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2011年11月1期19: 東北戦国史 (808)
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東北戦国史
- 1 :06/06/11 〜 最終レス :11/11/13
- 東北の戦国時代について語ってみましょう
- 2 :
- 東北は政宗が出るまで、本当に緩い。
- 3 :
- 東北は室町時代そのままで止まってた
新興勢力なんて皆無だし
南北朝時代から変わらずのんびりやってた。
- 4 :
- 取りあえず出羽スレと陸奥スレのリンクぐらいは貼るのが礼儀じゃないのかね?>>1よ
- 5 :
-
- 6 :
- 【大崎】陸奥の戦国大名【伊達】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1142779469/
【最上】出羽の戦国大名【秋田】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1124265865/
- 7 :
- 鎌倉将軍に奥州藤原氏が討伐された時もそうやったが、
東北への仕置は、天下統一事業における刺身のツマみたいなもんやね。
信長に構って貰えた長曾我部のがまだ扱いはマシやった。
- 8 :
- いえいえ東北を押さえなければ終われないんですよ( ^∀^)
- 9 :
- 大名間の血の繋がりが濃いよな
- 10 :
- 例えば伊達の血を引いてない大名当主とかは挙げにくいね。
- 11 :
- 奥州仕置以前の、東北の戦国って・・基本的には、
“南部一族の内乱”
“伊達を中心にした親族間の争い”
“出羽の豪族間の小競り合い”
でしょ?
- 12 :
- 九戸政実
- 13 :
- ↑の人物は一揆起こして、実際の戦闘半日で落城寸前になった話を、
小説によって名将、智将あつかいされて、蒲生氏郷を苦しめたと捏造された人物?
- 14 :
- >>11
伊達は色々と兵出してたけどな
- 15 :
- 戦国時代の定義が応仁の乱以降なら色々あるだろ
湊安東氏の衰退と檜山安東氏の隆盛とか
- 16 :
- 葛西と大崎の不毛なる小競り合い
- 17 :
- 留守、国分の小さな小さな小競り合いw
- 18 :
- >>17
黒川も仲間に入れてあげては
- 19 :
- >>16
晴宗から見たらどっちも弟。
>>17
輝宗から見たらどっちも弟。
- 20 :
- 葛西と大崎は昔からやってただろ
そこにつけ込んだののが伊達じゃないか
- 21 :
- 留守、国分の争いも伊達は後から入ってきた
伊達の血は関係ない
- 22 :
- >>13
蒲生は苦しめられて無いが、南部は苦しめられてたな。
対応できなくなって援軍呼んでるし。
>>7
奥州は絶対後回しなんだけど、だけど絶対押さえるよな、どいつも。
- 23 :
- 後回しにしても楽に抑えられるからな。
- 24 :
- 陸奥、出羽、蝦夷はしょぼいからな、今もか
- 25 :
- 奥州、羽州は天下の趨勢にはあまり関係無い僻地だからな。
重要度、優先順位は地方別だと最下位だろ?
天下統一の最後のシミ見たいなもんだろ。
とってもとらなくてもどうでも良いが、天下統一ならやっぱり全部統一したいからな。
- 26 :
- >>13
善戦はしたけどな・・
- 27 :
- 京都から最も遠い地方ってのがネックだな
日本海経由なら結構近いので交易は盛んだが、軍隊は送れない
結局北畠顕家を持ってすら、遠征による疲労は如何ともし難かった
- 28 :
- 超僻地だからな生産性低いし
- 29 :
- 佐竹の秋田国替えのとき
出羽は雪深く寒さ厳しく、未開の地で人口が少なく、生活水準は低く、領民は貧困と思い込んでいたが
見ると聞くとは大違い、町は整い、人家も多く、町民に貧しさは感じられず、
水田は広大で、道路や水路も良く整備され、開発状況は進んでいた、そうだ
おかげで佐竹藩の実力は30万石以上といわれたそうだ
- 30 :
- 26
善戦もまったくしてない。
太閤軍に対してはな。
実際の戦闘はたったの半日、そこで降伏。
しかも籠城してて。
- 31 :
- 佐竹の記述は想像より大分ましだった。
程度だと思うけどな。
常陸五十七万石からの国替えだからなぁ。
かなりのサービスが入ってると思う。
- 32 :
- でもね佐竹の旧領奥七郡は、山がちな地形だし
