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2011年11月2期30: 青函連絡船 増2便 (541)
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青函連絡船 増2便
- 1 :10/05/15 〜 最終レス :11/11/20
- 青函連絡船 2便
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1272882034/
何故落ちるorz
- 2 :
- 2げと
- 3 :
- >>1乙
- 4 :
- 今度は沈めるわけにはいかない
- 5 :
- あのスレは洞爺丸だったのかorz
- 6 :
- 沈没対策レス
- 7 :
- >>5
初代スレは空襲、前スレは洞爺丸か…
- 8 :
- 洞爺丸って新鋭船だったんだよね
何年目で沈んだんだっけ
- 9 :
- >>8
1947年竣工だから7年で沈没だな
- 10 :
- >>8
「洞爺丸」の代替船が初代「十和田丸」
- 11 :
- >>7
歴史は繰り返す、と…
- 12 :
- 今度こそは無事に1000までたどり着いてほしい…
- 13 :
- ウマツマヌ
- 14 :
- >>13
時化の時に打つ電文だったっけ?
- 15 :
- >>14
ドウブツツマヌ→カチクツマヌ→ウマツマヌ→ケイバウマツマヌ
時化から凪になっていくと、こういう電報が到着予定の連絡船から打たれたとか
1週間とか函館桟橋で足止めくらった厩務員たちが船長のところに一升瓶持っていって
なんとか乗せてくれと懇願して、許可したら乗せた貨車が全て動物だったということが
あったとかなんとか
- 16 :
- ウマく運んでくれ、と…
- 17 :
- >>16氏
だれうまw 牛を積んだ便では、搾りたての牛がお礼の一部として車輌甲板から乗組員に
届けられたというエピソードがありますよ。
天候が良ければ「ミナツム」の一文が入った電報が打電されていました。
- 18 :
- >>17
ギュウッと搾って来ました、と…
- 19 :
- なんか晩酌中のうちの父ちゃん(戦中生まれ)と喋ってるような駄洒落スレだw
- 20 :
- 保守
- 21 :
- 洞爺丸より余程いいじゃないかw
- 22 :
- ・・−−− −−・・− ・・ ・−・−・ ・−・−− ・・−・ ・・−・− −−−−
- 23 :
- 2便てちみこ?
- 24 :
- >>23
正解
- 25 :
- >>24
てけみ?
- 26 :
- ”2便定時到着見込み”の略
- 27 :
- >>26
へぇ
- 28 :
- テんこう ケいかい うミあわせ
- 29 :
- うちの職場に、青函連絡船の元航海士がおる。
国労でしっかり染められたのか、かなりの活動家だ。
- 30 :
- >>29
よろしい。
- 31 :
- れっこー あんかぁ
- 32 :
- 青森 浪路はるかに
函館 津軽海峡冬景色
- 33 :
- ふと思い出すもの
青森の桟橋待合室の売店に大きく赤字で書かれた「あおもりみやげ」の看板。
- 34 :
-
第六青函丸が戦時中、グラマン機の攻撃によって野内の沖合で座礁した話が痛々しい。
- 35 :
- 本日の1便は八甲田丸です
23時30分乗船開始です
- 36 :
- こちら石狩丸 現在函館港内です
- 37 :
- 本船は七重浜に座礁。10度傾いている。転覆の危険はないが監視頼む。
尚付近に多数の漂流者が、救助を求めているからもよりに連絡の方法ありや。
本船も二名救助した。救助の二名は二等機関士カワカミ。もうひとりは船客アオキタカヨシ。
- 38 :
- 本日接続の北斗8号遅延のため、出港時間を10分延長させます
- 39 :
- 本船テケミ
- 40 :
- 七重浜もコンクリートになって、偲びにくくなったなあ。
- 41 :
- 波8 うねり8で本船難航中
- 42 :
- (⌒Y⌒Y⌒)
/\__/
/ / \
/ / ,,,,,、 ,,,,、ヽ;
(⌒ / ーi" ̄ フ‐! ̄~~|
( (6 `ー‐'、 ,ゝ--''|
( | / "ii" ヽ |
\ ←―→ )/ <我々はFIFAで満足な結果が得られなかった。これは明らかに人種差別である。よって青函トンネルは我が国のミサイル攻撃により韓国と
\____/ 共に火の海と化す!青函連絡船は復活するだろう!喜びたまえ!!!
