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2011年12月2期日本近代史43: 松菊木戸孝允(桂小五郎)について語ろう13 (463)
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松菊木戸孝允(桂小五郎)について語ろう13
- 1 :11/08/13 〜 最終レス :11/12/18
- 骨董品好き、植木好き、世話好き殿好き恩師好き。
そんな木戸について引き続き語っちゃげて。
前スレ
松菊木戸孝允(桂小五郎)について語ろう12
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1297968358/
・sage推奨。荒らし、コピペ、脱糞君、age君は華麗にスルー。
・幕末明治に関する小説、TVやドラマの話題もOK。
・木戸周辺の人たちの話題も歓迎。
・ここ見て木戸が気になった人は松菊木戸公傳・木戸孝允日記・木戸孝允文書・木戸孝允遺文集・木戸孝允関係文書などを読んでみよう。
大きな図書館には大抵あるよ!
- 2 :
- この人は能力は完璧なんだけど人間臭いよね
- 3 :
- 人間くさいというか、どう考えても天然入ってると思う。
- 4 :
- ていうか幕末の人物は大体人間臭いよ。
- 5 :
- おまえら>>1乙くらい言えよw
>>3
天然って例えばどのあたり?
- 6 :
- >>1
新スレ乙です!
>>5 天然
そりゃ帝の振舞酒で酔っ払って小御所の廊下で倒れ伏して夜中の2時に目覚めて飲み直し、
鯨飲酔侯のお気に入りフラグが立っちゃうあたりじゃね?
- 7 :
- 元徳さんから新政府批判されたのに、御立派に成長なされて的な喜びが前面が出ちゃうとことか、
みんなこの雨じゃ中止だろうと思ってるのに張り切って鴨狩りに行っちゃうとこや、
明治帝の御来駕に舞い上がって物凄く詳細に日記に書き留めちゃう辺り。
そういや忘れてたわ>>1乙。
- 8 :
- ていうか前スレ埋めてからにしね?
>>1乙
- 9 :
- 他が死んだ為に生き延び領袖に立った感じだねえ
能力的には逃げ足の速さ以外はいつの時代にも居る
平凡な調整型政治家だよね
長井に恩売られたし、禁門までは周布や久坂が居たし、クーデター成功は高杉だし、薩長同盟は龍馬らの介添えあって、王政復古や鳥羽伏見は西郷大久保の功績で
- 10 :
- >>1
ありがとうです
- 11 :
- >>7
でも元徳の辞表の政府批判は、ベースが敬親の遺表だよね。
あの遺表はほぼ木戸起草、じゃなくても木戸の考えベースだから、
元徳の政府批判は木戸の政府批判と基本いっしょなんじゃね?
木戸の感涙はむしろ、そーゆーものを自主的に出そうとしたことへの感涙なわけで。
……まあどっちにしろ天然くさいがw
- 12 :
- 醒めた炎読み終わったんだけどそういう天然なとこ描かれてなくてちょっと残念
いや面白かったけどね
- 13 :
- >>12
読了おめ!
天然話が読みたかったら、つぎは
『史実考証木戸松菊逸事』『史実参考木戸松菊公逸話』を読むのだ!
入手はちと難しいが、ぐぐるぶくすで読めるしおすすめだ♪
- 14 :
- >>6
容堂と桂って意外な組み合わせだよな
やはり酒好き女好きなところで意気投合したんだろうか?
桂も長州人の例に漏れず大したスケベだったようだし
- 15 :
- 人から譲り受けた貴重な掛け軸を桂が褒めてたからあげちゃった☆だっけ、容堂公
政治的にはどんな話をしていたのか、いまいち想像できない組み合わせだw
遅くなったが>>1乙
- 16 :
- 張り切って池田屋行ったら時間早過ぎてあれ?なとこも天然だったのかな
- 17 :
- >>15
容堂公と木戸、政治的な話してるよ。
明治元年末〜明治二年の木戸と殿様&公家さんの酒宴は、ほぼ版籍奉還の周旋だからね。
東京の木戸から京都の岩倉へ、「容堂様が同意してくださって感服いたしました♪」
ってな書簡もある。
- 18 :
- 明治4年吉冨宛の書簡には、容堂公が二日間も居続けて…なんてのもあった
よっぽど木戸さん家居心地良かったんか
- 19 :
- >>15
維新後の容堂はヤケ起こしてコレクションは大体人にくれてやったらしい
そういえば容堂が武市を切腹させた事を桂が非難したってのは司馬の創作じゃないのかね?
