えば武骨で愚直、悪く言えば単純でお人好し
漢建国後、恩人である高祖に報いる為、楚で一所懸命に漢を支えようと努力するも
逆に猜疑の眼を向けられる結果になったのは韓信にとって不可思議の何物でも無かったはず。
それにしても蕭何や張良は彼に対して余りにも冷たすぎやしないだろうか?
まあ気持ちは解らなくは無いが何かもっといい対処法があったはず。
- 60 :
- 立場は逆だが宋の太祖(趙匡胤)は後周の将軍から帝位に就いた時、
「人生は白駒の隙を過ぐるが如し」と古手の将軍を説きふせ、
皆に引退する事悟らせ自分も大粛清を避ける事に成功した。
同じ戦場一筋でもちゃんと政治的センスと滔海の思想を持ってる例なのだか・・・
韓信も名声と地位を得たのだから隠居して酒でも飲んでのんびりと余生を過ごせばよかったのに。
- 61 :
- 保身の能力と政治の能力は別だろ
- 62 :
- 何処に同じなんて書いてる?
- 63 :
- 政治的センスと書いてあるが
- 64 :
- 趙匡胤が政治的センスと滔海の思想を持ってるとは書いてあるがそれが両方、同じとは書いてないぞ!!
つーかナニが言いたい訳?
- 65 :
- 韓信を引退に導けなかった劉邦を批判してるのかな
- 66 :
- ではそろそろ皆さんで、何故、韓信は、連座の罪で処刑されそうになったのか?
この謎について、このスレなりの一致した推測を出してみましょうか?
確か光輝氏は、この部分はカットしていたものと記憶しています。
- 67 :
- 周りに強敵が居なくなると今度は自分より優れた家臣が怖くなる
孫子や陶朱公そして張子房は空気を読んで政界から身を退いたが
- 68 :
- >>67
それについては、多くの作家が指摘しているように、劉邦という人間と間近で接
する機会がなかったということが、やはり大きいと思うね。
大将軍や王は、外地で大きな軍を独立して持っているから猜疑心を受けやすい。
文官や側近は、顔色や失言を見ることで危険度をはかれるが、英布、彭越、韓信
はほぼ文書や、褒美、使者からの言葉からでしか劉邦を知らなかったからね。
君主の人間をよく知ることが出来る環境にあった、という前提の下に、初めてそ
の処世術は、評価されるべきかもしれないね。
- 69 :
- >>68
陶朱公こと范蠡は勾践を「苦楽は共に出来ても観楽はともに出来ないのです」と
文種に忠告している様に優れた慧眼の持ち主。
越を密かに脱出した後、斉で商売に成功しかし范蠡の名をを聞いた斉は范蠡を宰相に迎えたいと来るが
「名が上がりすぎるのは不幸の元」と財産を全て他人に譲り陶へと移りここでも巨万の富を築いた。
年老いてからは息子に全てを譲り悠悠自適な老後を過ごした。
この様に君主の人間をよく知ることが出来る環境にあった、という前提以外に
人間の嫉妬心、己の周りの状況を的確に判断できたことで滔海に成功した例もある。
(状況の違いはあるも合い通じるものがあると思う)
それに蕭何の様に高祖の傍らに居ながら
猜疑の目を向けられても他人に警告されるまで気付かなかった例もあるので一概には言えないと思うが・・・
- 70 :
- 韓信が世情に疎いとは思えないが
- 71 :
- >>69
確かに一概には言えないね。
ただやはり、相手の顔を見て交渉することと、電話、或いはメールなどで交渉す
ることと同じくらいの差はあるのでは?
まっ、案外直に会ったほうが余計に下手を打つこともあるけどねW
- 72 :
- 蕭何に見出だされ蕭何の策に嵌まって散るなんて、なんか因果めいてるね
- 73 :
- たいていの天才は突出した分野以外は欠損しているもの。
万能の天才なぞ、過剰評価された秀才であることが多い。
- 74 :
- 力があるのに力を使わない、ということができなかった
(あるいは政治以外の所で力を使う)
最終的に反逆者になってしまったため、儒家から評価されない
この人の不幸は、この2点だと思うな
- 75 :
- 英布、彭越たちは追い詰められ謀反を起こしたが
韓信は劉邦の自分だけに対する想いは違うと思ってたんじゃない?
