1read 100read
2011年11月1期48: 国鉄福知山線 (687) TOP カテ一覧 スレ一覧

国鉄福知山線


1 :08/09/01 〜 最終レス :11/11/12
語れ

2 :
国鉄時代の福知山線の思い出なんて、便所の穴から砂利が見えて
できなかったぐらいしかないぞ。

3 :
>>2
国鉄時代の福知山線の思い出なんて、生瀬武田尾間の橋梁で友達と肝だめしと称して
デッキからぶら下がって、カレチからボロカス怒られたくらいしかないぞ。

4 :
京都線沿いの住人だが・・・
家族で有馬温泉行った帰りに帰りは三田経由で、旧客に乗った記憶(定期では唯一の乗車になった)がある・・・
あの時ははてしなく遠く感じたが、今では普通に207系に乗って家の最寄駅まで帰れるご時勢なんだよなぁ・・・

5 :
東海道山陽線にグリーン車併結快速が走ってた昭和55年までは
大阪駅でも福知山線の旧客が普通に見れたんだがな〜
まだ大丸梅田店やアクティ大阪がなかった頃の話
昭和56年にカナリア103電車が走り始めてから様相は大きく変わっていった・・
ところで尼崎港線の話題はいいの?
非電化単線の土手にあった尼崎乗降場に禿しく萌えてた世代なんだがw

6 :
普通列車に12系客車が入ったとき、ちゃんと表示されていたにもかかわらず、
客が、「また国鉄はたるんでる。急行が着てるのに、普通○○と出てる」と言ったとか。
多数の乗客が急行と思って乗らなかったので、急遽アナウンスがあったらしい。

7 :
伊丹駅

8 :
人生で初めてキハ58系の急行(だいせんか丹波か忘れたが)に乗った線だ。
あの頃は宝塚まで電化・複線化されてて、50系客車も旧客に混じって走ってたな。

9 :
まつかぜの食堂車に乗ったっけな。。。

10 :
50系は記憶にないですが、末期には12系が当然のように走っていましたね。
期間はあまり長くは無かったと思います。
武田尾の旧線俯瞰で12系客車の普通を撮りましたが、いまでは完全に別線になってしまいました。
旧武田尾駅は、今どうなっているのでしょうか?(保津峡のような復活はさすがに無理?)

11 :
宝塚から三田までが
果てしなく遠く感じましたね
田舎が下滝なんだが 大阪から谷川まで 急行丹波で行き
谷川からタクシーに乗って田舎に行くのが
楽しみでしたね

12 :
金楽寺駅でおりたことあるひとー?

13 :
>>5
いや、まだそのときは宝塚までの暫定電化なので
以後もS59年くらいまでは余裕で旧客がいたぞ。

14 :
>>11
へええ、俺の田舎ってか先祖の墓があるのは谷川だよ。
昔に比べると兵庫パルプの臭いはマシになった。
確か国鉄時代は川代渓谷を流れる川の色が廃液?で黄土色に濁ってた。

15 :
>>14
兵庫パルプはもっと下流だよ
加古川線の久下村駅の近所だよ
親父の実家が谷川だからよく山南町に行っていたから

16 :
>>5
旧客と電車では同じ普通なのに15分も所要時間が違っていてびっくりしたぞ。

17 :
>>2
よくデッキからぶら下がったなぁ大阪-尼崎の本線はスピードも出てスリル満点だった。
武田尾の辺りはいい風景だったね、保津峡よりよかった。

18 :
日曜日、たまに三田や篠山口まで客車に乗りに行きました。当時、三田まで行くと、随分遠く
まで来たと思ったものです。
驚いたのは、篠山口行きに乗って三田を過ぎたあたりから、車内に駅弁売りが乗ってきた事。
あまり乗客も乗っていない列車で、どれだけ売れるのかなぁと思ったのを覚えてます。
>>5
旧型客車が福知山線から姿を消したのは、昭和60年3月改正でした。昭和59年2月から50系
が使用され、確か鳥取行きあたりにも使用されたと思いますが、この改正で旧型客車ととも
に姿を消しました。

