1read 100read
2011年11月2期39: 戦国ちょっと悪い話29 (107) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼

戦国ちょっと悪い話29


1 :11/11/13 〜 最終レス :11/11/21
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話28
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1316313208/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話29
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/

2 :
で、あるか

3 :
>>1乙 さぞお疲れであろう
|  |
|宇| ∧∧
|喜|(´・ω・`) ドウゾ
|多|o   ヾ
| ̄|―u'   旦 <コトッ
""""""""""""""""

4 :
小笠原より、
>>1 乙 し て ま い っ た !

5 :
永正14年(1517)2月4日戌の刻(午後8時前後)、京三条の、将軍足利義稙邸に夜討ちがあるとの風聞があり、
世上騒動となり、驚き慌てる事もっての外であった。
紫宸殿から三条御所の方を見ると、夜討ちを警戒するため三条周辺に掲げられた松明が、まるで晴れた夜空の
星のように数多く輝いていた。
陣下の衆が少々馳せ参じ、外様番衆(奉公衆)も、将軍家直属であるため三条御所に馳せ参じた等、云々。
しかし夜討ちの事はあくまで風聞であり、実否が解らず騒ぎも収まらなかった所、将軍に従っていた神祗伯の
白川雅業(雅業王)が参内してその子細を申し上げるには、唐門役所において盗人の騒ぎがあり、その騒ぎを聞いた
者たちが夜討ちだと勘違いしてしまったとの事である。全く奇異の事だと云々。
あとで聞いた所によると、細川京兆(高国)が具足を着たまま各所に礼参したと云々。全く稀代の事である。
また、聞く所によると京の児女たちの間では、この日に天魔の祝儀があると言われていたそうだ。
さてさて、洛中の騒動はその為だろうか?
(二水記)
この時期の京の情勢の不安定さを、よく表している事件であろう。

6 :
大山鳴動鼠一匹か

7 :
>>3、こちらこそ
|  |
|松| ∧∧
| |(´・ω・`) ドウゾ
|永|o   ヾ
| ̄|―u'   旦 <コトッ
""""""""""""""""

8 :
 天正三年のことである。
 阿波を実質的に支配する三好長治は父義賢に似ても似つかぬ暗愚の君主であり、若年にして政務を蔑ろにし、
酒色に耽る生活を送っていた。
 己に諫言するものに対しては極めて暴慢であり、この前年には重臣篠原長房父子をその一族篠原自遁の讒言を容れて
上桜城に攻め滅ぼし、この三年にはやはり諫言を行った讃岐の香川、香西両氏を憎み、その上司である実弟十河存保を
無視する形で兵を遣わして攻めさせている。
 そんな不安定化の進む情勢を理解していたのかいなかったのか、長治には長らく抱く一つの夢があった。
 それは三好氏の支配する領国全ての家臣、民草に、三好氏代々が信仰する法華宗への改宗させると言うものだ。
 当時の阿波は真言宗の強い土地で、主に畿内に勢力を持つ法華宗はほとんど信仰されていなかった。長治の父義賢はその晩年、
法華宗への帰依を深めて堺に妙国寺を建立したりもしている。法華宗の勢力を強めることは、親孝行になると思ったのかもしれない。
 ……父やその兄弟が健在の時代の宗教政策は全宗教保護路線だったのだが気にしちゃいねえあたりが暗愚の暗愚たる所以だろう。
「阿波一国の衆、生まれ子まで日蓮宗になし、法華経をいただかせ、他宗の寺にでいりのことゆるされず」(三好別記)
 かくしてこの年、阿波国中の寺院、領民に対して法華宗への改宗が三好長治の命によって発布された。
 ……えっ、淡路と讃岐? 諫言を蔑ろにされてる存保とか安宅信康がそれを呑むと思う?
 ともあれこの命令は軍事力に裏打ちされた強制力を持つもので、特に勢力の強い真言宗が狙い撃ちにされた。
 多くの檀家が強制改宗に追い込まれ、人の出入りを禁じられた真言宗諸寺はたちまち消滅の危機に晒されたのだと言う。
 無論、真言宗ほか他宗派は猛反発。大滝山の持明院、大滝寺などは即座に長治に法華宗との宗論を要求、山伏三千人を繰り出し
強訴に及んだ。容れられなければ一戦も辞さない構えである。
 流石の長治もこれを無視することは出来ず、宗論の要求を受け入れた上で妙国寺の開基、日bや経王寺の僧侶らを数多阿波へと招く。
 一方で要求が認められた真言宗側も高野山から円正を招き、いざ両勢力は勝瑞で宗論に挑む!
 ……さて、その肝心の勝敗たるや、これがわからないのが実情である。
 軍記物である『三好別記』等ではこれを真言宗の勝利とする。
 一方で当時の文献で唯一勝瑞宗論に触れた文献である『己行記』によれば、法華宗の勝利とする。
 ただし『己行記』は宗論の当事者である日bの著作によるものであるため、客観的な記述とは言いがたい。
 ちなみにこの日b、後に安土宗論で浄土宗に負けちゃう人だったりもする。
 この後、長治の支配が民心の離反から急速に崩壊し、天正五年には細川真之に滅ぼされる事を思えば法華宗が勝ったのかも知れない。
 この後、法華宗の阿波進出がさして進まずなお真言宗が強勢であったことを思えば、真言宗が勝ったのかも知れない。
 いずれにしてもこの勝瑞宗論、法華騒動の発生を見れば長治が改宗への他宗の強い抵抗を予想できていなかったのだろう。
 備前松田氏といい土気酒井氏といい法華宗はこの手の話が多い気がする。

