1read 100read
2011年11月1期10: 思い出の定山渓鉄道 (360)
TOP カテ一覧 スレ一覧
思い出の定山渓鉄道
- 1 :09/08/27 〜 最終レス :11/11/13
- 札幌市中心部と定山渓温泉郷を結んでいた懐かしの定山渓鉄道。
右側運転台の電車、国鉄乗り入れ用気動車、湘南スタイルのスマートな電気機関車など、個性豊かな車両が揃っていた定山渓鉄道の思い出や廃線跡のお話などをお願いします。
- 2 :
- 華麗に2get!
個性豊かと言えば、廃止前に導入した固定窓の車両が一番だなw
- 3 :
- 前に北海道スレに貼ったやつ
http://www.youtube.com/watch?v=C_nu5PBPV6Y
- 4 :
- 真駒内以南だけでも残すわけにはいかなかったのだろうか…
ま、無理か。
今でも残ってたら、近代化されて新車が(あるいは東急のお古のステンレスカー?)定山渓へ向かう鉄路を走っただろうか?
- 5 :
- 真駒内と定山渓の間って人家まばらではありません?
- 6 :
- 定山渓鉄道の事を土かかの出版社で9月21日に販売するみたいです。
本の名はRMラ・・
- 7 :
- >>6
8月発売分の下巻はどうなるのさw
- 8 :
- >5
簾舞までならカナーリ開発されているが…。
- 9 :
- 廃線後他社で生き延びた車両って長野電鉄へ行った電機2両と、十和田観光へ
行ったMT各1両、他に何かあったっけ?
国鉄乗り入れ用のDC、もし右側運転台じゃなかったら、それこそ茨城交通や
関東鉄道辺りがウハウハ言いながら買ったんだろうな。。。
- 10 :
- あの定鉄のステンレスもどき固定窓電車に似た車体の車両が、東急車輌の入替車になってたような…
- 11 :
- >>9
国鉄乗り入れ用のDCは14年位?
- 12 :
- 国鉄乗り入れ用気動車といい、固定窓車といい、短命に終わって勿体なかった…
- 13 :
- 国鉄乗り入れ用気動車は保存しても良かったのに…
- 14 :
- >>10 ちがうよ。ゲロ電(固定窓車)は、日立製 デイーゼルカー共にこの地で絶命!
東急車輛の入換え車 101だったかな?は、木造院電の鋼改車。
東急から行った3600形が一番ボロかったのかもね。
3600形の国電台枠流用車って早くから伊豆急に貸し出されたり使用線区制約の兼ね合いとかで、結構持余してたのかな?
本家より先に線路もろとも消滅したのは、移民労働者の強制労働、野垂れ死みたいで可哀相だな。
本家より先に
- 15 :
- >>14
教えてくれてありがとう!
- 16 :
- 定山渓鉄道の車両で、譲渡車も含めて現存する車両は皆無なのか?
- 17 :
- >>16
越後交通のELは?
- 18 :
- 札幌市がSSトラム(ゴムタイヤ地下鉄)なんて独自規格やらかさなきゃ、
地下鉄(DC1500V架空線)相互乗り入れで生き残れたのになぁ。末端は
廃止されたかもしれないし、気動車はお役ごめんだろうけど。
>13
湯口氏が「なぜ譲渡されなかったのか理解に苦しむ」とか書いてたなぁ。
ニ軸駆動だったっけ? そこが嫌われたのか?
案外右側運転台が嫌われただけなのかもしれないけど。
- 19 :
- >>18 廃止になるなら、もう少し早く廃止になり青息吐息の寿都や北海度拓殖に二束三文
で出してあげればよかったのに・・・と思うのは、俺みたいな鉄オタのお節介だろうか・・・
話は、変わるがゲロ電と東急車輛の入換え車 資料が乏しいのか余り知られてないみたい
だけど結構違うよ
ゲロ電・・・ヘッドライト埋め込み二灯・・・福島交通タイプ?
尾灯 埋め込み
側窓 その名の通り固定!!
