2011年11月2期38: 【瀧川】滝川一益ら滝川氏を語る【忍者】 (78)
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【瀧川】滝川一益ら滝川氏を語る【忍者】
- 1 :11/03/28 〜 最終レス :11/11/20
- 忍者出身と言われるなど正確な出自不詳ながら、
信長に重用され織田家四天王とまで言われた滝川一益の生涯や逸話、
血縁者や末裔など滝川一族について語りましょう。
滝川一益 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A
■武家家伝_滝川氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takiga_k.html
- 2 :
- 田舎住まいよりも、茶器を愛した数寄者。
- 3 :
- 北伊勢後略の先兵になったのは地縁でもあったんでしょうか?
- 4 :
- 難しいことは分からんが、「いちます」「かずます」のどっちなんだ?
- 5 :
- 木造氏流以外の子孫は殆ど歴史に出てこないな
- 6 :
- 秀吉に「おめーの席ねぇから」
と言われたときの一益の心境や如何に
- 7 :
- 本能寺が起こった時点でこの人も終了だったよな。
- 8 :
- , - ' ゙ `` ‐ 、_,,,,,
,r' /=ミ
/ 彡ll',''´
. / 彡lll
!-- .、 ,、、、、,,, 彡lノ 栄えある織田軍に
l,,,,,__ / ___ 'r''゙ヽ
. |`゙'' ./ `'゙'''" .〉,l | 北条ごときに負ける弱将は無用
|. ,' //
. ',. ,' , r' 滝川一益を不名誉除隊と処す
. ゙, ゙'ー ‐` l |
゙、''゙ ,,、二''‐ ノ l、
''''''''7'ヽ ''' / /`〉`゙T''''''''''
l ` 、,,,,、- ' " / /.| |
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- 9 :
- 鉄砲の扱いに長けてたらしいけどそれなら伊賀じゃなくて根来が実は出身地じゃないのかね
- 10 :
- >>6
清洲会議やってる時は、まだ関東から逃げてくる途中だったね。
- 11 :
- イチマスさーん
- 12 :
- この人って織田家の家臣では序列的に何番目の人?
佐久間と林と信長親族除いて。
- 13 :
- >>9
鉄砲云々の話は眉唾。
うちの怪しげな家系図を見る限りでは紀州か大和あたりの土豪だった模様。
大和あたりに残っている史料を見ると菅領細川氏が衰えて三好・松永が台頭した時期に畿内の土豪クラスの紛争もピークになった。
それで負けた側が落ち延びる先は伊勢・尾張方面が多かったみたいだ。
当時、伊勢湾〜三河湾が太平洋側の商業ルートでかなり繁栄していたらしく織田と北畠の争いもこのルートをどちらが押さえるかという争い。
滝川氏も畿内から先に尾張に移っていた同族の池田氏のツテをたよりに尾張に移った模様。
滝川氏が畿内にいた時期に鉄砲が土豪クラスで所持されていた可能性は限りなくゼロに近い。
尾張移住後に鉄砲に携わるような機会は特にはなかったと思われる。
忍者だった的な話はマンガの域を出ないし、出自に関しては田舎のヤンチャな地主ぐらいのイメージで間違いないと思われる。
ちなみに滝川氏は子沢山の一族だったようで伊勢やら美濃あたりの土豪や足軽組頭クラスの家に養子を出しまくっている。
そのうちの数家は滝川姓を名乗っていて江戸時代に元の姓に戻した近藤家なんかは旗本になっていたりする。
- 14 :
- >>12
与えられた役目と与力から推定すると秀吉が長浜城主になるまでは柴田、丹羽、滝川で三番目。
その後は柴田、明智、羽柴、滝川、丹羽、荒木村重。
ただ前者三人と後者三人の間にはかなり差がある。
前者三人は方面軍司令官並みの役割を与えられてたのに対し、後者三人はこの三人を支援する師団の師団長のような扱い。
かなり有力な与力を与えられてはいたもののあちこち転戦ばかりしてたから出費ばかりが嵩んで、領地や手当ては少なかったみたいだ。
だからこそ茶碗のエピソードも生まれたと思われる。
- 15 :
- >>14
なんで滝川は羽柴や明智に抜かれたんだろう?
軍政面よりも小規模な遊撃隊というか機動部隊みたいな軍事能力に特化してたのかな?
でも関東管領になったことで本能寺が無ければ東国平定戦で一気に柴田、羽柴、明智に並ぶ可能性があったよね?
