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2012年07月日本史198: もし平家が源氏を滅ぼしていたら… (287)
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もし平家が源氏を滅ぼしていたら…
- 1 :11/01 〜 最終レス :12/07
- 歴史はどうなっていただろう?
- 2 :
- 大庭景義・梶原景時らが関東に平氏系自治機関設立
- 3 :
- 日本全国で何万人殺したら源氏滅亡になるんだよ。
平清盛はポルポトかよ。
- 4 :
- 平氏だって滅んだのは平氏の一部の平家だけ。
- 5 :
- ふつう「平家」というのは相国入道の一門のことなんだが?
- 6 :
- だから?
- 7 :
- このスレ主の言いたいのは、「平清盛が、源義朝の息子や兄弟などをすべて根絶やしにしていたら、
その後の頼朝・義経・行家などの反乱はなく、平家の天下は続いたのでは?
あるいは、別の誰かが関東の武士の求心力となり、やっぱり平家と対峙したのか。
そのあたりを議論したい」ということではないのか?
- 8 :
- 義朝の一族近親を根絶やしというのがまず現実的ではないが、例えそれが出来ていたとしても平家政権が安泰だったとは思えないな。
摂津源氏や秀郷流藤原氏などの他の軍事貴族もいるし、
後白河によってそれらの軍事貴族諸氏の中から有望な物を引き立てて、承久の変みたいなのが前倒しされてそれも頻繁に起こっていた(起こされていた)んじゃないか?
- 9 :
- 治承寿永の乱(源平合戦)蜂起勢力
伊豆→南坂東 源頼朝 (河内源氏義家流)
甲斐→駿河・遠江 武田信義・安田義定他甲斐源氏 (河内源氏義光流)
信濃→越後 源義仲 (河内源氏義家流)
尾張 源重隆他尾張源氏(清和源氏満政流)
美濃 源光長他美濃源氏(清和源氏頼光流)
近江 山本(源)義経他近江源氏(河内源氏義光流)+園城寺
若狭・越前 反平家在庁官人勢力(当初は義仲とは無縁に挙兵)
大和 興福寺他寺社勢力
紀伊 熊野三山のうち湛増など反平家勢力
伊予 河野通信ら河野水軍(源平両氏に関係なし)
土佐 源希義(河内源氏義家流)
肥前・筑後 菊池氏など反対平家勢力(源平両氏に関係なし)
主な蜂起勢力は上記の通りであるが
北陸及び畿内以西は源平という氏に関係ない勢力の蜂起が目立つ。
(寺社勢力、在地勢力)
平家の敵は源氏それも義家流に限ったことではないし、
仮に彼等を全て殲滅した後最反乱を防ぐ手立てを講じなければならない。
- 10 :
- なお、各地に平家に従う勢力もあった。
坂東 大庭、伊東などの親平家勢力
新田などの動向不明勢力
信濃 菅冠者、笠原氏などの親平家勢力
越後 城氏
駿河 目代橘氏、長田入道
筑前 原田氏
- 11 :
- ちなみに義仲上洛までの各地の状況は
頼朝
石橋山敗戦→富士川勝利→南坂東制圧→対佐竹氏勝利(ただし実は長期化との説あり)→
新田氏屈服→対藤姓足利氏、志田氏に勝利(野木宮合戦)→義仲との和睦
義仲
市原→横田河原(城氏屈服、越後進出)→頼朝と和睦→都へ進撃
武田信義・安田義定
波志田山→信濃進出→鉢田(駿河進出)→富士川勝利→駿河・遠江進出
近江・美濃・尾張
1180〜1181年初頭にかけて平家に制圧されるが、三河手前で平家進出停止
若狭・越前
在庁官人ら反平家運動継続
1182年の平家北陸侵攻も跳ね除け
1183年には上洛する義仲軍に同調する。
大和
1180年末に平家の焼き討ちにあうる
紀伊
熊野で反平家方の湛増が親平家方を追放する
伊予
河野氏一旦失地するが、再び伊予に戻る
土佐
源希義死亡
肥前・筑後
1183年まで反乱勢力健在る1183年に追討使平貞能が反乱勢力を屈服させる。
- 12 :
- 各地で武士や寺社が挙兵していて、平家は仮に源義朝の息子たち、とくに頼朝を殺していても、各地の挙兵を未然に防止することはできまい。
一方、頼朝がいなかった場合、関東の武士をまとめる役割を果たしえた人物はいたのだろうか。
もし誰もまとめ得なかったとすると、各地で群雄割拠のような状態が続いたのではないか。
源義仲のような勢力が一時的に都を陥れたかも知れない。
しかし、頼朝のような強固な勢力がなければ、平家を短期に打倒することはできず、
平家は西日本を拠点として存続し、都を奪回する場面もあったかも知れない。
平家・奥州藤原氏などが、もっと長く存続したのではないか。
- 13 :
- 戦国時代がもう4世紀ぐらい早く到来していたわけですね。
- 14 :
- 源氏が東日本、平家が西日本を支配する二重構造になっていたかもしれない。
- 15 :
- その源氏が滅んでたらっていう前提なんでしょ
- 16 :
- あ、そっか…
それじゃ奥州藤原氏が東日本支配ね。
- 17 :
- 頼朝が存在せず、鎌倉政権が成立しなかったとすると、志太先生義広、上総介広常などの有力豪族が残り、それぞれの所領を拠点として自分の独立圏を築いていったのでは?
