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2011年12月1期日本史37: 庄屋VS下級武士 (152)
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庄屋VS下級武士
- 1 :11/10/20 〜 最終レス :11/12/03
- あお庄屋様が奉公人風情の下級武士と、庄屋の格の違いを圧倒的に見せつけます。
下級武士程度が庄屋にたてつくなんて千年早い!!
- 2 :
- あほ庄屋様
- 3 :
- 曾祖父が、「徳川の時代なら、うちは庄屋だぞ!」と酔うと良くいってたんですが……。
庄屋さまって、何してたんですか?(´・ω・`)
それは本当なようで、実家に県とか大学の調査チームが入ったこともあるんだけど、
いまいちようわかりません。ちなみに場所は栃木南部。
水戸黄門だと、悪いことして黄門様に叱られるか、娘をお代官様にとられるかしか知らない。
- 4 :
- >>1
なにはともあれさんくす!!
現実の序列は圧倒的に庄屋であった現実を啓蒙していきます
- 5 :
- お庄屋様、早く出てきてくだせえまし。
- 6 :
- http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%BF%A0%E5%BA%83
これは戦国大大名肥後五十万石の熊本城主、加藤庄屋様であるが、
その中にこう書かれています。
↓
>>家臣のうち希望した6人が庄内藩に召抱えられ、その子孫は幕末まで庄内藩に仕えたという。
さあ。そこでだ。5000石の庄屋になられた肥後五十万石熊本城主、加藤庄屋様であらされるが、
なぜ、武士にならなかったのですか?家臣はみな省内藩の中級武士になっています。
皆さんが言うように、武士になることこそが絶対的価値観だったというのならば、
なぜ、殿様である加藤家は、武士にならず、家臣の希望するもののみを藩士にさせ、自身は庄屋のままだったのですか?
加藤家が庄内藩に藩士になること願い出れば、たやすく上士になれたはずを、なぜでしょうか?
他にも改易大名家で江戸初期、庄屋になられた旧大名家も存在しますが、
やはり家臣は藩士に志願させてますが、自身の家は庄屋のままの旧大名家が多く存在します。なぜ?
下級武士程度でも武士になることが絶対だという皆さんの意見お聞かせください。
- 7 :
- >>6
加藤氏は改易されたから庄内藩がそれを召し抱えたら幕府に反抗した事になります。
その家来筋を召し抱える事はさほど問題有りません。謀反人明智光秀の重臣の娘が
将軍家光の母になってるんですから。
- 8 :
- 加藤忠広はは庄内藩に預けられたまま赦されずに亡くなり、加藤家は
断絶した。子孫の庄屋とは娘の嫁ぎ先だ。清正の家が庄屋になったのではない。
- 9 :
- YO!!足軽どもww
>>7>>8のこの話が二転三転する足軽特有の庄屋蔑みwww
でだ、清正が庄屋になったわけでもなくゆかりもないなら、
なおさらなんで5000国も拝領されるほど藩や幕府から気を使われてた加藤家は、
家臣を藩士にさせ、自身は上士にならなかった?