9 :
四国は大師様が結界をはられたので、他宗は流行らないのですby徳島人

10 :
天正13年7月2日、大阪の羽柴秀吉より伊達政宗の家臣遠藤山城守(基信)にあてた書状より、
本能寺前後の記述を見てみよう。
『(前略)
一・先年明智が謀反を企て、夜討ちによって、今日の信長御親子は御腹を召された。
  不慮のことであり是非もない次第であった。
  その頃私は西国で戦働きをしており、備中において次々と城を攻め崩し、高松の城を取り巻いていたが、
  三方に沼を抱えたこの城は、力攻めでは落とせないとこの秀吉は見てとり、水攻めにすべきと考え
  堤を築き、備中の川は申すに及ばず、備前の川まで流れを変えさせ水を流し、このため高松城は
  大変困難な状況になった。
  ここで後ろ巻き(高松城の救援軍)として毛利輝元、小早川隆景、吉川元春が5万ほどの軍勢で
  罷りでて来たが、我々と四・五町(約500メートル)ほどの間隔を開けて対陣したものの、城の救援は
  極めて難しく、城に近づくことも出来ず、城内の困難さはさらに増して行った。
  この時(6月)4日の巳の刻(午前10時頃)、京都において信長が御腹を召したという注進があった。
  私は6日には高松の城を攻めこれを落城させ、城主は勿論、城内の者たちの首をことごとく刎ねた。
  そして翌7日には毛利・小早川の陣に総攻撃を仕掛けここで討ち果てる覚悟をしていたところ、
  毛利の方から色々と和平を求めてきて、毛利の分国のうち五ヶ国、その上人質も出すと言ってきたので
  仕方なくこれを許してやり、これによって9日には播州姫路まで帰ったのだ。
一・10日に人馬を途切れること無く上方に上らせ、13日に山城国山崎表において一戦し敵を切り崩し、
  明智日向守(光秀)は「言うに及ばず、その他五千ばかりを討ち取った。
  その上で織田家領国の不届き者はことごとく成敗するよう申し付け、御分国の混乱を納めた。
一・そして知行割をし、信長の御子達には勿論、宿老たちに至るまでこれを分け与えた。
  ところが播州姫路にあるこの秀吉が、五畿内の事について意見を申し上げた所、三七殿(織田信孝)、
  柴田修理(勝家)が謀反を企てた。
  私はなんとか平和裏に収めようとしたが、ついにこの秀吉も我慢の限界に達し、近江と越前の境である
  柳瀬に置いて合戦することになったのである。
(後略)』
(斎藤報恩博物館所蔵文書)
しかし高松城を撫で斬りにしたとか、毛利とも決戦しようとしたとか、人質も秀吉と毛利で交換しているのに、
えらい盛りようであるw
秀吉がこの時期のことをどんなふうに世間に喧伝していたか、よく見えてくる書状である。