19 :
特急博多行とか、普通出雲市行とか今じゃ絶対ありえないからなぁ

20 :
>>18
一応付け加えると、旧型客車も篠山口−福知山の一往復だけ生き残ってた。>60.3
当時の感覚では、4連の短い編成だった…のだけど、
電化後に、113系の2連が全線を走り出したのには参った。
ガキの頃、福知山線に初めて乗った時、客車の最前部まで行ったら、
見たことのない近代的な機関車の顔が見えてびっくりした。
すぐに横からレチ氏が「あぶないよ〜」と声をかけたので引っ込んだけど、
あれが最初で最後のDD54の列車だったなあ。
(1977年のお話)

21 :
昔は宝塚までしか電化されてなかったんでしょ?

22 :
最初は塚口までだよ(大阪駅着の展望車付列車機回しの為) >電化

23 :
大阪駅まで50系って来てたのか?
旧客の次に12系に置き換わったような気がする。
逆に京都駅は50系ばかりだったな。電化直前に12系に置き換わったけど。

24 :
どじょう<==>なまず
に見えたあの一瞬 (w)
キハ急行でガタンゴトン。

25 :
よく止まってからお降りください

26 :
>>23
約1年間、2往復だけ存在した。>50系
確かに違和感あったな。

27 :
>>23
京都駅の50系は草津線乗り入れのやつでよく見かけたなー
漏れは山陰線の客車っていうと京都から亀岡まで12系に乗ったことしか記憶にない
JR化直後だったがあのころはまだ保津峡あたりは旧線だった

28 :
>>21
黄色い末期型103系6連だったっけ?

29 :
>>28
一般型で最後の編成単位の車両だったな>福知山線の103系
4両化された時に当時のジャーナルに『歌を忘れたカナリア』何て車体色に絡めた皮肉書かれてたな。

30 :
黄色に青帯、新幹線のDr.Yみたいなカラーリングの113?

31 :
自分が福知山線を初めて乗り通したのは、S60頃。
大阪5:49発出雲市行き、12系客車だった。
この頃は確かDD51牽引だったけど、
電化後もJR化頃までは走っててEF58牽引だった。

32 :
S61・10・31まで
大阪から宝塚まで
『国鉄で行く、阪急なんて絶対乗らない』
という人は、
相当レアだったもんな。
第一、JR化直後、
宝塚にJR走っていること知らない人が多く、
JR酉の上層部、相当ショック受けていたらいい。

33 :
>31
最後の一行全部デマじゃねーか
61-11で廃止、牽引も最後までDD51、ついでに言えば58の定期列車牽引なんて
宮原は59-2で終わってるよ(竜華が61-3)

34 :
31さんは電化工事前後のEF58の工事臨とか電気試運転とかのことを
言われてるんではないかな?126,127,150あたりなら使われそうな気がする。
定期運用してたら面白かったでしょうね。っていうかDD51の代走で
本当に走ったのではないの?

35 :
確か電化開業記念で、EF65が牽引するサロンカーなにわが走った以外電機は走ってないぞ…
末期には客レは全て電車に置き換えられていたし

36 :
その3両なら電化する(61−11)1年半前もに廃車(60−3)になってるし・・・
宝塚電化の際は分からんけど
あと塚口までは電化してたから、昭和30年代は普通に58は入線してた >>22参照

37 :
宝塚電化のオイランでEF58が入線したことはあるらしい。
あと、EF65なら電化後、団体臨時等で何回か入線している。
なお、出雲市行きの普通なら全線電化の際に廃止になったぞ。

38 :
>>33-37
なぜEF58かと思ったのかというと、
別のときに、例の大阪5:49発に大阪7:02→姫路→和田山10:29で、
和田山で追いつくというルートを辿ったことがあった。
このとき和田山で播但線の車窓から、架線が張られた下を
ゴハチが接近するのが見えたというのがとても印象に残ってる。
でも時期的に変なのであれば、別の列車か別の時期の思い出が混ざってるのかもな。
嘘をつくつもりではなかったのだが、いい加減なことを言ったのは謝るよ。
俺もモーロクしたようだ。orz

