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2011年11月1期10: 豊臣政権の五奉行を語れ (295) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼

豊臣政権の五奉行を語れ


1 :07/02/18 〜 最終レス :11/11/14
豊臣政権末期に政権の実務を担い
五奉行と呼ばれた五人の吏僚について語りましょう。
* 浅野長政(甲斐甲府22万石)
* 増田長盛(大和郡山22万石)
* 石田三成(近江佐和山19万石)
* 前田玄以(丹波亀岡5万石)
* 長束正家(近江水口5万石)
石田三成は単独のスレッドがあります
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150512127/

2 :
>>1
スレ立て乙
ところで前田玄以と増田長盛は家康に内通していたが
長盛は改易され、対照的に玄以は所領を安堵された。
この二人の処遇の違いには何の思惑があるのだろうか?

3 :
( ´゚ω゚` )

4 :
みんな仲悪すぎ

5 :
>>2
玄以は公卿や僧侶に独自の人脈を持っていたからでは?

6 :
バックボーンがバラバラなメンバーだな

7 :
西軍の中心人物であるにもかかわらず助命されたのは、前田玄以もそうだが、
伏見城や関ヶ原に出兵せず、自らの手を汚さなかったためと思われる。
ただ、家康は長盛を仇敵と憎んでいたらしく、大阪落城の直後に自させている。
前田玄以の孫3人も同じ頃自させられており、家康の執念深さはすさまじい。

8 :
基本的に各分野のエキスパートの能吏集団。
浅野長政はまとめ役だったのだろうが
執行官としての威厳をもっと持たせるために
みんなもう少し禄高を上げてやって欲しかったね。

9 :
いや、奉行衆の石高は妥当なところだと思うぞ
ただでさえ君主の側近に侍り大きな権限を持ってるのに、
大封まで与えてしまえば増長してしまうでしょ

10 :
>>1
末席の長束カワイソス。

11 :
>>10
長束は新参で一番若かったからね。
但し、実質15万石程度の実収があったとか

12 :
長束、前田、増田の三奉行は石田三成が謀反をおこしたと本気で
思っていた。だから西軍の動向を家康に通報していた。

13 :
>>11
長束殿が一番若輩だったんですな。勉強になりました。

14 :
浅野家が一番生き残ったわけだが、
太閤の義弟でありながらも実は、
一番の親家康派だったからか?

15 :
家康自体が秀吉の舎弟分だと考えれば回り義兄弟だし。

16 :
>>14
北政所様系だからじゃね?

17 :
長束正家
同じ奉行として、関係深かったが戦意はなかったようだ。
前田玄以・増田長盛
長束同様の関係だが自分が惜しかったか裏で三成を裏切った。

18 :
関ヶ原の後、豊臣恩顧の大名をまとめるために、淀殿が五奉行体制を構築しなおせば良かったのに。
例えば新五奉行に、加藤清正・福島正則・浅野幸長・前田玄以・蜂須賀至鎮とか

19 :
行政官僚に大大名、しかも親藩で武闘派っぽいのってのはどうなんだろう。

20 :
豊臣家や秀頼に対する淀殿の影響力は絶大だったろうが、
豊臣政権に対する影響力なんて皆無に等しかったと思われ

21 :
長束だけが、他家から移籍してきた外様か。

22 :
五人の担当分野はどうなってたの?

23 :
三成の執権政治

24 :
>>22
長束→鍋奉行

25 :
石田や長束の子孫はいるの?

26 :
 

27 :
>>22
長束は、財政経理担当、今風に言えば財務経理部長。
増田は、名判官と呼ばれてたらしいから、庶政庶務担当かな…。総務部長。
石田は、太閤の側近で、天下の枢機担当って感じ…。天下の検知から、大名の配置、太閤の遺命にまで参画した。社長室長兼秘書室長。
前田は、公家寺社担当で京都奉行。
浅野は、太閤の最古参の家臣の一人で、奉行の中で、唯一尾張出身で、太閤の縁者。人事部長。
以上、関ヶ原400年記念に、岐阜県が発売したDVDから(監修は、堺屋太一)

28 :
石田彰
浅野真澄
前田愛
増田裕生
名塚佳織

29 :
増田って土木じゃなかった?
浅野が司法,石田が行政,前田が宗教,長束が財政
ちがふ?

