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2011年11月1期49: 【上野発】八甲田・津軽・十和田【青森行急行】 (334)
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【上野発】八甲田・津軽・十和田【青森行急行】
- 1 :09/01/09 〜 最終レス :11/11/12
- 語ろうではないか
- 2 :
- 周遊券でお世話になりました。
- 3 :
- 東北ワイドで宿代を浮かすのに、真夜中の福島での津軽から八甲田への乗り継ぎは重宝した。
- 4 :
- 開放Bを羨ましそうに眺めていた貧乏組
- 5 :
- 59年1月4日に上り十和田に乗りました(一ノ関→原ノ町)
12系12両なので余裕で座れるかなと思っておりましたが、座る所にかなり難渋する状態と深夜の仙台での乗り降りの多さにビックリしました。
同じ時間帯で座席主体の急行の設定がなかった57・11ダイヤ改正の前はどんなんだったのかと思いながら乗ってました。
- 6 :
- 青森から十和田に乗り、空いていたので1BOX占領して寝ていたら、盛岡で大勢乗って来て叩き起こされたのも良い思い出・・・
- 7 :
- 津軽で青森まで通しで乗る人は一般の人ではあまりいなかったみたい
(鉄がほとんど)。
奥羽本線がやたら長く感じた。
- 8 :
- 今の「あけぼの」も乗り通すのは鉄だけ?
津軽は、山形新幹線工事中の頃の週末、
仙台のカプセルホテルが満室だったので、一泊せず
それに乗り込んで南下した覚えがある。583系だったかな?それだけ、、
- 9 :
- 八甲田は青森→上野全区間、十和田は、一関→日立、津軽は八郎潟→郡山にのったかな!一日位復活しないかな?
- 10 :
- この三本は、東北ワイドとかにも使えたんだよな。
- 11 :
- 中二の時一人旅で初めて北海道に行ったんだけど
1987年8月7日19:07上野発6:08青森着八甲田51号
は未だに空で言える
これは死ぬまで忘れないだろうな
- 12 :
- 51というと、臨時かな?
- 13 :
- 祖父母の家が常磐線のすぐ近くだったから小学生の頃
明け方眠い目をこすりながらED75に牽かれた十和田をよく見に行ったよ。
82'11以前の記憶が無いのが悲しいけど…orz
- 14 :
- 津軽は開放Aがあったんだよなあ・・・
- 15 :
- 東京のばあちゃんから青森に戻る時、上野駅で見た
津軽の10系寝台客車の寝台マークと車内の明かりが暗いクリーム色で
怖かったことを覚えてる。
俺は583系ゆうづるに乗って帰りましたが。
S52-3年頃の事なのでうる覚えですまん。
あとは岩手にいた頃、急に東京へ帰る用事ができたが、新幹線はすでに最終が出た後で、
夜行バスもなく、八甲田に乗って帰ったなぁ。
それ以来八甲田に乗ることもなく、臨時、廃止ってなっちゃった。
思いではこのくらいかな?
- 16 :
- 14系の十和田
簡易とはいえリクライニングで喜んでいたが隣のオバサンが
酔ってゲロ吐きまくりでウンザリ。
583系津軽
青森までグリーン乗車という無謀なことした。
他の乗客はほとんど皆無。
- 17 :
- 労災隠しこわい労災隠しこわい隠ぺい口封じされる隠ぺい口封じされる隠ぺい口封じされるパワハラこわいパワハラこわいパワハラこわいされるされるされるされる死にたい死にたい死にたい死にたい死にたいごめんねごめんねごめんねごめんね死にたい
- 18 :
- とーわーだー
- 19 :
- 発酵田
- 20 :
- 12系時代に八甲田5連泊…辛かった。
- 21 :
- >>20
今の時代から見たらウラヤマシス
>>11
当時はモトトレインが併結されていた頃だと思うけど、
臨時列車には無かったかな?