ほら、いってみろ足軽w
- 10 :
- 五千石の庄屋なんてあるわけねえだろw
- 11 :
-
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%BF%A0%E5%BA%83
>>5000石相当の大庄屋、加藤与治左衛門(または与一左衛門ともいう)家として存続し、明治年間に屋敷へ明治天皇が行幸する栄誉に浴している。
- 12 :
- 出典がウィキwww
だから五千石の庄屋なんてありえねえってのwww
- 13 :
- だからそのなかったという根拠示せよwww
http://edononagori.fan.coocan.jp/sagarahan275.html
大庄屋の大鐘家:柴田家の家臣で後に家康に仕える。
江戸初期から中期までは3000石の旗本
- 14 :
- だから五千石だ、三千石だっつうのは旗本とか藩預りとしての禄高や捨て扶持料じゃんよw
百姓が禄五千石なんて絶対にありえんよ。
何度も言わせんなアフォッタレw
- 15 :
- >>14
だから加藤家が旗本預かり地5000石の庄屋という意味だxsつたというのを示せよw
何度も岩センナやww
- 16 :
- なんだ預り地の庄屋じゃんw
- 17 :
- あ庄屋さま、病院から帰ってきて絶好調なようですね♪
- 18 :
- 村落の自立性が高いのが日本史の特徴
信長も家康も中央集権じゃなかった
5000石の庄屋がいても不思議ではない
- 19 :
- だからそれだと五千石の禄高を持つ庄屋って意味じゃないんだっての。
預り地である村々の総石高が五千石ということ。
そこの代表百姓=庄屋っていうこと。
「合わせて五千石」の村々の中には庄屋以外にも普通に本百姓がいっぱいいる。
庄屋=領主ではないんだから。
- 20 :
- ↑
馬鹿なの?w
- 21 :
- >>9
wikipediaの記事をちゃんと読め!!家臣を藩士にさせたのは改易された加藤忠弘。その男系子孫は
断絶している。女系は庄屋様に嫁に行った。庄屋様に藩士にするような家来などいる筈もない。
- 22 :
- 庄屋さまの知能では理解できないのも仕方がないw
- 23 :
- >>21
で?www
女系ですら庄屋に嫁に来たといってるんだよww
大名家の女系は下級武士などの嫁に来る筈もない。
- 24 :
- >>21 失礼だが、どこに庄屋様に嫁にいったと書いてあるの?
- 25 :
- 足軽よりも下の庄屋さまに嫁に行かされたんだねw
お可哀想にw
- 26 :
- >>24
正確には娘の子孫と書いてあって、娘が嫁に行ったとは書いて無いな。
『女子某の子孫は5000石相当の大庄屋、加藤与治左衛門(または与一左衛門ともいう)家として存続し、
明治年間に屋敷へ明治天皇が行幸する栄誉に浴している。』
>>23
改易された時点で「大名家の女系」では無い。
- 27 :
- >>25
これで明らかだろ?
江戸初期大名家は庄屋には嫁に行った。
江戸初期、下級武士程度よりはるかに、旧武家の再就職先もしくは、
旧武家層の体面を保持するために庄屋を置いたということが。
間違っても肥後五十万石の大名家の女子が下級武士足軽なぞに
間違っても嫁にいく分けない。が、庄屋にはいった。
これがすべてだよwすべて物語ってるだろ江戸初期の。
- 28 :
- >>26
この大ほら吹きwwww
>>wikipediaの記事をちゃんと読め!!
>>wikipediaの記事をちゃんと読め!!
>>wikipediaの記事をちゃんと読め!!
たいそうご立派な台詞ぶちこんでくれるのー大将!!ww
お前がちゃんと読めよ低学歴ww
で、改易された時点で大名家ではない女子でも、その末裔は下級武士になってないだろww
どこに足軽下級武士の類になったと書いてあるんだよほら吹き低脳w
- 29 :
- だから禄五千石の意味ではないっての
>>19をちゃんと読めよw
ったくウィキをソースにして勝ち誇ったような気になる馬鹿の相手は疲れるわw
- 30 :
- 俺はもう疲れたから止めたよ。
- 31 :
- >>29
で?だからなんだってんだよ?ww
庄内藩内の五千石相当の村々の大庄屋という意味だが、それをさっきからなんだってんだよ?ww
で、具体的に庄屋はこの五千石相当の村々の権益税収を上乗せして独り占めできるわけだ。極端に言って。
でお前は藩主とは別物といったが、具体的に藩主と、これら何十か村も治める大庄屋とまるでかけ離れた権益、もしくは権者であるというのことを、
俺に具体的に論じてくれないか?
いいか?藩主と大庄屋、属性が違うのはわかってるんだぞ?しかし、国税的村の取扱、徴収税のあり方、それによる内部留保等
あんたは別物だといったわけだが、何が違うのか、論じてくれよ。
いったい、庄屋と藩で何が違うのか。
- 32 :
- 失敬、領主=庄屋じゃないといったよな?
