2011年12月1期日本史16: 「日本」の呼称、最古の例が中国で発見。678年の墓 (70)
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「日本」の呼称、最古の例が中国で発見。678年の墓
- 1 :11/10/23 〜 最終レス :11/12/03
- 中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、
「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の
作と考えられるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の
大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物なら
さらにさかのぼることになる。
中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は
吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。
祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。
884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。
百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう)の
戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘●(●は
口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に
閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の
将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。
http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html
上の方に「日本」の文字が見える。「最古の日本」の可能性が高い
=「社会科学戦線」7月号、王連竜氏の論文「百済人祢軍墓誌考論」から
http://www.asahi.com/culture/update/1023/images/TKY201110220633.jpg
- 2 :
- 2
- 3 :
- 別にこの記事の時代に、もう日本の国号使って居ても、別段驚かないけどね。
小野妹子が隋に持っていった、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」のいわゆる聖徳太子の国書が607年で、隋からの答礼使裴世清に持たせた返書「東天皇敬白西皇帝」がその2年後だし。
東=日の本なんて、古代人においては普通の発想でしか無い。
- 4 :
- 君は何を言っとるのかね。
同時代の記録として出てきたことに意味があるわけ。
>「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
これのどこに「日本」と書いてあるのかね。
>東=日の本なんて、古代人においては普通の発想でしか無い。
倭人が日本と言い出したのは7〜8世紀のはずであるが、
君は、倭の人々は古代から自分たちの国のことを日本と呼んでいたというのかね。
- 5 :
- 日本語の理解出来ない奴だねぇ。もう少し頭使ってちゃんと読めよ
- 6 :
- 中国の記事
http://www.baidu.com/s?wd=%C8%D5%B1%BE+678%A1%A1%C4%B9%D5I&rsv_bp=0&rsv_spt=3&n=2&inputT=687
- 7 :
- また意外なとこから出てきたね。
白村江の敗戦のショックでわずか15年の間に大急ぎで改名したんだろうな。
- 8 :
- 全文をみないで思いつきかきこだが・・・・
「日本餘●(●は へんに焦) 拠扶桑以逋誅」の日本って「国号」というより
もっとくだけた異民族の俗称が入りそうな文脈なんだが。
白村江の戦いの後、あわてて国号をたてて、その直後に旧敵国側の人間が
日本の立場を尊重して日本の新国号を御丁寧につかってくれそうな文脈じゃない。
ひょっとすると「日本」というのが当時の倭国への蔑称とまではいかなくても
俗称だった可能性があるのでは?
で、倭国政府は大陸や半島での「日本」とい「倭」の俗称を何らかの誤解の下に
正式国号としてしまったのでは?
- 9 :
- 日本餘噍拠扶桑以逋誅
