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2011年11月2期12: 【名門】戦国今川氏を語る【花倉の乱】 (648) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼

【名門】戦国今川氏を語る【花倉の乱】


1 :06/11/25 〜 最終レス :11/11/21
義元、氏真に限らず、戦国今川氏全般について語りましょう。
関連スレ
今川氏真 (゚∀゚
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150623242/
【今川】2万5千で上洛【義元】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152318781/
桶狭間の合戦の真実について
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149962872/
【新説】本能寺氏真陰謀説提唱
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153313316/

2 :
歴代当主では氏輝が一番優秀だと思う。

3 :
他の大名はあったけど、ついに立ったね今川氏スレ
今日は書けないけど後で書き込みさせてもらいます

4 :
庵原、この中に裏切者がおる。
裏切者が首刎ねよ、そしてその首に問うのじゃ
腹黒き胴体から首切り離せば、まことの事、申すであろう。
氏真、裏切者が首刎ねよ、義元が仇。

5 :
( ´゚ω゚` )

6 :
>>4
わしは掛川へ引くと決めたのじゃ!

7 :
それはなりません!
いま、お屋形様がこの駿府をお捨てにならば
国捨てる事にて、我が軍勢総崩れになります。

8 :
裏切り者に囲まれて戦うことできぬ・・・

9 :
戦だけが国造りではありません・・・

10 :
武田信玄などと同盟すべきではなかった。
早い年代に北条と共闘して倒しておけばよかったな

11 :
その前に信長をつぶせよw

12 :
最早、我が今川家の命運、尽きたも同然じゃ。
滅びる、何もかも、滅びる。

13 :
信ヤボの氏親の能力高いね

14 :
今川氏は代々親北条、反武田だったけど
何で義元はその逆を執ったんだろう?

15 :
武田信虎が怖かったから

16 :
>>10 分かってないな〜 私の天才的な天下三分の計を

17 :
なりきりはふさわしいスレでやりなさい

18 :
大内もそうだけど今川も内訌が多い
花倉の乱もそうだけど、範政の後とか義忠の後とか
その割りに守護家として弱体化しなかったけど

19 :
美濃斎藤氏を出奔して氏真に仕えた日根野?って武将いたっけ?

20 :
>>16
お前がもうちょっと長生きしてくれれば…

21 :
日根野弘就は美濃斎藤家の家老で、稲葉山城落城後に一時今川の家臣になったんじゃ

22 :
福島正成を討ったことから滅亡への道を歩んだような。

23 :
息子は北条綱成だよね。何で北条家臣になったんだろう?
花倉の乱の時点では北条は義元支持だったはずだが。

24 :
福島氏の領地は没収されて、
義元支持派で戦功もあった小笠原氏の領地に編入されてるね。
高天神城が武田勝頼に降伏・開城したときの士官名簿の中に福島姓があるけど、
残された福島一族は小笠原家臣に組み込まれてたということだろうか。

25 :
花倉の乱の最中から急速に義元が武田に近づいたのも大きいと思われ。
当時の武田は、親戚筋の上総守護武田家との関わりから、
関東進出を目指していたから、武蔵南部を制圧していた北条と対立していた。
今川と北条が対立し始めた状況なら、流れるにはちょうどよかったんじゃないか?
その先見の明を評価して、氏綱も自分の養子にしたのかもしれない。
氏康の代わりに跡を継がせようとしただの、それがあったのに氏康も重用したことを考えれば、
綱成自身が人から好かれやすかった面もあるのかもしれないが。

26 :
大河ドラマ、いきなりきな臭い話になったね。
そろそろ花倉の乱・・・

27 :
次週が楽しみ!

28 :
足利が絶えれば吉良が
吉良が絶えれば今川がってなんだったけ?

29 :
>>28
征夷大将軍の位/幕府トップの座

30 :
出展の話では?
詳細は不明ながら
御所が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐという、室町期の俗伝

31 :
吉良、今川って三管領家と家格はどっちが上だったんだろう?

