2011年11月1期28: 【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る4 (70)
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【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る4
- 1 :11/08/20 〜 最終レス :11/11/13
- 明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代、安土桃山時代の武将。
通称は十兵衛。
父は明智光綱のほか、明智光国や明智光隆の説もある。
さらに信長に仕えるまでの前半生には不明な点が多いが、
明智軍記では美濃明智城主として斉藤道三に仕え、その没後は諸国を遍歴したとされる。
-------以上wikipediaより転載---------
その他秀満や光忠などの明智一族、
斎藤や妻木や溝尾や藤田などの家臣も話題も歓迎。
■武家家伝_明智氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aketi_k.html
■前スレ
【本能寺の変】明智日向守光秀【山崎の戦い】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1167303526/
【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298723473/
【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る3
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307845255/
■関連スレ
天海=明智光秀だった!!!
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151671577/
本能寺の黒幕は朝廷だった!
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1305979699/
- 2 :
- >>1
,. '"´ ̄ ̄`丶、
/ 丶
/ ヽ
l :. :;. l なんと・・・なんと言う新スレ・・・
l ::. `' ‐ -- --‐ '" :, l 一切の無駄が無く・・・
/ヽ,' ,.ミ二、‐-‐_二彡、', レヽ スレであることすら主張せず・・・
l久lシ、'=ェ.ェぅ、 ,r'、ェ.ェ=ミッlヘi'l ただ・・・・・・ただここに在る・・・・・・
| f,l '"`゙ ゙'´l !`゙ ゙´"l(、,l 良くぞ創ってくださいました>>1殿
l J,l ,rィリ l ミヽ ,h }l スレッドは今ここに極まりました
l'ーl 〃゙'^;-;^'ヾ', ,lーリ もはや前スレ・過去スレなど小賢しきもの・・・・・・
_, ィ`"l i∠ニニヽ,} ,ト:く この新スレは世のあらゆる物に優れております・・・・・・
, ィ":./::::::::丶 ,l ヾ`二´ソl, ,イi::::::::丶、
,. ィ"´: : :ノ::::::::::::::l゙トゝ、 ノ‐'/リ:::::::::::ヽ`丶、
, ィ" : : : : /{i::::::::::::::::::lヽ ノ7ー一r'{ / /::::::::::::::::ト、: :`丶、
/: : : : : : / :. ll::::::::::::::::::::l丶'" ` / /:::::::::::::::::::}: ヽ: : : : `丶、
: : : : ::::::::/:::::::::::ll:::::::::::___;l_,L. --- ._,/ /::::::::::::::::::::/::::::丶::::::::: : : :
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- 3 :
- ●研究書・概説書
高柳光寿 「明智光秀」 吉川弘文館 野望説
桑田忠親 「明智光秀」 講談社文庫 怨恨説
桐野作人 「だれが信長をしたのか」 PHP新書 複合説
立花京子 「信長権力と朝廷」 岩田書院 朝廷説
同 「信長と十字架」 集英社新書 イエズス会説
藤田達生 「証言 本能寺の変」 八木書店 幕府説
鈴木眞哉 「信長は謀略でされたのか」洋泉社 検証本
藤本正行
谷口克広 「検証 本能寺の変」 吉川弘文館 検証本
- 4 :
- ●明智家臣団(明智家臣団総合スレより転載)
一門・譜代衆 旧幕臣衆 丹波衆 その他・不明
明智秀満(?〜1582?) 伊勢貞興(?〜1582) 荒木行重(?〜?) 阿木弥市(?〜?)
明智光忠(?〜1582) 一色藤長(?〜?) 荒木重仲(?〜?) 麻生吉左衛門(?〜?)
明智光近(?〜1582) 一色昭秀(?〜?) 宇野豊後守(?〜1582?) 隠岐惟恒(?〜1582?)
明智孫十郎(?〜1582) 今峰泰正(?〜?) 梅若広長(?〜1582) 金津正直(?〜1600)
明智掃部(?〜?) 上野秀政(?〜?) 尾石予三(?〜?) 木村吉清(?〜1598)
明智巳蔵(?〜1582) 蜷川貞栄(?〜1582?) 荻野重基(?〜?) 熊谷宅右衛門(?〜?)
明智九太夫(?〜?) 蜷川貞房(?〜1582?) 小畠国明(?〜1579?) 柴田勝定(?〜1582)
池田輝家(?〜1582) 御牧景重(?〜1582) 明智伊勢千代丸(?〜?) 津田重久(1549〜1634)
石森九郎左衛門(?〜?) 御牧景則(?〜?) 小畠左馬助(?〜?) 津田平蔵(?〜?)