11 :
>>8>>10も「俺は勝った」と言ったもの勝ち、って感じだなあ

12 :
つまり地黄八幡完全勝利か

13 :
>>8
実際徳島は真言宗ばっかりで、社会科で全国的には他宗派の方が多いと習ってもにわかには信じられないくらいだった
グラフを見ても他県と比べて突出して真言宗が多かった、それでも今の方が昔と比べて他宗派の寺は増えてる
よくまあ実行しようと思ったもんだ…

14 :
>>12
勝った!!!!!!!

15 :
四国八十八カ所、第七十番本山寺。
弘法大師が平城天皇の勅願により大同2年(807年)、一夜にして建立したと伝わる。
本尊は馬頭観音、脇仏は薬師如来と阿弥陀如来。
この寺に、讃岐が長宗我部に蹂躙されていた頃の言い伝えがある。
長宗我部元親が土佐を掌握し、四国平定へ本格的に乗り出した頃のことである。
讃岐本山の本山寺は、二十余りの妨を持つほどの隆盛を極めていた。
そのため讃岐に攻め入った元親は、この寺を本陣にしようと軍を率いて境内に押し入ろうとした。
当時の住職はこれに怒り、「境内には一歩も入れさせぬ」と門前に立ちはだかり、
軍勢を押しとどめようとしたが、哀れ斬り捨てられてしまった。
そのとき内陣厨子の扉が開き、阿弥陀如来の右肘から血が溢れ流れたので、
長宗我部の兵たちは驚き恐れ、一目散に退散したのだという。
この如来像は以来「太刀受けの弥陀」と呼ばれ、現在も右手にその傷が残っているという。
一説には、本堂で斬られかけた住職の身代わりとなってこの如来像が斬られたので、
恐れた長宗我部軍が驚き逃げたのだとも伝わる。
またこの時、腹いせに長宗我部の軍勢が寺に火をかけようとしたのだが、
にわかに蜂の大群が押し寄せてきて、軍勢は一目散に逃げ去ったので
他の寺が多く長宗我部の軍勢によって焼かれたにもかかわらず、本山寺は無事であったのだという。
この後秀吉によって土佐一国に押し込められ、九州攻めで嫡子を失い、
また関ヶ原にて西軍に与したために改易をくらうなど凋落の一途を辿った長宗我部を、
阿波・讃岐・伊予の者達や焼かれた数多の寺社関係者などは
「神仏を蔑ろにした当然の報いである」と噂したそうな。
ヒャッハーしようと思ったら仏罰をくらってしまった、長宗我部元親の悪い話。

16 :
この時代は仏さんも荒っぽいねえ・・・。と思う今日この頃。

17 :
俺の地元の寺にはそれこそ
「御本尊の薬師如来像がその手の薬壺を武器に持ち変え
襲い来る長宗我部兵をばったばったとなぎ倒して寺を守った」
というアグレッシブな伝説があるが
これは薬師如来像と正面から切り結んだ長宗我部兵も相当なもんだと思うw

18 :
GANTZ思い出したわw
仏像相手にとか、トラウマっていうレベルじゃねーw

19 :
>ばったばったとなぎ倒して
えーと、如来様?(汗

20 :
天部に護衛をまかせないアグレッシブ&アクティブな如来様かっこよすぎて惚れる><

21 :
>>17
盛るなんてレベルじゃねーなw

22 :
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2816.html
谷忠澄「仏法のことは、僧に聞きなされ。兵法のことは、武士に聞いてくだされ。
・・・あれ?」

23 :
実は不動明王で中に01が眠ってたんですね!

