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2011年11月1期27: 戦国ちょっと悪い話28 (1001)
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戦国ちょっと悪い話28
- 1 :11/09/18 〜 最終レス :Over
- 戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話27
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姉妹スレ
戦国ちょっといい話28
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
- 2 :
- ∧ ∧
( ´・ω・) >>1 大儀であった!好きな美姫を取るがよい
( ∪ ∪ ただし自己責任じゃ!当方何があっても与り知らんぞ!
と__)__)
/ ̄ ̄ヽ ∞/⌒⌒丶∞ / ヾ丶 / ̄ ̄ヽ ∞/⌒⌒丶∞
| ノノ)ノ))) <_Li(("))_> |ノ从从| ( ノノ( ノ))) ( *((")) _)
/ │^ヮ゚ノ| |│‘ヮ゚ノ| ││゚σ゚ノ| 丿|│゚ヮ゚ノ| 丿|| ‘ヮ゚ノ|
おね 茶々 五徳 まつ お市
/⌒⌒丶 / ̄ ̄ヽ /⌒⌒丶, / ヾ丶 /⌒⌒丶
|ノノ †)ノ)| |ノ从从 | | イ从|从) |ノ从从| ヽ从 从 _ノ
丿ノ‘ヮ゚ノ(, || ´ω`ノ|. 丿!#゚Д゚ノ| ││;-;ノ| ( ゚ヮ゚ )アーッ
ガラシャ 新庄局 小松 亀寿 蘭丸
/⌒⌒丶 ∞/⌒⌒丶∞ / ヾ丶 / ヾ丶オ / ̄ ̄ヽ
( ノノ(-)))) <_Liミν ) |ノ从从| ( ノノ)ノ)))タ <_Li(("))_>
ノ│゚Д゚ノ( 丿|│‘ヮ゚ノ| ││ - ノ| 丿│^ヮ゚ノ|ベ 丿|│゚ヮ゚ノ|
ァ千代 お江 瀬名 義姫 帰蝶
- 3 :
- 衆道ネタや議論はこちらで
★★★戦国時代の衆道★★★
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153415844/
- 4 :
- >>1乙です
- 5 :
- ある日、真田信之のもとに来客があり、信之が客間で客を応接している間に、控えの間に料理が用意された。
料理の配膳が終り、あとは信之の合図を待つばかりとなった時、ひとりの小姓が小壷に入ったものに目をつけた。
「オレの大好きな、苦うるか(鮎のワタの塩辛)があるじゃないか。・・・オホン、ちょ、ちょっとだけなら・・・」
好物を前にガマンできなくなった小姓は、壷のフタを開けてうるかを一つつまみ、少しだけかじった
・・・つもりだったが、まだ良く漬かっていなかったのか、食いちぎることが出来なかった。
ガ ラ ッ
「おーい、そろそろ良いぞ、料理を運んで・・・・・・(怒)」
「む〜〜〜っ!!」←まだ食いちぎれない
壷を抱えて固まる小姓を前に、信之は脇差を抜き放った。
「ほ、ほの〜っ!ほゆるひほ―――!!(と、殿ーっ!お許しを―――!!)」
信之の脇差が、一閃した。
と、同時に、うるかが壷の口から真っ二つに斬り放された。半分になったうるかを呑み込んだ小姓は、平伏した。
「あわて者め。これはな、こうやって切り整え、食べるものだ。」
そう言って信之は、何事も無かったかのように客間に戻って行った。
- 6 :
- 江戸在府中に遠乗りに出て遅くなった真田伊豆守信之は、世田谷は等々力村の名主・庄右衛門宅に一泊した。
翌日、名主の心づくしにすっかり満足した信之は、庄右衛門に言った。
「一夜、機嫌良く過ごさせてもらった。礼をさせてもらおう、何か望みはあるか?」
「はい、では・・・今後、伊豆守様のお屋敷中全ての下のものの、掃除をお任せくださいませ。」
要は『オタクの下水処理利権をください』と言うのだ。