奥田景綱(?〜1582?) 三淵藤英(?〜1573) 小畠助太夫(?〜?) 津田正時(?〜?)
奥田庄大夫(?〜?) 佐竹宗実(?〜?) 加治石見守(?〜?) 東行澄(?〜?)
可児才右衛門(?〜?) 佐竹左近允(?〜?) 河北一成(?〜1600) 沼田光友(?〜?)
可児才蔵(?〜1613) 佐竹称吉(?〜?) 酒井孫左衛門(?〜?) 番頭大炊介(?〜?)
斎藤利三(?〜1582) 山本秀勝(?〜1582) 四王天政孝(?〜?) 古川九兵衛(?〜?)
斎藤三存(?〜?) 明智秀貞(?〜?) 四王天政実(?〜?) 堀辺兵太(?〜?)
斎藤利光(?〜?) 磯谷新右衛門尉(?〜?) 田中盛重(?〜?) 箕浦大内蔵(?〜?)
進士貞連(?〜?) 磯谷彦四郎(?〜?) 田中五内(?〜1612) 村上清国(?〜1582)
瀬田左京(?〜?) 磯谷新介(?〜?) 中沢知綱(?〜?) 村越景則(?〜?)
多治見国清(?〜1582) 磯谷新右衛門尉(?〜?) 並河易家(?〜1582) 安田国継(?〜?)
妻木広忠(?〜1582) 並河八助(?〜?) 山崎長徳(1552〜1620)
妻木範熈(?〜?) 並河金右衛門(?〜?)
妻木範賢(?〜?) 並河飛騨守(?〜?)
妻木範武(?〜?) 藤木権兵衛(?〜?)
妻木範之(?〜?) 藤田藤八(?〜?)
肥田家澄(?〜?) 波々伯部員次(?〜1582)
比田則家(?〜?) 本城惣右衛門。(?〜?)
藤田藤次郎(?〜?) 松田政近(?〜?)
藤田行政(?〜1582)
藤田行久(?〜1582)
藤田秀行(?〜1582)
溝尾庄左衛門(?〜?)
溝尾茂朝(?〜1582)
三宅藤兵衛(?〜?)
三宅業朝(?〜?)
三宅秀朝(?〜?)
森勘解由(?〜?)
- 5 :
- 山田喜兵衛尉(?〜?)
井上某(?〜?)
- 6 :
- 前スレ>>988
オウム返しのレスの前に以下2点への回答を示して欲しいが。
・光秀は京都の状況を自国でも知りえなかった理由
・京都へ攻め入る前になっても斥候すら使わなかった理由
>状況から見て愛宕山降りてそこで決断したなら
>信長の正確な動向を知るのが精一杯で
信長は西国出陣の為に上洛してるんだから、この動静は光秀には大きく関わりがあること。
にも関わらず謀反決断しないと主君信長の動向探らないの?矛盾してるよな。
>下手したら、襲撃した本能寺に信長がいませんでした
>なんてなる可能性だってあるのが当時の状況。
>>986も言うようにある程度は居場所推測できるんだから、無策で突撃するアホでもない限り事前に調べるわ。
- 7 :
- 前スレ>>989
>「江源武鑑」の説明は一見巧妙だが、妙覚寺から二条城に移動中の信忠一行をみすみす
>見逃したのか説明できない
>敵を防御に適さない妙覚寺から防御力に勝る二条城に移動するのを見逃す意味がどこにある?
それは資料から自分で推察したらどうだ?
