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2011年12月2期世界史6: 正史『三国志』 二十五巻 (769)
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正史『三国志』 二十五巻
- 1 :11/11/01 〜 最終レス :11/12/18
- 前スレ
正史『三国志』 二十四巻
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1308644386/
- 2 :
- 乙カレー
- 3 :
- 前スレの議論だが、
やっぱり蜀軍の動員準備期間を考えると、
黄皓が姜維の急報を握りつぶしたというのは考えにくいのではないか。
前スレで出てきた意見によれば
>10万ってのは戸籍に記されてる動員可能員数な。
>王平時代を参考にすると、漢中に居住しているか、
>徴兵で赴任している兵力は3万。
>仮に、成都近辺に3万、
>江州方面に2万、
>南方に2万、
>の動員力があるとする。
この数字は恐らく完全動員時のもの。
漢中が落ちた時点で、漢中にいた兵力が消えたことを考えると、
>徴兵で赴任している兵力は3万。
>仮に、成都近辺に3万
というのは意外と正しい数字ではないかと思われる。
なぜなら、姜維たちが敗退し、剣閣に立てこもったときの兵力が四、五万だから。
- 4 :
- 姜維の有能さは、沓中から剣閣までの撤退を見ても明らか。
姜維は沓中から剣閣までの(恐らく)道のりで300km以上の距離を、
彊川口会戦、陰平での軍勢集結、諸葛緒突破時の機動などをこなしつつ進んだ事になる。
ナポレオンや秀吉でもこんな機動は不可能。
- 5 :
- 秀吉の中国大返しは、約10日で岡山から京都の200キロメートルを踏破。
姜維が上。
- 6 :
- >>3
資治通鑑で見ると。
魏の征蜀命令が出たのは263年5月。洛陽を出発したのが同年8月。
しかし姜維の急報は262年末,華陽国志でも263年春とされるから,征蜀命令より先になる。
急報は姜維からの援軍要請として却下されたのではないか。
魏軍が洛陽を出発する前に第二報を送れば,一応の準備はできるだろう。
- 7 :
- >>6
>魏の征蜀命令が出たのは263年5月
魏の征蜀命令って皇帝の勅令だろ?
ってことは普通に全国に布告されるバリバリの公文書じゃん。
それを成都が知らないとかありえんでしょ〜。
- 8 :
- 王平と費イのコンビが曹爽を撃退したときは、
費イが援軍率いてやってくるまで3ヶ月かかってる。
- 9 :
- 三国時代の軍隊の高速機動なら、司馬懿が孟達を討ったときの例が最速。
宛から上庸まで8日で踏破して孟達を切った。距離はおよそ300kmから400km。
たぶん騎兵を使ったんだろうけど。
- 10 :
- 姜維が剣閣に篭城した頃の兵力を鑑みると、この頃には全力動員していたと思われる。
成都周辺には既に動員の余裕がなかった。
だから、諸葛瞻にはわずかな兵力しか渡せず、諸葛瞻が負けた時点で降伏してしまった。
- 11 :
- 鍾会伝によると262年冬に鍾会が鎮西将軍・関中都督に就任し、その一方で青徐エン豫荊揚で大々的に造船して呉討伐の準備をしていると見せかけたとある。
多分、司馬光はこの一連の動きから姜維は蜀討伐を予見したと解釈し、姜維の援軍要請を262年冬に置いた。
劉禅以下成都にいた者達は魏の動員を征呉の為のものとしか考えず、姜維の上奏を棄却したのだろう。
- 12 :
- >>11
そこまで分かってたのに、わざわざ沓中にでていって、漢中の防御をおろそかにしてた姜維ってなんなの? と。
姜維が漢中から兵を引き抜かなければよかったのに。
- 13 :
- >>11
なるほど!
- 14 :
- >>11
しかし征蜀の勅がでたのは263年5月だ。侵入は8月。
5月から動員を開始しても致命的なほど遅くはない。
- 15 :
- 244年の戦いの場合、2月に曹爽軍が侵入、5月22日に都に帰還。
援軍の費イが積極的に退路遮断を狙って動いているので、2ヶ月で動員と集結、漢中への移動を終えたものと見られる。
263年も、2ヶ月あれば数万規模の軍勢を漢中に投入可能と見てよいのではないか。
- 16 :
- 244年は涪に蒋エンの駐屯軍があったことも関係してるんじゃないか?
