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2011年11月1期34: 【蜀の悲願】 北伐 【軍師諸葛亮】 (281)
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【蜀の悲願】 北伐 【軍師諸葛亮】
- 1 :07/01/12 〜 最終レス :11/11/07
- 223年、劉備が亡くなり劉禅が跡を継ぐと、諸葛亮は蜀の政治の全権を握る。そして、呉との関係を改善した上で、魏に
対する北伐を計画した。
227年、準備を終えた諸葛亮はいよいよ北伐を決行する。北伐に当たって上奏した『出師表』は名文として有名である。
1度目の北伐で、諸葛亮はかつて蜀から魏へと降った孟達の調略を企図したが、司馬懿に察知され、孟達は討たれた。
最初に躓いたものの、諸葛亮の作戦は続行され、翌228年に漢中より北へ進攻した。
諸葛亮は、趙雲を囮に使って魏の曹真の裏をかくことに成功、南安・天水・安定の3郡を奪った。魏はこれに対して張郃
を派遣、諸葛亮は再度趙雲を囮に使い、要衝街亭に鍾愛していた馬謖を配する。ところが、馬謖は諸葛亮の指示を無視
して山上に布陣したために、張郃率いる魏軍に大敗を喫してしまう。
街亭での敗戦で、蜀軍は全軍を撤退させ、諸葛亮は馬謖を敗戦の罪で誅し、自らも降格として丞相から右将軍となっ
た。これが「泣いて馬謖を斬る」の故事である。もっとも、諸葛亮が右将軍となっても、他に蜀を運営できる人物がおらず、
実質上は丞相であった。
その年の冬、諸葛亮は2度目の北伐を決行する。しかし、曹真に作戦を先読みされたために、戦局は優位に進まず、食
糧の不足もあって撤退した。
更に翌229年には3度目の北伐が決行され、陳式に武都・陰平の両郡を平定させた。この功績によって、諸葛亮は再び
丞相の地位に復帰する。
その次の年230年に4度目の北伐が行われるが、食糧不足で撤退に追い込まれる。この時に、魏の張郃を討ち取った。
そして234年、諸葛亮は5度目にして最後の北伐を決行する。この戦いで諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えを持って
五丈原で、司馬懿率いる魏軍と長期に渡って対峙する。だが、諸葛亮には健康問題が生じていた上、頼りにしていた呉も、
荊州と合肥の戦いで魏に大敗を喫し、司馬懿は防衛戦に徹した。
234年8月23日、諸葛亮は陣中で病没し、蜀軍は全軍が撤退した。その際、魏延と楊儀との間に争いが生じ、魏延が
される事件が発生している。
- 2 :
- 2ゲットなら劉禅
- 3 :
- 3getなら孟達
- 4 :
- 4getなら月英
- 5 :
- もし蜀漢が関中を制圧できていれば、
その後の展開もだいぶ変わってきていたかな。
- 6 :
- 劉備が関中を制圧していたら違っただろうね。
それ以降だと、まぁ無理だろうなぁ。
- 7 :
- 劉備が漢中を平定した勢いで関中も平定、
ちょうど曹操も死に、
孫権もその勢いを恐れて荊州に手を出すのは控え、同盟復活、
劉備と孫権が手を組んで、曹操死後の魏に挑む。
- 8 :
- でも、魏が守勢に徹したら、攻め込むのは難しいんじゃないかな。
戦線が膠着状態に陥ったところで、
蜀と呉の同盟に綻びが出始めるようなことになりそう。
- 9 :
- 劉備が白帝城で死んだ時、諸葛亮が劉禅を皇帝に立てたのはなぜなんでしょうか?
諸葛亮が、蜀の皇帝になっていれば、天下は蜀のものになっていたかもしれませんね。
- 10 :
- 蜀の人間は漢の皇帝に仕えてるという大義からあるからじゃね?
孔明は漢の大義>自分の名声と考えたんだと思う
- 11 :
- 陳友諒化しそう>乗っ取り
- 12 :
- >>9
劉備も、本気で諸葛亮に皇帝の位を譲る気はなかったんじゃないか。
ああいうふうに言っておいて、諸葛亮が、
「はい、私が跡を継いで即位します」
とでも言おうものなら、たちまち謀反だとして捕らえて処刑へ。
そのへんは、諸葛亮も分かっていて答えたんじゃないかと。
- 13 :
- 普通に考えて無理だな。
- 14 :
- 諸葛亮は蜀の最高実力者だったわけだし、
本気で頑張ったら簒奪できたかな。
- 15 :
- >>14
李厳の言葉なんかを見るに、一部には待望論というか「曹操と同じようにやるんだろ?」みたいに思われてたフシもあるよね
- 16 :
- 魏ならともかく蜀のトップになったってねぇ
- 17 :
- まぁ、緒葛がどうあがいても魏を倒すことは不可能だけどな
- 18 :
- 荊州に関羽じゃなくて趙雲置いといたら、違った展開もあったかな?