この墓碑の全文、または全面写真てないかね?
簡体字でもいいんだけど。
- 10 :
- 「天皇」に関しては天寿国周長があるから、この時期に使われていてもそんなに驚かないんだけど
「日本」というのは意外だったな。
- 11 :
- >>8
墓の主が百済の人間だからこっそりと日本に義理立てした可能性も無くはない。
墓誌は埋めてしまうから役人の目に触れる危険も無いだろう。
- 12 :
- 日本餘噍拠扶桑以逋誅
日本は餘噍、扶桑に拠し、以って誅を逋れる。
日本は生き残り、扶桑(大海の中)に拠し、以って誅を逃れる。
この10文字だけで読めば、こんなところかな。
- 13 :
- >>11
ああ。旧百済の人間として、百済を援助してくれた倭が海の向こうで「日本」とか名乗って健在なのを内心喜んでいる、
てな文脈なのかなあ。
どのみち朝日の記事だけじゃ何もわからないや。
- 14 :
- ひょっとすると日本に亡命した百済貴族が、唐に帰服したこの墓主に対して縁故を辿って
天武政府の依頼を受けて、「今度"日本"という新国号にしました。この新しい名前で唐との外交関係を改善できないか
瀬踏みしてくれませんか?」とか働きかけていたのかも。
いかん。もう小説の世界だなあ(w。
- 15 :
- 「日本の餘噍、扶桑に拠り、以て逋誅せり」と読む。
「日本国の残余兵は、国内の東方に逃亡した」という意味。
扶桑(ふそう)とは日本の東域(正確には関東方面)のこと。
- 16 :
- >>15
そうかい。知ったふりの、いいいい加減説・断言氏。
●扶桑(ちゃんと調べてみたよ)
原義は、東海の日の出るところにあるという巨大な神木。
転じて、東方海上にある島国。扶桑・扶桑国は、日本の異称ともなった。
- 17 :
- >>16
調べたら何でも分かると思っちゃいかんぞ。
扶桑というのは、語義がまだ不安定な言葉だからな。
- 18 :
- >>17
日本人がいう扶桑じゃないぜ。
日本国内純正仕様解釈ではなく、
「7世紀の中国人」が扶桑といったら何の意味があるかの問題だ。
この文章では、「大海の中の島」という意味で使われているのは明白だ。
わるあがきをするな。
それにしてもどうだっていいことで衒学をするもんだな。
なーにが、「日本の餘噍、扶桑に拠り、以て逋誅せり」と読むだ。
俺の翻訳のほうがよっぽど分かりやすいだろが。しゃらくさい
- 19 :
- >>15
噍は「噛む」という意味のやうですが。
- 20 :
- >>19
漢字というものは複数の意味をもつ。
文意・文脈から、どの意味を採用するかが解読というものだ。
漢字のもつ別の意味を提示したからと、それがどうした。
そこまでやるならば、
きみが提示した意味で解読した文章を提示してみ。
議論のイロハから教えなくちゃならんのかい?
- 21 :
- >>20
>漢字というものは複数の意味をもつ。
噍に敗残兵に類する意味があるとのソースがあればありがたい。
「この文はこういう意味だろうから、
この漢字にはこういう意味もあるはずだ」なんて思い込みはナシで。
- 22 :
- 扶桑=日本、の意味となったのは、平安・鎌倉時代以降だろうな
- 23 :
- 伊作が絡むと、どこでも品が落ちる
- 24 :
- 「日下(くさか)」とは関係ないの?
- 25 :
- いつから「倭」の国が「和」の国になったの?
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1313686331/
- 26 :
- >>10
天皇号の方が先に成立しているでしょう。
近頃はまた、そう言われているのでは?
結局、昔から言われているとおりだったのでしょう。
- 27 :
- >>24
それは枕詞に由来すると考えられている。
- 28 :
- >>21
>噍に敗残兵に類する意味があるとのソースがあれば………
「敗残兵」などという意味があるとは書いていない。「生き残った」だ。
「余噍」をどう解釈するか。
ほかに解釈の仕方があればそれを出すのが意見交換、討論というものだ。
- 29 :
- 日本ぐらいは使っててもおかしくないんじゃないか?
日の本の国→日本だろ
おまいらも「お彼岸」ぐらいは知ってるだろうが、あれは「むこう岸」という意味だ
つまり「ひノもとノくに」とは半島倭人からすると、日本海を見ながら「むこう側の本国」=『ひの本の国』だということ
和語の音に当てる漢字を倭→和と改めたように、「ヒに日をあてた」ってわけだよ
さっき思いついたんだけど、一瞬でもナットクしそうになった方は挙手を願いますw
- 30 :
- >>29
ノシ
レスを考えながら読んで損したw
- 31 :
- >>5
そんなに悔しかったのかね。
- 32 :
- 国内向けに使われていたのかな?
