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2011年12月2期野球殿堂50: 【のびのび野球】土橋ヤクルト・関根ヤクルトを語る (917)
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51: 野球選手が起こした最大の不祥事は? (102)
52: 成績は最高か普通だが人格は最低最悪の監督 (402)
53: 松井秀喜と王貞治はどっちがすごいの?6 (313)
54: 球威も落ちる球も無かった名ストッパー (457)
【のびのび野球】土橋ヤクルト・関根ヤクルトを語る
- 1 :07/08/26 〜 最終レス :11/12/20
- 土橋監督に代わり、前年までの2年連続最下位から脱出した1984年。
2年続けて阪神・広島に本拠地胴上げを許し最下位の1985年・1986年。
関根監督就任、ホーナー旋風で4位まで浮上した1987年。
一茂入団、若手選手達がモノになり始めてきた1988年。
池山・パリッシュ・広沢がとにかく振り回した1989年。
優勝とは無縁だったが、それでも思わず応援したくなったあの頃。
1978年優勝メンバーから世代交代し、1990年代の栄光への懸け橋と
なったあの頃。
楽しかったあの頃を語ろう。
- 2 :
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Λ_Λ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::
/:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::
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 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ . . .... ..: : :: :: ::: :::::: :::::::
- 3 :
- 1984
率 本 点
遊撃 水谷 新太郎 左 .291 4 33
三塁 角 富士夫 右 .267 11 38
左翼 若松 勉 左 .325 9 50
二塁 B・マルカーノ 右 .300 15 77
中堅 杉浦 享 左 .281 8 49
右翼 小川 淳司 右 .252 11 35
一塁 渡辺 進 右 .281 9 53
捕手 八重樫 幸雄 右 .251 18 58
控え 岩下 正明 左 .237 3 24
控え 玄岡 正充 左 .293 4 15
控え 渋井 敬一 右 .234 1 11
試 勝 敗 S 防 回 振
投手 梶間 健一 左 35 12 11 2 3.75 180 87
投手 高野 光 右 38 10 12 2 4.83 162 128
投手 大川 章 左 65 5 3 4 3.89 106.1 61
投手 宮本 賢治 右 30 4 10 0 6.52 88.1 37
投手 井本 隆 右 27 1 4 1 4.93 76.2 36
投手 尾花 高夫 右 45 14 8 7 3.45 175 106
- 4 :
- 1985
率 本 点
遊撃 水谷 新太郎 左 .263 4 31
三塁 角 富士夫 右 .245 15 54
左翼 若松 勉 左 .300 12 34
中堅 杉浦 享 左 .314 34 81
捕手 八重樫 幸雄 右 .304 13 68
二塁 B・マルカーノ 右 .299 12 51
一塁 広沢 克己 右 .250 18 52
右翼 小川 淳司 右 .239 11 30
控え 渡辺 進 右 .277 8 34
控え 岩下 正明 左 .316 5 34
控え 池山 隆寛 右 .141 0 1
試 勝 敗 S 防 回 振
投手 梶間 健一 左 38 11 17 0 4.22 189.2 88
投手 高野 光 右 29 7 11 0 4.97 141.1 110
投手 荒木 大輔 右 19 6 7 0 4.31 108.2 47