常陸全域を治めたのは、短期間だし
出羽も悪くないと思ったんじゃ
- 33 :
- そうかもな。
開き直りもあるだろうし、海運もある。
梅津とか有能な被官もいたから、開発する余地もまだまだある。
と評価してたはずだから。
- 34 :
- 海運があったのは大きかったろうね
愛季、実季の二代で都市整備が進んでいたのも大きかったろうし
義宣自身も渋江や梅津を使った改革する気満々だったし
- 35 :
- 佐竹がやるき満々で領地経営しようとしてたかはわからない。
同じ関ケ原削減組の毛利、上杉は旧領からの家臣を削減しないように、するためかなり頑張らざるおえないが、
佐竹はサックリ切り捨ててるから。
- 36 :
- サックリ捨てれるからやる気満々なんだよ
- 37 :
- 安東の遺産があったのにあっさり酒田に抜かれた佐竹
- 38 :
- 東北はなんだか華がない
- 39 :
- >>30
ヒント 勝者の歴史
- 40 :
- >>36
それに引き換え、佐竹の旧領常陸北部をついだ水戸家は貧乏、領民も窮乏
- 41 :
- >>39
苦戦したのは南部勢。
伝承と小説の俗説
たしかに数週間城を囲んでるが、氏郷は本陣に居ない。
秀吉の支持待ち、根回し、伊達の動向調べたりして居ない。
本陣着陣後直ぐ総攻撃。
これが実態。
小説は恐いね。
- 42 :
- 戦略的待機を苦戦とけなされるから、千石久秀は戸次川を渡ったのさ!
- 43 :
- 越後>>>>>>>>>>>出羽>>陸奥
- 44 :
- むしろ南北朝時代のほうが熱かったりもするからな
- 45 :
- 北畠の直轄兵は関東武士だけどな
- 46 :
- そう?
鎌倉御家人ではあるけど、
結城宗広は父祐広の代から白河にいるし
伊達は朝宗の代から陸奥にいるでしょ
- 47 :
- 秋田安東氏スレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150607228/
- 48 :
- 茨城栃木は東北だから伊達も結城も陸奥出身だお
- 49 :
- 関東の支配者も元は畿内からおりていった人達だろ
- 50 :
- たとえば
結城・・・小山氏←秀郷←北家魚名
伊達・・・山陰←北家魚名
大崎・・・斯波←足利←清和天皇
葛西・・・平良文←桓武天皇
南部・・・加賀美遠光←武田←清和天皇
京の人ですね
- 51 :
- 安東さんは正真正銘の蝦夷です、はい
- 52 :
- 古代も中央から降りてきてるぞ
秋田辺りは違うのか?ありえないのだがw
- 53 :
- 古代ってか神代の話だが
安東氏の先祖は自称?長髄彦の兄安日王だよ
安日王は神武天皇に長髄彦が討たれた後、北海浜に放逐され、蝦夷の祖になったとか
安東氏は 俘囚の長であるかの安倍を名乗っている
- 54 :
- はいはい神話神話
- 55 :
- 他の大名が源氏や藤氏を名乗るなかで
(なかには百済聖明王の裔ってのもいるがね)
オレは 蝦夷 の後裔だあー
と名乗ってることが大事と思う
蝦夷管領以来の役目をよく自覚していると思われるし(当然うまみもあるわけだが)
血に対する誇りもあるんじゃないかな
- 56 :
- 明治天皇に啖呵切ったからな>秋田氏
- 57 :
- それなら蜂須賀もだ。
- 58 :
- >>56
調べたら出てきた話、これのことでしょうか?
秋田家が子爵になったときの話
宮内省は朝敵長髄彦の兄安日王の子孫では困るぞ
系図を書き換えなさい、と命じたとか
それに対する秋田の返答
当家は神武天皇御東征以前の旧家といふことを以て、家門の誇りといたしております。
天孫降臨以前の系図を正しく伝へておりますものは
憚りながら出雲国造家と当家のみしか無いのでございます。
と拒否したとか
- 59 :
- そう
だがな、秋田氏よ、お前の直系は四代目藩主の時に途絶えて久しいじゃねーか
とかいうツッコミは禁止
- 60 :
- 荒木高村も秋田一族じゃねーの?とツッコミ返しておこう・・・なんてね
どのみち 戦国板 の時代とは関係ないしね
- 61 :
- 本家から見て女系だし、第一、血統から言えば季成でしょ?やっぱ
結果お家騒動で家格が下がってるしなー
- 62 :
- >>61
くわしくなくて申し訳ないです・・・
結構有名みたいですね、この騒動
- 63 :
-
http://www.geocities.jp/link_castle/war.html
- 64 :
- 宮古のあたりはどうだった?
