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2011年11月2期19: 【太田資正】さいたま〜の武将【成田長泰】 (566)
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【太田資正】さいたま〜の武将【成田長泰】
- 1 :06/06/11 〜 最終レス :11/11/21
- 語れ
- 2 :
- 参考リンク
埼玉武将名鑑
ttp://www.age.jp/~nariyama/saitama/frame.html
地方別武将家一覧関東
ttp://www.www2.harimaya.com/sengoku/bk_kanto.html
- 3 :
- 成田の離反が無ければ、謙信の関東征伐は成功してたのかな。
- 4 :
- スーパースター戦国時代
http://www.youtube.com/watch?v=ARpEnjZIWko&search=zico
- 5 :
- 武家ではなく武将なあたりかなり糞な予感
- 6 :
- 三楽斎の方がしっくりくるな
- 7 :
- 微妙、離反がなくても北条の領国統治システムは優れていたし
謙信は長期遠征による負担というアキレス腱を抱えたまま
多少は楽になった程度ではあるまいか?
- 8 :
- 【北条vs上杉】河越の夜戦は本当にあったのか?
- 9 :
- >>8
なかった説ってあるの?
- 10 :
- >>9
「夜戦」が無かったという説はある。
もう少し言えば、河越夜戦があったという証拠がほとんど無い。
- 11 :
- あの兵力差はありえないな。
8万も動員できるわけがない。
- 12 :
- 両上杉+古河公方だけなら、最大動員で四万くらい、妥当な線で二万前後くらいかと。
さすがに八万はあり得ない。
- 13 :
- 謙信も8万くらい動員してたけど、あれも誇張なのかな。
- 14 :
- えーと旧参謀本部によると一万石あたり250人前後の動員能力があったと考えられるから
80000÷250=320万石
誇張臭いかもしれません・・・
- 15 :
- >>13
謙信の場合は佐竹辺りも参陣していることを考慮に入れてみると、
五万くらいは集まっていたかもな。
万石あたり400人動員すれば、八万に届くかもしれん。
- 16 :
- 永禄3〜4年の謙信・関東連合軍は、11万5000が公式発表(上杉家御年譜)
根拠になっているのは「関東幕注文」(原本が上杉文書に残っている)で、
関東255将(永禄3年なので、那須・佐竹は未掲載)となっている文書だ。
武州衆(埼玉)は、
成田下総守(長泰)以下、親類同心14名、ほか3名
羽生衆が13名、岩附衆が太田美濃守(資正)以下14名
勝沼衆(青梅)が6名といったところか。
これが永禄8年の「関東衆軍役覚」(謙信公御書集)になると、総勢19家2510騎、騎馬1に対して
雑兵10で、2万5000?
成田長泰200騎、太田三楽斎100騎、房州衆500騎、佐竹200騎、宇都宮200騎など。
- 17 :
- 戦国期、最大動員兵力は七人役と言われている。
一万石あたり七百人。
これはあくまで防衛戦に限る動員可能人数らしい。
関ケ原時の上杉の動員計画で行なわれかけた。(それでも多数の浪人衆を集めてるが)
これを越える動員をやったのが、関ケ原時の黒田氏。
(大金はたいて集めた。)
- 18 :
- 兵力は詳しくないのでなんともいえないし、誇張多いしね
>>10
夜戦があった証拠
内容は知らないが、「太田資頼状」「上杉憲政書状」「行伝寺過去帳」等があるそうだ
- 19 :
- >>18
ああ、知らないようだから補足しておくね。
北条氏綱が河越奪取に前後して扇谷勢を夜襲で撃破したことがある。
行伝寺過去帳はその記述は天文六年の夏頃、
天文十五年の、氏康の河越夜戦の記述ではない。
同様に太田資頼は天文10年に亡くなっているので、彼が関わったのは必然的に氏綱の河越合戦。
上杉憲政書状では、河越で合戦があったことの証明にはなっても夜戦であった証明にはならない。
そもそも伝わっているような大戦の割には確認されている感状が上杉側の二通のみ、というのも疑惑の種にもなっている。
- 20 :
- まあ要するに
1:扇谷上杉と北条が(同じ対戦相手が)
2:天文年間に(同じ元号で)
3:河越を巡って戦い(同じ場所で)
4:北条が(同じ勝者)
5:夜戦で勝利した(同じ勝因。ただし氏綱のは史実、氏康のは史実か?)