入換車・・・屋根上 チョン付け?一灯
尾灯・・・旧型電車に多い引っ掛けタイプ
窓・・・・とりあえず開く(二段上昇?)
他に全長とかも入換車は、院電ベースだからゲロ電(2ドア)よりデカイと思う。
- 20 :
- 転換シート車も有って結構豪華だったね
- 21 :
- >>18
> 案外右側運転台が嫌われただけなのかもしれないけど。
実はそこが致命傷だった希ガス
- 22 :
- >>18>>21
確かに、同時期に廃業した道内の炭鉄各社 = 留萌、羽幌、雄別など = の
店仕舞い品の車齡の若いのは茨城交通や関東鉄道が買い漁っていったのに…
定鉄キハには両社とも見向きもしなかった(?)のはやはり構造上の問題か。
あと、廃線に至った事情が札幌市の地下鉄建設に伴う『補償買収』という点も
関係あるかも。何せ公共事業だし地下鉄の場合は国から札幌市に対し補助金も
出ているはずなので、定鉄としても『中古車』として積極的に売りに出すほど
銭に困ってなかったのかもね。
- 23 :
- 琴電から玉野に里帰りした電車みたいに、
十和田観光への譲渡車が札幌に里帰りしてたら…
- 24 :
- そこでゲロ電のレプリカ作って定山渓温泉に設置ですよ
- 25 :
- 私も、小学校入る前に乗ったことあります。
豊平駅から慈恵学園前駅に行ったと思いますが。
- 26 :
- そういえば、最近出た鉄道データファイルに定山渓鉄道の記事が載ってるね。
- 27 :
- ここも有名な割には保存車とか一切無いねえ。
痕跡と言えばお決まりの廃線跡と、
駅舎がひとつ残ってるのが奇跡みたいなもんか。
ちょっと前まではもうひとつあったんだよね。あと子供のころには0番ホームがあったっけ。
資料も散逸してしまって、忘れられて歴史の中に埋もれていく運命なのかもね。
- 28 :
- 旧豊平駅舎の解体は残念だったね
- 29 :
- 此処って、戦後は道内最有力民鉄だと思うけど、
戦後一時盛況していた。道内車両メーカー(運輸・泰和・釧路製作所・旭川鉄道同志社・・・田井自動車・・・大穴!)と用品・工事等でも一切取引なかったの?
- 30 :
- >>24
ゲロ電は見るのもいやだす。
- 31 :
- >>30 現存していたら、下呂温泉に寄贈!!
- 32 :
- ゲロ電、初めて知りました
鉄ピクに現車の写真が「解説付きで」載ってら (゚д゚)
- 33 :
- サウナ電車って訳ですね
- 34 :
- ゲロ電こと2300形を、更新製造した時はひょっとして既に この鉄道の将来に暗雲が立ち込めはじめていたのだろうか・・・
夕張鉄道と共に道内でも、羽振よく優秀な車を購入してきたのに・・・・
でも、将来に明るい見通しがないなら東急から更に中古車供給を受けてもよさそうだし、
(最初の3600形譲受は、東急グループ入りにあたっての、お付き合い程度ものかなと・・・)
何故にこのような、安っぽい車を作ったのだろう・・・
そもそも、ゲロ電作成時 部品供給源として絶命した在来車の車体が、更新を受けお隣の旭川市街鉄道に
出向いたりしている位だ(丈夫だという事だ・・・)。
それと単なる偶然だろうが、この時期東急車輛が 地方鉄道向けに製造した
車は、みんな 短命だ・・・栃尾・仙北・札幌市等
・・・当時は、東急車両も駆出しメーカーで条件の悪い仕事でも積極的に請け負っていたのかな?