各資料から見て事実起きてるからな。
「江源武鑑」
同日、三位中将信忠は妙覚寺に滞在していたが、本能寺へ駆けつけて合戦しようと妙覚寺を出たところ
内野に控えていた明智左馬允が六千にて横鑓に城介信忠の軍勢へ攻め懸かる。
信忠は寡勢のため斜めに押し込まれて二條新御所へ立て篭もる。
そこで左馬允はすかさず六千の軍勢で二條御所を包囲し辰の刻から午の刻まで攻め戦う。
少勢であるので抗する力もなく、信忠も終に自害する。
あれほど武勇の威を振るい四海を掌中に握り全国を胸中の謀で操り多くの敵を討ち多くの侍を討たせ
ようやく天下を治め子孫の栄久を得た身であるのに、今日の一時で父子共に黄泉に赴くことになるとは今の世はいやなものである。
信忠は前田玄以斎を二條から江州へ返し若君を尾州清洲へ退かせるよう申し付ける。
6月 2日 明智軍、京都妙顕寺(「三位中将陣所妙見寺」)を襲撃。(実際には妙覚寺)〔『兼見卿記』二(別本)〕
6月 2日 明智軍、織田信忠(「御嫡男城介殿」)の滞在する京都妙覚寺へ到。〔『蓮成院記録』三〕
- 8 :
- >>989
追記
妙覚寺と二条新御所は路地挟んで数メートルしか離れてないので、移動を防ぐってのは不可抗力。
ttp://homepage1.nifty.com/heiankyo/rekishi/reki20.html
ちなみに御構えの良い二条城とやらは信長公記の引用でしょ。公記の記述だと町通り二条にあるようなので、
リンクの地図だと中御門大路とか春日小路がある「旧二条城」を示していることになる。
でも実際にはこんなところで戦は起こっていない。
- 9 :
- >>7
「卯刻…前右府(信長)打死、同三位中将妙覚寺ヲ出テ、下御所(二条御新造)ヘ取籠之所二、
同押寄、後刻打死」 (言経卿記)
「世子(信忠)はこの報を聞き、まだ床についていたが起出で、滞在していた寺院は安全ではないと考え、
駆けつけた人々と共に付近にあった内裏の御子の居に赴いた」 (日本年報追加)
「信忠此是聞給、本能寺へ可有御籠とて出給所、村井春長親子三人参上して、本能寺ははや火懸
て事終て候、妙覚寺へは御帰不可有、二条の御新造へ被為籠尤と言上、則二条に御移」(当代記)
これらの史料によると信忠は自分の意思で本能寺ではなく二条城に移動しているように見えるが、どこをどう
読めば明智の横鑓で二条城への移動を余儀なくされたと解釈できるんだ?
- 10 :
- >>9
信忠の意思で二条御所へ向かった。
で、どう論点に絡む話なの?
・信忠はなぜ京から脱出しなかったのか
という問いなら気にはなるが。
- 11 :
- 「信忠の意思で二条御新造へ向かった。」ってことは、妙覚寺に対して横鑓などの明智の手当て
がなかったことになる 手当てなかったということは、光秀が本能寺襲撃時点で信忠の在京を知
らなかったことの傍証となる。
もし知ってたら、「江源武鑑」のような経過をたどるか、妙覚寺からの移動の際に何らかの小競り合い
があるか、攻撃せずとも事前に包囲ぐらいするのが自然だが、その事実を示す1次史料は存在しない。
「当代記」の著者は、二条城に籠って死んだ信忠に対して
「光秀は謀反の意思を深く秘密にしていたため信忠逃亡防止の手当てをしていなかった。だから安土
に無事に行けたはずなのに、運が尽きるとはこういうことだ」と評している。
>>6
>オウム返しのレスの前に以下2点への回答を示して欲しいが。
>・光秀は京都の状況を自国でも知りえなかった理由
>・京都へ攻め入る前になっても斥候すら使わなかった理由
桐野・谷口は「光秀が信忠在京を知らなかった」説は光秀がマヌケ過ぎて採れないが、一方で1次
史料による証明もできなかったようで「明智軍記」の記述を採ってごまかしている。
「知っていたこと」の傍証は1次史料では無理なんだよ
- 12 :
- >>11
>「信忠の意思で二条御新造へ向かった。」ってことは、妙覚寺に対して横鑓などの明智の手当て>
>がなかったことになる
いやいや、君が貼った当代記の記述に「妙覚寺へは御帰不可有」ってあるんだけど・・・。
>「当代記」の著者は、二条城に籠って死んだ信忠に対して
>「光秀は謀反の意思を深く秘密にしていたため信忠逃亡防止の手当てをしていなかった。だから安土
>に無事に行けたはずなのに、運が尽きるとはこういうことだ」と評している。
当代記より
信忠曰く「このような謀反を企てる者が、諸方へ手勢を回さないはずがない。
逃げようとしたところで途上で(待ち伏せされて)相果てるのは無念だ。徒に退くべきではない」。
つまり当代記の中で手当てをしなかったといってるのは京からの退路遮断の話であって、妙覚寺への攻撃ではありませんな。
ちなみに京都宇治より先へは「通路不叶」と蓮成院記録が記しているので、信忠の判断は間違っていなかったともいえる。
- 13 :
- そんな中悠々と脱出して見せた長益のサバイバビリティは半端無いな。