投手 阿井 英二郎 右 44 3 5 2 4.29 105 79
投手 宮本 賢治 右 32 2 10 0 6.26 87.2 46
投手 尾花 高夫 右 40 11 8 7 4.39 205 107
- 5 :
- 1986
率 本 点
右翼 栗山 英樹 両 .301 4 14
二塁 水谷 新太郎 左 .237 1 15
左翼 若松 勉 左 .275 6 39
三塁 レオン・L 右 .319 34 97
中堅 M・ブロハード 右 .258 21 64
一塁 広沢 克己 右 .253 16 45
捕手 八重樫 幸雄 右 .216 6 23
遊撃 渋井 敬一 右 .244 4 25
控え 角 富士夫 右 .282 6 29 80
控え 高仁 秀治 左 .284 1 14 96
控え 池山 隆寛 右 .245 6 15 65
試 勝 敗 S 防 回 振
投手 高野 光 右 32 12 11 0 3.10 209.1 141
投手 尾花 高夫 右 34 9 17 1 4.25 201.1 86
投手 荒木 大輔 右 32 8 13 2 4.57 157.2 83
投手 伊東 昭光 右 34 4 11 0 4.10 125 72
投手 阿井 英二郎 右 43 9 6 1 3.97 104.1 73
投手 中本 茂樹 右 45 3 3 6 3.99 58.2 23
- 6 :
- 1987
率 本 点
中堅 荒井 幸雄 左 .301 9 38
二塁 渋井 敬一 右 .198 6 19
左翼 杉浦 亨 左 .304 24 73
三塁 B・ホーナー 右 .327 31 73
一塁 レオン・L 右 .300 22 73
右翼 広沢 克己 右 .284 19 60
捕手 八重樫 幸雄 右 .280 9 47
遊撃 池山 隆寛 右 .250 13 46
控え 小川 淳司 右 .240 11 31 113 229 55 2
控え 角 富士雄 右 .217 5 12 68 166 36 0
控え 桜井 伸一 右 .258 0 7 57 132 34 1
試 勝 敗 S 防 回 振
投手 尾花 高夫 右 33 11 15 3 3.96 206.2 145
投手 伊東 昭光 右 31 14 11 0 4.27 196 87
投手 荒木 大輔 右 31 10 9 0 5.07 151 72
投手 宮本 賢治 右 38 5 6 2 4.52 97.2 43
投手 矢野 和哉 左 28 6 6 0 5.09 86.2 56
投手 高野 光 右 38 7 6 11 4.02 134.1 95
- 7 :
- 1988
率 本 点
左翼 荒井 幸雄 左 .266 6 25
中堅 栗山 英樹 両 .331 0 17
遊撃 池山 隆寛 右 .254 31 81
一塁 杉浦 享 左 .255 20 53
右翼 広沢 克己 右 .288 30 80
三塁 D・デシンセイ 右 .244 19 44
捕手 秦 真司 左 .251 7 29
二塁 渋井 敬一 右 .206 2 8
控え 角 富士夫 右 .230 6 23
控え 小川 淳司 右 .290 8 24
控え 長島 一茂 右 .203 4 22
試 勝 敗 S 防 回 振
投手 尾花 高夫 右 31 9 16 0 2.87 232 125
投手 中本 茂樹 右 42 5 7 0 3.60 147.2 43
投手 B・ギブソン 右 23 7 11 0 4.87 140.1 80
投手 高野 光 右 21 7 7 0 3.41 116 76
投手 宮本 賢治 右 40 5 5 0 4.52 99.2 33
投手 伊東 昭光 右 55 18 9 17 3.15 122.2 72
- 8 :
- 1989
率 本 点
二塁 笘篠 賢治 両 .263 5 27
中堅 栗山 英樹 両 .255 2 26
左翼 荒井 幸雄 左 .272 4 38
一塁 R・パリッシュ 右 .268 42 103
右翼 広沢 克己 右 .270 17 59
遊撃 池山 隆寛 右 .264 34 74
三塁 角 富士夫 右 .266 5 32