- 43 :
- サザエボンならぬ、サザエ正日か。
けど台詞最後まで読むと、途中から
頭の中に響く声が完全にムスカになるなwww
- 44 :
- >>33
懐かしすぎる
- 45 :
- >>33
青森桟橋に、インコの小屋があったよね?
- 46 :
- 津軽丸型のエンジン音はドドドド…といったエンジン音かな。
2ストロークのユニフロー掃気式ディーゼルエンジンの大型船なら、ドガンドガンといったエンジンの爆音。
私は船のエンジンの音は主に遊覧船や漁船で聞いている。
出港直後、船尾にはスクリューがかき回す泡が見えますね。
- 47 :
- >>45
そういえば駅側の跨線橋のはじっこに「駅鳥室」ってのがあったね。
- 48 :
- 本日の1便は羊蹄丸
- 49 :
- ウシツマヌ
牛を運ぶのはモー御免だ
- 50 :
- 熊を積まないのでクマった
鹿を積まないのはシカたない
- 51 :
- ウマく運んでくれ、って前書いたっけorz
ネコんでしまいそうだ
- 52 :
- いちばん最初に青函連絡船に乗船するとき、
「あーあ。 3時間50分も窮屈な船室に居なければならないとすればこれ、
相当の難行苦行になるんじゃないか?」と思ったもんだったけど、
いざ「摩周丸」に乗船してみたら、内部は思った以上に広々としていたし、
ゆったりとした船旅が出来たので、窮屈な船旅の覚悟をしていたのは、全くの杞憂だったようでw
…宇高連絡船の物差しで、青函連絡船の乗船をイメージしていたがための難行苦行の予想をしてたわけで。
http://www.youtube.com/watch?v=Y1jwIIOZNzM&feature=channel
※もっとも、函館からの夜行客車列車41レこそは、本当に難行苦行だった1982年7月の夏の思い出ww
- 53 :
- ワレ難航ス
- 54 :
- >>53
コチラモ難航中 貴船モ頑張レ
- 55 :
- >>49
そして積み残された牛が埠頭にギュウギュウ詰めと…
- 56 :
- 青函トンネルの中は、洞窟の中と同様、湿度がかなり高い。
- 57 :
- 津軽丸型になってから
船は持っても私の体は持たない
テケミ
- 58 :
- 青函だけに限らず船で「ようそろ〜」って聞くけどどういう意味?
- 59 :
- >>58
諸説あるようですが、「宜しく候」が縮まり「宜候(ようそろ)」
つまり「そのまま」と言う意味で使われるようになったようです。
参考になりましたでしょうか?
- 60 :
- 1988年頃 夏休みの帰省は列車でした
うえのからお座敷蔵王に乗り山形から特急で秋田に出て
そこから白鳥で青森へ
接続の本便には乗らずに0:30発の増便に乗るのがパターンでした
船内に入ってまず出来立てのシャケ弁を買いまだ冷えてない
自販機からサッポロクラシックを買うとああ、帰ってきたな、と
函館からは札幌行の普通に乗るんすが長万部で1時間半は停車する
天国のようなダイヤでしたわ
- 61 :
- 1便着岸後の函館駅3、4番ホームの自由席車両に走ってくる人の大群は、凄まじいものであった。
- 62 :
- >>59
ありがとう
- 63 :
- >>57
そのエピソードは津軽丸型じゃなくて、
旧石狩か旧檜山か、どっちにしても
洞爺丸台風直後の代替船導入時の話だったと思うぞ?
- 64 :
- >>63
ゴメンゴメン。
重油炊きの最終形の連絡線の事ね。
あれ津軽丸形って言うんじゃないの?
- 65 :
- おれも少し勘違いしてたとこがあるんで(後述)、長くなるけどちょっと整理しとくわ。
よく「津軽丸型」と言うのは、津軽丸U、松前丸U、八甲田丸…っていうグループ。
最後まで働いてた船だし、保存船の八甲田、摩周U、十和田Uがこれなので、
いわゆる「青函連絡船」と言われた時に普通の人が思い出すのはこのタイプ。
ちなみにこれは軽油炊きのディーゼル船ね。
あなたが「重油炊き」というのは、洞爺丸台風後、ボイラー船の燃料を
石炭から重油へ転換した奴の事を言ってるって事でいいのかな?
としたら、客載貨車渡船・貨車渡船、いろいろある中のどのタイプを指してるのだとしても
少なくとも「津軽丸型」ではない。
最終形、というのだから、洞爺丸型4隻か、同時に建造された貨車渡船
あたりの事を言ってるのだろうけど、合ってるかな?
