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2011年11月2期心と宗教26: 飯田史彦氏の思想について7 (356)
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飯田史彦氏の思想について7
- 1 :神も仏も名無しさん:2010/08/20(金) 22:48:06 ID:qnsJgJx/ 〜 最終レス :光宇宙 ◆jMXP.rY1ZY :2011/11/24(木) 13:53:36.71 ID:+FyNTnWj
- とりあえず立てといたよ。
- 2 :
- 2get
- 3 :
- いつの間にか7ができてた
ロンドンツアー、なんとなくいってみたい
- 4 :
- キャンセル待ちみたいだね。
代金はなんとかなるにしても休暇が取れないよ。
会社勤めには無理(;;)
- 5 :
- /) /)
/ ⌒ ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ●_ ● | < 飯田氏のところはどうか知らんけど、
(〇 〜 〇 | \ あらゆるカルトはほぼ必ず短期洗脳合宿みたいなのを
/ | 開催するピカ。
| |_/ |
- 6 :
- >>1 スレ立て乙
キャンセル待ちって、そりゃすごいね^^
- 7 :
- 10月に新刊だね。今後生きがい論はどういった展開になるのかな。
また歌を聴いてほしいってことなのかな?CD付きになりそうだし。
- 8 :
- 前世や来世はあるんだろうか
気になって夜も眠れない
- 9 :
- 飯田氏によれば、あるよ。
記憶にない人のほうが大多数なんで、それを気にしないで
今生を生きることが大切なのでは。
ばわかるのでは。
しかし、成仏できないでいる人は、らいせどころではないよね。
- 10 :
- 世の中で起こることはすべて必然というけど
飯田氏のカウンセリングで、まったく飯田氏の事を知らなくて
家族やほかの人に申し込まれてきた人がいて、効果があまりなかった人が
いるらしいけど、こんな場合は、選ばれる人は本当に必然なのかなと思ったり
しますが、このあたりどうなんでしょうか・
- 11 :
- >>10
起こることは自分で用意しておいたことだから必然でも、結果は必然じゃないでしょ。
例えば、愛妻亡くすって試練を用意してても、自するか乗り越えるかは選択だし。
カウンセリングに連れて行かれるまでは設定してても、結果がどうなるかは本人次第。
最近飯田氏の本を読んだ者です。
本人に直接聞いてみるのが確実かと。
- 12 :
- これも必然です......というよりは偶然ではないと言った方がいいかもね。まあひとつのものごとの見方だ。
- 13 :
- 試練を自分で計画して、それを忘れて、
結果がどうなるかは忘れた自分にかかってるって全くおかしいだろ。
本領発揮状態で問題作って、それ制限された状態で解くってこと?
数学の先生が問題作って、大酒かっくらってその問題解くようなもんだよ?
で、解けなければ罰も設定してあると?
制限しといて成長とか?
あほくさ。
脳内妄想もたいがいにしておいてほしいわ。
- 14 :
- >>10
>効果があまりなかった人が
>いるらしいけど、
過去世で飯田氏と縁があって出会う必要があっただけかもしれないし、
人間ワザでは、測り知ることができない背景はたくさんあるでしょう。
なんとなく、「必然」に誤解があるような・・・
よくもわるくも作った原因に対応する結果が表れること=必然。
- 15 :
- >>13
かわいいね。
- 16 :
- この世で起こることは事前に自分で計画を立て
自分に解ける問題を用意してるようなこと書いてるけど
日本では自者が年間三万人を出超えるということは、問題に対処できなかった人が
それだけいるわけで、自分で解ける問題とは、どんな基準で決めているのだろうか。
- 17 :
- その3万人の自者の中で本当に自しか選択肢がない状況だったっていう人が
どのくらいいたんだろう。
とふと考える。
- 18 :
- 病苦や、精神疾患による自は、「問題を解決」ということではない
ように思えるが、多重債務などは法的になんとかなるだろう。
日本で自者が多いのはなぜなんだろうね。
- 19 :
- 様々な説明がされているけど、これだというのはないね。
飯田氏の意見をきいてみたいものだ。
氏の言う自しちゃいけない理由は本読めばよくわかるけど
それでもなぜこんなに自者が多いのか。
- 20 :
- 日本は、宗教教育みたいなものがないから
生き方とか、自してはいけなという思想がない。
自由でいいと思うが、宗教が行動に歯止めをかけてくれる
ところもあるのではないかと思う。まあ、宗教も宗派争いや、異教徒廃絶
や、問題あるので、自由なほうがいいが、教育に問題がある気がする。
- 21 :
- 教育も一因だろうけどね。
そういえば、調べ物でググっていたときにたまたま見つけたサイトで
「生まれてくる自由がないのに自分で死ぬ自由がないというのはおかしい。
自がなぜ悪い」って主張していたところがあって、興味深く読んだよ。
- 22 :
- 飯田氏の光の学校のところをクリックすると
今度はメンタル・マネジメント研究所というのができてる。
個人の相談も受け付けるらしいが、カウンセリングとの違いがわからない。
有料。
- 23 :
- 飯田先生は、まだ迷える御霊の救済をやっているの?
というか、その能力がまだ相変わらずあるの?