引き取り料がもらえて肥やしも手に入る、庄右衛門にとっては一石二鳥の、うまい手である。
「よかろう。では、証文をとらせん。」一夜の接待に対しては、少々虫の良い願いを気軽に応じた信之は、
白無地の扇子に何やら書き付け、庄右衛門に渡した。
確認のために庄右衛門が開いて見ると、そこには一句のみが書かれていた。
“我が宿の くそはおぬしに 呉れる也 心おきなく とれや庄右衛門”
「こ、これは・・・その・・・あ、有難く頂戴・・・」
「うむ。」
残念ながら、のちに扇は火災で焼失してしまったが、真田藩邸の下水処理は、一貫して庄右衛門の子孫が
怠らず請け負ったという。(以上、仰応貴録より)
真田のお兄ちゃんだって、たまには誰かを驚かせたり、胃を痛くさせてやりたいのだ。
- 7 :
- 信之兄さんは、家族関連が目立つけど
こういう家臣や他の人との交流の逸話も多いよなあ
それにしても兄さん、誠実なのに強引かつストレートすぎるw
いい話でも良さそうとは思ったけど、兄さんの人が悪い話か
- 8 :
- 実際海千山千だからねお兄ちゃんは
- 9 :
- あの身内連中と並べちゃうから常識人に見えるけど、単品で見るとそれなりにw
- 10 :
- あの昌幸に比べれば、まだ常識人な息子
くらいの見方なんだろうか
- 11 :
- >>5
斬られるのは小姓なのかとドキドキした
- 12 :
- 信長さまなら斬ってるなw
- 13 :
- 奥方様に見つからなくて良かったよねw
- 14 :
- 安定の東のミスターパーフェクト
- 15 :
- >>6
一句ではなく一首ではなかろうか?
- 16 :
- >>5
>と、同時に、うるかが壷の口から真っ二つに斬り放された
何気なくスゲエことやってんな
小姓の口の先ブッタ切ったってことだろ?w
- 17 :
- 脇差に苦うるかの臭いが移らなければいいけど、と余計な心配を
- 18 :
- 例によって、あの人からあの人にお手紙ついた
「この間もらったお茶、セキが出て体調悪かったもんで手を付けられなかったけど、昨夜飲んでみました。
他のお茶より色あいが一段と良く、味もこれほど違うものかと驚きました。茶入はお返しします。
先日、淀川を舟で上った時、ウチの馬丁二人が人前でケンカおっ始めたんで、二人とも監禁して置いたけど
試し斬りしたい新刀も無いので、もし試したい刀があったら言って下さい。コイツら、そっちに送ります。
(我々馬取共、喧嘩を仕候。両人ながらとらへ置候へ共、此方ニためし可申刀一ツも無之候。
若ためされ度刀候ハバ、両人ともニそれへひかせ進之候)
六月二十六日 越中殿(忠利)へ 三斎 」
敬老の日に、七十歳にしてる気マンマンな三斎様を。お父さんの手紙には大抵返信してる忠利さんが
この件だけスルーしてるのが気になる。まあ、一応同じ時期に
三歳「あれ〜?そっちに書き損じの手紙、送ってない?もし届いてたら、この手紙と差換えといて。」
忠利「いえ、来てませんよ父上…」
てな、年齢相応のやり取りもしてますが。
- 19 :
- こんな小姓斬り捨てないと駄目だろwww
- 20 :
- 信之の小姓の話に「あれ?いい話じゃね?」と思ってしまった
- 21 :
- バカバカしすぎて斬る気にもならんかったんだろうw
- 22 :
- >>2
蘭丸一択とか、お前なにしてんだよ
- 23 :
- >>18
そんな巻き藁感覚で馬丁送りますっつーてもなあ…
かの庭師の例もあるし、下っ端にとっちゃかなりのブラック職場なんじゃね細川家?
- 24 :
- 関ヶ原を30〜40代に経験した世代は、多かれ少なかれそういうもんじゃないかな
子供世代や後世の人間がドン引きするようなことが日常の一風景になっている
- 25 :
- 関ヶ原どころか元禄あたりまでそんな感じ。
で、綱吉がものすごい勢いで「命は大切」って啓蒙して、当時の一般庶民から非常にうざがられたw
- 26 :
- 命を粗末にする奴は死刑だっ!