平家の派遣した討伐軍・在地の親平家勢力と戦闘する場面もしばしばあっただろう。
各個撃破される場面もあっただろうが、現地の目代を殺したり、荘園を奪ったりする事件が頻発し、平家や中央の統制は次第に効かなくなっていったと思う。
中央では後白河法皇などの反平家勢力が平家打倒のために、そうした関東の武士を利用しようとする場面もあっただろう。
一方、後白河法皇や以仁王を逆に利用はしても、中央には関心を示さず、関東に独立圏を築くことに力を注ぐ勢力もあったと思う。
奥州藤原氏は中央と協調しながら、自身の勢力を温存しようとしたのではないか。
そんな状況がどれだけ続いて、いつしかある勢力のもとにまとまっていくのか、なかなか想像はつかない。
- 18 :
- >>17
志田義広をスレタイの源氏に含めるかどうという問題はあるが
含めないなら中心勢力のひとつになっていただろうね。
坂東平氏は貴種性を主張できるかということはあるが
院がお墨付きを与えれば、上総、千葉、三浦などは十分中心勢力
になるだろう。
いずれにしても所領安堵を保証するに足る実力と権威(貴種なり官位なり)
をもつリーダーが出てくるまではまとまらないな。
- 19 :
- 奥州藤原氏や坂東平氏は独立勢力になっただろうな。
以仁王みたいな出世コースから外された中央貴族は
出続けただろうし、それと結びつくことも考えられる。
源平争乱を生き抜いたとしても平家政権はあまり長続きしなかったのでは。
- 20 :
- でもそのまま元寇に突入したらあぶなくね?
- 21 :
- ぶっちゃけ九州と中国に総動員かければどうにかなる
むしろ平家なら私掠倭寇を国家戦略に取り込みそう
- 22 :
- もし群雄割拠の状態で元寇に突入したら、やはり西日本の覇者である平家が主体となって蒙古・高麗軍と戦うのだろう。
総大将は史実と同様、九州の有力武士・小弐氏が務め、平家傘下の水軍がこれに加わるのだろう。
史実で元寇を契機に鎌倉幕府が弱体化したように、元寇によって平家は打撃を受けるのか、
それとも水軍を主体として、大陸・半島に向けて新たな戦略を描くのか、興味を感じるところだ。
平家の水軍が15〜16世紀ごろまで存続し、さらに海外に覇権を伸ばして、
スペインやポルトガルに伍してフィリピンや南米にまで至り、現地に一の谷や屋島のような堅陣を築く。
安徳天皇の末裔の乗る御座船が浮かぶ中、夕暮れ時には平家の公達の奏でる笛の音色が聞こえてくる。
そんな展開も悪くはないだろう。
- 23 :
- 少弐は鎌倉殿に言われて大宰府入りしたクチだから
元冦で主導的な立場にたつのは大蔵・松浦・菊池あたりだろう
- 24 :
- >>22
少弐氏は武蔵の武藤だよ
- 25 :
- 元や宋の調略にはまる豪族が出てこなければ良いが。
相手方は当然それを狙ってくる。
- 26 :
- むしろ元や宋にいろいろ援助して貰える豪族が列島内に居るなら
中華が秘匿する技術の獲得や貿易経済面はむしろ好ましいし
長期的にみたら日本にとって得
そうなると元宋に平家が頭を垂れる事も考えられるか
- 27 :
- 平清盛が源頼朝や源義経を成敗していたとして、頼朝が存在せず鎌倉政権が成立していなければ、
平家や奥州藤原氏を倒せる勢力は存在しないように思う。
そうすると、平家と奥州藤原氏はしばらく残ったと思うが、平家と奥州藤原氏は、
どんな形で、いつごろまで存続したのだろうか?