ので、紛らわしいといえば紛らわしいよね。
これらをまず念頭に置いた方が良いみたいだよ。
- 21 :
- 太田道灌 没後520年 悲運の名将 再発見
ttp://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20060613/mng_____thatu___000.shtml
直接関係ないけど江戸系の末裔が出てます。生保の社長さん。
- 22 :
- 江戸系の系図は眉唾なんでしょ?
家康の側室だったお梶(お勝・英勝院)の家系を、江戸城築城者太田道灌に
つなげたとか。
- 23 :
- >>19
>>18についてまず訂正
「太田資頼状」→、「太田資武状」です、パンチミス申し訳ない
「行伝寺過去帳」の件
「川越一戦討死弐千八百廿余人天文十五年丙牛四月」もあります
ただし夜とは記述がないですね
いろいろ見てみましたが、一つの大きな戦いなのか、
何年にもわたる幾度の戦いが、合わさり一つの戦として軍記物に記載されたのか、諸説あるようですね
扇谷が滅亡し、山内も滅亡一歩手前
一度の戦で、出来すぎといえばそう感じないこともないですね
- 24 :
- >>22
寛永年間に編纂された「寛永緒家家系図伝」を奏者番であった、
江戸系の太田資宗が奉行しているので、彼の意見で江戸系を中心としてつくりあげたと言われます
新井白石が後に、疑問を呈し、岩付太田を嫡流としてくる
- 25 :
- 三大夜戦(厳島、河越、桶狭間)というのはいつから言われてたんだろう?
- 26 :
- >>25
不思議だよね、特に桶狭間は昼過ぎの戦だよね
三大急襲戦ならわかるけど
- 27 :
- わんこ大好き資正たん
- 28 :
- >>25
頼山陽という話もあるが?だ
第一川越近辺ではそういう言い方をしても、広島や愛知でそういう使い方してないんじゃ
そこらにヒントがあるような
- 29 :
- ttp://www.alpha-net.ne.jp/users2/kwg1840/yasen2.html
このページの一番下のほうに何やら色々出とります。
どうやら歴史読本745では、頼山陽の説として日本三大合戦の一つと扱われているとのこと。
この方の持っているその他の資料には、三大夜戦なり合戦なりと呼ばれる根拠は示されていないそうです。
- 30 :
- >>29
面白いサイトだな
北条方や上杉方の兵数は何を典拠としたものなんだろう?
- 31 :
- >>29
オレもそれ参考にして書き込みしました
ところで三楽斎ってみなさんどう思います?
道灌と比べてどうなんだろう
- 32 :
- 戦国のトップブリーダーって印象が強すぎ。
- 33 :
- 確かに扇谷、ひいては山内を支えていた人物ではある、道灌
でもあそこでされて、そのあと旧勢力の没落が始まるから、評価をより高めているような気も
- 34 :
- 三楽斎は武将風雲録でなぜか深谷上杉氏配下に押し込まれて渋い顔してた印象しかないな
- 35 :
- 資正は長野業正とともに関東の武将で一番好きなんですけど、
業正と比べると全体的に一回り小さい気がしますね。残念ながら。
太閤Xで忍犬の術の秘技を持ってるのは(;´Д`)ハァハァですよ。
で、塚原卜伝門下で香取神道流の使い手の成田長泰は、
何の特徴もないただの凡将に設定されてるのがちと寂しい。
- 36 :
- 没落しかけた名家の割には活躍したと思う、三楽斎
岩付と松山を基盤とした北条への抵抗
嫡子氏資の岩付乗っ取り後は、常陸片野城に移り、あくまでも北条方と戦う
一途なのよね、結構
- 37 :
- >>35
業正は猛将だな
上野は彼でもっていたようなもの
- 38 :
- 長野業正の“上州の黄斑”みたいな
異名で呼ばれる武将は武州にはいないんですかね
- 39 :
- 武州のトップブリーダーならいる
- 40 :
- >>39
ちょw
熊谷の愛犬家人事件思い出しちまいましたよ
- 41 :
- 東上野:箕輪長野
西上野:金山由良
- 42 :
- 埼玉ほどの偉人が少ない県は珍しい
- 43 :
- 西が長野で東が由良じゃないの?
つか由良は謙信を激怒させてるが怖くなかったのかな?
佐野などもそうだけど反旗を翻しても北条はロクに支援してくれないだろうに。
それどころか佐竹・宇都宮勢まで来襲してくるわで得な事は一つもないだろうに。
そんだけ利根川以北にも北条の圧力が強かったのかな?