- 17 :
- >>12
隴右にケ艾がいるからだと思う。征蜀が開始されれば隴右方面からケ艾が武都・陰平を突破するのは目に見えていたから、
姜維自ら沓中でケ艾と対峙せざるを終えなかったのではないかと思う。
姜維の上奏文は「ケ艾は私が抑えますから、鍾会に対応できるよう張翼ら成都の中軍を漢中に派遣してください」という意味だったのかもね。
- 18 :
- 参考になるか分からんが、
呉では263年10月に蜀から救援要請を受け、
11月22日に丁奉を大将とした魏遠征軍を派遣してる。
蜀もだいたい50日ぐらいで動員できるんじゃないの。
- 19 :
- >>16
フから漢中までは結構遠くて、400kmはある。
まともに行軍したら1ヶ月かかる。
移動時間を加味すると、蒋?の事前準備がものを言ったのだろうな。
- 20 :
- >>7
鍾会が動くより先にケ艾が南下して姜維と交戦を始めてるんだよ。
成都はそれに反応して腰を上げた。
- 21 :
- >>17
成都からの第一陣の廖化が、真っ先に姜維の後詰に向かってるんだよね。
まともな要害の無いトウ水・陰平方面が最大の急所だというのが
蜀漢共通の認識だったのだろう。
結果から見れば、武都に諸葛緒が進入し、北辺防衛の要中の要である陽平関が
寝返りで陥落したわけだから、判断ミスと言うことになってしまうが。
しかし、廖化が先に陽平関を固めては、姜維は単独でケ艾を支えきれず、
結局陽平関が東西南北から包囲される事態になってしまう。
やはり、少なくとも廖化・張翼の二者がそれぞれの防衛に間に合って
東西に長い防御線を張るしかない。
- 22 :
- >>4
普通だったらケ艾と諸葛緒に挟み撃ちにされて全滅してたな
魏はケ艾が姜維を引き付けておいて諸葛緒が姜維の退路を断ったのは上手かった
漢中にも鍾会がいるから漢中には手が出せない
- 23 :
- どうすれば生き残れたのかな?
軌跡でも起きないと多少滅亡を先延ばしできるくらいか?
- 24 :
- まず成都と漢中府に強固な信頼関係を築くこと。
次に魏の新たな戦力配置に対応した迎撃陣地を
漢中から陰平に掛けてしっかりと築くこと。
(漢中から武都辺りまでは姜維が実行したが)
魏の大侵攻があった場合には迅速に援軍を前線に送ること。
240-250年代の隴西戦に敗れた以上は260年代以降は防戦一方になるだろうが、
それでも、防衛線が十分に機能していれば益州はそうそう落ちる土地じゃない。
相当程度の期間「変事を待つ」ことができただろう。
前スレの後半に魏晋の脆さを強調していた人じゃないが、
やはり大国とは言え急所なしとは言えない時代だから。
- 25 :
- 成都と漢中府が仲良しでも、少ない兵力が増えるわけではないだろう。
- 26 :
- 外交で何とかするしかなかったと思う。
呉は色々やろうとしてた感じ(遼東とか)だが、
蜀って呉以外に目立った外交戦略行なってたっけ?
あの戦力差ひっくり返すつもりなら、
匈奴や鮮卑とか他民族の力が不可欠だと思うんだが。
それこそ魏に味方する部族を取り上げるくらいしないと。
- 27 :
- >>24
信頼関係を再構築するといっても,
もともと崩壊させた姜維を除くことは,前線維持のためにもできないし,
もう片方の黄皓を除くことは,姜維の暴走を防ぐためにもできない。
それこそ劉備か諸葛亮に生き返ってもらうしかないのでは?