- 35 :
- >>34
当時経営が傾きかけていたのは確かですけどゲロ電の種車は100じゃないし
東急車輛の短命車は路線や用途が無くなっただけですがな。
東急からの出物が無くて系列の割に入っていないのは上田丸子電鉄も一緒ですしね。
- 36 :
- 定鉄が残ってたら、東急5000から7000、現在は1000に置き換えが進行中、かな、
あおりを食って長野電鉄や福島交通などの車両にも変化があったかも。
長野や豊橋には西武の中古が走ってたりして。
ターミナルの立地は悪いが、並行路線が無いから西鉄宮地岳線以上にはなってたんじゃないかな。
- 37 :
- >>16
>>27
小樽に1量保存されているよ。
- 38 :
- 北炭い1…1963年定鉄から寄贈を受けた国鉄が苗穂工で復元とか…
- 39 :
- 地下鉄との直通も可能だったのではないかと。
南北線が豊平−大通−麻生の経路で建設され
豊平で定山渓鉄道と直通。
豊平−苗穂は廃止だっただろうが。
- 40 :
- >>22
定鉄はオリンピック誘致に燃える札幌市と北海道東急子会社網を東京の資金ではなく、道内の資金での回しをしたがっていた東急グループとの思惑が一致した賜物だよ。
定山渓鉄道は運輸密度1000を切ってはいなかったが、営業赤字に転落していたこと。
生き延びる方法はあったが、補助金漬けになるまえに定鉄が資金源にならないとならなかった。
札幌市は一方でオリンピック誘致に向けて意欲的高速鉄道も必要なインフラと考えていた。
で、鉄道を廃止して未来的思想の高速鉄道を引き換えにする金銭取引が成立したってこと。
鉄道の廃止ならまだしも、バス路線&バス機材の大量譲渡、乗務員も公務員化、土地の交換など、今からでは考えられない条件の資産トレードってこと。
定鉄は大きな金を手にし、市は運輸網の公営化推進を一気に進めて来るオリンピックに備えることができた。
売却資金を種に、南区、西区、豊平区の不動産開発に着手して資金を錬金し、北海道東急グループ網を強くし、鉄道にとどまらない北海道支配権の派遣を一時握ったことは事実でしょう。
名鉄グループ、西武グループに大きく差をつけたことは見てのとおり。
(まぁ東亜国内航空も握ったってのもでかい)
そういう役所とグルのようなレンキンのため、資材をあまりみだりに売却することはできなかったってこと。
鉄道機材の機能的な問題が多いとは言うけれど、譲渡先が自社影響系長野〜五島総帥の政友田中角栄の越後(当時は五島の側近田中均が出向中)、やはり慶太より懇意にすることを命じられた小佐野賢治の十和田観光鉄道と、
一般譲渡ではない次元のみに限られているね。
雄別などの廃止助成金目当てで解散し、資産をすべて金に清算したかった鉄道とはわけが違う。
ちなみに定鉄の存続条件で有名な「踏み切り7箇所設置」は裏があると考えられる。
当時の警視総監の清水氏、運輸大臣(失念)は、五島総裁の若き日の勉強仲間だ。
一見無理を言っているようにして定鉄を引っ込めさせる形を作ったものと考えられることもできる。
明確になっていない部分もあるが、書物の点と点をつなぎ合わせると、オリンピックを囲った政治的な経済動員であったのではないかと思う。
ちなみに、これらの動きが明らかになる昭和36年以降は慶太翁が亡くなり、昇総裁がくろがね自動車や東洋精糖だったかを撤退、自己色を強めた時期に一致する。
- 41 :
- 無駄に長い上に独特の文調
変な言い回し
読む気にならん
- 42 :
- >>41 マアそう言うなよ。
古い自動車や鉄道に関心を持ち調べてゆくと、その当時の社会背景・経済情勢・関係者の人脈
等もおのずと無視できなくなる。
無論そっちみたいに、そういう展開を好まない人もいるだろうが・・・・
やはり、疑問を突き詰めるにはある程度必要になると思う。
勿論 自分で積極的に調べる、調べない程度もあるけどね。
ゲロ電と東急車輛の101・東急の7000系東急車輛で、一期一会の顔あわせしたのかな?
気になる。
- 43 :
- >40
おーい。EKKじゃなくて長電だぞ>>電気機関車。
バスの補償には、批判もあったようだね。
しかし、再度じょうてつに市営バスが移譲されるとは皮肉なものだ。
慶太の中央バスの乗っ取りが成功していたら、だいぶ違う展開だったんだろうな。
- 44 :
- >>40
東亜国内航空は発足当時「ばんだい号事故」で痛い目に遭う
- 45 :
- >>40
国際興業・小佐野賢治はロッキードで捕まったが、
東急の大物は汚職が明るみに出なかったのはなぜ?
