2011年12月1期創価・公明15: 日蓮ってver.21 (43) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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日蓮ってver.21


1 :11/11/26 〜 最終レス :11/12/06
日蓮ってver.20
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1309092933/
「日蓮って」過去ログ
http://hyakkimaru.nukenin.jp/
 創価学会の教義と日蓮仏法について、真面目に語るスレッドです。
 創価学会員側の論客大歓迎です。
 他スレで教義について議論になったら当スレへ誘導してください。
 コテハン推奨。sage推奨。「荒らし」は無視で。
 スレが荒れる原因になりますので、野次、暴言、挑発、嘲笑、語尾のwwwはNGです。
 スレ違いの話題もほどほどに。
 初心者の方も教義についての質問があればお気軽に書きこんでください。

2 :
大正新脩大藏經テキストデータベース
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php
日蓮宗現代宗教研究所 文献資料
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/bunken.htm
興門所伝考
http://lupinus.org/naohito/
佛教再考
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/
富士門流信徒の掲示板
http://jbbs.livedoor.jp/study/364/
創価学会教学基礎情報
http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/index.html
宮田幸一のホームページ
http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/index.html

3 :
前スレより転載する。
801
名無しさん@お腹いっぱい。 ↓ 2011/11/26 (土) 23:56:50.02 ID:eLGfWsRy
>>798
揚げ足取りみたいなやり取りをするなら、以後は答えない。
正しい教えを広めるのは、当然人や世を救うためである。
>そのように思想の高低を論じる割に、何か言われると何の客観性もない功徳の有無を重視する。
・信仰するものが求めるものは、信仰する生命に得・功徳があるかどうかである。
当然、そこには主観的なものと客観的なものとの両方がある。(例外はあるぞ。)
また、何の客観性もないというのは、あなたの主観的意見に過ぎない。
・正しい思想にのっとれば、正しい結果(得・功徳)を得ることができる。
だから、思想の高低はその信仰の質を表すものであり重要。
>恋人
恋する相手が創価学会員なら、それをひっくるめて愛すか学会からやめさせようと働きかけるか別れるかは、こちら側(俺じゃないぞw)の判断。
最終決定するのは当人。
可哀そうでもなんでもない。

4 :
中国人の天台チギ大師の論説を鵜呑みにした坊さんである。
チギの五時教判を基調にした教論を広めようとした。
明治以降の近代仏教の研究成果により五時教判は誤りであるとされた。
これは学ぶべき事実として確定されている。
目いっぱいおまけした所で真説ならぬ仮説だったのである。
それにもかかわらずいまだに五時教判を布教しているのが創価学会だ。
仏教なら嘘を言ってまで布教してはいけないと思うが如何か。
八歳の童子すらあっさりとわかる理屈なのである。

5 :
歴史に仮定は許されないのだが言わせて貰う。
<日蓮が仏教の歴史年表、義務教育版を一覧したならば>
である。
五時教判は明確な誤りだと認めた事だろう。
つまり南無妙法蓮華経と日蓮は唱えたか?
しなかったというのが本当だろうと思う。
 知らないで済ませた という事は現代人には犯罪である。
ギリギリ江戸時代までは、間違いではなかったのが未だしもの
救いであろう。

6 :
>>3
前スレの798です。
>揚げ足取りみたいなやり取りをするなら、以後は答えない。
>正しい教えを広めるのは、当然人や世を救うためである。
そうであれば言う順番は逆になるはずでしょう。
正しい宗教の力が絶大で、あなたやあなたの周囲の学会員が本当に救われているという実感があるのであれば、
教科書に書いてあるような答え方をしないのではないかと私は思います。
>また、何の客観性もないというのは、あなたの主観的意見に過ぎない。
私は当事者ではありませんから功徳について主観的ということは有り得ません。
また、客観性とは当事者以外のどの人が見てもそうだと確認できることを言います。
>可哀そうでもなんでもない。
思想に高低があり自己の思想が最も正しいという考え方の持ち主と思想を異にして結婚することは、
結婚相手に思想面で一生見下されて生きることを意味しますが、
相手から愛を大義名分にそのような一生を押し付けられることは私は可哀想だと思います。
次に続く