- 28 :
- 仮に姜維の通報が成都でも信じられて、蜀が262年の冬から軍備を整えたとしましょう。
そもそも軍隊というのは金食い虫ですから、ただそこにいるだけで金と食料と物資を浪費し続けます。
さて、蜀の国庫は、魏が襲来する263年の夏まで、軍隊にただ飯を食わせ続けることができるでしょうか?
- 29 :
- >>27
そりゃどうしようもないわな。
上手くやってくれとif蜀漢朝廷にお願いするしかない。
遅ればせながらやろうとした人選が閻宇だけど
>>28
262年冬から全力動員する必要がない。
関中からの大軍の前進は8月で、これは察知しやすいのだから。
三つに分断されて前線の蓄えを失いながら
数ヶ月間南方・巴地方や剣閣を維持した史実よりも
前線で敵を止める方が負担が少ないじゃない。
- 30 :
- 蜀降伏時の成都の食料備蓄は、40万斛でした。
成都の近辺で全力動員を行なったとすれば、おおよそ3万の軍隊ができあがります。
過去、魏延は長安急襲作戦を立案するとき、その期間を10日と予測し、5千の兵と5千斛の兵糧を要求しました。
これから計算すると1万の兵を1年維持するのに36万斛必要です。
3万の兵を半年養うなら、軽く50万斛を超えます。
もうお分かりかと思いますが、成都の備蓄は40万斛しかありません。
仮に姜維の通報を受けてすぐ軍備を整えるとして、一体どうやって兵を養うのですか?
- 31 :
- >>29
>262年冬から全力動員する必要がない。
それは姜維の求めを無視せよということですよね。
私も無視は正解だったと思います。
蜀が全力動員で10万の軍隊を養える期間はきわめて限られています。
- 32 :
- おまいは一体何を言ってるんだ。
成都から既に廖化・張翼・諸葛瞻の三派が出陣して、
姜維も重車を捨てて転戦しながら半年近く戦闘した後なんだぞ?
最大貯蔵庫で多くの屯田地があった漢中は、真っ先に陽平関が塞がれて連絡途絶している。
では、おそらく五万以上の兵力は防衛戦の期間の食い物をどうしたの? 霞でも食ってたわけ?
- 33 :
- >>31
当たり前だろう。武装済みの総兵力が10万だから、
10万人北に振り向けられるわけがない。
>>3の仮定にでも沿って構築しなおしてきてくれ。
- 34 :
- >>32
姜維の求めに従って動員を早めるのですから、
五万以上の兵力は防衛戦の期間の食い物+動員を早めて集められた兵士たちの食料が必要なんですよ。
蜀の備蓄がそれに耐えられるとは思いません。
- 35 :
- >>34
29の後半読め
- 36 :
- >>34
春から陰平を1、2万で増強してケ艾を阻み、
鍾会が関中軍を動かす段になったら本隊を出して陽平関を増強する。
これだけで済むね。
- 37 :
- トウ中には姜維が屯田などした蓄えがあって、
連年ほとんど独立した補給体制を築いていた。
陰平などにも防御の備えがあっただろう。
張翼が漢中に入れれば漢中の蓄えを当然使うわけだから、
100%自足できるかは判らないにしても、
成都から動員兵力の額面どおりの輸送を続けるわけがない。
- 38 :
- >>35
>前線で敵を止める方が負担が少ないじゃない。
とか話にならないですよ。いったいどこまで補給線を延ばすつもりですか。
フから漢中まででさえ400kmあるんですよ。
輸送にとられる負担を考えないんですか。
>>36
>春から陰平を1、2万で増強してケ艾を阻み
1、2万の兵力を数ヶ月養うための兵糧はどこから持ってきましょうか。
- 39 :
- >>38
>>37
- 40 :
- 廖化・張翼が長駆するために少なくとも移動期間以上の兵糧を持ち出して、
前線の蓄えを全て捨てて馳せ戻ってきた姜維・廖化・張翼が
数万人で剣閣に相当期間立て篭もるだけの兵糧がおそらく持ち出されて、
諸葛瞻が最後の兵力を振り絞って出陣した時にも相当期間立て篭もる兵糧が持ち出されたはずで。
人的資源が殆ど出払った後の成都の官庫に、
三万もの兵が数ヶ月篭城できるだけの40万斛が残っていた。
なかなか立派なもんじゃね?