さて。洞爺丸台風後、沈んだ洞爺丸の代船として建造されたのが
初代十和田丸(のちに十和田丸Uの就航で貨車渡船に改造され、石狩丸Uを名乗る)。
さらに貨車渡船(11青函、北見丸)の代替船、檜山丸T、空知丸T。
これらは、青函航路初めてのディーゼルエンジン船で、当然軽油炊きだ。
坂本幸四郎氏の本によれば、重心の高い船は比較的揺れにくく、
重心を低くして復元力を上げた船は、イメージに反してよく揺れるのだそうだ。
(「転覆しにくい≠揺れない」という事)
洞爺丸型などは前者、台風後の代替新船は後者で、みんな戸惑ったとの話だ。
さらにのちの津軽丸型は、船体の大型化もあって、それほど揺れないフネだと
船員からも評価されている(スタビライザ装着船じゃなくてもね)。
つまり、>>57のエピソードは、津軽丸型でも重油炊きのタービン船でもなくて、
この初期ディーゼル船での話だった筈なんだわ。
>>63でおれが「旧石狩か旧檜山」と言ってるのは、ちょっと正確ではない。
「空知Tか檜山T」と言うべきで、さらに厳密を期すなら、
初代「十和田」も加えた3隻のうちのどれかでの話、って事になると思う。
長くなってスマソ
- 66 :
- 青函連絡船にも宇高連絡船みたいに急行便があれば良かったのに
ホバークラフトは津軽海峡の波が荒く難しいが高速艇なら可能かと。
こうすれば特急スーパー白鳥をも怒涛する1時間半〜2時間ほどで結べる。
- 67 :
- どうかねえ。
ほぼ陸奥湾の中しか走らない青森佐井航路でさえ、
前の船の時には、しょっちゅう欠航してたんだぞ。
とくに、速さを売りにしてしまうと、
「欠航で優等に不接」を連発した場合、すぐに客が離れてしまう。
- 68 :
- >>66
青函連絡船廃止後だけど、東日本フェリーのジェットフォイル「ゆにこん」があったね。
函館駅近くから青森駅近くまで運航してて、青函トンネルより快適で好きだったけど、
事業としては厳しかったはず。
漁業への影響の問題とかもあったはず。
- 69 :
- >>68に追加だけど、所要時間は1時間40分だった
だけど、運賃は片道6300円だった・・・
- 70 :
- 連絡船なら18きっぷで乗れたんだよね…すごい差
- 71 :
- >>65
俺は最後まで就航していた津軽丸型のエピソードだと思ってた。
俺も坂本氏の本読んだんだけどな。
- 72 :
- おまえさんたちの探している文章はこれかな?
檜山丸が正解らしいぞ。
昭和三十年九月、新造貨物船の檜山丸と空知丸が就航した。後に、私は
その檜山丸に乗り組んだ。聞いてはいたが、異常に揺れる船であった。
復原性を高めた優秀船とは、そうなる。
その冬、何日も北西の季節風が卓越し、風に加えてうねりが巨大になり、
乗れば時化、乗れば時化、船は三十度を超してガブられ通しだった。
そんな一日、ある船長が「船は持つが私が持たない。テケミ」と
言ったことがある。部下の疲労を思いやってのことであった。
それほどに船は時化に強くなった。
現在就航中の船はさらに大型になる、ただ当時のようには揺れない。
客船には新しく横揺れ防止装置を装備している。
『青函連絡船ものがたり』280頁
- 73 :
- ついでに。
この檜山丸・空知丸(どっちも初代の)は、船員間ではよほど評判が悪かったらしい。
タービンエンジンの静かさに慣れた船員たちにとっては、
振動が激しいディーゼルエンジンは「船内ではペンで字も書けない」と言われて、
とっつけない存在に思われてたようです。
また、>>72で書いたような時化の時の動揺も問題で、
他の連絡船が航行する天候でも、早めにテケミする慣例があったみたいだよ。
坂本さんと同じ通信士OB・金丸大作さんの写真集には、
「津軽丸型は風速28〜33メートルで運行中止が決まることが多かったが
檜山丸などでは20〜25メートルが目安となった」という文章もある。
- 74 :
- とっつけないってのはどこの方言?
