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2011年11月1期戦国時代51: 【武田完勝☆】三増峠の戦い【北条涙目wwww】 (741)
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【武田完勝☆】三増峠の戦い【北条涙目wwww】
- 1 :07/11/04 〜 最終レス :11/12/02
- 武田完勝ですがそれが何か?
- 2 :
- 麻っ生
- 3 :
- >>1の野郎、反論を心待ちにしてケツマンひくつかせてやがるぜ
- 4 :
- 理由頼む
- 5 :
- モーホーだから
- 6 :
- 逃げ切ったという点では武田の勝ち。
ま、幹部級の死者を出した時点で完勝はねぇよ。
- 7 :
- まあ、氏康、綱成の無敗ゴールデンコンビなら大勝していただろうな。
- 8 :
- この後なんで同盟したの?
- 9 :
- いちいち個別スレまで立てるようなことでは無い思う。
- 10 :
- >>8
西
- 11 :
- >>9
武田はともかく引き篭もり北条は人気ないしな。織田、上杉、武田、伊達辺りじゃないと伸びないだろうな
- 12 :
- 北条は地味で「華」がともかく無いからな。
ま、そこが良いんだけどね。
- 13 :
- 1.信玄の評価すべき点2つ。
(1).謙信は、10万で小田原を包囲したが…
信玄は、機動戦で滝山・鉢形城を釘付けにし…
わすが2万で、小田原までたどり着いたこと。
(2).北条に初めての総動員令を出させた事(2回目は猿の小田原戦役ね!!)
2.北条の評価すべき点
正規軍2万+(1.の(2).で前述した)寄せ集め2万で…
信玄包囲網をあっというまに作り上げるまでの家臣統制は見事!!
信玄は首実検をせずにとっとと甲斐に帰国した。
もともと駿河が目的だしね!!
- 14 :
- ↓わからん人はここをつついて頂戴
三増峠の戦いと武田信玄の相模原行軍…小田原攻め
http://www.rekishi.sagami.in/mimasu.html
相模原の歴史シリーズHP
相模原市などの歴史
古代・中世・近代に渡り相模原に関係する歴史をご紹介
- 15 :
- 感心して読み進めていたら最後で吹いた。
おいおい、ソースがウィキとか個人サイトとかそれでいいのか?w
- 16 :
- >>15さんへ
わたしが書いてもいいんだが…長くなるからね。
だいたい合っているし…
- 17 :
- あってるってならそれに見合う持論を展開してもらわなきゃ困る
- 18 :
- まあ北条なんて武dくぁと比べると弱っちいから、帰国中の行軍部隊狙っても惨敗食らわせられるありさま
身の程知らずな事しなきゃ痛い目見ないで済んだのにね
- 19 :
- 続きは釣り堀でどうぞ
- 20 :
- >>17さんへ
3ヶ月ぐらいかかってしまうけど…それでもいい?
- 21 :
- 北条、毛利、長宗我部・・地元では実力者なんだが全国区では今一地味で目立たない
伊達、島津・・実力があり知名度もそこそこあるんだが中央から叩かれまくり
今川、朝倉、大内、三好、大友・・噛ませ犬的な存在
斉藤、宇喜多、佐竹・・結構、楽なポジション
上杉、武田・・実力もあり中央にも進出
織田、豊臣、徳川・・全国区メジャー
- 22 :
- >>20
OKだ
- 23 :
- この人ホントに資料持ってくるからちょっと期待w
- 24 :
- 三増峠の戦い自体より、同時期の政局での武田完勝、北条涙目っぷりが面白い。
- 25 :
- 信玄の一人相撲
- 26 :
- 謙信も同時期の外交では信玄には敵わないまでもまあまあうまいことやっている。
- 27 :
- 北条幻庵ってどお?さん そろそろまとまったでしょう。
ここで発表して下さい。
- 28 :
- みんなスマソ!!
今川義元敗死(永禄三年5月19日)〜信玄の箕輪城攻略(永禄九年9月29日)までを…
只今、調査中!! もう3ヶ月欲しいのだが…、もしくは連載という形でもイイ?