- 22 :
- 八甲田は流石にボックスじゃなかったよね
- 23 :
- >>22
60年改正まで12系だったと思ったが??
所で>>11氏の乗った
1987年8月7日19:07上野発6:08青森着八甲田51号
は、ほとんど103レと同じスジなんだね。たしか定期時代は上野発19時8分だったかな?
青森着は全く同じ時間だった気がする。
そしてほぼ30分後に401レ津軽1号が発車し、その1時間後に203レ、2時間後に403レ、30分後に205レって感じだったかな。
青森行の定期急行が5本もあるなんて今思うと贅沢な時代だったなよ。
その時は至って普通のことだったので、特に何とも思わなかったんだけどな。
昔の記憶は美化される物だけど、それを差し引いてもね・・・
- 24 :
- 103レってのは定期の八甲田?
臨時スジとはいえ、1分後に雁行なんてことがあったの?
最盛期のゆうづるとかでも5分だか10分だかくらいは開いてた気がするのだけど。
- 25 :
- 津軽には思い出がいっぱいあるなぁ…。
実家が奥羽本線の大館だったから、子供の頃から見慣れてたし。
山梨の母方の実家にく時は、上野までほとんど津軽だった(たまにあけぼのの時もあったけど)。
あと、津軽は奥羽本線の急行の中でも「特別」っていうイメージがあった。
実家の最寄り駅は急行の停車駅だったけど、津軽としらゆき、きたぐには通過だったから(1985.3のダイ改で停まるようになったけどね)。
583や485も、工房の頃寝坊して学校に遅刻した時はお世話になった(弘前の高校に通ってたから)w
最後に乗ったのは1992年の7月、高校生クイズに出るために仙台まで乗った時だったな。
まだ終夜解放だった仙台のホームで朝を待ったっけ。
携帯から長文スマソ。
ついでにage。
- 26 :
- >>24
>>11の時代の定期八甲田スジは旧203レのスジを東北本線経由に振り替えた物。
なので上野発は21時過ぎだった。
- 27 :
- 各駅停車上野発一関行きとか青森行きとかって
何時間で走破したのだろう?@昭和58年生まれ
- 28 :
- >>27
42年10月改正時
常磐線経由
上野22:23 227レ 青森20:26
青森7:58 228レ 上野5:04
東北本線経由
上野11:12 125レ 青森7:48 (その後の改正で一ノ関行きなったが、それがその上野発一ノ関行鈍行。ちなみに一ノ関着は22:57)
上野20:48 129レ 青森16:58
青森6:35 130レ 上野4:31
青森20:13 126レ 上野15:40
奥羽本線経由
上野22:40 421レ 青森22:00
青森6:35 422レ 上野5:07
- 29 :
- >>28
ありがとうございます
まるで名作劇場アニメに出てくる列車のようですね
- 30 :
- 俺の想い出は、定期の津軽が廃止された翌年、臨時(季節?)乗った時、某ボックスの座席車に乗った。たしか電車型。
だぶん2シートもあったと思うのだが足が伸ばせるのでボックスに。夏休みというのに、1車両に数人。
でよくみて気付いた。車両オタでないので良く分からないのだが、これは寝台を座席にしたのでは・・・。
そんでもって両側の座席を引っ張り出し、広々とベットのようにして寝ました。客はほとんど居ないしね。
たぶんA寝台だったんじゃないかなあ?
このあたりどんな車両か分かる人居ますか?
- 31 :
- >>30
電車というんなら、時期から類推しても、ほぼ間違いなく583系ではないかい?
- 32 :
- 15年くらい前に臨時津軽が583で運転されてた記憶あるな。
- 33 :
- 多分2シートはグリーン車の事だな
- 34 :
- 各駅停車で、それもボックス席で丸一日近くかけて上野〜青森移動って
よく耐えられたなぁ。
- 35 :
- >>34
さすがに乗り通す人は稀だったのでは?