30 :
>>29
そんな機能的に分かれてるわけが無いだろ。
とりあえず何でも「手の空いたのがやる」体制だろ。

31 :
>>25
素足に革靴の人

32 :
素足に革靴=水虫
前に兄弟でテレビに出てた>三成子孫
岩手だか青森だかで漁師やってるって

33 :
浅野とか石田、増田は状況次第で検地も取次もこなすけど
前田(京都所司代)と長束(勘定奉行)は割とはっきり職務分かれてないか

34 :
>>32
津軽為信が南部家から独立する際に三成に便宜を計ってもらったので、その恩義で関ヶ原合戦後に三成の子を引取ったらしいな

35 :
さらに娘を妾に迎えたものだから代々津軽藩主の血脈に
石田三成の血が・・・

36 :
>>1
>五奉行と呼ばれた五人の吏僚について語りましょう。
当時の五奉行=現在の五大老だったと聞いたことが。

37 :
五大老は五人の奉行とよばれていた。
五奉行は五人の年寄り(大老)とよばれていた。

38 :
>>37
豊臣家の三中老は、三成らより格下になるのかな?
それならば、存在感の薄さも理解できるけど。
今までは五大老の下に、三中老がいたと思ってた。

39 :
>>38
こんな感じでしょ
五大老=閣僚
三中老=副大臣
五奉行=各省事務次官

40 :
>>39
例えは分かるけど、実権はどうなんだろ?
三中老に確固たる役目や権限とかはなくて、名誉職というオチは無し?

41 :
>>40
豊臣家の機構自体適当な組織だからなあ…
徳川期みたいにきっちり決まった官僚機構があるわけじゃ無いし。
大体中老って物自体実際あったのかってのも疑問がw
まあ大雑把に中老ってのは、内閣と省庁の間の調整役みたいに考えればいいのでは?

42 :
徳川の官僚制度がしっかり整ったのは三代将軍家光の頃でそれまでは豊臣政権以上に適当

43 :
浅野と石田が消えた時点で機能不全だな。

44 :
>>43
むしろ秀吉が消えた時点で機能不全起こしているような。

45 :
今までの独裁者秀吉の個人秘書、所謂出頭人的存在から、
秀吉が死亡しても機能不全を起こさないように改めて政権内での位置づけを明確にしたのが五奉行なんだけどね
実際に秀吉死後には大老連中と協議してスムーズに諸将の朝鮮からの撤兵を成功させてる
家康が豊臣恩顧の連中の対立を煽らず、むしろ秀吉に頼まれたように
彼らを押さえつけてくれたら問題なかったんだろうけど、それは仕方ないな

46 :
そもそも、五奉行って何か無茶な事やったっけ?

47 :
三成に島左近あり。
長盛に渡辺了あり。
では正家には?有名な家臣はいたのかね?
まあ、いなくとも、関が原で島津と石田の間にでも布陣していれば、
戦局も多少は違っていたかもね。
島津の1,500に参戦の要請をするほど、兵数を三成が欲していたからね。
それか、崩れかけた小西勢を横から助勢するとかしてもいいよな。
三成は、せめて正家くらいは関が原に引っ張っていくべきだったな。

48 :
>>42
それでも家康・秀忠の代に破綻しなかったんだから、
豊臣家の仕組みより強力に思えるが。

49 :
家康や秀忠がしっかりしてたからな>初期江戸幕府
それに江戸時代初期はまだまだ豊臣家とか朝廷とか
戦国生き残りの有力外様大名みたいな紛争の火種が山積み状態
そういう不安定な状況ではかっちりした官僚行政機構組み立てるよりも、
ある程度将軍の独裁が発揮できて変事に臨機応変に対応できる制度の方が理にかなってた