- 19 :
- 魏呉に攻められ終わり
- 20 :
- 趙雲は史実上はたいした活躍の場もなく五虎将軍の中でも官位も一番低くおくりなも低く
実はたいしたことがなかったという説がある。
- 21 :
- じゃあ、鳳雛を失って伏龍が荊州を離れた時点で破綻は避けられなかったんだね。
- 22 :
- だから諸葛亮が援軍率いて益州に入るのは予定内の行動だって
益州で直接成都を突かなかったのも時節にあった作戦
丁度呉から援軍の要請が来てたので、帰ると見せかけて強襲するチャンスだった
- 23 :
- >>21
孔明が居たら大丈夫というものでもない。
- 24 :
- 劉備も劉禅も民のためとか言っておきながら、結局は欲に溺れて
最終的に蜀は降伏という形で、消滅。
やっぱり、どれだけ心の優しい人物でも欲望には勝てないんですね。
日本でいうと、豊臣秀吉とか・・・
- 25 :
- >>24
色々言いたい事はあるが
別に最初から民のために戦ってたわけじゃないと思うぞ
- 26 :
- 劉備もなかなかの奸雄だね。
- 27 :
- 孔明も南蛮を平定してからは北伐をせずに国内の固めと皇帝のに力を入れれば良かったのに。
- 28 :
- 北方版みたいに雍州以西を奪うって案は?
- 29 :
- >>26
蜀を奪ったのも、劉備自身の主導っぽいしね。
諸葛亮が持ち上げられた分、劉備は落とされている。
- 30 :
- そもそも孔明が勝ったといえるのは四回目の北伐ぐらいだろ
曹真にも勝てなかったし
- 31 :
- 三回目で郭淮にも勝ってる
- 32 :
- 街亭で馬謖がやらかさなかったら、長安くらいは取れた?
- 33 :
- >>27
そうすると魏がどんどん富国しちゃって幾ら堅牢な蜀でもゆくゆくは滅ぼされる。
孔明は攻めるしかなかったんだぉ。
- 34 :
- >>1
改行くらい覚えろょ
- 35 :
- >>32
一時的に攻め取れても、それを維持し続けるのが大変な負担になったんじゃないかな。
- 36 :
- 魏も呉もほっとけば内乱が起こって勝手に滅びそうな感じだったけどな
- 37 :
- 後背の涼州を確保した上で長安とれれば食料補給は楽になるよ。
あの地域は秦王国の時代に潅漑工事を済ませてあって
穀倉地帯なんだからね。
次の収穫期まで持ちこたえればOK。
- 38 :
- 陝西から甘粛にかけての辺りって、当時は今ほど乾燥していなかったのかな。
- 39 :
- >>37
そーだっけ?
なら、なぜ東漢は長安に都を置かなかったの?
- 40 :
- >>31
あれは魏延のおかげでしょ、軍事能力は孔明より魏延のほうが数段優れてると思う。
- 41 :
- 魏延じゃなくて陳式のおかげだろ
それも孔明の指示を受けての戦いだし
- 42 :
- 孔明って劣化張良ってイメージなんだけど人材不足で
前線に立たざるを得なかった劣化韓信ってところか?
- 43 :
- というか司令官になったショウカ
- 44 :
- いちいち劣化○○とか程度の低いこと言うなって
- 45 :
- 劣化ウラン!
と書こうかと思ったけど
下らないから止めた。
- 46 :
- とりあえず長安を取るんだろ?
話はそれからだ
- 47 :
- >39
中国大陸全体からみて長安を都にすると不便なんよね。
後、春秋時代以来中国の文化の中心は晋(趙・魏・韓)のあたりで
洛陽はそのあたりだけど長安は昔の秦だからね。
やっぱり華やかさが欲しければ長安から遷都したくなるじゃん。
- 48 :
- 長安は場所が広く取れるけど、防衛上はあんまりよくない。
洛陽は小さめだけど、防衛に適している。
- 49 :
- >>46
魏延ですか?
- 50 :
- どの三国志の本読んでも孔明はかわいそうだな
あれだけ頑張ったのに結局志半ばで亡くなっちゃんだもの
最後まで戦ってきたのはいったいなんだったんだろうね
- 51 :
- 長安取れたら自動的に雍州以西が手に入るの?