捕手 秦 真司 左 .290 8 28
控え 長島 一茂 右 .250 4 15
控え 中西 親志 右 .178 1 12
控え 杉浦 享 左 .274 6 22
試 勝 敗 S 防 回 振
投手 尾花 高夫 右 27 11 8 0 4.40 167.2 77
投手 加藤 博人 左 31 6 9 1 2.83 130.1 96
投手 矢野 和哉 左 22 5 9 0 3.21 109.1 51
投手 伊東 昭光 右 22 4 11 1 5.05 101.1 43
投手 中本 茂樹 右 22 5 6 1 4.40 94 31
投手 内藤 尚行 右 41 12 5 8 2.82 163 97
- 9 :
- >>4
1985年には先発の尾花がチーム最多セーブ
>>7
1988年には抑えの伊東が最多勝
なんか萌えるな
- 10 :
- >>9
1985年の尾花は先発・中継ぎ・抑えなんでもアリだったよ。
無茶苦茶な使われ方だったw
- 11 :
- 角若松杉浦八重樫尾花の時代
http://bubble6.2ch.net/test/read.cgi/meikyu/1185026177/l50
- 12 :
- :
- 13 :
- 借ります
抽選4 高濱卓也 1/3
当たり 2
- 14 :
- 今年ボロボロな時期のヤク専実況スレで
この頃振り返って「いい暗黒だなあ」って言われてて笑えたけど
確かにそんな大らかな時代だった気が。
- 15 :
- あの頃は負け慣れていたからな。
目先の勝ち負けに拘っていられなかった。
期待して負けると悔しいが、期待せずに勝つと嬉しいものだ。
若い頃のサッシーがボロクソに言われていたのに
期待されなくなってから中継ぎでちょっと活躍すると喜ばれていたのと逆。
- 16 :
- ヤクルトらしいね。弱い時もあるし強い時もある
- 17 :
- 阪神ほどファンはいない
大洋ほど野球がしょっぱくない
南海ほど貧乏ではない
ロッテほどマイナーではない
そしてそこそこ華のある選手がいる
良い暗黒時代と言えばそうかも
- 18 :
- あんなヘボチームに負けるとは、うちはヘボヘボだ
- 19 :
- 優勝争いには参加できないものの、2位チームに3タテ
食らわした直後に1位チームに3タテ食らうなどして、
間接的にセリーグのペナントレースを動かしていたなw
- 20 :
- 土橋さんも関根さんも人間が無茶苦茶魅力的。
それがこの時期のヤクルトの魅力の一つだと思うよ。
- 21 :
- 投手交替を告げるとき、笑顔でピッチャーの足を踏んづける関根さん萌え
- 22 :
- >>18
1985年だっけ?
この発言で大洋は結構ヤクルトに足をすくわれてた記憶がある。
- 23 :
- >>18 >>22
たしか1986年
- 24 :
- 1986年のヤクルトx大洋3連戦でヤクルトが大洋を3タテした。
試合後のインタビューで当時大洋の近藤貞夫が
「あんなヘボチームに3つもやられるなんて、うちはヘボヘボだ!」
とコメントした。
3連戦の初戦はヤクルトキラーの遠藤をKOして勢いに乗って一気に3タテしたんだよな。
この日は、友達と内野ボックスシート(テレビガイドの懸賞で貰った)で観戦していた。
宮本賢二が3安打完封した。
ブロハードが欠端から打ったバックスクリーン越えの大ホームランが印象深かった。打球が夜空にグングン吸い込まれて消えて行き、暫くして歓声が鳴り響いた。
- 25 :
- 今の池山の名コーチぶりを見てると、
別当→関根→池山の系譜ができる予感。
- 26 :
- >>25
人は育てられるが勝てない監督ってこと?
- 27 :
- >>24
1986年7月25-27日 ヤクルトx大洋
http://www.swallows-fan.com/game/1986.php
- 28 :
- いしいひさいちと河合じゅんじの両氏にネタにされまくった貴重な球団。
- 29 :
- 広岡時代からのナゴヤのヤクファンだが土橋時代はノビノビ野球とは思わんな。土橋が空回りしていた感じだった。
- 30 :
- ネタにされてたのは『がんばれ!タブチくん』からでは…?