32 :
>>31
宗家との血の近さなら斯波>吉良=>畠山>細川です、確か
但し、斯波も吉良も義詮の頃に、足利の名乗りを許されなくなりますので、
あまり意味はないかも知れません
幕府内では管領が一番上でしょうね
難しいのは官位的にですが、さらっと調べましたところ
例えば同時代の斯波義淳は従五位下、細川持之は従四位下、
畠山持国は従三位、吉良俊氏は従四位下、今川範忠は従四位下
ここらへんは、試しに他の時代も調べてみては如何でしょうか

33 :
大河では、氏輝と彦五郎なる人物とが同日死亡という説を基にしてるね。
個人的には氏輝=彦五郎説を支持したいが。
名前の記述に違いがあったため、一人の人物が二人の人物と誤認されたという説。

34 :
たしかに五郎・彦五郎は今川歴代当主の仮名だし
彦五郎(仮)の生年って玄広恵深と同年だから
いろいろごっちゃになったと考えたほうがスマートかも

35 :
>>29
>>30
有り難う。無知で申し訳無い

36 :
>>32
ありがとうございます。調べてみます。

37 :
>>33
氏輝の嫡子だった可能性もあるかも。
今川家嫡子なら彦五郎と記録されていてもおかしくない。

38 :
没年23歳で元服した嫡子がいるというのはちょっと微妙
ギリギリ不可能ではないかもしれんが

39 :
幼名が伝わってなくて今川代々の嫡子の名である彦五郎で記録した、
もしくは氏真と同じで幼名が五郎だったのを彦五郎と誤って伝わったとか?
少なくとも弟彦五郎説はないだろうな。

40 :
「今川家譜」に尊氏の遺言として、
「室町殿ノ御子孫タヘナバ吉良二繼セヨ、吉良モタヘハラ今川二繼セヨト被仰置タリ」
と載せてますですよ。

41 :
氏輝の名乗りは「五郎」だったと伝わっている。
それは正式には「彦五郎」だったけど、略して「五郎」と称していたため、
記録に混乱が生じたのではなかろうか。
という、割と納得しやすい説ですぜ。
ちなみに幼名は竜王丸らしい。

42 :
「為和卿集」
四月十七日氏輝死去廿四歳、同彦五郎同日遠行。
「高白斎記」
[四月]十七日今川氏照(輝)同彦五郎同時ニ死ス。
「妙法寺記」
天文五年、(略)、此年四月十[七]日駿河ノ屋形御兄弟死去被食候。

43 :
>>42
同時代史料の時点で誤解の余地がないほど弟だな

44 :
これは俺の推測だなんだけどさ、氏輝は病弱か性的不能で子供が作れないことが公知の事実
だったんじゃないのかな。
そこで子が出来ないことを前提に、不測の事態に備えて(今川家は過去にも家督を巡って争いが起きているので)
次の弟を後継者と定め、嫡子の名乗りである「彦五郎」を名乗らせたのでは?

45 :
氏輝と彦五郎が別人ならやはり暗か?

46 :
今年の大河なかなかいいじゃないか
今後千年はこういう扱いないな

47 :
>>46
でも謙信が・・・・・

48 :
笑わないしボソッと喋るから使い方によってはかなりはまるかもだぜ

49 :
玄広恵探役が柔弱な言動を演じたのが意外だった。
曲がりなりにも大名家の家督を狙う野心家だけに、
もっと豪胆なイメージがあったのだが・・・
負け組だからそんな扱いになるのだろうか

50 :
大河では二人の兄の死は梅岳承芳が黒幕なんだそうな。
脚本には放送には無い寿桂尼が承芳を疑うシーンがあって、
初登場シーンで承芳やった谷原は実兄しを意識して演じたらしい。

51 :
今度発売の別冊ヤングマガジンで、『センゴク外伝・桶狭間の戦い』をやるらしい
今川義元は一体どう描かれるのだろうか

52 :
岡部正綱の生年は1542年らしい。
その弟とされる岡部元信は、正綱とは年子説が有力で、従って1543年生まれとしてみる。
第二次小豆坂合戦(1548)で岡部元信が活躍したことになっており、
いくら今川家に重用されていた岡部家の子弟とはいえ、
6歳そこそこで一部隊の指揮を執ったとは思えない。
同名の別人かね?