- 16 :
- >>14
>なんで滝川は羽柴や明智に抜かれたんだろう?
軍政面よりも小規模な遊撃隊というか機動部隊みたいな軍事能力に特化してたのかな?
軍政っていうか行政面の手腕と各自の役割の差だと思う。
行政の手腕で言うと光秀、秀吉は畿内平定を進めている時期に最重要の京都行政を任されるほど信用されていた上、朝廷や他家との外交まで預かっている。
柴田は戦いでの実績はずば抜けていた上に譜代の筆頭と言う立場。
譜代も頑張ればちゃんと重用しますというメッセージを示すのと家中のバランスを取る意味でも柴田には重要な仕事を任せる必要があった。
この三人は織田家飛躍の象徴。
本能寺の変がなければ天下布武実現まで多分トップスリーのまま。
逆に言うとこの三人にいかに良い仕事をさせるかが重要になってくる。
なので三人が行き詰まりそうな局面になると信長は援軍を送る。
その時の援軍司令官は万に上る与力を預かり大量の軍事物資の調達と運搬まで管理する。
この役目を果たせる人もそうそういない訳で滝川や丹羽みたいな戦歴も行政的な手腕もある人物は長期作戦から外していつでも動けるようにしておく必要があった。
>でも関東管領になったことで本能寺が無ければ東国平定戦で一気に柴田、羽柴、明智に並ぶ可能性があったよね?
確かに「関東菅領」とされた事で占領した土地の支配権をある程度優先的に与えられたのは間違いないと思う。
ただ天下布武実現のための戦略全体から見ると最優先は中国地方で次が北陸、四国。
関東は北条の拡張を食い止める防御的な意味合いが強くて攻略に移るのはまだ先だと考えていたと思う。
だからこそ丹波の明智をわざわざ秀吉の援軍に送った。
援軍であれば本来なら丹羽や池田恒興あたりのベテランに指揮を取らせるところを。
信長はそれだけ中国地方の攻略を急いでいたし重要だと考えていたんだと思われる。
なので関東菅領になったとは言え与えられた役割の重要さはやはり秀吉、光秀、柴田とは差があったと考えるのが妥当かなと思う。
中国地方攻略が済んだ後であれば関東方面でも攻勢を強め三人に並ぶ可能性はあったかも知れないね。
エライ長文になったw
- 17 :
- 関東管領に任じられた証拠ないしね。
越後を柴田指揮下に北信濃の森や上野の滝川で挟み討ちで滅亡させたら
柴田が厩橋城に入城してきて
滝川や川尻は柴田の指揮下に編入されて家康などと先鋒させられ北条滅亡させると思うよ。
このあと家康に伊豆を加増させるどころか滅亡させると思うけど。
この時点で信長はまた領地没収の大リストラをやらかすよ。
佐久間信盛みたいに高野山へ行くか奥羽で討ち死に覚悟で功績をあげるか選べみたいな。
- 18 :
- 働いてんのに領地没収なんて眉唾だと何度言わせればうんたら
- 19 :
- 水野信元や久松信俊や塙直政や佐久間信盛は信長のために
むちゃくちゃ働いてたのに自刃や領地没収されたじゃん。
- 20 :
- 関東管領といっても室町幕府とは無関係なんだけど、
「一益、関東管領」の初出はどこなんだろう?
- 21 :
- 小瀬甫安?
- 22 :
- たしか、戦後の研究者で方面軍を提唱した人が、それぞれの担当地域と役割を説明するために
滝川軍を「関東管領軍」と名づけたのが発端じゃなかったかなあ?
少なくとも、室町幕府の職制としての関東管領に一益が就任した形跡はないよ
>>16
ほぼ同意なんだが、おそらく、織田家の序列は佐久間と柴田がトップツー
その次に明智そして秀吉が続き、さらにその下にあなたのおっしゃるように
補助役として丹羽が滝川らがいたものと思われる
- 23 :
- なんでそんなに明智の評価が高いの?