なんせ謙信愛好家に捕まり、成田氏の調査リポートで1〜2ヶ月かかったんでねェ。
↓ココね!!
【毘】上杉家を語る 九【義】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1190692932/
返答レス下さい!! 恐々謹言。正月廿六日。
- 29 :
- 只今、「義信幽閉」(永禄八年9月)から「本庄繁長謀反」(永禄十一年3月13日)まで調査中。
3つ疑問が生じたのですが…
知っていたら何でもいいのでレス下さい。
1.美濃岩村城主遠山氏と同苗木城主遠山氏が弘治三年(1555)9月から信玄に属していた論文があるらしいのだが…
著者は、高田徹さん、三宅唯美さん、横山住男さんです。
2.今川氏真の時代、武田信虎が謀反を起こしたとか。このことについて。
3.越相同盟スレにも書いたのだが…
「北条が沼田へ行った」との情報元なのですが…
これは「永禄十一年十二月二十四日の本庄→北条氏照宛て文書。」のことなのでしょうか?
これについて何か知っていたら、何でもいいので是非、教えてください。
- 30 :
- 訂正
×横山住男→○横山住雄
- 31 :
- 只今、「信玄の第一次駿河侵攻」(永禄十一年12月6日)から「薩垂峠の戦い」(永禄十一年4月24日)まで調査中。
&
やっと、第一幕「なぜ信玄は駿河を攻めたのか?」 の執筆に取り掛かる。
- 32 :
- 第一幕「なぜ信玄は駿河を攻めたのか?」 の8/10ぐらい完成!!
あと氏真側からの見解と2ちゃんに掲載するショートver.のみ
第二幕第一場「信玄の第一次駿河侵攻・興津川の対陣」(永禄十一年12月6日から永禄十二年4月24日まで)の草案執筆中。
第二幕第二場「信玄の第二次駿河侵攻・大宮城陥落」の調査中。
- 33 :
- 待ってます。
- 34 :
- 正直京に近い西側の領土を抑えられてしかも信玄の西進に軍勢貸すとか従属とまではいかないけどかなりイニシアチブとられてる気が・・・
まぁ北条に天下統一の意思はないしあの時点で織田と武田をぶつければ漁夫れるってのもあっただろうけど
- 35 :
- >>34
単純に関東以外興味なかったんだろう。
逆に関東での上杉戦とかでは兵を借りてる訳だし。
少しでも北条家が京で名を上げる意志があるなら、北条家など名乗らずに
由緒正しい伊勢家を名乗っていた方がはるかに有利だったはず。
それをわざわざ捨ててある意味簒奪者と言っても過言ではない執権北条氏を名乗ってまで
関東を支配した存在にこだわってた訳だから京がどうだろうと別にどうでもよかったんじゃないか
- 36 :
- ロングヴァージョンは2chのアップローダーに上げて置きました。
↓ここのHPにある
http://www-2ch.net:8080/up/
DL 三増峠ってどお?.txt ってファイルを検索してみてください。
二チャンネル掲載。ショートver.