かつての仲間を処刑した桂がそんな事言える立場じゃないと思うんだが
似た者同士だから意気投合したんじゃないか?
- 20 :
- >>18
なんか恥ずかしくなるくらい仲良しな詩も読んでたような、容堂公
- 21 :
- 松子さんと二人で容堂公の宴会行って二人して泊まってきてるしな
- 22 :
- 木戸がはじめて容堂公に招かれて土佐邸に行ったときさ。
夜になったから失礼しようと思ったけど許してもらえなくて、
ここ十五、六年の間に世間に流れた長州への疑惑なんぞについて問いただされて、
条理を尽くしてご説明した…とか木戸日記にある。
これ読んでて、容堂公、 す ん げ え 楽 し そ う と思った。
小御所行き倒れ事件も、容堂公と飲みながら激論した後なんだよな。
木戸が一生懸命に超真剣に論を張るのが、容堂公は面白くも微笑ましかったんじゃないかと。
飲みっぷりが気に入ったのはもちろんとしてもw
- 23 :
- >>19
司馬か創作したのかどうかは分からないけど、これといったソース無いよねその話。
当時の容堂の立場も木戸は理解できるだろうし、
土佐以上に長州内では俗論派の正義派への粛清が激しかった訳だし
武市を惜しいと思いこそすれ、容堂を責める理由は無い。
>>22
主に周布さんについてどう弁解したのか知りたいねw
- 24 :
- 考えてみたら周布さんは他藩の殿様にえらいことしたんだよねw
高杉の機転があったにしろ、そこで騒動は終わっているし
容堂公はどことなくフレンドリーな感じ
- 25 :
- > 容堂公はどことなくフレンドリーな感じ
やっぱ酒の上での失礼に甘いんじゃね?
あるいは単に酒飲みに甘いかw
- 26 :
- 長州の大人どもは若者に甘かったというが、それは「仕方ないなフフ」じゃなくて
叱ったところで「おまえが言うな」になるから強く出られなんだだけなんじゃ……
と、周布さんや爺さまを見ていて思うわけだ。
- 27 :
- 連投なうえに話の腰折ってすまない。
「竿鈴」→「干令」は野村素介の注意による、とは逸事で読んだんだが、
それが「なんかち○こみたいwww」の意だったというのはどのへんがソース?
逸事にも「野村子は他意があって言ったんじゃないよ」的な注釈が入ってて、
妻木もそこんとこ匂わせてはいるようだが…
- 28 :
- 坂下門外の変の老中暗計画には木戸も参加予定だったんだよな。
幕政改革って何を要求するつもりだったんだろう。
破約攘夷?いつ頃攘夷論者から転向したんだっけ。
脱退騒動で大量粛清する前に説得できなかったのかねえ。
この辺の行動のせいで司馬遼や研究者に好意的に見て貰えなかったんだろうな。
- 29 :
- >>27
ソースは知らんが、「竿鈴」という文字から○んこを連想する人は多いのではないだろうか…
ましてや長州人だし
逸話の方で、野村・市・宍戸の連名で手紙のやり取りしてたけど綽名を使ってばっかだった
俺たち3人には伊藤や山縣にも言わない秘密の話をしてたんだぜ、みたいなことを言ってるから
「ちょっとこの字はないんじゃね?ちry」みたいな話をしたこともあったのかなぁ
- 30 :
- >>28
斬奸趣意見書
「毛頭、幕府に対し奉り異心はないのであって将軍が真実に征夷大将軍の職務を勤めることを希望するものであり、
現在のままで幣政を改革しないときには天下の大小名がおのおの幕府を見放して必ず自分の国ばかりを固めるようになる」
坂下門外の変の志士は6人。水戸浪士3人と医師と農民。
時間に遅れた川辺佐次衛門が桂を訪ね自刃しているけど、