太田や里見などと共闘した方がいいような気がするがなぁ。
- 44 :
- いや、そうでもないと思う。
謙信との決戦こそ避けているが、対陣は頻繁に起きているみたいだし。
あと頼りないという点では北条<上杉なのは確定だろ、詳細は省くが。
また謙信が越山してくるのが期間限定なので、
四六時中領国を接している北条の方が良くも悪くも気にかかる存在だろうしな。
- 45 :
- 井尻又兵衛が好きだぉ(^ω^)
- 46 :
- 謙信の越山って、動けば強烈だけど、なかなか来ないところがミソ
少しづつあてにするものが少なくなる
北条は逆に少しずつ勢力を広げる
でも越山あれば掌を返すのも多いし
また謙信は許しちゃうんだよね
- 47 :
- 謙信の越山は台風みたいなものだからな。
自然現象を当てにしていてはまともな戦略を立てられないよね。
北条側も慣れたのか、後年になればなるほど越山の脅威は薄れてるのがなんとも哀れ。
特に杉山城及び関宿城後詰めの失敗は謙信と反北条諸将にとっての致命打になったな。
- 48 :
- 関宿城は簗田の件とわかりますが
杉山城とはどのような件でしょうか?
- 49 :
- 杉山城じゃなくて松山城だろ、と。
- 50 :
- ああ、永禄五年(1562)の松山城落城のことですね、了解です
しかし松山城は長享の扇谷と山内の合戦から、天正十八年(1590)の小田原攻め時の落城まで
幾度も合戦が行われていますね
- 51 :
- \∧_ヘ/
/ \〇ノゝ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/三√ ゚ ∀ ゚ )< さいたまさいたま!
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\∧_ヘ ∩/ \〇ノゝ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ∩/ \〇ノゝ/三√ ゚∀゚)< さいたまさいたまさいたま!
さいたま〜〜〜! >/三√ ゚∀゚ )/ | / \__________
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 ̄ / /
 ̄
- 52 :
- >>51
新バージョン?
- 53 :
- 深谷上杉氏は最盛期で兵の最大動員数は3千です。
- 54 :
- 上田、藤田、難波田は話題になりませんね上ゲ
- 55 :
- 実際地元では誰が著名or人気なのかな?
- 56 :
- さあ…太田道灌?
- 57 :
- 他県の人でも分かるだろうけど、全県的に人気も知名度もある人物っていないね。
道灌は埼玉に重畳の縁があっても郷土の英雄と呼ぶには無理があるし、
強いてあげればやはり源平期の熊谷直実か畠山重忠、まあ直実かな。
- 58 :
- 漫画を始めて作った人は埼玉だったはずだ
- 59 :
- >>57
やはり鎌倉に近すぎる地勢がそうさせるのかな
道灌は江戸〜ってイメージが強いし
河越の扇谷も岩付の太田もそう長い期間でなく、いなくなちゃったし
江戸期は江戸と近すぎるし
- 60 :
- 行田の成田甲斐姫は?
お酒の銘柄にもなってたと思うが。
- 61 :
- >>60
地元の奴以外は、まず知らないんじゃないかな?>甲斐姫
十万石饅頭で有名な、ふくさやからも甲斐姫のもなか出てるんだがw
- 62 :
- ヲワケ臣
- 63 :
- 甲斐姫の話って、どこからどこまでが本当なの?
教えて地元の詳しい人
- 64 :
- 行田といえばゼリーフライ
難波田といえば井戸
- 65 :
- >>63
大体「成田記」自体が江戸時代に書かれたものだからなあ・・・
他の事実と照らし合わせて推察するより手がない
まあ大なり小なり他の大名家でも誇張や拡大解釈はあるものだからな
話半分程度に思っておけばいいんじゃないだろうか?
- 66 :
- 葬儀社のHPなのに忍城について色々載ってて結構面白い
ttp://www.gyoda.co.jp/gyodahanasi.htm
- 67 :
- なぜ葬儀社が?
社長の趣味か?それとも郷土愛か?
- 68 :
- >>66
うん、ためになるね
>>67
歴史好きなんでしょ
でも葬儀ってものも伝統を踏まえたものだから、自社PRも兼ねているのでは
- 69 :
- 成田記以外のソースってあるの?
関八州古戦録に出てるのは甲斐姫の継母だし
- 70 :
- >>69
その後の消息として、秀吉の側室(秀頼の母・成田殿)になり、
秀頼の娘を庇護して東慶寺(鎌倉)に下向した。醍醐の花見の側室席順に
「かい」とあるのが甲斐姫らしい。
- 71 :
- 甲斐姫の継母って太田三楽斎の娘だよね?確か?