生きがいの創造U以来、その手の自己体験話を書いた本を
読んでいないので、楽しみにしているわけですが・・・
- 24 :
- >>22
生きがい論の研究をもとに基本的に企業相手にメンヘルのコンサルしてるんでしょう。
タダだったら逆にまともな企業は寄りつかないから有料にしているんだろうね。
- 25 :
- 魂からの依頼があれば救済をやるんじゃね。
本人がやめたくてもやめられない.....というよりは生きている以上
それが使命(だそう)だからやめようがないんだろう。
- 26 :
- 魂からの依頼の実話、本にしてほしい。
どんな理由で、依頼してくるのだろう。以前は自者からだった
が子供の魂からの依頼が来るようになったとずっとまえブログにあった気がする。
- 27 :
- 自で肉親を失ったり、小さいうちに子供を失うことは、残された人間に強い憤りと
悲しみ、深い思いを生むよね。
残された人間の思いがあまりに強いと、魂は光の世界に同化しづらくなるのかなあ。
また残された人間が強いマイナスの思いにとらわれることによって、その人間の
せっかくの生、(自分で計画した人生)を無駄にしてしまう可能性が出てくるのは、
先だった魂にとってとても不憫に感じることなのかもね。
創造2あたりにもあるけど、おそらく魂が依頼したいのはそういうことの解決なのか
なあと思うよ。
しかし年間3万人の自に、それを超える不慮の事故死、そして30万件に達しそうな
人口中絶。
日本に何人飯田氏いても足りなそう....。
- 28 :
- 事故や事件、自でなくなると、身内など
残された人はやはり、悲しみや理不尽さ、怒りなど
はかりしれない思いで生きているだろうから、亡くなった人も
あの世に行くにいかれないのだろうね。
シルバーバーチの本では自について、そうなるにいたった経緯や、動機が考慮される
のでいつまでも暗黒せかいにいるわけではないようなこと書いてた。
子供のいじめ自などは、生きているいじめた側のほうに、より深く
考えてほしいと思うよ。必ずしも死んだ側だけが悪いわけではないしね。
- 29 :
- 純粋な若者をたぶらかす思想.......かも
- 30 :
- たぶらかされても、せいぜいPHP研究所や古本屋にお布施払う程度w
どっかのカルトとは違うから身ぐるみ剥がされることは100%ないな。
- 31 :
- 生きがいを創造する考え方の一つとして、飯田氏の
書籍を参考にするのは、哲学や思想、人生教訓の本を
読んでいるのと,かわりはないと思うよ。
あのよが絡んでいるだけ。
しかし、魂は永遠のほうがいいな。今、自分という意識があるのに、肉体の死とともに
自分という意識がなくなるなんて、考えにくい。
- 32 :
- 死んだあとに意識が残るのなら、言い換えれば死ぬということは「自分のしてきたことの事実だけが確定し冷徹に存在」し
「しかももう取り返しがつかないことに気がつく」ということだよね。
体があるからこそ、自分の行動の後フォローもできれば、自分のしてきたことの正当化の主張もできるだろうし、誰かを助けたり
詫びたり、思いを伝えることもできるけど、死んで肉体を失ったらそれはもう無理。生きている側の人間に対して、自分のしてきたことの
いいわけもなにもしようがない。(飯田氏のような特殊能力を持った人ばかりなら話は別だが)
死んで本当に意識が残っているのならこんなきついことはないよな。体があればなんとか出来るのに肉体が滅んでいるので
生きている側の人間に対して、自分の思いはもうままならない。
死んで意識だけの存在になっているとすれば、これってある意味地獄だよな。
自分で選んだ肉体を通じての自分で組み立てた人生(飯田氏の主張)とすると、毎日毎日瞬間瞬間気がつかないうちに
自分が自分を試し、そこで何らかの選択を自分の意思で行い、自分が自分を創造しているんだろうな。
そして死んだ瞬間にそれが確定する。
そうなんだろうなきっと。
- 33 :
- 飯田さんは幽霊の存在は認めてないのかな?
- 34 :
- 幽霊というのは、未浄化の魂のことではないかと思う。
死後、意識が存在して、生きている人に自分の気持ちが伝わらなかったら
確かにイライラすることもあるだろうね。だけど、死は、生きている人皆に
訪れるわけで、自分のしてきたこと、思ったことはアカシックレコードに記録され
反省し、自分が勘違いしてたこともそのときわかるだろうし、他の人がば同様に
自分への誤解やこちらの気持ちなどもわかるのではなかろうか・。そうでなければ
死とは悲しくつまらないものだなあ。
- 35 :
- 死後に生前と同じように現世に対して未練が残る場合は、
成仏していない状態であって、通常は、
もう終わったこととして次なる段階に進んでいく。
死後は、現世よりもはるかにやることはいっぱいある。
死が終わりと思っているのは、現世のときだけ。
- 36 :
- 最近、小さい子供が実の母親やあるいはそのパートナーに虐待され命を落としてしまう事件が絶えない。
そうした事件を見聞する度、飯田氏の思想に相当の疑問を感じる自分がいる。
魂はこんなことまで学びのために予定しているのだろうか?
なんともやりきれない。
- 37 :
- どんな親の下に生まれるかは、自分で決めた宿命
とすると、虐待を経験することを生まれる前想定できたわけで
生まれてくることに抵抗を感じなかったのだろうか。
どんな親でも、愛することを学ばなければならないのだろうか。
自分を虐待する人をそれでも愛せよというのは、酷な話。
親といえど、単なる犯罪者ではないか。
いったい神とは、あるいは光とはどのような存在なのだろうか。
- 38 :
- そう言えば、自我は納得するだろ。
精神世界と宗教は方便。
- 39 :
- 朝三暮四という熟語があるが、
現実の状況は何一つ変わらないのに、
言葉によって変わるのだよ、心は。言葉によって出来ているがゆえに。
- 40 :
- >どんな親でも、愛することを学ばなければならないのだろうか。
>自分を虐待する人をそれでも愛せよというのは、酷な話。
どうしてそこまで話が進むのかなあ?