- 27 :
- >>25
この前BSで綱吉特集しててさ
ちょっと神経質すぎるけど、真面目な人だったんだなあとしみじみしたよ
そろそろ教科書にも、生類憐れみの令の本当の理由を書くべきだ
- 28 :
- 戦国の遺風が完全に息の根を止められるのが綱吉の時代だからなあ。
- 29 :
- そういや生類憐れみの令以前は江戸には犬一匹いなかったんだってな、住人が食い尽くしたんで
三楽斎様が草葉の影で泣いてますよ……
- 30 :
- あくまで伝承
天正10年(1582)2月の頃、一人の山伏が殿島(現長野県伊那市)で神坂峠への道を村人熊谷弁治に訪ねた
詳細は不明だが会話の流れで口論となり…
『たった一つの単純な答えだ。テメーは俺を怒らせた』
熊谷弁治、山伏を打
山伏の遺体は街道脇に打ち捨てられた
その後間もなく、近隣の村で疾患で苦しむ人が続出した
原因は不明、医者もお手上げ状態
ある晩、疾患に苦しむ一人の村人の枕元に霊が立ち
「我は武田信豊。キチンと供養してくれ。(超意訳)」
と言って消えた
弁治は思い出した
ぶっした山伏は武田の落武者を名乗っていた事を
自分が熊谷直実の子孫であり、武田は源氏の直系である事を
住人達が山伏の遺骨を探し出し社を造って安置すると疾患は止んだ
現在、同地にある大平神社がその社であり、御神体は‘頭蓋骨’である
史実資料では信豊は小諸で自害しており、その首は勝頼や仁科盛信の首と共に京都で晒されたとある
伝承の真偽はともかく武田一族の肖像画の裏付けやDNA採取が可能な遺物の可能性があるのだが…
医学的な調査はされていない
同神社は‘参れば頭が良くなる’とされている
- 31 :
- >>27
正直、綱吉は今リバウンドの最中だと思うから、評価が定まるのはもうちょっと後だと思うな
>>30
真偽はともかくとして、やたらと血の気が多いな、戦国時代の村人はw
- 32 :
- 江戸初期に成立したとされる軍記物『大阪物語』より、小早川秀秋の寝返りの模様を見てみよう。
『さて、左衛門太夫(福島正則)は関ヶ原東の入り口、南の山の腰に人数を置いて、物見の家臣二人に
「敵の人数の立てようを見て参れ」
と命じ、る。帰還した彼らは
「先ず南の端、西の川端に小川左馬(祐忠の事か?)、それより北に続いて脇坂中書(安治)、その北に
大谷刑部(吉継)、北東に小西摂津守(行長)、少し山を隔てて戸田武蔵(勝成)、また北東に続いて
治部少輔(石田三成)、島津兄弟」
そのように諸将が並み居る状況を報告した。
それから、先ず左衛門太夫(福島正則)、井伊兵部(直政)、本多中書(忠勝)などは自分たちの軍勢を後に置いて、
若党だけを2,3人ずつ召し連れ、金吾中納言(小早川秀秋)の陣所近くまで向かい、そこから使いを立てた。
使いは秀秋に問う
「別心の約束はどうなったのでしょうか?いささか遅くなっています。
ただし、もし別心の気持ちが翻ったのであるなら、どうぞ我々に向かって討ちかかってきて下さい。」
これに秀秋
「御使がそう思うのも尤もである。しかし今朝から降った雨で霧が深く、旗印の見分けすらつかない状況だったため
このように遅くなってしまったのだ。」
と、別心を翻さない証拠として、福島らの使いに自分の使いを添えて遣わした。
脇坂や小川もこのことを聞きつけると、東軍への降参を申し出た。
その使いが帰り着くより前に、小早川隊は早々と大谷吉継の陣に討ち掛かった。』
『問鉄砲』などの逸話が出来る以前の、小早川寝返りの模様である。
- 33 :
- この話を見る限り、優柔不断というよりはむしろ冷静に状況を計算してるって感じだな秀秋
いつ頃からダメ武将としてディスられるようになったんだろう
- 34 :
- 朝鮮出兵で馬をぶん捕って来たってどっかで聞いたんだけど
中国やモンゴル辺りの馬も当時は小さかったのかな?
- 35 :
- 誤爆失礼しました
- 36 :
- 朝鮮出兵で分捕って来られた姜が「看羊録」で
秀秋のことを性格が軽薄で、感情の起伏が激しく、兄たちに及ばない
とか書いているそうだ
(東洋文庫で読んだけど、手元にないからコピペ)
藤原惺窩経由の批評だろうから、豊臣の血縁にはバイアス入っているかもしれないが
- 37 :
- 朝鮮役の頃の秀秋って15,6だしなあ。関ヶ原ですら18歳だし。
- 38 :
- >>36
勝俊兄さんが意外と高評価なんだっけ?