中央には冷淡な態度で自分の所領を拠点として独立勢力を築く武士と、
朝廷から官位をもらって武家貴族のように振る舞う武士が混在する形で、
とくに決め手となる指導者が現れることなく、武家社会は推移したのであろうか?
- 28 :
- そうか。
源氏(河内源氏)がほろんでたら、少弐氏も大友氏も島津氏も九州に誕生していないことになるのか。
中国の毛利氏も誕生してないんだな。
- 29 :
- >>27
清盛没後にはどっちみち平家政権は衰退するから
院の権力が復活して、北面西面から新しい武家の勢力が湧いてくるんでない?
- 30 :
- 頼朝も義仲もいなくなるってことは越後は越一族のものになるってことか。
- 31 :
- 越後の城氏も、常陸の佐竹氏も背後の奥州藤原氏と誼を通じながらじわじわと版図を拡大して行きそうだな。
- 32 :
- >>27
成敗出来るだけの兵力も能力もないという
- 33 :
- 東北の開拓は活発化して↑
関東の開拓は鈍化して↓
で鎌倉末期辺りからの日本の人口増加は多少鈍化かな
地域間のバランスは多少改善されそう
- 34 :
- ここでいう源氏って義朝一門のいわゆる源家のことだよな
源家が滅んだら足利家、武田家、新田家などの河内源氏の名門が台頭するだろう
もしくは摂津源氏が勢力回復
- 35 :
- >>34
いや、頼政とか義仲、行家なんかも源氏に含んでるんじゃない?
- 36 :
- しかしなあ、源頼朝直系の源氏宗家そのものが、
平清盛直系の伊勢平氏宗家滅亡から、わずか30年も経たないうちに滅亡しているわけで、
「鎌倉源氏政権」と言ったところで、辛うじて3代継承しただけで、
関東地方自体が、むしろ 「平氏の王国」 になっているわけだからねえw
平家物語の影のテーマは、
「おごる平家も3代で滅んだが、源氏もまた3代で滅んだ。諸行無常である。」ということにある。
後の「徳川三百年」とは、様相が異なる。
>1に戻れば、関東は結局「坂東平氏が卓越する勢力圏」ということで、
関東南部の状況は、意外にもそんなに史実と変わらない気がする。
むしろ、すでに出ているように、
西国などの勢力が一変してしまう。「後に続く家」が、史実と総入れ替えに近くなる可能性が高い。
鎌倉幕府の影響力というのは、坂東よりも西国西海(中国四国九州)のほうが大きかったのかもしれないな。
平氏政権に関しては、「京都と神戸で距離をどう保つか」が浮沈の鍵を握るだろう。
神戸にどこまで独立政権を築けるか、あるいは六波羅に戻ってしまうか?
朝廷の権力機構のうち、どこまでを手中に収めるか?
こちらは後世の豊臣政権の課題とよく似ている。
そういえば、豊臣秀吉も、当初は「大坂にまるまる遷都する(御所は天満におく)」つもりだったらしい。
- 37 :
- 関東の平氏は出自がどれも怪しいからな〜
北条は完全に黒だし・・・
源家では頼朝の弟範頼の家系が吉見氏としてはっきり残っている。
皇室典範のように将軍が継承され続けていたら、現在の将軍様は吉見○○さん
希義の吉良家は家系図がどうもあやふやだ
- 38 :
- 北条、千葉介、上総介、三浦等みんな平氏だよね。
源平合戦で平家方に付いた源氏っている?