- 41 :
- >>37
>トウ中には姜維が屯田などした蓄えがあって、
>連年ほとんど独立した補給体制を築いていた。
あの山の中で屯田して、いったいどれだけ収穫が期待できるんでしょう。
やっぱり漢中から延々と補給線をつないでちびちび物資を集積してたと思いますよ。
>張翼が漢中に入れれば漢中の蓄えを当然使うわけだから、
>100%自足できるかは判らないにしても、
>成都から動員兵力の額面どおりの輸送を続けるわけがない。
漢中の備蓄ってそんなに余裕ないと思いますが。
漢中は晋代で1万5千戸程度の人口がいたに過ぎません。
備蓄で維持できるのは、常にいる兵たちだけで精一杯じゃないですか。
- 42 :
- >やっぱり漢中から延々と補給線をつないでちびちび物資を集積してたと思いますよ。
ムリムリ。成都から孤立した姜維がそんなの受けられる立場じゃなかった。
そもそも当時は、前線守備の常備兵は前線周辺で兵糧を賄うのが前提で、
平時首都から延々輸送するなんて誰もやってない。だから屯田する。
>漢中は晋代で1万5千戸程度の人口がいたに過ぎません。
だから屯田があるわけなんだが。
戍守と言って、辺境に多数の兵が赴任する場合、
現地付近の租税だけじゃとても賄えないから、
兵士自身に自分の食い扶持と有事に立て篭もるだけの食料を生産させる。
漢武帝の発祥ね。
漢中近辺に複数の屯田地があったことは、史書や水経注に確認できる。
- 43 :
- >>41
>備蓄で維持できるのは、常にいる兵たちだけで精一杯じゃないですか。
ていうか漢中の兵力を養うには全然足りなくて、
常々成都→フ→漢中ルートで物資がピストン輸送されていたと思われます。
蜀の官吏がやたら多いのも、物資輸送の管理の担当者だったのではないでしょうか。
- 44 :
- 夢想乙としか言いようが無いな
- 45 :
- というより,漢中〜陰平の屯田地に援軍を賄えるだけの余裕があったのなら,
その地域を制圧した魏軍はその食糧を使えるわけだよな。
姜維らに備蓄を焼いている暇はなかっただろうし
だとしたら,剣閣で姜維に止められた鍾会が,
補給を理由として撤退を考えたとする話は不自然になる。
だって,関中から剣閣まで運ぼうとするから大変なのであって,
漢中から剣閣までなら大した距離ではないのだから。
だから,漢中等にはたいして余裕はなかったのではないか。
- 46 :
- >>45
魏軍は漢中制圧できてない
突破しただけ
- 47 :
- まあ、陽平関と道程で落とした中小陣営の備蓄は使っただろうけどね。
折りしも姜維が、敵の侵攻に対しては
秦嶺山脈中にあった幾多の中小陣営を撤収して漢・楽二城に集中させ、
「野無散穀,千里縣糧,自然疲乏」の手配をしていたから、
それが効いていたんだろうな。
- 48 :
- >>46,>>47
漢中攻略を担当した鍾会らが先に進んでいる以上,
制圧できていないと言うのは無理があると思うけど,
(制圧できていないなら,撤退は困難だろうし,そもそも進軍できやしない。)
確かに籠城中の漢城、楽城、黄金圍等の分は使えないだろうな。
ただ成都へのルート上にある陽平関と関城は突破されているから,
その分の食糧は間違いなく奪われていただろうけど。
- 49 :
- 言葉尻の問題はどうでもよくて。
問題は、逆撃を期して諸軍と「野の穀」を収容している漢・楽二城が
固守を続けていたってことだな。
姜維の計画が遂行されたなら、
盆地の郷里田地から略奪も出来ない状況になる。
- 50 :
- >>49
言葉尻も何も,
成都からの援軍に供給できる食糧が現地にあるかどうかで,
延々と議論していたのではないのか?>>30->>43は。
(>>45は私だから除外するとして。)
そもそも,漢城その他はほぼ間違いなく無力化されているだろうから,
略奪はともかく,供出を求めることはできるだろう。
というか,それすらできない状態なら,どうやって先に進むのか。
退路を断たれる危険性を残したままで,先に行けると思うのか?