属性ならともかく、石高が五千石じゃなくとも、五千石相当の村々収める大庄屋と、
五千石相当の領主。
何が税制や徴収、運用にまるで違うというのか論じてくれよ。
- 33 :
- あ庄屋さまはお相手を見つけて大興奮でございます♪
- 34 :
- うちは大庄屋だから貧乏侍よりはマシだな
- 35 :
- ま、清正なんて元百姓だしな。
百姓→大名→百姓
と大乱高下でしたね。
- 36 :
- >>35
おっと、大名家を百章呼ばわりする前に、だったらそれらに使える下級武士は百章どころか、
野盗、小作等ではないという根拠あるの?
江戸期の大半がこのような下克上で成り上がった大名だらけの中で、
それらに使えてた下級武士という末端が、一体全体、野党、小作でなかったという根拠を教えてくれませんか?w
下級武士足軽こそ、百章上がりどころか、キングオブ流れ者でしょw
本百章のほうがどれほど信用に値するか。
- 37 :
- そもそも徳川家直参の御家人自体、伊賀衆や雑賀衆だとはっきりしてるのに、
どうしてさらにその末端のいち大名程度のまたさらに末端の下級武士足軽は
これら御家人の忍者足軽用兵よりましな家計がほとんどだといえるの?
その根拠はなに?必の源氏の末裔という言われですか?wswwwww
- 38 :
- 名主でも穢多・非人・皮多・藤内・なんかの頭は財力も権力も
相当あったらしいから きっとそれらの子孫だよ
- 39 :
- 末端の将軍に仕える末端の大名に仕える末端の足軽に仕えるその最末端が庄屋www
- 40 :
- 親のお小遣いでアキバ通いしてるニートのあ庄屋さまなんだから許してあげてね♪
- 41 :
- お庄屋さま、早く出て来てくだせえまし。
- 42 :
- あ庄屋さまは現在治療中でございます。
- 43 :
- 時国家は?
- 44 :
- 庄屋も色々だよ
村で適当に廻してたりもしたよ
- 45 :
- >>44
言い返せなくなると、黄身みたいなこという人多いけどさ、もう下士だと庄屋より格下だと認めてるんだろ?w
だって、そんなの武士どころか旗本も御家人も、はたまた大名までいろいろだよ。
そもそも下士程度で江戸初期より代々続いてるいえなんて全体のほんの何パーだよwww
で、何で庄屋だけ、すぐ極端な例外を上げつろう?w
- 46 :
- ttp://www.hm10.aitai.ne.jp/~naitin/sisonn.htm 馬場家
ttp://www.chikumanishiki.com/history/index.html 原家
ttp://www.geocities.jp/akitasaisei/sonota/matimoto/baba.html 板垣家
ttp://www4.ocn.ne.jp/~naka-vil/midokoro/sawasyougen/sawasyougen.html 澤家
みんな庄屋、あとは旗本。
で、どう説明するの?w武田24将クラスが旗本と庄屋しかいない。
で、下級武士は庄屋より上だったと、現代の価値観で妄信するのはいいが、
現実にこうやって名門は結果が出てるんだよ。どうなのよ?ね?w
- 47 :
- >>46
例を挙げるのに、偽作系図っぽいところばかりを選ぶ理由がわからない
- 48 :
- 下級武士なんて庄屋様の使用人してやりするんじゃねーの?
- 49 :
- 名主より庄屋がメジャーなの?
- 50 :
- >>47
家計図詐欺なら本家江戸大名、その過信たちのほうがお手の物だろww
だったら高家以外で江戸審判譜代大名家で家計図詐欺してない武家上げてみろよww
数家以外いってみな?www
- 51 :
- >>50
審判譜代大名家ってナニ?
- 52 :
- >>51
え?