24 :
キカイダーと書かないと、知ってても気づかないんじゃあ・・・

25 :
イチロー=元親
ジロー=親泰
サブロー=親貞

26 :
応仁の乱以来、非常に治安が悪化したとされる京。その模様を「陰涼軒日録」の延徳元年(1489)の記事より
見てみましょう。

・5月3日
数日前上野玄蕃頭殿が盗人を誅したそうだ。
この者は延念寺の前で傘張りを営んでいたのだが、実は夜盗の頭目だったそうだ。
玄蕃殿は昼間、この家の傘張りを見張っていた。
彼らを捕えるため兵士たちが派遣されたが、この傘張りはこれを見て逃げ出そうとした。
そこで玄蕃殿は素早くこれを斬り、その妻を捕え盗賊の仲間について尋問した。
盗賊の仲間は70人にも及んだという。
・6月12日
上乗院に夜盗が入ったそうだ。その日寺では外で公事の事があり、盗賊の入った時間には
未だそれが終わっておらず、そのため寺に帰って居なかったと言う。
ところで今日の申の刻(午後4時頃)、”天下の夜盗の長”と呼ばれた小河四郎左衛門が、
細川政元の家臣、物部神六(上原元秀)の邸宅で討ち取られたそうだ。
討ち取ったのは神六の被官であったという。
この小河四郎左衛門は応仁の大乱中、浦上美作守(則宗)の被官であった。
これを聞いて洛中は、これに過ぎることが無いほどの歓喜に湧いた。
・6月13日
聞いた話によると先月のはじめごろ、匿名の何者かが京兆(細川政元)の寝所に巻物を投げ込んだそうだ。
そこには、洛中に盗賊が出没していること、その悪事について詳しく記され、「これらを成敗しなければ、
ご当家も滅亡してしまうでしょう」と書かれていたそうだ。
細川政元はこれを家臣の杉原に8枚写させ、波賀部兵庫助(波々伯部盛郷)を召してこれを読ませた。
このために最近は政道謹厳になっているということである。

応仁の乱後の、京の状況についての記録である。

27 :
鬼平犯科帳を見たくなって来た

28 :
【TV】「細川ガラシャを大河ドラマに」 京都府知事と長岡京市長、NHKに要望・・・NHK「真剣に受けとめる」
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1321526044/
毎回貴重な庭師が三歳の餌食に・・・

29 :
あんな荒んだ夫婦をアットホームに描くなんて無理だろ

30 :
いま、長岡京市ってあるのか?
知らなかったわ

31 :
>>28
DVでガラシャの顔面がボコボコで、みーたーなぁーと言われてされた

32 :
>>28
宣教師がなぜか朝鮮人なシナリオになるに一票。

33 :
夫に監禁されたまま一生を終えた妻を大河にするとか、また改竄しまくりそうな大河だな

34 :
なんでこう、見せ場がほとんどない人を大河の主役にしたがるのか
今年の惨状をどうおもってるんだ…

35 :
逸話の多くは後年作られるものですから、つまり大河ドラマもまた
逸話の一形態なんです(キリッ みたいな

36 :
細川忠興が豊前四十万石を治めていた時のこと。早朝、豊前小倉城を訪れる老人があった。
「はい、ごめんなさいよ。忠興殿は居るかな?」
「なんだ爺さん、ウチの殿様になれなれしい・・・・・・げぇっ!黒田のご隠居!!」
「いかにも。忠興殿に、『如水が来た』と取り次いでもらえんかね。」
天下にその知謀を知られた大物の、突然の来訪に細川家中は肝を潰し、城中は大騒ぎになった。
直接もてなす立場であり、数寄者として自他ともに認める忠興は、なおさらである。
「こんな朝早くのお越しだ、朝飯も食っておるまい。そのつもりで、手を尽くして料理いたせ。ぬかるなよ!」
「ははっ!!」
「お待たせしました、如水殿。して、本日の御用向きは?」
「なぁに、用とは他でもない。お前さん、ウチの息子と絶交しておいでじゃな?」
「・・・ええ、まぁ。」
「何とか仲直りして、前のように付き合ってもらえんかの〜?」
「いかに如水殿の仰せでも、そればかりは聞けませぬな。」
「むぅ。では、お前さん方の子の代には仲良くやってもらう、というのはどうかな?」
「うーん・・・いや、我らが死んだ後の子孫の事まで、約束は成りませぬ。」
「ならぬか、ならぬか!じゃあ帰るわ、邪魔したね。」
そう言い捨てた如水は、せっかくの料理にも手を付けず、さっさと帰ってしまったそうな。(旦夕覚書)
子供のケンカに親が出たのか、息子のために小倉城の縄張りを探りに来たのか、いずれにしても親バk(ry