- 51 :
- >漢城その他はほぼ間違いなく無力化されているだろうから,
>供出を求めることはできるだろう。
何を寝ぼけてるんだか。
三国志くらい読んで書き込んでくれよ。
- 52 :
- >>51
ああ,確かに漢中で生産した食糧も2城に集められてたな。
これは失礼した。
- 53 :
- つーか姜維が連年出兵して備蓄を浪費してるんだから、
前線の備蓄基地にもあんまりないと思うが
- 54 :
- 蜀の備蓄基地は、成都とフと漢中と、あとどこだっけ。
- 55 :
- 249年〜262年の間に姜維が行なった北伐は8回。
食糧備蓄する暇ないだろう。
- 56 :
- そのうち、諸葛亮に近いような北伐は二回だけ。
費イ時代は1万のみ。
黄皓時代も漢中軍から抽出した程度の兵力。
最末期を除く全期間において、
魏領内には輜重を切り捨てて侵入し、
羌族の支援で活動していた。
まあ兵糧だけ見るなら諸葛亮の負担の数分の一以下ってところだろうね。
- 57 :
- >>56
しかし諸葛亮もはるか遠くに進撃してるだろ。
兵の頭数が多少小さくても、補給線が延びまくれば負担は増える。
遠くまで行くって事は、兵糧を輸送する兵隊が増える。
兵糧を輸送する兵隊が増えたら、まずそいつらが食べる分運ばなきゃならない。
同じ量の兵糧を輸送すると足りなくなるわけだ。
- 58 :
- >>57
しかし諸葛亮もはるか遠くに進撃してるだろ。
↓
しかし諸葛亮よりもはるか遠くに進撃してるだろ。
- 59 :
- >>57
輜重が無ければ距離長くても一緒
- 60 :
- >>59
輸送している人間様は兵糧を食べないというのだろうかw
- 61 :
- >>60
輜重の存在が無かったのかどうかは>>56が言ってるだけだから本当か知らんが
輜重が無いと言っているのにどこに輸送する人間様がいるのだろうかw
- 62 :
- 明帝紀には蜀には輜重が無いと書かれてるが、
それは牛車がないといってるのであって、
人力の輸送に頼ってたのは確実。
- 63 :
- >>62
しかし漢中から狄道まで人力で輸送してたとはとても思えん
- 64 :
- 姜維は軍船で食糧輸送してるってケ艾だか陳泰だかが指摘してなかったっけ。
- 65 :
- あったあった。
ケ艾伝でトウ水の大敗後、姜維が再び進出する論拠として
「姜維は船で行軍するのに対し、我が方は陸路を進むのであり、
費やす労力は同等ではない。」と述べてる。
姜維は水軍で兵員と物資の輸送をしていたから、
狄道まで迅速かつ長期の遠征ができたんだろう。
- 66 :
- それと輜重については、季漢輔臣賛の注で
ビン山太守の王嗣は羌族から深く信頼されていて、
姜維が北伐する度に羌族から馬・牛・羊・穀物の提供を受け、
軍資の助けとしたとある。
益州に輜重に耐え得る牛がいないからって
蜀は人力のみで輸送していたとはならない。
- 67 :
- >>66
姜族だって連年物資を供出させられたら疲弊するんだが?