- 39 :
- >>37
皇位継承と同様の理屈なら、頼朝の系統が絶えても、
範頼の系統の吉見氏、阿野全成の系統の阿野氏などが残っているのだから、
鎌倉殿は源氏で継承していけるはずだよね。
だから、自分は「実朝が殺されて源氏は絶えました。以下は摂家将軍、
宮将軍になりました」という歴史の本の説明が不思議でしかたなかった。
でも、頼朝は範頼や全成の系統を、自分の系統が絶えたときのスペアとして
考えていたようにも見えない。
また、御家人たちも頼家の遺児・竹御所に「故右大将家の孫」として思いを寄せる一方、
どうしても源氏将軍を継承しようという御家人たちの意思は感じられない。
むしろ「源氏将軍はもはや用済みだ」という意思さえ感じる。
- 40 :
- >>37
もし源希望が実在なら、将軍家嫡系に最も近い人物だから
担ごうとする勢力がいてもおかしくないわな
- 41 :
- >>38
>源平合戦で平家方に付いた源氏っている?
義高(木曽じゃない方)やその子息たちがそうじゃないかい?
- 42 :
- >>38
佐竹氏も源氏だけど平家方だね。
挙兵から間もない頼朝(実質上総介、千葉)に金砂城で討たれるけど
その金砂城の戦いの時当主の佐竹隆義は健在で在京中
その後佐竹氏の生き残りは「玉葉」や「延慶本平家物語」によると時折常陸国に戻っては
佐竹氏は抵抗を繰り返していたらしい。
また、奥州合戦の時も頼朝に佐竹氏のなかでも頼朝についたものと
奥州についたものに分かれていたようだし。
- 43 :
- それから、坂東おいて無視できないのが「秀郷流藤原氏」(自称も含む)。
坂東に於いて「平氏系」の豪族が力を持っていたことは確かだけど
藤原系の豪族もかなり存在していた。
小山、下河辺、足立、山内首藤、藤姓足利など。
- 44 :
- 佐竹は平氏源氏というより、相手が機内を地盤にした勢力か、東国を地盤にした勢力かの方が大きそう
足利の時は周りを南朝方に囲まれても北朝方
豊臣ときも元気一杯
徳川の時は見ての通り
後北条の時もこれに当たるかな
ようは東国での、他の有力勢力の強大化や全国政権化を拒否して
機内政権との友好をって政治、外交姿勢なんでは?
こう考えたら平家方なのは当然なんじゃ
- 45 :
- 源氏は関東では新参者だな。
坂東平氏や秀郷流諸氏と違って。
所領も大きくないし。
- 46 :
- 佐竹秀義、志太先生義広などは、自分の領地を根拠地として独立勢力を築くことに関心が高かったように見える。
だから、源頼朝の構想とは違いがあり、なかなか臣従しなかったのではないか。
頼朝は源氏一門といえども、特別扱い・独立性を一切許さず、他の御家人と同様、
自分の家人にしなければ気が済まないという面があり、勢力の強い源氏であるほど、
頼朝とはうまくいかなかったように見える。
- 47 :
- 平家が幼少の頼朝を殺していたら・・・・・
平家が魏・董卓で奥州が呉で義経軍が蜀で坂東平氏が涼州軍で蝦夷地が南蛮
最終的に反平家連合が結成されて西国を朝廷 東海道を源氏 奥州と新潟が藤原家 平家は蝦夷地で開拓し後に石狩幕府が誕生
元軍の侵攻が原因で各地の武士が力を持ち恩賞が少ないことにより史実+αに
- 48 :
- この時期って治天の院宣が、最高の旗印ってことだよね。
- 49 :
- >>5
平氏の清盛の一族が「平家」と呼ばれるようになったのは清盛が公卿に
なって家令が設置できるようになったからではないかと
>>43
藤原秀郷の息子千晴は直系だろうけど、満仲によって失脚させられたんだよな
その満仲の子孫の頼義や義家、義経と関わることになるんだからわからんもんだ
- 50 :
- 弟の千常の系統に嫡流が移るんだよね
- 51 :
- 源平合戦のとき、義忠流の稲沢氏は平家と源氏方の板挟みで大変だったろうなw
スレタイ通りになっても、義忠流は坂東の押さえには使えないだろうな
義国流と上手くやれればいけるか?