37 :
おまけ
細川忠興の家臣に、忠興の御鷹場で雁を撃ち落した侍がいた。さっそく件の侍は、忠興の前に引き出された。
「わが御留場で、なぜ雁を撃った?そこに直れ!手討ちにしてくれる!!」
「はっ、申し訳ございません!かの雁め、殿の御鷹場にてさんざん遊んだあげく、筑前(黒田領)の方へ
飛び立ったので、憎さのあまりカッとなってやりました!!」
「よし、許す!!」(綿考輯録)
┐(´〜`;)┌

38 :
どんだけ黒田を嫌ってたんだよw

39 :
>>37
主君をよく理解してる良い話ですね(棒

40 :
そこまで嫌われるほどの何をやらかしたんだっけ、分からなくなってきたw

41 :
細川侍ェ…

42 :
>>40
ngmsと後藤マタベの不仲を聞いた三歳様、マタベをヘッドハント。黒田家と細川家、険悪に

黒田家が豊前から筑前に転封した後に細川家が入る。前の領主は前年度の年貢の半分を
置いて行くのが礼儀だが、ngmsは全部持って行く。三歳様激怒。両家断交。

マタベついに出奔。黒田家から追っ手が出るも、細川家の武装集団によって逆に追い返される。
ngms、対抗措置としてマタベを奉公構にする。両家の関係、修復不可に
という訳で片腕的重臣をもぎ取ったり、生活基盤である年貢のことで争ったりなんで
親が出たところで仲直りは無理と思われ

43 :
ほうこう

44 :
奉公構とは、他の大名家に仕官できない様にする事だと思うけど、それって無視出来ないもの?

45 :
>>44
稲富「全然余裕でした」

46 :
奉公構えって豊臣政権時代に作った制度だったような(旧雇用主の許可がないと再就職できない)

47 :
>>46途中送信ニダ
だから奉公構えの無視は秀吉への反抗ととられてもおかしくなくなるとかなんとか

48 :
まあ、稲富さんの話もあるけど結局は大名間の力関係が大きいやろうね。
「こいつを雇ったらお前の所とは絶交だ!!」
「別にいいけどその前に貸してた金返してくんない?」
みたいな感じで

49 :
水野勝成「親父に奉公構されてその後仕えた秀吉から刺客出されるほど激怒させ出奔しましたが、それからも
      佐々成政(滅亡)→小西行長(人で出奔)→加藤清正(人で出奔)→
      黒田長政(船仕事させられて激怒し出奔)→三村親成(人で出奔)→徳川帰参と転職余裕でした(^^)v」

50 :
又兵衛が出奔したのは如水の亡くなった後だけど
長政は関ヶ原の後しばらくは功労第一だ52万石だと調子に乗っていたしな。

51 :
戦国時代は奉公構え出されても有能なら就職先いっぱいあるけど
江戸時代の安定期に奉公構えされた平賀源内は悲惨

52 :
42は順番逆でしょ
年貢問題が先で、又兵衛出奔が後

53 :
まぁ長政はうち面はいいけど外面はすんげー悪いからなぁ
何かあったんだろうな

54 :
>>42
ありがとう・・・w
それでもやっぱり「よし、許す!」で吹くw 似たようなケースはよその家でもあったろうにw

55 :
市松「仲直りできない喧嘩はするもんじゃねえよ」

56 :
つーか年貢問題そんなあっちこっちで起きてんのか

57 :
ぱっと思いつくのは越後から会津に退去する上杉家と後に入る堀家のいざこざだな

58 :
年貢を関ヶ原合戦用に使い果たした後で安芸を福島にもってかれた毛利家。
福島は「ルール通り、年貢戻せよ、敗軍」と威圧的な交渉。
とはいえ、毛利家はTERUが「経営無理ポ」とすでに泣きが入っている状態。
この時、意外な展開が。
毛利家の交渉担当者は酒を飲んでる市松のところで返済猶予を要請。
市松「おし、この大杯を飲み干したら返済を待ってやる」
死ぬ気で飲みまくって毛利家の財政破綻を阻止したこの担当は
酒の飲みすぎで体を壊して死んだそうな。