- 31 :
- そういえば今年21年ぶりの最下位だったけど・・・
青木ラミレスグラシンがいる今年と80年代低迷期はやっぱり違う感じがする
- 32 :
- あの当時のニッポン放送ショウアップナイターはやたらとヤクルト戦やってたな
巨人主催ゲームの中継ができなかったせいもあるけど
後楽園の首位攻防天王山だった巨人×広島戦が注目浴びる中、神宮のBクラス攻防戦ヤクルト×阪神を中継したりと聴いてて虚しい気がした
- 33 :
- >>31
良い選手とその他の選手のギャップが激しいというのは80年代っぽいじゃないか。
外国人野手も悪くなかったし。
ただ、外国人投手だけは隔世の感があるな。
>>32
巨人戦はラジオ日本の独占だったからな。
地方局ではネットされていたけど。
今や「巨人戦はBS日テレかG+で」という時代。
- 34 :
- 関根監督のころからかな。
神宮のライトスタンドをヤクルトファンで埋められるようになったのは。
土橋監督のときはライトポール側にこじんまり集まっていた気がする。
- 35 :
- 青島健太、セガサミーの監督を辞任するのか
プロに戻る意思はあるのかな
ヤクルトの二軍コーチとか
- 36 :
- 関根監督時代にファンになった。
当時小学生だったからよく覚えてないんだけど、
関根監督が広澤の代わりに代打長嶋一茂をやったのってほんと?
- 37 :
- 土橋正幸氏…
ヤクルト監督時代のせいで、東映の現役だった当時の名選手振りまで否定される、
若しくは知られないというのは辛い。
監督中は、ちょうど選手の新旧交替期で、選手が上手く揃わなかった時。優勝メンバーは、
ほとんど晩年だったし、逆に若手は経験不足。投手では荒木大輔、高野光(故人)、
野手では広沢克巳、栗山英樹くらいだものなあ。まだ、HiHOにはならなかったのか。
即戦力として入団した広沢(当時は一塁)にしても、1年目はHR18はいいとしても打率.250、52打点。
2年目も打率.253、HR16、45打点と伸び悩み。
それでも、よく若手を辛抱して起用してくれたものだ。特に、同郷の荒木。巨人戦での抜擢振りがよかった。
昭和60年8月9日、後楽園球場、巨人対ヤクルト。先発は江川卓と荒木。
2対2の同点で迎えた8回表、ヤクルトはルーキー広沢が「同郷の大先輩」江川から決勝2ラン。
荒木はプロ初完投勝利をマークしたのである。「さらば愛しきプロ野球」によれば、
土橋監督は最終回、左打者が続いても祈るような思いで荒木を続投させたのが好結果に。
ヤクルトファン22年さん、ご記憶だろうか。
更に、翌4年目には後楽園球場での巨人対ヤクルト開幕戦では、荒木は初めて開幕投手に。
土橋監督時代の荒木といえば、いつも超満員の敵地・後楽園で好投していた印象が強い。
やっぱり、高校の時5季連続甲子園出場は伊達じゃなかったのだなあ。
そしてそして、極めつけはあの試合だろう。巨人に引導を渡した「10.7、神宮」。
記録によれば、広沢は欠場なのが意外だったが。ブロハードの逆転2ランはガイシュツもガイシュツだが、
実は先発高野○−リリーフ荒木Sという、超豪華リレーでもあったのだ。
土橋監督在任中は、順位こそ5、6、6位で、その巨人戦だって負け越してはいたが、
なぜか巨人がここ一番でヤクルトにやられていた印象が強い。巨人ファンは、ヤクルトにはイイ印象など
ないと思う。なんといっても、その3シーズン、巨人はすべてV逸なのだから――。
- 38 :
- 土橋監督も当初投手コーチで呼ばれたはずなのに、その年にいきなり
武上監督が休養し、代理の中西コーチまで休養して急に監督の座が
まわってきて気の毒な部分はあった。
それでも当たり前のように最下位に沈んでいたところから5位に浮上させた
手腕は認めてあげたいところだが。
- 39 :
- >>38
近藤唯之氏「プロ野球監督列伝」には、冒頭にその1ヶ月間での3人の監督交替劇が伝えられ、
『プロ野球の監督とはなんと辛い職業なのか。しかし、男にとっては内閣総理大臣とプロ野球の監督は
一度はなってみたいものである』とも触れられている。
- 40 :
- 虹を呼ぶ男
七夕竹之丞 20歳
- 41 :
-
「野村ヤクルトが黄金時代を築けたのは、私が監督をやっていた頃の現役選手(たとえば若松勉、渡辺進、水谷新太郎など)が
コーチをやったから。前任者の関根さんが非難を浴びながら広澤や池山などの若手を鍛えた上にコーチが良ければ野球は勝
てるんです。だから野村が楽天の監督をやったところでどうにもならない。阪神をやった時と同じでしょう。」
土橋監督のことは無視してますね
- 42 :
- >>40
それチャンピオンか?