- 52 :
- 頼朝を除けば、河内源氏だろうと、他の全ての清和源氏だろうと、
関東諸豪族の利害対立を解決したり調整したり一時サスペンデッドして、そのトップに君臨できた人物はいないよ。
源氏も悪源太や佐竹や足利のような地方豪族がいくつか存立していただけ。
それはつまり、関東の他の平氏系豪族や藤原氏系豪族と同じということ。
いや、むしろ規模からいったらそれらより下。
よって源氏による関東の支配・統率というような前提を設定するのがそもそもナンセンス。
- 53 :
- >>43
でも、なんとなく北関東(あるいは東関東)に偏るんだよね>藤原氏
あくまで大雑把な傾向としての問題で、截然と区切られるわけではないが、
南関東・西関東の平氏(および右大将家)/北関東・東関東の藤原氏(基本は秀郷流だが)と
関東平野が二分して分かれる傾向がある。
そして、右大将家の「源氏」という「符号」が、なんとなく南関東の覇者の符号として生き永らえ、
「関東といえば源氏だろ?」という「常識」となって、
足利氏、上杉氏などが使った挙句、最終的に徳川氏が江戸開幕に利用する一方、
北関東の「藤原氏」という符号は、本来は別系統の奥州藤原氏の追憶と渾然一体となりながら、
「奥州といえば藤原だろ?」という、(関東=源氏よりは弱いが)一つの符号と化して、
最終的に、仙台の伊達氏が使おうとした一つの符号に結実した気がする。
現在の利根川(昔の流路で言えば途中から鬼怒川)あたりを境にして、
関東というのは、北東側と南西側になんとなく二分されるのが、歴史的伝統に見える。
南西側は、東海甲信の延長に近い。井沢元彦は、源頼朝を「伊豆頼朝」と言ったが、けだし名言だ。
北東側は、東北南部の延長に近いところがある。
この考えは、「関東を分断するとは何事だ?許さない!」と昔、この板で猛反発を食らったことがあったが、
歴史から方言に到るまで、利根川線の分断は無視できないと思う。
- 54 :
- 江戸家康
- 55 :
- 坂東平氏とか桓武平氏で江戸幕藩体制下まで残った大名っている?
- 56 :
- 源氏は現実を直視せよ
- 57 :
- >>55
相馬氏。
- 58 :
- >>57
平将門の子孫を自称だったけ?
- 59 :
- 海道平氏岩城氏も江戸時代まで残ったね。
- 60 :
- 源氏が滅ぼされてたら間違いなく俺はここにいないな
- 61 :
- >>53
本郷和人氏は
南坂東四カ国(相模、武蔵、駿河、伊豆)に対する鎌倉幕府の統制力と
そのほかの坂東に対する統制力は違うと主張しているね。
坂東内部でも見えない境界があるのかもね。
- 62 :
- >>61
>南坂東四カ国(相模、武蔵、駿河、伊豆)
それって「鎌倉幕府の統制力」というより「北条氏の統制力」の強いとこでしょ
- 63 :
- >>58
途中まで将門流だが、千葉常胤の子が養子に入って、鎌倉以降は千葉一門。
- 64 :
- 後北条氏も伊勢氏一門だから桓武平氏だな
- 65 :
- 伊勢氏
新編岡崎市史20(総集編) 足利家の根本被官で室町幕府政所執事などを務めた武士。ふつう桓武平氏で平季衡の子孫とする。
『滝山寺縁起』にみえる足利家被官の藤原俊経(肥前前司)・藤原俊継(伊勢前司)は「伊勢系図」にのる同名の人物と官途が一致するので伊勢氏の先祖にあたるとみられる。
とすると桓武平氏というのも必ずしも信をおけないことになるが、もとは藤原姓であったのを事情あって後に平氏に変えたのかも知れない。
『縁起』に登場する伊勢氏は、俊経・俊継父子のほかに、俊経の兄弟に滝山寺僧円辰、その子に同じく増恵がおり、鎌倉中期の滝山寺の隆盛に尽くしたひとが多く出た。
鎌倉時代の伊勢氏について知りうることは少なく、上総で足利貞氏の守護代を務めた伊勢九郎宗継がいるが系図にはあらわれない。
康暦元年(1379)に尊氏の近習であった貞継(俊継の孫)が政所執事に任じられ、以後伊勢氏がこの職を世襲した。ほかに将軍右筆や御番衆になった一族もいる。