- 46 :
- 航空に詳しい訳でないけど東亜は、機材が根本的に違ていたからね。
YSの独壇場で買ってもらえる事を、端から期待せずでは・・・
それより五島慶太の魔の手を逃れた企業で完全勝利は、三越と北海道中央バスだけかな?
東京地下鉄道も結果的に、交通営団発足で東急○○線にならないで済んだだけで早川さん
失脚だし・・・
北海道中央バス 恐るべし 九州産業交通とともに、何か絶大な政治力でもあるの?
- 47 :
- >>46
> 北海道中央バス
本社が小樽だけに金融関係と密接な関係を築いていたのかも
- 48 :
- 中央バスは、慶太がよくやっていた迂回買収で攻めていたよ。
鉄砲玉になったのは小佐野賢治と、北交ハイヤーの柴野。
いずれも27%を取得して、五島名義に書き換えて買収終了になるところまで行っていた。
小佐野との関係はすでに経済舎弟にあったので自然だけど、柴野はバス事業への色気もあったので東急に一時加担したってわけ。
ところが柴野の裏に慶太ありがばれてしまい、道内経済界の観光関係から突き上げを喰らい、北海道銀行が加担して「柴野よ、そのまま持った株を五島に譲れば、北交を潰したろか?」
ということになり、柴野はビビッて株を道銀に預け五島の元から逃げる。
逃げるっても函館に隠遁しただけだが、五島の部下の安田に見つかり、五島の前に引きつりだされる。
柴野は「俺の株ですよ、俺の株を誰に売ろうが関係がない」と突っぱねて、慶太を激昂させる。
すでに柴野は道銀に頼んで株を再びばら撒いたあとだったので慶太は歯軋りするしかなかったらしい。
ここは小佐野が「五島さん、あんたが今回は負けだ、もうあきらめるべき。だから俺の集めた株もいったん引き取ってくださいよ。その後はどうするか考えればいい」
と、諭して、諦める。
慶太は柴野に憎しみを覚えたが、周りから諭されて仲直りする。
北海道の進出第一回目はこうやって失敗したらしい。
第二回目は、北海道グランドホテル社主を見方につけて、じょうてつを浅野一族から奪取することに成功したんだけど、
交通・観光・不動産・流通の全面征服までは行かなかったらしい。
昭和40年代前半、今も盛業中の「クレードル興農」事件を東急が前面無償救済することで北海道に残っていた反感が薄れて改めて全面進出するまで待ったんだと。
読みたい人だけ読めばいいと思うのでつらつら書いた。
- 49 :
- >>45
黒いことはしていなかったというか、する必要がなかったのだと思う。
父の慶太は逮捕収監されているが、戦時だからよいか悪いかはわからない。
2代目の五島昇の周辺で逮捕起訴された経済人は大変多いが、
田中角栄、小佐野賢治が有名なほか、逮捕されていないが石川六郎も疑獄引責しているな。
経営は苦しかった時期もあったが、上3人とは成り立ちがよかったので、正攻法でやれば何とかなったのだろう。
あとは電鉄が無尽蔵の利益を生み続けるので、普通いろいろな失敗をしたら潰れるが、金は貸してもらえている。
銀行もバックに強く張り付いてくれていたのは大きいだろうな。
三越も親父が失敗したのは慶応閥を怒らせたことだが、五島はしっかり慶応閥と仲を分かち銀行は慶応閥中心に結びなおすなど、
正直何をやってもうまくいくようになっていた。
ほかの人間はなにかギリギリのことをしないと成功できないというものはあったんでしょうな。
慶太がいろいろ経済犯罪ぎりぎりのことをしていたのは確かだが、息子の昇は継承したら一気にその灰色部分をカットして鮮やかに事業を整頓したのも、
手が出しにくかったのではないかな?