桂は参加するつもりだったの?親しかっただけじゃ…
- 31 :
- 「成破盟約」あるいは「丙辰丸盟約」ね。
水戸側の主な人物は西丸帯刀、長州側は松島剛蔵(丙辰丸艦長)、桂小五郎。
水戸側が奸臣を除き(破)、
長州側が幕府に諫言し、御三家・諸大名などから人材を幕政へ推挙する(成)、というもの。
この「推挙」には、当然安政の大獄によって謹慎させられている諸大名の赦免登用を含む。
結果としてはどちらも藩の上層部を動かすことに失敗し、藩同士の盟約にはならなかった。
そもそも、藩侯を動かさねばどうにもならない「成」が当時の桂や松島にできたとは思われず、
西丸側もそこまで期待していたわけではなかったといわれる。
それでも水戸側有志は暗に向けて動き出し、
桂は藩の方針などの問題から「今は動けない、時期尚早」と申し入れたが、
結局安藤襲撃は決行され、遅刻した川辺は桂に斬奸状を手渡し自刃。
当時の有志の焦燥感を表す事件といえるんじゃないかな。
この「丙辰丸」ってのは面白いね。桂の活動によって長州藩が建造した洋式軍艦。
小さな帆船に過ぎないんだが、長州の軍制改革派の人々の象徴となっている。
- 32 :
- 改めて考えてみると、桂の登用とスピード出世には、
丙辰丸建造の件が大きく寄与しているのは間違いないだろうね。
「諸藩に軍艦建造が許可された、我が藩も造るべき!」って建言したら
「じゃお前やれ」ってことになっちゃったわけだが。
まだ何の役にもついていない桂に丸投げするってどうよ?と思うが、
桂は抜群の行動力と構想力と広く確かな人脈で
洋式軍艦建造への道をあっという間に整備してしまうわけで。
そりゃ藩政府としたら、こんな若手放っとくわけにいかないわな。
- 33 :
- 優秀さは言うに及ばず
優秀な人材を取立てる藩の方針も大きいよね
- 34 :
- 長州の人材といえば、所郁太郎の本を読んでるんだけど
立ち聞きを見つかって君尾に助けられる話に笑った
有名なエピソードだけど、所も一緒でこちらはさっさと逃げてたのは知らなかった
桂は逃げ遅れて、君尾だけでなく他の芸者や女中も集まってフォローってw
あと爺さまたちの狩りを見物してて、馬から断崖に落ちるって、桂はどういう…
所は単なるお雇い格の内から、秋月を暗しようとしたり密航に混ざろうとしてるけど
それでうぜえってならずに逆に気に入られて正式に召し抱えられちゃうんだから
取り立てた桂や周布さん、というか長州って、なんというかこう面白い藩だよなぁ
- 35 :
- >>29
>ましてや長州人だし
すんごく納得した。ありがとうw
- 36 :
- 木戸孝允の幸せは長州に生まれたこと。真木和泉の不幸は長州に生まれなかったこと。
田中惣五郎著『木戸孝允』より
- 37 :
- 版籍奉還とそれにつづく廃藩置県とは、木戸の生涯において、最大の業績だったと思われる。
醒めた炎 3巻176Pより引用。
けど廃藩置県って西郷の手柄になってるし。版籍奉還はそれ自体が廃藩置県までのつなぎみたいな所あるよね。
- 38 :
- >>34
なにそれ楽しい
借りてくる〜♪
- 39 :
- >>37
最近はどっちかというと大久保一人の手柄になってる
良くて西郷も併記、木戸は完全無視、というのが多い
- 40 :
- まともな研究書ならそんなこたないだろ
そりゃただの歴史読み物だわ
- 41 :
- >>38
所は桂の帰藩前に死んじゃうから、出番があって楽しいのは前半だけだけどね
秋月悌次郎暗計画のくだりは、やんちゃする仲間、叱る桂というお約束で笑った
- 42 :
- >>34
いいなー、なんて本?