大甲子園の後か
- 43 :
- 土橋監督下は、このチームの特色を良くも悪くも象徴する“事件”が2件。
昭和61年、角富士夫選手の“迷言”「オモテウラ一体」はガイシュツのネタだろうが、
もうひとつ、土橋監督の(記者団の勘違いによる)「幻の休養騒動」。
後者は、土橋監督が帰京の新幹線にいなかったことから起きた勘違い騒動だが、
当のご本人は前夜のうちに帰京して、友人を見舞っていた、というのが、事の真相。
>>41
“名将”広岡さんにとっては「監督としての土橋さん」はアウトオブ眼中程度の存在なんでしょう。
- 44 :
- >>43
「オモテウラ一体」って、労組化した選手会にヤクルトが参加しなかった時の言葉だっけ?
球団は「ヤクルトレディー(おばさん)が1本○円でヤクルト配っているのに云々」
とか言っていたような。
- 45 :
- >>43
その通り。さすがは「家族的経営のフジサンケイグループ企業」である。
- 46 :
- >>45
おお、レス番号が違う。>>44宛で。
- 47 :
- >>45
時代とはいえ、古田グループのきり方を見ると大分ドライになったね
- 48 :
- >>47
前回と今回の間、最下位「21年ぶり」の間に、世相もヤクルト本体も変わったものだ…
- 49 :
- 俺松園オーナー好きだったな。
- 50 :
- >>37
>ヤクルトファン22年さん、ご記憶だろうか。
私は1985年の9月のスワローズファンになったのでそのゲームを覚えていません。
しかし、私はテレビ東京の番組(多分)からそのゲームの場面を見たのをまだ覚えています。
荒木のプロ初完封は1985年の9月25日の対巨人戦(後楽園球場)
http://www.swallows-fan.com/game/1985.php
をテレビで見たのをまだ覚えています。
私の近所(巨人ファン)の家のテレビで荒木のプロ初完封
を観戦したことをいまだに覚えています。
- 51 :
- ブロハードの一発の前、あの時期神がかり的に打ちまくっていた
クロマティの逆転2ランが出た瞬間、当時センターを守っていた
栗山はあまりの情けなさに泣けてきたらしい。
ヤクルトの寮で電話番をしていた栗山は、広島に負けては
巨人ファンから「わざと負けやがって!」、巨人に負けては
広島ファンから「八百長すんな!」という抗議の電話を何本も
受け、受話器を持ったまま夜中まで平謝りをする日々。
そして今日もクロマティに打たれた…また寮に帰ったらあの
抗議電話を何本も受けなければならないのか…自分たちだって
負けたくて負けてるわけじゃない。皆、一生懸命やっている。
なのに何故、こんなに俺たちは弱いんだろう。
そう思うと、守備位置につきながら涙が止まらなかったという。
- 52 :
- 八重樫は神
- 53 :
- 土橋監督の時代は何をやってもうまくいかなかったところ、
関根監督になって少しずつうまく回り始めた、そんな感じがする。
1995年以降の優勝は野村色の強い優勝だったが、1992年〜1993年は
まさに土橋・関根時代が実を結んだ優勝という感じがしてよかったと
思ったものだった。
- 54 :
- 昨日夜、川崎市川崎区内某所で関根さんらしき人を見たのだが…
携帯電話で話してたので声はかけなかったが、なぜここに?と思った。
- 55 :
- >>54
その昔、神宮で練習場からクラブハウスに向かう八重樫に当時のあまりの拙守・貧打を攻める意味で、
【八重樫、働け!!】
と言った処、あの鬼瓦さながらの凄まじい形相で
【何だこの野郎!!】
…頭から湯気が立って、目玉が三角になっていて真剣に怖かった…
当時の燕党の間では、大杉引退後は八重樫がヤでは腕っ節NO1は常識だっただけに…
- 56 :
- 関根監督と安藤ヘッドコーチが仲良くおしゃべり…
関根時代を象徴するシーンだが、しかし阪神監督まで務めた人物がよくぞ
ヤクルトのコーチで来てくれたものだとも思ったりする。
- 57 :
- 89年か、阪神の村山監督がヤクルト側のベンチに行って関根監督と何か話してたような
- 58 :
- >>56
法大つながりでわ?