53 :
>>52
岡部元信と岡部正綱は兄弟ではないとする向きもあるみたいだ。
岡部元信の場合、長教→元信→真幸と名乗りを変えているみたいだし、
義元と同年代かちょっと年下くらいの世代だと思う

54 :
青春18きっぷでの快速電車&普通電車乗り継ぎプラン概略。 3/18改訂版
【東海道線乗り継ぎプラン】
姫路←15〜30分間隔→米原←30分間隔→大垣←15分間隔→豊橋←20分間隔→浜松
浜松←20分間隔→島田←10分間隔→興津←20分間隔→富士←10〜20分間隔→三島
三島←一時間に三本はある→熱海←一時間に4本はある→東京
まあこんな感じだな。
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/moeplus/1170917195/l50
青春18きっぷだな 。
JRは3/18にダイヤ改正を実施します。静岡探索にいかがですか。

55 :
にわかですまん
尼子の新宮党とまではいかなくても大国にはそれを支えた精鋭部隊がいたと思うのですが今川の場合はどうなんでしょうか?
諸外国、家中での評判なりで知られていたのはありますか?
もう少し崩して、例えばいつも先陣はこの部隊だったとかでもいいです。個性で言えば武田の小山田隊は石投げてたとか有名ですよね。
今川を支えた軍事面でのそんな話を聞いてみたいです。
三河勢がいつも先陣やらされてた、水軍を所有していた、朝比奈、朝日奈、岡部このへんが武勇の将なのかな?ぐらいなにわか知識で申し訳ありません。
また、なにか良い本でも紹介して頂けると嬉しいです。

56 :
精鋭部隊って馬廻衆じゃないかな。
名門今川の名・豊富な資金によって、全国から人材を集めたり、優秀な教育者
に馬廻衆になった重臣達の子弟を育てたりしたと思うから。
飯尾乗連は、いろいろな前線にて軍奉行として指揮いるので、最も信用された
人物だったのかと思う。
他には安祥城攻めで配置されていた朝比奈泰能・鵜殿長持・岡部元信
三浦義就・葛山氏元・松井宗能という将が武勇の将になるのかな。
部隊としては、天野一族が1番だと思う。

57 :
岡部元信は、
岡部正綱の弟 じゃなくて
岡部正綱の父の弟 だと、年代とか、いろいろ符号が一致するんじゃないか?

58 :
>>57
ちょっと調べただけでは、ピンときませんが、どういうことでしょう?

59 :
ちょっとした疑問。
小和田哲男の『今川氏の研究』って本に
「氏輝の遺言としては承芳への相続ということであったらしく」
ってあるんだけど、何が出典になんだろう。
これが本当なら、氏輝はどうして彦五郎を指名しなかったんだ?
彦五郎は氏輝よりちょっと早いタイミングで死んだってことかなあ。

60 :
あ!本当だ。
氏輝は、北条が祈祷する位だから、急死では無い。
遺言をする時間は有っただろう。二人は同日に死んでいるから、遺言する
時には、まだ彦五郎は生きていたんじゃないだろうか。
となると、氏輝と彦五郎との間の関係は、遺言で指名しないほど悪化して
いたりして。

61 :
>>60
ありがとうございます。
彦五郎って特異だと思う。寿桂尼の子供としては、扱われ方が異常。
義元は氏輝の7回忌とか13回忌とかやってるけど、彦五郎の存在は
ほとんど無視でしょう。真珠院っていう彼を祀る寺があるようだけど、
花倉の乱に関わったとかで由緒が失われてるらしい。名誉回復?もされて
いないってことだよな。
氏親の葬儀の記録にも名前が見られないみたい。母が先代の正室で、準嫡子とも
目される次男が父親の葬式に出席してないっていうのはおかしな話だ。
彦五郎が実は氏輝より年上の庶長子だったっていう可能性は無い?
もしくは養子。寿桂尼に氏輝以下が生まれたので廃嫡されたとか・・・
確たる根拠は・・・無いんだけどね。。。すんません

62 :
庶長子で思い出したけど北条新九郎(氏康長男)は正妻今川氏の子供じゃないんだってね
今川彦五郎も本当は先妻の子というのはありうる話かも

63 :
織田信長の息子のところでもそれはあるものな。
信雄が次男、信孝が三男だが、現実には、信孝の方が信雄よりも
20日生まれたのが早かったと言う説もあるようだからな。
もっともそれには異説も唱えられていて、本当に順番は間違っていない可能性もあるようだが。

64 :
氏輝って氏親が40歳前後に生まれた子でしょう。
それ以前に本当に誰も男子が居なかったのか、と考えるとどうもねえ。
>>62-63さんありがとうございました

65 :
氏真は、彦五郎に関係有る藤枝円良寺に、寿桂尼の亡くなる数日前に遺言により
書状を出しているので、寿桂尼の子と思っていたけど
先妻(可能性として烏帽子親足利政知に関係有る女性か?)の子という気にもなってきました。
桶狭間の戦いに名が有る、久野氏忠は義元の甥、その父親久野宗衝は江尻城主
江尻親良は今川一族とあり、なんとなく庶子の影が…。

66 :
>>64
彦五郎(五郎)は今川嫡子の通称だから氏輝と彦五郎を同一人物とする説もある。
二人が同一人物なら氏輝が後継者に指名しなかったことも、同時期に亡くなった不自然さも簡単に説明がつく。

67 :
>>66
同一人物説では、>>42-43はどう解釈されているのでしょう?