ただ、そんなのは血筋のよさと時代のよさと、ブレーンのよさと、本人の世間的価値。
何から何までうまくいったからだろうな。
3代目になるはずだった五島哲に至っては、
昇の死後、昇の番頭抗争が起きて担いでもらえず、あほ扱いされて早々に失脚、さらに追い討ちで時代の責任おっかぶらされて追い出され、
2年前、名誉職の挨拶しに岐阜に行ったときに59歳でポックリって死んじまった。
- 50 :
- >>46
あと、中央バスは当時、労働組合を作らずに永い事経営している。
一方で東急グループは労働組合の過激派で有名。
当時の北海道政権は自民党。
過激派がこれ以上入られては、北海道の経済界全体が困るという話はあったようだ。
東急グループは一方では買い漁るまでは企業・労働者の敵だが、買収した後は間接的に労働組合極左運動の拡大になるんで、単純に保守派や企業から嫌われたというのがある。
中央バス、近隣企業に労働組合が作られたら困る勢力もいろいろ加担したようだ。
- 51 :
- 札幌東急ストアがじょうてつグループから,純粋に東急グループになってひさしいけど,今度はアークスに譲渡されるそうで。
札幌から東急ストアの名が消えるのも少々さびしいですね。
- 52 :
- >>39
せめて札幌市が南北線を普通の鉄道(3ft6in)で造っていれば…。
豊平で定鉄と繋げれば定鉄の豊平以南は活かせたかもしれないし
さらに新琴似で札沼線と繋げれば…。
スレ違いゴメソ。
- 53 :
- >>52
ただ、当時の札幌市が地下鉄に拘った理由って
「雪に影響されない交通機関」を作るってことだと思うんだ。
だから、地上を走る鉄道との乗り入れって概念は無かったと思う。札幌都市圏も小さかったし。
- 54 :
- >>48 こういう話好きです。「有難う!!」
批判・煽りだけで知識、情報無い人の書込みは、つまらない。
この時期の札幌市電の東急車輛入札受注は、何気に北海道進出へのアドバル−ンかな。
- 55 :
- >>51
それどころか、じょうてつゆかりの職員の師弟が札幌東急ストアには多く入社しており、
いまの幹部クラスの一部は「定山渓鉄道の運転手の息子」とかが複数いる。
それらが今退社を迫られるようなリストラに晒されてんだよな。
いろんな意味で東急の北海道は終わったのかもなぁ。
残っている会社のほうが少なくなった。
北海道の東急核企業だったのがじょうてつだけど、今、その目的がずいぶん失われて、ローカルバス会社でしかないもんな。
あ、せいぜいマンションデベロッパー?
- 56 :
- >>52
それいうなら、札急が果たされていればってことになるんじゃね?
慶太が5年長く生きたら実現しただろうな。
札幌市・・・板垣はそもそも真駒内と大通を結ぶ以外消極的だったようだ。
東西線はあまり進めたくなかったらしいな。
もちろん定山渓までの鉄道を引き取るつもりも一切なし。
オリンピック〜未来的交通機関というアピールが果たされれば良かったんだから。
藤野まで伸ばさなくて結果的に正解だしそのつもりも実はなかったようだ。
自民党市議会議員だった青木護が質問してその回答を得て落胆していた。
延長構想は地盤を継いだ堀川が当初運動を大きくしたけどすぐ萎んだ。
まったく歯牙にも掛けられてもらえなかったらしいな。
- 57 :
- 東急は、労務問題の左傾化に比較的寛容で財界の一部に嫌われた。という事だが、
その東急のオーナー 五島昇 と 国鉄分割民営化の急先鋒中曽根康弘 が、親友同士
というのは、興味深い。西武 堤 と交友関係といい包容力のある人物だな。
話をそらしてすまん。
定鉄廃止に向けての工作が、道内官民の一部団体の働きがあったとは、考えられないだろうか?