第一幕第一場「なぜ信玄は駿河に攻め入ったのか?」
「戦争を理解するには、まずそれを生んだ政治の状態を考えなければならない」
(クラウゼヴィッツ『戦争論』第一編第一章)
という訳で、長くなりますが…
三増峠の戦い(永禄十二年(1569年)10月6日)は、
信玄の第一次武蔵・相模侵攻(以下、武相侵攻と略する。
永禄十二年8月24日から10月7日まで)の中での一合戦に過ぎず、
その武相侵攻は同じく信玄vs.北条(永禄十一年12月6日から元亀二年12月27日まで)の一作戦に過ぎない。
なぜ信玄vs.北条が起こったのか?というと、
駿河の支配権をめぐる争いである。
では、なぜ信玄は駿河に攻め入ったのか? 理由は3つ。
1.「力の均衡」.バランス・オヴ・パワー(Balance of power)が崩れ、武田家にとって三国同盟維持の意味がなくなった。
甲相駿三国同盟締結時(天文二十三年、1554年)と
信玄の箕輪城攻略・西上野占領(永禄十年(1567)を比べると…
(1).永禄三年の「義元討死」と「家康独立」による今川家の勢力衰退。氏真本人曰く「三州錯乱」「遠州惣劇」など。
(2).永禄四年、謙信の関東管領職就任により上杉家の動員兵力が増加した事。しかし、永禄九年の軍事的失策により、関東の勢力圏は沼田・羽生周辺のみとなる。
(3).永禄七年、竹中半兵衛クーデターと永禄八年、信長の東美濃進出による斉藤家の勢力後退。さらに永禄十年、信長、竜興を逐い美濃を制圧。斎藤家滅亡。
(4).と同時に信長の勢力圏が、尾張から美濃、北伊勢に拡大した。
つまり、今川の勢力圏が縮小した事。
信玄、謙信、北条は確実に勢力圏を広げている事。
信長の勢力圏が急激に拡大し、信玄と境を接するようになった事がわかる。
2.北進政策一筋から多方面政策への「転換」(ランヴェルズメン、Renversment)
「第4次川中島の戦い」で謙信の実力を嫌というほど味合わさせた信玄は、
以降、西上野(永禄四年11月から同十年5月まで)、飛騨(永禄七年6月)と、
謙信の友好国かつ越後攻めに比べて抵抗が少なく、
より簡単に勢力圏に組み込むことが出来る地域にも侵略の火の手を上げていく。
両国とも永禄十年には、一応、信玄の勢力下に入るメドがついた。
そこで、越後・美濃・駿河・遠江・相模・武蔵の中から次の侵略国を見つけなければならない。
そこで信玄は大勢力の信長、北条とは争わず、自分の勢力圏よりも小さい謙信、氏真に目標を定めたのである。
3.義信と勝頼…「今川重視」→「信長重視」へ
(1).「義信幽閉」(永禄八年(1565)10月)と「勝頼祝言」(同年11月13日)
幽閉の原因は、1〜2で見てきた外交政策の転換を巡る対立か?
信玄は動揺する家中を一つにまとめるために一族・譜代・他国衆(国人)から起請文を取ったり、
守護の特権の一つである彼らに対する「軍事指揮権」を使って、
若き自分が全否定した父信虎と同じく家中統制を強化しなければならず、
そのためには早急に新たな侵略目標を定めなければならなかったのである。
家督相続直後、諏訪氏攻略の兵を上げたように…
(2).「義信死」(永禄十年10月19日)と「信勝誕生&信忠と松姫の婚約」(同年11月)「義信室の駿河帰国」(同年11月または12月)
義信の死は自動的に勝頼が跡継ぎに決まった事を意味する。
加えて信勝誕生と信忠婚姻により信玄と信長がさらに絆を深めたのに対し、
氏真にとっては武田との主要なパイプが一本切れ最も有力なシンパを失う結果になる。
義信室の駿河帰国によって甲駿関係は、
人質を介するより安全な「同盟」→ただの起請文を交わす「盟約」に転じ、
今川家も「侵略候補国」に定められたのである。
その後、信玄は信長の仲介・斡旋により、永禄十一年2月16日、家康と駿遠分割協定を結び、この時点で信長は京へ、信玄は駿河へ進攻する密約が成立したのである。
- 37 :
- >>35
御館の乱でも動きが鈍重だしな
うまくいけば能登飛騨まで北条の力が及んだのに
- 38 :
- 田舎大名同士の不毛な争い
- 39 :
- 武田方も一門衆の将とか討取られているし言われるほど完勝だったのか疑問
荷駄を放棄せざるを得ないほどだったので、帰った武田兵が飢えと寒さで自国領で略奪するほどの逃げっぷりだったし
- 40 :
- 領土は取れなかったけど手痛いダメージ与えたら勝ちなのか
そ〜か
んでは川中島は上杉勝利でよろしいか?
- 41 :
- >>40
言われてみればそうだ
- 42 :
- >>40
その川中島で領土を守ったのが武田でダメージを与えたのが上杉、だからこそ勝敗がわからんけど
これを三増峠に当てはめると領土を守ったのもダメージを与えたのも北条にならないか?