ケ艾に負けた後は寝返るし。
輜重がないのが相変わらずなら、馬・牛・羊は単に食糧か農耕用として受け取っただけだろう。
- 68 :
- 羌族な
- 69 :
- 木牛と流馬があるだろ。
- 70 :
- だからジンギスカン作戦だろ
- 71 :
- 段谷の大敗以降は羌族からの支援は厳しかったと思う。
その後の戦役では国内からの持ち出しだし、外地に軍を貼り付けて
おくだけで国内は消耗する。
姜維が国内を消耗させてないと主張するのは無理がある。
- 72 :
- 消耗させてないとか極端なことを言ってる奴は一人もいないし、
今はそんなことは話してない。
姜維の遠征は兵站への負担が大きかったので
263年にはもう漢中などには備蓄が無かったと極端なことを言う奴がいるから、
「兵糧負担だけ見れば諸葛亮の遠征に比べて遥かに軽い」と言ってるだけ。
- 73 :
- >>62
諸葛亮の四次でも五次でも、諸葛亮に牛車がないなんてことは有り得ない。
人力車で兵糧を輸送したら、輜重隊要員が魏の十倍にもなる。
明帝の輜重がないというのは、単に兵站が続かない、ってだけの意味。
- 74 :
- 256年の段谷以降の出征というと、
257年 数万で諸葛誕に呼応した秦嶺越え
262年 屯田すると申し出てトウ中に築陣し、同年ケ艾に破れる
263年 そのまま魏の侵攻を迎える
だから、三年のスパンしかない諸葛亮の231年-234年よりかなり楽だな。
五次は10余万を動員した大遠征だし。
- 75 :
- 段谷以前の出兵だって、羌族の支援を受けながらも、蜀の兵糧を使ったはずだぞ。
外部勢力に過ぎない羌族の補給に頼った戦争なんて、危なくてできないよ。
- 76 :
- だから。
>「兵糧負担だけ見れば諸葛亮の遠征に比べて遥かに軽い」
と言ってるんだよ。
漢中備蓄を一切使ってないなんて言う馬鹿もいやしないよ。
262年だって、屯田で収穫できるまでは持ち出し分を食うわけで。
それでもなお、遠征の前年から力夫を動員して
秦嶺へ兵糧を運び込むような諸葛亮の遠征より、
姜維の遠征の方が遥かに負担が少ない。と言っている。
- 77 :
- >>76
>「兵糧負担だけ見れば諸葛亮の遠征に比べて遥かに軽い」
いや、諸葛亮時代よりはるか遠くに遠征してるじゃないか。
諸葛亮より兵糧を使ったと考えられる。
- 78 :
- なんで今までの反論を無かったことにして無理矢理前の主張を持ち出すの? 読んでないの?
- 79 :
- 漢中に備蓄がないかどうかは知らない、
鍾会の主力軍を秦嶺山脈の中で足止めできなかったのが
敗因でしょう。山脈の中なら、比較的少数の兵力で防衛できる。
主力軍が足止め食らってれば、ケ艾が成都を急襲なんて芸当は
不可能だったし。結果的には、諸葛亮以来の防衛システムの
方が、大規模侵攻には有効だったでしょう。
- 80 :
- >>78
羌族の物資だけを当てにして作戦を行なったとはとても思えない。
- 81 :
- 秦嶺山脈の中なら少数で敵を阻めたのかどうかは疑問。
一点道を塞げば大軍を物理的に止められるわけではないから。
包囲して無力化されたら、幾ら堅固でも少人数の小陣営は手も足も出なくなる。
関中から漢中に入るには4本くらい道があるしね。
魏延時代からの防備は、中小の陣営を山中に幾重にも張り巡らせて
敵の浸透を減衰させるものだった。
姜維はそれを、戦時に撤収して二城に集中する手配をすると同時に、
陽平関〜武都間に新たな多数の陣営を設けている。
では、この新陣営群の要員はどこから来たのかが問題となるわけで、
旧来の魏延・諸葛亮方式では西に伸びた防御線を賄うのに数が足りなくなったから、
山中での防衛を撤退したのではないか、という推測が成立する。
推測だけどね。
- 82 :
- >>80
漢中備蓄を一切使ってないなんて言う馬鹿もいやしないよ。
なんで堂々巡りになるんだよ。論を展開できないならもう辞めなよ。
- 83 :
- >>82
俺)羌族の物資だけじゃなく、漢中の物資も使った。諸葛亮時代より補給が負担だった。
お前)羌族の物資だけじゃなく、漢中の物資も使った。諸葛亮時代より補給が楽だった。
- 84 :
- 動員兵力は諸葛亮時代の十分の一から数分の一だった。
を付け加えてくれ。
- 85 :
- >>84
>動員兵力は諸葛亮時代の十分の一から数分の一だった。
そうでもないだろう。
姜維時代でも、漢中、南方、孫呉国境の兵力は依然として存在していた。
これだけで5万以上いたはず。
姜維が転用したのは漢中の兵力だけで、他の兵力は蜀滅亡のそのときまで、現地に張り付いていた。
- 86 :
- あのさあ、国境守備の兵力ってのは平時城壁の上で矛持って気を付けしてるのが
仕事じゃないんだけどさあ。
本当に心の底から他人の言うことなんてどうでもよくて何も読んでないんだな。
せめて「屯田」でこのスレ上から検索してくれよ。
- 87 :
- >>86
「兵力が張り付いていた」といったら「平時城壁の上で矛持って気を付けしてた」と解釈するお前がおかしい。
貼り付け部隊や貼り付け師団って言う言葉を知らんのか?