例えば、電化区間撤去の見返りで始まった デーゼルカー札幌駅1番線乗入れ枠の権利とか・・・
後年 そのままだと必ず国鉄としては、邪魔になった筈だ。
- 58 :
- >>57
五島昇の人脈はあまりに広いことで有名だね。
その力をフルに生かして北海道と長野、パンパシフィック開発を邁進したといってもいい。
(バブル崩壊後に生きていたら相当晩節を汚した可能性が高いが・・・ある意味最高の時期に亡くなった)
左傾化した労組との関係ははっきりしない。
ただ、五島自ら労組に加盟し「反動経営陣の即時撤退」の横断幕を書かされる恥辱を味わっている。
(もちろん反動経営陣とは父慶太のこと)
押しかけた労組幹部の前で立ち小便したという豪快な話も残っている。
逸れ話はともかく
定鉄廃止は言うとおり、東急・道内官民すべての総意だったと思っている。
鉄道が死ぬというショッキングなことだが、政策的な面で廃止されたと見て間違いないのではないかな。
それで無いと、輸送密度1000アッパーで廃止された全国唯一の鉄道という理由が成り立たない。
札幌乗り入れの懸念もおそらく合っている。
並行路線ならともかく、乗り入れがあまりに短距離だし、電化近代化を進む国鉄にとって邪魔になることは明白だったと考えられる。
今も残る上田交通や静岡鉄道(離脱したけど)と似た利用価値以上があっただけに、廃止に突き進んだのは利害の一致以外何者でもないでしょうね。
- 59 :
- 発足したての警察予備隊に入隊した叔父は
真駒内のキャンプクロフォードに配置になった。
そこでは、在日米軍士官の英語による号令を
通訳に日本語に翻訳してもらいながら訓練を行っていたという。
今となっては真偽のほどはわからない。
- 60 :
- 2年前まで札幌に住んでいたので定山渓温泉はよく行きました。車を持っていな
いので、当然、バスで行くことになるのですが、バスは本数も多く、鉄道が残っ
ていたならより便利だなと思っていました。
定山渓温泉も札幌の奥座敷として栄えたかと思いますが、もし鉄道が残ってい
たとしたらやはり採算の面では難しいでしょうか?
- 61 :
- いま現在、残っている定鉄の遺構は何かありますか?
- 62 :
- ありますか?(笑)
- 63 :
- 石山に駅舎が残っているとか? もうないかな。
誰かがグーグルマップに印しつけてくれてたので
近くに寄ったら(いつになるやら)ハズレ覚悟で見に行ってみるか。
- 64 :
- >>60
除雪費用が嵩んで大変かと。
- 65 :
- >>64
いいこと思いついた
全線地下にすればいい
俺って天才
- 66 :
- いいこと思いついた
線路に屋根をかければいい
俺って天才
- 67 :
- そういえば「札幌の地下鉄の高架区間では積雪時にはゴムタイヤに
チェーンを巻くんだよ」というネタに引っ掛かりそうになった
のを思い出した…
- 68 :
- >>6
嘘つき!
- 69 :
- >>61
小金湯になにかあったのでは?
豊平の構内でC121というカマが長い間入換えをしていたが、私はこれは国鉄C12の
トップナンバーだと思っていた。悪いことに苗穂には本物のC122がいたし、手宮
にはC126がいた。製造銘板に昭和18年とあっても、そのころ苗穂にたくさんいた
C11の改良型でからと考えていた。
ところが苗穂のC122の製造銘板を見て、何これということなった。昭和8年製造と
ある。それでもC122の銘板はオリジナルのやつではなく、金属回収で取り付けら
れた小型の銘板だったので、その付け替えの時に間違えたのかとも考えた。
C121が実は定鉄のナンバーだと気がついたのは、かなりあとになってからだった。
- 70 :
- 小金湯は路建設で木っ端微塵に何も無くなった。
地形すら跡形も無いよ。
今あるのか〜?