39 :
http://imepita.jp/20080905/482010
これは走ってたっけ?
キハ40なら記憶にあるんだが

40 :
>>38
でも福知山線山陰本線って電化されても機関車は電化されなかったって変だww

41 :
出雲が京都−城崎まで電化されても、最後まで京都で機関車つけかえだったしなぁ・・・
電化当時2往復だけ残った客レの為に習熟運転するのももったいなかったのだろうけど

42 :
>>40-41
阪和〜紀勢本線なんざディーゼル化されたわけで…。
61.11で定期列車が全滅したとはいえ。

43 :
だいせんはDD51のままだったもんな…
機関車付け替えるのが手間だっただろうね
きっと

44 :
>>43
運転手の習熟訓練も必要だろうしね>機関車
ファン誌の福知山線宝塚電化の紹介記事に川西池田を出るゴハチ牽引のオイラン列車の写真もあったな

45 :
紀勢線ゴハチか。自分語りすまん。
84年3月 東海道筋定期引退(高一)
84年7月 紀勢線ゴハチ&EF15撮影旅行、至福の時を過ごす
85年3月 東北筋定期引退(高二)
85年4月 鉄から足洗い、大学受験モードへ(高三)
86年3月 N大合格だが浪人
86年11月 紀勢線ゴハチ引退
87年2月 某大合格
87年4月 入学
     国鉄はJRに(ぬるぽー)
この間、仮に86年に現役でそのままN大に入学していたら
果たしてまた鉄に戻り、紀勢線ゴハチや旧型客車を最後まで
見届けていたのだろうか?…答えはおそらく否である。
すでに俗世間の尺度に魂を売ったのであるから。なんてね。

46 :
宝塚電化のオイランは確かEF58の98だったような気が。
私の福知山線全線乗車は、昭和55年のこと。
大阪を朝7時代の福知山行き旧客で、川西池田に20分ぐらい停車して
博多まつかぜに道を譲った記憶があります。
福知山では、機関区に留置中のDD5433を偶然見つけ、夢中で写真を撮りました。

47 :
頃、本線普通電車201系(当時超最新鋭)車内から尼崎付近で、
並走してた福知山客車を見てメチャクチャ怖かった記憶が…
色鮮やかな最新型201系やボロ103・113が当たり前だった自分にとって、
薄汚れた濃紺や焦げ茶の客車はかなり衝撃的だったです、はい。

48 :
通学帰りにたまに大阪ー尼崎間を旧客に乗ったりしたな。

49 :
>>47 わかるなあ。俺は鹿児島に帰る祖母ちゃん東京駅まで見送り
行った時はやぶさの20系がやたら怖かった。濃紺の客車にドアの
ステップ灯が霊柩車の入り口みたいに見えてこれ乗ってくとあの世
につれてかれちゃうのかなあなんて思ったりして。
でもいやよいやよも好きのうちってんで後になるとだんだん良さが
わかって好きになるんだけどね。

50 :
>>47, >>49
黒いワム も(閉塞感もタップリ)w^^?

51 :
福知山線の変貌ぶりはすごい!24年前は103系の宝塚行きと旧客の福知山行きが各1時間に一本ずつあっただけ。
そのわずか約10年後には201系、207系入り京都へ行き、更に東西線に乗り入れ、通勤圏も新三田や篠山口まで
延び、今では223系や321系の新車がも乗り入れるようになったんだから最も急成長した路線だろう。

52 :
この10年だけでも103、113、115、117、201、205、207、321、221、223が走ってるんだね。
西日本を代表する車両が殆ど走っていたわけですね。
おまけに特急とかも入れたら物凄い数に…

53 :
関西に余り縁が無いのでわからないが、
日本の旧国鉄線の中で、JR化後に最も変貌を遂げた路線じゃないかしら。
関東で比較できる路線無いし....
もっとも、都心に近いのに何もしていなかった国鉄が大ボケだったのかしれないが...
空中写真で見る限り、川西池田駅の激変ぶりとかあまりにすごい。

54 :
消防の頃よく小遣い持って川西池田〜大阪間旧客乗りにいったな。
35系(近代化未施工)や62系のよろい戸や板張りの座席が印象に残ってる。逆に10系には殆んど乗らなかったから消防の分際でえらく渋好みだったようだw

55 :
福知山線に60系列入ってたっけ?