いついかなるときも「愛することを学ばなければならない」とか、
「自分を虐待する人をそれでも愛せよ」などとは、精神世界では一切
言ってないはずですよ。
虐待されている子供の中には、そのような形で地上を去るというたいへんな体験を
世の中に示しながら、社会改革のための捨石となって生まれることで、
国民が、そこに潜む社会の闇をぜひとも解決したいと思うように仕向けていくための、
船頭的な役割を果たそうとしている魂もいるということです
- 41 :
- それでは、虐待されて死んでいく魂は、人身御供のような
存在ですね。
虐待する側の心の問題は、犠牲者がでないと解決しないのでしょうか。
また、一人二人ではなく、親からの虐待で死なねばならない子供の数が
何人にも達しているのに、虐待する側の問題は解決しているのでしょうか。
親の心理的背景まで、一つ一つの事案で検証されているのでしょうか。
今の社会では、虐待した親が、単に傷害罪や人罪などで逮捕されるという
社会的解決のみで、背景について深く社会で考察したりする様子はみられない
気がします。
それから、よく、宗教では、人を愛すること、許すことが大切だといったようなことが
いわれていますが、虐待する親については、愛することも許すこともできない場合も
あると思います。愛や許容にも限界、あるいは境界があるように思えるのですが
そのへん、愛とは、許すとはどういうことなんでしょうね。
- 42 :
- みんな、過去生の自分はどれだけ清く正しいと勘違いしているのだろうか。
人間は未熟な存在。そして必ず過去を背負って(因果)生まれてくる。
- 43 :
- 前文を踏まえて、
虐待を受ける側…過去の清算もある
虐待する側…やってはいけない事をしたのだから、あの世では苦しい反省の連続。そして来世で清算から始まる。
そう言う一面もあると言う事。
- 44 :
- キリスト教の「汝の敵を愛せよ」を誤解しておおやけどをする人や、
いじめられっ子になったりする例が少なくない。
「汝の敵を愛せよ」ほど、誤解しやすく、危険な言葉はない。
だから、これは、子供に教えるべきではない。
小学生ぐらいの子供には、その反対の 「やられたらやり返せ!」 が基本。
自己を強力に確立せず、防護せずに、何の人生か? そこが原点。
ゆえに、精神世界系では、いい意味で「自分を尊重すること」を第一義にしているはず。
戦争は、悲しみ製造機のようなものである。
しかし、たいてい、家族や仲間や住民を守るための正義と正義のぶつかりあい。
その結果、不幸の渦が生まれて人々はそれに煩悶し、場合によってはハガネのような
強靭な精神もそこから育ち、それが人類の精神性の深みを作ったりもする。
不幸なことも起こってしまったのなら、それを利用するしかないということか。
「転んでもただでは起きない」精神が、最強の人生訓かも。
- 45 :
- >>41
表面的にメディアが何を伝えようと、政府がどういう施策をしようと、社会学者が何を言おうと、
一般の人々の心の深いところで、その問題に対しては、人の心に潜む醜い部分を
直視しつつ、「慈悲の心」が成長しているはずです。
宗教は、自分の外に依存を作るので、解決には向かわない思います。
虐待親は、親の名を借りた魔物。いじめっ子が友達とか、
そんなものは、友達でもなんでもないでしょ。友達の名を借りた、たんなる悪人。
学校のスローガン「友達を作ろう」という言葉にしばられて、
いじめられっ子になる例も多いと思います。よけいな標語は不要です。
「自分がどう思うか、自分がどう感じるか」、これが基本のはずです。
「人を愛すること」、「人を許すこと」は、大事でも何でもないですよ。
愛したいという思いが湧いてきたときに、愛し、許したいという気持ちに
なったときには、そうすればいいのであって、スローガンはたいていは毒にしか
ならないように思いますね。
- 46 :
- 虐待を受ける側が、過去の清算あるいはカルマもあるとすると、
不幸な境遇の人は、前世が悪かったのではとされるのも、どうかと思う。
多くの人は、過去の記憶はないのだし、今の人生は新しく生きることは
できないのだろうか。
この点、飯田氏はどのように考えているのだろうか。障害者については
魂のチャレンジャーという言葉で説明しているけどね。
- 47 :
- >>46
過去にやった事がチャラになる仕組みであったなら、それこそ好き勝手、やりたい放題(虐待し放題)の世の中になってしまいます。
創造主は全て(過去の生き方も、現在の生き方も)見て(そうする・そうしないを)判断されていらっしゃるのです。
貴方も、私も人間に生まれて来ている以上、未熟な存在であり、過去世において数々の間違いを犯しているのです。
現世で、やった事は次に引き継ぐ事が「真理の平等」であり、祈ったから、唱えたから、信じたからで、罪が軽くなる様な、甘っちょろいものでは無いのが本当の事です。
人間は間違いを犯すものですが、清算しながら(あがないながら)善悪を学んで成長して行きます。
それが全てでは無く、そういう一面もあると言う事です。やはり人それぞれになります。
- 48 :
- >>46
それは不幸やハンディキャップを、芯から不幸ととらえてるからでしょう。
果たして、不幸は不幸なの? 幸福は幸福なの?
お金があれば幸福? なければ不幸?