だいたい屯田の収穫なんて、徴兵されないで普通に農耕するのに比べたらかなり下がるものだぞ。
- 88 :
- >貼り付け部隊や貼り付け師団
知らんなあ。そんな部隊が巴や漢中にいたなんて。
根拠希望。
姜維が何度か魏の国境で年を越したのはそう言えるだろうけどね。
>徴兵されないで普通に農耕するのに比べたらかなり下がるものだぞ。
またそういう適当なことを言う。
屯田は基本「秋冬習戰陣,春夏修田桑」。農閑期に訓練するもので、
むしろ、首都近くのような穀倉地帯から兵糧を輸送するより
はるかに省力化を図れるものだぞ。ケ艾伝など参照。
遠征や敵の侵攻が無ければ、100%とはいえなくとも効率はかなり高い。
少なくとも
>>動員兵力は
>漢中、南方、孫呉国境の兵力は依然として存在していた。
>これだけで5万以上いたはず。
>蜀滅亡のそのときまで、現地に張り付いていた。
なんて、五万以上がただ兵糧を食うだけの存在だったかのような言い方は
ひどい出鱈目。
- 89 :
- >屯田は基本「秋冬習戰陣,春夏修田桑」。農閑期に訓練するもので、
>むしろ、首都近くのような穀倉地帯から兵糧を輸送するより
>はるかに省力化を図れるものだぞ。ケ艾伝など参照。
1年の半分を訓練に取られるとか、まともな人間なら拒否するよな。
脱走者がでまくるわけだ。
なんなら、お前明日から自衛隊の訓練に180日いって、
残りの半分で仕事してみればいいだろ。
どれだけ「効率がいい」か、実践してみろよw
>遠征や敵の侵攻が無ければ、100%とはいえなくとも効率はかなり高い。
屯田は応募と強制徴用の二本立てだが、
応募には人が集まらず、
強制徴用された連中は脱走しまくり(5〜6割の高税率では当然)で、
効率がいい方法じゃないってのが定説。
- 90 :
- 北東南に5万以上の兵力が存在して
兵糧を消耗し続けていたのなら、
諸葛亮の南征以後ずっとその体制なんだから
蜀は何十年も前に軍隊を維持できなくなって滅びてるよね。
おそらく諸葛亮の四次や五次北伐の頃に。
- 91 :
- >>89
もう無茶苦茶だな。
なんで180日休み無く訓練しなくちゃいけないのとか。
後半は曹操の民屯の話だろとか。
5〜6割の高税率云々とか脱走でまくりだったってのなら
曹操やケ艾批判の時に使ってくれよ。
- 92 :
- まあ、そうすると曹操が天下を半分取れた国力的な理由とか
ケ艾や司馬懿の献策で隴西・淮水の軍滞在能力が強化され
天下統一の背景となったことが説明できなくなるだろうけどね。
- 93 :
- 屯田とか過大評価もいいところだろ?