- 43 :
- >>40
もともとあれは領土狙いじゃないだろ。
小田原焼いて3日でさっさと引き上げてるし。
それを追跡してきた部隊を追っ払ったまでで。
- 44 :
- >>43
追っ払えてるのか?何とか逃げられただけでは?
- 45 :
- 勝ち負けの評価はともかく、武田の狙いが「小田原焼」くことにあったっていうのはいくらなんでも……だわw
- 46 :
- >>44
武田方の軍記だけでなく北条方の軍記でも最後は武田に追っ払われたというのは
共通してるし、北条方の書状でも後半武田が押しなだれてきたというのはあるから
普通に最初は北条が殿相手に押したけど後半は武田が後詰を出して逆襲して追い払ったんじゃね?
2万対6千か7千なんだから順当な結果だろ。
>>45
小田原焼く事で北条に対するけん制にはなったし、越相同盟があてにならない事を示せて
外交的不信感を植え付ける事にも成功したし、武田と結んだ反北条勢力に対するいい宣伝にもなった。
大局的に武田は十分目的を達してるよ。
- 47 :
- >>46
北条五代記の作成時期を考えてみればわかる事では無いかと・・・。
いずれにせよ北条方の被害が全く不明だし、追っ払ったってのは何か記録でもない限り無理があるのでは無いかと。
合戦場から北条方が退いた記録もないが、武田軍は甲斐に退いてる訳で。
- 48 :
- >>47
北条遺臣の三浦がわざわざ武田有利に書かなきゃいけない理由はないと思うけどね。
実際軍鑑に比べれば北条の被害はえらく少なく書いてあるし。
勝ったんなら最後負けた描写入れる必要はないし「負けたのはこれだけ」とか言う必要もない。
そりゃこの戦いは小田原焼いて甲斐に帰る途中で追跡してきた北条勢を武田が迎撃した戦いなんだから当然。
勝っても負けても甲斐に戻るよ。
- 49 :
- >>47
あと一応信玄自身はこの戦いが終わった後に
遠山や諏訪大祝相手に
「帰国途中で追跡してきた6、7千の北条勢を三増峠で迎撃して2千人ほど
討ち取って勝利した。」と書状で書いてるよ。
無論2千討ち取ったとか誇張は入ってるだろうけど。
北条方も勝ったといってるけどね。
- 50 :
- >>48
甲陽軍鑑もわざわざ勝頼やその当時の武田軍を貶す必要は無いよね。
後>>49のその書状の信じるとすると
氏邦も三増峠に参加してすら居ない氏規も討ち取られた事になってしまうんだが。
後の狭山藩主は別人ですか?神流川合戦で戦ってたのは誰ですか?
- 51 :
- >>50
甲陽軍鑑は武田が滅んだ原因を勝頼に帰しているから。
三増峠の段階で三浦が北条をわざと貶める必要はないよ。
実際被害をかなり過小にしてるし。
だから誇張はされてるといってる。
それは北条も同じ。本当に北条の書状にあるように武田勢を宗の者まで含めて
数多討ち取り手負いの者数知れずという状況なら甲斐に帰還した後で
駿河侵攻を行って次々に各拠点を制圧してるのはおかしいでしょ。
まあ返レスが出来るのは結構後になる事をいっておく。
- 52 :
- 被害を過小というけど、何を基準に過小と言ってるの?そもそも被害などはっきりしてないのに。
北条五代記も甲陽軍鑑と同じ、北条が滅んだのは氏康以降の代に原因があるというもの。
有名な汁かけの話もこの講談から来てる訳で。
三増峠合戦時の当主は氏政で、この合戦の大将は氏照、氏政は後詰め。
書状について言えば兵数の誇張と討ち取った大将名の捏造では意味が全然違う。
兵数だけであるならば当時はそう正確に数えられるもんでもないし
そこそこ多く討ち取ったのであれば多めにいうのも充分ありうることだろう。
だが討ち取った大将を合戦後まで間違えるなどというのはありえないし、
参加してない大将名まで捏造してる書状では信憑性という点でまったく信用できない。
それに比べて氏照の書状はあくまで数多く討ち取った〜という程度のものだしその数まで言及してない
実際に武田の後詰めは討ち取られてるわけだし。
- 53 :
- ↑後詰じゃなくて殿だ。
- 54 :
- 武田親類衆で、西上野の統括者だった浅利監物すら討取られているしね、武田側