- 24 :
- >>23
信長が盲目だったから
- 25 :
- ごめん。羽柴より明智の評価が高かったようには思えないって意味です。
折檻状の順番を重視したら池田がもっと上でないとおかしくなってしまうし。
- 26 :
- 伊勢攻略の立役者なわけだから、
何もなければもっと早く近江の羽柴、丹波の明智のように他方面への司令になった可能性はある
ただ長島一揆という厄介な存在がいたために出世が遅れたのは否めないな
- 27 :
- >>23
将軍や将軍側近の細川氏らとの縁を繋いだのと、美濃近江周辺の国人と様々な形で繋がっていたのを買われたんだと思う。
相撲の番付みたいなものはないからね。
その時々で前後はあるし任された仕事が長引いてしまえば次の仕事は与えられにくい。
そういう意味では城を与えられた時期や切り取った土地の処分権、どの程度の与力を与えられたかみたいな部分からの印象で序列をイメージするところはあると思う。
本能寺の変直前では秀吉の中国攻略作戦が一気に前進しかかっていて、そこに光秀と信長本人が増援で行く形になっていたから序列は秀吉、光秀と考えるのが妥当かな。
そのまま中国攻略が秀吉を中心に行われ毛利を下していれば秀吉が勝家、光秀、一益を置き去るほど加増されたと思われる。
その後粛清に合う可能性も劇的に高まっただろうけど…
丹羽、池田に関しては若い頃から信長の側近で、畿内の制圧に目処がついた頃には信長の子息が出陣する際に彼らを現場で支えるような役割が与えられている。
これは後継者の育成とその後継者を支える老臣の関係作りを始める意味合いもあったと思われる。
一益が光秀、秀吉に遅れを取ったのは長島での苦戦が大きかっただろうね。
それでも厳しい戦線を生き残り関東の攻略を任される機会を与えられたんだから、相当な信頼を受けていたのは間違いない。
- 28 :
- >>27
柴田と秀吉は?
柴田も謙信死後の上杉に対して大攻勢を成功させてるじゃん?
あと光秀って丹波、丹後と来て秀吉と並行して山陰攻略担当になるのかと思ったら
畿内の管理統制みたいな仕事させられてたけどあれはどれくらい重要なの?
- 29 :
- 信長的には秀吉はいくら加増しても結局自分の息子のものになるわけだからな
- 30 :
- 子孫が真田家と縁があったのは、本能寺前に交流があったから?
- 31 :
- 滝川クリステルが一益の子孫ってマジ?
- 32 :
- うそ
- 33 :
- 北海道滝川市立江部乙小学校いじめ事件
滝川ルネッサンス
- 34 :
- >>26
瀧川一益の遊撃戦力・兵站以外のお仕事
・伊勢方面の織田連枝衆と愉快な配下たち(不愉快な先代当主とその御一門)の監督(監視),補助
・長島一帯の一向宗勢力の監視(戦力動向以上に物流・情報の監視−経済戦の一面)
・伊勢隣接国の検地代官などの民政補助
・佐久間とやってた東国取次の仕事(佐久間が近畿転出後は独占、これが武田殲滅戦、その後の転封の遠因)
・甲賀衆との人脈を生かした情報・物流の管理(佐治水軍、九鬼水軍などの指揮権保持)
羽柴と明智比べて劣っているからではなく、単に重要すぎて周辺が落ち着くまで動かせなかっただけが本当の理由
- 35 :
- 秀吉とモメなかったら、滝川一族も関ヶ原まで大名だったかな?
- 36 :
- 清洲会議の頃既に、秀吉−織田信雄-丹羽長秀-池田勝入ラインが構築されている以上、
秀吉に接近しようが滝川はその他扱いしか受けなかっただろう。
滝川の存在は、伊勢を支配する信雄や美濃以東に野心を持つ池田勝入(と森長可)の利害と
真正面からぶつかるし。
- 37 :
- >>35
いちおう、次男の一時は関ヶ原の時点で1.4万石の大名。
というのは置いといて、賤ヶ岳の時点では桑名城主で15万石程度か。
積極的に秀吉に付いた場合、50万石クラスの大名にせざるを得ない
だろうから、丹羽や蒲生同様に一益の死後に大減封喰らって、
せいぜい10万石程度になるんじゃじゃない?
中立の場合は15万石を安堵かせいぜい数万石の減封だろうから、
こっちのほうが結果的にはよさそうな気がする。
15万石程度だと、たとえば池田は恒興時代は13万石だったし、
小牧・長久手の戦いでの討死ってことで、石高的にも時期的にも
死因的にも減封することができなかった、何事も無く輝政に
家督相続できたんで。
- 38 :
- 八巻正治。氏の学歴は以下の通りです。
【学習歴の記録】
美幌幼稚園 卒園 美幌小学校 卒業 美幌中学校 卒業 美幌高校 卒業
※高校は途中転入で、しかも不登校でした!