・・・・全然違うでしょ。
魂は成長を目指してるんであって、成長の糧としてのいわゆる不幸があるのだから、
不幸という名の金銀財宝を受け取ってるようなもの。
ありがたく、その不幸とやらを受け取ればいいということ。
つーか、いったい卒業試験受ける気あるの?、ということだね。
試験の準備はつらいかもしれんけど、終わったら、春休みが来る。
いましばらくのしんぼう、そういうものさ。
だから、現界では、四の五のいわずに、目の前の問題を処理しながら、
ときどき一休みしつつ、また、楽しみながら、苦の中をスイスイ
泳いでいきゃいい。そうこうしてるうちに、80年90年過ぎて、
人生も卒業と相成る。それこそ、お祝いだね。
- 49 :
- 47、48とも、前世や生まれ変わりが真実だとしたうえでの
見解ですよね。 生まれ変わりの考え方で、例えば守護霊が自分の前世
の人がいる場合、前世の自分と今生の自分は同一人物ではなく、同一の類魂
の人間だという説があるのですが、この場合も前世の責任を類魂全体で背負っている
ということになりますね。
生まれ変わりがあるという前提がなければ、世の中の宿命としての幸不幸はあると思います。
戦争と、貧困と、飢餓のような環境だけでなく、愛や道徳のない家庭に生まれるなど・・・。
つまり、今ある自分の状況を、考え方によってできるだけ前向きに生きようとする
支えとして、飯田氏のような思想や宗教などの考えがあり、議論されているのは
その思想が真実かどうかというところでしょう。 懐疑主義の人は、あの世や魂、霊界の
しくみについて語られていることが真実か、検証しようとして矛盾や疑問を投げかけている
。 飯田氏の思想についても、語られていることがどこまで真実か、その思想に矛盾はないのか
ということですね。
- 50 :
- >>49
結論から言いますと、守護霊が自分と言う事はないですよ。
守護霊について、色々と語る方がいらっしゃるのは仕方ないと思いますが、矛盾が無いのが真理です。
あの世を認める・認めないは関係ないと思います。私達は現実を生きているわけですし、その現実を有意義に生きるには前向きな考え方で生きるしかありません。
後ろ向きに生きたら暗くなるだけです。「同じ人生考え方だけ」と分かればこれほど楽な事はありません。
- 51 :
- >>49
>議論されているのは
>その思想が真実かどうかというところでしょう。
「真実かどうか」に着目している人は、おそらくほとんどいないと思いますね。
たぶん1%程度でしょう。「真実に決まってる」と思ってる人は80%以上。
残りは、だいたい「真実であってもなくてもどっちでもいい」と思ってるんじゃないですか。
「真実かどうか」に着目していたら、そういう見方になるでしょうね。
ただ、それだと、人生に対して主体的な生き方ができにくいんじゃないでしょうか。
もう我々は、徒競走に出てるのに、「走る身体の仕組みがわからないと走れない」
と言ってるのに似ていますね。ひっしで走る以外にないですよ。結果はあとからついてくると思って。
不条理であってもなくても関係ないと思いますけどね。守護霊の件も、四次元以上には
時間が存在しないから、三次元からいくら考えても、直感的に正確に知るのは不可能なので、
だいたいのところで自分なりに納得して、自分の幸福に資するように利用していくのが
賢明です。そうやってる人たちにとって、スピリチュアルは有益です。
役に立つように使おうじゃないですか、知識は。もったいないですよ。
伝記をいくらよんでも偉人にはなれません。なぜなら、伝記には他人の人生しか
書いてないからです。自分の思うところに従って、自分の道をもくもくと生きた人の
なかから偉人は出ます。その結果、その人自身の伝記ができるでしょう。
それは、他の人たちの伝記とは、まったく別のものができあがってるはずです。
- 52 :
- >>51
同感です。
私は数年前に先は長くないと言われ、今も生きております。
同じく年月を生きるにしても、前向きに生きるか、後ろ向きに生きるかどうか。
人生は考え方次第と、やようやく分かった42歳です。
- 53 :
- 人生は人生の中で起きるあらゆる出来事に対して、どういうスタンスでどう対応するか(したか)で決まる。
ひとりひとりの物語はそうやってつづれ織られていく。
そんなもんなんだろうな。
- 54 :
- >>52
そうですね。宇宙は自分の意識が作ったものであって、
思い一つで環境は作られるそうですから、
だれかが言ったように、過去のできごとを不幸としてとらえていたことも、
オセロゲームのように、ポジティブに、自分に必要な出来事であったととらえて、
置き換えていくならば、過去は今・現在の輝きに貢献するでしょうね。
- 55 :
- 石につまずいても、石に文句を言う人はいない。
しかし、人につまずいたら、怒り心頭になって文句を言うだけでなく、
あとあとまで尾を引く。この違いは何か。期待があるからだ。
さらさらと生きていくには、あまり先回りして相手はこう来るべきだと
期待しない方がよい。
- 56 :
- 何気に良スレ
- 57 :
- 良スレと出ているところ、話をぶった切ってすみませんが・・・。
そして、飯田氏の思想とも関係ないですが、法について今思うことを徒然に。
例えば今、誰かをしたいほど憎んでいる、あるいはどうにも虐待せざるをえない
感情に駆られる、隣人の持っているものを奪いたい、だましてでも儲けたいと
思う心があるとする。 世の中にはこれを心のままに実行してしまう人がいる。
また、心では色々物騒な欲望があったとしても、国家の法律で禁止されている
故、処罰をおそれ実行に移さない人、法とは関係なく良心によって抑えている人