- 55 :
- >>52
おいおい。三増峠の時は氏康は生きてるし
氏政と一緒に小田原で指揮を執ってる。
さらにいうなら氏政を貶めるなら武田が勝ったのはこの時だけとか
いう必要もないでしょ。
他にも小田原から追撃して千人近く討ち取って最後に武田の反撃で30人くらい
三増峠で討ち取られただけというのはどうみても北条の戦果を誇張して
最終的に負けた事実を過小化してるとしか思えないでしょ。
実際に小田原からの追撃は間に合ってないんだから。
それは結局北条側が戦果を誇張している事も認めるわけだね。
北条自体が最後は敵が押しなだれてきたといってるだろうに。
だから武田にしても勝利してるといえるだけの下地があり
北条側にも最後を除けば勝ってるといえるような下地があった。
ただそれだけの事だろう。どちらも戦果を誇張してるだけの話。
最初は北条が追跡してきて殿に打撃を与えたけど後半は武田が後詰をだして
逆襲し北条側に押しなだれて追っ払っただけの話だろう。
実際に北条自身が敵が押しなだれてきたといってるわけだし。
なぜこの程度の話がここまでこじれるのか不思議だ。
- 56 :
- >>54
というかその割には武田軍元気だな。再開した駿河攻めとかでさくさく領土得てるな。
軍鑑では浅利は鉄砲に撃たれて死んだ事になってて部隊も曽根が指揮を引き継いでるけど。
- 57 :
- >>55
書状や講談の数字で話を拡げても意味無いと思うが。
そしてその部分以外に武田方が勝利したと言える下地などない、
だが北条方はそれ以外にも武田方の撤退と殿軍の戦死というはっきりした結果が存在する。
最後の一行だけ同意だ。
- 58 :
- >>57
だから武田はもともと小田原焼いて甲斐に帰る途中で
追跡されたのと戦ったのだから
勝っても負けても甲斐に戻るのは当たり前だといってる。
北条遺臣が残した軍記でさえ、しかも賞賛する北条氏康が生きていて指揮も執ってる
戦いでさえ最後には被害を過小化してでも負けた事を記さねばならなかった事が
雄弁に語っていると思うがね。
そしてさらには信玄側にも勝利したという書状が残っているのは信玄側にも勝ったと
主張できる下地があったという事だろう。
北条五代記も北条記もそんな流れだろ。
帰る途中の武田軍に対して最初は押したけど最後は追っ払われたって。
その勝ってた部分だけ取り上げて最終的に追っ払われた所を書かなければ勝利を印象づけられる。
もともとこの北条側の書状は上杉に対して虚勢を張った書状で、
相模において武田が働いた、とは書いてるけど小田原焼かれた事ははっきり書いてないんだから。
押しなだれてきた、と書いて追っ払われた事を書かないのも全然不思議じゃない。
北条側にしてみれば上杉に対する外交文書で武田に負けた事を記す必要はないんだから。
- 59 :
- >>58
だから武田が勝利したとできるような論拠は
氏規したとか、数字も滅茶苦茶な書状と講談だけって事。
信用しろという方が無理。
- 60 :
- >>59
北条が勝利したとできるような論拠は
明らかに戦果を誇張し、不利な所は書かないもしくはあいまいにしてる
書状だけって事でしょ。
こっちだけを信用しろというほうが無理だよ。
武田にも北条にも勝利したという書状があり、どちらも誇張してるなら
双方に勝ったといえる下地があったと考えるのが自然。
そして北条側書状でも最後は押しなだれてきたといってて
遺臣がまとめた北条びいきの書物でも最後は追い払われたとあるのだから
最後は武田が追っ払ったと見るのが自然だろう。
2万対6、7千の戦いなら順当な結果だし追っ払われても別に北条の恥じゃないだろう。
- 61 :
- >遺臣がまとめた北条びいきの書物
これって氏政がぐずぐずしていて出陣が遅れたため
合戦に間に合わず負けたっていう話じゃ
典型的な
>北条五代記も甲陽軍鑑と同じ、北条が滅んだのは氏康以降の代に原因があるというもの。
これの一例なんじゃ
しかも北条五代記は軍鑑の影響大だし
- 62 :
- >>60
浅利信種の死のどこに誇張があるの?