順天堂大学 体育学部 健康教育学専攻 卒 業 ※ガンガン勉強しました!
青山学院大学 第U文学部 教育学科 卒 業 ※幼稚園での教育実習も行いました!
東洋大学 第U文学部 教育学科 卒 業 ※養護学校の教員免許を取得しました!
立教大学・大学院 文学研究科:博士課程(前期) 教育学専攻 修 了 ※良き学師たちに巡り合えました!
カリフォルニア神学大学院日本校 博士課程 キリスト教神学 修 了 ※神様の深き愛の素晴らしさを学びました!
米ニューポート大学大学院 博士課程 教育学専攻 修 了 ※論文執筆に燃えました!-----------------
資 格
1973年03月19日 中学校教諭1級(千葉県教委 昭47中1普 第501号),高等学校教諭2級(昭47高2普 第427号) 教員免許状(保健体育)取得
1973年04月26日 衛生管理者免許状(第61号) 取得
1978年03月31日 養護学校教諭1級(東京都教育委員会 昭53養学1普 第132号) 教員免許状取得
1994年02月26日 『米セント・チャールズ大学(カリフォルニア神学大学院日本校:提携校)』より 『博士(宗教学)(Ph.D.)』 の学位を取得
- 39 :
- BS-TBS 20日 22時
ナンバー2 滝川一益
- 40 :
- 滝川一益がいつナンバー2になったんだよ…
- 41 :
- 信長のナンバー2って何人いんだよ
- 42 :
- >>40
少なくとも北伊勢に所領を得た1567年時点では秀吉よりは上だろうな
- 43 :
- 滝川さんパズル状態。(☆は同一人物確定、★は推測)
☆滝川一益=滝川左近将監
★滝川彦右衛門=滝川伊予守(清洲同盟の使者)
★滝川儀太夫=滝川益重=前田利益の父?
★滝川益氏=佐治新助=前田利益の父?
?滝川法忠
?滝川彦九郎
その他、怪しい縁者?
☆滝川彦次郎=滝川忠征(一益の稚児?)
☆滝孫平次=中村一氏(甲賀滝家出身?)
☆中村一忠(滝川一忠の嫡男の就職先)
柘植保重(滝川雄利の姉の夫、或いは雄利の実父)
福地宗隆(伊賀の土豪、柘植保重の父?)
ttp://www.geocities.jp/kawabemasatake/nobunaga.html
- 44 :
- >>39
面白そうな番組だね。再放送ないかな。
東西の大役比較という感じ?
一益は伊勢で気ままに過ごしてたから、
秀吉と違い、身内の政争に疎く遅れをとったんだろうね。
- 45 :
- >>34
追加
・尾張の防衛(佐久間と共同で徳川家の援護及び警戒)
・美濃勢(信忠、河尻)の援護
- 46 :
- >>44
今のところ再放送ないみたい。
http://w3.bs-tbs.co.jp/no2/12.html
- 47 :
- 滝川法忠=滝川彦次郎=滝川忠征だね。
滝川一益=滝川左近将監=滝川伊予守(清洲同盟の使者)
も問題なさそう。
井上力・もう一つの史話
http://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/index.html
高山右近の出自
しかし、左近将監の官はそのままで兼官の形をとり、朝廷を離れた所では
依然として「左近将監」を通していた、という推測は無理であろうか。』
- 48 :
- >>47
>滝川一益=滝川左近将監=滝川伊予守(清洲同盟の使者)
世代的に無理だろ
- 49 :
- どういう意味?
- 50 :
- 利益の父親が益氏という話は、
どの資料からのものかなぁ?
- 51 :
- >>47
>しかし、左近将監の官はそのままで兼官の形をとり、朝廷を離れた所では
依然として「左近将監」を通していた、という推測は無理であろうか。
無理無理
- 52 :
- 武田豊信に宛てた一益への帰属を求める
『倉賀野淡路守書状写(家吉判)』(天正10年4月6日)
では、一益のことを伊予の守と呼んでいる。
やはり同一人物っぽい。
- 53 :
- 江南史学はまた補強を始めたのか。
- 54 :
- >>52情報感謝
戦国人名辞典の「倉賀野家吉」を見たら
群馬県史か新編高崎市史資料編にある書状みたいだけど
よければ内容を教えていただけませんか?
ふだん左近将監と名乗っている相手を
伊予守と呼ぶような例は珍しいよね
- 55 :
- 結局たっきーって忍者じゃないだろ?