また、はなからそんなこと思いもしない善良な人など色々いますよね。
逆に人間の作った法による処罰を受ける人、未解決事件として処罰を免れている人
はじめからばれてなく、事件として扱われてない人、また冤罪で処罰を受ける人など
因と果にも現れ方が違いますよね。
神、あるいは宇宙にも法則があり絶対的公平だとすると、ひとつの人生の中で必ずしも因と果
が公平には現れないので、神の公平を信じられなくて現実的に物質至上主義に陥ったり、我欲を
むきだしにする人がいるのも理解できなくはない。
ひとつの人生で、すべて因果応報が完結すると人間はとっくの昔から神の法に気づき、悟り、善良な
人になるよう育つのではと思う。そうなると、人間の作った実態ある法と変わりなく、法を意識して
善良にふるまう、あるいは気持ちを切り替えることもできる。
あの世も神も、公平もなにもないところで、なおかつこの世で悲惨な環境の下で生まれて
なお、輝くような魂でいられることは、凡人にはなかなか難しいことだ。真に輝くとは
どのような状況でも内なる心が善でいられるかということかなあ。
書いてるうちに支離滅裂になってきた。すみません。
- 58 :
- この世では、思っただけで行動にうつさなければ、罪にもならないし、誰かを不幸にすることも
幸福にすることもないんだよね。本人の気持ち、思考だけの問題で、本人だけの中だけの話。
ところがこの世にいる間は、素晴らしい道具である体、手も足も口も目も耳もある。
しかもこの道具、通常はすべての人が深ーいところに持っている善良な美しいたましいによって
コントロールされるのではなく、生後得た知識や経験、性格などによって作り出された
パーソナリティによってコントロールされる。(医学的な生命維持の仕組みを除いてね)
自分の周りでは、自分を含めて実に色々な出来事が起こる。
その中で、思ったこと、考えたこと、気分といった心の動きと、生まれた時に与えられた、素晴らしい
道具である体(手、足、口、目、耳、鼻)をうまく司っていく必要がある。
今自分の存在する環境・状況を良く見極めて、この道具をどう使うか。
実は、この世の試練なんてそんなもの。出来事そのものが試練なのじゃなくて、出来事に対してどう反応・行動
するかが、生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで綿々と問われ続けるというのがこの世の試練。
失敗、反省を繰り返しながら、経験を積んで向上していくしかない。螺旋を上昇するように。
じゃ一体なぜそんな出来事が起こり、一体何者がその結果を問うのかという疑問は常につきまとうが
神様、仏様、●●様と外に向ければ「信仰」。誰もが持っている内なる光(たましい)といえば飯田氏の思想。
.....くどいな。今後激しく自重。
- 59 :
- 確かに飯田氏は、一人ひとりがそれぞれ光そのものであるということを
いっているが、行為の結果を問うたり、物事についての個々考え方については、別の光
の存在が答えたり、判断したりしている。つまり、自分の外側にも判定の基準があるように
書いていると思う。 だから、高次の光を宗教では神と呼んでいるのではなかろうか。
- 60 :
- >>58
我々人間が、何の意志に因る事もなく勝手に生まれて来たのであれば、全ての判断基準は人間側にあります。
しかし、本当の現実として、人間は創られた側。生かされている側。だから人生思う様に行かないのです。
一人一人に向けて、そうさせる・させない、の力が現実に及ぼしているのが実相です。
私達は宇宙の中で生かされて・生きている訳ですから、宇宙の規制(意志)を受けて生きるのは当然の事です。
意志とはもちろん、宇宙創造主(神)です。この方が全ての基準を持っております。
(巷の宗教の神とは違います。)
創った側に全ての基準があるのです。私達人間は日常生活の中で、様々な経験を積みながら、その基準に気付いて行くしかないのです。
- 61 :
- 精神が物質を作り、物質が精神を作る。
精神と物質の関係が、対称性として明らかにされる。
それがアセンションだ。
- 62 :
- 何だか妙なのが湧いてるな。
神だのアセッションだの別スレけよ。
- 63 :
- アセンションは3次元から5次元に
次元上昇することらしいけど、そんなこと体験しなければ
わからない。
宇宙の法則の、波長の法則だのは、意味が理解できるが、高位の自分以外の
存在の物事への価値基準、判断基準はわからないことがたくさんある。
飯田氏の思想というか、書籍の中での光との対話は、そのことばが神の価値基準
なのかなと思って参考にしたりする。
ただ、愛の定義については、理解できないというか自分とは異なる見解があり
その点では、自分の考えのほうを尊重したい。
- 64 :
- アセンション者(サイババ)は5次元であり一般者は3次元であるとか、言い換えれば霊格の格付けと同じで
実際には宗教哲学宗教倫理神智学などの脳内意識の知性と倫理の状態であり霊次元などオカルト思想でしかない。
同じ世界・生存環境で生きている現実は変わりがない。
アルハットとアセンション5次元思想の違いは5次元思想は我見我執(自我に囚われた色識)が沢山、入っているから
話を聞いていると面白いが、脳が自己洗脳でっちゃてる人も多いW
現在、多発のアセンション霊感商法に引っ掛からないようにねと注意しといたげるW
- 65 :
- アセンション?それ食えるのか?
- 66 :
- 飯田先生の言う、マスターや光と言う存在は、解りやすく言うと「宇宙創造主」と言う事。
飯田先生は、やんわりと言っているが、私達人間は創造主の評価で生きているということ。
- 67 :
- >>62 気のきいたこと書いてからモノ言え、カス!