明徳2年(1391)伊勢貞行が御料所額田郡山中郷の代官に任じられ、以後山中郷は伊勢氏の所領となった。寛正6年(1465)当時、山中郷代官は伊勢氏被官の蜷川親賢であった。
伊勢俊経
新編岡崎市史20(総集編) 鎌倉前期の武士、足利氏被官。『滝山寺縁起』に肥前々司藤原俊経(法名願仏)と見える人で、足利氏被官伊勢氏の先祖とみられる。
弟相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺僧侶であった。滝山寺に持仏堂を建て、古市場御油畠などを寄進した
伊勢俊継(初代伊勢氏)
新編岡崎市史20(総集編) 鎌倉中期の武士で足利氏被官。『滝山寺縁起』に伊勢前司藤原俊継とある人で、肥前前司俊経の子。
滝山寺に足利義氏追善のため檀那として法華堂を造営し、田畠3町8段をこの堂に寄進した。
また碧海荘青野・宇祢部の料田畠も足利(斯波)家氏に働きかけて寄進させた。そのほか滝山寺の諸造営にかかわって財政的な援助を惜しまなかったのは、
叔父の円辰や従兄弟の増恵が滝山寺僧侶であったからであろう。
- 66 :
- 伊勢俊経 (藤原俊経、初代伊勢氏)と同時代の滝山寺関係者
・藤原範忠■二代目藤姓熱田大宮司、源頼朝の母の兄、滝山寺領を確定するなど、最高責任者の立場であったもよう
・藤原寛伝■滝山寺僧侶、藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟
・三河祐範(藤原祐範)■滝山寺僧侶、源頼朝の母の兄、頼朝(伊豆時代)の支援者
・三河仁憲(藤原仁憲)■滝山寺僧侶、三河祐範の息、源頼朝の従兄弟、吾妻鏡に登場
・粟田口長暹(藤原長暹)■滝山寺僧侶、源頼朝の母の兄
・野田朝氏(藤原朝氏)■初代野田姓熱田大宮司、室は足利義兼の娘(3代目足利義氏の姉もしくは妹)
・足利義氏■本堂造営
・足利頼氏■一切経蔵の経会料所寄進
・斯波家氏(足利家氏)■初代斯波氏、足利義氏の法華堂造営、田畑寄進、足利義氏の骨が埋め込まれだ大日如来奉納
・吉良義継(足利義継)■初代東条吉良氏、出家し滝山寺にて僧侶、高野山より足利義氏の骨が埋め込まれた大日如来を受け入れる
・世良田頼氏■初代世良田氏、足利義氏の娘婿として、短期間三河守護代を努めたもよう
・大平惟行■滝山寺常行堂の造営、料田3町8段を寄進、法華堂へも藤原俊継と秘計して田畠を寄進した
- 67 :
- じゃ、その藤原氏が受領の任期中か任期を終えた後に、在地豪族化してた平姓伊勢氏に婿入りして、姓は母方の方の伊勢姓を名乗ったことが考えられるね。
- 68 :
- 同地域で藤原氏が伊勢氏を名乗った事例
藤原惟康(伊勢惟康もしくは高橋惟康)
大森葛山の祖・維康(惟康)について、「伊勢新二郎大夫、成高橋殿、三河国高橋庄領主故号、母実範三位女、外戚伯父伊勢権守令養育之」と上記「姉小路系図」に註記される
高橋庄は高橋郷(現豊田市高橋辺り)を中心に豊田市域の北部中央、矢作川中流を挟む一帯から尾張国境に及ぶ庄域をもった大荘園であり、十一世紀頃の開発とされる。
安元二年(1176)二月日の八条院領目録に庁分御荘として参河国高橋・参河国高橋新庄があげられる。
■藤原道隆(藤原道長の兄)→伊周→忠頼→惟康(伊勢惟康)
http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/fujiwara/fujiwara_hoku/fujiwara_hoku12.html
■藤原実範(三河守)→女子(兄は藤原李兼(伊勢権守令、別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住))→伊勢惟康
- 69 :
- 空華集「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
実は足利家氏(初代斯波氏)は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした
滝山寺における足利義氏一周忌関係者
・足利家氏(斯波家氏)