50 :
豊臣家の場合せっかく育ち始めてた官僚機構を、秀次成敗の時に秀次と一緒に自分でしちゃったのが大きい。

51 :
秀吉が五奉行みたいな制度を整えたのは秀次粛正後だが
何か勘違いしてね

52 :
>>51
秀次は関白としていわば日本国首相の任を負っていた。実際に軍事権以外の行政権はほぼ任されていたわけで。
そのもとで「豊臣家官僚」が育成され実際に政府を構成していた。前野長康なんかがその首班と言っていい。
それがあの事件で一夜にして豊臣家官僚やその候補が霧散した訳だ。そのため秀次事変後秀吉は
五奉行みたいな「私的諮問機関」で、当座の政権を作らざるを得なかった。

53 :
五奉行は秀吉の私的諮問機関なんかじゃなくて
豊臣家のれっきとした政権運営機関だよ
あと関白秀次に大した権限なんて無かったよ
実際に彼の出した朱印状は後で秀吉が追認の判を押したものが多い
彼の最大の政治的業績といえば朝鮮出兵の際の人掃令だが、
これにしたって秀吉に命じられたことをそのままやっただけに過ぎない
前野長康が豊臣家官僚の首班ってそれこそ何か勘違いしてるとしか思えない
ただの秀次の付家老だろ
長康の署名した行政文書が果たしてどれだけ残ってるというのか

54 :
長束は経理関連の能力がずば抜けてたみたいな説明をよく見るが
実際どうすごかったのかよくわからん
石高も前田以外の3人と比べて低いな

55 :
天下無双の算術使いカコイイ

56 :
九九を12×12とかまで暗記してそう>長束

57 :
>>56
そのぐらいなら小学生高学年の半数でもできるw

58 :
今の小学生は絶対無理だ…

59 :
>>47
長政は?
玄以は?

60 :
秀次へ関白職を譲った後も、秀吉と諸大名は封建的主従関係にあるわけですから、秀吉が最高権力者であることに変わりない。
しかし、豊臣政権は関白を首班とする公儀体制を敷いているため、すべての行政手続は関白の決裁が必要である。
秀次事件により関白不在となっても、秀吉と諸大名との関係に変わりはないため、政権の運営には支障はない。
しかし、いずれ関白に就任する秀頼のため、公儀体制を再構築する必要に迫られた。
こうした状況の中で豊臣家諸奉行の取りまとめ役となった者が、後世、五奉行、三中老と称された。

61 :
前田利家の死後短期間で
石田三成、浅野長政両奉行が罷免・蟄居され
利家の後継の利長も大老職を解任
上杉景勝が謀反人にされてるところを見ると
五大老・五奉行制はかなり脆弱な組織なのかも
まあ家康が狡猾ともいえるが

62 :
五奉行に名目上の序列は存在しないだろうが
一応、政治担当で公家にも顔のきく前田玄以がやや抜きん出てて
それに次いで石田三成、浅野長政だったんじゃないかね。
経理実務の最高執政官は長束正家だったはず。

63 :
>>61
オレも疑問なんだが、基本は五奉行は石田で豊臣政権派で五大老も上杉
宇喜多、毛利は石田派ならみんなの前で家康糾弾できなっかたのかな?

64 :
>>62
確か前田、浅野、増田、石田、長束の順だった気がする。
秀吉の葬儀の時もその順番じゃなかったかな。かなり危うい記憶だが。

65 :
>>61
仲裁・調整する三中老が全く機能してなかったからね。

66 :
>>64
なるほど。それで序列が下位の三成が「合議制」なのをよいことにして増田、長束を味方に引き入れて
自分の意思を「五奉行の多数決による総意」という形で引っ張りまわしてたわけか。

67 :
いちおう筆頭というか代表は浅野じゃなかったの?

