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2011年11月1期42: 【国人】伊賀・甲賀衆を語ろう IV【士豪】 (243)
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【国人】伊賀・甲賀衆を語ろう IV【士豪】
- 1 :06/06/30 〜 最終レス :11/11/13
- 前スレに引き続き、伊賀・甲賀衆や周辺諸勢力について語りましょう。
関連ネタも奨励します。
●過去ログ●
【森田】伊賀国人衆を語ろう【浄雲】
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1075671167/
【地侍】伊賀・甲賀衆を語ろう U【郷士】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1094889257/
【国人】伊賀・甲賀衆を語ろう V【土豪】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1132381827/
- 2 :
- 実際、暗とかやっていたのかな
実質傭兵団だよね。
- 3 :
- 組織的大規模強盗集団
- 4 :
- 実際は強盗に毛がはえたようなもの
- 5 :
- 半蔵殿の働きあるのに伊賀衆は同心、甲賀衆が与力並みなのがわからぬ。
この扱いの違いは誰の知恵ぢゃ?
- 6 :
- 【甲賀五十三家 @】
山中氏……柏木三家
伴 氏……柏木三家
美濃部氏…柏木三家
黒川氏……北山九家
頓宮氏……北山九家
大野氏……北山九家
岩室氏……北山九家
芥川氏……北山九家
隠岐氏……北山九家
佐治氏……北山九家
神保氏……北山九家
大河原氏…北山九家
大原氏……南山六家
和田氏……南山六家
上野氏……南山六家
高峰氏……南山六家
池田氏……南山六家
多喜氏……南山六家
- 7 :
- 【甲賀五十三家 A】
鵜飼氏……荘内三家
内貴氏……荘内三家
服部氏……荘内三家
小泉氏 倉治氏 夏見氏 杉谷氏 針氏 小川氏 大久保氏 上田氏 野田氏
岩根氏 新城氏 青木氏 宮島氏 杉山氏 葛城氏 三雲氏 望月氏 牧村氏
八田氏 高野氏 上山氏 高山氏 守田氏 嶬峨氏 鳥居氏 平子氏 多羅尾氏
土山氏 山上氏 饗庭氏 長野氏 中山氏
- 8 :
- >>4
足利と六角と甲賀衆でしょ?中央の諜報機関か治安警察みたいな印象
あるけど。信長も甲賀衆は用いてなかった?強盗なわけなくない?
徳川で落ちぶれてからは知らんが。
- 9 :
- なぜ足利、六角と甲賀衆を同列に置く?
- 10 :
- >>5
ここに記述がある
↓
ttp://www.asukanet.gr.jp/ninja/story/ronin10.htm
- 11 :
- >>9
同列に置くわけではないけど、そもそも彼らの配下なんでしょ?甲賀衆って。
- 12 :
- 海賊の村上も九鬼も、
毛利と織田の配下だよ。
- 13 :
- 忍者による城攻めは実在したのか?
- 14 :
- 甲賀、伊賀では無いと思うが、
島原の乱時、細川家の忍びが忍びの実態曝け出してるけどな。
- 15 :
- >>8
> 足利と六角と甲賀衆でしょ?中央の諜報機関か治安警察みたいな印象
諜報機関的活動は主に南朝方が使っていたが
高野山。
伊賀、甲賀もやって無かったとは言い難いが。
治安警察は(そんな秘密警察見たいな物があるなら)
六角ではなく四職(京極、山名、赤松、一色)の下になる。
- 16 :
- 甲賀忍者にはなぜ著名な忍者が輩出しなかったのか。
- 17 :
- 忍びで名が売れるのも、どうかと思うけどね。
- 18 :
- 集団で動くからじゃないの?
- 19 :
- 伊賀は三家を頂点とした、ピラミット型の支配体制。
甲賀はそれぞれの家ごとの独立体制。
だから組織的に大規模に動ける伊賀は、
その指揮官として、名前がどうしても出るんじゃない?