59 :
市松はそんなんばっかか

60 :
忘年会シーズンも近づいてるし、お酒飲める条件が有る人は飲み過ぎに気を付けましょう

61 :
まとめブログの人がいうように脳筋でも無能でも無いんだろうが、しかしパワハラくさくて嫌だ。
鬼武蔵など四天王に比べると、悪事にも小物臭が漂う。

62 :
ここで「んー?そんな事言ったかなー?酒に酔ってたから記憶ないなあー?」とか言うようなら四天王入りだったろうけどな

63 :
四天王が五人でも違和感ないしな
本来なら五人揃ってこその四天王だし

64 :
でも死んだ人には気の毒だが、条件付きとはいえ取り立てを待ってくれるだけ温情と言えるのでは
一切シカトで断行されたら飢え死にや一村逃散、身売りみたいな悲惨なことが毛利領内で頻発する
市松からしたら悪気はないんだよ。日本号の一件からも約束はちゃんと守る人だし

65 :
毛利も市松相手ってわかってるんだから大酒のみを担当に選べばよかったのになー。

66 :
死ぬ気だったんだから死んでも本望だろうよ

67 :
へー福島と毛利も揉めてたんだ。初耳
しかしどんなときも酒なんだな市松

68 :
>>61
パワハラって・・・
この時代の上司は皆、程度の差こそあれ、
郎党を手打ちにしたり、上意打ち差し向けたりする超ブラック上司ばかりだよ。

69 :
>>68
だから、そういう派手な害とかじゃなくて中途半端にリアル?な嫌がらせだから、
かえって小物臭がして嫌だって話なんじゃないの?

70 :
その担当者、以前に名前がでてなかった?
ここで読んだような気がするけどよく覚えてない

71 :
>>69
でもその小者臭の分だけ市松は人がよくて、そこが一番愛されてるとこだろ

72 :
>>69
なるほど。
だが、酒飲みの心理として、市松には「嫌がらせしている」という意識は微塵もないと思う。
まあ、自分が酒飲みだと、他人も酒飲むと嬉しいものと勘違いするんだよな

73 :
>>70
俺も聞き覚えあったんで「市松 毛利 酒」でググッてみた
こっちは棒引き扱いになってるようなので少しは報われてるのかねぇ…
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3501.html