実は死んでなかったの?それは初耳。
信玄が書状で討ち取ったと主張してる氏邦や氏規は立派に生きてたけどね。
- 63 :
- >>61
その割には北条5代記には小田原焼かれた事は書いてないし
小田原勢が引き上げる武田勢を追撃して千余討ち取ったとか
実際の北条の書状にすらない事を書いたりしてるし
その後で勝ちに乗じて追撃して三増峠で反撃されて30人くらい討ち取られただけとしたりしてる。
どうみたって氏康がかかわった北条側の戦果を誇張と捏造して
北条側の失態を過小化してるようにしか見えないでしょ。
>>62
浅利は死んでるよ。そりゃね。だから前半は北条が押したんだろうといってる。
んで後半は北条側が敵が押しなだれてきたといってるように武田勢が逆襲したんだろうと
言ってる。
もっとも北条が書状で述べてるほどの被害が出たにしては武田軍はその後も
駿河攻防戦とかでさくさく領土拡大して元気だけどね。誇張入ってるだろ。
足軽を際限なく討ち取って負傷者は数知れずで宗の者数多討ち取りなんて。
- 64 :
- それから例によって返レスはかなり遅くなるのでよろしく。
- 65 :
- 三増峠の戦いってのは、他で例えれば信長の金ヶ崎退陣みたいなもの。
戦術的に言えば、武田の勝利と言えるものではある。殿に被害は出ても、軍はまっとう
させて敵勢力圏からの撤退に成功したのだから。
戦略レベルでいったら、三増峠を含めた、この時の武田による北条領遠征自体が失敗、
敗北になる。目的が達成できてないんだもの。駿河の兵力を手薄にするなんてのは、後世
勝利を喧伝するためにでっちあげられたシロモノ。
小牧長久手なんかもそうだが、戦術レベルの一局面の勝利をやたらと持ち上げることに
よって戦争全体の敗北を隠そう誤魔化そうとするのはいい加減やめたほうがいいよね。
はっきりいって、前世紀の日米戦争を太平洋・真珠湾の戦いなんて名づけて誤魔化そう
とするようなもんだ。
- 66 :
- >>63
だから武田方の勝利といえる根拠は講談と信憑性の低い書状だけだねと何度も言ってるわけだが。
北条方はその信憑性の薄い書状や講談を評価から省いても浅利を討ち取ったという史実は残る。
あとまぁ内藤の率いる小荷駄隊かな、まぁこれはいい。
とにかく武田の勝利を主張するなら客観性のある根拠を持ってきてもらわないと主張になってない。
とりあえずまずは損害すら不明なのに敗北した家というのを俺は今まで聞いた事がない。
>>65
金ヶ崎の合戦は朝倉方の兵数的にもこの合戦より遥かに多いし
北条・武田の国境線付近の三増と違って金ヶ崎は完全に敵地に潜り込んだ状況。
そこを潜り抜けた織田軍は凄いがそれでもこの合戦を織田の勝利とは呼べない。
- 67 :
- 負けてても勝利と言い張るのが当時だからなぁ
素直に負けた、と認めるのは稀だろ
- 68 :
- 第二幕「信玄の駿河侵攻・興津川の対陣・伊豆侵攻」(永禄十一年12月6日から永禄十二年7月まで)の草案執筆中。
- 69 :
- あんまり信玄汚してやるなよ
山梨県民にとっては唯一の観光資源なんだからさ
- 70 :
- 部隊長討ち取ったから俺達の勝ちってまるで川中島の上杉と同じ負け惜しみだな
あきらかに戦略でも戦術でも武田の勝ちだろ
- 71 :
- 深沢城の綱成が矢文にびびって逃げ帰ったんだからそうとう痛い目にあったんだろうよw
- 72 :
- これに関してはサッカーでいうところの
武田軍がアウェーで点を取って引き分けたくらいの感じじゃない?