- 14 :
- あ
- 15 :
- >>13
だって信忠自身は武田残党狩りに執拗な執念を見せた奴だぜ
その逆の事をされるかと思うと当然覚悟が早くなるよ
- 16 :
- >>12
斥候とか事前調査とかそういう考え方が気になる。
愛宕登る以前にはあくまで基本的な主君の居場所の確認
ぐらいでそんなに正確な「調査」してたら逆に疑われるだろう。
事実居場所なんてコロコロ思いつきで変わってる。
ある夜に誰がどこにいるなんて正確に知ること自体がかなり
むつかしいとは思う。
だから「攻める前には誰でも調べるだろ」という論自体が
少し成立しないのではないか。
6で言うように「推測」とか「動向」ぐらいはたえず知ってたろうが
正確なところは本人から文書か連絡役が知らせない限り
わかったものじゃない。
それにいくら「事前に調べて」もそれが100%正確かどうかはまた
別問題。連絡自体に時間もかかる。
そういう意味でずっと主張されてる「回答して欲しい」という点自体が
あまり重要な論点にはなってないと思うがどうか。
- 17 :
- それと寺から出た信忠がもし命懸けで安土まで脱出図るのが
一番危険。もし知ってたら絶対に囲んで寺から出すことさえしなかったろう。
信忠が自分で「待ち伏せされてる」と判断したことも
もし待ち伏せに使う余剰人員がいたならば寺そのものを包囲すればいい。
そこを包囲されてなくて寺からでられた以上は「チャンス」と脱出図るのが
どちらかと言えば正しくはないか。
とりあえず目先の敵から遠ざかる、という判断はそんなにむつかしい
ものでもなく逆に自然なぐらいじゃないか。
そういう意味でも光秀を信用して脱出不可能と判断してしまったのはどうだったか。
これはまた難義な論点で結果論的にはなってしまうが
「判断は間違ってない」と言い切ることもやられてしまった以上は
少し悩ましいところがある。
- 18 :
- >>16
同意だな
光秀が謀反の保秘に非常に気を使っていたことは1次史料のみならず軍記物ですら一致していて、5人の重
臣が謀反を告知されたのが1日の深夜。それまでは、光秀は誰にも相談できずに情報を集めていたわけだ。
それで、彼が一番知りたい情報は信長の所在と信長の護衛の数で、それさえ分かれば謀反の可否の決断
はできる。一方で、情報収集活動すればするほど綿密な計画が立てられるが、秘密漏えいのリスクも高くなる。
光秀の斥候が恩賞目当てに信長に訴人したら明智家は破滅なんだが、光秀が秘密漏えいのリスクを考慮
せず信長以外の要人の情報収集に励んでいたというのは説得力に欠けるね。
- 19 :
- >>18
ちょと補足だが、信長の情報を集めると言っても
その相手に「謀反の予定」なんてことを言うはずもない。
あくまで「戦が近いので失礼のないように連絡先を確認
しておくように」という感じだったろう。
またこれは重要だが、ケータイもないので確認した家臣が連絡に来るにも
数時間か半日はかかる。それが正確かどうかの第二報を待つのも
いつになるかわからない。
つまり斥候とか事前調査というのはそんなに実際問題
できるものでもなく、したかどうか、というのはやはりそんなに重要な論点とも
思えないんだ。
信長の居場所を正確に知っていたのはさすがだし
まさかだけど信忠はわからなかった、とするのがおおむね正しいだろう。
少し先走るが信忠在京を未確認なのもやはり軽視したからだろう。
信忠を過大評価するとまさかなんだが秀吉同様に軽視して
信長さえ倒せばというのが本音だったか。
あの時点ではサルとイケイケの2代目だから光秀から見て
軽視したのもそんなに「まさか」とも思えないところはある。
史実は僥倖で片方はやっつけたけどそれこそ
「まさか」でサルがここまで電光石火歯向かってくるとは
びっくりなんてものではなかったろう。
惜しかったな、光秀どん。
- 20 :
- 明智が将軍家紹介しなければ松永か朝倉が天下を獲得していたかもしれない。
- 21 :
- test
- 22 :
- >>20
無理。
なぜならどちらも天下を目指していないから。
- 23 :
- 松永あたりは光秀が応援してそそのかせば
それなりにがんばってたんじゃないか。
少なくとも副将軍ぐらいは喜んで受けてそうだな。
その後足利と戦って自らの政権を作るとこまでやったかどうかは
わからないけれど、やっぱり光秀がそそのかしていいとこで謀反
起こして自分がいいとこ取りをしてたかもな〜。
- 24 :
- 明智スレもう4スレ目行ったのか。伸び具合から推測するに戦国板で一番数が多いのは織田厨でも武田厨でも無く明智厨だなw
- 25 :
- 俺が籠城を献策したからだろw
- 26 :
- 籠城厨の中身ゼロの書き込みを抜いたら実質2スレ目の途中ぐらいだろ?w
- 27 :
- 光秀と関係ない話題も多いしな
- 28 :
- 朝廷黒幕説で1スレ近く使ったんじゃないか?