- 53 :
- >>51
脳タリンじゃないなら、感じが少し間違えてもわかるんだからはよ、
本来の武家層で家計図詐欺してない武家上げてみろ高家以外でww
下士は論外なwwww
二言目には源氏の末裔という「言われ」が代々伝わってるとか寝言ばかりいうからwwwwww
まったく傭兵雑稼党の集団は源氏の末裔という言われがあるのが一般的だそうだからwww
- 54 :
- それから、一人でいいから、まっとうな室町旧武家の末裔の下級武士上げてくれないか?ww
一人でもいいからいるの?www
庄屋なら腐るほどいるぞwww
- 55 :
- >>47
家系図云々より、これだけの屋敷、これだけの格を与えたのは当時の幕藩なわけで、
信憑性を疑っても当時の幕藩が武田家重臣と認めたが故の屋敷と格だから仕方がないだろう
- 56 :
- Idないスレはやりにくいな
- 57 :
- とりあえず下級武士が純然たる武士に属する証拠などなにひとつないじゃん
ださないしさwwだせないんだろうが。
いくらでも、庄屋が当時の下級武士より立場も格も屋敷も身分も圧倒的に格上だったという証拠出せるぞ私はww
いくらでもなww
時代劇の世界からじゃ想像もできないんだろうがww
下級武士など、そもそもの藩事態が武士と認めてないのに。
- 58 :
- 郷士の中には家柄最強のもいるよ
- 59 :
- だから、郷士も庄屋も属性は基本一緒だろ。
庄屋にも家柄最強いるよ。旧大名家の庄屋もゴロゴロいるしな。
で、相反する下級武士にはいるのかと聞いているんだよww
たった一人でもいいからいるのかよ?w
由緒正しい雑賀党やら、伊賀黄河衆以外にさw
見たことも聞いたこともないんだが?
- 60 :
- >>59
家柄最強の在郷武士といえば多田院御家人・多田郷士かな
この人達みたいな立場の郷士は日本史唯一だから、この話題にてきしているかわわからんが。
ちなみに俺51と別の人だから
- 61 :
- 《鎌倉御家人庄屋》
http://www.oct-net.ne.jp/~miyuki32/rekisi/souran.htm
●大友家没落後の稙田
@稙田主要所は府内領となる。
新領主・・・福原直孝府内領主 12万石
A稙田荘宗方郷 名家 安東家7代当主 貞吉は太閤検地に竿役(責任者)をつとめる。
B領主 福原直孝の任官勧進を貞吉は辞退し、野に伏し帰農の民となる。安東氏にならい多くの武士が百姓に帰す。
C安東貞吉、宗方郷の庄屋となる。(実質名主)
豊後方・・・・・大野泰基(神角寺)、阿南惟家(高崎山城)、阿南家親(鶴ヶ城)
鎌倉方・・・・・古庄重直、安東常輝、稙田有綱
※この阿南家のち庄屋
748 :旧武家[sage]:2011/09/09(金) 15:36:46.51
http://dayzi.com/zisyo/y-isshikitou.html (名門一式家)
◎江戸時代の一色党(伊予)・・・一色右馬三郎の末裔
・一色右馬三郎重之の子重勝は、文禄二年(1593)村の長(郡代官)になりました。
・その長男重次は周布三谷の庄屋になりました。
・次男重直が三津屋の庄屋になりました。
・重次の長男重政は、慶長十九年十月(1614)大阪冬の陣に三津屋港から
軍平二百余人とともに出陣しましたが摂津国尼崎で25歳をもって戦死しました。
さらに源氏の正統名門一式家は
・次男重昌は、周布村一色大庄屋お祖となりました。
・三津屋村庄屋は、三男の重行が継いで大庄屋になりました。
・彼の五男重好(新兵衛範好)は、明理川村の入庄屋になり、貞享元年(1689)には高橋氏に代って壬生川村の入庄屋になり貞享三年から大庄屋になりました。
・明理川の方は、彼の次男が継ぐことになって、一色家は四ヶ村の庄屋を勤めて繁栄しました。
- 62 :
- >>61
59?