- 59 :
- 関根さん、大洋監督時代はソフトすぎて
選手に舐められた印象があったから、
ヤクルトでは選手との接し方を厳しく変えたという話しを聞いたことがある
- 60 :
- その厳しく変えたってのが全く伝わってこないのが関根監督の良さ。
- 61 :
- >>41前任者の関根さんが非難を浴びながら広澤や池山などの若手を鍛えた
非難浴びてたかあ?
ぜんぜんそんな記憶がないんだが・・・
当時のヤクルトって負けなれ過ぎていて非常におおらかな雰囲気だったから
イケトラも非常に好意的に捉えられていた記憶しかない。
- 62 :
- >>58
安藤さんは慶應だよ
- 63 :
- >>59
そうか?
マウンド上で笑顔で、打たれた投手の足を踏んづけながら説教していた
とか、辣腕ふるって雰囲気悪くする選手を追い出したとか、
そんな話なら聞いたことがある。
- 64 :
- 60歳以上しかいないスレはここじゃろうか?
- 65 :
- >64
40になったばかりのヤングに、そんなこと言うなよw
- 66 :
- >>61
その発言の要旨は「野村の人気に嫉妬」だから
野村がヤクルトの監督を辞めた後に「監督が動かなければ勝てる」とまで言われていたんだから、
野村の功績は明らかだと思うんだが、それでも野村を認めず
「私が監督をやっていた頃の現役選手」を持ち上げるあたりが広岡らしい。
- 67 :
- >>63
これだな。
http://bubble6.2ch.net/test/read.cgi/meikyu/1130761800/249
>>>232の話には続きがあって、関根潤三が監督になってからは、監督に盾突いたり怠業かます選手は
>徹底的に干されたり強制引退させられたりトレードに出された。唯一難を逃れた(?)のは200勝がかかっていた平松。
>関根政権時に選手の引退や不思議なトレードが妙に多いのは、何も世代交代のためだけではなかった、ということ。
- 68 :
- >>56
関根=LF 安藤=MBS
NRN繋がり
シーズン、日シリで同席での解説あり
- 69 :
- 85年の阪神優勝試合が神宮で当然超満員だったが、
黄色のメガホンばかり。
ヤクルトの応援をしていた人は200人程度と後日週刊誌で知った。
今も阪神ファンのほうが多いけど、その日はとても比べものにならなかった。
最近YouTubeでその試合の杉浦のホームランが狙ったようにヤクルトファンのところに飛び込むのを見たけど
当時の暗黒臭や不人気ぶりが切ないほど感じられる。
思えばあそこが底だったんだろう。
- 70 :
- 長崎啓二に「ヒットを欲しがるなよ、なっ」と耳元でささやく
- 71 :
-
- 72 :
- >>37
阿井英二郎も忘れないで。「50音順トップのプロ野球選手」。
荒木大輔とは同期入団、3年目の昭和60年に一軍初登板するや、いきなり44試合で
3勝5敗2セーブ、翌61年も(背番号と同じ)43試合で9勝6敗1セーブ。ただ、