- 65 :
- >>64
南部の勢力圏
閉伊や土岐などがいたが、南部に滅ぼされた
- 66 :
- ttp://www.geocities.jp/link_castle/nenpyou.html
- 67 :
- >>64
二十七代城主閉伊薩摩守重朝が天正六年(一五七八)に亡くなり、領地は楢山氏に移りました。
- 68 :
- 十五里原の戦いについて詳しく教えてください
- 69 :
- 天翔記で南部ファンになりました
- 70 :
- 天正十五年(1587)九月、最上・東禅寺勢に攻められ、上杉方の大宝寺義興守る尾浦城落城、
義興自刃、庄内が最上の手に落ちる
天正十六年(1588)正月、本庄繁長庄内出陣
八月十五里原で本庄繁長・義勝ら上杉勢と東禅寺義長ら最上勢が対決
繁長が東禅寺の夜討を察知して反撃
東禅寺義長討死
秀吉にも公認され、庄内は上杉に手に
と詳しくないかな?
- 71 :
- 本庄大活躍だな。
- 72 :
- あげ
- 73 :
- 揚北衆は東北戦国史に深く関わってるよね
- 74 :
- 天翔記には天童氏とか千徳氏、本堂氏とかも出てたんだな
- 75 :
- >>73
越後は隣国だからね
信濃からみた上野みたいなものかな
- 76 :
- 東北はレベルが低いと言うより室町時代そのままで止まってただけ
新興勢力なんて皆無だし
南北朝時代から変わらずのんびりやってた
そこで伊達だけ暴れて無意味な戦繰り返して
非常に迷惑なわけで…
- 77 :
- 室町時代初期頃、孤独にで暴れてる豪族あったね
周辺の領地に侵攻したり鎌倉府と戦ったり伊達という豪族だったかな
迷惑なんだよな
- 78 :
- 奥州探題なんて浦島太郎みたいな肩書きをもった
大崎氏は秀吉にあっさり潰されましたね。
- 79 :
- いや由緒だけは奥羽一だよ
大崎氏
- 80 :
- あぼーん
- 81 :
- 東北には浪岡御所とかもいるし
- 82 :
- 伊勢の劣化北畠
南部も武田の劣化か
- 83 :
- だが浪岡御所は、顕家の直系だよ、と言ってみる
- 84 :
- まあ実際は顕信の子孫だろうけど
- 85 :
- 顕信説の方が濃厚でしょう、多分
第一、北畠顕成って人が怪しい
二十一歳で死んだ顕家に子がいたのか?(いてもおかしくはないけど)
顕成はずっと、吉野の南朝で帝に近侍していた、との説もあるし
よくわかりません
- 86 :
- 顕信だってイイ武将なんだけどな
北畠三兄弟は
顕家>>>(超えられない壁)>>顕能≧顕信
- 87 :
- 顕家は恐怖だよね、室町幕府から見ると
だから斯波家長、石塔義房、石橋棟義、吉良貞家、畠山国氏ら有力者を次々と奥州に送る
これが争いのもとになるんだけどね
- 88 :
- 顕家死後の奥州は明らかに北朝側にバランスが寄ってる
そんな中で、顕家の後を継いで奥州を駆けずり回らなければならなかった顕信の心労は如何に?ってところだ
結城は動かねーし。親房は結城の心情をこれっぽっちも理解出来てねーし
顕能はお膝元とも言える伊勢だったからよかったと言える
- 89 :
- 秀吉の時は奥州探題は空位。
大崎氏は伊達晴宗が奥州探題に就任後、なっていないし、
晴宗死後、伊達家任命されていない。
- 90 :
- 秀吉の東北統治政策は
固まってなかったってことかな?
- 91 :
- 秀吉は室町の諸制度継承してないから
大崎義兼が大崎氏として最後かな?
- 92 :
- 【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
- 93 :
- あげ。
俺は戸沢家が好きだ。
- 94 :
- 鬼九郎か
- 95 :
- age
- 96 :
- >>93
ちくり魔じゃん
- 97 :
- >>93
おまいは地元民かは知らないが、
地元の者は応援したくなるもの。
よって俺も戸沢。
- 98 :
- 俺は佐竹なわけだが。
- 99 :
- 地元に大名がいない青森市生まれの俺は
南部晴政かな。居城が三戸と離れているが
まあ、津軽よりはましか
青森市じゃ津軽家はまったく人気がない
年寄りの間では侵略者扱いされている
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