石山駅はともかく、一個手前の駅ホームだろ、あとミスマイに橋の土台。
真駒内から緑ヶ丘の堤、自動車トンネルになった石山陸橋トンネル、その先の堤の一部、
石山2条8丁目周辺の廃道、
北海道博物館にある豊平駅の看板、
平岸の「家が全部裏口向いている道路」
真駒内駅駅前商店跡地(タイヤセンター)
慈恵学園駅前の商店跡地(選挙事務所)
たしかどっかの茂みにキロポスト
そんなもんかなぁ。
- 71 :
- 豊平の駅前広場はどうなっているでしょうか。あの駅前広場(といっていいか
どうか)は、1950年代の前半ころに整備され、市電はR36から右折して終点
となるようになりました。(自分で書いててちょっと日本語が変ですね)
定鉄を降りた人は駅前の道路を横切って市電に乗ったわけです。
あの駅前ができる前は、市電の線路はR36上にありました。
豊平の旧駅舎がなくなってしまうと、あの駅前の微妙な広場な存在が気になり
ます。
- 72 :
- >>71
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&tab=wl
- 73 :
- >>71
駅構内は既にマンション。
市電の入り欠けはあまり意味の無い雰囲気の道路。
ターンテーブルのあたりは先日売却された東急ストア。
残っているのは歩道橋。
36線に掛かる歩道橋には36線真ん中に電停があったころの下るアプローチをふさいだ違和感のある柵のまま。
豊平前後の廃線敷地は東札幌に抜ける線路後は昔すべて定鉄関連企業だったんだが。
近年いっせいに売却されて、もう殆どじょうてつのものではない。
駅から定山渓方面に、札幌東急ストア豊平店(先月売却)、ホームセンタービバホーム
駅そのものは本社だったが、近年マンションに立替売却
駅から東札幌方面に、定鉄興行のガソリンステーション(近年売却)、定鉄タクシー車庫(近年第一交通に売却)、札幌東急ストア本部(先月アークスグループに売却)、貨物運輸会社の株式会社じょうてつヤード(近年土地売却)
- 74 :
- >>73
71です。早速ありがとうございます。
私ごとですが、一時期美園に住んでいて、あの駅前まで歩いてきて来て、市電に
乗って通学したものでした。
しばらく札幌へは行っていません。まだあの豊平駅がなくなったあともみていま
せん。今度行ってみたいとは思っているのですが、いつのことになるやら。
社型のC12が大きな丸太を積んだ貨車の入れ替えをしていた日が懐かしく思い出
されます。
- 75 :
- 定山渓鉄道の電車の塗装は「白+赤」になる前は、
どんな色だったのでしょうか?
例えば、国鉄ぶどう色2号?、阪急マルーン?、近鉄マルーン?、とか、
ご存知の方、いらしゃいますか?
- 76 :
- >>75
緑色
- 77 :
- >>76
どうも、75です。緑色ですか、それは知らんかった。
- 78 :
- フェザントグリーン。
ということになっているが、じゃぁどういう色というと、
田宮カラーのブリリアントグリーンが良く似ている
外人が撮影したカラーと碑文谷工場での出荷待ちがカラーで残っているな
>>74
C12を知っているとなると、昭和37年以前ですね
- 79 :
- >>78
74です。そうです。昭和24年から34年まで、あの近くに住んでいました。
だから、C12だけでなく8100も見ています。その頃は妙に煙突が長いカマだな
と思っていました。
それから、豊平の構内のはずれに長い間放置されていたコロ1あれがそんな
由緒ある車両だとは手宮に保存されることになってはじめて知りました。
中学から高校にかけてのころのことです。
- 80 :
- おお、それは相当な壮年の方でしたか。
ちょうど自分の祖父から父も定鉄を利用していたのですよ。
からっきし鉄道に興味は無くて、あんまりいい話しは聞けておりませんけれども(苦笑
父は昭和37年から41年まで通学で利用していたようです。
亡くなってしまいましたけれども祖父は昭和31年から35年頃まで商いの輸送で利用していた模様です。
私はいまちょうど、豊平のターンテーブルの周辺跡地で商いしてます。
当時の写真を集めてはいますが、なかなか無いですね。