61年の終盤戦、二桁勝利目前に肩痛で登録抹消、本来なら真先に登板する試合展開のはずの
「10.7、神宮」には登板していないのもそのせいか。それでも関根監督に交代された62年も
5勝5敗をマークしたが、ここまでだった…。ぜひ、今度は野球部監督として甲子園出場を願いたい
>好漢・阿井英二郎
- 73 :
- 今のヤクルトは、まさに土橋監督時代と同じような惨状。ぜひ、あの当時の
荒木、伊東、高野、阿井、栗山、池山、広澤みたいな「スター候補生」を(多少は勝敗度外視でも)
辛抱強く育成していただきたいものだ>高田繁監督
高田監督には、土橋+関根の2役を期待している。種を撒き、耕してくれたあとに
ノムさんのような名将を…。
- 74 :
- 日ハムの監督に就任したときと比べて、えらいふけていたので
ちょっとショックだった>高田
- 75 :
- >>72
あの当時阿井が調子悪くなったのには、ちょっとした秘密が隠されていた…
それは
【ブスの軍団の呪い】
外野席に毎試合来ていたブス2人組の片割れが、自作の阿井のハッピを着ていた。
その呪いが降り掛かり、
阿井はケガ等で実力が全く発揮出来なくなってしまったのであった…
- 76 :
- 別に今のヤクルトなんて関根時代とは比較にならないくらい良いチームでしょうよ。
確かに順位こそ最下位だけど、まず打てるし、ローテだって尾花と高野以外誰が投げてるのか不明な
あの時代に比べたら雲泥の差がある。外国人投手だって毎回当たりだし。
阿井…いたね。
はた山ハッチのマンガで選手が後ろ向きに並ぶ絵では必ず描かれてたね。
(AIの二文字で簡単だからかな?)
他に矢野、中本、西岡、乱橋…
西岡は確か、初物に弱い巨人にいきなり先発で当てて好投したんじゃなかったかな。
でも終盤に力尽きて負けた。バックも弱かった。
その後、ケガでもしたのかな?全く聞かなくなった。
- 77 :
- >>76
荒木、伊東、高野…ちゃんと役者はいるようには見えますが…。
みな30試合以上の登板(昭和61年)。高野は晩年があまりにも悲劇すぎたが…
- 78 :
- >>76
今や「西岡剛」といえば、ロッテの背番号7の内野手のことですからなあ。
西岡先発は昭和62年10月17日、後楽園球場での巨人対ヤクルト戦。従って、この
西岡も貴重な「後楽園球場プレー経験者」でもある。後楽園最後から2番目の公式戦だった。
西岡は完投したものの、たしか0対1とか1対2とかのサヨナラ負けだったかと。
(その翌日、巨人対広島戦で公式戦は終了、あとは巨人と西武とのシリーズの後取り壊し)
- 79 :
- >>78
おお…詳しい記録をありがとうございます。子供の頃の記憶が曖昧でw
当時はそんな消化試合もテレビ中継してくれてたんですね…。
その後の後楽園最後のリーグ戦は巨人の選手が思い出に総出演って感じで。
広島の衣笠もラストで、ホームラン打ったのもこの試合(打たせてくれた?)