- 29 :
- 黒幕説くんと信忠在京知ってた説くんとは同一人物?
- 30 :
- 水曜日(天正10年6月1日)の夜、同城に軍勢が集結していた時、彼は最も信頼していた腹心の部下の中から四名の指揮官を呼び、彼らに対し短く事情を説明した。
とりわけ、彼は自らを蹶起させるやむを得ぬ事情と有力な理由があったので、信長とその長子を誤つことなく害し、自らが天下の主になる決意であることを言い渡した。
そして、そのために最良の時と、この難渋にして困難な仕事に願ってもない好機が到来していることを明らかにした。
すなわち、信長は兵力を伴わずに都に滞在しており、かような(謀叛に備えるような)ことには遠く思い及ばぬ状況にあり、
兵力を有する主将たちは毛利との戦争に出動し、更に彼の三男は一万三千、ないし一万四千の兵を率いて四国と称する四カ国を征服するために出発している。
かかる幸運に際しては、遅延だけが(考えられる)何らかの心配の種となりうるであろう。
結局各資料には「知らなかった」とは記述がない。
一方で「信長とその長子を誤つことなく」とある様に綿密に狙った描写はある。
ラッキーパンチで信忠を倒せたとするアホ光秀シナリオよりは、単純にフロイスの記述を信用するわ。
- 31 :
- >>29
召喚すんな
- 32 :
- >>31
でも、意外と反論できてないんだよね。
いつもの、史料神、さんは一切レスしないでしょう。
このあたり、ちと面白いと思うよ。
- 33 :
- 史料神? 史料厨って言いたいの?
- 34 :
- 厨だと失礼で、神がかってるようなぐらい、の方も
いるようだからさ。
- 35 :
- んで籠城策は?
- 36 :
- 夏休みは終わった
- 37 :
- 光秀って秀吉なんかと違って高貴な出だとばかり思っていたんだけど。
意外と出生とか由来とか前半生とか不明なんですね。
- 38 :
- 百姓が明智と称してただけかもよ
- 39 :
- >>38
釣るなw
- 40 :
- 系図屋からいくらでも系図を買えるからな
- 41 :
- いや、その可能性はある。
明智、というのは、悪地、であり土地由来かも、というのを聞いたことがある。
というか武士は元は武装農民だろうし。
- 42 :
- 明智って、ずっと昔は朝鮮の貴族だったが政争に敗れて日本に渡ってきた
って話も聞いたことある。
日本での最初の暮らしは極貧だったってことか?
- 43 :
- >>42
チョンはようつべを締め出されたからこんなとこへ来たの?
- 44 :
- 光秀の坂本城の門か…大津の寺の表門
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110915-OYT1T00275.htm
- 45 :
- 51 氏名黙秘 Mail : sage
戦国時代、秀吉は光秀を討って信長の仇を取ったと言われるが本当だろうか?
最近、刑事実務の勉強をして事実認定がかなりできるようになった。
共謀共同正犯の成否を検討するには
@実行行為者との関係A実行行為前の状況B役割の重要性C実行行為後の状況
D利益の帰属Eその他特筆すべき事情を考慮して決せられる。
@光秀と秀吉はともに外様であり、譜代に対抗するため手を結ぶ必要があった。
A秀吉軍と毛利との対峙はほぼ最終局面に入っており、大軍を動かすにはいい機会であった。
B信長は秀吉の要請により防御の困難な京都に入るという、重要な役割を秀吉は果たした。
C秀吉はわずか13日で光秀を討っており、事前に本能寺の変が起きることを知らなければ
そのような短期間で山崎まで戻るのは困難。
D秀吉は織田家を継いだばかりか天下を取り、これ以上ない利益を得た。
E秀吉は農民の子でありながら信長の子を養子に迎えており、家格の違いを考えれば
自分の野心をカムフラージュするための秘策だったと考えられる。
以上の点を総合考慮すれば、共謀共同正犯が成立し、光秀は秀吉に利用されただけで
信長に対して謀反を起こした真の張本人は秀吉であるといえる。
2011/10/07(金) 21:21:51.60 ID:???