そういえば「所郁太郎伝」って本を持ってるけど、読まずにしまいっぱなしだったや
今度読んでみるかな
- 43 :
- >>42
その本です
醒めた炎より更に小説風味で、著者熱いな〜wという感じだから
所に興味がないと辛いかもしれない部分もあるけど
目次がもの凄くわかりやすいから、とりあえず気になる部分だけ読んでもいいと思う
- 44 :
- >>43
ありがとう!
ちょっと見た限りだと、文章は古くて読みにくいけど、内容は面白そうだ
- 45 :
- 木戸と西郷ってかなり話し込んでるはずだよね?
薩長同盟以後、今後の事とか話し合ったりしたはずだから。
- 46 :
- ageたん、木戸と西郷の関係がすごく気になるようだが日記や一次資料読めば本当の事がみえてくる。
上で話題になっていた脱隊騒動の最中、西郷は数名を引き連れ中の関にやってきている。
木戸は藩庁と脱隊の調停に来たのかとあせるが、実は藩庁支援準備でやってきた。
木戸は鎮圧後東京に帰る前、薩摩まで行って西郷の家で嫁にまで会っている。
明治4年正月神戸で広沢暗の報を聞いた時も木戸は西郷・大久保と一緒だった。
このあたりの事も日記に書かれているよ。是非読んだらどうですか。
- 47 :
- 木戸さんに意味無く死刑された河上って写真残ってたんだね
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/Genzai_kawakami.jpg
- 48 :
- 意味なかったんかい>処刑
大久保は意外でもないけど木戸も大量にしたよねぇ
脱退騒動で大量粛正のあと長州にはもう二度と帰らなかったのかな?
あと小説の話はよく出てるけど木戸研究書の決定版ってないの?
最近は一坂太郎が出してたけどあの人よく変な事言うからな…
- 49 :
- 大坂会議の前に木戸がどこに居たかも知らんのかいw
- 50 :
- 長州の悪いことの裏には全部木戸がいることにしたい人たちにそんなこと求めても
- 51 :
- >>48
台湾征伐や大阪会議も知らない人なのかね
そのレベルで変な事とか言われる一坂可哀相だなw
- 52 :
- 佐久間象山の妻が黒幕は桂小五郎だって思ってた
みたいなレスをみたんだが、詳しい人いる?
- 53 :
- ただ今スルー検定実施中
∧∧
( ̄ー ̄)
- 54 :
- 一坂氏の木戸本は、木戸入門書としてはそれなりの出来だと思うよ。
ほとんどの記述は、既存の伝記本や有名な論文に忠実になっとる。
なぜかご本人の専門分野、脱隊騒動がらみ(というか対士族姿勢)で、
相当頓珍漢な書簡の誤解釈引用をしてるが、
おそらく大江氏の本から原典に当たらずに引っ張ってきたんだろうw
そのほかは、薩長同盟より前の説明にやや古さを感じるが、全体に無難な内容だ。
これまで、桂時代から木戸時代まで網羅した、しかも手軽に読める本はなかったし、
詳しくない人が全体像をざっくり把握するには十分かと。
ただし、薄っぺらい本だから、細かく拾えてないし突っ込みが浅いのも致し方ない。
あのボリュームで決定版はありえないのは一目瞭然じゃんw
まあ少なくとも『写真集桂小五郎』のころよりは、ご本人の認識も多少進化したと見えるw
一坂氏が変わったってより、松尾氏の木戸本が出たおかげかもしれんがね。
- 55 :
- >>48
明治3年12月から翌1月御内命で山口に帰っている。
3月から6月頃も再び帰山口。正二郎や松子も一緒。帰郷中に毛利の殿様死亡。
東京に帰る時高杉の息子を連れてくる。
明治7年6月征台論に破れ下野して山口に帰る。松子も一緒。
下野中は脱隊兵20名やってきて当時の誤解等を語ったりもしている。
8年正月大阪会議で呼び戻される。
本人の書いた日記書簡を読んでしまうと、どんな本が出ても物足らん気がしそう。
- 56 :
- (量的に)無理だろうけど、日記書簡の現代語訳本が欲しい
なんなのあれ漢詩?