56 :
旧客の晩年しか知らないが、大阪12時過ぎの鳥取行に、
たまに「米イモ」のオハフ61が入っていたね。
普段あまり目にしないので、特に選んで乗っていました。

57 :
>>47
201の京阪神緩行線導入は確か昭和57年だったと思う
ついでに記しておくと73系などの茶色旧型国電が京阪神緩行線から引退したのは
昭和50年あたりだったと記憶してる 当時もう既に7両編成だった

58 :
俺が小学○年の冬に学校で滋賀にスキーに行ったさいに試運転で走ってたのを
見たのを記憶してるんで、57年かと思う >導入時期

59 :
>>47
俺なんて1993年生まれなのに103系が当たり前な世代なんだぜ?
どう思う? 大阪環状線や阪和線を

60 :
>>47
やっぱりあの頃の客車ってオドロオドロしいイメージはあったよね。
ちょうど客車が減って行く転換期だったと言う事もあるのだろうけど…
>>57
201系は83年2〜3月から営業開始のようです。ちなみに83年1月から試運転開始みたい。

61 :
>>60
ドアが開きっぱなし車輌で、おまけに「三田の山奥で修行して〜」という替え歌が
あったぐらい宝塚以北はわけのわからん感じはあった。
ところで夜行の「だいせん」って京都夜行より後に来て、先に出発した気がしたが
ワシの気のせいだったのだろか?

62 :
>>61
手元にある1975.08の時刻表では、
705レ だいせん2号 012着 035発
827レ 山陰      032着 054発
だから、少なくとも「後に来て」はいないね。

63 :
もちろん、他の時代には「後に来て」いたかも知れない。
あくまで1975年8月時点の話。

64 :
1977年 2月 JTB時刻表より
721レ
大阪5:37発→宝塚6:25→6:59三田7:05→
7:44篠山口7:54→8:16谷川8:18→9:07福知山
9:27→10:14和田山10:33→11:08豊岡11:14→
11:28城崎11:37→14:19鳥取14:29→15:44倉吉
15:49→17:30米子17:45→18:29松江18:42→
19:51出雲市 着
数々の駅で後発列車に抜かれる、まさに「鈍行」を体現した
列車だと思います。

65 :
>>62
福知山では駅弁を売っていた深夜の静岡駅でも売っていたしいい時代だったな
>>64
だいせん6号で帰阪した時この列車とすれ違いこれから1日走るんだと感動した

66 :
むかしは臨時の夜行だいせんもあったのにな。
国鉄も商売気をだして、京都夜行も急行化、福知山で
分割併合をしていたら、どうだったろうか。
>>65
篠山口でも売っていたよ。福知山に至っては駅弁そのものが
なくなったらしいな。

67 :
だいせん銀嶺 などはいかが?

68 :
>>65
> >>64
> だいせん6号で帰阪した時この列車とすれ違いこれから1日走るんだと感動した
「だいせん6号」とは川西池田で交換してた。
当時は20系・・ バックサインを撮影しようと構えてたら、マニ50が最後に繋がれてて
( ・ω・)ノ――――――――――――――@ ショボボボボーーーン

69 :
その下り夜行「だいせん」は福知山で後続の普通列車に追いつかれた。
よって大阪で乗り遅れても大丈夫だったりした。

70 :
面白い。新幹線で寝台特急追いかけるというのは良くあったけれど
急行を鈍行で追いかけるというのは他にはないだろうね。

71 :
>>70
下りトワイライトエクスプレスをサンダーバード21号で追いかける事も
可能だが今の在来線ではそれくらいになってしまったような気がするな
それにしてもこんなローカル線を無理矢理通勤路線にしようとした結果
あの悲惨な事故が起きてしまったのは残念だが仕方なかったかもしれん