この戦いそのものは武田軍が優勢で終了したって感じで。
ただし点も取られてので、必ずしも勝利ではないと…
北条がホームで点取られてドローという感じ。ただし
- 73 :
- 敵を城から誘き出し野戦で決戦
三方ヶ原に備えての軍事演習だったんだよ
あるいは謙信の川中島をより完璧にした作戦っぽい
川中島では謙信は最後は挟撃されてボロボロで越後に逃げ帰るが
信玄はほぼ無傷で帰還 しかも戦略目的も見事達成
まあ上洛を見越して背後で悪さしないように北条をしめといたんだろう
- 74 :
- ほんと必死だな?
そこまで武田勝利にしたい理由は何?
- 75 :
- しかし川中島はよく何度も両者譲らず激突したよね。
信長・秀吉・家康は偉大だが、信玄・謙信の粘りも見習いたい。
- 76 :
- >>75
いやいや
どっちかでもゆずってればお互い無駄な時間を過ごさずに歴史も変わってたかもよ
小事に囚われて広い天下が見えなくなった二人の視野の狭さなんて見習わなくてよし
- 77 :
- >>72
優勢だったという証拠が全く無いから勝利が疑わしいんじゃないの?
優勢だったなら殿が討ち取られてるのも変な話だし。
- 78 :
- 戦場での結果は精精痛み分けか、兵力比考えると北条がかなり善戦したってとこじゃ
戦術で考えると北条は主力が遅れて包囲に失敗という不備があったため、
大勝出来る可能性があったのに、痛み分けという結果にしてしまった
戦略的に考えると、北条は無事に武田を領外に追い出すことに成功
武田は大きな被害も出さずに、北条の牽制を行うことに成功
政略的に考えると、北条は上杉との外交が形だけであることを露呈
武田は相越同盟に楔を入れることに成功、多少駿河の守備兵力を関東に戻すことに成功
- 79 :
- >>78
三増峠合戦という局地戦では北条側の勝利だと思うが、
小田原攻めという戦略で言うなら武田の狙いが上手く行ったと言えると思う。
だがこのスレが三増峠合戦のみを銘打っているので小田原攻めの考察は蛇足だと思う。
- 80 :
- 痛み分けや北条優勢なら、氏康本陣は荻野で小田原へ引返さないだろうよ。
痛み分けなら、そのような緊迫した状況や敵が近くにいる以上、氏照・氏邦隊に合流するだろし。
北条優勢でも、氏康本陣は氏照・氏邦隊と合流するだろうよ。追撃して武田に大ダメージにの可能性があるから。
結局、氏康が引返したってことは、攻め手である北条が武田にダメージを与える目標に失敗して、
守り手である武田がうまく逃げて撤退戦が成功の証。
- 81 :
- >>76
小事っていうが、負けると家臣達の知行も失われるぞ?
自分の命だってなくなる。
- 82 :
- スレ違いだなw
- 83 :
- >>81
川中島知らんのか?
どんだけ無駄が多いか
- 84 :
- 甲斐にとって 、海(駿河・越後)田園(信濃)はどうしても必要だっただろうよ。
川中島は甲斐にとって宿命だろうよ。
侵略方向をたとえ変更しても、川中島と似た状況にでくわすだろうよ。
- 85 :
- >>79
確かに小田原攻めと三増峠合戦をセットに考えないといけない。
関東〜小田原 攻め手、武田 守り手 北条
北条の関東の城に打撃を与えて武田の一定の成果。
三増峠合戦 攻め手、北条 守り手 武田
武田にとっては被害を最小限にして甲府へ戻りたい。これが目標。
北条にとっては武田軍に打撃を加える決定的なチャンス。
戦況は北条の圧倒的有利(氏康本隊の合流を含め)
結果的に信玄が不利な状況から返り討ちにして逃げ切った。目標達成。
関東遠征全体をみて、完全に北条は武田に負けたといえるでしょう。
- 86 :
- >>83
無駄と言われてもなあ。
謙信は天下取りたかったわけじゃなかろうし。
武田もそんなものを誰かが取るなんて夢にも思わなかっただろうよ。
信長が一気に天下に近づいたのも半分は誰もが想定しなかった幸運によるものだしね。
だいたい君の父親は大企業のトップや総理大臣なのか。
そうじゃなきゃ小事にとらわれている小物ということにある。
- 87 :
- むしろ浅利勢らが捨て石になった隙に本隊は逃げた、という話になるんじゃないの?