足利義氏の法華堂造営、田畑寄進、足利義氏の骨が埋め込まれだ大日如来奉納
・足利義継(吉良義継)
初代東条吉良氏、出家し滝山寺にて僧侶、高野山より足利義氏の骨が埋め込まれた大日如来を受け入れる
・藤原俊継(伊勢俊継)
初代伊勢氏、、叔父と従兄弟が滝山寺の僧侶、田畑寄進
室町幕府の政務執事で著名な伊勢氏であるが、三河国額田郡の伊勢神宮領に由来が濃厚
藤原俊継の父である藤原俊経は、滝山寺に持仏堂を造営し、足利義兼と真福寺に法華堂を造営
足利一族と伊勢氏との繋がりは、三河国で足利義兼の代まで遡る
- 70 :
- 伊勢氏が藤姓ということなら、
平氏 → 源氏
になった畠山氏と同じようなパターンということだな。
- 71 :
- ある足利みたく 父方源氏 母方平家みたいの おるやろ どないすねん
もちろん 父方平家 母方源氏も ぎょうさんおったやろ これが歴史の複雑さやねん
- 72 :
- 足利は父方源氏、母方藤原氏だよ。
- 73 :
- 鎌倉時代の足利家臣の伊勢氏は平姓だよ
- 74 :
- >>72
母方の藤原南家の また母方に平家がいるはず
- 75 :
- 伊勢俊継(藤原俊継、初代伊勢氏) は鎌倉で死んだらしいから、父と共に三河で生まれ育って、足利義氏に鎌倉に連れてかれたのだろう
鎌倉では理由不明ながら伊勢平氏と仮冒し、俊継の孫が足利尊氏に仕えた伊勢貞継
三河にいた藤原氏が仮冒した事例
上杉氏
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、
足利家家人の上杉三郎入道(頼重)より前は不明。その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
事実上の始祖である上杉三郎入道(頼重)の日名屋敷
新編岡崎市史20(総集編) 鎌倉末期に額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
- 76 :
- いや、南家じゃない。
北家秀郷流藤原氏だ。
- 77 :
- つまり、藤姓足利。
- 78 :
- 藤原範忠
藤原 範忠(ふじわら の のりただ、生没年未詳)は、平安時代末期の公家、神官。藤原南家の出身で、熱田大宮司藤原季範の長男。生母は源行遠の娘。妻は美福門院女房上総。足利義康室(義兼母)などがある。
範忠の一女は祖父季範の養女として足利義康に嫁ぎ、義兼・義房らを産んでいる。この縁もあり、子孫の多くは足利氏と行動をともにしている。
- 79 :
- かつて「足利スレ」で書いたが、源姓足利氏の母系一族は諸状況から鑑みて藤姓足利氏とする方が蓋然性が高い。
だが今は気力が無いのでもう落ちる。
- 80 :
- 太政大臣 源氏長者 擬太上天皇 藤原北家西園寺家別邸金閣寺住まい 源義満の御母上さま 藤原南家さらに平家繋がり?
- 81 :
- 高師直
高氏(こうし)は高階氏流で右大弁高階峯緒の末裔である。大高大夫惟頼が実は源義家の四男であったと言われるがこの辺りから源氏との結びつきが強くなったのであろう。
その曾孫惟長が三河の守足利義兼に仕え、額田郡日志賀・菅生郷司職に補任され足利家執事となった。それ以降、惟重、重氏、師氏、師重らが代々執事を務めている。
鎌倉政権下で足利氏は有数の名門として遇され、家督の下に三番編成の中央奉行所があり高氏(こうし)や上杉氏が務めていた。その下に地方公文所があり、命令は「袖判下文」により伝達されていた。
この袖判下文は将軍家のほかは北条氏、足利氏にのみ許されたというから幕府内部での足利氏の家格の高さが窺える。
徳治三年(1308)に高師行奉書が、元亨二年(1322)に師重奉書が出されており、執事が家督からの命令伝達に大きい役割をしていたのがわかる。
高階惟長→惟重→重氏→師氏→師重→高師直・高師泰
『梅松論』新田義貞の下向
去程に数万騎の官軍関東に下向するよし聞えければ、高越後守(=高師泰)を大将として大勢を差し添へて海道に遣さる。
師泰に仰せられけるは、「先づ三河国に下りて矢作川を前に当て、御分国(三河国菅生郷、高師直の領地)たる間、駈け催して当国の軍勢を相待つべし。