- 20 :
- 秀吉は甲賀忍者を嫌っていたとしか思えない。
「梟の城」の中で司馬遼太郎は伊賀忍者に秀吉を狙わせ甲賀忍者を守備側に配しているが、
本当に秀吉が狙いたかったのは甲賀忍者だと思われるくらいである。
秀吉は天正十三年には甲賀の中心水口に明らかに甲賀忍者の監視役と思われる中村一氏を送り込んで、
甲賀にはじめての織豊系の石垣作りの本格的な城を築かせており、甲賀忍者の締め付けを図っている。
さらに雑賀攻めに際しては、甲賀武士に最も過酷と思われる水攻用堤防工事を命じ、
その工事遅れを理由に当時最も有力であった山中氏ほかの有力甲賀武士を次々と取り潰している。(これを地元では「甲賀破却」と言ってるらしい)
- 21 :
- 水口はただ単に交通の要所だからじゃないの?
中村が築城したわけではないし(大規模改修はしたが、もともと城はあった)、
それに完成するのは江戸幕府になってからだし(中村が国替えになっても、絶えず次の領主がその事業を引き継いだ)
- 22 :
- 家康は逆に甲賀衆と密接な関係を築いているね。
- 23 :
- 六角高頼が幕府軍大軍を相手に、二人の将軍、二度にわたる戦国大名集合に耐え戦い抜いたのは
伊賀・甲賀忍者のおかげである。
- 24 :
- >>23
> 六角高頼が幕府軍大軍を相手に、二人の将軍、二度にわたる戦国大名集合に耐え戦い抜いたのは
> 伊賀・甲賀忍者のおかげである。
断定してるトコロがステキ!
- 25 :
- あぼーん
- 26 :
- 手裏剣はどんな時に使われたのですか?
漫画や小説の忍者と実際の忍者は随分違うようですし。
- 27 :
- 将軍用避難シェルターとしては、甲賀伊賀と朽木ではどちらの方が
信頼度が高いのだろうか
- 28 :
- 朽木
- 29 :
- 和田惟政は忍者?
- 30 :
- ニンニン
- 31 :
- あげ
- 32 :
- 伊賀衆は服部さん、百地さん、藤林さんの三家を頂点としてますね。
また中忍には伊賀崎道順や城戸弥左衛門など名前を残した忍びがいますよ。
- 33 :
- 甲賀にはサスケがいますがな。
- 34 :
- 藤林に有名どころは?
- 35 :
- あげ
- 36 :
- 甲賀53家 人(氏)じゃなくて集団(集落)の呼び名?甲賀地方の地図見たら面白い!
昔は 何たら村のどら衛門とか呼んでたし!
- 37 :
- 石川ゴエモン
- 38 :
- ようやく平成19年になりました
- 39 :
- >>34 藤林長門守かな
ちなみに百地三太夫の戒名が『本覚了誓』、藤林長門守の戒名が『本覚深誓』と一字違い
伊賀地方では血縁でない限り、ありえない戒名
この二人は兄弟であったか、実は同一人物であったか
- 40 :
- 藤林一家は紀州流を称して萬川集海を書いたんじゃね?
- 41 :
- 今甲賀の派閥はまだ動かせるか?
- 42 :
- 伊賀服部氏は当初は足利将軍家に使えてたが、
故あって三河に流れて松平氏に使えたと聞いたが本当?
- 43 :
- 忍者はそれほど強かったとは思えない
戦いのプロである侍の方がまともに戦えば絶対強かったと思う
- 44 :
- 織田信長の軍勢により大虐を受けた伊賀忍者衆が江戸時代、
無足人という名のもとに下級武士に組み込まれる。
- 45 :
- ■秘伝の忍術資料35点 伊賀の忍者博物館で企画展
http://www.isenp.co.jp/news/20070328/news15.htm
■NINJAフェス開幕 伊賀の各所でイベント多彩 .
http://www.chunichi.co.jp/00/mie/20070325/lcl_____mie_____004.shtml
■「伊賀観光をPRするでござる」 甲賀市、手裏剣対決に敗れノルマ ..
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007032900043&genre=I1&area=S00
- 46 :
-
- 47 :
- >>43
一応、小説でもなんでも達人クラスの剣士には幻し惑しも死角からの飛び道具も効かないことに
なっております。
- 48 :
- >>43
甲賀とかは正攻法で戦って勝てない相手に勝ってるわけで…
正面斬って戦わせても意味無いだろ。
- 49 :
-
- 50 :
- 伊賀とか貧しい小国なのに、どうやって生計を立ててたんだろ?