7 :
>正しい思想にのっとれば、正しい結果(得・功徳)を得ることができる。
創価学会の教判の第一である内外相対に照らして
創価学会の教義は外道に該当します。
以下にそのことを説明します。
創価学会のHPにある内道についての説明にはこうあります。
 >仏教(内道)では、人間の内面に変革の可能性があることを洞察し、
 >今世の行いによって、苦悩を安心へ、不幸を幸福へと転換できることを説きます。
この人間の内面にある変革の可能性とは、要するに成仏の可能性のことですが、
富士派、創価学会の教義では人間誰しもが持つものではありません。
その変革の可能性の要たる仏種は正しい仏法を信奉する彼らが下種することによってしか衆生には発生しないのです。
たとえ菩薩のような振る舞いを重ねたところで正しい日蓮仏法に縁しなければ成仏はあり得ないと説きます。
このような不平等な教義の根幹は本未有善というものに由来しています。
これが富士派、創価学会の独善性、選民主義的性格の原因の一つと言えるでしょう。
富士派、創価学会は自己の因果を神などの自己の外に求めるものを外道だと規定しています。
しかし、富士派、創価学会が言うように成仏の可能性が元々の自己の中には無く、
他者から植えつけられなければ持つことができないのであれば、富士派、創価学会の教義もまた外道という他ないでしょう。
富士派、創価学会の思想・教義はこのように自己矛盾しており、選民主義的な差別思想です。
ですから正しい思想とは言えないでしょう。
また、元々同じ思想を持ちながら大石寺と創価学会が袂を分かったことからも
>正しい思想にのっとれば、正しい結果(得・功徳)を得ることができる。
に反していると言えるでしょう。

8 :
>正しい教えを広めるのは、当然人や世を救うためである。
以上のことから創価学会が折伏をしなければいけないと考える理由はこう考えられます。
あなたは前スレでこのように言いました。
>なお、折伏は必要なこと。
>何故なら、正しい教えを人に積極的に教えなければ、その正しい教えは弘まっていかないからだ。
何故、その正しい教えは弘まらないのか、という疑問が脱落しています。
それはあなた方の中に、正しい教えは絶対に自然発生しないという根拠のない前提があるからです。
成仏の可能性を創価学会員にしか認めていないからです。
だから間違った宗教を折伏し、全ての人々に下種しなければいけないと考えるわけでしょう。
結局のところ、創価学会が折伏するのは人々や世の中を救うためなどではなく、
むしろ人々や世の中を尊敬していないからです。
何の根拠も無く人々に仏種がないと断じ、正しい教え・思想の自然発生の可能性も認めない。
それは何故か。
創価学会員が自分達だけが常に正しいという幻想に浸り続けるためです。
そのために折伏しているのです。
これを揚げ足取りと取りたいなら好きになさい。
言葉一つ大事にできないなら題目の五字七字も大事ではないのでしょう。

9 :
チギは自爆スイッチを内部に仕掛け、
中共は外からミサイルを打ち込む。
中国人は日本人とはまた違うダイナミックな仏教破壊大作戦をやってくれるな。

10 :
センセーに生まれ変わりだと嘘をつかれたかわいそうな鎌倉時代の僧侶

11 :
捏造経典を命懸けで持ち帰った人達ほどじゃない。
こちらは残酷すぎる。笑い話にもできない。

12 :
>>11
天平の甍はイイ話だけどなー・・
それに比べて仏教の漢文原稿を読んだこともなく、
知ったかのうそ八百講釈をへたくそな文章の手紙に
えんえんと書き連ね、他人のワルクチも言い続け、
世の中にゴマンとある悲惨な出来事を見れば、
それは謗法の罪だとあざ笑い、
雨乞いの祈祷がうまくいかないのを見ればザマーミロと言い、
日照りに苦しむ庶民の姿をなによりも喜ぶ。
自分を信じて死んだ信者に対しては、おまえらは
猫に食べられるネズミ、鷹にくわれるキジだから
ガマンしろと冷たく突き放し、逆に自分が首を切られそうに
なると首切られる首切られると連呼して、こんな理不尽が
あってよいものかと怒ります。
もし自分の考えに異論があって質問されると、
ギャー!!! とヒステリーを起こし、おまえらは無間地獄に堕ちるぞ
と当たらない予言をかならずやり、質問には決して答えず、
別の人あての手紙につじつまの合わないアヤしげな屁理屈をならべ、
でも自分は法論に勝った勝ったと大騒ぎします。
小さな子供がば、他宗に帰依した罰だと喜び、
身延の寺に来た貧乏人の庶民はすべて追っ払い、
図に乗って自分の母親ほどの年のうすぎたない老婆も
門前払いし、でもその老婆の実家がじつは金持ちで、
多くの贈り物が届けられると、手のひらを返したような
態度で、歯の浮くような美辞麗句を書き連ねた手紙を送りつける。
わたしはそんな人にはなりたくないわー・・・