努々(ゆめゆめ)川より西へ馬を越すべからず」と将軍の命を請けて、
- 82 :
- 総持寺(総持尼寺)
瑞生山 曹洞宗 新編岡崎市史20(総集編) 中町字小猿塚37にある曹洞宗寺院。深恩院瑞生山と称し、本尊は大日如来。もと籠田総門南の総構え内側に所在。古くは天台宗という。創建時より明治8年(1875)まで尼寺で、そのため総持尼寺の名で一般的に呼ばれる。
高師泰の娘で同族師冬の妻であった明阿が一族の菩提寺として所領菅生郷の築山(高氏屋敷地か)に建立した。
夫・父をはじめ一族の多くを観応2年(1351)に殺された明阿は、文和4年(1355)将軍尊氏に申請して姪の「いち」を住持として総持寺を建立し重代相伝の地菅生郷を寄進することを許可された。2、3年後には完成か。
応永6年(1399)足利義満が高氏所領であった額田郡比志賀郷を塔頭の深恩院に寄進した
寺領菅生・比志賀郷は、歴代将軍から手厚い保護をうけ段銭以下臨時課役に免除されて守護不入地とされていた
- 83 :
- あなたが高一族末裔なら今の政治でもがんばってよ歴史に名を残すくらい勉強せにゃ
清和源氏がんがれ 正統派貴族流平家末裔も
- 84 :
- >>80
藤原範季(藤原南家)と平教子(平教盛の娘)の娘、藤原重子(修明門院)の皇子が84代順徳天皇→善統親王(四辻宮…順徳源氏の祖)→尊雅王(四辻宮2代)→智泉尼(義満外祖母)→紀良子(3代将軍家清和源氏足利義満の母)
- 85 :
- >>83
参照高氏分脈
26代継体天皇の孫の孫、第40代天武天皇→高市皇子→長屋王→桑田王→磯部王→石見王→峯緒王(高階峰緒 、高階家初代)→高階茂範→高階師尚→高階良臣→高階敏忠→高階業遠→高階成佐
→高階惟章(源義家、源義国の家来、在下野国)→高階惟頼→高階惟真→高階惟範→高階惟長→高階惟重→高重氏(高家初代)→高師氏→高師重→高師直(足利尊氏の側近)、兄は高師泰、弟は高師茂と高師久…子孫は 広がる?
- 86 :
- 源義国と高階惟頼は兄弟
高氏は血筋的には源氏
- 87 :
- 清和源氏は血筋的には陽成源氏
- 88 :
- 源氏より平氏の方が好きだ。
- 89 :
- 桓武てんのう→葛原親王→高見王→たいら高もち→たいら国か→たいら貞盛→たいら惟将→たいら惟時→たいら直方→
たいら聖範→たいら(北條家初代)時家→たいら時方→北條時政…源氏将軍3代でほろぼし京摂家・皇族将軍をたらい回して ニポンを 130年も支配(源頼家サマ潰滅1203年〜北條本流潰滅1333年まで)!!!
- 90 :
- >>89 >たいら聖範→たいら(北條家初代)時家→たいら時方→北條時政
ソースは?
- 91 :
- 阿多美聖範前後の系図は尊卑分脈、群書類衆、続群書類衆、系図纂要などによって微妙に違っているな。
けど逆にとると、重なる部分も多い。
まあ程度の差はあれ系図なんてどこも似たようなもん。
平維方の息子あたりで良いと思うよ。
- 92 :
- 阿多美って熱海のことか?
- 93 :
- 俺の高校の教師が兄弟仲が悪いのが源氏、
仲が良いのが平氏って覚えればいいとかいっていたな。
- 94 :
- >>90
分脈 その他 ヒ・ミ・ツ? 系図総攬とかじゃね
- 95 :
- 執権となった時政の父親さえ系図によってまちまち・・・これって変じゃない?
田舎武士で歴史に埋もれたような人間の父親ならまだしも・・・
- 96 :
- 時政以前は埋もれていたわけで
- 97 :
- 熊谷直実レベルの武士でも父親ははっきりしてるんじゃないの?
- 98 :
- 源氏を滅ぼすって新田も足利も武田も佐々木もみんな滅ぼすってこと?
それともいわゆる源家を滅ぼすってこと?
- 99 :
- 笹木は宇多天皇子孫 宇多源氏
ここでは藤原北家 特に頼長さま(*_*)以来 身も心もガR一体で 藤原公家権力番人やってきた 〇●源氏本隊じやね
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