- 46 :
- 藤田行政のwikiは相変わらずないんだな
こう言っちゃ悪いが同じ宿老格の明智光忠ですらあるのに
- 47 :
- 筒井の説得失敗くらいしか書くことないのかな…
- 48 :
- 貼っとくわ
http://cgi4.nhk.or.jp/topepg/xmldef/epg.cgi?setup=/bs/detail/2417
- 49 :
- 【出演】渡辺真理,黒鉄ヒロシ,磯田道史,藤田達生
はい、解散解散
- 50 :
- >>45
秀吉の関与なんて有り得ないのに、
リアル社会で誰にも構ってもらえないから、ネット内で釣りするしかない可愛そうな奴。
- 51 :
- やべ− まじで際のもテレビだなNHKw
- 52 :
-
NHKBSの結論がそこに信長父子が居たから、討った。
まるで消える魔球だな光秀。
- 53 :
- 柳沢みてーだな
- 54 :
- 急に信長が来たので
- 55 :
- 【長岡】細川幽斎(藤孝)・忠興父子を語るスレ2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1319864935/
親類筋ですが、再建しました
- 56 :
- 堂上の肩入れなどクソの役にも立たない。
明智光秀にとっていま頼るべきは中川、高山、池田といった摂津の諸将であり、大和の筒井順慶との合体も急ぐべきであった。
- 57 :
- いくらなんでも池田が明智の味方になることはないでしょ
- 58 :
- そのあたりは秀吉がすぐに来ると知って秀吉についたわけでしょう。
もし姫路で休憩してたりしたら光秀についてたかな。
秀吉の方も、すぐに行けば摂津衆は自分につく、という確信が
どこまであったんだろ。
本能寺は信長の油断と言われるが山崎は光秀の油断というには酷か。
- 59 :
- たしかに尼崎の池田恒興は総見院が兄弟だからあり得ないと思いますが、惟任光秀の与力武将、与力大名でありました。
惟任光秀の与力は、池田恒興、長岡藤孝、筒井順慶、中川清秀、高山重友ら。
しかし事前の裏工作ができる類いの決起では無かったこともあり、惟任光秀は、近江へ逃れる途中、小栗栖で土民の襲撃に遭い、落命。
- 60 :
- 事前に周到に用意したとは到底思えないんだよね。
完全に衝動的に起きたとしか思えない。
配下の諸兵の先走りの可能性もある。
「今なら信長信忠をせるぞ。そうなれば明智様が天下人になって俺達も大出世だ」と。
光秀が本能寺に現れたのは襲撃から何時間も経った午前9時頃だと言われている。
あまりに遅すぎる。
- 61 :
- それ何に書いてあった?
- 62 :
- 天正10年に信澄が信長に
大和国拝領を願い出て拒否された。
つまりは光秀の領地を信澄に譲らせることを意味した。
光秀は武田の旧領の一部が貰えなかったことから佐久間の次々は自分だと絶望した。
- 63 :
- >>59
>惟任光秀の与力は、池田恒興、長岡藤孝、筒井順慶、中川清秀、高山重友ら。
高柳本を参考にしたのだろうが、摂津衆は与力であることは否定されている。長岡ですら
あやしい。
現在は留保付きながら、「信長公記」を根拠に池田の与力を中川・高山としている。
- 64 :
- >>60
光秀本人が本能寺へ必ず行かなきゃいけないわけじゃないだろ。
本能寺を襲撃したのは家老の明智秀満・斉藤利三の手の者。
光秀に命じられて行ったといえば何の疑問もない。
- 65 :
- >>62
大和国が光秀の領地だったことは無いけど・・・?
- 66 :
- >>65
原田直政戦死のあと、筒井順慶が大和の一職支配を任せられたけど、それは明智光秀指揮下でということだった。
- 67 :
- >>66
明智光秀指揮下ということを証明する史料は無いよ
- 68 :
- そもそも光秀の存在自体、ほとんど史料に出てこないよな。
だから光秀ネタは後世の創作が多い。
- 69 :
- 「原田喜左衛門残日録」や「片桐弥平次秘録」にきちんと記載もある
- 70 :11/11/13
- もうその芸風いらないから…
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