- 39 :
- 木下長嘯子と惺窩さんの絡みは、司馬遼太郎の「関ヶ原」にもでてくるくらいだからな〜
- 40 :
- 「徳川家の大功労者」
関ヶ原の合戦後、天下が治まってから徳川家康は本多正信を呼び出して
「石田三成の子が妙心寺で寺童をしているようだがどのように処置したのか」
と正信に問うと正信は
「はい、特別に許すべきだと考えて処置しました
何故なら三成が理由もなく戦いを起こし、西国の大名を誘って打ち負けたからこそ日本全てが徳川家に帰服しました
そう考えれば、三成こそ徳川家にとって一番の功労者と言えるからです」
家康もその理屈を一理あるとし三成の遺児を許す事にしたそうな
三成への皮肉にしか聞こえないのでこっちへ
- 41 :
- 皮肉っちゅーか 皮肉そのものだ
- 42 :
- http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5567.html
既出?
- 43 :
- 知らん
- 44 :
- 指摘するのは無粋だったか
結構似たような話でも、まとめに入っていることもあるし
- 45 :
- 関ヶ原の戦いって各地で色んなことが起こってて面白いのに
あまり細々とした所は取り上げられないので勿体無いな
関ヶ原合戦トリビアとか面白そう
- 46 :
- じゃあこれはどうだろう
安国寺恵瓊の項目が見つからなかったからないとは思うが…
小早川隆景が毛利輝元に
「私は安国寺恵瓊と太閤殿下の面前に同席した事がある。
その時に話がたまたま大政所様のご去の事に及んだので太閤は涙を流された、すると恵瓊も同じように涙を流した、
別に悲しみがあった訳ではなく太閤へのへつらいの涙である、太閤はそれを見抜けずに恵瓊への親愛を深められた。
もし太閤が亡くなられたらおそらくあの僧が国を誤らせるであろう。」と語った
隆景が遺言に恵瓊を用いるなと残したのにはこういう背景があったという話
- 47 :
- 流石の人誑し人材鑑定士もカーチャン死んだ悲しさで目が曇ったのかね
- 48 :
- 間違いなくこの件で秀吉は狂っちゃったね
ここから妄想性人格障害が酷くなっていくんだ。
- 49 :
- 作左がファイヤーしてたらどうなっていたことか…
- 50 :
- 姉朝日姫、弟秀長、息子鶴松、母大政所、と3年連続で立て続けに家族がっちゃったからな
そりゃ天下人でさえ辛さで頭もおかしくなるわ
- 51 :
- >>32
元養子の分際で冷静に徳川に寝返るとは人間のクズにもほどがある!
- 52 :
- >>51
養子に来るような奴を無闇に信じる奴こそ頭がおかしい。
母方の里では米糠を二升買う金が有れば養子になんか行くな
って教えがある。
まして、元ってなら、どんだけ怨んでるやらw
- 53 :
- 寝返るも何も元々徳川寄りだろ秀秋は
- 54 :
- 西軍に一旦寝返ったわけですね^^
- 55 :
- 豊臣方の方も中納言の官位で釣ったって噂もあったんじゃね?
まあ、詰んじゃった人生でも最後まで頑張った秀秋君を悪く言う気にはならん
- 56 :
- 関白だろ
- 57 :
- 金吾中納言殿も関ヶ原後数年で病死してるからな
小早川家も跡継ぎ無くて断絶だしせつないね
- 58 :
- 養父を裏切った当然の報いである
- 59 :
- 長生きしていれば関ヶ原での寝返りの悪名も風化したろうけど、
早死にしたせいで悪評がそのまま確定してしまった印象を受ける
- 60 :
- 西軍は豊臣方じゃなくて石田方(名目上は毛利方)だし
どっちに付こうが勝手
- 61 :
- 金吾はあの肖像画がまたイメージダウンの原因のような気が
でもあれ、北政所がずっと大事に手元に置いていた肖像画だったときいて、また印象変わったけど
- 62 :
- 織田信長を苦しませ続けた本願寺との戦い、所謂石山合戦の最終局面において、法主顕如は
朝廷の仲介による講和を受け入れた。にもかかわらずその息子、教如はこれに従わず
石山本願寺に残り猶も抗戦を続けた。
これを恨みに思った織田信長は本願寺の殲滅を決意。天正10年(1582)6月2日、突如として
顕如らが大阪から退去した紀伊の国鷺森に大軍を向かわせた!世にいう鷺森合戦の勃発である。
織田の大軍に完全に包囲され、顕如は慨嘆した
「このように信長の軍勢に取り巻かれたが、信長の怒りは無理も無い事で、これは当然の報復である。
ああ、本願寺の真の敵は信長ではなく、(講和の後も抵抗を続けた)教如だったのだ!」
そして自害を覚悟した。その時である!