ああ、思い出した。この試合で球審のミスで4ボール後のホームランがあったの。
白武が四球与えたんだけど、勘違いでプレーが続いてしまって、次の球を吉村がドカン。
消化試合じゃなかったら、大問題になってたねw
- 80 :
- あ、全然ヤクルトの話書いてないw
やっぱりね、同じ順位でも今と当時と最大の違いは選手の意識だと思う。
オフのラジオ番組で聴いたけど、当時は序盤に4点くらい差をつけられたら
ベンチで「今日どこ飯食べに行こうか」って普通に諦めて話してたって…
それを言ったら阪神なんかもっと凄かったんだろうけどねw
大体高津が来るまで守護神っていないも同然だったからね。
伊東、梶間、矢野、中本、宮本はいかにも負けの匂いがしたもの。
引退した梶間以外は野村になってから「勝ちに使える選手」に変貌したね。
特に宮本は大洋相手に勝ちまくりやがったからよく覚えてる。
外国人枠が変わってからはリリーフを外国人Pに任せようとしてアイケルバーガー獲ってねw
まさか開幕戦であとは、関根さんも想定外だったんだろうね。
- 81 :
- sage
- 82 :
- >>37
荒木のプロ初完投勝利覚えているよ
最後の打者岡崎郁にホームラン性のファールを連発されていたから
監督も気が気でなかっただろう
- 83 :
- >>82
dキュー。荒木はやっぱり強い星を持っていると思った。
8月9日(やきゅうの日)といえば、夏の全国高校野球甲子園大会の真っ只中。
場所は敵地・後楽園球場、相手投手は「怪物」先輩の江川卓、そして、同じ
若手の星・広沢の決勝2ランと舞台装置が揃った。投打の若手の活躍でG倒とあっては、
土橋監督にとっても鼻高々だったろう。
荒木は、これで自信をつけたのか、6勝のうち巨人戦で3勝、>>50にある初完封まで
マークし、翌年の開幕投手にまで成長したのだった。
- 84 :
- 江川はヤクルトを苦手にしていたよな。
渡辺進や杉浦によくボカスカ打たれていたのを思い出す。
- 85 :
- 意外にパワーヒッターが多かった?
- 86 :
- >>84
渡辺進は特に打たれていたね。
土橋時代ではないが、昭和55年7月12日の神宮、ヤクルト対巨人戦では
3回まで打者9人中7三振だったのに、渡辺に決勝2ランを打たれ惜敗。
昭和57年5月30日の後楽園、巨人対ヤクルト戦では、大杉勝男への「あと一球(カーブ)」
がボール判定され、直後に右中間同点二塁打、留めが渡辺の決勝2ランだった。
土橋時代も、そのトラウマがまだ残っていたのだろうか。
- 87 :
- 立野とか鈴木正幸がローテーPやってた頃はキツかったよな…
尾花で勝てないと1週間は勝てない気がしてた
- 88 :
- >>84
江川お得意の言い訳によれば・・・
遠藤や小松のような本格派が相手なら気合が入るが尾花や梶間のようなタイプが相手だと気合が入らないんだとよ。
そして味方の打線が点を取るときはボカスカに取るのでつい気が抜けるんだと。
ふざけた奴だよな江川ってw
- 89 :
- >>85
何人かの当たれば飛ぶバッターと、
全く打てない守りはまあ上手い選手しかいなかった。
- 90 :
- 杉村とかがんばれ玄さんなんて、もうちょっと活躍してもよかったのにな
- 91 :
- >>89
若松は?土橋時代はまだレギュラーだったはず。
- 92 :
- >>91
試合中に打球を追った場面でブロハードと交錯→負傷→以降は関根時代の一振り稼業に
- 93 :
- >>90
杉村はこの時代はもうまったく期待されてなく
大差で負けているときのどうでもいいときの代打がほとんどだったような
- 94 :
- >>89
水谷新太郎と渋井敬一は守備は1級品だったが打撃はからっきしダメだったな
- 95 :
- うちにある一番古い名鑑が水谷の末期だが、
通算出場試合数に比べて打撃成績があまりに低いのにワロタ。
ってか動いてるとこ見たことがない。青島健太も。
渋井は実松の野手版って感じだったなぁw
確か現役最終年度、シーズン中に補強するために支配下選手枠を1人外さなきゃ
いけなくなってそれに指名されて実質引退、っていう凄い扱いにされた覚えがある。
- 96 :
- この頃の縦縞のユニホームの方がかっこよかったのになあ
今のユニに比べれば
- 97 :
- 渋井は打率一割台の二番打者だからなw
- 98 :
- >>96
全く同感、野村時代のユニに戻して欲しい。
それが駄目なら、せめて帽子は青と赤いツバの広岡前期の時代に。
高田があんなにふけていたのにがっかり・・
- 99 :
- >>98
若松時代はダメ?ホーム用の縦縞なら、若松時代がベストとおもふ。
もっとも、ビジター用は漏れも野村時代の、水色ユニフォームがよかったが。
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