- 63 :
- http://www.e-obs.com/heo/heodata/n121.htm
大友氏の旧重臣を1000石庄屋に任命
名門武家竹田津氏http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takedatu.html
統直の死後、あとをついだ子の永行は竹田津村の庄屋に任ぜられ後世に家系を伝えた。
http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/syoudenn01.html
佐竹家旧臣
山寺館主遠藤壱岐守勝高の嫡男。
官途名雅楽頭。
二階堂四天王。元服して左馬助勝久と名乗り、その後前田川村に移り庄屋
後北条家の旧臣、清水隼人介 →本陣庄屋
http://homepage3.nifty.com/y-masae/heisei_22/07aikoukai/hyousi/02obara/obara.html
旧柴田家重臣 大鐘家 →3000石庄屋
http://special.mapion.co.jp/local/datespot/info/1603/
超名門源氏の正統の足利一門上野氏の三代 上野頼兼の次男 上野直兼を祖とする豊後上野氏→ 以後庄屋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E6%B0%8F
旧大名家庄屋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91%E6%B0%8F
>>帰農した旧田村家中は敗北感を持たず、
>>腹で武勇に富み、各々家門を称して「御屋形様」と呼ばれた。
>>彼らはその高い誇りゆえに、新領主の蒲生氏や上杉氏の武威の前にも容易には下らず、
>>家中の士を軽んずる風さえを呈した。
>>そこで新領主は旧田村家中を 【庄屋】 に任じ、
>>身分を在郷の士分として扱い懐柔した。
>>そのため、彼らは在地の実力者として大いに権勢を誇ったという。
- 64 :
- 戦国大名肥後五十万石加藤家 → のち、「5000石」庄屋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%BF%A0%E5%BA%83
(他にも庄内藩内に本間家等1000石超える旧武家庄屋多数。)
大名田村家改易後の家中 →庄屋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91%E6%B0%8F
戦国大名益子家 滅亡後庄屋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E5%AD%90%E6%B0%8F
- 65 :
- いい?
いくらでも名門旧武家庄屋あげろというなら、このスレガ潰れるまで挙げてやるよwww
で、下級武士とやらは、一家でもいいからいるのかよリアル旧名門武家の下級武士ってwww
必の源氏の末裔という言われだすなよな?wwwwww
一式家や阿南家、安東家はリアル鎌倉御家人の末裔だぞww
- 66 :
- >>65
多田院御家人は?
- 67 :
- >>66
何がいいたいのかわからないんだけど?
郷士は庄屋と属性は一緒の在郷の旧武家だろ。
郷士=庄屋だろ
- 68 :
- >>67
そうか
- 69 :
- いい?私が言ってるのは、城下で長屋に暮らす江戸下克上大名家直参の家臣団の末端の徒のなんちゃって武士のことを言ってるのですよ。
これら下級武士という輩は、武士とは名ばかりの大名家お目見え以下の長屋住まいの癖に、
何かと庄屋を見下し馬鹿にしくさっている。
その根拠は時代劇wwwwwwwww
現実は、江戸初期、庄屋は名門室町旧武家層の天下り職として庄屋を置いた。
かたや、雑賀党や伊賀衆根来衆等、土地を持たない傭兵集団の下克上の成れの果てが下級武士なのに、
何を勘違いしたか、下級武士は庄屋より格が上だと勘違いしてる
いい?このありえないほどのおお間違えの一般化した常識を事実とは無根だとはっきりしたいのですよ。
- 70 :
- 江戸期、徳川は、この庄屋が下士をたたき切ったり、まったく言うこと聞かなかったり、
はたまた年貢を徴収しに下士が行った際、たたき切ったり追い返したりしてたという文献が九州の大名家にはごろごろ残ってるんだよ。
さらには、下士どころか、藩命にまで背いて旧武家庄屋は一揆三昧だったともかかれてる。
いい?だから徳川は、江戸期末端の非常勤程度の平にまで、庄屋は逆らうことを禁じた。
わかる?下士が武士的性格を帯びさせてもらえた背景は、下士自身の功績ではなく、
庄屋があまりにも力持ち過ぎていたために、幕藩体制の秩序の観点から一律底上げさせてもらえたんだろ。
下士が武士的性格を帯びられたのもすべて、庄屋のおかげなんですよ。
いい?庄屋が江戸中期以降没落したのも、庄屋が力持ち捨て、藩にたてつきすぎた結果の自業自得であって、
下級武士は武士としての権利権限は有してないものの、武士としての性格を帯びられたのも、
これら庄屋に江戸初期、たたき切られてたからこそ、武士的性格もてたんですよ?
庄屋のすべておかげでしょ。
で、なんで下級武士程度が庄屋より格が上になるのか....
おかしすぎるとわかるでしょ?