急行もあった訳だし・・・それでも12時間程かかっていたが。
- 36 :
- 周遊券組は、その八甲田を乗りとおすために、上野駅で1時間くらい並ぶんだよ
時間が無かったり、途中からの人は、1200円+500円を払う必要があった
- 37 :
- >>36
1時間なら短い方でしたな当時は。
観光シーズンだと2時間3時間も当たり前だった時代。
通常期の昼間の特急でも1時間前から並ぶのは普通だったし。
- 38 :
- 黒磯まではEF57担当?
- 39 :
- 津軽は能代、大館、弘前地方の人にとっては出世列車。
東京で金を儲けて、故郷に錦を飾るのに、臨時列車は許されなかった。
勿論、あけぼのはなかった。
- 40 :
- 何故か「あけぼの」がデビューした後でも出世列車の名前は残った。
- 41 :
- >>39
二等車から降りないとダメだったのでは?
それなので三等車に乗っていても降りる際には二等車から降りたとか、、、
- 42 :
- 十和田って、寝台とかグリーン付いていたんだっけ?
- 43 :
- >>38
昭和53年頃まではね >EF57
- 44 :
- 12.14系時代何回か乗ったな。
もう少し値段を考慮し高速バスに対抗してもらいたかった。
- 45 :
- 福島からはSL、板谷峠を越えて山形県米沢、山形から新庄へ。夜明け前のホームの先端では炭水車に給水していた。
雄勝峠を過ぎれば秋田県湯沢。県境から100キロで秋田市。さらに100キロ余り走って矢立峠で、やっと青森県。
津軽 弘前はもうすぐだ。
お土産の風月堂のゴーフル、ヤマシロヤのおもちゃは東京の風を感じさせた。
- 46 :
- EF57のデッキに乗りとおした客も居たんだよね
- 47 :
- >>46
戦後暫くは。
- 48 :
- 国鉄時代vol1によると125レに鈴なりに乗っていたと記述が。
転落した事故もなかったのか誰でも入れたみたい。
客車のドアだって自動じゃないから、名作劇場アニメみたいに発車しだした列車に飛び乗ったりする
こともできた。事故起きても自己責任って感じだったよね。今だったらマスゴミに叩きまくられて
即廃止だよ。
- 49 :
- そんな125レもEF57の後を追うように、
「53.10」改正で上野口から姿を消す
1978.10.1 その最後の125レを牽いたのは・・・・
なんとEF65-1000であった
- 50 :
- >>49
>1978.10.1 その最後の125レを牽いたのは・・・・なんとEF65-1000であった
それ、客車はいわゆる旧型客車だったの?
- 51 :
- >>50
そのとおり、いつもの仙フクの旧客編成でした
現在の土呂駅付近(当時は砂利置き場)で見送りました
EF57の後部デッキに乗客をのせた125レも記憶に残っています
- 52 :
- ほほぅ。
どっかのブログで65-1000が旧客を牽引するという謎の写真があったけど、
もしかしてその列車だったのかな。
「冬じゃないから暖房の必要はないのですが」とか書かれていた様な。
俺の世代はEF57は殆ど知らないから、八甲田や津軽はEF58→EF65ってイメージでつね。
- 53 :
- EF57狂会
- 54 :
- 青森駅が近づいてくると、車掌が、青函連絡船の乗船名簿配るんだよね
- 55 :
- あれは、野辺地を過ぎたあたりだったかな?
- 56 :
- 車内販売は無かった気がする。
どうだったのかな?