- 68 :
- 我が主は外に存在せず我が内に我が主があり真に大宇宙は外に在らず
我が内に大宇宙あり梵(ブラフマー≒宇宙)と一体化し真我は宇宙の中心と也。
無明(むみょう)によって行(ぎょう)がある。行によって識(しき)がある。
識によって名色(みょうしょく)がある。名色によって六処(ろくしょ)がある。
六処によって触(そく)がある。触によって受(じゅ)がある。受によって愛(あい)がある。
愛によって取(しゅ)がある。取によって有(う)がある。有によって生がある。
生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かかるものが、すべての苦の集積によって起こる。
これを縁によって起こるというのである。
行を滅する事によって識は滅する。識を滅する事によって名色は滅する。
名色を滅する事によって六処は滅する。六処を滅する事によって触は滅する。
触の滅する事によって受は滅する。受の滅する事によって愛は滅する。
愛の滅する事によって取が滅する。取の滅することによって有が滅する。
有の滅する事によって生が滅する。生の滅する事によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が滅する。
かかるものが、すべての苦の集積によって滅するところである。
如是し真我は無我であり空である。
- 69 :
- 上記意味がわかりにくいです。
仏教の教えですか・
自分が神であるというのは、内在神をとなえている伊勢何がしも同様の見解
のようだが、人間は高次の光により近づくために修行しているのであり、別の
判断が自分の外にあるのでは。
魂では犯罪はいけない、いじめはいけないとわかっていても、現実には起こっている。
それ以前に、なぜ人がいけないかわからないという子供がいるのも事実だ。
シルバーバーチの霊訓は真偽のほどは議論の余地があるだろうが、高次の存在の判断のしかた
としてひとつの参考になる。飯田氏の光の発言もしかり。
- 70 :
- >>69
神(愛)は己の内、全て取により縁を生じ外に観る、宇宙の存在は愛である無明の愛は愛着を生じ迷いの苦となる。
>人間は高次の光により近づくために修行しているのであり
高次や低次の認識は五散蘊による我見我執であり、あるのは出離と清浄行で清浄不浄は決まる。
高次や低次の認識は(五散蘊による我見我執)イマジネーション(創造性)の行為でしかない。
よく観察するべし。
- 71 :
- 訂正
五散蘊→五取蘊
- 72 :
- 創造性(イマジネーション)は循環縁起の法則に本ずく。
そこに高次や低次など無い。
あるのは無明か明智を得ているかの違いしかない。
- 73 :
- 人生に理屈こねられるのは、徹底的に人生が擁護され扶養されているうちだけだ。
まずは自立して、現実に向き合って、理屈抜きで汗かいて涙流して笑って喜んで苦しんで
人と付き合い、金を稼ぎ、人生生きてみるしかない。
脳内で完結した人生何ぞ、なんてつまらないことか。
すべてはそこからだ。そしたら、借り物ではない自分の言葉で語れる哲学が生まれる。
そういった哲学をバックに飯田氏を語りこんでみたいものだ。
>>62 って良し。言葉の節々だけじゃなくちゃんとレス嫁。
- 74 :
- 現実問題として、実社会と飯田氏の思想について。
例えば、今ある人が会社に勤めているとする。
仕事内容は営業である。会社は利潤を追求するゆえ、商品の利点のみ
客に宣伝せよ、欠点は決していうなと命令する。 会社の利益や自分の営業成績
を考えると、命令に従わねばならない。業績が落ちると会社の存続、自分の職業も
なくなってしまうからである。そしてその人には養うべき家族がいるとする。
あなたならどうしますか。あくまで例えです。
損得や利己主義は悪とすると、会社にそむいて、営業方法を変えるか、新しい仕事をするか
などの方法がある。しかし、商品の欠点をいうと、まったく魅力がなく売れない場合、また
新しい仕事がない場合、どうやって家族を養うかということになる。
正義か飯かの選択の場合、肉体を持って生きているからには選択を誤ることもある。
ではここで、正確に、善か悪かの選択で結果がそれにふさわしいかというと悪を選択しても
会社が繁栄する場合もあるというのが現実社会だ。ここが、選択の迷いを誘う。
因果の法則がひとつの人生で正確に現れないところが、ある意味興味深い。
- 75 :
- >>74
物事を道理で考えれば、答えは自ずと出て来ます。
ごまかして長く続く道理はありません。
また、「欠陥商品を無理に販売する事」と、「メリット・デメリットを正直に伝えないセール」は全くの別物です。
世の中にはメリットだけの商品はありません。デメリットだけの商品もありません。
メリットはデメリットであり、デメリットはメリットにもなります。どう捉えるか・考えるか・目的は何なのかで変わります。
営業は両方語るが基本であり、片方しか語らないセールマンは山ほど見てきましたが、だから成績が上がらないのです。
因果の法則は別に書きます。
- 76 :
- >>74
補足です。
「損得を考える事」「利益追求」は悪ではありません。
得をえるために、利益をえるために、やってはいけない事をやる事が悪なのです。
難しい事ではありません。
- 77 :
- 因果の法則について
どうしても、神様のような存在が作った法則としても
わかりにくいのが特にこの法則。
戦争好きな国が昔から繁栄すること。戦いに勝って領土を広げ
物資を取り上げ、敗戦国の人を虐げながら・・・。
政治家が地元で権力をふるうこと。
貯蔵ワインを大量廃棄処分にした、外交官たちの人生。
などなど。優しい人が不幸に見舞われたり。
- 78 :
- >>74
それって、ドストエフスキー「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフだったっけか、
あの悩みっぽい内容に似てると思うけど、あれは、観念だけの道徳論とかに
とらわれて道を間違った人の典型なんだよね。