どこかの大学の講義で日記の解読やってたよね、羨ましい
- 57 :
- 漢文調はつらいけど、原文のままが味があるんだよね。
名前を明らかに聞き間違って書いてたり、もしかして名前しらんの?って箇所があったり、
後から書こうと思ったのか十行以上も空白だったり。
人柄がわかるというか想像をたくましくさせてくれる。
- 58 :
- ごめん。sage忘れた。
- 59 :
- >>57
「西島襄」「福沢勇吉」さんのことですねわかりますw
個人的には「シメジ」が好き。
- 60 :
- 森「私の名前が無礼になってるのも書き間違いですよね!」
- 61 :
- 古典の授業で、江戸時代の文章も取り上げてくれればなぁ・・・
幕末志士の手紙を読もう!とか授業でやったら面白そう
- 62 :
- 木戸って大化の改新知ってたんだな。松陰に学がないって言われてたのに。
- 63 :
- >>56 >>61
日記も手紙も、あとになるにつれ比較的読みやすくなると思う。ひらがな増える。
手紙は女性や子どもあてのものは読みやすい。
読みなれてくると、有之(これあり)とか乍去(さりながら)、雖然(しかりといえども)
みたいな、定型的な言い回しがわかるようになってくるので、読解スピードは上がってくる。
あとは想像力で補完だ! がんばれ! チャレンジだ!
- 64 :
- そういえば木戸と品川って手紙を書きながら話が出来たんだっけ
ちょっと羨ましい
- 65 :
- 『明治維新の言語と史料』で、龍馬と木戸の書簡の比較してたのは興味深かったな。
青山氏は本気の研究はほんといいんだがな…
- 66 :
- どんな風に比較してたか書いてよ
- 67 :
- 今、醒めた炎3巻読んでるんだが。やっぱ江戸開城あたりは面白いね
村松剛著 醒めた炎 三巻
からの引用
「松平春嶽が当時耳にした噂では西郷と木戸だけが慶喜宥免の論をとなえ、
勝の歎願をいれて水戸に身柄を預けるべきであるといった」
こういうの全然知られてないよね。
- 68 :
- 木戸って脱退騒動の後、長州に帰り辛くなったりしなかったのかしらん。
維新の元勲だいたいロクな死に方しないのによく暗されなかったなw
- 69 :
- 襲撃されて死んだって説が流れたことはあったよね。
「デマ乙wwwwwm9(^Д^)」みたいに日記に書いてなかったっけか。
- 70 :
- >>67
全く逆の説とか流布されちゃうくらいだからね
そんな事して相手を逆上させて話をややこしくさせたくないって
凄く木戸らしい合理的な理由だと思うんだけどなぁ
- 71 :
- >>70
また木戸がいろんな表現を駆使していろんなことを言うもんだから、
適当に都合のいいとこだけ抜き出してぜんぜん違う解釈で黒認定する奴が多いしなあ。
>>66
手元に本がないんで正確なことは言えん。
おおざっぱに言うと、龍馬の書簡は当時の武士のものとしてはありえないくらい口語文に近い
当時の書簡は常識的に候文。共通語みたいなもんだし。
そこから、龍馬が国家の体制を考えるような緻密な思考ができるタイプではなく、
やはり構想者というよりコーディネーターとして優れた人物だったのではないかと
いうようなことをのべていた。
対して竜馬への木戸の書簡については、漢文の語彙を縦横に駆使した論理的で緻密な文章で、
書体も含めて当時の書簡文のお手本になるような見事なものと褒めていたかと。
龍馬の書簡の分析にはけっこうなるほどと思わせるものがあったな。
- 72 :
- それで学に乏しいとか、松陰の知的要求レベルってどんだけ高いんだよw
- 73 :
- >>72
あれは「おまえのカーチャンでーべそ!ヽ(`Д´)ノ」みたいなもんだからなあw
もし仮に性格が悪いとか書いたとしたら、後世はともかく同時代の連中に
確実に「ねーよwww」と思われそうだし
とりあえず学問について云々しとけば
「なんかわかんないけどそういうもんなの?」ぐらいで
あんまり突っ込まれなさそうな、松陰的に便利な悪口だったんじゃないかと思ってるw
- 74 :
- 自分は、松陰の学問に対する要求水準が高かったのも事実だと思う。
ただし、松陰にとって学問とは何ぞや?ということが問題だけど。
木戸は頭は回るし学問もしたし教養豊かな人物だったが、
たとえば松陰が高杉久坂にやったような学問訓練は受けてないしね。
あと、松陰は新しいことも吸収していたけれど、どっちかっていうと、
温故知新というか、昔ながらの学問を現実社会に生かすことに熱心じゃね?