68 :
>>66
円良寺文書の中にも、彦五郎に当たるとされる「定源院殿」という
人名が見えるようですが、この人物も彦五郎ではないということになって
しまいますよね。

69 :
死んだという記録だけで、生前はどんな人物だったのかという資料はないの?
>氏輝と同じ日に死んだ彦五郎

70 :
>>69
無いっぽい。
『高白斎記』『為和集』など極めて当時性が高い日記類の史料には
名前が出てくるのに(でも死亡記事のみ)、『今川記』とか「今川氏系図」
などは彦五郎についてふれていない。特に後者は、普通ならその人となり
を伝えていてもおかしくはない史料だろうに。謎だ。
「彦五郎=○○」という疑念が出てくるのも仕方がない状況ではある。

71 :
一つの説。
・泉奘は、没年から義元の兄にあたる。
・氏親の葬儀に名が無い。
・義元の兄なので、どこかの寺に入れられていただろうに、恵探の居た
 遍照光寺に、天分8年になって始めて入ったとある。
実は玄広恵探は自害していなく。名を象耳泉奘と変え生き残った。

72 :
>>303
大畑安次っていう人の説らしいな。
小和田哲男氏らは以下のように反論してるみたい。
・恵探=泉奘だとすると、恵探は既に住持をつとめていて泉奘が二度
受戒したことになり、不自然。
・「南山北義見聞私記」の奥書という史料からも、やはり二人は別人
であると思われる。
(『今川氏の研究』P.303)
・・・要約するとこんな感じ。あ〜あ全く何が何やらw難しいな

73 :
ごめん、ミスった。>>303じゃなくて、>>71だった。
お手数ですが訂正キボン

74 :
>>72
そうなんだけど、泉奘は氏輝が死んだ年には19歳で、義元・恵探と同じく寺
に入っていなかった事に、恵探=泉奘説は捨てがたく思う。

75 :
成程・・・確かに、年齢を考えるとどうも引っ掛かるものがあるな。
つか密集しすぎだな。6人の男子の年齢差がそれぞれ1歳違いとか2歳違い。
氏親室がもう何人か多く確認されてるならそれも不思議ではないだろうけど
寿桂尼と福島氏しか登場してこないから尚更怪しくなる。どうしても、誰かと
誰かの混同を疑わざるを得なくなるケースだなこの問題って。
せめて寺なんかに入れないで、城主として各地に配置すれば、
人物の記録も残りやすくて、分かりやすかったんだろうけどなあ。
内紛防止の為なのは分かるけどさあ

76 :
>>75
そんな未来の歴史家に配慮した人事やってどうする。
でもその点では、当時は客将だった後の小田原北条氏は
一族の団結が上手く行っているだけに、この頃の今川を反面教師にしたんかね?

77 :
昨日の「なんでも鑑定団」で今川義元に関するものが紹介されたのですか?

78 :
日立市の方だったな、テレビがついていてちらっと見ただけだが、自筆の書状だったかな

79 :
tp://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/documents/imagawayosimoto_000.pdf#search='%E8%B6%B3%E7%AB%8B%E5%8F%B3%E9%A6%AC'

80 :
水戸徳川家ゆかりの人から譲られたとか言ってたな。
「寺部城の合戦」で敵を撃退した事への感状で松平家の家臣宛て。
花押と筆跡が一致する点から全文直筆とか。当主の弟が戦死したそうだから
気を使ったらしい。
「寺部城の合戦」は神君の初陣だそうで、特に大切に伝えられたのか?
話が出来過ぎなので、偽物だと思ったんだけど、
鑑定結果は本物で700万円。

81 :
静岡人のオレはその鑑定団を今日の昼見たよ。
伊豆などの東部はテレビ東京リアルタイムで見れるんだろうけど。

82 :
今川義元史上最強論
ttp://www.geocities.jp/rekishi_chips/saikyo1.htm
上のサイトはかなりくわしく書いてあったよ。
かなりの良将として今川義元を説明していた。