- 51 :
- 六角さんを匿ったのは甲賀だっけ。
>>50
自給自足w
- 52 :
- >>50
普通に農業や商工業では?
都も近いことだし。
- 53 :
- でしょうね。
- 54 :
- 行ってみたら意外と広かったね伊賀上野。街道の要所だし。
山地を抜けていくといきなり視界が開ける感じ。それなりの国力も有ったんじゃない?
ただ、服部川の水害の碑とかも有ったから農業収入は安定していなかったかもな。
元は琵琶湖だろあのへんの平地は?
- 55 :
- 東大寺の荘園だよね、多くが。
- 56 :
- そういや、戦国以前には伊賀に守護大名はいなかったの?
- 57 :
- 水戸黄門の飛猿は「その道連れは伊賀の国、山また山の山里を、見下ろす山は忍びの里と〜」
なんて名乗ってたら忍者だってばれてしまうんじゃないか。
- 58 :
- 「国人」と「地侍」は全然違うんだけどね。
- 59 :
- >>57
鬼若は柘植出身だったね。
- 60 :
- コロッケは陰陽師だった
- 61 :
- >>59
島田魁
- 62 :
- 半蔵正成が実際に統率してた伊賀同心て江戸以前は何やってた連中なの?
- 63 :
- ふつうに物見だったのではないかな?
- 64 :
- >>62
普通に土豪・地侍でしょ?
- 65 :
- 諜報活動とかするわけじゃなく普通の武士と変わらなかったのかな
- 66 :
- >>65
国内での豪族間の話じゃないの?
伊賀国内ですら六角派、仁木派、北畠派、独立派に割拠していたわけで。
- 67 :
- >>66
仁木派って実態がよく分からん・・・
- 68 :
- 高倉神社【たかくら】(三重県伊賀市西高倉)
本社祭神
高倉下命【たかくらじのみこと】
倭得玉彦命【やまとえたまひこのみこと】
境内看板
高倉神社略記
祭神 高倉下命【たかくらじのみこと】
神武天皇東征の功神にして倉庫守護 延命長寿の霊験あり 七代の孫 倭得玉彦命この地に
移り住んで祖神を祀るを最初とする 東、西高倉地区の氏神なり
創建は古く垂仁天皇のころと伝え貞観三年(八六一年)従五位下の神階をうけ 国史見在社で
あります
現社殿は 天正二年(一五七四年)に伊賀国守護職仁木長政の造営
一間社流造りで桧皮葺の本殿を中央に右に八幡社 左に春日社と三社信仰を今に伝える古社
日本最古の補陀落寺町石の補陀落寺は 当社の別当寺であります
ttp://www.geocities.jp/miniuzi0502/near-j/takakkura.htm
- 69 :
- >>68
>伊賀国守護職仁木長政
仁木義視と同一人物?
--------------------------------------------------------------------------------
仁木義視(にき よしみ) ????〜????
○友梅
伊賀守護として、1571年織田信長の支援を受け、伊賀に入国。
しかし、国内に割拠する土豪をまとめきれずに、その反抗に遭い、1578年伊賀を追放され
甲賀に逃れた。
ttp://web.kyoto-inet.or.jp/people/sn-dos/sengoku/l_ni.htm
--------------------------------------------------------------------------------
- 70 :
- 信長の家臣団には「長政」の名があるね。
- 71 :
- 前々からの謎。
資料とか無いのかな?
- 72 :
- 仁木 長政 (にき ながまさ)
生没年不詳。
入道号友梅。いの「長政」は、「高倉神社棟礼」による。
伊賀の国中に威を振るい、阿べ郡・山田郡あたりを支配していたらしい(勢州軍記)。
永禄十二年(1569)七月、信長の北畠攻めに先んじ、滝川一益を介して信長に降る(新津秀三朗氏文書)。
次第に伊賀において力を失ったか。
伊賀国衆の一揆を押さえ切れず、伊賀は信長の手を離れる。
天正九年(1581)九月の信雄による伊賀攻めにより、伊賀はようやく信長の下に属した。
同十年六月、本能寺の変直後後に、伊賀で一揆が蜂起すると、これに対抗。。
早飛脚を立てて信雄に注進し、加勢を求めた(勢州軍記)。
- 73 :
- >>55
「悪党」と言われる連中が出現するまでは。
それ以後は惣村を支配する地侍がウジャウジャと乱立。
- 74 :
- 楠木正成とか?