皇帝になると猜疑心に蝕まれるのは致し方ない病だしその辺を彼なら十分理解してたのに
身辺の配慮が少し足りなさすぎたのが淮陰侯へと降格され
行き当たりばったりな謀反につながったのかな?
結構自尊心が高いみたいだし自分への処置はに彼は耐えられなかったのだろう・・・
- 76 :
- 結局頭いいのか悪いのかわからん
- 77 :
- 戦術と政治と個人の生活は別でしょう。
頭いいと一口に言っても、全てに置いてということはないだろうからね。
- 78 :
- 中国史上最高の将軍韓信と中国史上最狂の項羽をした劉邦様こそ
中国最強のお人だな
- 79 :
- 見方を変えれば劉邦は敵と己を知ることにかけては当代一流の人だったと言えるのかも…。
武門も教養もなく経営、戦術も見出だせない自分を知っていたからこそ家臣の献策を信用し
よく用いた。
そして統一後は予期しない反乱が起きたら自分では抑えられないことを知っていたから難癖
つけて早くに粛正に走った。
自信満々で己を知らず敵を侮った項籍と自信もなく敵を或いは過剰に恐れた劉邦の勝負は、
兵法書通りの結果をもたらしたのかも…。
そして韓信は直接劉邦を見て話す機会を持たなかったが為に相手である劉邦を知ることがで
きず劉邦の小心と猜疑心を侮り信用してしまった…。
結果論からしか語れない筋書きだけどねW
- 80 :
- 韓信では国を運営していくのは無理だったかもね。
政治家とのパイプも薄そうだし…。
- 81 :
- 結局、韓信には皇帝になろうとする程の野望は無く、かといって自分の将才に絶大の自信があるが故に、樊カイや灌嬰のようにもなれず終を全う出来なかった。
やっぱ、半端な野心じゃ足元すくわれちゃうね。
- 82 :
- 後の国際警察機構・九大天王の一人である
- 83 :
- >>80
国を運営は無理ってあんた情勢が複雑で要の地、斉の国をちゃんと治めていたし
楚に封地替えになったのは理由が別だ。
>>81
灌嬰はともかく樊カイは高祖に廬綰が謀反をおこしたとき疑われされかけてるが・・・
- 84 :
- >>83
史記 淮陰侯列伝に、「絳・灌らと列するを羞ず」とか「生きてはすなわちカイらと伍をなす」みたいに、劉邦の股肱の将を侮ってる感じがあります。
司馬遷も「もし韓信をして道に謙譲を学び、おのれの功を伐(ほこ)らず、その能を矜(ほこ)らざらしむれば、庶幾(ちか)からん。
漢家において勲もって周・召・太公の徒に比し、後世、血食すべかりし。」と欠点を指摘してます。
まぁ、司馬遷の受け売りですけどね。
- 85 :
- 司馬遷は史記を私情を挟まず公正な視点で書いてますから
誉めるとこは誉めてますがどうしても韓信への後期の評価は辛口になっちゃうね。
- 86 :
- ん〜、しかし少なくとも漢の創立時代に関してはやはり皇室寄りに書いてるかも…。
- 87 :
- 韓信って若くて一兵も士気していないのに
なぜ趙括や馬謖のようにならなかったのか
本来参謀やピン将校で長年の経験をつまなければならない
武将の使い方とか戦闘開始のタイミングや戦場でのとっさの
対応だの・・・・・・やはり天性の感だったんだろうか?
- 88 :
- 確かにそれは謎つーか我々凡夫には理解出来ない領域だな。
半ばぶっつけ本番で三秦を平らげたりな。
それと才能あると見抜くっても経験全くなしな韓信をあれだけ強く推挙した夏侯瓔とかもある意味凄いわな。
- 89 :
- >なぜ趙括や馬謖のようにならなかったのか
韓信や義経は庶人階層で幼少、青年時代を過ごしたお陰で兵法の常識や戦の既成概念に捉われることがなったことが要因では?
まあ生まれ持っての才能も深く関係しているに違いないが・・・
>半ばぶっつけ本番で三秦を・・・
真の戦上手とは戦闘前の段階で既に勝敗を決しているんだよな。
韓信も当然、その部類に入ってるのさ!!