13 :
御書を何度も読んだが、題目をたくさんあげると功徳がある、という
言葉は、どこにも見つからなかった。
法華経に対する「信仰心」を強くすることが、最も大切だと書いて
あった。

14 :
>>12
ご存知かもしれませんが、ネタとして、このHPも面白いですよ。
ヒップホップで学ぶ日蓮
http://d.hatena.ne.jp/Halalneet/20091109/1257784704

15 :
「律蔵」で検索してみると、ゴータマ在世時と思しき彼の弟子達の実に下劣な行状の事例を見ることができます。
生首の口でーに興じた、など正気を疑う事例が少なくありません。
仏教などただのカルトではなかったのかと疑問に感じます。
現代の仏教徒は現代の哲学や科学に従って合理的に生きる人だと言う人もいましたが、私はそうは思いません。
元より仏教徒には戒律が課せられています。それを破れば、最も重い処罰は教団追放、破門です。
それがゴータマが弟子に課した条件であり、それを忘れて仏教徒を名乗る資格はないでしょう。
ゴータマの教えばかりに目が行きがちですが、ゴータマは見解・教義では救われないと説いているのですから、
教えとはつまり解脱・悟りを開くためのアドバイスでしかありません。
むしろ生活スタイルを規定する戒律のほうが主であり、教えが従であると見るべきです。
悟りが言語化されているとすれば見解で救われないとする彼の言葉と矛盾するからです。
中村元がゴータマは実践哲学者であると言いましたが、
カラマ・スッタに見られるように確かにゴータマには実用主義的な側面が見られます。
ですから彼が人々に出家を勧めた理由も、生産活動によって業を作り出さないため等の
観念からくるものだとは私は思いません。
ゴータマ自身の苦行を諦めた後、成道するまでの生活を弟子達にトレースさせるため、
そしてそれ以外の余計な行為をさせないための出家ではないかと思うのです。
大乗仏教徒は菩薩行と言いますが、ゴータマやその弟子はむしろ在家に食べさせてもらっていた方ですから
菩薩行という自覚があったかは疑問です。
仏教徒は生産活動を禁じられていますから乞食が成功しなければ餓死するでしょう。
餓死を避けるためには盗み食いをしなければならないでしょうが、そうすれば戒律に背くことになります。
布施が常識の時代とはいえ、常に食料があったとは限りません。
おそらく甘いものではなかったことでしょう。
当時のインド以外でこのようなことは実現不可能でありますが、
このような生活スタイルでなければ仏教ではないのではないかと私は思います。
結局、仏教は変質して世界宗教となりましたが、オリジナルは単なる土着宗教に過ぎなかった、
というのが私なりの結論です。

16 :
>>4-5・・・
五時教判のネタ元は涅槃経でしょ、
もし五時が一番エラいという主張なら、
最高経典は天台大師がお好きな涅槃経になるはずだけど、
法華経はたまたま五時のオマケってだけで、
天台大師も涅槃経には仏性の記述があり、
法華経にはそれが省略されている
シロート経典 (方便用) って言ってるわけだし、
いつのまにか経典名すりかわってて、
なんだかインチキくさい話ですよねー・・。

17 :
ついでだから久々に法華文句ながめてみたけど・・
(次難其依涅槃五味判五時教)
その理由というのは、それが涅槃経の五味のたとえに依って
五つの時の教えに分類されていることです。
※五時の元ネタは涅槃経とある
(若五時明教。得五味方便之文
而失一道眞實之意。雖得其文配對失旨)
もし五つの時に分類された経典がその教えを明らかにするのなら、
それは五つの違った味わいの解説文を得ることであり、
その結果本当に意図された、たった一つの真意が失われてしまい、
それぞれの文章が意図するところは得られても、
ほんものの趣旨は失われてしまうのです。
※文章はすべて仮の説明である方便だと言ってます、
もちろん法華経もその例に漏れず、ただの方便です。
(牛若食者即得醍醐。正直純一。故不論五味。
若無差別中作差別者。約名字即乃至究竟即。判五味相生也)
牛が草を食べるように無心なものは即座によく発酵した
ヨーグルトを味わうことが出来るでしょう。真っすぐで混じりけがなく、
そのために五つの味を論じることもありません。
もしまったく区別のない世界の中にあるビミョーな違いを
みわける者がいれば、あっというまに分かれた元のものを
理解し、究極の場所に行き着くことでしょう。
五つの味のちがいを理解するとは、そういうやり方なのです。
※五味は段階でもレベルでなく、たったひとつの仏という
概念をあらわすいろんな表現のちがいに過ぎなくて、
五つのオイシイ味とでも・・・