>損得や利己主義は悪とすると、会社にそむいて、営業方法を変えるか、新しい仕事をするか
>などの方法がある。しかし、商品の欠点をいうと、まったく魅力がなく売れない場合、また
>新しい仕事がない場合、どうやって家族を養うかということになる。
そういう状況って現実にあるかな? 家族を養うほうが先であることは、
明白で、議論の余地はないでしょう。その枠内で、自分の良心を追及していけばよいこと。
くだらない学者などが何を言おうとも(飯田さんじゃありませんよ、彼はりっぱです)、
自己の生活をきっちり正して生きている人は、そのままで完全だね。
真だの善だのは、自分が個人的に見つけることであって、
真理論や道徳論は自分の考えるためのサポートに使うことはあっても、
それに飲みこまれてしまうと、ちょっとまずいと思う。
海賊船の上で生まれて、海賊船の社会で生きる人は、海賊行為そのものについて
疑ってしまったら、その人の人生はラスコーリニコフになってしまう。
海賊船の社会の中でも良心に従った生活ができたならば、それは、天に愛される人生でしょう。
- 79 :
- 人間の罪とはどんなことだと思いますか。
シルバーバーチはその行為によってあいてが傷つくことと
いうように、自分以外の人に対する行いの中に罪があるといったことを
書いていますが、被害者がいない罪もあるのだと最近思っています。
- 80 :
- 来月新刊が出るね。「幸せ思考」か。
追求しているのは、決して「あの世や魂や生まれ変わりの真理」ではなく、「人生を前向きに生きるための思考法」
なんだそうで。思考法...なんて本は沢山あって、本ごときで人間の思考法が変わるなんてことは、そうめったにある
ことではないと思うが、その方向性は賛成だな。
ところで最近気づいたんだが、自分のことを「僕」って書くようになったよなあ。本人意識して書いているのかな?
おっさんの「僕」使いにはちょっとしたトラウマがあって個人的にはやめて欲しいのだが、まあ我慢するか。
- 81 :
- 「あの世や魂や生まれ変わりの心理ではなく」というところ、
ちょうどここでそんな話が出ていたところの記述だったので
おそらく時々、本人ここ見てるのかなと。
あの世や魂のことなんか、一般人には信じるか信じないかの問題だから、
あくまで思考法として活用するかどうかでしょう。
- 82 :
- >>79
罪という言葉は、歴史上、政治と結びついていびつな概念になってるので、
使わないようにしていますが、あえて定義するなら、(伊勢白山道のいうような)
自己の胸のうちにある、内在神に反することじゃないですかね。
で、自分の意識を内在神にいつも同調できるようになれば、結果的に、
「罪」から離れた生き方になってる・・・という感じかな。
>被害者がいない罪もある
むしろ、いつも被害者はどこにもいないんじゃないでしょうか。
三次元的な被害は存在しますが、意識を傷つけることはできません。
意識は、それに反応したおのれによってのみ傷つけられるのではないでしょうか・・・。
- 83 :
- しかし、こんな壮絶な状況で「今」を本当にしっかり生きているな。ちかよちゃんって。
ガンの手術経験のあるおれでも真似できん。
がんばれちかよちゃん!
飯田さんの本が届くまで命が持つようヘタレなおれも祈ってるよ。
- 84 :
- あ、飯田さんのHP(今週のメッセージ)参照ということで。
- 85 :
- 死と向き合い、病気と闘う若い人が、飯田氏の思想により
救われ、生きる力を得ていることは事実であり、飯田氏もまた
多忙の中、病床へ見舞いに行くなど、貢献している点、飯田氏の著作を含めた活動
は、大いに価値あるものには違いないと思う。
人は生きている間、一人でも他の魂を救い、慰め、生きる力を与えられること
ができれば、すばらしいことだ。
- 86 :
- >>85 同意ですね。
- 87 :
- >>18
>日本で自者が多いのはなぜなんだろうね。
>>19
>氏の言う自しちゃいけない理由は本読めばよくわかるけど
>それでもなぜこんなに自者が多いのか。
亀レスですw
私見ですが・・・
日本には、自を肯定する思想や文化が他の国よりもいくらか多く残っていて、
そのために、自も生き方の一つとみなす考え方を持つ人が少なからず
出てくるためではないでしょうか?
自に至る前に、鬱に陥る例を考えますと、その一年前、あるいは、二、三年前、
場合によっては、十年以上前かもしれませんが、
必ず「人生は途中で放りだしてもかまわない」と、決意した時期があるはずです。
その、自身による、過去の意志選択があると、その後の日々の中でその自己否定の意志が
影響力を増していき、しだいに、エネルギーやバイタリティを吸い取られた状態になって、
暗くなり、一進一退を繰り返しながら、鬱病的な状態に陥っていきます。
そして、死へのハードルが低くなり、苦しい場面に直面すると一気にその壁を乗り越えて
死んでいくのです。
ですから、「自己の人生を途中で放り出すことなど、いかなることがあっても、私は、選択しない!!」
と、決意するならば、しだいに鬱から抜け出していくことができ、つらい状況であっても乗り越え、
楽しい状況ではバイタリティを取り戻しながら、しだいに明るく、元気になっていき、鬱を克服できますし、
自も大幅に減ることになるのではないでしょうか。
- 88 :
- 一口に自といっても、多様なケースがあると思います。
動機が何かが人によって違いますよね。人生を途中で放棄しようと思って
つまり楽になろうと思って問題から逃げる場合や、死ぬつもりはなかったのに
精神病になって死んでしまう場合もあります。急性の場合、幻覚や幻聴によって
自分でも思わぬ行為により死んでしまう場合もあると思います。
以前坑うつ剤の副作用として発作的な自をはかることがあるということを
聞いたことがあります。薬の使い方など、一個人の原因だけにはできない問題もあると思います。
いずれにせよ、先進国の中で日本の自率が高いことは悲しいですし、もっと対策を考えることが
必要でしょうね。
- 89 :
- >>83
間に合ったみたいね。よかったよ...