屯田制で成功したとされる曹操でさえ、官渡の戦いでは食料不足に苦しんでる。
袁紹よりも兵力少ないはずなのに、袁紹より先に食糧不足になるとか明らかにおかしい。
- 94 :
- 曹操は中原がボロボロに疲弊していたから
民屯を持ち込んで農民を直接支配しようと思ったわけね。
冀州は中原からの避難先となったくらいで、
後漢代の疲弊を比較的逃れた豊かな「大州」であり、そんな真似をする必要も無かった。
袁紹と曹操を比べたからなんなのって話だが。
屯田が10しかない生産力を10以上に出来る魔法とでも思っていたか?
- 95 :
- 中英の劉備天下統一スレで当時の三国の社会に対するレスで何故か民屯に関する評価を念入りに書いた暇人が来たぜ。
>>93
兵力の多寡より土地の背景を見るといい。
中原の人口も実は袁紹の支配地である幽・冀州より大分でかいが、
同時に荒廃度も袁紹の支配地域より遥かにでかい。
豫州から青州のラインってのは特に黄巾の被害が大きかった地域だ。
つまり農地は酷く荒れ果てている。
更に曹操は屯田以外の田地からの租税を120分の1にしている。
これは豪族との妥協の結果ともいえるが、同時に取れる租税の限界がそれだけ低かったという事でもある。
ここから屯田地の広さを過大評価せずに徴税能力を逆算してみると良い。
三州持ってると言っても限界値がかなり低いということが容易に見て取れるだろう。
屯田と言うよりも、当時の社会と、置かれている状況を顧みると、意外とカツカツで頑張ってるということが分かる。
相手の袁紹は漢標準+非常時で十分の一税だろうから、兵站能力は結構差が付いていてもおかしくはない。
- 96 :
- >後漢代の疲弊を比較的逃れた豊かな「大州」であり、そんな真似をする必要も無かった。
冀州も戦争や反乱は結構起こってるが?
>屯田が10しかない生産力を10以上に出来る魔法とでも思っていたか?
じゃあ蜀漢のやった屯田も現実には大して効果なく、
実際は漢中あたりから食料をピストン輸送していた、
ということでよろしいですね。
- 97 :
- >>95
大部分同意だけど、一つだけ
>中原の人口も実は袁紹の支配地である幽・冀州より大分でかいが、
それは後漢書の後漢最盛期近くの話であって、
曹操対袁紹の頃の国力比は晋書の方が実情に近いだろう。
エン州 08萬3200
豫州 11萬6796
青州 05萬3000
徐州 08萬1021
冀州 32萬6000
幽州 05萬9020
平州 01萬8100
并州 05萬9300
司隷 47萬5700
官渡のころ、曹操は青州をほとんど支配していない。
冀州は魏代のうちに五万戸を司隷に徙民するなど、
京師や対蜀前線への大規模移住が行われたにも関わらず、
晋代でも30万以上を確保している。
逆に、董卓の禍から復興と人口集中の政策が本格的に取られたのは
洛陽への遷都が行われた後と推定できる。
これらをほぼそのまま後漢末の人口に当てはめられるなら(そんなに単純でないだろうが)、
袁紹陣営支配人口40万〜50万以上vs曹操陣営30万未満
というような比になる。
そのうえ、単純な質で見ても曹操の中原の方が荒廃度が大きいというありさま。
- 98 :
- >じゃあ蜀漢のやった屯田も現実には大して効果なく、
>実際は漢中あたりから食料をピストン輸送していた、
あれ? 漢中からピストン輸送するほどの余力があったとは認めるんだ?
OKOK。やっと意見の一致を見る場所がみつかった。
しかも、姜維がトウ中で屯田したとして、男子1万人の労働力があれば、
防備しながらでも男子2〜3万人の一年間の穀物を生産できるだろうことは想像できるよね?
普通、男子1万人いれば3、4万人の家族を養うことができるんだから。
だからピストン輸送しなくとも、廖化の援軍を迎えてしばらく戦う備蓄があったことになる。
つまり、姜維は当面の食料を持っていけばよく、ピストン輸送するほどの漢中の負担は
無かったことになる。
漢中もまた、成都からの援軍を迎えてしばらく戦う備蓄を持っていた。
めでたしめでたし。
- 99 :
- ごめん>>97で言ってる単位は人口(口数)ではなく、戸数ね。
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