18 :
天台大師の基本スタンスは中国禅思想や維摩経・般若経
あたりとほぼいっしょで、こんなカンジと思う。
1. その抽象概念 (感覚でもある) は文字や言葉では
  正確に表現できません
2. だからすべての経典はそのなにかを示す仮の
  もので優劣や区別はないのです。
まっ、仏教史に名をのこしてとーぜんの一人の巨人
ですな。それにくらべて念仏のワルクチ言いたい
ために 「ご飯にと砂利を混ぜて食う 」 みたいな
センスゼロのおばか文章しか書けないブタ坊主が
自分は天台大師を超えた、とかほざいてるわけで・・・

19 :
>>16
4-5ではありませんが、智が涅槃経を最勝としたならば涅槃宗に下ったことになってしまいます。
しかし事実は涅槃宗は天台宗に吸収されているのです。
智は八教説を立てましたが、法華経のみを八教に含まれぬ超八醍醐と位置づけています。
また、五時説では酥に華厳経を配していますが、涅槃経の依文では酥は十二部経であり、
醍醐をあえて法華経に配したのと同様の牽強付会が見られます。
涅槃経の依文をあえて曲げて解釈したのも智と見るのが妥当ではないでしょうか。
そもそも華厳経には成道後21日間の間にはまだ登場するはずのない精舎や弟子達が記述されているのです。
まったく意味が分かりません。
現代の文献学に拠らずとも、大乗非仏説を論じなくても、
五時説には元よりなんら説得力がないと思います。

20 :
>>19
それでは智の教判が他の教判を圧等し現在も影響力を持っている理由は
2chにカキコしている素人>超エリート集団
になる。

21 :
>>20
日本語になっていませんね。
まったく意味が分かりません。

22 :
>>21
> 2chにカキコしている素人>超エリート集団

素人にも論破できる智の教判は知的階級の僧侶や指導者に受容された。

23 :
>>22
私は事実しか書いていません。
一つ注意しなければならないのは、
現代人の我々には教判など必要ないことが分かっていますが、
智の時代の人間には教判が必要だと考えられていたということです。
つまり、智の教判を否定するためには彼の教判の矛盾を指摘するだけでは足らず、
対案を示す必要があっただろうということです。
さらに、その正しさを証明するためには単に論理的であるだけでなく、
当人に宗教者としてのそれなりの風格が備えられてなければいけませんし、
しっかりとした行法も確立していなければ宗教として無意味でした。
また最勝とする経典をどのように優れた解釈をするかも重要な点だったでしょう。
そもそも数多の経典をゴータマの直説とした上で完全な教判を構築することなど
元より無理なことでしょう。
これらの難しい条件を満たした上で智の教判を否定するのは
至難であっただろうと思います。
さらにいえば、智や天台宗の真価・魅力は五時説にあるわけではありません。
五時説の説得力は五時説以外からもたらされる部分も大きいでしょう。
仏教は結局宗教であり、数学や法律ではありませんから、単に論破するだけでは意味はないのです。
それゆえ、
>素人にも論破できる智の教判は知的階級の僧侶や指導者に受容された。
も不思議ではないということです。

24 :
>>4
>中国人の天台チギ大師の論説を鵜呑みにした坊さんである。
日蓮は五時説について一応の検討をしていますが、辻褄をどうしても合わせられず、
「大部の経、大概是の如し。此れより已外諸の大小乗経は次第不定なり、
或は阿含経より已後に華厳経を説き、法華経より已後に方等般若を説く。
みな義類を以て之を収めて一処に置くべし」と匙を投げています。
そして五時説の矛盾解消を放棄し、無量義経の「四十余年未顕真実」を依文に
無量義経以前の経は全て無価値であると断定し、法華独勝を唱えたのです。
日蓮ですら五時説については完全に信用しておらず、半ば投げやりな態度であったと言えるでしょう。
学会員や法華講員はそうしたことも知らずに五時説を鵜呑みにしているのですから困ったものです。

25 :
無量義経の「四十余年」云々って、
本当に他の経典の価値を否定して
実践することも悪とする意味なの?
それとも日蓮の妄想?