- 75 :
- 赤目対黒邪気
- 76 :
- ケムマキ家は?
- 77 :
- 服部家は近衛家から分派したんだっけ?
- 78 :
- 伊賀つばがくれって創作?
- 79 :
- >>77
自称の範疇じゃないの?
- 80 :
- >>77
服部氏は「はとりべ」と読むらしく、秦氏の流れをくむ渡来人らしいけどね。
- 81 :
- 服部半蔵は忍者じゃないでしょ?
- 82 :
- 果信居士は?
- 83 :
- >>82
誤字はともかく、ありゃ妖術師の類でしょ。
- 84 :
- >>81
忍者を配下に持つ者が必ずしも忍者である必要はないでしょ。
山岡道阿弥なんかも甲賀衆を抱えたけど忍者ではないし。
- 85 :
- ●山岡一族、近世へ
ところで、戦国末期の山岡氏に関して、諸系図によって人名が一定しないが惣領が景隆で
あったことは共通している。
景隆には景佐・景猶・景友らの弟があり、景友は園城寺光浄院の僧侶であったが還俗、
元亀三年(1572)、足利義昭から山城半国の守護に補任され、山岡道阿弥の名が知られる。
天正元年(1573)義昭が信長に反旗を翻すと、西近江で呼応し、近江の一向一揆を糾合し
て石山・今堅田に城郭を築いて呼応したが、あえなく落城、明智光秀の軍に降伏したようだ。
天正十二年(1584)、道阿弥は織田信雄に属して伊勢峯城に拠って秀吉と戦った。
のち、豊臣秀吉に仕えて御伽衆となり、関ヶ原の合戦では家康に随従して、北伊勢の諸城
を接収した。
戦後、その功で戦後近江に九千石を与えられ、慶長八年(1603)には常陸古渡一万石を領
する大名に出世した。
(以後略)
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/yamao_k.html
- 86 :
-
やっぱり仁木氏でしょう。
- 87 :
- >>86
渋いね。
- 88 :
- 守護というより在地の一領主だよね。
- 89 :
- 旗本に仁木家があったけど、綱吉が将軍に就任した際に
館林藩士から取り立てられた家柄。
伊賀仁木氏と関係があるかは不明。
- 90 :
- 館林の仁木氏ということは榊原氏の絡みでしょう。
榊原氏は仁木氏に系図を繋げているので。
- 91 :
- >>90
ということはご本家さんはどこに行っちゃったんでしょうね?
現地に資料は残っているのかな。
- 92 :
- >>91
没落
- 93 :
- やはり百地丹波
- 94 :
- 伊賀の亀井家の御子息をどなたかご存じないですかねー
すごく大きな館みたいな家だったらしいんだけど・・
昭和30年ぐらいから消息がわからないのですが・・ 古い話です。
亀井家には辻本家(これも大きかったらしい)に嫁入りした
辻本薫子夫人という方がいらして、御子息は亀井義明を名乗ったお聞きしてますが・・
もう、居られないかな。相当なお歳だろうし、なんでも豊臣氏からの縁者だったそう。
お役所の中にそのようなことが判るところがありますかねー。
亀井・辻本ともに伊賀地方の名士・有力者が多い名ですね。
名張市長も亀井さまだし、確か辻本という名もお歴々のなかにあったと
記憶しますが・・
本家は阿保大字羽根と聞きましたが、尋ね当たりません。
別の場所かもしれません。亀井さんの縁者さん、知人の方ご存じないかなー。
場違いですみません。
- 95 :
- 知らんっての。
- 96 :
- やはり風魔が最強。
- 97 :
- やはり秋葉流
- 98 :
- 足利義尚の六角攻めのとき、甲賀の忍者軍団が将軍の陣を襲ったそうですね。
- 99 :
- >>98
その時の傷が結果的に死期を早めたなんて説もあるけどどうなんだろ?
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