- 72 :
- 甲斐姫の母は横瀬成繁の娘
室は三楽斎の娘だけど
継室なのかな?
- 73 :
- 太田さんは鬼義重さんにも娘をあげてるね
- 74 :
- 三楽斎の娘は義重の側室だね
正室は伊達晴宗の娘、義宣、盛重等の母
- 75 :
- 館林6万石 秋元氏 老中も輩出しています。
- 76 :
- 増田長盛の墓は新座の平林寺にあるんだね、最近知った
- 77 :
- >>70
「かい」の名が醍醐の花見に名のあることは知ってるけど、
東慶寺に下向したというのは初耳だ。
天秀尼の母が成田氏と伝わっている(甲斐姫とはまた別という)ことからの
何となーくのこじつけじゃないのか。
史板や三戦板には甲斐姫ハァハァな姫武将ヲタが多いけど、
彼女に関しての説は>66同様、話半分と思っている。
- 78 :
- 俺も、その甲斐姫ハァハァな姫武将ヲタの一人っちゃあ一人なんだが・・・・orz
- 79 :
- 戦国時代埼玉は行田地方は忍城の成田氏。寄居には鉢形城に北条氏邦がいました。
深谷あたりは上杉の武将がいたこともあるみたい
- 80 :
- >天秀尼の母が成田氏と伝わっている
これが誤伝。成田殿と「かい」は史料的には同じと考えられ
甲斐姫が秀頼の母になった史実から、成田殿が天秀尼の養育→母
秀頼の側室となったと思われ。よくある混同。秀頼と甲斐姫は年が
離れすぎ。
- 81 :
- 母って子供生んでなくてもなれるもんなの?
- 82 :
- >>79
太田氏房のこともたまには思い出してください
- 83 :
- 常陸の三楽斎は認めなかっただろうね=太田氏房
- 84 :
- 氏邦も藤田家継いでるし、北条はうまいことやってるよな
- 85 :
- 氏照るが継いですぐ捨てられた大石家の悲惨さについて
- 86 :
- >>85
定久の実子定仲は八王子千人同心になったから
ましなんじゃ
- 87 :
- 氏房って氏資の養子だっけ?
- 88 :
- >>87
娘を娶ったのは氏資の死後らしいぞ
- 89 :
- >>88
氏資は確か北条に寝返って資正を追放した後は討ち死にさせられてるよな
- 90 :
- 酷いね。もうお前は用済みだ、という事かな?
まったく氏康はとことん外道だな。やはり謙信公に誅されるべきだったのだ。
- 91 :
- うん?
氏資は上総三舟山の合戦で、北条方として里見勢と戦い
殿にて討死、太田勢は全滅したんでしょ
それにより氏房が、太田に入るんだけどね
- 92 :
- 資正と一緒に追放されたのって梶原景政だっけ?
- 93 :
- 資正追放の発端は、資正が継室(大石定久の娘)の言をいれ、
前室の子氏資を吃音を理由に遠ざけ、
継室の子政景に家督を譲る旨を、上杉輝虎に伝えたこと
これに北条氏康が乗じ、資正の留守中に、氏資や老臣と謀った上での追放劇
(小田原記によるので、史実かどうかは?の部分もあるようだけど)
当初追放されたのは資正のみ
政景は岩付城内に幽閉→家臣により救出、以後父に同行
- 94 :
- “太田資正”でググって一番上に出てきたページの下の方に
“「天下十三大将」のひとりにも数えられた”ってあるんだけど、
「天下十三大将」って呼称、誰かご存知?俺は初耳ですた。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~JT7T-IMFK/sanraku/sanraku.html
- 95 :
- 残りの十二人は誰なんだろう
- 96 :
- わからないね・・・
ある本によると
資正は当時の関東武士の物語に、日本の十三大将の一人に挙げられている、とある
(だから何の物語?なのさ、と言いたいけど)
又、直江兼続が
わが国の大小の名将中で、主君謙信と太田三楽に及ぶものはない、と激賞しているとも
- 97 :
- さい玉
- 98 :
- パRニュー三楽
- 99 :
- 深谷上杉家臣の秋元氏は埼玉の武将に入るだろうか…
最終的には譜代で館林藩主になって明治維新を迎えているのだが
武蔵出身の中でも結構な出世頭じゃない?
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