五十嵐暁郎氏の論文では、木戸が古典的学問教養に深入りしないまま
政治の世界に身を投じたことが、木戸を学問的楽観論に立たせず、
最終的に維新を成し遂げさせた、てなことが述べられている。
とはいっても書簡や漢詩を見れば、十分古典的教養あるの明らかなんだがね。
- 75 :
- >>74
なるほど。ありがとう。
レベルの差より質の差が際立ってる観はあるよね。
学問とか思想の純度ということでいえば、松陰の立場からみて木戸のそれは
どうも徹しきっていない、学徒として不純だと考えたとしてもおかしくないわな、
と思ったりした。
やっぱり木戸ってそういうところでも合理主義っていうか、
学問も多分、学問のための学問じゃなくてあくまで道具だよね。
- 76 :
- >>74
>やっぱり木戸ってそういうところでも合理主義っていうか、
>学問も多分、学問のための学問じゃなくてあくまで道具だよね
そうなのかなぁ…。
自分は日記と文書・関係文書は読んだけど、論文らしい論文や『醒めた炎』すら読んでないんだけど
その印象では、木戸って“合理主義とか学問も道具”っていうのとは反対の所に居る人のように感じたけど…。
どうなんだろう。
使節団の外遊中、伊藤が聞多に宛てた手紙には
「・・・木戸翁囘歴中頗る勉強にて、各国の形勢にも熱通に付・・・」とあるので
おそろしいくらい勉強熱心だった人であるのは間違いないし、
“智”で溢れている人と感じたが…
- 77 :
- >>76は>>75への間違いです。
- 78 :
- >>75
> レベルの差より質の差
うん。補足すると、松陰は、自分の言うことやることを
親友であり同志である桂がわかってくれないのが辛かったわけで。
しかし桂が頭がよいことも、人がよいことも知っている。
造船の件とかもあるから、知識欲が旺盛で実行力があるのも知っている。
それなのになぜ分かってくれないのか…となったときに、
学問を究めていなくて、自分の達した真理に桂は達していないのだ、
と思うしかなかったんじゃないか、と推測する。
けっきょく、究めつつあるはずの久坂や高杉にも反対されたんだがね…
このへんが、同じ目的合理主義的側面を持ってはいるんだが、
学者であり思想家・教育者である松陰と、
政治家である桂/木戸の違いではないかと。
- 79 :
- >>76
うん、たしかに木戸には知識を得ること自体を楽しむという側面もあるよね。
そのへんは松陰も木戸も似たとこがあると思うよ。
ただ、松陰は落としどころが学問なのかな、やっぱ。
実際に活用することをめざしてはいるけどね。
木戸は知識欲。
でも、多種多様な知識が木戸の中でつながりあって、
あるときごく実用的にアウトプットされる。
自分の中ではそんなイメージ。
- 80 :
- >>76
「あくまで道具」って言い方が、智に対して冷淡、あるいは知識欲が淡泊
という印象をあたえたのならすまない。
>おそろしいくらい勉強熱心だった人であるのは間違いないし、
>“智”で溢れている人と感じたが…
これには全面的に同意。
ただ木戸が学者や思索家のような態度で、というかそういう境地をめざして
学問したかというとそうじゃないだろうな、と思ったもので。
知識を深め思想を突き詰めて、さらにそれらの要求するところに従って行動を昇華させて…
っていうタイプの人ではなくて、やっぱり政治家なんだよなーと。
どうもうまく表現できないけど、だいたい言いたいことは>>79が書いてくれたw