コロ1はないねん出版の星先生の資料だと、選鉱場にも長く置かれていたようですね。
- 81 :
- 昔の鉄ファンでコロ1がED5100に曳かれて豊平去る写真が載ってたな。
エンドに仔熊のテールマーク掲げた姿で、見送りする人多数。
熊送りって言葉が浮かんだけど…気にするな。
- 82 :
- 地元のみなさんには何をいまさらと思われるかも知れませんが
石切山の駅舎を見に行ったところ、すぐにみつけることができました。
模造の駅名札も飾ってありますね。
- 83 :
- >>80
いやいや、壮年というよりむしろ老年、もしくは「くそじじい」です。もう
70すぎですから。
さて、電車で特に印象深い車両といえば、クハ601いうのがありましたね。
これだけが、流線型の車体を持っていました。朝夕だけ定山渓方に連結され
て運用されていました。旧北海道鉄道(現JR千歳線)から引き継いだいわゆ
る買収気動車で、深緑色の塗色がよく似合う車両でした。
それから501、数少ない木造車で、昭和30年代前半すでに休車に近い状態で
した。吉野から来たとかで、川崎の銘板をつけていました。
ながながと古い話を失礼しました。
- 84 :
- 豊羽鉱山のインジウムは世界一の産出量を誇っていたが
現在の技術ではこれ以上掘りすすめられなくなり
2006年に閉山したという。
でも、これからもし仮に採掘が再開されたとしても
鉱石を鉄道で輸送することはもうなさそうだ…
- 85 :
- 定山渓のじょうてつバス案内所があるところが、駅跡地ですか?
- 86 :
- >>85
案内所の裏が定山渓駅。
いまの「定山渓」バス停留所名は元「定山渓駅前」。
鉄道廃止後もややしばらく、定鉄バスは「定山渓駅前」だった。
- 87 :
- >>86
ありがとうございます。わかって嬉しいです。
- 88 :
- 親父は定鉄の車掌だったが、廃止後市営バスの運転手になった。
給料は下がったが、ボーナスや退職金は良かったと言っていた。
俺は、市営バスの運転士だったが数年前にじょうてつバスの運転士に変わった。
今年からは、定山渓温泉の某ホテルの送迎バスの運転手。
- 89 :
- >>88
運転手と運転士がごちゃごちゃだけど、あまり気にしてないのかい?
- 90 :
- >>89
親父の時代は、拝命が「運転手」
俺の採用時の辞令は、「運転士」
今の職場では、送迎運転手なんだ。
- 91 :
- >>90
失礼しました。
なるほど、鉄道が「士」バスが「手」と憶えていたが、一概にそうでもないんだね
- 92 :
- 今も現存していたら、札幌の交通事情はどの様に変化していたのかな?
- 93 :
- >>92
真駒内くらいまで複線電化。
電化された学園都市線と直通運転してたかも。
- 94 :
- 市電路線網と定鉄が共に残っていたらLRT化が
取り沙汰されていた鴨
- 95 :
- 地下鉄南北線を旧定鉄沿いに延伸する気はないのかね?
- 96 :
- >>92-93
札幌〜東札幌はどうなるだろうか?
国鉄千歳線別線複線化の際に旧線買って電化?
そして国鉄乗入れのために交直両用車両導入?
- 97 :
- >>96
旧型及びゲロ電淘汰のために思い切って交流転換…
仙山線かっ!
- 98 :
- 札幌駅乗り入れを意識するなら交流化も考える必要ありだっただろうな。
南北線がゴムに拘らなければ、平岸〜大通〜新琴似間を交通局、平岸以南を定鉄、新琴似以北を国鉄という運営もあったかも。
それでもオリンピック輸送出来ただろうし。
- 99 :
- >98
以前、他刷れで聞いたときも回答なかったんだけど、札幌市交通局が
独自のゴムタイヤに固執した理由が分からないんだよねぇ、未だに。
まさか、「見栄」だけってわけじゃないよね?
1067mm架空線にしておけば定山渓・夕張鉄道・国鉄各線(ただし電車は交直流。
でもソウルの実例あるから非現実的ではない)との直通だって出来た。
予算ないときには、営団あたりから中古車買って誤魔化すことだってできる。
(そもそも量産品のふつーの電車と、特注品だらけのSSトラムじゃ値段も違うし)
- 100read 1read
- 1read 100read
TOP カテ一覧 スレ一覧