26 :
論曰。智者章安。明文若此。今人?不寓目。尚自訛傳阿含十二方等八之妄説。為害甚大。
(法華玄義に云く。…
論じて曰く。智者章安の明文此くの若し。今人絶えて寓目せず。尚ほ自ら阿含十二方等八
の妄説を訛傳す。害甚だ大なりと為す。)-智旭 教觀綱宗
http://www.ouyi.mymailer.com.tw/ouyihtm/015/015-4.htm
会昌の法難では、天台宗の典籍は焼かれたり廃棄されたりして典籍を散逸していた。
そこで中国天台宗は朝鮮半島や日本の天台宗に欠けた典籍の復帰支援を請じなくては
ならなかった。実際、中国の高僧徳韶は日本に使者を送り、天台典籍を求めた。
それに応えて周の時代(953年)比叡山の日延が天台典籍を天台山に運んだ。
また、宋の時代(961)年 に高麗(朝鮮)では諦観法師が天台山に天台典籍をもたらした。
その過程で、中国天台宗に諦観の『天台四教儀』の五時八教教判の教義が混入してしまった。
http://www.kosaiji.org/hokke/tendai/kyogi.htm

27 :
>>25
>本当に他の経典の価値を否定して実践することも悪とする意味なの?
疑問に感じられるのも当然で、無量義経だけでは諸経の価値の否定や実践禁止ということにはなりません。
日蓮は無量義経に法華経と涅槃経に書かれてあることも繋ぎ合わせることで排他的な教義を立てたのです。
しかし、日蓮のその編集法はタチの悪いものでした。
法華経には法華経を信じない者に他の経・修行を勧める文もあるからです。
そういう意味で日蓮のしたことは正確には妄想ではなく、詐欺だと言えるでしょう。
>>26
これは事実なのでしょうか?
どの程度を混入と言っているのかよくわかりません。
五時八教は智に由来するものであっただろうと私は思います。
リンク先にも
>五時八教という用語は妙楽大師湛然が既に使用している。
と書かれていますし、会昌の法難以前の唐の時代の最澄も
五時八教の教義内容について触れているようにみられます。
法華玄義にもあるのではないでしょうか。
また、智以前から他の教判が存在しているのに、
南三北七を下した智に教判がなかったというのは理解に苦しむことです。

28 :
大乗非仏説が定着している現在、五時八教について論ずるのは、
無意味なのではないでしょうか?

29 :
>>28
いいえ、無意味ではありません。
科学は仮説しか提示できません。
現代の科学で検証不可能の余地に
精一杯の淡い期待を寄せるのが信仰者の心理です。
信仰者は自分の信じるものが仮に物語であっても
信じるに足る内容があると考えるから信じられるのです。
しかし、信仰者が信じる教義それ自体に内在する矛盾や倫理的問題点を衝くことは
科学が提示する仮説とは全く意味が異なります。
それは時代の変化に左右された(される)相対的な否定ではなく、
絶対的な否定であるからです。
無論、こうした否定だけで必ず信仰が潰えるとは私は言いません。
>>3
>信仰するものが求めるものは、信仰する生命に得・功徳があるかどうかである。
と言うように、
彼らが所願満足するか、絶望するかした時に信仰は潰えるものなのかもしれません。

30 :
>>29
>科学は仮説しか提示できません。
現代の科学で検証不可能の余地に
精一杯の淡い期待を寄せるのが信仰者の心理です。
現代の仏教学では、大乗仏教は仏滅後500年を経過して創作された
との見解が主流です。
中国には、原始仏教や小乗経が、ほとんど入ってこなかったのが、
五時八教という、錯誤の原因でした。大乗経典の中だけで、優劣を
付けようとした点が、勘違いの始まりだったと思います。

31 :
>>27
インド以来の定判は三蔵教は応身仏の説、大乗教は報身仏の説、密教は法身仏の説です。
いわゆる歴史上の釈尊が説いたのは三蔵教だけです。ただし法身の菩薩は同時に報身仏
の説法を聴いたのであり、つまり通の五時が正意で別の五時は傍意であるという意味です。