- 81 :
- 学がないってのを深読みしすぎな気がする。
普通に学がなかったんだろう。少なくとも高杉久坂と比べたら
- 82 :
- >>80
まあ春嶽様いわく木戸は智仁の人だからね
他の面々も大抵が知性派扱いだし、木戸のイメージから智を切り離すのはちょっと難しい
っていうかこの流れで青木自伝の木戸を思い出したわ
- 83 :
- 木戸の手紙って独特の比喩表現を使うよね。
大政奉還を熱心に説く龍馬に「初めは脱兎、終わりはではなく終始脱兎でいけ」とかw
暗号風に書いてるというよりこれは単なる格好つけなんだろか。
- 84 :
- それは孫子から
- 85 :
- あー「初めはの如く、終わりは脱兎の如し」を言い換えたのね。
木戸って龍馬が暗された事についてはどう考えていたのかな?
特にリアクションはなかったんだっけ?
- 86 :
- >「初めはの如く、終わりは脱兎の如し」
高杉も好きでよく書簡で使ってる
- 87 :
- 松陰が『孫子評註』を著してるぐらいだから松門の人間は当然だけど、
江戸時代は一般に兵学の体系化が盛んだったから
武士にとっては孫子の兵法は当然の教養と考えられていただろう
- 88 :
- 孫子とか三国志とか読んでたんだっけ?
孔明気取りだったのかな。松陰は
- 89 :
- 家業が兵学者なもんで。
- 90 :
- まあ松陰さんの評価基準って志>気魂>才識>学問だけどなあ。
これにもっとも適合してたのが久坂と高杉で。
黒船来た時、兵学者はさっぱりつかえねーわと言ってるくらい。
- 91 :
- >>67
木戸は函館で戦った連中の死刑推奨してなかったっけ?
黒田と西郷が救ったが、
人望あった河上を恐れ理由無く処刑し
奇兵隊で脱走したのを10年指名手配
- 92 :
- >>85
明治の記事や講談・読み物だと龍馬暗についてリアクションがないどころか
下手したら中岡や龍馬の今際の際に立ち会って遺言を聞いたりしてるんだよね
墓碑を書いたところから連想されたんだろうけど
あの時代はそういう関係だったと認識されてたんだろうなぁ
- 93 :
- 実は木戸さんは当時京におらんかった
品川だけで
- 94 :
- >>91
慶喜については寛典論を説いてたよ。
つか、新政府の重職につけろとか言ってた。
あと、会津もそうだが、函館の反乱軍についても、無闇にせせ言ってた訳じゃないよ。
大村益次郎当ての書簡では、榎本軍の処遇について大体こんなこと言ってる。
「榎本たちの才能は惜しいけど、条理を考えればどうしようもないから、
首班だけは死罪、司令官以上は出身藩で禁錮、その他は適当に処罰する方向で」
同じく大村宛の書簡で、会津のやったことは許せないが、幕府に対する会津の忠義は
見習うべきだと言ってる。
- 95 :
- ageちゃんに構わんでも
- 96 :
- ID:Y2h8Q3aF0はageたんじゃなく木戸アンチじゃね?
別スレでもアンチ発言してる
- 97 :
- 夏だからねー
半蔵門の幕末維新写真展、日曜までだから見にいこうかな
だれか見てきた人いる?
- 98 :
- 維新の写真って面白くないのが多いんだよね。
刀抜いて構えてる写真とか取ればいいのに。
- 99 :
- 「さかのぼり日本史」9月は幕末をさかのぼりって、廃藩置県はスルー?
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