- 75 :
- たぶん、江戸言葉ではないかと。
- 76 :
- @Reply>>73
ディーゼルエンジンは大型船用なら、ドガンドガンといった激しい爆音と振動です。
- 77 :
- 著者の坂本さんは函館の人だよ。
- 78 :
- 73です。
「とっつけない」は、私の親(江戸っ子)がよく使う言葉なので
私は自然に使ってしまってますが、理解出来ない人がいるようでしたら
>>75さんの言うように、たぶん東京方言だと思います。
「なじめない」「好きになれない」みたいなニュアンスです。
>>72の一字落とし部分は、坂本さんの著書中から引用させてもらいましたが、
>>73は、後半のカギカッコ内以外については、著書からの引用ではありません。
私がいったん咀嚼して書いた文章ですので、私の文章になります。
ですから、言葉使いについては、坂本さんが函館出身である事とは
まったく関係ありません。
>>77さんが、そういう言葉も含めて、坂本さんの著書からの引用と
誤解されているようですので、一応念のために。
- 79 :
- もう9月半ばか。
青函航路最期の日、そして運命の26日も近づいてきた。
- 80 :
- 運命の日、1954年9月26日も日曜日だったってさ。今年と同じなんだな。
- 81 :
- 昨日まで来ていた台風は11号(ファナピ)
洞爺丸台風は15号(マリー)
「マリー」という名称は「青函連絡船物語」の章で『悪魔マリー』というのがあって印象に残っている。
- 82 :
- 普通船室の座席も、鉄道車両用のものよりも背ずりの傾きが大きくとられていたような印象がある。
- 83 :
- 56年前の今頃、洞爺丸は台風の風波をもろにうけていたのだろう・・。
- 84 :
- 発電機と配電盤にカンバスをかけろ!
オール・ワッチ!
- 85 :
- 七重浜の慰霊碑、函館山の職員殉難碑ではお参りが行なわれたのでしょうね。
- 86 :
- 黙祷
- 87 :
- >>85
年々、慰霊行事等の規模は小さくなってると聞く。
当時の若手職員だってもう80歳前後だからね・・・
- 88 :
- 今年は、洞爺丸の生き残り乗組員だった老コックさんが、函館大妻高校にて
調理科の生徒達の協力も得ながら腕を振るい、洞爺丸食堂のメニューを再現
して、ポークチャップやエビフライを慰霊食事会の料理として出したそうだ。
関係者多数が食事をした後、その老コックが涙ぐみながら、当時の思い出を
語っていたという。これからも事故のことを忘れないで欲しいと・・・
- 89 :
- >>88
確か船乗りは2組の交代勤務だったんですよね?
沈没したときに乗っておられたんでしょうか?それとも運よく当日
乗り合わせなかった組なんでしょうかね?
たとえ自分が非番の時でも自分の職場がそんな形で無くなるなんて悲しいですね。
- 90 :
- 「洞爺丸転覆の謎」にお名前が出てますね。
亡くなった同僚5人の方と勤務中に遭難したそうです。
- 91 :
- そういえば初代津軽丸は米軍の空襲で沈んでるはずだが、今も海中にそのまま?
- 92 :
- >>90
船員側で生き残ったのはそのコック氏と、あと2等ウテシの2人だけか。
- 93 :
- いや、たしか20人近くは生き残ってたはず。
給仕が複数生き残って、船室の様子を伝えてるんだし、
六真盛に救助された最初の2名のうちの1人が、川上二等機関士だったし、
とりあえず2人って事はない。
- 94 :
- 「1名は船客アオキ もう1名は二等機関士カワカミ」を聞いて
坂本通信士は洞爺丸の沈没を確信する…んでしたよね。
- 95 :
- >>91
沈んでいるよ。俺の祖父は当時コックをしていて3日間漂流した。
- 96 :
- 八甲田から乗り換えるとたまに囚人の護送集団が乗船してた。
縄でつながれた老受刑者のこちらを見る瞳が哀れだったのを今でも思い出す。
- 97 :
- >>95
港内沈船みたいに障害にならなければ、放棄されたままなのか…。
岸に近目なら流れがあるし、意外と埋もれてない気がするな。
- 98 :
- 「青函連絡船は連絡船または接続列車の指定券をお持ちの方が優先
乗船になります」
とあるものの、昭和五十年代後半からはそんなに連絡線が混雑した
経験があまりないんだが。五十年前後はすごかったらしいが。
旅行の本には連絡船に乗ると座敷席に大の字になってスペース確保
しろとは書いてあったが、実際、座敷なんかはかなり余裕があったし。
- 99 :
- 俺、修学旅行で内地に行くとき、お袋に「青森に着く直前は
甲板に出たらだめだよ、服がススで真っ黒になるからね」と
念を押された…
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