- 71 :
- 江戸初期の庄屋の一例
( 江戸初期の岡藩 )
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n332.htm
↓
〈旧在地領主層を庄屋に任命〉
>>大分県下における近世大名は、すべて他国から入部してきた大名である。この大名が領主として領民を支配し、
>>年貢などを納入させることは、当初かなりの困難が伴った。
>>例えば、 中川氏 は文禄3年(1594)に 岡藩主 として入部したが、
>>入部の行列が 大友氏 の浪人の集団に襲われたり(赤岩合戦)、領内の村々に古年貢帳の差し出しを命じた際も、
>>磔(はりつけ)木を持参するという強行手段を構じなければ提出させられなかったりしたのである。
>>このような困難な状況を打開するために近世大名がとった方法は、旧在地領主層を庄屋に登用し、特権を与えるという懐柔策であった。
>>岡藩 の場合、各村に庄屋を任命し、それを統轄し 郡奉行 と庄屋とのパイプ役として千石庄屋を任命している。
>> 千石庄屋 の名称は、1,000〜1,500石を統轄範囲単位として1人ずつ任命されていることによる。そして、これらの庄屋層には在地領主時代からの特権の一部を認めていたのである。
>>また、 杵築藩 では各 手永(てなが) ごとに 大庄屋 を配置していたが、この大庄屋は士分に準ずる取り扱いをうけていた。
>>>>>>>>>このように諸藩では、旧在地領主層との妥協の上に藩政をスタ−トさせたのである。
- 72 :
- ↓
↓
>>71の続き
いいか?岡藩家中の重臣家老クラスですら500石が最高クラスで数人しかいないのに、
在地旧武家層には1000石を二十数人に与えてるんだぞ?
ドンだけ庄屋に気を使ってるんだよ?
たかが百章なのか?
下級武士程度がしゃしゃり出てくるレベルと格が違いすぐるんだよwww
庄屋は大名家とさし争えてるんだよ?わかる?
きちんと書いてあるだろ?旧在地領主層を庄屋に任命し特権を与え、
さらには旧大名家が庄屋に妥協したと!!
で、下級武士が、江戸大名家から妥協してもらった特権言ってみなよ!!wwww
格が違うんだよw
- 73 :
- あ庄屋さま、きょうは朝までネット生活でござるな。
- 74 :
- >>73
いやーもう結論が出てしまったw・・・・
庄屋が下士ごときより格下になったのは、>>71にも書いてあるとおり、
庄屋の力が絶大であったため、島原の乱以降、徳川の都合により、江戸中期以降足軽以下と対面上せざるを得なかった。
ただそれだけのこと。だからこそ、屋敷から門構えから装束から何から何まで庄屋が立派過ぎるという矛盾があるということ。
これが結論。
「江戸初期、江戸下克上大名家が恐れおののき、室町旧武家層に妥協して特権を与えた職種こそ庄屋だったということ。」
なにもはんろんできないでしょう。下級武士という雑賀衆、伊賀衆、足軽の成れの果てとレベルが違うんだということ。
結論を出してしまった...................
- 75 :
- 下級武士で室町武家層?の家系って、つまり
守護(国主)→分家(城主)→さらに分家(家老格)→さらに分家(奉行格)→さらに分家(無役)→
みたいなパターンなんじゃね?