32 :
華厳経は釈尊が説法をする以前の自受法楽を表現した経です。
涅槃経は釈尊が入滅する直前の説法です。つまり大乗経の設定
には時節があり、これを別の五時といいます。
けれども応身仏、歴史上の釈尊が説いたのは三蔵経だけです。
報身仏の説法は凡夫・二乗には感見不可能であり、法身の菩薩、
弥勒菩薩とか文殊菩薩とか大乗経の登場人物だけが感見できた。
だから実際には大乗経には時節はない、これを通の五時といいます。

33 :
>>31
>>32
> インド以来の定判は三蔵教は応身仏の説、大乗教は報身仏の説、密教は法身仏の説です。
> いわゆる歴史上の釈尊が説いたのは三蔵教だけです。
三蔵経って「経」「律」「論」ですよね。歴史上の釈尊は「経」「律」「論」を
説いていましたでしょうか?
>つまり通の五時が正意で別の五時は傍意であるという意味です。
もうしわけありませんが、どうも意味が理解できないのですが。
もうすこしかみくだいた表現にしていただけませんでしょうか。
>華厳経は釈尊が説法をする以前の自受法楽を表現した経です。
>涅槃経は釈尊が入滅する直前の説法です。つまり大乗経の設定
>には時節があり、これを別の五時といいます。
これがいわゆる五時八教の教判ではないのですか?

34 :
コテハンがぬけていました。

35 :
「四十余年未顕真実」を悟り←―→悟ってないの間のグラデーションで捕らえ、
法華経を悟りを完成させるための教えとして捉えるのが既成仏教の立場。
「四十余年未顕真実」をオール・オア・ナッシングで見、法華経は全肯定だが、
それ以前の説法は全否定として捕らえたのが日蓮の立場ってことだろうか。

36 :
>>31
大乗仏典はテルマだという宗教板の縁起一代さんのような捕らえ方ですね。
彼によると、大乗仏典は聖者がダルマを聞き感得され、文字化されたものだそうです。
参考資料として以下をあげていました。
ttp://www.amazon.com/Hidden-Teachings-Tibet-Explanation-Tradition/dp/086171122X
彼が
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1313562213/の291で言っている「受用身」とは
報身仏の説法に対応するのかも?彼は中公文庫の大乗仏典の訳を評価していましたが、
『法華経 U』の解説(314ページ)には「この本仏は釈尊の報身を説いたもので」とあります。
報身なのはあくまで本仏で、地上に生まれた釈迦と法華経の説法は歴史上の釈迦が説いたものだ、
というのが法華経の作者たちの考えなのでしょうか。

37 :
>>36
>地上に生まれた釈迦と法華経の説法は歴史上の釈迦が説いたもの
だ、 というのが法華経の作者たちの考えなのでしょうか。
すみませんが、全く話の意味がわかりませんので、誰にでも理解で
きる文章を書いていただけませんか?
ここのところ難しい言葉を羅列する人がいますが、良い文章ではあ
りませんし、ご本人が、その言葉を理解していない証拠です。
仏教初心者にも理解できる言葉で、なるべく簡単に書きましょう。
独り言を羅列するつもりなら仕方ないですが、他の人と議論したい
という気持ちがあれば、簡単明瞭に書いてください。
本当に理解している人は、簡単な言葉で文章を書けるはずです。

38 :
法華経はアーガマと同じく、
歴史上の釈迦が説いた、と法華経の作者は考えていたんでしょうか、
という意味です。
法華経の作者からすれば、歴史や時間を超えてるのはあくまで本仏だけ
かな?と思いました。

39 :
仏弟子も登場するということは、大乗仏典も歴史上の釈迦が説いた
という設定になっているのではないでしょうか。
観無量寿経にはアジャセ王子のような普通の人も出てきますし。
大乗仏典は報身の説法とする解釈では、
このあたりをどう処理するのでしょうか。