- 57 :
- 夜行急行は基本的になかったと思ったな。
そのかわり深夜でも駅弁売ってるし、主要駅ホームにはアルコール類の自販機あったし・・・
- 58 :
- >>56-57
国鉄時代の下り八甲田は盛岡以北でありますた >車内販売
その時食った一戸の弁当も今はあぼーん…
- 59 :
- 平成2年の2月末に乗った下り「八甲田」内での駅弁販売はあったね。そのとき
買ったのが山口松山堂の「ロースカツ弁当」\720。盛岡の15分停車でもホーム
のそばを食ったような気もする。
下り「津軽」では、横手駅弁当の平源「特製かまくら弁当」の販売があったね。
これは平成3年12月のこと。583系化されて秋田の停車時間が短くなったよう
な記憶がある。
- 60 :
- ここのスレタイって【上野発】〜【青森行急行】と囲みがあるが、
上りの東北急行も【上野着】ならではの趣きがあるよ。
ちょうど今頃の季節、雪を屋根に積んだ10系寝台なんぞがEF58(出来れば57希望だが)
に牽引されてやって来るわけだ。 本当に雪がてんこ盛りでさ。
それを赤羽あたりのホームや並走する通勤電車から見た時は子供ながらに
485系、583系にもない風格を感じたもんす。
- 61 :
- パンチを入れる鋏に、フィルムのケースを付ける職員が多かった。
まあフィルムケース自体もあまり見なくなったけどね。
- 62 :
- 遠距離恋愛してた貧乏学生時代102レを使ってた。
盆の時期はデッキに一晩中いるはめになったり向かい合わせになった席の後ろに潜り込むD寝台も経験した。
それでも盛岡から関東にでるには便利な列車だったなぁ
八戸から乗ったおっちゃんに貰ったカリントが平たい渦巻き模様だったのに驚いたのもいい思い出。
そう言えば上野到着前に鉄道唱歌のオルゴールが流れたことがあったけど車掌さんのイタズラだったんだろか?
- 63 :
- >>62
>鉄道唱歌のオルゴール
アナウンスの直前とかに流すのって普通じゃない?
東北方面はハイケンスが多かったのかな?
- 64 :
- >>63
いつもはハイケンスだったのが違う音だった。
なにぶん古い記憶(H5頃)なんで何かとごっちゃになってるやも
車掌さんによってはいきなりアナウンスする人がいたり減灯前のアナウンスをしない人もいたっけ。
大きい駅につくたびに巡回する人、しない人とか…
スレタイにはないが『おいらせ』はどうだったんだろ?
乗車経験がないんで俺は語れないが…
- 65 :
- 中学生の頃八甲田に乗りました。たしか14系座席車だったと思う。
朝方の盛岡の15分程の停車時間に駅弁買って、青森までの景色を楽しむのが好きだったなぁ…。
リーズナブルにそういう事を楽しめる列車が減りましたなぁ…。
- 66 :
- 家族で青森に行くのに、十和田を使ってました。
しかし不思議な事に、八甲田に乗った記憶が全くない。
- 67 :
-
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
- 68 :
- 急行「おいらせ」も何気に有った平成5年ごろ
「八甲田81号」を名乗らなかったのはなぜだったんだろ?
- 69 :
- 東北3大夜行
最初は昭和56年3月の十和田2号 盛岡→上野 12系
初めての一人旅で、上野からつばさ1号で大曲→田沢湖線にて盛岡・・
2度目は翌年3月の十和田4号 青森→上野 ナハ21
中卒記念に、北海道に行った帰りに乗車。
その後、廃止になるまで
八甲田、津軽は何度も乗車したな・・
仙台・盛岡に行くのに津軽を利用して、
仙石線・北上線・陸羽東線を経由したこともあったけ・・
窓辺にビ−ル缶を並べて眠ったな〜
- 70 :
- 新幹線開通前は、多数夜行がありいくらでも選択の余地がありましたから、それこそ何回もお世話になりました
途中深夜の乗換もできました(福島が一番知られていると思います)から、周遊券で宿泊費倹約は皆さんでしたらおなじみでしょう
最後には八甲田津軽各1往復残でしたけど、今度はスキーで同じく何回もお世話になりました
八甲田は盛岡(安比雫石)や青森通し(八甲田山)
津軽は山形(月山、蔵王)、シーズン中はシュプール号があったためこちらは少ないです
会社の友人など、何人何回八甲田に乗せたかわからないくらいです
津軽が一往復に減った時は大混雑で積み残し(20系)が多発して、臨時のおが(14系)と車両をしばらくして交換しました
当時はまだ乗る人が多かったです
八甲田は通しで乗った人は少なくないと思いますが、津軽は稀では?