- 76 :
- >>75
そのパターンもありえないですね。一億パーセント。
江戸初期、下士の雑兵と、上士の騎馬格ははっきり線引きされてた。
仮に、家老格が分家を繰り返し無益の分家が成立しても、中士の末端どまりで、
下士扱いされることはまずない。
下士が下士たる武士とは名ばかりの所以は、元は雑賀党や野党、足軽の雑兵だということから、
上士と超えることのない壁出へ立たされてる。
だからお目見え以下の家中なのです。ですので基本原則そのようにまで、分家を無秩序に繰り返しても、
下士になることなどありません。
下士と同程度の生活水準はいたでしょうが。
- 77 :
- 江戸時代の城主が帰農して庄屋になるケースは多いし、そういった有力農民層が
財政手腕を買われて勘定方の下役になるケースは多い。
- 78 :
- えらい誤記だな。
×江戸時代の城主が帰農して
○戦国時代の城主が帰農して
- 79 :
-
【ネットに暗躍する反日工作員にご注意ください。】
・日本人同士を争わせて敵国への意識を逸らす
・日本人同士を争わせて疑心暗鬼に陥らせる
・マスコミを使って侵略国の文化を刷り込む
・くだらない放送を繰り返し国民から思考力を奪う
・不満や劣等感を煽るような、国の暗い未来を主張して国民の意欲を削る
・過剰な平和、平等を訴えて闘争心を削ぐ
工作員はそれが仕事だから昼夜を問わずしつこく繰り返して来ますが乗せられないように注意しましょう。
「民間防衛」に見る、乗っ取り戦争の手口
http://www.youtube.com/watch?v=tUuxd4ESpsc&feature=uploademail
- 80 :
- あ庄屋さま、本日も絶好調でござるな。
- 81 :
- あ庄屋さまはただいま長グソでござる。
- 82 :
- あ庄屋さまは若殿さまと太刀比べをなさっています
- 83 :
- 414 :地震雷火事名無し(香川県):2011/11/11(金) 07:37:23.23 ID:cFyCdIxu0
ふと気になったのだけど、緊急自然災害板の各都道府県スレッドを見てみると
どこも同じようにツーマンセルで荒らしているのがいるね
なんだろう、この現象
415 :地震雷火事名無し(兵庫県):2011/11/11(金) 07:43:19.63 ID:1AAl7FsH0
>>414 ツーマンセル? ググると、2人組 ですか。
2人組もいるし、2人組のふりをしたのも居るのですね
スルーされるのが寂しい人なのか、いわゆる工作員の新戦略なのか・・
春夏に比べれば、東西の罵り合いも減ったし、何より、推進派・安全厨が何を言おうと
世間が、事実を認識するようになった分、連帯感もあるし ひるまなくなったよね
416 :地震雷火事名無し(香川県):2011/11/11(金) 07:51:35.74 ID:cFyCdIxu0
>>415
そうです。ちょっと前は特定の一人だったけど、最近は特定の二人で延々書き込みを続けてスレッドを流している
特徴的なのが相手にレッテルを貼って互いに攻撃し合うこと
震災前から他の板でも時々見かけた現象なんだけど、なんだろうね
- 84 :
- ていうか江戸時代以前の名主庄屋っていわゆる地侍でしょ
それが仕官できた奴が正規の武士に ならなかった連中が帰農した
それでまだ戦国の遺風が残る江戸時代初期の帰農した地侍階級と
仕官して侍になった連中のうち 下級の連中と対比しても意味がない
ただ身分差は現存してるから庄屋は足軽クラスでも手打ちに出来なかった
それは確かよね
- 85 :
- >>84
おこたえしましょう。
いいですか?まず地侍層が武士になっても上級武士になってるということ。
地侍庄屋層 → 上士 がようは江戸上士です。
しかし
地侍庄屋層 → 下士 なんて一切存在しないということ。
理由ですか?そんなの簡単です。
江戸初期、上士層からその後帰農して庄屋や豪農といったものは江戸期に入ってもそれなりにいます。
元の鞘に戻ったのでしょう。
そして、上でも述べた要に庄屋層は江戸初期、唯一、一揆を起こせるほどの在地での絶大な力を誇示しています。
で、下級武士層は下克上の賜物の癖に、なぜ庄屋のような反乱すら一切なかったのでしょうか?