荷駄や物資放棄して自領内で略奪するほどという状況は異様
- 88 :
- >>87
>荷駄や物資放棄して自領内で略奪するほどという状況は異様
よく聞くけどこのソースは?
- 89 :
- >>85
返り討ちにした証拠が一切無い。
>>87
あぁ・・・そういえば
確か甲斐への逃走途中で兵が諏訪神社の一部を壊して暖をとっていたが
何も言えなかったとかあったな、なんだったか・・・。
- 90 :
- >>89
甲斐への帰還途中で諏訪神社を壊すってどんなルートで撤退だよw
お前嘘言うならもっとましな嘘いえよww
- 91 :
- >>90
信玄のことを知りたければ諏訪信仰ぐらい勉強しなさい、恥ずかしい。
- 92 :
- >>91
あのな、ルートの指摘してるのに信玄のこと知りたければとか
まったく見当違いなこといってんなよ
日本語分からないなら恥さらすだけだからレスすんなよw
- 93 :
- 甲斐にも諏訪神社くらいあるよ。諏訪大社と勘違いしてない?
- 94 :
- >>65
んなわけないだろ。
この時の武田の目的は北条へのけん制、越相同盟への楔、反北条勢力への宣伝と
いった事柄。ちゃんとレス見てる?それらはちゃんと達成してるだろ。
>>66
客観的な証拠といわれてもね。北条自身が追しなだれてきたといってるのに。
つか実際の所北条方の書状でも浅利討ち取ったとかいってなかっただろ。
本来なら具体名挙げて大いに喧伝しそうなもんだが。
軍鑑では浅利は流れ弾で死んでるけど案外これは正鵠を得てるんじゃないのか。
しかも曽根がその後指揮を引き継いで戦い抜いてるし。
乱戦の中でその討ち取った相手さえ把握してないような戦死を客観的な証拠とかいわれてもな。
>>69>>74
お前時々思うんだが相手を一人だと思ってないか?
RLWzceg5と俺は別人だから。煽りばっかいってないで多少は中身ある事書け。
- 95 :
- あげちまった。悪い。
- 96 :
- このスレまだあったのね
メガ豚も草葉の陰で喜んでいる事でしょう
- 97 :
- >>94
浅利は死んでるし、津久井郡は北条領のまま武田軍は撤退した
客観的な戦果であることは疑い無いように思うが。
そして武田軍は結局、損害は出たが滝山城で籠城戦を続けていた上に
外様の津久井衆を率いていた氏照が倍以上の兵力を壊滅させられるはずも無く、
甲斐に逃げる事は出来た。北条側の損害は不明。
上記の戦果を見ても普通に北条は勝利側・防衛成功側なので無理に虚勢を張る必要がない。
浅利の事までいちいち書く必要性がない。
そもそも「三増峠合戦」なんて大袈裟なものとすら捉えてはいないのではなかろうか。
小田原戦の中の単なる、衝突の一つ。
それに比べて武田側は結局敗北したからこそ捏造を重ねた書状を書いて
負けてない事を主張する必要があったために、氏規・氏邦したなどというどうしようもない嘘を書いてるわけで。
討ち取った武将の名前を捏造するとか戦果の誇張のレベルじゃない、が、そこに信玄の必死さが見えてしまうわけで。
- 98 :
- そう考えると北条側の書状は内容的には
もう少しで武田に大打撃を与えられたのに逃げられてしまって悔しいみたいな感じだから
自分たちが勝ったこと前提の書状ってことか?
またそんなことを前提に出来るってことは広く宣伝しなくても北条の勝利だって周りには
思われていたってことになるのか?
- 99 :
- >>98
さぁ?周りの考えなど論拠なしにはどうとも言えない。
ただ北条側はそう考えていたのではなかろうか、ということ。
今のところはっきりしている事を比較しても、北条側が負けを意識する要素は全く無い。
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