自分も津軽は青森まで通しで乗ったことは無いまま無くなってしまいました
- 71 :
- >>70
ノシ
59年1月3日発の下りに乗り通しました。
青森からは4時間待って583系の「はつかり」に乗車し、盛岡からは「十和田」で帰りました。
どこも見ない夜行東北一周旅行。
この時「津軽」は14系になってました(時刻表は20系編成になってましたので切り替え直後?)所定10両の所、1両増結で11両で運転。
Uターンラッシュと反対でしたが、指定は満席で自由席も10号車までは半分以上埋まってました。
が、増10号車だけはどういう訳かガラガラ。シートも向かい合わせにしてもまだ余裕ありました。さすがキハフ・・・。
ちなみに盛岡からの「十和田」自由席はほぼ満席で座るところを探すのに一苦労。
深夜の仙台では乗り降りがかなりあって、これには驚きました。
- 72 :
- 羽越線不通の影響で「日本海」のスジで弘前に到着した「津軽」指定席の隣の席は、
旅慣れてなさそうなおじさん。
聞いてみれば弘前から「日本海」に乗るはずが、不通で秋田からの上野行きの寝台特
急と新幹線乗り換えに振り替えになったとのこと。おじさんは宇和島の青果市場の社
長さんで、商売の関係の出張だそうだ。
不安そうなおじさんの話し相手を、弘前から秋田までした。秋田では乗り換えの列車
のホームまで案内した。
車中で「住所を」と言われてメモを渡して別れて、しばらくたってから、俺の家に愛
媛のハウスみかんがひと箱届いた。すごくうまかった。
これ、20年前に弘前から「津軽」に乗ったときの俺の思い出。
- 73 :
- ええ話だねぇ
- 74 :
- 当時はごく普通にありましたね、住所の交換。
- 75 :
- 携帯のないよ時代だしね
その後
その社長のとこに就職したとか?
- 76 :
- 学生時代、札幌から東京に帰省するのに、
ニセコ→海峡→八甲田 で帰った(東京ミニ周遊券)。
- 77 :
- >>72
大曲〜山形〜米沢経由のあけぼのに振り替えか
- 78 :
- 津軽海峡冬景色に出てくる『上野発の夜行列車』とは…
十和田だった
- 79 :
- >>75
いや、就職はしなかった。
>>77
振り替えが「津軽」で秋田まで乗せる指示だったんだから、秋田始発の列車への振り
替え。「鳥海」とか「出羽」はありえないから、多分「あけぼの」。そのころはまだ
秋田始発の「あけぼの」があったんじゃないかな。
んで、その話の続編。
秋田到着前に車掌に、ホームで食料を調達するために秋田での停車時間と、上野到着
が定刻かどうか尋ねると、いずれに関しても「なんともいえない」とのこと。
秋田駅にすべりこんだところで、近くの席の弘前か大鰐から乗ってきたおばさんに「
荷物を見てて」と頼んでホームへ。いつ発車するか分からないので、おじさんを急い
で乗り換え列車のホームまで送って食料を調達。
これらを済まして車内に戻ると、おばさんいわく「実は、弁当を買いに行きたかった
んだけど…」。
もう発車まで時間はないだろうし「これは悪いことをしてしまった」と思った俺は、
弁当とホームのそば屋のそばを持ち込みにして買ってあったので、そばだけでも食え
ば朝までは仮眠するだけだし、「それじゃ、これを」と弁当を差し出しそれを譲るこ
とにした。
代金をよこしてくれたので俺は十分だったんだが、なんか先方は気が済まぬ様子。「
それじゃ、これを」と向こうから差し出されたのが、大きなりんご。もしかしたら農
家で、自分のところのりんごだったのかもしれない。
そばをすすったあと、そのりんごをかじった。うまかった。
夕食後簡易リクライニングシートでうつらうつらしている間、その「津軽」は奥羽線
と東北線内で遅れを見事に取り戻し、定刻5時54分に上野駅の地平ホームに到着した。