74 :
自分が大酒を進めてそれが原因で死んだと知ったら激しく後悔しそうなのが素面の市松さん
約束守るし情に厚いし良い人なんだよ、酒さえ入らなければ

75 :
>>72
ああ、確かに市松的にはちょっと一発芸やってみろとかそんな感覚なのかもね
これだから酒の入った市松は

76 :
ああ、もうまとめにあったんだ。
失礼しました。
自分の出典はだいぶ昔のNHKの歴史番組です。
関ヶ原後の毛利家の経営再建の話の一環でした。

77 :
市松「使者さんのくぐっと呑むとこ見てみたい!ムーリは(パパパン )ショーチ(パパパン)そーれそれそれ、それそれそれそれ」

78 :
使者「全て飲み干せば返済を待っていただけるのですね」
市松「おう 考えておいてやるよ」

79 :
本能寺の変後の空白地帯の甲・信を
徳川に取りまとめる際に酒飲み過ぎて、その後ポッくりった人いたけど…
名前が思い出せないw

80 :
>>79
黒鬼パパ岡部正綱

81 :
天正11年(1483)、秀吉の弟、羽柴美濃守秀長と羽柴孫七郎秀次は、伊勢の峰の城攻めをしたが、
城主・滝川義太夫がこれを良く防いで戦った。
織田信雄の家臣・津川玄蕃も同じくこの城を攻め、軍勢を集結させ城の堀際へと寄せてきた。
この時城中から長い柄杓を使って糞尿を汲み、これを寄せ手に向かってかけ散らした。
それから織田上野介信包(信長弟)もこの城に攻めに来たが、この時信包の部隊が城のすぐ近くまで近づき、
こう大声を挙げた
「我らに俳諧の発句あり!城内の人々、歌の心あらばこの脇をつけよ!」
これに城内の誰とも知らぬものが大音で返答した
「お前たちはどうせ、前々から発句を作っておいて、今我々に脇を乞うているのだろう!
それがし、只今とっさに作った狂歌がある!お前たち、これに返歌せよ!」
そして一句
『上野の やき砥は鑓に合わねども 羽柴をしなす峰の城かな』
(上野介程度の敵では我々の手に合わないが仕方がない戦ってやろう。ここは羽柴軍の連中の命を奪う峰の城だ!)
これに信包の家臣たちは返答につまり、ただ城に向かって鉄砲を撃ちかけることしか出来なかった。
(北畠物語


82 :
徳川忠長のお話をしてくれると嬉しいな(`・ω・´)
本当に悪い人だったの?

83 :
駿河城御前試合でも読んでろ

84 :
シ工でも見てろ

85 :
>>82
息子は「長七郎江戸日記」の主人公です>駿河大納言忠長

86 :
>>82
長さん、こんなとこで油売ってないではやく版木刷っとくれよ

87 :
良いか悪いかはともかく、
空気の読めない人ってイメージだな

88 :
>>87
忠TEL「あいつ空気読めないな」
忠NAO「従兄弟ながら恥ずかしいよ」

89 :
家光「忠のつく奴みんなキチ(キリッ

90 :
>>81
>天正11年(1483)
いい話スレでも100年間違っているのがあったけど、はやっているのか
しかし、楠木正成は熱湯を寄せ手にかけていたら、後世糞尿にされちゃって、
「楠は鼻をつまんで下知をなし」とか川柳ができたそうだが
前田慶次の父親ならほんとに糞尿をかけかねない気がする

91 :
HIDE忠「ん?」

92 :
家YASU「天下分け目の戦に遅参とかありえなくね?」

93 :
そこは、流れ的にIE康になるんじゃね?

94 :
熱湯ぶっかけも恐ろしいよね
米に余裕があったら、熱々のおかゆもぶっかけてたんだっけ?
熱い上にドロドロのお粥の粘りで、お湯のようにさらっと流れないのでダメージ倍率ドンとか

95 :
しかもあわてて逃げようとしてもヌルヌルですってんころりん

96 :
>>94
この話でそういう話題がいろいろ出てた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3356.html

97 :
>>96
ごめん これも既出だったね
お詫びに、悪い話でなさそうだけど一つ
慶長九年、街道整備の為に徳川幕府は一里塚を築いた
この街道整備だが、家康主体ではなく、秀忠が中心となって企画・推進したと言われる
『台徳院殿御実記』の巻一にも
「九年二月四日、公(秀忠)の仰として、東海・東山・北陸の三道に一里塚を築かしめらる」
と記されてある
家康が江戸〜京都間の東海道の宿を設定し、伝馬朱印状と伝馬定書を下したのは慶長六年(1601年)正月
秀忠は江戸〜京都を結ぶ、東海道・中山道・北陸街道の三つを一元的に統括し
東西の交通を掌握する必要があると考え、一里塚を築かせることにした
さてこの一里塚、榎がかなり多く植えられている その謎についての逸話
秀忠は一里塚築造の惣奉行、大久保長安に「よい木を植えろ」と命じた所
長安が「えの木を植えろ」と聞き間違えたからだという
でも榎もよい木だから間違っちゃいない

98 :
あ、既出指摘じゃなくて単なる紹介のつもりだったんだけど
それはそうと一休の歌でも冥土の旅の一里塚とかあるけど、
全国的に整備されたのはこれが初めてか

99 :
一里塚ってなんだ?一里ごとに馬を用意しておくのか。

100read 1read
1read 100read
TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