もし、地侍庄屋層が下士になだれ込んでいた属性なら、必ずあれだけひどい待遇の下級武士であることに絶えかね、
反乱、もしくは一揆が必ず起きていたはずです。
しかし、下級武士の属性は、元は地侍庄屋そうではなく、在地もなければ土地すらなかった野党、根来衆、足軽といった属性だったからこそ、
下士から庄屋に帰農できるものなどおらず、あれだけの過酷な福利厚生であっても、
元が在地のない傭兵を生業としてた足軽ですから、不平不満など出るはずもない。
だから、庄屋層からは一揆三昧なのに、下克上なのに、下士から一揆などなく、
庄屋層が江戸期に入っても下克上ならぬ合戦を繰り広げていた。
- 86 :
- >>84
いい?下士は仕官したのではなく、足軽傭兵たちが、在地を持たないため、
食い扶持として下士としてあの過酷な福利厚生でも甘んじなければ生きていけなかったものたちの
あくまで、食い扶持として下士しか選択枠がなかったからが故の下級武士ということ。
庄屋そうのように、上士になるか、それとも武士という側面を捨てても、在地であらゆる権限特権の保証の元で、
zそのまま在地領主層でいきていくか、という選択の元でのものではないということ
現代的価値観の新撰組的な武士観は江戸初期ありえないといってるんです。
といっても案の定新撰組も豪農層の次男三男の食い扶持に困らないものですが、
さらに土方家は後北条家の重臣にも名が残ってる家の末裔ですよ。
結局、地侍庄屋層がまた幕末も旗本寄り合いにまで上り詰めちゃってる遠いう落ちですけどねwww
あの下克上の幕末ですら下士なんてなってないでしょww
- 87 :
- バカらしい
- 88 :
- >>87
その証拠に、
江戸初期まで庄屋層は新興大名家相手に合戦繰り広げてますが、
中期以降、足軽下士程度よりも一律逆らうことを禁ずとされても、
その足軽下士は、屋敷や待遇は江戸初期より上がったのですか?
なんら江戸初期より福利厚生屋敷などほとんど変わりないでしょ。
下士足軽の地位が向上したわけではなく、
庄屋の江戸初期以前の>>71のような1000石庄屋のような極端に力を誇示してる庄屋層を
対面上押さえ込むための施策であって、
下士足軽の立場が一切上がったわけじゃないにもかかわらず、
対面上は庄屋が下肢以下になってるんですから、一目瞭然で、
当時の幕府や藩の意図がうかがえるはずですよ。
にもかかわらず、下士が上と誇ることがいかに真意と逆行する低脳まるだしかというのがわかるでしょ理論敵にいわれれば?
- 89 :
- 庄屋の屋敷跡
http://blog.livedoor.jp/naturococo/archives/1668006.html
http://livedoor.2.blogimg.jp/naturococo/imgs/c/2/c21c2a62.jpg
http://travel.jp.msn.com/domestic_guide/B15000280.html
http://www.kamoltd.co.jp/kakegawa/kamoso.htm
もう、屋敷見れば、こんな屋敷住んでるの、大名家か寄合以上の旗本と庄屋しかいないんだから
もういい加減わかるだろうよw。
封建とは序列の比例した権利を得られた社会を封建と歴史用語で定義してるんだよ。
大名旗本レベルだとわかるだろ庄屋は。
http://park2.wakwak.com/~do2000/mjinu.html
- 90 :
- 庄屋VS足軽にしろよ
- 91 :
- >>89
あ庄屋さん
庄屋が下級武士を手打ちにした実例を出してください
- 92 :
- あ庄屋様が銀座のマンション一戸と北海道の農家の自宅を比較して何か仰せです
- 93 :
- >大名旗本レベルだとわかるだろ庄屋は。
庄屋は武士としては中の下のお代官様にぺこぺこする存在。大藩であれば代官でもそれなりの屋敷に住んでるし。
あと、リンクのうち3つは庄屋より格上の大庄屋屋敷だろう。
- 94 :
- どうでもいい
- 95 :
- 大庄屋はたいてい士分準士分だろ?
- 96 :
- 足利一門上野氏が庄屋になったとか。
どんな扱いなんだろうな?
- 97 :
- 実家が庄屋だが武士に貸し付けた詳細が書かれた貸付台帳がある。
なかには苗字からして名門と分かる武士も
武士は相当逼迫してたことが分かる。
実家に甲冑数十あるのも担保かなんかなのかな
とりあえず、隣の村まで他人の土地踏まずに行けたらしい。
- 98 :
- >なかには苗字からして名門と分かる武士も
名門の一族がみな名門なわけじゃない。普通に松平が浪人だったりする。長沢松平とか。
>実家に甲冑数十あるのも担保かなんかなのかな
質屋でもやってたんじゃね。
- 99 :
- 今回のあ庄屋さまのは長いな。
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