これらは一列車内で起こった話。
- 80 :
- この場合は事情がやむを得なかったのでしょうけど
今は荷物を置いての場所取りはしにくいですね…
「あなたが戻って来なかったら困るから」と拒絶されたことがあります。
急行津軽や八甲田が走ってた時代ではなかったけど…
デジカメとかPCとか金めのものは当然持ち歩くようにしています。
- 81 :
- 『津軽』『八甲田』ともに良く乗ったなぁ。友達と上野のホームで長時間待ってる時間が退屈だったが楽しかった。
- 82 :
- 先週、家の倉庫の荷物を整理していて、時刻表の昭和59年1・2月合併号が見つかったので、暫く読みふけっていました。
東北夜行は、新幹線開通前と比べると寂しくなってますが、まだ何本も走っていました。
良い時代でしたね・・・
- 83 :
- >>82
57・11改正ですごく寂しくなりましたが、今から考えるとウソのような夜行列車が充実してましたね。
その1年と少し後の時刻表からは更に夜行列車が減りましたが、それでも夜行急行自体は上野から1日3本(でしたよね?)出ていましたからね。。
- 84 :
- 十和田3号ハザ12系ハネ20系の混成編成だった。なつかしいなあ。
- 85 :
- >>84
嘘をついてはいけない。
- 86 :
- >>84
だいせんとかさんべとかかいもんとか日南とか・・・
- 87 :
- >>45
>福島からはSL、板谷峠を越えて山形県米沢、山形から新庄へ。
福島から…じゃなくて米沢or山形だよな?まさか4110とかE10牽引の列車に乗ったことあるとか?
- 88 :
- ナハ21って贅沢だよな。
寝台には出来たの?
- 89 :
- http://madfoolish.blogspot.com/2007/09/rice-fields-art.html
- 90 :
- ナハ21は、4人が座ると結構窮屈でしたよ。脚が伸ばせるのは助かりましたが。
- 91 :
- >>90
A開放寝台の座席状態ってのは1ボックスを向かい合わせ2人で座るように作ってあるから、
4人だと窮屈だよな。
- 92 :
- 高校〜大学生の頃は東北ワイドで津軽と八甲田のVターンで宿代浮かせてたな。駅近くの銭湯やコインランドリーにやたら詳しくなったり。
油断して力を抜くとバタン!と馬鹿デカい音を立てて背もたれが戻る簡易リクライニング(深夜だと非常に気まずい)も懐かしい。
- 93 :
- 夜行急行にも「運転停車」ってあるの?
- 94 :
- 能登が上越線回りになってからの長岡が有名かな。現役だけど。
- 95 :
- >>93
夜中の機関車付け替えとかであるんじゃないの?
例えば津軽の福島とか山形とか。
客扱いしてたんかな?
- 96 :
- 津軽は福島も山形も客扱いしてたよ。
機関車交換の場合は座席車連結急行なら客扱いしてたかと。
勿論、運転停車もしてた。単線区間での行き違いや特急退避など。全車寝台急行なら運転士交換でも運転停車があった。
- 97 :
- あぁ、そうなんだ。ありがd
- 98 :
- 旧客時代だと運転停車ついでに客扱いってケースもちょろちょろあったようだね。
信じられないような小駅に深夜に片道1本だけ急行が停車したりしてる。
- 99 :
- >>98
それはちょっと正確ではない。
むしろ手動ドア全盛時代は「運転停車」という概念すらなかった。
最たる例は山陽本線瀬野で,上り客車急行だけ全停車。だいたいは
長距離夜行急行だったもんで,大半が深夜〜早朝の停車。
昼間の時間帯は電車急行が多かったのでほとんどが通過。
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