洛陽や関中を伺いやすくなるの?
北方の小説だと、長安取れば魏は遷都を余儀なくされるし、
今までのような楽観はできなくなるって出てたけど。
詳しい人、教えてください。
- 52 :
- ていうか李カクシ討伐してからいつの間に長安復活してたんだ?
大廃してたんだろ?
- 53 :
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- 54 :
- >>52 鍾ヨウの治績じゃねえの?
- 55 :
- もともと、赤眉に荒されてかなり落ちてたんじゃなかったっけ?
- 56 :
- 蜀漢ってある意味、今の韓国や北朝鮮みたいな感じの国家だったのかな。
何百年後かに誰かが「北朝鮮演技」みたいな小説をかいたら、
金イルソンやジョンイルが劉備並みの英雄として人気者になったりするのかも。
- 57 :
- いくらなんでもそれはやめてくれ
朝鮮に孔明みたいな民衆に慕われる政治家はいないだろ
- 58 :
- トンデモ説が出たなw
- 59 :
- 孔明は第一次北伐の街亭の戦いで愛弟子の馬稷を大将に任命したのがだめだったな。蜀の諸将も経験豊富な奴を使ったほうが良いといっていたし、街亭で負けていなかったら長安を取れていたかもしれない。
軍才はあっただろうから。
- 60 :
- よく言われるけど街亭ってそんな重要な戦いなのかな
仮に防げたとしてその後長安落とすとか涼州を平定するとかの軍事的結果が出る可能性ってどのくらいなんだろう
- 61 :
- >>56
弱者は共通点はであることしかないだろw
- 62 :
- >>60
北伐の報だけで三郡が降伏
徐バク、游楚なんかの踏ん張りはあったが、街亭で時間を稼げれば
そこで涼州の東側のどっかの城抑えて魏軍本隊をガッチリ食い止められた筈
そうするともうあとは涼州を切り取り放題
問題なのは馬謖が蜀軍の先鋒が確保失敗した事
- 63 :
- 本当に起死回生だったんだね。街亭って…
- 64 :
- バショクを起用した孔明が無能だっただけのお話
- 65 :
- 呉と共同作戦とかやったの?
二方向から攻めた話とか聞いた事無いけど
- 66 :
- 時間の誤差ありまくりだけど一応やったよ。
- 67 :
- >>65
メールか携帯が使えれば、うまく連携できたと思うよ。
- 68 :
- 蜀がソフトバンクじゃなかったからしょうがないよ
- 69 :
- >>68
それだと、圏外で使いものにならないと思うよ。
- 70 :
- おまいらがゆとりだということがよくわかった
- 71 :
- んにゃ、んなものは無かったな。
- 72 :
- 先ずは呉を攻めて荊州を奪還してから魏を攻めればヨカッタのに
- 73 :
- >>72
呉と魏に同時に攻め込まれるんじゃね?
- 74 :
- そういや、どっかの本に劉備と諸葛亮は筆談で話してた(中国は地方ごとに言葉の差が大きいため?)って書いてあったんだけど、
本当かな?
本当だったとしたらら、劉禅とはどうだったんだろ…
出師表とか…
- 75 :
- 諸葛亮って荊州に流れてくる前はどこらへんにいたんだろ?
- 76 :
- あの広い中国なんだから、現在でも地方ごとで言葉の差はかなり激しい。
日本だって、何言ってるかほとんどわかんない方言だってあるよね。
で、勿論当時の中国も地方ごとで色々方言があり、
漢代にはずばり『方言』なんて本を書いた人もいる。
ただ、実際に当時どれほどの差があり、どの程度通じたかは具体的にはそれほど分かってない。
劉備と諸葛亮に限らず、言葉が通じず筆談したなんて記録なんて残ってないし。
ひょっとしたら、三顧の礼の時筆談で会話してたかもね、くらいの想像のお話。
劉禅のころって、さすがに十年以上たてば普通外人だってどうにかなるんじゃない。
- 77 :
- 言語と方言は厳密な区別はできないそうだ。
- 78 :
- >>76
>劉禅のころって、さすがに十年以上たてば普通外人だってどうにかなるんじゃない。
それもそうですね。
ただでさえ、同じ文化圏の人間同士なんだから。
- 79 :
- >74
劉備は近隣の徐州にもそこそこいたし、
それから荊州北部に入ってから少し経って諸葛亮に会っているのだから
筆談しなくても通じると思う。
- 80 :
- 方言を通訳するのが役目の官職なんかも、あったのかな…
南蛮や涼州、交州なんかは言葉が中央とは全然違いそうだ。
- 81 :
- 学のない土人ならともかく師から学問を学んだ士大夫層なんかは違う地域のものでも通じる言葉(主流となる地方の言葉)も話せた(つまりバイリンガル)と思うがな。
どうなんだろう?