72 :
>69-70
西村京太郎のトリックに使われてたな、それ
今もうやってないんだよなぁ、その手のトリック

73 :
>>70
宮脇さんの“時刻表2万キロ”に網走を出た夜行急行“大雪”を20分ほど後に出る勇網線経由の遠軽行きの鈍行に
乗ると遠軽で間に合うという話があったな。ま、アレは“大雪”側に北見などの途中駅で時間調整の停車が多かった
からだろうがな。
スレ違いスマソ
そういや夜行“だいせん”も福知山線が単線非電化の時代は夜9時半発車だったよな。夜行がコレくらいの発車だと
結構風情あるんだろうが、今だと同じ時間帯でも“のぞみ”+“やくも”の乗り継ぎ使う人がほとんどだろうな。

74 :
臨時だいせん(確か52号)が、大阪発22時52分で、丁度良い時間に発車していました。
かなり遅くまで、DF50の牽引だったと思います。

75 :
>>73
それは名寄本線の湧別〜中湧別をつぶすのと密接な関係があったな。
朝夕2本の路線で,朝列車を狙うとなると「大雪」を4時ころ遠軽で捨てて
湧別にまわるのだが,湧別の待ち時間が恐ろしいほど多い。
夕列車を狙うとその後湧網線をつぶして網走についたときは「大雪」発車後。
そのまま折り返して遠軽で「大雪」を捕らえるという芸当があった。スレ違いスマソ

76 :
大阪で行先サボの入れ替え(回収?)を見た希ガス。
旧型客車のサボ、挿入式とぶらさげ式。
当時は金属製だから、枚数増えるとそれなりに‥‥重たッ!w 

77 :
塚口駅にあった、
三菱電機伊丹製作所への引込線が
懐かしい。
あれって、いつ廃止になったのかな??

78 :
自転車で中山寺駅までよく行った
無人駅だけど駅前が妙にだだっぴろくて
人も誰もいなくて、乗車票ってのかな、あれを行くたびに
拝借していたよ。
今はたまに付近を通るけれど、昔の面影は何一つ
残っていない。

79 :
>>77
宝塚電化の頃までは、黄色とオレンジ色に塗り分けられた入れ替え機(バッテリーロコだったと思う)
が塚口駅構内まで入ってましたので、それ以降だと思いますよ。

80 :
川西池田駅の線路配置が単純になっていた。
あのころ写真を撮っていたらと思うと・・・

81 :
福知山線っていまだにDD51+旧客のイメージが強い。(DD54、DF50もいたな)
特に43系に混じって10系客車が連結されてたのが印象深い。
例の事故で福知山線の現状を再認識した。

82 :
12系1000番台も短命だったな

83 :
たしか白帯あぼーんしたやつだったっけ?

84 :
篠山口で売ってた駅弁食べた事あるわ、たしか「デカンショ弁当」とか名前だ。

85 :
篠山口の弁当売りのおっちゃんを取材した番組があったな。
おっちゃんの里帰りとかをドキュメンタリーしてた。

86 :
篠山口なんてちょっと前まで急行で行かなくては行けないくらい遠ーい田舎だと思ったけども
いまじゃあ完全に通勤圏だからな。東西線直通に乗れば学園都市や奈良県まで行けるnだから
イメージ変わったよ。

87 :
>>83
あんまり画像も残ってないでしょうね?
はじめてみた時、急行型客車が!と思いましたよ。
言うたら117系300番台みたいなもんだったんでしょうね。

88 :
福知山線は、加古川線と盲腸3線に乗り鉄の帰りに
谷川から大阪まで乗ったのが最初ですな。
ディーゼル機関車に引かれた古い客車で
ガタガタ揺れまくって乗り心地悪かったのを覚えてる。
今から27年前の高校時代の話。

89 :
1975年の夏休み、大垣夜行→西明石行から乗り継いだ723レ(大阪→米子)が初体験だった。
厨房ながら、大阪から一時間もしないうちに車窓に展開する渓谷美を羨ましいと思ったものだ。
30年以上経過した今でも、自分にとって『鉄道旅行』の原風景になっている。