何と言う事であろう、織田軍が一斉に退却して行くではないか!?
おかげで顕如たちは命を永らえた。だが、一体何が起こったのか!?
天正10年6月2日。そう、本能寺の変の起こった当日である。
この変の勃発を伝えられた織田軍は、急ぎ帰っていったのだ。
阿弥陀如来がお守りしてくれたのだろうか?本願寺はこうして、危うい所で滅亡から逃れたのである。
…と、この鷺森合戦ですが、実はこれ寛永15年(1636)に西本願寺より刊行された「本願寺表裏問答」という本で
捏造されたつくり話なのです。
実際の信長は、鷺森に退去した顕如一行の身の安全を保証し、才賀で当地の有力者である
鈴木孫一と土橋若太夫の紛争が起こると、わざわざ家臣を派遣して顕如達の警護をさせたほどでした。
この本の刊行当時、西本願寺と、教如によって始められた東本願寺との対立が激化し、西本願寺はこの話を
作ることで、「本願寺を滅亡の瀬戸際に追いやった教如に正当性はない!」と批判したのです。
実にくだらない話ですが、この鷺森合戦は後に陰徳太平記や明智軍記というような軍記物にも取り入れられ
あたかも実際にあった出来事のように語られてしまい、後々まで石山合戦のイメージ形成に
大きな影響を与えました。
そんな、つくり話が事実のように扱われてしまったお話。
- 63 :
- 宗教って本当にくだらない…
- 64 :
- 滅亡したお家は、その最後の当主や、その時一番権力あった人が批難されるのはどこでも一緒だなあ
- 65 :
- >>40
普通なら20万人規模の戦を起こして負ければ、一族皆しなんだけどね。
- 66 :
- >>65
三成が豊臣の人間であれば当然そうなるけれど、三成は所詮家来筋だからな。
神輿にはなりえないので脅威にはならないので、
すかどうかは勝利者次第。
- 67 :
- >>61
肖像画のイメージダウンといえば島津家久(悪)の肖像画もヒドいな
全く歴史知らない人でも性格をいいあてられる完成度の高さ
逆に宇喜多秀家の肖像画はかなりイメージアップに貢献してる
- 68 :
- 肖像画といえば、一昨日のなんでも鑑定団で某戦国武将の肖像画が出てた
おもいっきりムスッとした顔だなと思ってたら案の定ngmsだった
http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/database/onair/03.html
- 69 :
- やめろよー 今、見てるんだからー
- 70 :
- すまん、放送遅れること考慮してなかった
- 71 :
- いいんだ 月岡芳年はいいよね
http://www.muian.com/muian04/04yositosi0401.htm
これとか
- 72 :
- >>71
家康カッコイイな
- 73 :
- 今きづいたけど、月岡芳年関係なかった どんだけズレてるんだうちは
>>72
別にきらびやかな衣装も、ポーズ取ってるわけでもないけどカッコイイよね家康
八幡太郎義家の後ろ姿なのにカッコイイとか
- 74 :
- >>71
なんで謙信はこうなんだろう?w
http://www.muian.com/muian04/04yoshitoshi04025.jpg
- 75 :
- 一向宗の話で関連して
永正の頃、加賀から越前に勢力の拡大を目指して一向一揆が侵入した。
扇動した坊主は「敵の方へ懸る足は極楽浄土へ参ると思え、引き退く足は無間地獄の底に沈むと思いて、一足も退くべからず」と一揆勢を叱咤した。
対する朝倉氏は朝倉宗滴を大将として派遣、この軍勢を迎え撃つ。数で劣る朝倉勢は奇襲を決行し、この一揆勢を打ち破った。
多くの一揆勢が討ち死にする中、扇動した坊主は加賀へ逃げ帰った。
寺へ戻ると、討ち死にした一揆勢の首領の女房が嘆き悲しんでいるので、
坊主は「ご主人の事なら悲しまれる事はない。きっと往生の素懐を遂げられたであろう」と声をかけた。
これに対して女房は「夫はあなたの教えを守って死にましたから往生は疑いなく、心配はしておりません。ただ坊様が逃げていらっしゃったので無間地獄に堕ちられるのではと心配で、