- 82 :
- 広東とかを除いたら、北方はある程度通じるんじゃないか。
日本でも、関西弁、東北弁、九州弁も理解できないことはないし。
- 83 :
- 孔明って土着じゃなくて
流れてきた文化人の子じゃなかった?
玄徳も学問してるし筆談は必要か?
- 84 :
- 劉備が使いこなしていた魏延や李厳に裏切られ
劉備が注意していた馬稷に大事を任せて失敗する
劉備って意外に優れた人物だとおもうけどな
特に人材登用と運用がすばらしい
実は劉備は孔明の弱点を補っていたと思う
- 85 :
- >>84
三戦板でもなかなか見られない恥ずかしいレスだな。
- 86 :
- 全くだな
- 87 :
- 孔明は人の手柄を自分のものにして丞相に帰り咲いたのが素敵
- 88 :
- >>87
陳式を派遣して武都・陰平を平定した時も自ら動いて郭淮らを牽制して動けなくさせてたよ。
馬謖では失敗したがこっちは成功した例だね。
- 89 :
- >>88
武都・陰平って生産力ない僻地で魏にとっては守るべき価値が少ない、
蜀にとっても景気づけってだけで実利はないところだしね・・・
撤退した郭淮を追撃で破ったとかなら価値も出てくるのだろうけど
- 90 :
- >>89
でもあの二郡を抑えておけば成都と漢中を分断される可能性が低くなるから戦略的には意味があったとは思う。
- 91 :
- >>89
生産力はある
涼州の3割くらいの人口があったと考えられてる
ついでに漢中の裏側の守りを固める戦略的な意味でも必要
- 92 :
- >>91
結構移住させられていた筈なので、生産力自体はそれよりは下がっていたと思うよ。
- 93 :
- >>90>>91
第一次北伐でスルーされてるから、それらの理由は薄いんじゃないか?
漢中の守りを固める目的からしたら真っ先に攻略対象にならんとおかしい
武都・陰平がどっちに帰属してたとしても、それほど大きな兵力の駐屯はさせない
(かつ、できない)だろうから、戦略的意味の大きさが実感できない・・・
- 94 :
- >>93
第一次北伐では街亭で魏軍を抑えつつ、その間に涼州を切り取ってしまおうという算段だから別に問題ないだろ?
またその後、涼州が魏への帰属を固めつつあったので武都・陰平を抑える必要性が高まったとは考えられないか?
- 95 :
- >>94
相当好意的な解釈をすればそう考えるのかもしれないが・・・
西南端の陰平はともかく、武都は天水や南安へ出るときの通過地点だし、
そこを無視しているあたりで重要性が大きいとはとても思えない。
あと街亭が涼州固めるまでの足止めってのは演義での話で、
史実では魏軍との決戦の先鋒・前哨戦と思うが。
自分は第三次北伐に関しては、一次二次で失敗した穴埋めや士気低下対策として、
とにかく名目だけでも勝ちを得るために防備の薄い武都・陰平を獲りにいった、という見方が妥当に思う。
- 96 :
- 戦略的要所なら再度とりかえすだろうしな。
とりあえず孔明を丞相に戻したかっただけだと思う。
- 97 :
- >>95
馬謖が先鋒なのと魏への抑えであることは矛盾しないよ。
諸葛亮はその間、北伐に呼応した安定・天水・南安の三郡の平定に向かってるのは事実だし。
武都や陰平は三郡を平定しちゃえば簡単にものにできるでしょ。
住民が移住させられて生産力も下がってることだし。
- 98 :
- >>96
漢中と同じで魏にとっての価値と蜀にとっての価値が違ったってことだろうな。
- 99 :
- >>97
>諸葛亮はその間、北伐に呼応した安定・天水・南安の三郡の平定に向かってるのは事実だし。
なんか微妙に時系列がおかしいんでは?馬謖の街亭への派遣は三郡の平定後の可能性が高いでしょ?
蜀が三郡(南安、安定、天水)を降伏させたから張コウが迎撃に出てきたんだし。
>武都や陰平は三郡を平定しちゃえば簡単にものにできるでしょ。
三郡には魏軍がいなくてあっさり降伏してるくらいだから、
三郡押さえるのを待つまでもなく、支隊派遣するだけで抑えられたはずだが。
あなたがいうように重要なら、補給路確保の意味でも抑える方が妥当。
結局、統治のリスクが収入・防衛などの実利に対して劣るってこと。
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