中国向けには倭国でさ
- 33 :
- >>32
ちがう
中国向けに「倭」だったのを中国向けに「日本」に変更したってこと。
国内ではヤマトのままでかわりない。
- 34 :
- 墓碑の全面写真見たけど、
扶桑の「扶」の部分は欠けてるみたいだなあ。
扶桑とは読めんぞ。
- 35 :
- 670年が近江令、日本建国の年だと思う。
- 36 :
- >>35
たかが法律だろ
なんで日本がなかった
ことになるんだよ
- 37 :
- 禰軍は665年、唐の使者として倭国に来た。
日本書紀にしっかり出ている。
- 38 :
- 新羅の記録では、倭が日本になったのは670年。
禰軍は672年まで新羅にいた。
- 39 :
- 倭→日本改名は674年3月と見る。
- 40 :
- 天武天皇3(674)年3月、対馬で銀が採れたが、これは「倭国で初めて」のことだと日本書紀は記している。
この「倭国」は狭義の「倭国」=奈良県でなく、明らかに対馬を含む広義の「倭国」=「大倭国」であるので
この時はまだ「日本国」でなく「倭国」だったが、
この事件を契機に「倭国」は「日本国」に変わったのではないか。
根拠は三つ。
@天武天皇4(675)年1月に奈良県を「倭」でなく「大倭」と記した記事が現れる。
狭義の「倭国」=奈良県を「大倭」と記した例は宣化天皇以前に数例しかない。
これは広義の「倭国」の国名変更を暗示している。
A天武天皇3年は、前後の年に比べて極端に記事が少ない。
「日本」を神代に遡らせるため、国名変更の記事を省略したか。
B天武天皇4年は祝賀ムードが高まり、新羅の王子忠元や耽羅(済州島)の王姑如が日本に来ている。
ここで両国に国名変更を伝えたのだろう。
- 41 :
- ていうか、倭も日本もやまと。
飛鳥と明日香(あすか)
平城と奈良(なら)
長谷と泊瀬(はつせ)
みたいなもんで、基本的には新しい表記法が増えたということ。
まあ確かに奈良時代以降、対外的にも日本全国としての国名を「日本」としている節はあるけど、
一方で称徳天皇の詔や万葉集など、奈良県のやまとのことを「日本」と表記している例もある。
- 42 :
- 701年に対馬で金が採れた(実は嘘だったらしいが)とき
途絶えていた元号を復活させて「大宝」と改元。
その後元号は途絶えることなく「平成」に至る。
674年の銀も、全ての神々に捧げ全ての官吏に配るという大騒ぎなのに
改元記事が無い。
国号変更したなら、黄金のジパング=ジャパン=ジッポン=日本の出発点か。
- 43 :
- 「新羅」⇒「しらぎ」
「百済」⇒「くだら」
「任那」⇒「みまな」
「白村江の戦い」⇒「はくすきのえのたたかい」
でも今の中学生や高校生の教科書には
「新羅」⇒「しんら」
「百済」⇒「ひゃくさい」
「任那」⇒「伽耶諸国(かやしょこく)」
「白村江の戦い」⇒「はくそんこうのたたかい」
に成っている件について…。
これも朝鮮人どもの影響だろうか…??
- 44 :
- 前の読みの方がコリア語に近いのにねw
- 45 :
- まぁ百済をどうやってもくだらとは読まないのは確かだから別に良いけどね。
百済観音とかもひゃくさいかんのんと読む人が増えて話が通じないとかなりそうだな。
- 46 :
- 新羅→シルラ
百済→ペクチェ
高句麗→コグリョ
任那→イムナ
コリア語だとこうだったっけ?
- 47 :
- 倭から日本ってのは、白村江の敗戦のあとに
王朝交代があったかのようにみせたかったのではないかな
隋から唐に変わったみたくさ
- 48 :
- コリア語は新羅語がもと
日本語は高句麗語に近いらしい
- 49 :
- 「新羅」は「シラギ」、「百済」は「クダラ」、「任那」は「ミマナ」なのに、
なぜ「高句麗」は「コマ」じゃなくて「コウクリ」なの?
- 50 :
- 慣用かな?