- 90 :
- 井陘の戦いは3万で川を背にして趙軍20万と戦ったことばかり強調されるけど、
別働隊が留守の城を奪われてから趙軍はオロオロしていまい勝ったけど、
あのまま損害無視で3万の韓信を攻撃し続ければ勝てたし、城なんてあとから
取り返しても・・・「川を背」というは敵の城を奪うための陽動と言うか
敵味方へのアピールで、最初から韓信の手の上で踊っていた。
濰水の戦いとかも龍且は韓信の仕掛けた罠に飛び込んで全滅したし、
まずは救援なんだから斉王側と合流すれば韓信もうかつに手出しできないし、
じっと我慢して川やら丘陵や伏兵がいそうな場所は避けて平野での決戦を
すればよかったのに(韓信なら戦端を開かないだろうけど)
- 91 :
- >>90
陳余は李左車の献策を無視するぐらいだからそんな冷静な判断はまず出来ないだろうな・・・
龍且は韓信の事を「股夫の分際で生意気な」と
かなり侮っていたんじゃないか?
俺は他の奴らとは格が違うだぞみたな感じで。
もし、陳余、龍且が冷静かつ慎重に対処し、章邯が往年のキレを失わず、韓信を侮っていなかった場合や
斉の田横が応戦状態で迎え撃ってたらどんな戦いになっていたのだろう?
韓信もそう容易く勝てはしなかっただろうな。
- 92 :
- 趙括にせよ、韓信にせよ、馬謖にせよ、彼らの祖国は一発逆転に掛けなければならないジリ貧状態。
成功したのが韓信、失敗したのがその二人。
大失敗か大成功かの勝負で才人の実力を計ってはいけない。
ただ戦線を確保させるだけなら廉頗なり魏延なりで良かったのだから適材不適所ということになる。
- 93 :
- 結果で才能を測るしか普通は手段がないけどなぁw
才が足らぬから失敗をする事だってある意味当然。
運も無能な者にはあまり微笑むモノでもないようだしな。
策にはめられる武将は仕掛けた側に性格的なモノを読まれているケースが大半だから「あの時○○がもっと冷静なら〜」は無意味な話じゃね?
冷静な判断しない、出来ないって云う短所を見抜かれての策なんだから。
- 94 :
- 趙括、馬謖も敵将、敵軍の強さを計れてない時点で
結果云々じゃなくても韓信とは全然差がある
趙括の場合は敵将がこっそり白起に変わったから若干擁護の余地はあるけど
- 95 :
- >>93
ああっ、わかってるよw
あえてそうじゃなかったらどうなってた?か思案してみるのってダメか?
韓信ならどんな二の矢、三の矢を放ってくるのだろうか?と単純に思っただけなんだけど・・・
- 96 :
- >>95
いや、ダメではないw
冷静で猜疑心強いヤツなら〜って策も巡らせられたんじゃないかとは思うし。
まぁ馬謖とは器にかなりの差があるとは思うけど。
- 97 :
- >>92
趙括や馬謖の技量は
趙奢や劉備が既に見抜いていた
それにも関わらず秦の策略に掛かり趙括を総大将とした為、趙括は所詮、机上の兵法なだけと自ら証明することになり、
兵法に精通しているつもりの馬謖はスタンドプレイに走り、街亭にて失態を冒す結果に・・・
その点、韓信は才能もあり兵法の正と奇の使いわけ、正と奇を組み合わせることをよく理解していた。
趙括、馬謖は才に慢れ、兵法を生半可に理解していた為に失敗したのだ!!
まあ当然の結果だ、同情の余地はないな。
- 98 :
- 李左車の献策の内容も陳余に却下された事も、韓信はきっちり察知してるもんな。
で、これで勝てると読んで戦に臨んだわけで、戦う前から勝負はついてた。
敵の動向も知らず己の才に溺れて無謀な作戦に出た趙括や馬謖とは比べ物にもならん
- 99 :
- 余りにも可愛そうなので少しだけ擁護w
趙括は父である趙奢が馬謖は兄である馬良が才に溢れ有能過ぎた。
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