(´;ω;`)
- 90 :
- 新刊、もうすぐ読めるね。
飯田氏の思想で評価できる点は、あくまでも自分が前向きに生きるための
思考法であり、お札買ったり、先祖供養したりすることを薦めてているわけではないところ
だ。たとえば、今生きていることは先祖あっての自分には違いないが、亡くなった人はたとえば
リー○ン氏がいうようにそんなに供養を必要としたり、感謝されたがっているのだろうかと思ったりする。
ただ、今を全力で生きればよいのではとも思う。人間に必要なのは倫理観であって、この世にいる間に
あの世の存在になにかすることではないような。
- 91 :
- そうだね、その人は一つの決まり文句に絡めて、自分以外のスピリチュアルを全否定。
読者は、ほとんど信者だしw。
なにか、決まった念仏のようなのを作ってそれを主張する場合は、ちょっと怪しい
とかいうことは、たしか、万年さんに話してる存在も言ってたなよな。
「万年素人なチャネリング日記」
ttp://ameblo.jp/mannen-shiroto
- 92 :
- それぞれの人のよいところを参考にしたいですね。
一番いいのは自分で気づくことなんですが、凡人にはなかなかできかね
参考にさせてもらってます。
- 93 :
- >>18 日本で自者が多いのはなぜなんだろうね
一番の要因はテレビを中心としたマスコミが、日本はとっても住みにくい
国とか。この未曾有の不況がとか、首相が遺憾に思う。とかマイナス、マイナス
の情報ばかりを流して国民は一種の催眠術にかかっている。潜在意識をプラス
方向へ持っていくのはかなり難しいから。第二に宗教や信仰がうわべだけの
日本人の死生観。
- 94 :
- 人は、自分が過去に決断したこと、選択したことをおおまかなベクトルとして、
その後の人生を選択していきます。
「苦しければ自死もやむなし」という思いを心の底にもっているならば、
そのベクトルはどんどんは活性化され、やがて実現してしまいます。
ですから、このパターンに対しては、薬は無力です。
しかし、人々がそのことに気づいておらず、薬によって、
気分であれ何であれ治せると考えている唯物思想はとても危険です。
飯田氏の進める「生きがい論」は、「苦しければ自死もやむなし」という
猛毒思想の蔓延を打ち砕く、一つの有力な思想です。
- 95 :
- 今日、久しぶりにいのちの伝言を読み返した。
このスレのタイトル、飯田史彦氏の思想についてだけど、彼がここを
みているかどうかは定かでないが、自分の考えは「思考法」であって、
思想ではないということが書いてあった。
自死については、精神世界ではみな良くないことだといっているが、
予定された自死もあると飯田氏は書いてある。
- 96 :
- 予定された自死ってあるんだっけ?
何だか氏の考え方と相反するような....
ちょっと「いのちの伝言」読み直してみるわ。
- 97 :
- >>95
>自分の考えは「思考法」であって、思想ではない
それはそうですね。自身が、自分の表わしてきた著作をもって、思想とは呼びません。
後世の人が名づけるからです。なので、まだ、思想と呼ぶには早すぎるし、
今後の活躍にもよるでしょうけど。ただ、他人(我々)は、それをどう呼ぼうと
まあ、たいした違いはありません。
>予定された自死もあると飯田氏は書いてある。
それは、いわば、文法などでの、例外事項と同じですよ。
例外事項は、基本文法の枠にどうしても当てはまらない文を
説明するために必要になります。
通常は、99%は基本文法に従っています。
ですから、大すじを外すと、本末転倒になるし、整然とした
理解が妨げられます。
基本は、「人は、自を予定して生まれてくることは絶対にない」
こう言い切ることができます。
- 98 :
- 95ですけど、自分は「予定された自死もある」と書いてある
・・と書いてしまいましたが、意訳でそうとってしまったわけで、
彼の本には、公然と予定された死がある、とは言ってはいけない
というようなことが書いてあったのですが、自をとおして周りのものが
学ぶべきことがあるので、その死も意味があるということだったと思います。
手元に本がないので正確ではないです。自分としては、公然と自を予定された死と認めるわけには
いかないが、中にはそうした自もあるという意味にとりました。
つまり、予定された自死もあると・・・。違うのかなあ。
- 99 :
- あるのはあるでしょうね。近親に自者がいて、残された者が
「あのとき、あんなふうに言わなきゃ、こんなことには・・・」式で
救われないぐらいに悩み続けていた場合に、
「予定した〜もあり、仕方なかったんだよ」と伝えられ、
それによって残された者が救われることはあり得るでしょう。
「予定された自死がある」という言葉は、ほとんどの人にとって
有害ですが、残された者の悩みを解くこともあり、
その時に限り、使ってよい話だと思います。
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