83 :
>>82
厨房でもこんなバカじゃねーよwww

84 :
>>82
信玄や氏康に匹敵する有能な戦国大名だったのは間違いない。
だけど、歴史が彼に割り振った役目は
「信長の引き立て役」だったんだよね。

85 :
>>83
つーか、おまいの一行レスの方が、どう考えても・・・だろ?
今川義元は、武田信玄に勝るとも劣らない有能な大名だよ。
歴史なんてものは、所詮勝者が作ったもの…

86 :
>>82
読んだよ!義元かっこいいじゃん!こういう解釈のしかたもありだな。
もともと今川義元は、有能な大名だと思ってたけど、ちょっとファンになったw

87 :
義元は有能ですが、度重なる外征で家臣団に不満が出始め、桶狭間以後の家臣団の離反の一因を作ったとされている
これは甲斐武田にも同じ事が言える

88 :
義元時代の度重なる外征の例を挙げてみてくれ。
義元の外征ってほとんど思いつかん。
防衛戦・制圧戦・共同作戦・威圧進軍ばっかのような気がする。
本格的な外征って永禄三年の尾張侵攻戦ぐらいじゃねーの?

89 :
・東三河侵攻。
 太原崇孚指揮であっさり進出を果たして片付いたけど。
・第二次河東一乱での出兵。
 第二次は義元側の自発性により、後北条領に対する「外征」ともとれないか。
 (でも、武田軍も出兵した為に単独作戦ではなく「共同作戦」として見做されがち?)
敢えて挙げても、このくらいか。確かに「度重なる」って程多くはないな。

90 :
家臣団が不満をもったのは、軍事行動そのものではなく、
「コストに見合う成果が上がらなくなった」、
つまり勝てなくなったからでは?
織田家や豊臣家で、「度重なる外征で家臣団に不満が出た」なんて
話は聞いたことがない。

91 :
それ以前にさ、桶狭間合戦以後離反した今川家臣ってほとんどが三河衆・遠江衆なわけで。
奥平・菅沼・井伊・戸田とかが家康に内通しているが、元々義元時代に戦った連、
離反とかそーゆー話ではない気がするw
こいつら自身、自分らが今川家の家臣だなんて思ってないんじゃないか?w
1568年以降武田信玄が駿河に攻め込んで今川家臣団は崩壊するが、
これを離反ととるのは酷だろう。
確実に離反した今川家臣っていうと、氏真の派遣した兵と戦った飯尾連龍ぐらいか?

92 :
そもそも、三河・遠江、特に三河に関しては、今川による支配が
安定した時期なんて無いに等しいんじゃないか、とも思えてくるわ。

93 :
後継者が無能だと、どんなに優れた統治も無意味ということか?
「今川の崩壊は、氏真の責任」という結論でいいのかな?

94 :
遠州崩れといいバタバタと内応離反する者の数が異常すぎる
それに関わる武田と徳川の挟撃
徳川の独立といい武田侵攻といい今川の力がいまだ健在ならできないわけで
三河へ鎮圧しに行った軍勢も負けてたりと、桶狭間敗戦後氏真は何をしたらよかったんだろね
勝頼のように国力を疲弊してでも外にでて内をまとめようとする力はあったのだろか
疑心暗鬼になったりひいきな家臣を寵愛したりと離反の原因もあるのだけれどもあまりにももろすぎる
にわかなチラシの裏ですいません

95 :
何をしても無理
上杉が勢力を結集して城を攻めたが落とせず、以降関東での影響力が減少したように、桶狭間は物凄い痛手

96 :
桶狭間は長篠みたいに野戦戦力や多数の中堅指揮官を失った
わけではないから、「物凄い痛手」というは疑問。

97 :
【名器】戦国今川氏のヒャッハーについて語る【股ぐらの乱】

98 :
>>96
当主を喪失したのは物凄い痛手じゃないか?
無能な当主が戦死して有能な息子が継ぐパターンじゃなく、
有能な当主が戦死して無能な息子が継ぐパターンだからな・・・。
氏真はひいきの家臣を重用するのはともかくとして、
それ以外の家臣に懲罰を与えるというひどい面があったのが致命的。
数人を駿府に呼びつけて害してりゃ、家臣の心も離れるわ。

99 :
>>96
二万五千の一割喪失して敗戦、当主が討たれ、また国人の頭も多くが討たれて物凄い痛手でないと?
これが遠州錯乱の遠因でもあるのに?

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