40 :
>>30
あなたが何を仰りたいのか判然としませんが、
定説はあるものの、現代でもゴータマの直説を完全に確定することは不可能なのですよ。
だからこそ信仰者はその未確定性に希望を抱き続け、科学的研究の成果を容易には受け入れないわけで、
それ故に彼らが信じる教義それ自体に内在する矛盾を衝くことには意味があると言っているわけなんですよ。
譬えるなら、ある人が昔から作って食べている焼き飯を指して、それはチャーハンでない、といくら否定しても、
その人が焼き飯を好きであり続ける限り焼き飯を作って食べ続けるようなものです。
その人は昔からの焼き飯を人生の何にも換えがたいと信じる人です。
そのような人にチャーハンの作り方を無理に押し付けても
かえってチャーハン嫌いにしてしまう可能性すらあるでしょう。
私が五時八教についてあえて論じているのは、そういうことをするのではなく、
その人が本来絶対に食べてはいけない危険物だと思っているはずの具材が
当人も知らないうちに実は焼き飯の中に入れてしまっているんですよ、
と教えるほうが意味があると考えているからです。
あなたは日蓮正宗や創価学会を「仏教」だと錯覚しているのかもしれませんが、彼ら自身にそんな自覚はないのです。
あくまでも彼らが信じているのは「日蓮仏法」であって「仏教」ではないのです。
彼らには仏教の中に日蓮仏法がある、という認識ありません。誤解されませんように。
また、
>中国には、原始仏教や小乗経が、ほとんど入ってこなかったのが、
>五時八教という、錯誤の原因でした。大乗経典の中だけで、
これはあなたの誤解でしょう。ほとんどが伝来しています。
教判にもアーガマは含まれていますが大乗経典の中だけで、とは何のことでしょうか?
>>37
文章がおかしくて理解できないなら理解できないと言えばいいだけでしょう。
何が難しいか易しいかは人によって基準が異なります。専門的な事柄は専門的な言葉を使用しなければ正確な議論はできません。
専門的なものを日常的な言葉に置き換えるのは詐欺です。詐欺師ほどよくそう言って無知なる者を騙すものです。
難しいものを難しいものと、簡単なものは簡単なものと正しく認識し区別できるのが本当に理解力のある人です。

41 :
>>36
291の発言はだいたいそうですね。阿難の結集とは別に文殊菩薩などが大乗経を
結集し、竜宮などに匿したと。それでチベットでは創作した経論をテルマだと称した。
>>39
華厳経は釈尊が説法する以前の、つまり仏弟子は一人もいないときの経典ですが、
会座に声聞はいます。そもそも説法する以前の経なのですから、史実ではないことは
当然なわけですね。

42 :
>>36
法華の教主自体は応身ではないかという議論は古来あり、「生身尊特」の論争といいます。
『天台宗論議二百題』の「法華教主」にはこうあります。
問う 法華の教主は、三身の中には、いずれぞや。
答う 報身なり。
もし、報身なりといわば、相多身大、これを報身と名づく。法華の教主は、四八の相好なり。
まさにこれ応身なるべし。ここをもって経の文に「微妙浄法身具相三十二」と説けり。
もしこれによって、しかなりといわば、方便品の記には「当知法華報仏所説」と判ぜり。
知るべし、報身なりということを。
答う いまの経は、開権の教主は「従劣弁勝」なるが故に、三十二相相相尊特なり。
なんぞ報身にあらざるや。ここをもって宗の師「垢衣内身実是長者」と判ぜり。
ただし一辺の難に至っては、劣身すなわち尊特なるが故に、相違なきなり。


43 :11/12/06
もともと(サンスクリット語)の経には“仏”の語源は無いと聞いている。
漢訳されてから、菩薩と差別に扱い分けたみたいだ。
相撲でいう、大関が最高だったのに横綱という地位を置いたようなものかな。
会長という役職の上に“名誉会長”・・・というのにも似ているね。
ブッダ=めざめたひと
漢字で表記をすると段々に難しくなってしまいそう。
朝起きて目覚めた自分が三十二相になっていたら・・・まだ夢かと悟りたいw
譬えとしての言葉での表現のしかたでも、度が過ぎた解釈の訳しかたに、庶民達は妄想に浸ってしまいそう。
その国の王の上に架空の神、仏、天などとを置き、
「は〜い、天からの御言葉で〜す」と民衆に言えば、ちょっと評判の悪い王でも謀反を防げるね。
そのために国王の側近として、宗教は欠かせないものだったのでしょう。
日蓮も、この国の祭儀の代表の長とし執行によって国を変えるつもりでいたのでしょうね。
しかしこれ、よ〜く考えてみれば、国を二分に争う事になったでしょう。
“神も仏も名無しさん”とは・・・ゆかぬw
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