90 :
大阪駅でキハ47「たらこ」がフツーに見れた厨房時代。
神戸民だった頃に、どうしても「たらこ」に乗りたくて三ノ宮から新快速に乗って大阪に出て、
一段高いあのステップを踏むとwktkが最高潮にwww
篠山口行き(福知山行きだったか)の快速で、確か尼崎と伊丹だけ停車だったような希ガス。
お世辞にも加速はよくない。でも窓を開けて入ってくる風は心地よかった。
なによりあの「ブルブルブルッ」と身震いさせながら走る気動車に激しく萌えたな。
宝塚で下車。月並みな表現になるけど「終点まで乗っていたい」衝動に駆られたな・・・
今、川西民になって同じ線を223系や221系であっという間に走り抜けてるけど、
あのもっさり感満載の「たらこ」が漏れの中の「フチ線」だなぁ。

91 :
丹波ビーチ などはいかが?

92 :
>>91
個人的にエーデル丹後の方が萌えます。
急行「だいせん」の末期にも使われてたっけ。
多分ここの人たちにはウケ悪いだろうけど…

93 :
>>81
漏れの福知山線のイメージはDD54と何故かエーデル車の「だいせん」
エーデル車の「だいせん」車中で携帯亡くした……(藁

94 :
そう言えば四国を走っているディーゼル車よりボロボロの車両が大阪駅に止まっているのを見たが、1990頃まで見たような

95 :
伝説の尼崎港線に乗ったことある方、
思い出話をお願いします。

96 :
私が乗ったのは、80年の夏
午後(夕方)の列車に時間を合わせていくと、塚口にいました
先頭はDDかDEかはっきり覚えていませんが、旧型客車2両
当然ガラガラで、ゆっくり発車
尼崎はたしか左側に高架のたしかコンクり?のホームがあるけど、乗降ゼロ
金楽寺は古いホームと同じくあまり手入れのよくない駅があった記憶
同じく乗降ゼロ、しばらく停車
そして程なく尼崎港着
駅はなんか事務所に毛が生えたようなイメージで、とても客相手の駅とは思えない
そのまま往復すればよかったんですが、時間があったために阪神の尼崎まで適当に歩いて大阪梅田まで戻りました
帰りの列車にもし乗っていたら、尼崎の無人ホームで降りたかもしれません(最初はそう予定していました)
その後気がついたら廃止となってしまいました

97 :
>>96
たぶんDD13だな。末期はDE10も来ていたかも。
ともかく漏れの乗った時はDD13だった。
まだ川西池田始発の時代だ。この頃は4両くらいはつないでいたと思う。
まだ川西国鉄前に能勢電の白と青のが来ていた時代だ。

98 :
いや、川西池田始発の頃から、夕方の尼港行きはたいがい2連だったと思う。
(おれが見てるのは昭和48年ぐらいからなので、それ以前は知らないけど、
4両というのは見た事がない。あと、朝のは見た事がないので、何両かは知らない。スマソ)
で、客車は2連だが、混合列車になっていて、機関車と客車の間に
貨車が6〜7両(もっとあったのかな)つながってるのがいつもの姿だった。
ただ、貨物の関係だろうけど、客車だけの日もあって
そういう日はなんかちょっと面白くなかった。
地方の国鉄路線なんて見た事もない、町育ちの小学生だから、
混合列車というのが存在するのもこれ見て初めて知ったぐらいで、
旧客全盛の福知山線の中でも、少し特別な存在だった。
塚口へ福知山線見に行った以上、尼港行きは絶対見なくちゃ、みたいな存在。
7連の電車が高速で通過する阪急のガード(三菱のとこ)をくぐっていく姿は、
今から思っても時代が30年ぐらいずれたような感じで、不思議な光景だったな。
子供の時代で、なかなか乗るチャンスはなかったが、そのかわり
ドテカンや金楽寺までは自転車で遠征をかけた。
金楽寺の駅は、日没後は真っ暗で(ホームに照明はあったのかも知れないけど、
ほとんど明るさを感じないような程度だったと思う)、荒れた待合室の印象も
なんか不気味さがあって、廃墟みたいだった。
今から思うと、もっといろいろ写真を撮っておくんだったと思う。

99 :
十数年前に中学の修学旅行の時に113系の団体列車で川西池田から新大阪まで乗った記憶がある

100read 1read
1read 100read
TOP カテ一覧 スレ一覧