それで泣いております」と答えた。
坊主は言葉を返すことができなかった。
一揆を扇動した坊さんのばつの悪い話。
- 76 :
- うむ。
- 77 :
- 一条信龍その3
「信龍の影武者たち」
信龍はとにかく傾き者で、二度同じ鎧を具して戦場に出ると言うことがなかった。
鎧だけでなく、兜も刀の拵えも、末は旗指物までコロコロと替えた。
一度使った武具はどうしてしまったかというと、与力や家臣や近隣領主に気前よく下げ渡した。
やっていることがほとんど貴族であるが、甲斐は決して豊かな国ではないだけに、新品同様の武具はいつも喜ばれた。
しかし、問題が一つあった。
「……お前、手甲だけやたら派手じゃね?」
「そういうお前も、前立だけキンキラキンで浮いてね?」
「……。」
「……。」
「袖も新しくしつらえるか……。」
「信龍様の兜っぽくないとこれ、似合わないよね……。」
こうして、信龍の周囲の侍は少しずつ信龍化していった。
そして戦場。
「や、あれに見える武者は噂に聞く一条信龍!」
「ぬかったな、供回りも少ないぞ、かかれかかれ!」
一条殿討ち死にの報が戦場を駆け巡ることは良くあったが、いずれも別人だったという。
特に設楽が原では四人もの信龍が討ち取られた(信龍は殿を務めたとも言われている)。
たぶん、当人には自覚がなかったと思われる。
信龍、ちょっと迷惑な話。
- 78 :
- 影武者が量産されてたのかw
- 79 :
- >一条殿討ち死にの報が戦場を駆け巡ることは良くあったが
クソワラタ
- 80 :
- また一条殿が討ち死になされたのか…とか言われてたのか
- 81 :
- 量産型一条信龍wwwww
- 82 :
- 通常の三倍の強さの一条信龍もいるんかね?
- 83 :
- 金の鬼瓦の話もあるけど、この人の無邪気な迷惑さは異常だよねwwwww
前線突撃型だったらしいから、敵にも派手な風体が知られていたんだろうね。
しかし旗指物までころころ変えるってどうなんだろう。ほんとに悪意ないのかな。
- 84 :
- 20万の一揆勢蹴散らす宗滴さんは戦国最強
- 85 :
- でも武具ってすげえ高いから、ホイホイ下げ渡す一条さんカコイイ
- 86 :
- 高級な武具に弱い僕はホイホイ受け取ってしまったのだ
- 87 :
- そういう高級な武具を身にまとってるとリスクもでかいな
名のある武将と勘違いされて首狙われて標的にされるし
腕に自信なければ下げ渡されても即売りに行かないと命がいくらあっても足りないな
- 88 :
- 貴方が落としたのは、この金の鬼武蔵ですか?それとも、この銀の鬼武蔵ですか?
- 89 :
- 久々に笑ったが
功績のあった者に武具を下げ渡すのは悪いことじゃないよね
ある意味下げ渡された連中が死ぬほど槍働きをしてたって風にも取れるし
- 90 :
- >>88
三人もいたら信濃が滅んじゃうから。まとめて諏訪湖?にお引き取り願おう
>>89
「下賜するものがなかったら、頑張って風呂を沸かせばいいんだよ」って蒲生さんが言ってた
- 91 :
- 足軽大将「戦場で信龍を1人見たら10人いると思え」
侍大将「死んだ信龍だけが良い信龍」
首実験場「信龍の粗悪品が出回ってます気をつけて下さい」
- 92 :
- 山岡「やれやれ、そんな信龍で満足しているようじゃな」
侍大将「なんだあんたは」
山岡「一週間後にここにきてください。本物の信龍を見せてあげますよ」
- 93 :
- >>92
周大人な信玄公を想像したw
- 94 :
- >>92
究極の信龍ww
- 95 :
- となると至高の信龍も居るのかw
- 96 :
- 量産型は蒲生の専売特許かと思ってたが、こっちの方が面白いなw
- 97 :
- 苗字は戦場で会っただけじゃわからんからなぁ〜
- 98 :
- 家康「ばっかも〜ん、やつが本物の信龍だ!」
- 99 :
- >>52
ウチん所は一升です。蒲原です。
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