68 :
そう
五奉行首座は浅野長政

69 :
五奉行という言葉に惑わされれはいけません。
豊臣家の組織は全くの未整備状態。
さまざまな案件に対して、
秀吉が適当な家臣に処理を命じる。
その取り纏め役になることが多かったのが
浅野、石田、前田、増田、長束。
役職としての五奉行なんてものは存在しなっかのでは。

70 :
いや、たしかに政権運営はそんな感じでやってたけど、死ぬ直前に
ちゃんと名指しで五奉行制を定めてる

71 :
秀次事件で浅野が蟄居してた時は、宮部継潤と富田一白がメンバーに加わってたんだな。

72 :
保守

73 :
五人の能力もさることながら、性格も相互補完する関係にあったのだろうかな?
浅野と石田は不仲のようだが。

74 :
てっきり三成が五奉行首座だと思ってた。
秀吉にも気に入られてたし、関ヶ原起こしたのも彼だし。

75 :
>>74
実力者だけど、席次は下位。
関東軍じゃないが、司令官より参謀が権勢を振るって感じw

76 :
何で利長が解任されたのかが今だよくわからん

77 :
 

78 :
奉行衆の石高が子飼い武将の嫉みを呼んだのか
特に石田治部とか石田治部とか

79 :
石田の石高を妬んでた子飼いって誰?
石田を特筆する理由はなに?

80 :
>>73
石田と浅野長政の不和はどうなんだろう?って話があるな
仲が良かったという確証もないみたいだが…
浅野は根っからの親家康に見えるけどそれはあくまで後世から見ての話で
見方によっては長政は秀吉の死の前も後も豊臣政権寄りだったと見ることが
できるって説を見たことあるが……なにで見たんだっけな。

81 :
>>80
豊臣政権よりでも石田路線支持とは限らんわな。

82 :
石田路線ってどんなの?
とにかく家康排除みたいな?

83 :
>>80
江戸時代も大名として残ったから、親徳川って見られてるんだろうな。
でも、家康暗計画の謀議に加わったとして、蟄居されてる。
家康と組んで行った出来レースと言われてしまえば、仕方ないけど。

84 :
>>82
結局は家康を体制の中に置くか外に叩き出すか、って路線じゃね?
家康と決戦して勝てばいいけど、負ければその覇権を確立させるだけだし(実際そうなったし)

85 :
浅野は余裕で生き残り
石田と長束は一応子孫がいるが
前田と増田はどうなったんだ?

86 :
>>85
浅野は息子の長晟が家康の娘(蒲生の中古)を孕ませた功績で生き残った。
高齢出産で出産後すぐに家康の娘が亡くなり、母のいない光晟を家康や秀忠が
不憫に思っての家康の外孫としての御家存続らしい。

87 :
玄以の子孫は旗本
長盛は息子が大阪の陣で反徳川に付いた責任を取らされ自決、子孫無し

88 :
長束や増田は関ヶ原で評価を落としてるよな
秀吉が奉行に任ずるだけあって素晴らしい政治家なんだろうけど

89 :
浅野は所領が西日本にあったらな〜

90 :
>>11
関ヶ原直前には12万石に加増されてる。
石高以外では細川と縁が深かったようだ。正室は本多忠勝の妹だった。

91 :
【密かな】浅 野 家【勝ち組】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1201266891/

92 :
>>88
政治家ではなく官僚だな

93 :
大谷刑部が病さえなければ五奉行入りしていたという話は

94 :
>>93
五奉行ってそんな固定化された組織じゃ無いだろ。
たまたま5人が指導的地位にいたから五奉行って呼ばれただけで。
6人いりゃあ6奉行になってたさ。

95 :
七人いれば7奉行か。竹下派の7奉行って誰々だったっけ。

96 :
橋本龍太郎 小渕恵三 梶山静六
小沢一郎 羽田孜 奥田敬和 渡部恒三

97 :
>>96
勉強になりました。

98 :
【武勇】豊臣政権の武将を評価する【政治】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1204538915/

99 :
実は、五奉行が大老(年寄)
実は、五大老が奉行

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