ただ、たしか日本書紀とか六国史に「高句麗」は出て来ないよ。
「高麗」と表記し「コマ」と訓んでるはず。
- 51 :
- >>50
山梨には巨摩(こま)っていう地域があるんだけど、高麗からの渡来人が住んでいたから「こま」って読むんだよ
って中学で習った。
- 52 :
- >>43
任那の件はともかく(これはかなりクロ)白村江は
向こうの息がかかっているのならそっち読みすると思われ
- 53 :
- 【歴史】百済滅亡後の渡来難民が古代「倭国」を「日本」に変えた★2[11/21]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1321889143/1-4
- 54 :
- 天武は673年、耽羅の使者に革命宣言してる。
- 55 :
- 耽羅からの渡来人の坂上田村麻呂を多賀城に遣わし、蝦夷を討ったのだろう?
- 56 :
- 済州島は今は韓国だが
意外に日本と縁が深い。
- 57 :
- >>43
「しらぎ」とか「くだら」ってのは、あくまでも
倭国側での読み方で
当時、彼らが何というふうに
自分たちの国名を読んでいたのか、分からんのだよ。
漢字というのは、時代によって、音韻が絶えず変化するからね。
- 58 :
- >>48
日本語は倭語だよ、普通に。
高句麗語ってのは、高句麗の王族が扶余だったから
扶余語だろうね、おそらく。
だとしたら、高句麗語ってのは、女真語の祖語に近いと思われ。
- 59 :
- >>55
坂上田村麻呂は、東漢氏だろう?たしか。
だから、応神天皇時代前後くらいに、
日本に移民してきた出自をもつ豪族だよ。
- 60 :
- 田村麻呂は東北をいじめた日本国の将軍。
- 61 :
- >>43
それ本当なのか?
百済を、くだらと読まなくなってるわけか。
教師は在日韓国系が多いから
むかしはくだらを誇ってたのに
自分達は滅ぼした側だと気づいたら、とたんにくだらを消しにかかる。
屑野郎。
- 62 :
- >教師は在日韓国系が多いから
ソースきぼん
- 63 :
- >>57
「シルラ」「ペクチャ」が正しい。それが一番近い。
- 64 :
- >>63
それって今現在の韓国語読みだろ。
日本が何を持って「くだら」「しらぎ」という
仮名を振っていたかがよく分からんが。
音読みとも韓国語読みとも違うんだよね。
- 65 :
- 「失われた言語」とかって解釈すると胸熱
- 66 :
- >>62
思想と思考があちらの人って意味じゃ?
- 67 :
- 「しらぎ」「くだら」と読むよりも「シルラ」「ペクチャ」と読むほうが原音に近い。
「日本」は「イルボン」が歴史的には正しい。
- 68 :
- >>61
さすがに邪推。それだとしらぎ→しんらの説明がつかんぜよ。
>>64
百済語かも?
- 69 :
- 百済語なら韓国語だから「ペクチャ」に近い発音だったはずだ。「くだら」ではありえない。
とにかく韓国の人が嫌う読みはやめよう。
- 70 :11/12/03
- ウィキペディア
高句麗語
中国史料の記述によれば、扶余・東沃沮・ワイ・百済(支配層)の各言語とは同系とされ、
中国東北部から朝鮮半島北部にかけて夫余系諸語ともいうべき言語グループを形成していたらしい。
この言語グループは沿海州のユウ婁とは、「容貌は似ているが言語は異なる」と『後漢書』や『三国志』に記されている。
また、朝鮮半島南部に広がっていた韓系諸語(馬韓・弁韓・辰韓ら古三韓の言語。
後の百済の被支配層の言語や、朝鮮語の直系の祖語にあたる新羅語もこのグループに属する)
とも言語的な異同が著しかったようである。
再構された高句麗語語彙と周辺言語との比較の結果、高句麗語は中期朝鮮語よりも上代日本語との方が、
類似語が見出される割合が大きいという研究もある。
また日本語は、高句麗語で判明している数詞4つすべてにおいて日本語との間で一定の音韻的共通性が認められるとして、
日本語の起源として考える研究者も存在する。
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17: スレ立て依頼スレ (3)
18: 【安土城】天下人の黄金大天守【大坂城】 (483)
19: 日本史板住人がWikipediaを弄るスレPART15 (519)
20: 岡山の礎を 築いた三宅氏を語ろう (6)
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