- 56 :
- この時代の忍者の定義が不明。
- 57 :
- >>54
近くの図書館で見つけたぞ。
新編高崎市史通史編2(中世) の補遺にあった。
急度令啓上候、仍今度自上方御乱入、因茲駿・甲・信・上属御手候、
西上州箕輪へ滝川伊予守殿移被申候、彼仁に被仰付候、
御様子者日の本迄被仰付候、(以下略)
- 58 :
- >>55
服部半蔵が忍者なら、一益も忍者でよいと思う。
- 59 :
- 諜報活動・破壊工作に主に従事していた=忍者でいいんじゃないの?
大概は臨時雇いで、大名の要請で略奪やら放火やら汚れ仕事やってた連中。
夜盗に毛が生えたレベルでしょ
半蔵は忍者じゃないし、伊賀甲賀出身ってだけで忍者扱いするのはどうかと思う
滝川さんについては論外。
- 60 :
- >>59
中村一氏や百地丹波、佐治新助はどうだろう?
忍者と夜盗の区別は、地域性でしか分けられないのでは。
伊賀や甲賀の戦術が特徴的であり、夜盗レベルでは無かっただろうし。
あと一益の調略能力はかなり異常だと思う。
北畠、荒木、関、尾張前田と凄い崩れ方。
- 61 :
- >>57
すみません、遅くなりましたが、ありがとうございます。
厩橋城ではなく箕輪城なんですね
- 62 :
- 伊賀甲賀の人間をみんな忍者というのは、外人が日本人をみんなサムライニンジャゲイシャというのと一緒
- 63 :
- 忍者=スパイ
- 64 :
- >>61
最初は箕輪城に入場してるから、史実通りだね。
>>62
一益は尾張出身ぽいけど、
本家が甲賀五十三家の可能性があるとかないとかw
- 65 :
- 柴田が謙信の死と御館の乱のおかげで加賀を攻略できて首がつながり
滝川も武田攻略開始のあたって信長から
「俺が出陣するまで軽挙するな。砦普請に力を入れろ。
若い信忠をキチンと制御しろ、失敗したら2度と俺の前に参上を許さんから覚悟しとけよ!」と言われているのだった。
そして森を先陣に信忠が軽挙進撃を続けて、老人滝川は動揺していただろう。
結果的に武田征伐は成功したから良かったが
失敗してたら滝川も佐久間と同じように追放されていた。
- 66 :
- 信忠が親父の陰に隠れてた名将で助かったな
- 67 :
- 信忠は盲進しただけのバカだな。
勝頼が高遠城を見捨てて
諏訪から甲斐に帰る馬鹿なことをして自爆しただけ。
- 68 :
- >>65
河尻も同じ様な事を言われてたの?
- 69 :
- >>65
武田がしょぼくて助かったな滝川
- 70 :
- 木曽の地は落ち無いと言う前提条件の盲信があって
織田軍の侵攻を遅滞させる物理的な備えが無さ過ぎて、
木曽を通過したら速攻で南信濃が制圧され
高遠城までやすやすと
織田軍が進撃できた時点で終わってたからなあ。
本願寺降伏以降はいつ大規模進行が来てもおかしく無かったのに。
- 71 :
- >>57
天正十年四月五日の長沼山城守宛文書(栃木県庁採集文書)では、
滝川左近と署名してるよ
- 72 :
- 滝川一益は北伊勢と上野の国主格、ならびに臨時関東管領代行に任命されたのに晩年は越前五千石
- 73 :
- そうそうたる前半生だったのに晩年は御伽衆、なんて人は山ほどいるけどね
- 74 :
- >>67が正解。
信長は滝川・河尻に慎重策を命令している。
なのに信忠がどんどこ攻めた。武田勢が想像以上に崩壊してたので助かったけど
信忠が名将というより、末期武田の崩壊が激し過ぎた
- 75 :
- すでに家康の攻撃すら
武田には防衛する力が無かったからねぇ。
- 76 :
- 信忠にとっては武田は弱すぎたんだな
- 77 :
- 武田攻め盲進と
同じように本能寺に
盲進撃して討死した挙げ句に
織田家を瞬した信忠…
- 78 :11/11/20
- >>71
松平左近衛権少将伊予守定昭っていうのが居るから、
滝川左近将監兼伊予守一益だったのかな?
>>69
滝川と河尻は、軍を分裂させるより、協力した方が良いと考えたのかも。
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